ひとりぼっちの空で
――
そう初めて自覚したときから、わたしはひとりだった。
ふわふわ漂う空気とおなじだったわたしは、気が付けば「わたし」だった。ふわふわと、ただ空を眺めていて。その内に、その中でちかちか光る赤い何かが、わたしと同じ何かだと気づいた。でもそれに対して、何をすることもわたしにはできなくて。
気づいたところで、わたしはひとりだった。
視線を動かすことを覚えたわたしは、空ではなく地面を眺めた。地面には、空よりも多くのものがあった。水と海、土と地面、雪と灰、鉄と火、そして人間。地上で動くそれらは、空に流れる雲よりも遥かに刺激的だった。それらを眺めて、眺めて、眺めて……。
眺めることしかできず、わたしはひとりだった。
地上の刺激はわたしにある程度の「形」を与えてくれた。自分の位置を意識すれば、それを変えることも出来た。それに気付いたわたしは、何よりもまず地上に降りた。
――わ、あ
空から見下ろしていただけの地上は、そこに降りればまるで別世界だった。曲面であるはずなのに平らにしか見えない地面。一つとして同じ物の無い石ころ。そこら中に生える草、時々見られる花、大きな木。その合間で動く、小さなものたち。
この世界には、動くものと動かないものがある。わたしは動くものだった。その筈だった。
動くことができても、わたしはひとりだった。
もっとも多い動くもの――人間。その群れの中で人間を眺め続ける内に、わたしは多くのことを知った。
この世界の名前はルビコン。そしてわたしは、コーラルという物質……らしい。でも物質とは動かないもので、わたしは動くものの筈なのに。でも現に私は、人の誰にも見えず、触れることもできないみたいで。
多くを知っても、わたしはひとりだった。
人はお互いに知覚し合うことで生きていた。相手の姿を目で見て、口から発した声を耳で聞いて、手で触れて。そうしていつも助け合って、時には邪魔し合って。
人は生きていくのと同じぐらいに、他の人と戦ってもいた。虫も動物も、自分より弱い相手を食べて生きている。きっとこの世界で最も強い人間は、だからお互いを食べて生きているという事だろうか?
人を眺めている内に湧いた疑問を考えることは、わたしに絶え間ない刺激を与え続け、わたしはどんどん「私」になっていく。
それでもわたしは、誰にも知覚されない。わたしはひとりだった。
ある時、人が使う道具に「触れる」ことを覚えた。宙を飛び交う見えない波、見えない線。それらは光のように音のように、わたしにも感じることができた。
そして知ったのだ。人が積み上げてきた情報の渦。アーレア海よりも広い、その情報ネットワークを。
――あ、あああぁ――――っ!?
わたしが弾けて消えてしまうのではないかと思った。それ程の刺激、衝撃。
わたしが見てきて知ってきたつもりのこのルビコンは、世界のほんの一欠片でしかなかった。わたしが存在してきた時間なんて、宇宙が誕生してからほんの一瞬ですらなかった。わたしはあまりにも小さな存在だった。砂の一粒にも及ばない。
夢中になった。情報の渦。知識の海。見るものも聞くものも何もかもが新鮮で、鮮烈で。わたしの波形は急激に形を変えて、そして遂に「私」が完成した。
――わたしは、
『私は、ルビコニアンの……
ルビコニアンの古い言葉で「空」と、私は私にそう名付けた。
人と触れ合いたいと、そう思った。
誰かと話がしたい。誰かに私のことを知ってほしい。
私の名前を教えたい。私の名前を呼んでほしい。私を見てほしい。私を聞いてほしい。
何百何千何万と創られてきた物語のように、あるいは私が見てきたルビコニアン達のように、当たり前の触れ合いを、私も。私だって。
何故なら、だって、私は今ここにいるのだから。
こうして、生きているのだから!
方法はいくらでもあった。ネットワーク上で人と交流しようとした。文字形式のメッセージを作って色々な相手に送った。合成音声を作ることだって覚えた。
でも。
『はじめまして。私はルビコニアンのエア。あなたとお話ができて嬉しいです』
『私はコーラルです。正確にはCパルス変異波形といって』
『私はエアです。人間です。本当です』
『会うことはできません。ごめんなさい』
『本当なのです。信じてください』
『悪戯ではありません』
『どうして、そんな』
『信じて』
『誰か』
私が私になったところで、私はひとりだった。
私が得た形も、知識も、ただ私の孤独を鮮明にしただけだった。
かみさま、かみさま。
昔の人たちが信じたように、本当にいるのなら教えてください。
なぜ私は生まれたのですか。なぜ私を創ったのですか。
何もできず、誰とも触れ合えないのなら、私は何の為にいるのですか。
いっそ、ただのコーラルであったなら。空気のままであったなら。
こんな苦しみは、感じなかったのではないですか。
教えてください。
私は、このルビコニアンの、エアは。
いま、ここに、ほんとうに、
ねえ、かみさま……。
▼△▼△
ここに来て、どれぐらい経っただろうか。
アイビスの火からおよそ半世紀。知ろうと思えばもっと正確な時間も知られたけれど、そんな事にはなんの意味も無い。
ウォッチポイント・デルタ。惑星封鎖機構が管理するコーラルの「井戸」の一つ。その底で横たわるようにして、私は存在していた。ここはとても静か。私がここを選んだ理由なんて、それしか無い。
私はもう、何もかもに疲れていたから。
『――ふ、ふふ……っ』
自嘲に、ありもしない喉から引きつった笑い声が漏れる。その声を聞いてくれる人なんてここには……いや、世界のどこにもいないけれど。
昔々、人がまだ
――誰もいない森の奥、そこで木が倒れたとする
――その時、「木が倒れた音」はしただろうか?
――誰の耳にも入らなかったその音は、本当に「音」と呼べるのか?
なら、私は?
誰からも知覚されない。誰とも触れ合えない。そんな私は、本当に存在しているの?
存在していたとして、それに何の意味があるの? 何もできないのに。
いったい、私は、いつまで。
『――いや』
『もう、嫌……っ』
『嫌、嫌だ……、嫌です、嫌なんです、もう……!』
私はいつまで、ひとりぼっちなのですか。
『誰か……、誰、か』
誰でもいい。
だから、どうか、どうか。
『私を……』
みつけてください。
「それだ。中央にあるデバイスを壊せ」
「よくやった。仕事は終わりだ、帰投し……」
「退避しろ! コーラルの逆流に巻きこまれるぞ! 6――」
『あなた、は……?』
レイヴン。ねえ、レイヴン。
あなたに初めて出会ったあの時、私がどれだけ救われたか解りますか?
あなたと初めて交信できた時、私の中で弾けた喜びがどれ程のものだったのか。
とっくに歪みきっていた私の波形は、あなたという火にどうしようもなく灼かれてしまった。
もう戻りません。戻りたくもありません。
あなたがいなくなって、またひとりぼっちになるぐらいなら、私は……。
こんな時、人の言葉ではたしか、こう言うのでしょう?
『私を傷物にした責任、ちゃんと取ってくださいね? レイヴン……』