電話で四葉を呼び出した先は旅館の敷地内の庭だった。
庭といってもそれほどの広さはなく、どちらかというと単なる空きスペースとでも言うべき場所だった。
風太郎達が宿泊している旅館は、旅館らしい和をイメージしたデザインこそ各所にアクセントとして散りばめられているものの、建物自体は洋風の造りであった。
要するにどういうことかと言えば、この旅館は『旅館』というよりは『和風のビジネスホテル』と言い表した方が適しているのである。
当初、旅館での宿泊には他生徒達も沸いたものであったが、よくよく考えれば急遽決まった宿泊先なのである。いくらかは生徒の家庭から徴収した積立代で賄っているのだろうが、学校からしたら臨時の出費であるわけだし一級の施設なわけがなかった。
それでもなお一同が揃ってここを旅館と形容し続けているのは、ひとえに一度この場所をホテルと認めてしまったら、サプライズイベントの意味合いが変わり、途端に現実に引き戻され、林間学校の一日目がつぶれてしまったと自覚してしまうからであった。
話は戻すと、全ての和風ホテルがそうとは言わないものの、風太郎達の泊まっている旅館は庭という設備にはあまり投資をしていないように見受けられた。
建物の裏手であるこの場所に置かれているのはせいぜい、昼間散々降った雪が積もったベンチとスタンド灰皿ぐらいであった。
「急に呼び出して悪いな」
「いえいえ、お気になさらず。むしろ私は呼んでいただいてすっごく嬉しいです」
先に触れた通り、ベンチは雪が積もっており座ることはできない。
そのため出来ることなど立ち話ぐらいなものだから、それならば建物の中ですればよいわけで、こんな寒空の下に他の生徒の姿は見られなかった。
寒いのは風太郎も同様であった。そしてそれは四葉にも当てはまるはずなのだが、四葉当人は嬉しそうに駆け回っていた。
途中、雪に埋もれた意思に躓いて四葉がこけた。派手に顔から着地したが、雪がクッションになり大したことはなさそうで、浴衣に付いた雪を払いながらこちらへと話しかけてきた。
「ところで急にどうしたんですか? 私に何か御用があったのでしょうか?」
「いや、別に……」
「え、じゃあ何で呼んだんですか」
流石に意味が分からないという風に困惑する四葉。
風太郎が四葉を呼び出したのは、日中に旅館の宿泊が決まり、自分の林間学校が始まることすらなく終わることになり露骨にテンションを下げたのを気遣ってのことだったが、その思惑を説明していない以上、当然の反応だろう。
「その、あれだ。せっかく今日はお前の番なのに、林間学校らしいことが何もないまま終わっちまうのもと思ってな」
「……もしかして上杉さん、私のことを心配してくれたのですか?」
「ま、まあな」
「────!」
四葉が途端に目を輝かせた。
「じゃ、じゃあ今日はこのままここで一晩中お話でも──」
「いや、普通に寒いしほどほどで切り上げるぞ」
「上杉さんのケチ!」
「旅館なんだしもう少し何かあると思ったんだよ。こんな何もない外で話すことになるとは誘った時は思わなかったんだ」
四葉を呼び出した後、二人は一直線にこの場所へ来たわけではなく何か面白い場所はないかと建物内を散策していた。
何を探していたかといえば思い出になりそうなもので、具体的には旅館ならばと卓球台の一つでもないかと考えていたが、無かった。
そういう気の利かなさが安ホテルであることを再認識させられる。
「──それもそうですね。ここで風邪でも引いたら、後の番になった子に怒られちゃいます」
「お前ら直接話すことなんてできないんだから、怒られるも何もないだろ」
「そんなことありませんよ。日記で結構お話できるんですから。二乃なんて私達一人ひとりにメッセージを書くこともあるもんですから、一ページ丸々使っちゃうことだってあるんですよ」
「その時間を参考書を書き写す時間に使えばどれだけ俺の負担が楽になることやら……」
「あははは」
頭の後ろに手を回して四葉は苦笑いした。
風太郎の体がぶるりと震えた。寒いのは分かっていたが、湯上りに外に出ているのも拍車をかけているのだろう。
あまり長居すれば体調に差し障ると考え、ほどほどで切り上げることにした。
「そろそろ戻るか」
「ええー、もうですか。もっとお話ししましょうよ」
「寒いんだよ。風邪ひくぞ」
「私、姉妹の中で一番風邪はひかないほうなんですよ」
「馬鹿は風邪をひかないっていうらしいしな」
「風邪ひくことが少ないってだけでならないとはいってないですー!」
「否定するなら馬鹿の方を否定しろよ」
結局その後、屋内へと戻ることにした。
せっかく四葉を呼び出したのに、何もしてやれなかったなとは正直残念に思った。特別何をしようと決めていたわけでもないのであるが、流石に冬の寒空に連れ出して対して語ることも無く終わりというのは、いくらなんでも味気ないとも思う。
入り口は風太郎達がいる空きスペースとは反対側の、正面玄関から入る必要があったため、そちらの方へと歩き出そうとした時、四葉が呼び止めてきた。
振り返ると、こちらに差し出された手が見えた。
どういう意図で差しだれた手なのか、などと考えるのは野暮というもの意外の何物でもないのだろう。
「あの、戻るならせめて、手を握ってもらえませんか……?」
「四葉……」
「さ、寒いから……です」
そういう四葉の表情は、冬の寒空の下だというのに赤く、熱があるように見えた。
そんな四葉の顔には見覚えがあった。
だから「寒いから」などというのは方便だと気づけた。
自分が何もできなかったと思っていたのと、同じことを当事者として感じていたのだろう。
だけど、今いるこの場所とは違って旅館に戻ればどこに生徒や先生など学校関係者の目があるとも知れない。
だから風太郎は──
「い、入り口までなら」
今だけはその手を握った。
「──はい!」
旅館の中に戻るまでの無い道中、会話はなかった。
けれど決して、空気の重さは感じなかった。
ただゆっくり、一歩でも多くこの時間が続いてほしいという四葉の気持ちを汲むかのように小さな歩調で戻りながら、風太郎は内心で考え事をしていた。
自分のしていることは四葉に良い思い出を残すためのことだが、これからの四葉のためになっているだろうかと。
四葉の気持ちは分かっている。だからこんなことをすれば、その想いを加速させてしまうのも想像に難くない。
それに今なお自分の四葉への気持ちも分からないままだ。今朝からずっと悩んでいることにまだ結論が出ていない。
それに、この悩みには妙な引っ掛かりもあった。何か重大な見落としをしているような、そんな違和感だ。
その引っ掛かりがなんであるかわからないまま、入口へと辿りついてしまった。
どちらからというわけでもなく、繋いでいた手は自然と放された。
「着いちゃいましたね」
「そうだな」
「やっぱり中は暖かいですね」
「体、冷やさないようにして寝ろよ」
「はい……上杉さんも」
「俺は、大丈夫だ。俺も風邪は滅多にひかないからな」
「上杉さんももしかしたら……おバカなんじゃ……!」
「よぉし。次の授業でお前に出す問題は、俺じゃ解けないような難問を出してやる。馬鹿が解けるような問題じゃ物足りなかっただろ」
「わー! ごめんなさい嘘です! 上杉さんは天才です!」
両手を振って弁明する四葉。
それから手を下すと、慌てた表情から一転させ、こちらを気遣うような顔を見せる。
「冗談はさておき、私の出番はこれまでですが、上杉さんと他の子達の林間学校はこのままです。一日目は散々でしたが、もし明日無事に向こうへ行けたら────後悔のない林間学校にしてくださいね」
「────」
「ししし。それじゃあ私は戻ります。上杉さんおやすみなさーい!」
「ああ、おやすみ」
四葉が曲がり角に消えていくまでこちらへ手を振りながら消えていった。
二日目の担当は二乃だった。
「フー君! バス、また隣に座ってもいい!?」
「あ、ああ……」
四葉と別れた後、何事もなく朝を迎えると予定通り林間学校へ向かけることになった。
溶けやすい雪であったことに加えて、旅館前の道路が幹道であるため除雪が優先的に行われたからとのことだった。
移動先の林間学校も雪の被害は少なく、こちらが到着する頃には当初組んでいた日程を消化できる程度には除雪できているだろうとのことだった。
そんなわけで朝食を済ませ、バスでの移動が再開と相成った時、二乃がそのような言い方でこちらへ合流してきたのであった。
急な呼び方の変化は気になったが、特に掘り下げることもなくそのまま乗車すると林間学校へ到着したのであった。
二日目の予定は飯盒炊爨、オリエンテーリングを挟んだ後の肝試しである。
肝試しが始まるまでの間、一緒に行動する約束をしてはいたものの、度々やけに距離の近さを感じていた。
一瞬、四葉だけではなくまさかこいつも自分のことを、などという妄想をしてしまったが風太郎は即座にそれを否定した。
いくらなんでも調子に乗った考えだろう。
それよりも楽しそうにしている二乃を見て誘ってよかったと思ったのであった。
そうして肝試しの時間となった時のことであった。
「ふー……」
肝試しのコースの入り口。
隣に立つ二乃がこちらに背を向けた状態で深呼吸をしていた。
「大丈夫か?」
「心配しないで。大丈夫だから」
「そうか。まあ、もし体調が悪くなったりしたら言えよ。せっかくのなんだから途中で入れ替わったりしたら嫌だろ」
「昨日もフー君、四葉のために気を使ってくれたわよね。感謝してるわ」
「もう少し早く気が付ければよかったんだがな」
その時、林の奥から悲鳴が聞こえてきた。先に出発したコンビが何かに驚かされたのだろう。
話は少し逸れるが、林間学校ではクラスごとに各工程を遂行するための役割分担が課されていた。
風太郎達の二学年は全五組であり、風太郎達は一組に在籍している。
一組の担当の一つが、今まさしく始まろうとしている肝試しであった。
初めはクラスの主張が激しいグループの独断により風太郎一人にこの役が任されそうになっていた。しかし、運良くというべきかその日の番は四葉であり、四葉の激しい反論によって面倒事を一人に押し付けようという横暴は阻止されたのであった。
よって、今回の林間学校においては風太郎は別の担当を任されているのだが、その担当は一日目に予定されており旅館への宿泊と共に全ての仕事と準備がパーとなっていた。
さて、話を戻すとまもなく風太郎達の出発の番であった。
スタート地点に立つ合図を告げるクラスメイトがトランシーバーを片手にスマホで時間を見始めた。
ふと、これから自分達の身に降りかかるであろう出来事を考えた時、今更な心配が湧き上がった。
「話は変わるが二乃」
「なに?」
「お前こういうの大丈夫なのか? びっくりした拍子に入れ替わったりしないだろうな?」
「……話変わってないんだけど」
半目でこちらを見てくる二乃。
変わっていないとは、先ほどコソコソやっていた深呼吸のことだろうか。
話の流れを汲み取るのに時間を要していると、二乃がこちらには向けてというわけではない様子で言葉を吐き捨てる。
「こっちはあんたとの時間のために気を引き締めてるのに、良いご身分だわほんと」
「何か言ったか?」
「別にー?」
「それじゃあ上杉君、中野さん。そろそろ出発だけど準備は良い?」
係のクラスメイトが割って入るようにして確認してきた。
二人は頷いて返事をした。
「それじゃあ、いってらっしゃーい!」
合図と共に、二人は歩き出した。
肝試しの目的は簡単に言えばチェックポイントを通過することである。
林道沿いに林を進むと小さな祠があり、そこにチェックポイント通過の証である手作りのお札が置かれている。
普通、肝試しはお札を置いて帰ってくるのが通例だと思われるだろう。しかし、たとえ二人一組のコンビとはいえ一学年全員分となるとかなりの量となる。終わった後、真夜中に誰が回収しにいくのかという問題を考慮した際、日の明るいうちに配置しておき後は回収するだけという方が効率的なのである。
けれどである。こういったことの準備には割かしクォリティにこだわる風太郎からすれば、設定に矛盾が生じるのではと思うところがあった。
と、いうのもお札がいくら手作りだと分かっているとはいえ魔除けのアイテムである。肝試しの前半は雰囲気で怖がるものだろうが、後半にもなれば空気に慣れてくる。そこで、魔除けのアイテムを中間地点で手放すことで心もとなさに一味加えて雰囲気を維持しようというのが、シナリオとして考えるなら筋が通るだろう。
なのに中盤から逆にお守りが手に入ってしまえば、もはやそれ以降は消化試合のようなものではないのだろうかと思っていたのであった。
ただまあ、そんな偉そうな講釈を語っているのは風太郎の脳内だけであり、横を見れば二乃が──
「やだー。フー君こわいわー。もっとくっついてもいいー?」
「おい。なんだその態度」
別に全然怖がっているわけでもなかった。
「何よ。女の子が怖がってるんだから、守ってやるの一言くらい言いなさいよ」
「そんなあからさまなのじゃ逆に怖がってないってアピールしてるようなもんだぞ」
「何よそれ! こっちは盛り上げてやろうとしてるんじゃない! そんなに言うんだったらライト消してやるんだから!」
「おいバカ、見えないだろ!」
風太郎の静止も虚しく、二乃がスマホのライトを消した。
元々、林道にはそこそこの月明かりが入っているのと、特に暗い箇所はおどかしも兼ねた提灯がぶら下げられている。そのため懐中電灯の貸与がなくても歩けるくらいの明るさはあるのだが、二乃が用心のためスマホのライトを点灯させていた。
初めから暗い環境であれば、それなりに見える道なのだろうが100ルーメン近いLEDライトが突如として消された後では、二人の視界は完全な暗闇に閉ざされたも同然の見えようであった。
「ひっ」
二乃が途端に小さく悲鳴を上げた。
風太郎すら心臓を締め付けられるような怖さがあったのだから、女子なら特にであろう。
「おい大丈夫か!?」
「へ、平気よ。ちょっとびっくりしただけだわ……」
返事の様子からして二乃のままのようだった。
流石にこの程度では入れ替わらないかと思うと同時に、どこか安心している自分もいた。
視界は以前、真っ暗なままだった。
「少しここで止まるぞ。闇雲に歩いたら転んだりするかもしれねえからな」
「わかったわ……」
素直にスマホのライトを点け直せばよいだけなのかもしれないが、強情なのか二乃はそうはしようとしなかった。
そうして立ち止まった二人は、目が慣れるのを待った。
視界が塞がれた状態で、立ち止まったままの時間。季節柄の寒さのせいも相まって、まるで地獄に突然落ちたのではないかと錯覚しそうな空気が肌を刺してきた。
人間の脳が五感を処理する時、その八割は視覚情報に費やしていると言われている。視界を完全に閉ざされた現在、要するに脳の大部分は暇を持て余していることだろう。
過去の実例にて、視覚や聴覚といった五感の一部が機能しない障害を患った場合、その他の有効な器官が特別に発達したり、敏感になる場合があるという。
他にも純粋な発達の過程における、精神的フラグメントの欠如が起きた場合には思考能力や演算能力、色彩や空間の認識といった脳機能が一般の人間より優れて発達するという話もある。
これらの事例はあくまで所説によるが、一説には脳自体はフルスペックであるのに対して、本来必要になるはずだった情報処理の量よりも少ないリソースしか割かないことにより、脳が勝手にその空きスペースを他のことで活用しているという考え方があるという。
ものすごく遠回りな話をしたが、要するに何が言いたいかと言えば、視界が閉ざされた今風太郎と、恐らく二乃もなのだろうが、やたらと林の中の小さな物音や自然の匂いが気になるようになったのであった。
身近な例で例えるなら、夜に電気を消して布団に潜っている時、普段なら気にならないアナログ時計の秒針の音が急に気になる、あれである。
「フ、フー君……何か話してよ」
「何かって何だよ」
「何でもいいから」
「……ずっと考えてたことがあるんだ」
「なに?」
「四葉への返事は、いつしたらいいかってことだ」
「……! それ、私が聞いて良い話?」
一瞬、息を飲む二乃のわずかな呼吸音がした。
問いかけの意味は言葉通りでもあるのだろうが、言外の意味として四葉にも聞かれているが大丈夫か、という確認も含まれているだろう。
「ああ。むしろどこかで話さないといけないと思ってたからな。まだ考え途中だってことを聞いておいてもらった方がいいかもしれない」
「……あんたがそう言うなら」
「今、四葉が距離を置いて俺と接しているのは、余裕が無かった時の俺が強く拒絶してしまったからだ」
「そうね。あんたのせいで四葉が凹んじゃって、しばらく大変だったのよ」
「だが今は違う。四葉はまだ時間がかかってもいいと言っているが、俺としては十分考えた」
「待って」
呼びかけに、恐らく二乃がいる方へと顔を向けた。
ようやく、ぼんやりとだが二乃の顔のシルエットが分かるようになってきていた。
「それ、あの子への返事を今、私にしようとしてる?」
「そうじゃない。ただ、また前みたいにこっちの事情とかも知らないまま変な伝わり方をして、あいつを困らせないようにしたいだけだ」
「そ、でも、それ以上は聞きたくないわ」
「どうして──」
「あのね、そんな内心をペラペラ話されたら、答えなんか聞かなくたって想像できちゃうかもしれないわよ?」
二乃の言う事は正しいと思った。しかし、それでも語っておいた方が良いと思ったのである。
「そういうの、語るに落ちるって言うのよ」
「……」
まるで心を読まれているかのような先回りの一言に、風太郎は閉口した。
その風太郎の様子に対して、空気を読んだように二乃が話す。
「話をしてって言ったのに聞きたくないなんて言ったお詫びに、違う話で私からも質問させて」
「……なんだ」
「あんたは私達のこと、どう思ってるの?」
「それ、話変わってなくないか……?」
肝試しの出発前にもそんなやり取りがあった気がする。
「聞いてる意味合いが違うのよ。"そういう意味"じゃなくて、純粋に生徒としてよ」
「ああ……」
それならば二乃の言う"そういう意味"の話よりも遥か前に散々悩んだことだった。
結論も出ている。
「厄介な生徒だと思ってるよ」
「それはやっぱり、こんな体だから?」
「お前らがここまで馬鹿だと思わなかった」
直後、ローキックを食らった。
暗闇なので痛みも人一倍である。
「いって!? 無言で蹴るなよ!?」
「あんたが余計なこと言うからよ!」
「お前が聞いて来たんだろ!?」
「馬鹿正直に答える方が悪いんじゃない!」
痛みに蹲ると、側でざっ、と足音がした。二乃がそっぽを向いたらしい。
「それにまだ話の途中だろうが、くそ……正直、体質のこともあって教えるのは難儀してるのは事実だ」
「…………」
「だがな、それはお前自身の過失によるものではない。だからこの問題において、人間性という意味での問題を持ってるやつなんて誰もいないと思ってる」
その発言には、最も風太郎を困らせている人物も含まれているのだが、そのことまでは口にしなかった。
あいつの……一花の支離滅裂で破滅的な言動も、きっとこの状況がそうさせているのだろう。
「さっきの聞き方で、お前が何となく俺に負い目を感じているのはわかった」
「それは……」
「だが安心しろ。初めのうちは戸惑って、お前らに勉強を教えるのなんてできっこないと思っていたが、今は違う」
「どういうこと?」
「俺は家庭教師を辞めようだなんてことは、もう言わない」
「!!」
「お前が体質……多重人格のせいで勉強に苦労していると分かった今、俺は意地でもお前達五人全員を卒業式まで連れて行ってやる」
「フー君……」
「負い目なんて感じるな。お前がその障害に……いや、個性に振り回されてるのなら、俺が助けてやる。二乃」
「────」
返事はなかった。
ただ、二乃が何も話さないのに呼応するように風が吹いた。
木々が揺れ、ようやく視界が暗闇に順応して二乃の顔が見えるようになったと同時に、白黒の情景に色が溶け込むようにして、揺れた葉の隙間を縫って月明かりが差した。
いつの間にかこちらを見ていた二乃の瞳は妙に煌めいていて、頬の紅潮が見て取れた。
その表情は、中身は違えど、昨晩見たばかりの顔であった。
だからだろう。
"そういう意味"のことを最近はずっと考えていたせいもあって、察してしまった。
「二乃、お前……」
「……あ」
二乃が自分の頬に手を触れた。
月明かりによって自分の顔が見られてしまったことに気が付いたのだろう。
紅潮していた頬が更に赤く染まろうとした────その時だった。
「ごめーん。後ろがつっかえてるから進んでもらっていいー!?」
背後から、スタートの合図を出す係をしていたクラスメイトの大声が響いた。
「────!!」
クラスメイトの声が聞こえ始めた瞬間とほぼ同時に、二乃の肩跳ね上がった。
最早、実際に小さくジャンプしてしまうほどに驚いた二乃は、真後ろに立っていた木へと背中を打ち付けた。
「おい二乃、大丈夫か!?」
「ふーん。フータロー君、かっこいいこと言ってくれるじゃん」
駆け寄った風太郎。
対して木にぶつかると同時に落とした視線を上げて、再び風太郎の顔を捉えたそいつの顔は────
「なら、私も助けてよ。邪魔者みーんな取り払ってよ」
先ほどまでのことなど全て無かったかのように、不敵に笑っていた。