解離性同一性障害。俗に多重人格と呼ばれるそれは、精神障害の一つとして実在しているものである。
現実よりフィクションで比較的よくみられるこの障害は症例ごとによって異なる部分が多い。
ただし共通している部分もあり、この障害を診断された者は俗名の通り少なくとも一人、多い場合には二人以上の自分とは異なる人格を自らの体に内包しているということである。
つい先ほど、これから風太郎の生徒となるはずの少女、中野五月は自らを『五月』ではなく『二乃』へと入れ替わったと言い張り、同時に自らを多重人格であると話した。
無論、風太郎が実際に多重人格者というものを目の当たりにするのは初めてであり、素直に信じることは難しかった。
この事実を確かめるべく風太郎は、自らを二乃と名乗る五月(以後は素直に二乃と呼称する)を説得しアパートの部屋へと上げてもらうと、拝借した固定電話から二乃の父親へと電話をしていた。
「な……中野さん……娘さんが多重人格というのは本当なんですか?」
『ああ、彼女は正真正銘、解離性同一性障害の診断を受けた多重人格者だ。君には彼女を卒業まで導いてほしい。勿論、報酬もその分弾もう』
家庭教師の仕事を初めて聞いたのは昨日のらいはからの電話である。父親の勇也が取ってきた仕事らしい。
元々数多くのバイトをこなしている風太郎であるが、勇也がこの仕事を取ってきた最大の理由は給料の高さと聞いている。
最初は如何わしい理由があるのかと疑っていたが、このような事情があれば給料の高さにも納得がいく。
つまり風太郎はこれからマンツーマンではなく、一対他を相手に勉強を教えなければならないというわけである。
そう考えると風太郎の肩は途端にずしりと重みを増したかのような錯覚を感じた。
「そ……それはちょっと自信ないかなー……とか言って」
『そうかい。では残念だが──』
「!!」
思わず零した弱音であったが、電話先のマルオの反応からそれが失言であったとすぐさま気が付いた。
『この話はなかったことに──』
「自信が漲ってきました!! 娘さんを無事卒業させてみせます!!」
『期待しているよ。ところで娘はそこにいるのかい?』
案の定、せっかくの割の良い仕事がお流れになろうとしたところに食い気味で割り込み、間一髪凌いだ。
続けて問われたことに、風太郎は受話器を耳に当てたまま室内へと目を移す。
二乃に通してもらった彼女の家、狭いアパートの一室はそれでも風太郎が済む家よりは大きかった。
風太郎と勇也、らいはの三人が住む上杉家が1Kであるのに対し、中野家の間取りは1LDKであった。
現在電話をしている風太郎はリビングのスペースにいるのだが、カウンターキッチンを挟んで奥に寝室が見えるため、それだけでも風太郎の家の倍の広さを有しているということになる。
それでも、このような部屋に住む人物がわざわざ相場以上の給料を払ってまで個人的に家庭教師を雇うだろうかという疑問は頭から離れなかった。
そんな部屋の様子を見た風太郎の目と、同じくリビングでこちらの電話の様子をじっと睨んできている二乃の目が重なった。
途端に『は・や・く・し・ろ』という口パクをしてくる。
たらりと一筋、汗が流れた。父親の後、こいつの相手を自分はしなければならないかと思うと溜息が漏れそうになる。
「ええ、事情を説明して隣で待ってもらっています」
『ではよろしく頼むよ』
マルオの言葉を最後に、向こうからの操作で電話はブツリと切れた。
受話器を戻すと、一つ深呼吸をしてから二乃へと振り返った。
「さて……ま、待たせたな。早速だがお前の実力を測るためまずは小テストでも──」
「勝手に始めないで。私はあんたに勉強を教わる気なんてさらさらないんだけど」
「んなこと言ったってお前の父親にだって頼まれちまってる。何よりこれが俺の仕事だ。やってもらわなきゃ困る」
「あんたの事情なんて知らないわよ。パパもパパよ、勝手に話を決めて……」
ぶつぶつと父親への文句を言いながら二乃が立ち上がった。
そのまま壁際まで歩み寄ると、そこに置かれていた風太郎のリュックサックを持ちあげた。
「何してんだよ」
「決まってんでしょ。これ返すから今日はもう帰って」
「まだ何もしてない」
「だから! 家庭教師なんていらないの!」
「なんでそんなに頑ななんだ!?」
「部外者のあんたに話すつもりはないわ! ほら、帰って!」
二乃は持っていたを風太郎へ押し付けると、後ろへ周り背中を押し始めた。
風太郎も抵抗しようとその場に踏みとどまろうとする。
「かーえーれー!」
だが、悲しいかな。女子一人の力に押されているだけだというのに風太郎の貧弱な体幹では踏ん張りがきかず、玄関へと押し出され始めてしまう。
ジリジリと玄関までの距離が縮まっていく。
聞く耳も今日は持ってもらえまいと風太郎も内心で諦め始めていた。
その時であった。玄関に近づいていたからというせいもあるのか、扉の向こう側からコツコツとヒールが階段を上る音が聞こえた。
足音は階段を上り切ると、すぐに立ち止まる。つまり上り切ってすぐのところにあるこの部屋の扉の前に来たというわけだ。
「げ」
真後ろから二乃の気まずそうな声が聞こえた。
玄関の閉まっていた鍵はキーが差し込む音がしてすぐ、独りでにくるりと回り開錠された。
扉が外開きに開かれる。
開かれた先からはこれまた初対面の女性が入ってきた。
「ただいま帰りました。あら?」
「お、お邪魔してます……」
部屋に入ってきた女性と自然と目が合った風太郎は現在の状況に気まずさを感じながらも、やや引きつった愛想笑いを浮かべて挨拶をした。
女性の正体はすぐに心当たったからだ。
初めて見る顔だが、どことなく雰囲気が二乃に似ている気がする。年頃も勇也、つまり自分の父親より少し高いぐらいに見える。
そんな女性が勝手知るように入ってきたということは、要するにこの部屋に帰ってきたという言い方をするのが正しいだろう。
二乃の母親。それが風太郎の結論だった。
問題は自分の側にある。娘に今まさに追い出されようとしている年頃の男子。変な邪推をされれば家庭教師を続けるのが更に難しくなると危惧をした。
しかし、そんな風太郎の杞憂をよそに少しの間じっと風太郎を眺めた後、女性は目尻を下げた。
「風太郎君ですね。娘の……今は二乃のようですね。二乃の母親の零奈と申します。上杉君……あなたのお父さんからはあなたのことを聞いています。娘をよろしくお願いします」
そう言って零奈と名乗った二乃の母親は頭を深々と下げて一礼をした。
その光景を前に風太郎の背中から二乃が顔を出した。
「お母さん、挨拶なんていらないわ! 今からこいつを追い出すんだから!」
「何故ですか?」
「あんな男が連れてきた家庭教師なんていらないからよ!」
(あんな男?)
風太郎を挟んでする親子の会話に、一つの違和感を覚えた風太郎であった。
しかし深く考える前に、零奈が窘める口調で二乃へと言う。
「風太郎君が家庭教師をすることに賛成したのは私もです」
「……っ!」
「今は私に免じてもらえませんか?」
零奈の言葉に二乃はしばし沈黙で返した。
二乃に背中を向けている風太郎からだと表情までは伺えないが、背後からは葛藤とともに漏れ出る唸るような声が聞こえた。
しばらくすると、本心では納得していないことがありありと分かる低い声での「わかったわよ」という返事が聞こえた。
予想外の助っ人もあり、何とか授業へと漕ぎつけることができた風太郎は二乃と共にリビングのテーブルへとついていた。
二乃はふてくされた顔をしたままテーブルに頬杖をついている。
零奈はキッチンで夕食の準備をしている。リビングと部屋を共有していることに加えて、カウンターキッチンのせいで常に零奈がこちらに体を向けていた。
親に見られながら家庭教師をすることに、やりづらさを感じながら風太郎は仕事を始めることにした。
テーブルの上に一枚の紙を置いた。
「さて、さっきやりそびれたが小テストをしてもらう」
「……一枚でいいの?」
「なに?」
紙を見ながら二乃がそう呟いた。
質問の意図を風太郎は汲めなかった。
そんな風太郎に助け船を出すように、零奈がキッチンで調理を続けながら口を挟んできた。
「風太郎君、マルオ君からは二乃のことはどの程度聞いていますか?」
「マル……?」
「すみません、分かりづらいですよね。二乃の父のことです」
「ああ、えと、多重人格ということは一応。後、目の前で五月から入れ替わる瞬間にも立ち会いました」
「そうですか。まずは信じてもらうところからかと思いましたが、実際に見ているなら話は早いですね」
「一応信じはしましたが……」
「五月から二乃へ入れ替わるには一度意識が途切れるか、強いショックが必要です」
「強いショック……」
「びっくりしたり痛い思いをしたりです」
そこで風太郎は部屋の前でのことを思い出した。
確か五月から二乃へと入れ替わったのは家庭教師が風太郎であると告げた直後であった。その時の五月はかなりショックを受けていたようだが、それが入れ替わりのきっかけになったのかと理解した。
そして入れ替わった後、出てきた二乃は即座に自分へと対応してきた。つまりそれは、五月とのやり取りを記憶していることだろう。
それを裏付けるように零奈が説明を続ける。
「人格が入れ替わる時、表に出てきていない人格にも記憶は引き継がれるそうです。とはいえ、それらの記憶はあくまで別の人間の記憶として認識しているようですが」
「夢を見ている時に近いわ。私は五月が五感で感じたものと同じものを経験しているけど、実際に体を動かしているのは五月の意思よ。私は五月の行動によって得た結果を見ているだけ」
「だから自分の経験じゃないってことか」
「それともう一つ」
「?」
「記憶は、五月と共有できてるわけじゃないわ」
「どういうことだ?」
今一つ理解に至らない風太郎。
記憶が引き継がれるとたった今零奈から聞いたというのに、共有できてるわけじゃないとはどういうことか。
二乃が問いに答える。
「分かりやすいから夢の例えを続けましょう。あんた、夢の中の自分に対して『なんでこいつはこんなことをしてるんだろう』とか考えたことある?」
「明晰夢ってやつか?」
「少し違うわね。夢の中の自分は映像みたいに勝手に動いていて、自分はそれを見ているだけ……みたいな感じ」
「つまり五月は五月の、お前はお前の記憶や考えを別々に持ってるってことか?」
風太郎も話しながら整理する。
例えば五月が表に出てきている時、二乃も五月の視界を通して同じ世界を見ている。しかしそれは同じ体験を二人が同時に経験しているだけであって、そこから蓄積される記憶や個々の考えまでは別々ということなのだろう。それはつまり──
「五月が勉強で覚えたことを、お前が覚えているとは限らないってことか?」
「ま、そういうこと。一応暗記系なんかは忘れてると思ってたことも思い出せたりすることがあるけど、そんなのって普通の人でもあることでしょ? 私達の場合はどうかとか詳しいことは知らないし、医学的にも解明できないって」
「医学的にって、なんでそんなこと言い切れるんだ」
「パパが医者だからよ」
「なるほどな」
相場より高い給料が出せるのはそれが理由かと、余計に納得できたこともあった。
そしてテストを前にして二乃が言った言葉にもようやく理解が追い付いた。
「つまり五月の場合とお前の場合でテストの点数にも違いが出る。だから人数分のテストが必要じゃないのかってことか」
「そういうこと」
「生徒の相手が一人じゃない上に、教えられるのは一人ずつ……厄介だな」
「だから貴方を雇ったのですよ。風太郎君」
状況を理解した風太郎の横に、いつの間にか零奈が立っていた。
手には夜ご飯の支度の片手間で用意したのか、お菓子と飲み物を乗せたトレーが持たれていた。
トレーをテーブルの上に置くと零奈は風太郎の方を向いた。
「学校の授業や私と下田さんが協力しても、まだ手が足りなかったのです。何しろ表に出てくるタイミングを自分でコントロールできるわけじゃありませんから。だから私達がこの子についてあげられない時間で、あなたの力も借りたいのです」
「待ってください。お母さんや下田、あの女の人が協力してもってどういうことです?」
「あんたがお母さんと呼ぶ筋合いはないわよ」
二乃の横やりは風太郎は無視をした。
風太郎の質問に零奈は少し恥ずかしそうにする。
「実は私は高校の教師を、下田さんも塾講師をしているのです」
「なっ……! それだけ体制を整えてるなら十分なんじゃ……いくら手が足りないからって俺が出るほどのことでも」
そこまで話し、言葉を止めた。
風太郎の言う事は零奈だって百も承知だろう。
だが現に風太郎が雇われたということは、その必要があるからなのだろう。
そう、例えば零奈たちが二乃と五月に対して使える授業の時間を全て使ってもなお勉強が必要なほど、二人は──
「まさか」
風太郎は二乃を見た。
対して二乃は、風太郎に込められた視線の意味に気づいたようで、目を逸らした。
二乃の代わりとでも言うかのように零奈が頭を下げる。
「風太郎君の考えている通りです。二乃も五月も、
「嘘だろ……!」
家庭教師が必要なのだから成績が悪いのは当たり前。
だがその問題を解決するために立ちはだかる多重人格という壁のあまりの高さに、風太郎の心は初日からして挫けそうになったのだった。
原作からかなりかけ離れた舞台設定ですが、今後もわかるようにしていくつもりです。