目が覚めた時、視界に差し込む朝日が眩しく、寝ぼけ眼を覆うために一花は手を挙げようとした。
挙げようとした手は自分の思い通りに上がり、光を遮った。そこで気が付いた。また自分の番かと。
少し驚きもした。林間学校というイベントの間にレアケースを引いたことに。
昨晩から一度、気絶というべきか、睡眠と言うべきかの無意識を挟んでからの、同じ人格の続投である。
今までも極まれにだがこういうことはあった。何の前触れやきっかけもなく、一花以外の人格でも二日連続で当番となることはあった。
「ここは……」
布団から上体を起こして周りを確認する。
見覚えのある内装は、林間学校の間に宿泊するはずだった木製ペンションだった。
ただ、寝る予定で荷物を置いていた寝室とは違う部屋だった。自分の寝ているベッド以外にもいくつかあったが、全て空きだった。
誰も使っていない空き室なのだろう。
改めて昨晩の最後の記憶を思い出すと、確か自分達は肝試しの最中に迷子になったはずであった。
そしてその後──
「…………!」
崖での出来事を思い出し、悪寒が走ると共に気分が悪くなった。
ただ、幸いなのは記憶の映像の中で風太郎が助かったのを見届けていたことだった。
"あの時"のようにはならなかった。
今度は助けられたというポジティブな考えも浮かんだが、それだけで気分は良くならなかった。
風太郎を助けた後の記憶がないということは、おそらく自分は意識を失い、風太郎がここまで運んでくれたのだろう。
そこまで理解が及んでから、起こしていた体を再びベッドへ倒した。
柔らかな感触とスプリングの反発が同時にきて、一花の体は小さく跳ねてからマットレスへと沈み込んだ。
そのまま、瞳を閉じた。
「約束破ってごめんね、前田君」
本来、三日目が一花であった場合に約束している相手がいた。
だけどその約束の相手自体は正直、一花はどうでもいいと思っており、むしろその約束を守ることで悲しませてしまう人物がいることを理解していた。
自分の中でどんどん居場所を大きくしている人物、風太郎である。
昨晩の出来事のおかげで、いよいよ看過できなくなってきているとも思った。
どういう意味かと言えば、"そういう意味"である。
昨日は他の人格達を邪魔する理由までは話した。風太郎のことも、自分のような多重人格者から見ればどのように映るかも話した。
だけど、”実際に一花が風太郎をどう思っているか”は話していない。
風太郎はまだ知らないだろう。どうして自分がこんなに風太郎の恋路を邪魔しようとしているのか。
だから、一花が本当は”風太郎と付き合うことがやぶさかではない”ということを、知らないはずなのである。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろうなぁ……」
一人、呟く。
そして同時に悔やむ。こうなってしまったのはきっと、かみ合わせが良くなかっただけなのだと。
一花もまた、四葉達同様、五年前の京都での出来事を大切な記憶として覚えている一人であった。
そして五人のうち、当時の風太郎と直接対峙した数少ない人格の一人でもある。
五年前。
四葉が一日がかりで風太郎と京都を巡った後、二人は偶然にも同じ旅館に宿泊していた。
その時、ちょっとした不注意で入れ替わりが発生してしまい、四葉から一花へと入れ替わっていた。
同日の晩、一花となった彼女は風太郎の部屋へと赴き、再び彼と会話をした。
それからは少し遊んだりした、ただそれだけの時間なのだが、それでも一花にとっては大切で楽しい記憶だった。
四葉のように、あの時間だけで恋に落ちたわけではなかった。だけどこの想いは、風太郎に恋をしていない人格達よりは強いのだろうとは思っていた。
そして現在、彼との再会を果たして他の人格達と過ごす彼の様を見ていくうちに、どんどんとその想いは解像度を上げていった。
この想いは四葉のように当時からずっと育んできたものではない。
この想いは二乃のように、鮮烈な形で生まれ落ちたものではない。
この想いはきっとまだ芽も生えていない種子のようなものなのだろう。そして一度発芽すれば、風太郎という太陽の光の下、急速な成長を遂げるだろうと確信していた。
だがもし、その種子が発芽することになれば自分はより一層苦しくなるであろうと予感していた。
何故ならば自分は、自分の行いによって風太郎に嫌われているであろうからだ。
風太郎を他の子達に取られたくないという醜い心が、自分をそうさせた。風太郎から一花に対する負の感情もまた、自らが撒いた種なのである。
だから一花は恋をしないと決めていた。しても幸せになれないから。
前田との約束を無かったことにして、このまま風太郎と三日目を過ごすこともできるだろう。
だけど一花はそうはせず、今日は他の誰かに譲ろうと思い、二度寝の微睡みに意識を委ねた。
「あいつが外出禁止?」
「昨日のことを親御さんに連絡したらな、そうしてほしいとのことだ」
「そうですか……」
起床後、風太郎は中野と三日目を共に行動する約束をしているから会いに行ってもよいかと教員用の寝室を訪れ、教師へ確認した。
会話の相手は教育指導の男性教諭である。
答えはNOであり、その理由が先ほどの会話であった。
昨晩のことを風太郎は、ある程度正直に話していた。
一応、大事にならないようショック状態を起こしたことまでは言わなかった。大事にはしたくなかったのである。
だが事が事だけに、親への連絡も、こういった展開もあるのは仕方のないことなのだろうと納得した。
(まあ、外に出れないだけならやりようはあるだろ)
三日目の予定は全て屋外の活動だった。
日中は選択式でスキー、川釣り、登山のいずれか一つ。
夜間はキャンプファイヤーである。
どちらも風太郎が一人で楽しみ切れる自信のないものだった。
元々風太郎とて、中野以外には一緒に行動する伝手があるわけでもない。ならば今日は引きこもり、時々中野に顔を出してやればいいだろうと思っていた。
(らいはへの土産話、減っちまうな)
実質、風太郎の林間学校は二日目だけになるのだから、単純な見積もりでも三分の一である。
「あの、あいつを外には連れ出さないので、時々会いに行ってやってもいいですか?」
「悪いがそれもダメだ」
「どうしてですか?」
「親御さんが今、こちらに迎えに来てるんだよ」
「は?」
「電話で事情を話した時、声だけだが血相を変えた様子でな。今から迎えに行くと言い出したんだ」
「なんで……」
「先生だって分からんさ。一応、今日は大人しくさせるし明日には全員で帰るとも伝えたんだがな。どうしてもだそうだ」
(そこまでする必要があるのか……!?)
確かに今回の出来事は一花を筆頭に、彼女達にはかなりの負担をかけただろう。
だがそれにしたってわざわざ迎えに来るほどのことだろうかと、風太郎には引っかかった。
少なくとも、直接会ったことがある母親の方、零奈はどの人格相手でもある程度娘に対して信頼を置いているようだから、なおさらであった。
「それ、電話に出たのは母親でしたか?」
「そうだが?」
(……どうして……)
「それでまあ、今は親父さんの方が迎えにきてるらしい」
(両親ともに同じ判断か……なんだ、まだ俺が知らないことがあるのか……?)
「そういうことだ。悪いな上杉。お前が誰かとつるんでくれようとしてくれるのは嬉しいし、相手が転校生のあの子ならなおさらだ。だから聞かせてやったが、ここまで細かく事情を説明したのは内緒だぞ」
そう言って人差し指を唇の前で立てた。
確かに話を聞いた後だが、電話の内容まで教えてくれるのは単なる同級生相手には教えすぎなのかもしれない。
それをこの人は配慮してくれたのだから、強面の割に存外良い人なのだな、と思った。
教育指導の先生など、内申も良い風太郎は関わりが薄いものだから、今更ながらの第一印象だった。
昼も過ぎ、完全に暇を持て余しているものの、かといって屋外活動に参加しようとも思えなかった風太郎がペンションの廊下を歩いていると、窓越しに駐車場の光景が目に入った。
黒塗りの車が一台停止しており、運転席の傍でスーツを着た壮年の男性が控えていた。
男性に見覚えはなかったが、風太郎はすぐにそれが彼女たちの迎えの車だということに気が付いた。
男性の様子からして誰かを待っているのだろう。ならば間に合うかもしれないと思い、玄関へと走った。
出入口から外へと出て、建物沿いに角を曲がるとまだ車はあった。
ちょうど、先ほどの男性が後部座席の扉を開け、そこに彼女が乗り込もうとしている時だった。
その背中へ呼びかけようとして、一瞬言葉に詰まった。まだ今日が誰の番か知らなかったからだ。
「……えっと、おい!」
それだけの呼びかけに対して、彼女は振り返った。
「フータロー……?」
三玖のようであった。
風太郎も遅れて車まで辿り着いた。
三玖は乗り込もうとした体勢を辞め、再び地面に足を付いた。
申し訳なさそうに、三玖は顔を伏せた。
「ごめんフータロー……私」
「先生から聞いた。帰るらしいな」
「……うん」
「具合、大丈夫か?」
「うん……それも、大丈夫」
「あなたが上杉様ですか?」
立っていたスーツの男性がこちらへ話しかけてきた。
風太郎が顔を向けると、男性は丁寧な所作で一礼した。
「お初にお目にかかります。わたくし、旦那様である中野マルオ様の秘書をしております江端と申します。本日はお嬢様をお迎えにこちらへ参りました」
「……どうも」
恭しい、いかにも上流階級な世界の所作や、三玖のことを”お嬢様”と呼ぶことに住む世界が違うことを感じ、気後れした。
対して江端は、そんな風太郎に対しても一片の礼儀に欠けた振る舞いも見せずにいる。
「お話は色々な方から経由してですが、わたくしにも聞き及んでおります。昨日はお嬢様を助けていただき、ありがとうございます。旦那様の代わりにお礼申し上げます」
「代わり?」
「旦那様もこちらへいらっしゃるご予定でしたが、どうしてもお仕事へ戻らなければならず、本日はわたくし一人で来た次第でございます」
確かに、開け放しの扉から車内を覗けば誰も人の姿は無かった。
少し眉をしかめた。
事を重大に思ったから迎えに行くと言い出した(実際には零奈が言い出したのだが、父親も同調するならば同じと風太郎は考えている)というのに、その娘の一大事に駆けつけないとはどういう了見かと。
イラっとくるものがあった。
「あの、フータロー。今日なんだけど……」
「……分かってる。昨日のことを考えれば仕方のないことだ。俺も今日は適当に過ごす」
「…………」
「三玖?」
事情を知るからこそ、理解を示したつもりであった風太郎だったが、予想に反して三玖は微妙な面持ちをしていた。
伏せがちなままの目が、ちらちらと江端を覗いていた。
江端はこちらからあえて目を外すように体の向きをいつの間にか変えた状態で直立していた。
「どうした。何か言いたいなら今のうちに言っておけ。もう帰るんだろ」
「うん……あの、フータロー」
「なんだ」
「フータローはこの後、ずっとひとりなんだよね」
「初めっからそう言ってるだろ」
今更なんの確認だろうかと、風太郎は怪訝な顔をした。
「じゃあ……!」
「?」
「私と、一緒にいてくれないかな……!?」
「は?」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
元々一緒に行動するという約束はしていた。
しかし、三玖が帰ることになってしまったから、それができなくなってしまったのだ。
だというのに一緒にとは、どういうことかと考えたところで三玖の言わんとしていることに気が付いた。
「俺も一緒に帰れってことか?」
「…………」
三玖は肯定しなかった。
しかし否定もしなかった。
林間学校を途中で辞退しろという滅茶苦茶なことを言っているのだ。違っているなら違うと、即座に否定するだろう。
江端を見た。この距離である。話は聞こえているはずだが、まるで自分など空気だと言わんばかりに不動の姿勢を保っていた。
さきほどの柔和な対応からして、物言いが不器用な人というわけでもないだろう。
ならば話は二人だけでして、自分はいないものと思ってよいというプロの仕事だと理解した風太郎は江端へと話しかけた。
「いいんですか、三玖に何も言わなくて」
「私が旦那様から仰せつかっているのはお嬢様をお連れ帰ることだけでございます。その他の指示は頂いておりません」
仕事人としての返答だった。
けれど『止めなくていいのか?』という質問に対するこの答えならば、要するに風太郎が帰りの車に同行すると言っても止めるつもりはないということなのだろう。
再び、三玖を見る。
正直、いくらなんでも急な話だと思っていた。
誰かと一緒に過ごす予定のなかった風太郎だが、林間学校それ自体を楽しみにしていたこともある。残るなら残るで過ごしようはあると思っていた。
かといって、どうしても残りたいという気持ちもなかった。せいぜい、三玖とは違い何の理由もない自分が帰れるよう教師を言いくるめることが、面倒だと思うくらいだった。
さて、どう答えたものかと思った時、一つ考えから抜け落ちていることに気が付いた。
三玖はどうして、こんなことを言い出したのだろうかと。
そう疑問に思いながら、三玖を見た。
その時の三玖の表情には、どこか見覚えがあった。すぐに心当たった。
林間学校の初日、旅館に宿泊が決まった直後の四葉の落胆した顔だった。
(こいつ……)
だから気が付けた。三玖もまた、林間学校を楽しみにしていた一人なのだと。
それが何も始まらないまま、終わろうとしているのだと。
三玖と四葉に違いがあるとすれば、自分への気持ちだろう。
少し自意識過剰な気がして気恥ずかしかったが、四葉は要するに風太郎と一緒に過ごせる時間がなくなることを恐れて、落胆の表情を見せた。
しかし三玖は違う。あくまで風太郎とは単なる教師と生徒である。四葉のような考えはないだろう。
もしかしたら、風太郎が行動を共にすることで、林間学校の続きのような気分を味わえないかと期待しているのかもと思ったが、これは少々こじつけかと頭を振った。
結局、考えても三玖の考えは分からなかったが、それでも四葉と同じ顔をしているという情報だけで風太郎にとっては十分だった。
「わかった」
「……え?」
「なんだよ。お前が言い出したんだろ」
結局初日は、四葉の悩みに気づいた後も何もしてやれなかった。
同じことを繰り返すのは避けたかった。
だから承諾したというのに、また三玖は下を向くと小さくうなずいた。
「ありがと……」
三玖に同行して帰ることに決めた後、諸々の手続きに手間取った。
勝手に姿を消せば大問題になるのは火を見るより明らかであったため、方々へ理由作りに奔走した。
……まあ、実際にやったことはこの帰宅の話の出所である零奈への連絡と、親の承認もということで勇也へ連絡したぐらいなのだが。
零奈へ相談すると、勇也が承諾するならばと意外とあっさり快諾された。
勇也も同様で、三玖が一緒に居るならばという、むしろ風太郎がどういうことかよく分からない理由の下、了承を得た。
形式的なもので、子供が言うより親が言った方が話が通りやすいということもあり、勇也から教師へ連絡をしてもらい手筈が整った後、風太郎は三玖達の車へと乗車した。
元々三玖も口数が多い方ではないため、だからと言って盛り上がる話があるわけでもなかったが、せっかくの機会なので風太郎は今日ずっと疑問に思っていることを聞くことにした。
「お前のお母さん、どうしてお前を連れ帰るなんて言い出したんだ?」
「きっと、昨日のことが原因だと思う」
「それは分かってる。むしろ理由なんてそれしかないだろ。だけど普段のあの人を見てると、どうも少し過保護な気がして──」
「上杉様」
掘り下げて訊こうとしたところで、江端が口を挟んで来た。
基本的に運転に徹し、風太郎と三玖の会話には一切関与しないように徹底していたというのに急にどうしたのだろうか。
「申し訳ありませんが、お嬢様のご家庭にも色々と事情というものが──」
「江端さん、私は大丈夫ですから」
「ですが……」
「フータローには、話しておいた方が良いと思うんです」
「……左様ですか。かしこまりました」
それきり江端は再び沈黙を貫くようになった。
それから三玖がこちらを向くと、話し始める。
「昨日、一花の様子が少しおかしかったよね」
「……ああ」
風太郎がどのようにして報告をしたのか、三玖が知っているかは分からなかった。もしかしたら江端のように人づてに聞いているかもしれない。
ただ、それはそれとしておそらく、三玖が言っているのは一花が起こしたショックのことだということには、すぐに思い至った。
「あれは、昨日の出来事だけが理由じゃないの」
「どういうことだ?」
「私の……ううん、一花の実のお父さんは……昨日と同じ理由で、死んじゃったの」
「────」
三玖の話は、こうであった。
話は六年前へと遡る。
当時、一花の年齢は十一歳。小学五年生であった。
季節は春。まもなく六年生へと上がろうとしている時期に、一花はとある場所へと赴いていた。
母方の実家が経営する旅館『虎岩温泉』であった。
年に一度、季節はまちまちだが家族揃ってこの場所を訪問することは恒例となっていた。
この時もそうであり、親子三人、揃っての宿泊である。
宿泊者は零奈、一花、そして実父の仁之介だった。
当時、この家族は"無堂"の姓を名乗っていた。
そして何より現在と違う点としては、一花の体はまだ、一花一人だけのものであった。
「おかあさん! 見て! 綺麗な貝殻見つけた!」
「まあ、本当に綺麗ですね。よく見つけました、偉いですよ一花」
「えへへ、お父さん! これ持って帰っていい!? アクセサリーにするんだ!」
「ああいいとも。だけどしまう前にしっかり洗うんだよ。カバンの中を砂だらけにしたくないからね」
「はーい!」
「おとうさん! おふろおっきかったね!」
「そうだね。でも湯船の中で泳ぐんじゃないよ。今日はいなかったし、混浴は元々人が少ないけど他のお客さんの迷惑を考えなさい」
「はーい……」
「おかあさん! お料理すっごく美味しい!」
「ええ、本当に」
「一花ちゃん、だからってここにずっと居たいなどと言わないでおくれよ」
「大丈夫! おかあさんの料理もすっごく美味しくて大好きでから!」
「一花……」
「そうだね。確かにお母さんの料理が一番だ」
「もう、あなたまで……!」
一花にとって家族との日々はすべからく幸せな思い出だった。
父も母も、完璧な人間というわけではなかったがそれでも大好きだった。
優しく、深い愛を持って接してくれているはずなのに、不器用でそれを上手く伝えられなかったり、怒る時はしっかりと怖い母。
少し自己中心的な一面と、頭の固いところがあるけど、だからこそ自分の中に一本の芯のようなものがあり親として引っ張ってくれる精悍な父。
一人っ子であった一花は、そんな敬愛する両親の愛を一身に受けながら成長し、順調に強さと優しさを合わせ持つ女性へと育とうとしていた。
二人とも教育者ということもあり、その遺伝子を受け継いで生まれた一花は年相応以上に聡い子でもあった。それ故に、両親と過ごす幸せなこの時間が永遠には続かないと理解していながら、なおもずっと続けばいいと願っていた。
そんな時に悲劇が起きた。
「ここで昔、お父さんとお母さんはずっと一緒にいようという約束をしたんだよ」
「ずっとって、死んじゃっても?」
「ああ、ずっとさ」
宿泊先の旅館は中部地方の離島にあり、その島には一つの観光名所があった。
誓いの鐘と呼ばれるそれは、恋愛に関するいわくがあった。
鐘といってもそれほど荘厳というわけでもなく、成人男性の等身大の高さより少し高めのアーチに吊り下げられているだけのものだった。
この鐘が設置されている場所は、旅館から林を通り抜けて出た先の切り立った崖の傍に設置されていた。
無論、人が多く訪れる場所であるのだしきちんと落下対策は講じられており、大人の腰の高さほどの位置まで伸びている手すりがあった。
そこから見える海を挟んでの本州の景色もまた、観光スポットの一つであった。
「おとうさん! すごいよ! 向こうの島が見える!」
「僕たちはあそこから来たんだよ。普段僕達はあそこに住んでるんだ」
「すごいね! 町とか全然見えない! もっと近づいたら見えるかな!」
「ははは、どうだろうね。ちょっと顔を出したぐらいじゃ見えないんじゃ──」
「わっ!?」
「一花ちゃん!?」
手すりの高さは大人の腰ほどの位置、つまり90センチほどだった。子供ならば少し屈めば手すりより下に頭を持っていけた。
手すりの下は均等な感覚で柵が設けられているが、これもまた子供の体格であれば半身にすれば通り抜けられるほど緩い隙間だった。
一花は初め、手すりの柵の部分を両手で掴んでいたが、会話の流れからもっと本州へと顔を近づけようと、柵の間をすり抜けてしまった。
子供特有の視野の狭さは眼下の絶壁などまるで気が付いておらず、そして恐怖心というものも育ち切っていなかった。
だから無邪気なまま、体勢を崩した。
「あれ?」
この時すでに仁之助は動いていた。
子供から常に目を離さない、親の鑑のような振る舞いであった。しかし、手は放してしまっていた。
今から屈み、手すりの内側から手を伸ばしては最早間に合わない。
ならば回り込むしかないと、手すりに腹を付けてくの字に体を折ると、一花の服を掴んだ。
体が持ち上げられ、手すりの内側へと放り投げられることで、何とか難を逃れた。
腰を強かに打ち付けた一花は一瞬、痛みに目をつぶったが、息をつき、礼を述べながら再び目を開けた。
「ありがと、おとうさ──」
その時、真っ先に目に映ったのは、手すり越しの父の顔だった。
父の顔は、逆さまだった。
助けを求める様なその顔は直後、眼下へと落ちて行った。
嫌な音がした。
「お父さん!」
慌てて立ち上がった一花は、今度は再び手すりから顔だけを出して崖下を覗き込んだ。
崖の下にも林は広がっており、大体の地面は木々で見えなかった。
だから一花の目にした光景は運が悪かったとしか言いようがなく、"物となったそれ"と目が合ってしまった。
「────!」
それから、零奈たちが駆け付けるキッカケとなった叫びを一花が上げた後、一花の意識はそこで途切れた。
一花が病院で目が覚めてから、多くの出来事があった。
体の検査をされたり、警察が来て事故の当時の状況の話をしたり、最愛の夫を失った零奈が病室で耐え切れず嗚咽を漏らしているのを宥めたりした。
ふと、時折不思議に思うことがあった。
零奈を慰めている時など、自分だって本当は泣きたいほど悲しいのに、どうして自分は冷静に母の相手ができているのだろうと不思議だった。
そんな不思議な違和感はどんどん大きくなっていって、ある時とうとう気が付いた。自分の体が、自分の意思に関係なく動いていることに。
「一花、あなたはどうして涙を流さないのですか」
「私だって悲しいわ……でも、どうしてか流れないの……」
「一花、私達はこれからどうしたら……ああ、いえ、こんなこと……子供に話すことではないですよね……」
「大丈夫。お母さんとだったら、これからも生きていける」
「一花、最近のあなたは時々おかしい気がします。やはり、事故のショックのせいなのでしょうか……」
「平気だよ! 私は全然平気だから、私のことでお母さんは心配しないで!」
「一花……」
「お母さん……私は、私達もこの状況が理解ができました……私は、どうやら一人だけではなくなってしまったみたいなのです」
未だ科学的に解明されていない後天性の解離性同一性障害の発症理由の一つに、強いストレスが原因の事例がある。
これは心理学や、脳科学の観点から耐え切れないほどのストレスを分散、逃避するために、無自覚に自己人格を仕切りで分ける様な行いであるという説がある。
実態として、明確なロジックは解明されていないのだが今回の事故は一花の心を分けるに十分に足る事例だと考えられ、障害の発症が認められた。