三玖とサービスエリアでの話を終えた後、二人はずるずるに伸びたラーメンと、冷え切ったたこやきを処理(ほとんど風太郎が食べた)してから車へ戻った。
車は再び家へと走っている最中であった。その車内で、風太郎は先ほどのことを思い出していた。
(恋をさせて、か)
惚れさせて見せろってことだよな、と風太郎は解釈した。
そんな台詞はらいはに時々買ってやる少女漫画に出てくるような、いわゆる俺様系の野郎が言い放つ言葉というのが風太郎の認識なのだが、三玖がそんな傲岸不遜な性格ではないことは百も承知している。
だから三玖がそんなことを言い出した心理というは端的に言えば──
(他の奴らのためって、ことだよな)
三玖が描いた青写真は、五人の人格全員が風太郎を、風太郎が五人と恋愛関係を持てば万事解決というものなのだろう。
ただ、それを実現するためには三玖一人の気持ちが変わったところで、他にも問題は山積みである。
流石に、少し考えればわかることだから三玖も理解していると思いたかった。
例えば五月の場合である。三玖と同様、風太郎に対しては教師と生徒の関係を超えないよう、風太郎とは太い一線を引いている。
逆に一花の場合、風太郎から彼女への矢印の向き具合というものが現在、どれだけ絶望的な状態なのかも三玖は分かっているはずだ。
(というかそもそも誰か一人とだって付き合うかどうかすら怪しいって言うのに、いくら何でも話を飛躍させすぎだろ)
三玖は三玖なりに考えているのだろうが、話を聞かされる側としては唐突過ぎてとてもではないが、行動に移そうという気にはならなかった。
「上杉様」
「なんでしょう」
じっと考えていると、江端が話しかけてきた。
車は依然走行中である。江端は前を向いたまま話す。
「少しお休みになられてはいかがですか? まだ到着までしばらくかかります」
「いや、別に眠くないしいいですよ。俺だけ寝たって──」
「お嬢様ならもう、隣でお休みになられてますよ」
「え」
隣を見れば確かに、いつの間にか三玖は寝息を立てていた。
(こいつ……!)
今日は一日中ペンションの中か、車の中にしかいなくて疲れてないだろうによく眠れるな、と思った。
「というかこいつ、さっきあれだけ真面目な話をした後だって言うのに……!」
「昨日の今日ですから、まだお疲れが残っていたのでしょう」
「…………それは、確かに」
そういえば、自分だって昨晩は散々な目に合ったわけだし、事故の後だって気を失った一花を担いで宿泊施設まで戻ったのであった。
疲労感だってそれなりに残っている。今日は帰っても寝るだけなのだから、今から少し休んでもいいか、と風太郎も考えた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい。先にお嬢様の家を通りますので、すみませんがその時に一緒に起こしてしまうかと思います」
「わかりました」
そう言ってから、風太郎も窓際に頭を付けて瞼を閉じた。
夜の高速道路の一定間隔で続く街灯の光を瞼越しに感じつつ、高級車だからか微振動のような程よい揺れと、くぐもったエンジンの音がホワイトノイズのように作用し、風太郎が眠りに落ちるのはそれなりに早かった。
中野家のリビングでは一人、零奈が座卓の前に座っていた。
座卓にはノートパソコンが置かれており、電源が点いていた。
高校教師をしている零奈の持ち帰りの仕事内容が画面に表示されており、室内にはタイピングの音と時計の音だけがひたすら響いていた。
仕事の進みはあまり良くなかった。少し進めては手を止めて時計を見て、また少し進めてはすぐ止めてを繰り返していた。
間もなく娘が林間学校から帰ってくるからであった。
先ほど三玖から電話があり、夕飯を済ましてから帰るとのことだった。本当はまっすぐ帰ってきてほしかった。
今日一日、零奈は碌な食事をとっていない。食べようとしても喉が通らなかったのである。
今朝、三玖が通う学校の先生から連絡があり、肝試し中の事故の話を聞かされてからずっとそんな調子だった。
「仁之助さん……」
今は亡き元夫の名を口にした。
幸せの真っただ中で、突如として失った最愛の人。
その彼を失った時と同じ出来事が昨晩起きたと電話口で聞かされたものだから、肝試しの参加者でもないのに零奈の肝は心底冷え、心は縮上がった。
不安と心配が娘への信頼を勝り、林間学校から引き戻すようにとまで申し出てしまった。
自分だって教職の身なのだから、とんだモンスターペアレンツなことを言っているのではないかという気持ちも沸いたが、幸いにも電話先の先生は事情を深く聞かずに、申し出を受け入れてくれた。
もしかしたら、事故の話を聞いて動揺している様子が電話先にまで伝わってしまったのかもしれない。
申し訳ないという気持ちもあったが、許してほしいと思った。
六年前の事故が起きたあの頃、当時の心境を思い出すと今でも心が張り裂けそうになる。
夫を亡くしたと同時に、畳み掛けるようにして一花の障害が判明した。
多重人格というテレビや人づてでしか聞いたことのない話が、まさか自分の娘に降りかかるとは思いもしなかった。
けれど、それからも一花は一花のままであったし、他の人格の子たちにだって自分は愛情をもって接してあげられていることが、自分自身に対して何よりの救いであった。
だからこそ、"これからのこと"を考えると更に胸が締め付けられる思いがした。ただ、そのことは今考えるべきことではないため、そこで無理やり考えるのを止めると立ち上がり、冷蔵庫へと向かった。
気持ちを切り替えようとしまっておいた麦茶を取り出すと、水切り籠に置きっぱなしだったコップを取って注ぎ、飲んだ。
「ふぅ……」
一杯丸々飲み干した後、一息つけた。
頭の中のノイズはひとまず静かになってくれた。やはり食事を取れていないから考えごとも後ろ向きになっているのかもしれない。
「三玖も食べてくるらしいですし、何か入れておいた方がいいですかね」
言いながら冷蔵庫の中を見る。作り置きのおかずでも少し口にしようかと考えたところで、ふと気が付いた。
部屋の外から階段を上がってくる足音がした。
「帰ってきましたか……!」
次の瞬間には冷蔵庫のことなど忘れたように、扉を開きっぱなしのまま玄関へと走ると、ちょうど扉の先でも足音は立ち止った。
そして、次に起きたのは鍵が外側から開かれるのではなく、ノックの音がした。
向こう側から声がした。
『零奈さん。もしかしてすぐ近くにいらっしゃいますか?』
「マルオさん?」
声の主は現夫、マルオであった。
こちらが階段を上る音を聞きつけたように、向こうもこちらが玄関に駆け付ける音が聞こえたのだろう。
鍵を開け、扉を開いた。
マルオが中に入ってきた。
「あなたどうして……急患がいたのではなかったのですか?」
学校から零奈へ連絡が来た後、陸の孤島である林間学校までの移動手段を持たない零奈はマルオを頼った。
当初はマルオ本人が向かう予定だったが、医者という職業柄のトラブルに巻き込まれ結局行けないことになり、代理で江端一人だけが向かった次第であった。
その時のマルオはといえば、普段から感情の発露が苦手な人物であるのは十分に理解していたが、その時ばかりは珍しく狼狽えて申し訳ないと平謝りをされた。
零奈の質問にマルオが答えた。
「片づけました」
「かたづ……」
一瞬、脳内で手術着を着たマルオが持っているメスを光らせる映像が流れた。
「何か変な勘違いをしていませんか?」
「い、いえ別に!」
我に返る零奈。訝し気にマルオがこちらを見ていた。
「そうですか。時々零奈さんは妙に想像力が豊かなところがありますから」
「さあ、そんなことありましたっけ……?」
「この前、五月君から聞きましたよ。上杉君の授業中に聞き間違いからおかしな想像をして飛び込んで来たと」
(何を話してるのですか五月!?)
先日、四葉が数学を教わっていた時の話だろう。
あの日は確か四葉が告白したという話を聞かされた日でもあってかなり動揺していた。
というか四葉本人は気づいていないようだったし、うまく誤魔化していたものだと思っていたが裏の子達にはしっかりバレていたらしい。
「零奈さん」
「な、なんでしょう……」
話の流れ的に、怒られるかもしれないと零奈は息を呑んだ。
マルオの方が年齢的には五つばかり下なのだが、この人も怒る時は怒るのである。
しかし、
「父親の僕が目を光らせられない以上、上杉君の動向には引き続き目を光らせておいてください」
「え、ええ」
(危なかったです……!)
やはりどこの世でも、例え血が繋がっていなくても父親は娘に近寄る悪い虫には警戒するものなのだな、と思いながらも、普段の零奈ならばそう言った話には仲裁に入るはずが今回はマルオの話を丸呑みにした。
心の中で風太郎に対して両手を合わせて味方をできずに申し訳ないと謝った。
「どうかしましたか?」
「いいえ?」
(いけない、動揺が顔に出ていたでしょうか)
こちらの誤魔化しを見抜いているか分からなかったが、一つマルオは息を吐いてから言った。
「急患の話に戻しますが、僕の処置が必要なところだけ済ました後は当直に引き継ぎました。ですから患者のご心配は不要です」
「そうでしたか」
「それよりも彼女は?」
言って、室内を見回すマルオ。
無論、まだ帰ってきていないので娘の姿はない。
「まだ帰ってきていません。少し寄り道をしているらしいです」
「そうですか」
そう言うと、また一つ息を吐いた。今度のは、さっきよりも少し落胆したような雰囲気があった。
そこで気が付いた。マルオの首筋が少し汗ばんでいることに。今まで冬の寒空の中にいたというのにである。
普段、マルオは移動に江端の運転する車を使用している。しかしそれが無い現在は、恐らく徒歩と電車で来たのだろう。
そして汗ばんでいるということはつまり、それほどに急いできてくれたということだろう。
「玄関で立ち話もなんですから、上がっていきませんか? 三玖ももうすぐ帰ってくるらしいです。あなたも顔を見て安心したいですよね?」
「……それでは。お邪魔します」
そう言って、靴を脱いだマルオが室内へと上がってきた。
『ただいま』とは言わないことに、若干ながら違和感を感じた。
一緒に暮らしていないのだからそれが普通であるが、そのやり取りが自分の思考を、彼とは本当に夫婦なのだろうかというところにまで伝播させる。
しかし零奈はそれを口には出さなかった。こうなっている原因は自分が意固地に別居を願い続けているせいであったからだ。
この不可解なやり取りこそ、零奈とマルオという夫婦の関係性の歪さを物語っていた。
室内に入ってきたマルオはリビングに腰かけた。
零奈は食器棚から未使用のコップを取り出すと、台所に置きっぱなしだった麦茶を注いだ。
先ほど空けたばかりの自分のコップにもおかわりを注ぐと、開けっ放しだった冷蔵庫に麦茶を戻し、扉を閉めた。
両手で二つのコップを持ったままリビングに向かい、コップを座卓の上に置いた。
「お構いなく」
「ただの麦茶ですよ」
自分も元居たノートパソコンの前の席に座り、パソコンは閉じた。
閉じると自動スリープになるよう設定しているため、元々そこまで五月蠅いわけでもなかったファンの駆動音が静かになった。
既に一杯の麦茶を飲んでいるため、特段喉が乾いているわけでもなかったが零奈は一口飲んだ。
すると、零奈に続くようにマルオがコップをあおった。一口で収まらず、二口、三口と喉を鳴らしているうちにあっという間に空になった。
やっぱりか、と思った。ここまで汗をかくほど歩いてきたのだから喉が乾いているだろうと睨んでいた。
それならばそうと言えばいいのに、こちらが口をつけるまで待つ辺り、なんというか──
(ここはビジネスの場じゃありませんし、私はあなたの接待相手ではありませんよ)
と、内心でだけ叱責した。
マルオとはずっと昔、マルオがまだ学生のことから教師と生徒という関係で面識があった。
当時からマルオは零奈に対して、もはや信仰心と評してもいいくらいに心酔しており、常にこちらを立てるように振る舞っていた。
その扱われ自体はされて気を悪くするものではなかったし、本人がしたくてやっているのだから止めはしなかった。
(ですが、私とあなたは今、夫婦なのですから……)
もう少しこちらをぞんざいに扱ってくれてもいいのが、というのがここ最近の贅沢な悩みであった。
「それだけじゃ足りませんでしたか。すみません、作り置きごと持ってきますね」
「でしたら僕が──」
「座っていてください。疲れているのでしょう」
返事を待たず先に立つと、宣言通り麦茶のピッチャーを持ってきた。
おかわりを注ぐと、マルオがぺこりと頭を下げた。
マルオはそれからもう一口だけ飲むと、そこでようやく一息付けたようだった。
(さて、何を話しましょうか)
零奈もマルオもそれほど口数が多い方ではない。
ただ、リラックスできるような状況でもないため、何か気を紛らわせることがほしかったし、かと言って世間話をする気分でもなかった。
そうして話す内容を考えているうちに、やはりどうしても付いて回るのは昨晩の出来事だった。
「その、昨日あったという事故ですが、あれが原因でまたあの子達の体に何か異変が起きたりはするのでしょうか?」
「分かりません。本人を見た訳でもないですし、僕の専門ではないので」
「そうですか……」
同じ事故ともなればどうしても過敏にならざるをえなかった。
もしまた娘達に影響が出たらと思うとそれだけで憂鬱になる。影響が何かというと、分かりやすい例なら新たな人格の登場などであった。
マルオの答えに肩を落とした零奈。
対してマルオは「ただ」と続けた。
「ストレスが原因の精神的な病気……例えば記憶喪失の場合、キッカケとなった出来事を追体験することで影響を受ける可能性はないわけではありません」
「そう、ですよね」
「僕がお話を聞いた限り、昨晩一花君は上杉君を助けたそうですね」
「はい」
「六年前の事故は、無堂先生を”自分のせいで失った”と、彼女が無意識のうちに思ってしまっている可能性もあります。その場合、昨日のことは彼女にとってむしろ成功体験として脳が処理をする可能性も考えられます」
「成功体験……」
「精神的な話なので必ずしもそうなるとはいえませんが、昨晩の出来事が、彼女の多重人格を改善させる方に働く可能性もあるでしょう」
瞬間、零奈には”一花以外の四人”の顔が思い浮かんだ。
「つまりそれって、あの子達が────」
話しかけている零奈の言葉を遮って、再び階段を上る音が聞こえた。
しかしその足音は大きく、走っているようだった。
そしてすぐさま玄関の扉が勢いよく開いた。
「お帰りなさい三玖。どうしたのですか、そんなに慌てて」
「…………!」
三玖は答えなかった。
何も言わず、靴を脱ぐと一直線に寝室へと飛び込み、部屋の扉を閉めた。
何事かと思うと同時、一言も話せなかったからというのも踏まえ、今の様子からして本当に三玖だっただろうかという疑念が零奈の中に浮かんだ。
だから零奈は席を立つと寝室へと歩み寄り、扉を開けた。
電気は消されており、娘は布団の中に飛び込んでいた。
その日、結局零奈は娘とは一言も話せなかった。
話は少し前に遡る。
「────さま。お嬢様。着きましたよ」
「ぁ……」
江端の呼びかけに対して応えたのは、風太郎の方だった。
想像以上に熟睡していたらしい。江端の声も途中から聞こえ始めていた。
目を開けると車は停車していた。どうやら眠る前に言っていた通り、三玖……というより中野達の家に着いたらしい。
「ああ、上杉様。お目覚めになりましたか。お手数をおかけしますが、お嬢様を起こしていただけないでしょうか」
「あ……はい。おい着いたぞ起き──」
まだ目覚め切っていないものの、ぼんやりとした意識のまま横を向いた。
そして同時に気が付いた。自分の肩に妙な重さを感じているのを。
顔を向けた先、目の前には彼女の頭頂部が見えた。
「…………!」
目が一気に覚めた。
いつの間にか自分の肩に頭が乗っていた。
寝る前は反対側の窓際に頭を垂れていたというのに、いつの間に。
そして更に気が付いた。
寄りかかりながら、彼女の手は後部座席の上に置かれていた自分の掌の上に重なっていることに。
視界に入っている運転席付近のデジタル時計に気が付いた。
まもなく、キャンプファイヤーが終わる時間だった。
『キャンプファイヤーが終わる頃にね、男女が手を繋いでると、そのカップルは結ばれるって言われてるらしいんだ』
先ほど三玖から聞いた話が脳裏をかすめた。
きっと、普段の風太郎だったらそんなことはしなかっただろう。
ただ、この時ばかりは寝耳に水の状況であったのが良くなかった。
この時のそれを、もしかしたら驚いた拍子の反射だったかもしれないと、後の風太郎は振り返っていた。
自然と、彼女の手を握ってしまっていた。
「ん……あれ……着いた?」
彼女の目がゆっくりと開かれた。
掌という人間の部位の中でも特に敏感な個所を握ってしまったせいだろう。
肩にもたげていた頭をゆっくりと上げ、窓の外を見て自宅に付いたことを彼女は確認した。
先ほど、風太郎が起きた時と同じ反応であった。
だから次の展開というのを風太郎は予測できたが、この間の出来事は数秒にも満たない間のことである。
風太郎がどうこうするより早く、彼女の顔がこちらを向いた。
正確には自身の手に感じる謎の感触に目を向けたというべきだろう。
ただ、すぐには反応しなかった。
重なった手を見て彼女は一瞬固まり、続けて前を見た。
おそらく時計を見たのだろう。
「────!」
彼女が腰を浮かせて跳ね上がった。
ゴンッ、という鈍い音がして、風太郎が握っていた方の手も振り払って両手で頭を抑えると、座席に再び着地した。
言葉にならない苦悶の声を唸らせながら悶えた。
「だ、大丈夫か?」
「…………?」
風太郎の呼びかけに彼女は上目遣いで答えた。
涙目だった。
それからはあっという間だった。
涙目のまま、車の扉を開けると外へと飛び出していった。
止める間もなかった。
嵐のように走り去っていき、風太郎が茫然としている間にアパートの階段を駆け上り、部屋へと飛び込んでしまった。
「あれ……今のって……」
そこで我に返った風太郎は気が付いた。
今の、誰が出てきていたのだろうかと。
結局、その答えは家に付いてもまだ、分からなかった。