林間学校から帰ってきた後、中野家の娘達(と言っても体は一つなのだが)は、念のために検査入院をすることとなった。
帰りの車内で実父の死亡事故の話を聞かされた風太郎が、一花が精神的ショックを起こした原因がそれと理解し、正直に打ち明けたためであった。
そうは言っても本人はピンピンしていたこともあって、あくまで数日様子を見るというだけなのだが。
彼女たちは入院が嫌いだった。というよりも病院が嫌いであった。
若いうちから病院が好きな子の方が少ないかもしれないが、彼女たちの場合は明確な理由があった。
「それじゃあ針指しますからねー。力抜いてくださいねー」
「ううぅ……はい……!」
その日の番は五月であった。
今は朝の血液採取である。これがめっぽう苦手だった。
入院しているベッドの上で備え付けの台の上に左腕を乗せており、二の腕の辺りをゴム紐で結ばれていた。
台を挟んで反対側には看護師が控えており、片手を五月の左手の関節の辺りを抑え、もう片方の手に採取用の針を持っていた。
注射が苦手な五月は目をギュッと閉じて針が刺さるのを待った。
待った。
待った。
困惑気な声で看護師。
「あの……」
「は、早くしてくださいぃ! 怖いのですから!」
「そんなに力まれたらできないです」
「……あ」
閉じていた目を開けると、いつの間にか目だけではなく手までギュっと握っていた。
刺すはずの腕の部分の血管が太く浮き出ていた。
再度、看護師に言われてようやく五月は力を抜いた。
五月が脱力したのを確認してから、看護師は持っていた針を刺そうとしたところで、いよいよ五月は覚悟を決めた。
チクリというするどく刺すような痛みが看護師が抑えている辺りの位置に走った。
「っ……!」
その痛みをじっと耐えた。
耐えたのだけれど──
「今日もダメね……」
次の瞬間、呟いたのは二乃であった。
ようやく今日の番が確定した。
入院となると、これが毎朝の日課となる。
入れ替わりの条件には二つある。
眠るなどして意識を手放すか、強いショックを受けるかだ。
ショックとは肉体的、精神的どちらの場合も含まれており、とにかく日常生活の中ではそうそう受けないだろう度合いの出来事があると入れ替わる。
注射などは病院や健康診断などで比較的よくある出来事だし、痛みの度合いとしても入れ替わるほどではなかった。
ただ、単純に怖いのであった。
入れ替わりの水準を100とし、足し算のようなもので痛み50、精神的ショック50などであっても合わせて100となれば入れ替わってしまう。
この入れ替わりの水準というものは人格ごとに個人差があり、とはいえそれほど大きな違いではないのだが、それでも他の人格では耐えられることでも自分は耐えられないということは稀にあった。
注射の場合も同様で、純粋に注射が苦手な二乃や五月などは入れ替わることが多かった。
逆に神経が図太い一花や、体は同じはずなのに何故か一人だけ肉体派な四葉などは耐えることもあった。それも絶対ではないのだが。
だから入院生活の間はこの毎朝の注射が原因で、それぞれの人格がその日の担当をする頻度もアンバランスになる。
これが彼女達が入院生活を嫌う理由であった。
二乃の呟きを聞いた看護師が針から目を離さないまま言う。
「入れ替わっちゃいました?」
「二乃です」
「じゃあそのまま力を抜いていてくださいねー」
「はい」
看護師は入れ替わりの確認だけを済ませた後は、淡々と業務に戻った。
入院先の病院関係者、少なくとも彼女たちの面倒を見る人たちは多重人格のことを知っていた。
入院時に体質のことなどは当然全て話しているが、それに加えてこの病院の院長が父、マルオというのも理由の一つだった。
採血が終わり、針が抜かれた。抜く時の痛みも二乃は嫌いなのだが、そこでまた入れ替わることはなかった。
「じゃあこの後、朝ごはん持ってきますからねー」
「はい。ありがとうございました」
看護師は後片付けをすると病室を出て行く。
こうして、ようやくここからが二乃達の入院生活の始まりだった。
同日、お昼ご飯を済ませてしばらくした頃だった。
病室の扉がノックされた。
「どうぞー」
「入るぞ」
「フー君!?」
扉が開けられると、立っていたのは風太郎だった。
学生服を着ていた。学校帰りに寄ってくれたのだろう。
風太郎は病室へと入ってくる。
「二乃か。具合はどうだ? 怪我してるとかじゃないから、あんまり心配はしてないけど……おい、聞いてるのか?」
「────」
話しながら背負っていたリュックサックも下ろしたところで、風太郎がこちらの様子に気が付いた。
二乃は完全に固まっていた。
まだ風太郎の顔を見ただけだというのに、その顔はりんごのように赤くなっていて口元など何か言葉を紡ごうとしては何も音を鳴らさずわなわなと震えたままだった。
そして次の瞬間には布団を被り丸くなった。
『おま、どうした!?』
わけがわからず狼狽する風太郎の声が布団の向こうからくぐもって聞こえる。
だが、とてもではないが顔を見せる気にはなれなかった。
何故ならば──
(なんであんたは平然としてるのよ!?)
二乃にとって今日は、風太郎に好きバレして初めて会った日であった。
少しだけ話を遡ると、林間学校二日目のことであった。暗がりに怯えた二乃が、恐怖心を紛らわせるためにした話の最中で風太郎が漏らした言葉、それが運が良いのか悪いのかクリティカルヒットした。
『個性に振り回されてるのなら、俺が助けてやる。二乃』
あの時のことを思い出すだけで心臓の鼓動はワンテンポ早くなる。
あの白い月明かりに照らされながらそう言ってのけた風太郎の姿は、まさしく少女の頃の二乃が思い描いていた憧れのようなもので、だからあの時の自分もまた童心に返ったとでも言うべきか、何もかもを忘れて素をさらけ出してしまった。
だから見られてしまったのであった。心から彼を見とれていた自分の姿を。
そして更には──
『二乃は気づいちゃったんじゃないかな。"気づかれちゃった"ことに』
自分と入れ替わりで出てきた一花によって答え合わせまでされてしまった。
こうなれば最早言い訳のしようもない。
自分の気持ちは完全に風太郎にバレてしまった。
(告白まだしてないのに……!)
これが不意打ちでなければ何だろうという気持ちだった。
正直、一花には『見えるように』呪詛の一つでも唱えてやろうかと思っていたが、今はそれどころではない。
とてもではないが顔を合わせられる気がしなかった。
これがまだ、勢いだろうが何だろうが自分から告白したのであれば話は違った。
現在の二乃の場合、風太郎と恋愛絡みで距離を詰めるのは様子見すべきだろうと明確な"作戦"を立てていたからこそ、逆に向き合う覚悟が固まっていなかったのであった。
『おい、顔を出せ。このままじゃ話もできないだろ』
「……何よ話って」
『いやだから、まずは布団から──』
「いや!」
最後の方などかなりぶっきらぼうな言い方になっていた。
(こっちは今あんたの声を聞くだけでも夏場のアイスみたいになりそうなんだから察しなさいよ!)
要するに蕩けそうということである。
風太郎には難しい要求であった。
むしろ風太郎の元来の性格からすればそれなりに子供っぽい一面もあったりなどして、こういう時どういう行動を取るかと言えば。
『このやろう……人がせっかく見舞いに来てやったってのに……! いいから顔くらい見せやがれ!』
「いやー!」
布団が上からはぎ取られようとした。
内側から布団を掴んで叫びながら抵抗する二乃。
基本的に静かな病院でそんな騒ぎを起こせば、当然次に起こる展開は決まっている。
『何やってるんですか!』
廊下から走ってくる音と共に、看護師の声が聞こえた。
『いや、俺はこいつと話をしようと──』
『病院内では静かにしてください! 第一、そちらの方は病人ですよ!?』
『病人っつったって、こいつは怪我とかしてるわけじゃ──』
『言い訳は聞きたくありません! これ以上騒ぐなら出て行ってもらいます!』
『ちょ、おい押さないでください!』
「あ……フー君!」
やり取りから風太郎が追い出されようとしていることを察した二乃が布団から顔を出した。
しかし、その時には時すでに遅く、病室内には人の姿など影も形もなくなり扉だけが空いていた。
扉の先の廊下では、ドタバタと走り去っていく音だけが響いていた。
「……行っちゃった」
嵐のようだった、と茫然としながら思った。
足音も聞こえなくなったころにはいつもの静かな病院内に戻っており、暖房は効いているはずなのにあけ放たれた扉がやけに肌寒さを感じた。
扉を閉めようと、二乃はベッドの上に手を付くと下半身を捻り、ベッドの外へと投げ出した。
脇にはスリッパが置かれていたから、それを履くと扉の近くまで向かい、閉じた。
再びベッドに戻り、横になる。
(もう少し話したかったな……)
そこでようやく、そんなことが頭に浮かんだ。
刺激の少ない入院生活である。純粋な人寂しさもあった。
その時、ベッド脇の小物置き場に置いていたスマホが震えた。
手を伸ばして取ると、画面を点けた。
風太郎からのメールだった。
『また今度来る』
内容はそれだけだった。
それだけだったのだが。
「……早く来なさいよ。ばか」
そう呟くと、メールの画面を開いたまま二乃はスマホを抱きしめた。
次の日の事であった。
その日の番は五月であった。
病室内にはたまたま様子を見に来てくれたマルオがおり、ベッドわきに椅子を置いて座っていた。
「あの、お父さん。ご相談があるのですが……」
「なんだい?」
「病院のご飯の量をもう少しだけ増やせませんか────」
「駄目だよ。献立は全部栄養バランスなんかも決められているからね」
「……ですよねー」
マルオを前に、五月はうな垂れた。
次の日の事であった。
その日の番は三玖であった。
病室内には零奈がお見舞いに来てくれていた。
「毎日来れなくてすみません。本当はずっとここにいたいくらいなのですが……」
「大丈夫だよ。お母さんが忙しいのは分かってるから」
「すみません」
いいと言っているのに、申し訳なさそうにうな垂れる零奈。
入院しているのはこちらだというのに、三玖は慌てて零奈を慰めた。
気を取り直した零奈は、来る時に脇に抱えてきて、今は床においておいたドラムバッグを開いた。
「入院に必要な着替えや小物を持ってきました。今週だけですが、他にも何か必要なものがあれば言ってください」
「ありがと」
バッグから出てきたのは着替えや歯磨きセット、後はタオル類であった。
一応タオルなどの日用品は日払いのレンタルがあるし、料金もマルオが院長だからというわけではないが、あまり気にする必要もないだろうに律儀に零奈は揃えていた。
その準備のしようからして、あまり病院の好意に甘えないようにしているような意思が見えた。
おそらくそれは零奈が五月のように真面目な人間だからというだけではなく、ここがマルオが院長をしている病院だからということもあるのだろう。
ふと、せっかくの機会だからと三玖は口を滑らせた。
「お母さんはどうしてお父さんに頼らないの?」
「それは……えっと……」
零奈は言葉を詰まらせた。
聞いてから、それが聞くべきではない質問だと気が付いた。
どう考えたって、前夫の仁之助を引きずっているとしか思えなかったからだ。
仁之助と零奈は死別しているのである。夫婦仲だって悪くなかったし、愛情を未だに持ち合わせていたところでなんら不思議はなかった。
むしろそこからよくマルオと結婚したものだと思ったりもするものなのだが、三玖の見える限りでは真っ当に愛を育んで二人は結ばれたように見えた。
マルオは未亡人となった零奈へ言い寄っているようには見えなかったし、むしろ献身的に支えているように見えた。
三玖の見立てではそのマルオの支援の裏で好意に見え隠れしつつも、マルオ本人が良識的に一線を引いて相対したという紳士的態度に零奈はほだされたように見えた。
だから他の人格、例えば一花はまだ仁之助のことを引きずっていたり、二乃は未だにマルオを新しい父だと受け入れられていない様子はあるものの、三玖からすれば仲良くすればいいじゃんと、少々我が親を相手ながら放任的な考えを持っていた。
むしろ、結婚までしたというのに零奈は頼り切りたくないと母子家庭時代のアパートにしがみついているし、マルオも不用意に干渉し過ぎないようにと適切な距離を保とうとしているように見えた。
(父親でしょ。全然適切じゃないじゃん。むしろ遠すぎるでしょ)
というのが三玖の感想であった。
実際この問題には三玖を始めとした他人格、まとめると零奈の娘である自分だって大いに生活環境に影響が出る話である。無関係ではないのだ。
マルオも含めて三人で暮らそうという話になり、引っ越しすることになればさぞ豪勢な家に住めるのだろうなという気はしていた。
幸いなのは、そんな未来の青写真を描きつつも物欲が薄い三玖は、だからといって零奈とマルオ二人の仲を進展させようという犬も食わないお節介をしようとは思わないことであった。
そう、父親と母親の話とは言え、夫婦仲の話なのである。所謂、子供が口を挟むことではないというものであることを理解していた。
後、付け加えるなら──
(親が自分のせいでイチャイチャしだすの、普通に複雑……)
という身も蓋もない考えもあった。
そんなわけで、零奈に対してマルオへの気持ちの話はご法度というか、自ら触れないようにしていたのに口を滑らせたものだから三玖は少しばかり焦った。
「ごめん。今のなし。気にしないで」
「……三玖」
自分の名前を呼んだ母の顔は、こちらの先ほどまでの考えは杞憂だと思わせられるほどに"母"の顔をしていた。
「あなたは、もっと良い暮らしをしたいということでしょうか?」
「それは……」
したくない、と答えたら嘘になる。
どう答えたらいいものか。
少し頭を悩ませてから、二人の問題ではなく、父と娘の話として答えたらどうだろうかと閃いた。
「お父さんとお母さんのことだから……でも、今のお父さんはちょっと、他人みたいかも」
「そう、ですよね。やっぱり、夫婦なのに別居なんて変ですよね」
「そういうわけじゃないんだけど……」
夫婦で別居している家庭なんていくらでもあるだろうが、そこに触れるとまたおかしな方向へ話が広がりそうだから三玖は言葉を止めた。
また言葉を探した。
要するに何か意見するにしても『娘の観点から見た現状の暮らし』で物申せればいいのである。
最近の生活を思い出して、一つ気が付いた。
「フータロー」
「え?」
「フータローが授業し辛そうにしてる」
「そうなんですか?」
嘘である。完全に口からでまかせであった。
ただ、こういう時の嘘を真実とするテクニックを知っていた。
ほんの少し、真実を混ぜればいいのである。
「壁が薄くて勉強に集中できないって」
「隣の毛利さんですね……あの人独身だから気が利かないのですよね……」
「うるさいんだって」
「ですが、風太郎君の家だって負けず劣らずのボロ屋じゃありませんでしたっけ?」
(結構失礼だねお母さん)
けれど先日、林間学校前にお邪魔した時に風太郎の家は見たので否定はできなかった。
「ああでも、あそこって一応集合住宅じゃないから隣の部屋とかないのですよね。だとしたら気になりますか」
勝手に納得してくれたらしい。
「……うーん……!」
零奈は手に顎を乗せて唸りながら考え始めた。
前々からマルオが提案してきている、一緒に住まないかという提案を今こそ受け入れるべきか考えてくれているようである。
正直、今の生活云々の話も零奈から出てきた話で、三玖はこの話を終わらせられればぶっちゃけどうでもよかったのだが────
「わかりました」
何がわかったんだろう。
「一度マルオさんと話してみます」
(意外と普通の解決策だった)
そうして、後日零奈は三人で住む新居の話をマルオへ持ち掛けたのだが、何しろ話の出所が悪かった。
一家庭教師の、しかも娘に近寄っている年頃の男子の要望を叶えるためにどうして引っ越しをしなければならないのかという至極当たり前の文句をマルオが言った後、とはいえ零奈の頼みである。惚れた弱みであった。
無下に断ることもできず、後日、一千万を超える物件の購入を掛けた五月と風太郎の赤点回避テスト勉強が始まるのは、また別の話であった。
次の日の事であった。
その日の番は四葉であった。
またまた、お見舞いが病室には来ていた。
ただ、四葉からすると何とも嬉しくない相手で────
「中野四葉さん、お具合は如何ですか? 学校でのことはわたくしが何とかしますので、どうかゆっくり体を休めてくださいね」
訪問相手は理事長だった。
肥満体のくせしてガチガチに身なりを整えて妙な清潔感を感じさせる男であった。
この人のことを四葉は顔も今まで知らないし、それに加えて態度があからさまに『中野マルオの娘』に対するものであったため、元来、人の好き嫌いといったえり好みはしないはずの四葉ですら相手をしてすぐに辟易気味であった。
「もし万が一、勉強で不安などあれば私の愚息が補助をいたしますので」
「よろしく、中野さん」
理事長の隣にはこれまた爽やかな好青年がいた。
この青年には見覚えがあった。
風太郎や自分とは違うクラスだが、存在感強いため嫌でも見たことがある。
「学校でも会ったことあるけど、武田祐輔です。以後お見知りおきを」
「あはは、どうもー」
こちらも立ち場というものを徹底しているのだろう。
学校でも彼、武田はそれほど違いないキャラで存在感を醸し出しているが、それにしても今日は度が過ぎていた。
父の理事長に看過されているのかしらないが、明らかに媚びを売ろうとしている気がして"香ばしかった"。
こういった政治的な話ならば一花が専門だろうし、自分は最も専門外だろうと内心で拒絶反応を示した。
出てくる番を選べないのはなんと不便なものかと、今一度四葉は自らの体質を呪った。
「中野院長からも話を聞いているよ。君は上杉君に勉強を教えてもらっているらしいね」
「上杉さんをご存じなんですか?」
「もちろん! 僕は彼に何度苦汁を舐めさせられたことか……! 彼がいなければ、今頃僕が学年一位だったというのに……!」
「祐輔!」
いつの間にか四葉との会話から独り言の恨み節へと変わっていることに気が付いた武田の父が、武田を窘めた。
それから我に返った武田も含めて、二人で頭を下げてきた。
「申し訳ありません、中野さん。お見苦しいところを……息子には言って聞かせますので」
「い、いえ、全然お気になさらず。それよりも武田君」
「なんだい?」
「今の話を聞いた限りだと、武田君も勉強できるんですか?」
先ほどこの少年は、風太郎にいつも負けているなることを口走っていた。
そして風太郎が万年学年一位の秀才であることも、四葉も承知している。
つまり、その風太郎と競い合っている相手という事は──
「ああ、そうだよ。上杉君には及ばないけど、僕は学年二位さ」
「やっぱり!」
「中野さん?」
「あの……よかったら、私に勉強を教えてもらえないでしょうか……!?」
「え? ……あ、ああ。もちろん」
四葉からの申し出に、一瞬武田は面食らった顔をした。
今しがた、その話をしていたのだから流れとしては自然なのかもしれないが、それにしても四葉が急に乗り気になって前のめりな物の言い方をしたからであった。
(これで勉強ができるようになったら、上杉さんが見直してくれるかも……!)
四葉にとって、風太郎から勉強を教えて貰うということには無論、特別な意味があった。
五年前、ともに勉強をして家族を楽にさせてあげるという約束をしたからだ。
だからその約束を元に利口になった風太郎に勉強を教えて貰うことは、元々勉強自体はそれほど好きではない四葉が、勉強の時間を楽しいと思わせるには十分な理由であった。
が、それはそれとしてである。四葉は同時に悔しくもあった。後ろめたくもあった。
風太郎が今なお、努力し、結果を出し続けているのに対して自分は落ちこぼれ候補の一人。
無論そこには多重人格といった自分ひとりの問題ではない要因も多分に含んでいたのだが、とにもかくにも得点が取れないのは四葉にとってそれなりに不満であった。
だから、日夜普通の学生と比べても勉強時間自体は大目に取っているはずの彼女達であったが、四葉はより一層、更に時間を欲した。
そしていつか、風太郎に顔向けできるくらいにテストの点が取れるようになった時、ずっと距離を取ったままだった風太郎との距離を、もう一度縮めてもいいかもしれないと、そう考える四葉であった。
次の日の事であった。
その日の番は一花であった。
元々、この入院は一花のことを心配してのことであった。
他の人格とは違い、かつての事故を実体験し、他人格を生み出してしまった一花のことを病院は最も心配して様子を見ていた。
何より、一花の出現は例の崖で起きた事故の後、初であった。
だから病院側も一層警戒を強めて様子を見守った。
朝の定例の血液採取も耐え、朝食も済ませて、時々看護師が病室へ顔を出した。
そして朝食後の一花はと言えば────
「zzzz」
寝ていた。
各人格の中でもっとも情緒不安定な存在、中野一花。
しかし、先日の事故からそれなりに日も経っている。
林間学校の事故の後に一花が出てくるのは初めてだったが、事故直後というわけでもない。
それまでの他人格達の生活だって裏で眺めていた。その間に一花の事故に対するショックだってかなり和らいでいた。
それに今日は、誰も見舞いに来ないことも方々からの連絡で知っていた。
だから一花は誰にも会わず、部屋に引きこもる日の休日よろしく、オフモードになっていた。
よもやだれも知らないだろう。中野一花という人間の元来の姿は惰眠を貪る、怠惰な人間であるということを。
「中野さーん、お昼ご飯ですよー」
「中野さーん、見回りでーす」
「中野さーん、夜ご飯ですよー」
この時、サイコロの出目は地味に奇跡を起こしていた。
何回降っても目は一しか出ないように、二度寝、三度寝ぐらいまでしても一花の番が続いていた。
だからその日、一花は夜になるまで────
「zzzz」
ずっと寝ていた。