林間学校が終わって最初の土曜日。
いつもならば中野家で授業をしているところであったが、その日は生憎彼女たちの入院生活が依然として続いており授業ができなかった。
話に聞いたところ、退院の予定日は明日らしい。
よって風太郎にとって久しぶりの予定が無い土曜であり、千載一遇のチャンスとばかりに自分の勉強の時間へと当てようと思っていた。
そんな矢先の数時間前、下田からの一通のメールを受信した。
『
風太郎君
お世話になってます。下田です。
今日は五月ちゃんたちも入院していて家庭教師はお休みかと存じます。
もうすぐ期末テストもあるので、一度相談する時間を貰えないでしょうか。
以上
』
メールを承諾する返信を送ってから数時間後の現在、上杉家の呼び鈴が鳴った。
「ちーっす、風太郎君来たぞー」
「……どうぞ」
「おじゃましまーす」
扉を開けた先で野性味を感じさせる笑みを浮かべながら立っていた下田が、風太郎の脇を通って家の中へと入ってきた。
その姿を横目に、風太郎は先ほどのメールでの言葉遣いとのギャップを感じていた。
(ちゃんとしようと思えばできるんだよな、この人)
風太郎と下田は以前から同じ生徒に勉強を教える家庭教師として、連絡を取ることは稀にあった。
その時から下田はメールではしっかり者、対面では破天荒な人というスタンスは一貫していたが、他では見ないその変わり身っぷりに風太郎は未だに慣れなかった。
風太郎とて今までにいくつものバイトをこなしてきている。
その経験の中で相対してきた社会人の中には、そういったコミュニケーションのフォーマットによって態度を変える人種も少なからずいたのだが、下田の場合は群を抜いていた。
ただ、それが悪いこととも思っていなかった。
下田のこの良い意味で公私を混同させる態度は、風太郎と下田という二人の関係において、風太郎側からも意見を出しやすくさせることに多大な貢献をしていた。
もしかしたら、これも下田なりの処世術でわざとやっているのかもしれない。
風太郎と下田の関係は先にも触れた通り、同じ生徒を相手にする家庭教師という立場の他にもう一つあった。
風太郎もまた下田から勉強を教わる生徒でもあった。
中野達と同級生である風太郎は授業をするために当然、事前の予習が必要となる。対して下田は本職が塾講師であるため、授業に必要な知識自体は仕事のノウハウの一つとして既に持っているものであった。
この二人の経験値の違いは、家庭教師という仕事を遂行するにあたって二人の間に大きな格差を生み出しており、必然的に風太郎の方が仕事として必要な工程が多くなっていた。
繰り返すようだが二人は同じ生徒に勉強を教えている。かといって仕事を取り合う競合相手というわけでもなかった。
むしろ下田(加えて零奈もだが)だけでは手に追えず、風太郎を助っ人として迎えたという協力関係なのであった。
そういった経緯もあり、それ故に下田の考えは自然な流れとして、風太郎にも勉強を教えた方が早いのではないだろうかという合理的判断に帰結した。
中野達に下田が授業をする時、可能であれば風太郎も同席する。ただ彼女達と勉強の足並みを揃えると逆に効率が悪くなるため、風太郎は基本自習し、彼女たちがテキストを進めたりなど下田が手すきになるタイミングには風太郎をフォローするといった体制が組まれていた。
挙句の果てには、週一度の授業では不定期で入れ替わる彼女達を満遍なく教えることは難しいだろうと、本来は下田が授業するはずだったコマを分けてもらい、代わりに授業した分は下田からも給料を分けてもらうという、家庭教師としても助けてもらっている始末であった。
今日、当日の急なアポイントメントの連絡に風太郎が応じたのも、そういった下田には日ごろからお世話になっている事情を無下にできないという心理も関係していた。
「んだよオメーもいんのかよ勇也」
「いて悪いかよ」
家の中に入ってきた下田は、風太郎の他に居間にいた勇也の存在に気が付いた。
勇也は居間の隅で仕事道具のカメラを磨いていた。
室内には現在、下田も含めた三人がおり、らいはの姿はなかった。夕飯の買い出し中であった。
「ああ悪いね。帰れよ」
「ここが俺の家なんだが!?」
「あの……でしたら場所を変えますか……?」
顔を合わせるなり本当に見えそうなほど視線で火花を散らせる勇也と下田に、風太郎らしからぬ青ざめた顔で間に立つ。
このまま視線だけで仕留める気だったのではと思うほど目つきを鋭くしていた下田であったが、風太郎へ顔を向けるなり、また元の笑顔に戻りひらひらと手を振った。
「ああ、気にしないでいいよ。こいつとはこれがいつもの挨拶みたいなもんだから──な!」
またも槍のように鋭い視線を飛ばす下田。
「そうだ──な!」
勇也も同様に応じる。
再び火花を散らしあう二人に、風太郎は胃がキリキリし始めるの感じた。
けれどそれもつかの間。
風太郎を除いた二人は揃って爆笑した。
「じゃあお邪魔するぜ」
「おう。もうすぐ飯だからよ。食ってくか? らいはのカレーは美味いぞ?」
「ばーか。ごく潰しになるつもりなんかねえよ」
「んなこと気にするな。お前に一食出したぐらいで痛む懐じゃねえよ」
「じゃあ馳走になるわ」
「おう」
話してる間も下田は勝手知ったる風に居間の端に置かれていた机を掴むと真ん中の辺りへ移動させた。
普段風太郎が自習に使っている机である。
風太郎はといえば一人、下田たちのやり取りに付いていけず目が点になっていた。
そういえば、勇也と下田が友人なのは聞かされていいたが直接会話するところを見るのは初めてだな、などと心の中でどこか冷静な自分がいた。
「あの……さっきまで喧嘩してたんじゃ……」
「だから挨拶みたいなもんだって。勇也も何か言ってれよ」
「こいつはこういう奴だから慣れとけ。風太郎」
「はぁ……」
生返事しかできない風太郎。
下田の人柄は知っているつもりだったが、まだまだ底が知れないと思った。
本当に喧嘩をしていたわけではないとわかったはずなのに、何故かさっきより胃が痛む気がした風太郎であった。
「────とまあ、こんな感じで進めようと思うわ。風太郎君から見て気になるとこってあるか?」
「いえ、大丈夫です」
「じゃあ決まりだな。次はテスト期間入ったらまた決起会も兼ねて、直前対策の相談をしようぜ」
「わかりました」
「候補日いくつか貰えるか?」
「えっと……」
風太郎は生徒手帳を胸ポケットから取り出した。
カレンダーのページを開いて予定を確認していると、下田が指を指してきた。
「うわ、生徒手帳のカレンダーまじで使ってる奴初めて見たわ」
「社会人だって手帳に予定ぐらい書くでしょ」
「そりゃそうだけどよ、風太郎君くらいの年頃ならアプリとか使うだろ」
「……俺の携帯、そういう機能ないんで」
「マジか」
風太郎の携帯は昔ながらのガラパゴス携帯であった。
最早シニア世代でも使っているのは希少な折りたたまないタイプのものだった。
思い出すようにしながら下田。
「そういや風太郎君とは連絡もメールなんだよな……あれ地味にメンドクサイんだよな……他の人とは全員LOINE*1とかだし」
「すみません……」
「別に謝ることじゃねえけどよ……おい勇也、スマホくらい買ってやれよ」
未だに居間の隅で仕事の続きをしてる勇也より早く、風太郎が横やりを入れる。
「うちにそんな余裕ないですよ」
「わーってるよ。言ってみただけだって……なんであたしが駄々こねてるガキみたいなことになってんだ?」
言いながら頭を掻く下田。
そこへ、仕事の手を止めた勇也が顔を上げて一言。
「いいぞ」
「「いいのかよ!?」」
風太郎と下田がハモった。
対して、なおもあっけらかんとした様子で勇也は風太郎に言う。
「だってお前が滅茶苦茶稼いでくれてるし」
風太郎の稼ぎは現在、相場の五倍の時給に加えて下田からも補助が出ている状況であった。
「でもうちには借金が……!」
「そりゃ余裕はねえけどよ……なんというか、お前には頑張ってもらってんのに何も返せてないってのも前から悪いとは思ってたしな」
「いや俺はいいって。そんなことするくらいなら返済の額をもっと上げれば──」
「風太郎君、これも経費だと考えようぜ?」
下田からの横やりに疑問気に風太郎。
「経費?」
「別に遊びのために買おうってわけじゃねえんだ。スマホ一台あれば連絡楽になるしスケジュール管理も簡単、他にも色々できることが増えるぞ」
「何か宣伝みたいですね」
「張り倒すぞ? マジメに聞け」
「すみません」
時々、口論になった時など五月達が暴力的な言い方で返してくることがあるが、出所が分かった気がした。
やっぱり下田の話し方は直した方がいいのではないだろうか。
「それと授業にだって役立つぜ。例えば嬢ちゃん達に質問された時、運悪く答えられない質問だったとする。その時スマホがあれば調べて即答できるってわけよ」
「それならあいつら自身で調べればいいじゃないですか」
「風太郎君のメンツの話をしてんだっての。『分からないから自分で調べて』とか言ったらダサいだろ」
「それは……確かに」
答えられない時点で多少ダサい気もしたが、自分が何でもかんでも答えられると思うほど風太郎は傲慢でもなかった。
風太郎の肩を下田が掴んだ。
「だからスマホを買うのは家庭教師に必要な経費だ。投資といってもいい」
「────」
「な、買っちまおうぜ_」
「わかり、ました」
半分納得がいったのかいってないのか、最早洗脳が少し入っているような面持ちで風太郎は頷いた。
そこからトントン拍子に、明日も勇也は時間が空いているからスマホを買いにでかけようなどと取り交わしがされた後、最後に下田は振り返った。
「それと風太郎君。さっきみたいな謳い文句でスマホと一緒に色々宣伝されても、絶対買っちゃ駄目だぞ」
「やっぱさっきの宣伝じゃないですか」
風太郎の下田への信頼が1下がった。
翌日。
病院から退院した一花は車の後部座席に座っていた。
運転しているのは零奈である。
入院生活の最中で一花達が使用した数日分の日用品を入れたドラムバッグが二つあり、それを持って徒歩で帰宅するのは少し厳しいものがあったため零奈が知り合いから借りた車であった。
特に何か思うところもなく、ぼんやりと車窓から外を眺めているとポケットに入れていたスマホが震えた。
「ごめんお母さん、ちょっと電話出るね」
「はい」
スマホを取り出し、画面を見る一花。一瞬、眉をしかめた後に通話ボタンを押した。
「もしもし? 何の用かなフータロー君」
『げ、一花か』
「残念だったね。何の用か知らないけど電話はまた今度にする?」
『構わん。すぐ終わる話だしな』
「……話って何かな?」
『LOINEのIDを教えてくれ』
「LOINE?」
風太郎は確かガラケーじゃなかっただろうかと思い返した一花であったが、察しはすぐに着いた。
「スマホ買ったんだ?」
『家庭教師の役に立つって下田さんに説得されてな』
「ふーん、お仕事のためか。じゃあ教えなくていいね」
『は!? なんでだよ!?』
「私は君に勉強を教わるつもりはないし」
『この前は少しはやろうとしてくれたろ!?』
「あれは気の迷いだよ。そういうわけだから──」
「一花」
早々に電話を切ろうとしたところで、零奈の声が挟まってきた。
運転席を見れば、零奈は普段しないから慣れない運転に神経を使っているのかそれ以上は何も言わず、ただ時々バックミラー越しにこちらのようすを伺っていた。
一花は知っていた。言葉数が少ないのはきっと運転に集中してるからだけじゃいのだろうと。先ほどこちらの名を呼んだのには咎める意味も含まれていたのだろうと。
分が悪いな、と判断した。
どうせ本気で拒絶したところで他の人格が教えるだろうし、ここで我を通せば後で零奈の鉄拳を食らいかねなかったからであった。
零奈は最近では珍しい愛のある体罰を許容するタイプの人間であった。
どう考えたって今のご時世問題になるはずなのに、零奈の横暴は大概が持ち前の美貌によって周囲も許していた。
若干、本人もそれを自覚している節があり、それ故に今なおその前時代的な教育方針を強行している。
ただ、零奈の年齢はアラフォーに差し掛かっていることもあり、性格自体が昔に比べて丸くなってきているのと、そろそろ許されなくなるだろうと本人も察しているらしく以前より頻度は減っていた。
それでも本気で怒った時は容赦なくげんこつが落ちてくるため、一花を始めとした娘達と元教え子達は軒並み零奈に対して本気で口応えはできないのであった。
『一花?』
「……分かった、分かりましたよ。教えればいいんでしょ?」
『急に言ってることが変わったな』
「何さ、やっぱり教えなくていいのかな?」
『すまん、余計なことを言った。頼む』
「じゃあ電話の後、メールで送るから」
『ああ』
「じゃあね」
『あ、ちょっと待て』
「なに?」
既に電話を切ろうと、スマホを耳から話していた一花は再び元の電話体勢へと戻った。
風太郎の方が何か話があるらしいから、こちらは待っているというのに一向に続く言葉は聞こえなかった。
「用が無いなら切りたいんだけど? 君にメールも送れないし」
『……その、この前の林間学校の時のことなんだが』
「……」
一花と風太郎の間であった林間学校の出来事など、肝試しぐらいしかなかった。
あれのせいで三日目は何もせず帰る羽目になったわけだし(風太郎を連れ戻したのは三玖だが)、恨み言の一言でも言うつもりだろうか。
『助けてくれて、ありがとな。俺はお前に命を救われたよ』
「────」
一瞬、息を飲んだ。
風太郎のその言葉は、文字通り感謝を伝える意味もあるのだろうが、別の意味もあると思ったからだった。
実際に風太郎が意識して言ったのかは分からない。ただ一花は、三玖が風太郎に実父の死亡事故の話をしたところを見ていた。
一花にとってトラウマになっているあの出来事を、繰り返さず、助けることができたのだと再認識させようと風太郎がしているのだと思った。
(なんで……今までずっと酷いことしかしてなかったのに、なんでそんなに優しいことを言うの?)
風太郎のことがわからなくなった。
同情されているのだろうか。
それとも誰かから礼を言うように言われただけ?
それともまさか、私のことが────
(そんなわけないよね)
最後の可能性だけは途中まで考え、否定した。どう考えたってあり得ないからだ。
そんなことが叶うようなことをしていないし、真反対のことばかりしてきた。
だから一花は、風太郎の言葉をいつも通りに正面から受け取らなかった。
「ふーん、そう思ってくれてるなら今度何か奢ってもらおうかな?」
『俺が金持ってないのは知ってるだろ……』
「じゃあお金のかからないことでもいいや。考えておくね」
『お前だって俺に助けられたじゃねえか』
「あー……」
そういえばそうだった。
風太郎が崖から落ちかけたのは、元を正せば自分が先に落ちかけたからであった。
状況が昔の事故と被るから当時のことばかり思い出していたけど、そういえばあの時助けてもらうためとはいえ一花は風太郎に手を────
(…………!)
あの時手を握られた感触は、必死だったから覚えていなかった。
だけど、知っていた。思い出せた。
林間学校からの帰りの車の中で、もう一度彼と手を重ねていたから。
あの時、表に出ていたのは自分ではなかったけれど、それでも手の感触だって共有しているのだから彼の手の暖かさは知っていた。
嫌ではなかった。
意外だった。
気になる人の手のぬくもりを知る。その経験を他の子に取られたというのに、いつも湧き出る嫌な気持ちよりも、彼との距離が縮まったような幸せな感覚が上回っていた。
だから本当に、意外だった。
『一花?』
「……え? あ、ああ! ごめん、ぼーっとしちゃってたや!」
『お前の不注意で危なかったって話をしてたってのに……ったく、いつもいけ好かねえ態度ばっかり取ってるけど、お前って意外とドジだよな』
「────」
以前に、一花から風太郎への気持ちはまだ、種子のようなものだと考えたことがあった。
これはまだ恋ではないと。しても幸せにはならないから、しないとそう決めていた。
(決めていたっていうのに……)
胸の中のセンサーは、警報を鳴らしっぱなしだった。
「も、もう電話切るね!?」
『は?』
「IDはすぐ送るから! じゃあね!」
『ちょ、まだ話のとちゅ──』
風太郎の話を最後まで聞かず、通話を切った。
通話の終了を告げる無機質のビープ音が鳴っている中、一つ深い息をした。
「一花、大丈夫ですか?」
「あ、お母さん……だ、大丈夫だよ!」
「そうですか。電話の途中から様子がおかしかったので……」
「電話に聞き耳立てないでよ! 子供はそういうの嫌がるの先生なら分かるでしょ!?」
「そうですけど……あなた風太郎君と仲良くできていないじゃないですか。勉強だって全然教えて貰えていないでしょう?」
「五月ちゃんが勉強できるようになれば卒業できるんだから別にいいじゃ──」
「怒りますよ?」
「……ごめんなさい」
しゅんとなる一花。
二人は滅多に口論などしないものだから、零奈もそれ以上は言及してこなかった。
会話が途切れた後、一花は約束の通り風太郎へメールで自分のIDを送った。
それからしばらくした後、スマホへLOINEの通知が来た。
通知をタップし。画面を開いた。
たったそれだけの文章だった。
普通だったらよろしくとか、もっとフレンドリーなことを第一声に書くだろうにと、一花は呆れた。
だけど同時に思った。
(フータロー君らしいなぁ)
何より、彼の初めてのチャットを貰ったのが自分だというのが、今はたかがその程度のことなのに嬉しかった。
ここで変に喜べば、内側にいる他の子達にたった今自覚したばかりの風太郎への気持ちを悟られてしまう。
だから一花はスマホの画面を閉じるとポケットにしまい、座席に頭をのせて瞳を閉じて、自分の頭の中にある想いだけに浸った。
同時刻。
携帯ショップから出たばかりの風太郎。
最寄りのファーストフード店にて。
「なんで返信こないんだ……やっぱり送れてないのか? ……でも既読って付いてるし……怒らせたのか……」
一花へ送ったはずのチャットから一向に返信が無く、買ったばかりのスマホを握りしめて画面とにらめっこをしていた。
対面の席に座っていた、風太郎の買い物に同行した勇也と下田は、
「青春だねぇ」
と、少年の苦悩を肴にフライドポテトを齧っていた。