スマートホンを購入して数日後、風太郎の持ち物であるはずのそれはすっかりらいはのおもちゃと化していた。
元々、風太郎は携帯をあまり多用しない。それを使って遊ぶくらいなら勉強をするし、彼に連絡を寄越す人間もいないからという些か憐憫の目を向けざるえない理由からだった。
そのため、風太郎にスマホは猫に小判、豚に真珠、宝の持ち腐れ以外の何物でもなかった。
風太郎本人もこれは無駄な買い物だったのではと終始感じており、使う時にはキャリアショップで血眼になって熟読した契約内容から決して外れないような使い方をするよう徹底していた。
具体的には電話は五分以内に留める。データ通信量は7GB/月以内に抑える。アプリストアでアプリは無料のもののみ購入する。etc.
ただスマホを持っている人ならばこれらの制限があってなおガラケーではできないような様々なことが可能となることは誰だってわかるだろう。せいぜい気を付けなければいけないのは動画や音楽など、ストリーミングサービスを利用し過ぎて月のデータ使用上限を超えてしまう、いわゆる"ギガが足りなくなる"ことぐらいだろうか。
そのため風太郎は現在進行形でスマホの利便性に気が付くチャンスを逃し続けているのだが、はなからスマホを嗜好品として利用する気はないためそれに気付くわけもなく、買って早々に部屋の隅でほこりを積み上げるだけの置物となっていた。
そしてそれが、らいはの目につくのも時間の問題だった。
らいはは風太郎などとは違って、普段は利口な子のように振舞い家計の節制に協力しているが、本当はまだまだ遊びに興味深々な少女であった。そのため風太郎とらいはが二人とも家にいる時には、らいはの手には常にスマホが持たれていたのだった。
「俺よりらいはに買った方がよかったんじゃないのか……?」
「ううん、私は今の方がいいかも。自分のものになっちゃうと使い過ぎちゃうかもだし」
「……そうか」
相変わらず、我が妹ながら良い子だと風太郎は内心で舌を巻いた。
その時、らいはの手にあるスマホが震えた。
「あ、お兄ちゃん電話だよ──―」
スマホの画面を見ながら話していたらいはが固まった。
届いたのが電話ではなく、チャットの通知であったからだった。
電話ならばアドレス登録をしている場合に限り、電話の掛け主の名前が表示されるだけである。しかし、チャットアプリの通知の場合は送り主の名前とセットでメッセージの行頭が表示される。
その内容をらいはは見てしまったのであった。
『三玖だよ。今日、一緒に出掛けない?』
リテラシーの高い子なので、普段なら電話相手を盗み見るような真似はしないのだが、こればかりは不可抗力だった。
スマホに慣れていないのだから、そういったチャットアプリの仕様など知らなかったのだ。
そして幾ららいはが聡明な子であっても、年頃の女の子なのである。兄の携帯から女の子のお誘いの連絡など来ようものなら────
「おおお、お兄ちゃん! 女の人から連絡きてる!」
それは一大事であった。
驚きのあまり四つん這いのまま手を伸ばしてスマホを渡そうとするらいは。
対して風太郎はそれを至って普通に受け取った。
「誰だ連絡って……三玖か」
チャット画面を開いた風太郎は、ややおぼつかない手つきで返事を入力し、送信した。
その間に隣にまで来て画面をのぞき込んでくるらいは。風太郎の返事を目にするなり眉を吊り上げた。
「お兄ちゃん! 女の人の誘いを断るなんて失礼だよ!」
「つっても、相手はあいつらだぞ?」
「あいつらって?」
「……? お前も会ったことがあるだろ。ほら確か、花火大会の時に」
「花火大会の日に会ったのは五月さんだよ?」
「あー……」
そういえば、らいはには三玖達の多重人格の話をしていなかったことを思い出した。
らいはが同席している場で彼女たちの話をしたことはあったものの、らいは自身が兄の仕事のことだからと深く掘り下げてきいてこないこともあって説明の機会を逃していた。
ちょうどいい機会だとばかりに、風太郎はらいはへ多重人格のことを説明した。
「つまり今連絡をくれた三玖さんって人も、五月さんも同じ人だってこと?」
「……まあ、少なくとも肉体的には」
「もしかして、この前のお夕飯の時に告白されたって話をしてくれたのも、五月さん達の一人?」
「ま、まあ……」
そういえばそれをらいはに話したこともあった。事実とはいえ、改めて家族から言われると恥ずかしいものがあった。
そんな思い出すように恥ずかしがっている風太郎に対して、途端にそれどころではないという風に言うらいは。
「じゃあなおさら断るなんてありえないよ!」
「しかし……」
「お兄ちゃん今日は三玖さんのお誘いを受けるまで帰ってくるの禁止! ここで断ったら授業させてくれなくなっちゃうよ!?」
それは困る。
風太郎自身、最初のころは同じことを心配して四葉を相手に気を回して疲れ果ててしまった時期もあった。
何だか同じことを繰り返している気がしたが、もうあの時のように家庭教師を辞めたいなどと考えなくなった今としては、今一度向き合わない問題かもしれなかった。
仕方なく、風太郎は三玖へと書きかけていた返信を消し、打ち直した。
入れ替わったな?
らいはの強引な後押しもあって、やむなく出かけることにした風太郎は駅前で三玖と待ち合わせをした。
先に到着したのは風太郎だった。
待ち合わせ場所の駅出入り口前は複合型の大型スーパーに面した幅広な歩道となっていた。スーパーの近くには手すりの壁がすり硝子になっている歩道橋が設置されており、スーパー二階への入り口、駅の出入り口、そして道路を超えた先の歩道の三点を繋いでいる。この道路を超えた先の歩道へと進むと、その先には風太郎達が通う学校があった。
風太郎が駅前の歩道橋を降りた先の辺りで待っていると、約束の時間の少し後に三玖が到着した。
「おせえぞ」
「ごめん、待った?」
「十分くらいな」
「…………」
「なんだよ?」
「そこは『今来たところ』って答える場所」
「はあ?」
何のことかと疑問気な風太郎。
三玖の求めていたやり取りというのは、最早説明もいらないだろうデートの待ち合わせで使われる常套句であり、古典に片足を入れているかもしれないものなのだが、風太郎は当然のように知らないのであった。
来て早々、落胆するように肩を落とす三玖。
「……もういい。行こっか」
「そういえばどこに行くか決めてなかったな」
「一応、行き場所は決めてある」
続けて三玖。今度は風太郎に聞こえないよう小声で──
「本当はフータローに決めてもらいたかったけど」
「何か言ったか?」
「別に、行こ」
そう言うと三玖は風太郎の前を歩くようにして進み始めた。
三玖に連れて行かれた先は水族館だった。
この水族館がある場所は観光名所としても栄えている場所ということもあり、他の水族館事情に詳しくない風太郎であったが中々大きい方だという認識のある場所だった。
特に海洋生物に力を入れており、この水族館に訪れる客の大半はペンギンやシャチ、ベルーガを目的にしている場合が大半であった。
ベルーガとはイルカのような見た目で頭部が大きく膨らんだ水棲の哺乳類のことである。
そんな施設の中で現在、風太郎と三玖の二人が来ているのは屋外のペンギン飼育施設であった。
「フータロー、ペンギンだよ」
「……そうだな」
「かわいいね」
「…………そうだな」
正直に言って、二人の会話はあまり盛り上がりというものを欠いていた。
元々風太郎は家で勉強したいという気持ちを押してここに来ている。加えて水族館という場所自体は非常に良いのだが、三玖の魂胆が風太郎ですら分かってしまっているせいであった。
『私に恋をさせて。フータロー』
三玖は風太郎のことを好きになろうとしている。そして逆もしかり、好きにさせようともしている。それが三玖の目的だと予想していた。
だからそのために慣れてもいないことをして、いかにもなデートスポットというこの場所を選んだのだろう。
そんな、デートスポットに男女二人で来ているというのに、どうにも言い知れない状況の噛み合わなさが純粋に水族館を楽しもうとする心を邪魔していた。
風太郎が悶々と現状確認をしている間も、あまり三玖らしくない言葉数の多さで彼女は話し続けていた。
「ペンギンって南極とかに住んでるんだよね。この子達はどうして芝生の上で飼われてるんだろ」
「看板に案内が書いてあるな。『ケープペンギン』って品種で、アフリカに住んでるらしいぞ」
「アフリカって、南国の?」
「だな。赤道の近くに生息しているらしい」
「暑くないのかな」
「さぁ……」
ペンギンの家をぐるりと囲むように張られたネット。その傍に立てられていた看板に目を通したが、理由までは書いていなかった。
「らいはなら知ってるかもしれないが……」
「らいはちゃんが? どうして?」
「あいつ好きなんだよ。ペンギン」
「そうなんだ」
それきりまた話が途切れてしまった。
三玖の顔を盗み見るが、いつも通りの無表情だった。
先ほどの通り、三玖にこちらを落とすという狙いがあるとするならば今頭の中では必死に話題を探しているかもしれない。
ただ、残念なことにそれを察知できても風太郎には助け船を出せるほどのコミュニケーション能力がそもそも備わってもいなければ、助け船を出してやる義理もなかった。
無いのだが────何だか空気がいたたまれない気がした。
(だったら……)
ならばせめて、と思考を切り替えた。
結果はどうあれ今はつまらない休日だったと思わなくて済むように。
お出かけが大失敗に終わってらいはに締め出しをくらわないように。
頭をフル回転させた。
この場における最善を探した。
そして高速回転させた末に、至った。
風太郎の頭脳はこの状況における"最適解"とも言える一つの話題を弾き出した──!!
「す、好きな動物ってなんだ?」
「え、急になに?」
三玖は半目だった。
「今の自然な流れだっただろ!?」
「あ、さっきのらいはちゃんがペンギン好きって話?」
(そうだよ!)
と風太郎は心の中でだけ叫び、肯定した。
話を掘り返されるとなお恥ずかしかった。
既に自分が話のネタの提供に"すべった"ことに、いくら風太郎であっても気づいていたからだった。
ここで口に出して肯定したら最早、惨めすぎてこのまま帰りかねなかった。
体感ではこの"解"を導き出すまでの所要時間は一秒にも満たないと感じていたのだが、三玖の反応を見る限り直前の会話が何だったか忘れるくらいには時間が経ってしまっているらしかった。
やはり自分にコミュニケーション能力はないのか、と痛感した。
風太郎は心の扉を静かに閉じた。
「もしかしてフータロー」
気が付いたように三玖。
「私に気を使ってくれた?」
「……ちげえよ」
前髪を弄りながら風太郎は答えた。
「────」
対して三玖、少し驚いた表情を浮かべた後に、
「そっか……でも残念」
「?」
「今のは良い人止まりかな」
小悪魔気味な笑みを笑みを零した
「こいつ……!」
本当に惚れさせるつもりがあるのかと疑いたくなるような態度に、風太郎は頬をひくつかせた。
ただ、その時見た三玖の顔は今日見てきた中では一番自然だと、そんな気がした。
水族館はまだ入ったばかりである。少しはこの後楽しめるかもしれないと、そう思った風太郎の耳に別の声が届いた。
甲高い女児の鳴き声だった。
「ん?」
「見てフータロー。あそこ」
当然、三玖にも聞こえてたようで二人して周囲を見渡すと、屋内への出入り口のところに声の主と思われる三つ編みの少女が立っていた。
風太郎より先に少女へと三玖は駆け寄った。
「お嬢ちゃん、大丈夫?」
「わあああぁぁん!」
「……どうしよう」
三玖の呼びかけに答えず、依然として泣き続ける少女。
風太郎が遅れて到着すると、三玖の隣でしゃがみ込み少女と同じ目線となった。
「なにするのフータ────フータロー!?」
「おい、こっち見ろ」
風太郎は少女に向かって、両手で両方の頬を抑えた。
ほんのわずかにだけ力も入っていたようで、ぺちっ、という音がした。
痛みはなかっただろうが、急な衝撃に少女は涙を引っ込めると、目の前の風太郎に初めて気が付いたような顔をした。
「……誰?」
「やっと落ち着いたな。安心しろ、お前を助けに来たんだよ」
「助け……」
助けにきた、などというフレーズを日常で使うことなどそう無いだろう。風太郎だってそうだった。それにもっとこの場において聞くべきことはあったと思う。
親とはぐれたのか?
名前は?
連絡先は知っているか?
しかし風太郎はそれらのことを全て後回しにして、ただ一言、目の前の恐らく4、5歳くらいの少女に対して最も端的に伝わるであろう言葉を使った。
それから少女が反応するまでジッと待つと、一度だけ涙をぬぐった少女が自分から話し出した。
「パパとはぐれたの」
「最後に一緒だったのはどこだ?」
「魚がいっぱいいるところ」
「ここ水族館だぞ……」
建物内全部、魚だらけである。
三玖へと振り返った。
「なあ、今ので何か心当たりあるか?」
「…………」
「おい、三玖?」
「あ……ごめん、えっと」
「しっかりしてくれ。二人は面倒みきれないぞ」
どうやらぼーっとしていたらしい三玖が少し慌てながらその場で考える素振りをすると、一つの思い当たったことがある顔した。
三玖も風太郎の隣にしゃがみ込むと、優しい口調で少女へと問いかける。
「お魚さんのところって、他に目立つものはなかった?」
「目立つものってなんだよ」
「フータロー、ちょっと静かに」
「…………」
「……光」
「え?」
「光が綺麗だった。水槽がおっきくて、小さな魚がその光の中を凄い速さで泳いでた」
「やっぱり」
「分かったのか?」
「多分」
そう言って三玖は少女の手を持ちながら立ち上がると、屋内へと入ろうとした。
風太郎にも振り返って一言。
「付いて来て」
少女を引き連れた三玖が向かった先は巨大アクアリウムだった。
壁一面に敷き詰められている湾曲ガラスは非常に巨大で、風太郎の見立てだが高さにして人間三人分、横も数十人は並べそうなほどの距離だった。
水槽前はホールとなっており、これまた大人数を収容できるスペースとなっていた。
まるで水槽を劇場のスクリーンのようにしたその場所だが、それに反してと言うべきか水槽内は簡素であった。
普通、水族館のアクアリウムは海の光景を模した岩や海藻などが設置されているものだが、そういった飾りがまるでない水中の空間だけがひたすらに広がっていた。
そしてそんな水中を少女の言葉通り、大量の魚、イワシが回遊し続けていた。
あまりの数の多さにイワシの群れはまるで白波のように見え、その白にインクを落とすように淡い色付きのライト所々で照らされていた。
「お父さんとはぐれちゃった場所ってここ?」
「うん」
少女は頷いた。
風太郎は目の前の水槽の光景に目が離せないまま言う。
「すげえな。確かにこれだけ凄い場所ならさっきの説明でもピンとくるな」
「ここの名物の一つ。今のままでも十分だけど、たまにイベント時間があって、室内が暗くなって演出がされるパフォーマンスの時間もあるんだ」
言いながら、ここへ来る途中で自由配布されていたパンフレットを取っていた三玖が、そのページを風太郎へと見えるように開いた。
三玖の言うパフォーマンスの時間はほんの少し前だった。
「なるほどな。その時にはぐれたってわけか。でかしたぞ三玖」
「ここへ来るって決めた時、少し調べたから……」
続けて三玖は少女を見た。
「パパはいる?」
「…………」
三玖に言われるまでもなく、周囲を見渡している少女。
しかし、二度、三度と往復して周囲を見渡した後でうな垂れた。
「いない」
「探しに行っちゃったのかな……」
「少し待ってみないか? もしかしたら戻ってくるかもしれないだろ。それに」
風太郎は天井を指さした。
指さした先にはスピーカーが備え付けられていた。
「ここなら迷子の呼び出しがあってもすぐに気づける」
「そうだね。お嬢ちゃんもそれでいい?」
「……いい」
再び少女は頷いた。
三玖の手を握る少女の力が少しだけ強まったように見えた。
本当ならやっぱり探しに行きたいのだろうが、我慢しているのだろう。
子供なのに強い子だと風太郎は思った。
それから少しの間、その場で水槽を鑑賞しながら待つと、スピーカーからホワイトノイズが走った。
これから何か放送される前触れだと思った風太郎は耳を傾けた。
『本日は、当水族館にお越しいただき、まことにありがとうございます』
女性の声のアナウンスだった。定例句の内容に、まだ呼び出しかは分からなかったため引き続き耳を傾ける。
『皆さま、当館自慢のマイワシのトルネードはご覧いただけたでしょうか?』
「……違うか」
どうやら普通の施設紹介らしい。期待しただけに溜息を漏らすと、それ以上は聞く必要もないだろうと意識を逸らした。
しかし。
(ん?)
音というのは聞こうとしなくても自然に入ってくるものである。
意識せず聞いているうちに、アナウンスの女性の声に一つの気づきを得た。
隣に立つ、三玖を見た。
「これ、お前の声か?」
「……そうだよ」
三玖は水槽を未だに見たまま答えた。
「というか、一花がやってるの。これも一花の仕事の一つ。今日は私のことを見て欲しかったのと、一花がどれだけ頑張ってるのか知ってもらいたくて、ここに連れて来たの」