いつものように昼食を済ました後、風太郎は自席で頭を抱えていた。
悩みの原因は昨日、あの後のことである。
二乃や五月に対して個々に勉強を教える必要があると知ったものの一人分のテストしか用意していなかったため、結局はその場で表に出ていた二乃がテストに取り掛かった。
結果は無残の20点。赤点候補とは聞いていたが、赤点以下の点数が出てくるとは思っていなかった。
五月も同程度の学力だと考えると、先が思いやられるにもほどがあった。
(やめようかな……この仕事……いかん、何を弱気になっている)
割と本気でよぎった考えだったが即座に頭を振って否定する。
辞めたところで次のバイトを探せばいいだけなのだが、今やっている家庭教師ほど割の良い仕事はないからである。
おそらく一昨日の五月との出会いからというもの、心労がかかり続けていてナイーブになっているのだろうと自己判断すると思考を打ち切り午後からの授業の準備に取り掛かった。
机の中から教科書を取り出そうとした時、カサッと紙の感触が指先から伝わってきた。
「ん?」
紙を裸で入れた覚えもない。何かと思いながら取り出すと二つ折りの初めて見るものであった。
何かと思いながら開き、目を通して見れば自分の字ではない文字で短く一文が書かれていた。
『放課後、屋上に来て。風太郎君にどうしても伝えたいことがあるの 中野』
「中野ってことは、あいつだよな……名前で書けよ。どっちかわからないだろうが」
書かれている文面に目を通した時、真っ先に思い浮かんだ単語は『ラブレター』であった。
しかし、その可能性は即座に否定された。
何の話をするのか知らないが例え放課後の屋上に行ったところで二乃か五月か、どちらが手紙を書いたか知らないが二人の自分に対する塩対応っぷりを考えれば告白されるなどという可能性は万に一つ、億に一つだってないだろう。
だがそうなると、同じクラスであるというのにわざわざ屋上へ呼び出す理由は何かという新たな疑問が浮かび上がる。
この手の場合、ラブレターの次に思い浮かぶものといえば──
(果たし状……?)
屋上で待ち受けているのが二乃であった場合、最悪屋上から突き落とされそうになるくらいは覚悟した方がいいかもしれない、などと考える風太郎であった。
昼休みが終わったころ、普通に教室から戻ってきた中野(風太郎から見て二乃か五月か分からないので)に対して、風太郎は五限が終わるなり席へと詰め寄った。
しかし中野は焦りながらもその場では『手紙に書いてある通りにしてください!』の一点張りで押し通し、結局風太郎はそれに従う形となった。
少しだけだが会話したものの、結局最後まで二乃と五月、どちらか判断がつかなかった。
(五月は同い年の俺に対しても敬語だったし二乃か……? だが二乃だったとしても雰囲気が違かったような……)
などと考えながら、手紙の通り放課後に屋上へ上がると中野が先に待っていた。
手すりによりかかりながら校庭を眺めていたが、扉の開閉の音でこちらへと振り返った。
「待ってたよ、風太郎君」
「悪い、先に確認させてくれ。お前は二乃と五月のどっちだ?」
風太郎が問いかけると、中野は答える前に残念そうに眉を下げた。
「どっちだと思う?」
「話し方だけで考えるなら二乃……だが、二乃とも少し違うような気がしている」
「……!」
風太郎の答えに再び答えず、しかし今度は嬉しそうに肩を跳ねあがらせた。
正解できたのだろうかと思うが、仮に二乃であったとしてここまで喜ぶものだろうかと風太郎は思った。
中野は風太郎には聞こえるか聞こえないかギリギリの小声で呟いた。
「……うん、今はその答えで十分。背中を押してくれてありがとう、お母さん」
「何か言ったか?」
「風太郎君。正解を教える前に私からもう一つ質問」
「なんだよ」
ここに来てようやく風太郎はもう一つの違和感に気が付いた。
これまで二乃と五月のどちらか、自分のことを『風太郎君』という呼び方をしただろうかと。
「五年前、京都での約束って覚えてる?」
「五年前の京都……いや、お前と俺は一昨日会ったばかり──」
そこまで言い、言葉に詰まった。
一つの可能性が思い浮かんだからである。
五年前の京都といえば、風太郎にとっては忘れもしない大切な約束をした記憶である。
だから聞かれた時にはすぐに思い出したし、しかしその記憶は”あの子”との約束であって中野との約束ではないと結論付けようとして、そもそもそれが間違いではないかと思ったのであった。
その様子に中野も心底嬉しそうにする。
「まさか、お前が……」
「よかった。覚えてるみたいだね。じゃあ正解発表だよ」
一歩、中野は風太郎に近づく。
「残念だけどどっちも外れ。風太郎君は私の中には二乃と五月しかいないと思ってるみたいだね」
「……おい、まさか」
「正解は風太郎君とっては第三の人格、四葉でした。改めて、京都以来だね。風太郎君」
「──」
その瞬間、風太郎の脳内には急激な負荷が襲い掛かった。
異なる二つの想定外によってどちらを優先して考えればいいのかと風太郎の脳内は混とんを極め、あまりの負荷の高さに最終的にはこれは夢だと結論づけようとしたのだったが、直前にしてその逃避は中野改め、四葉によって引き留められたのであった。
「風太郎君?」
「……! 悪い、色々衝撃過ぎてフリーズしてた」
「そうなんだ」
現実に引き戻された風太郎は改めて四葉を見る。
とはいえ、クラスメイトを混乱させないためか見た目はどの人格の時であっても五月の姿をしている。
だがそれでも先ほど四葉によって思い出された"記憶の彼女”と比べれば、似ているような気もした。
五年前の京都。それは風太郎にとって大きな人生の分水嶺であった。
小学校の修学旅行で京都へ赴いた風太郎は、当時の班員達とのいざこざから一人で行動することになってしまった。
その時、ちょっとしたトラブルによって警察の厄介になろうとしたところを"その少女"に救われた。
その子とはそれからしばらく京都観光の時間を共にし、別れの前には一つの約束もした。
『これから沢山勉強して、うーんと賢くなって、とびっきりお給料の貰える会社に入ってお母さんに楽させてあげる!』
『俺もめっちゃ勉強して、めっちゃ頭良くなって、めっちゃ金稼げるようになったら妹に不自由ない暮らしをさせてやれるかもしんねぇ』
『『頑張ろう二人で!』』
あの約束があったからこそ、今の風太郎がある。
このことを知るのは勇也と、当時勉強を教えてもらった竹林や真田くらいである。それ以外となれば、あの子本人しかありえない。
結局、名前を知ることも無かったあの子が京都で別れてから何をしていたのかは知らないが、どこかで元気にしているのだろうと思っていた。
だから四葉がそのことを言ってきたということは──
「お前が、あの時の、京都の……」
「だからそうだって。風太郎君ったら驚きすぎだよ」
「だ、だが二乃や五月はそんなこと一言も……お前ら記憶は引き継ぐんだろ?」
「それはきっとあの二人にとっては大したことがない記憶だからだよ。あの日に風太郎君と会ったのは私だよ」
「……!」
確かにそれも昨日言っていたと思い出した。
表に出てきていない人格は、まるで映像を見ているだけかのような感覚であると。
四葉もまた、二乃や五月が風太郎と話している様を見ていたということなのだろう。
そして四葉の番となった今、風太郎へと打ち明けたというわけだ。
一つ、風太郎は息を吐いた。
「なるほどな、こんな話は教室じゃできねえな」
四葉達が多重人格者であることは昨日、クラス内にも周知がされていた。
そのため物珍しさから四葉達の周りには常に興味を持ったクラスメイトや、噂が伝播した他クラスの生徒まで詰め寄り質問攻めするようになっていた。
今日も人だかりは引くことがない状態である。その中でクラスでも孤立している風太郎と親し気に話しているとなれば新たな燃料を注ぐことになるだろう。
(要するにこれ以上騒ぎを大きくしないためってことか)
わざわざ屋上に呼び出した理由にも納得できた。
四葉が約束の子であることは理解できた。これで先ほど風太郎をフリーズさせようとした理由の"一つ"は消化できた。
そのため風太郎は"もう一つ"の懸念へと思考を切り替える。二乃と五月に加え、四葉がいるということは──
「ごめん!」
「え?」
風太郎の思考は、四葉の急な謝罪によって遮られた。
「風太郎君が私との約束を守ってずっと頑張って勉強をしてたのは、二乃と五月の目を通して見てた! なのに、私は今でもこんなにおバカで……だから約束を守れなくてごめん!」
「お前……」
風太郎の前で深々と頭を下げる四葉を前に、風太郎は頭を掻いた。
風太郎からすれば、そもそも謝るようなことですらないと思っていたため、まさか謝罪の言葉が飛び出してくるなどと思いもよらなかったからだ。
四葉だけに限らず、二乃や五月、要するに多重人格である彼女達が勉学においてどれほどのハンデを持っているのかということは何となく想像できる。だから結果が実らなかったとしても仕方ないし、仮に真っ当に勉強するチャンスがあったとしても風太郎は責めはしなかっただろうだと自分で結論付けた。
「そんなこと気にすんな」
「風太郎君は気にしてないの?」
「まあ……昔のことより大切なのは今だろ」
「……うん……うん……!」
何気なく言った風太郎の言葉を四葉は噛み締めるように何度も頷いた。
よく見れば目に涙すら浮かべている。
そんなに何か四葉の琴線に触れるようなことを言っただろうかと、内心で風太郎は首を傾げた。
「やっぱり私、風太郎君のこと好きだ」
「………………は?」
「好きです。風太郎君」
「──」
一度目は聞き間違いかと思った。
だが二度目ともなれば、流石に勘違いとはいえまい。
ようやく状況を理解し始めた風太郎の脳に、新たな負荷がかかった。
何故、今そんな言葉が出てくる? 今そういう話をしてなかっただろ? いつから? いやそれよりも、こいつが"そうだったとしても"他の連中"はどうだろうか?
矢継ぎ早に次から次へと出てくる疑念に答えが出ないまま、風太郎の脳裏では今でも次から次へと疑念が生まれ続けていた。
「でも、付き合ってくださいとは言えない。この体は私だけのものじゃないから」
「……そうか」
恋愛経験の浅い風太郎にとっては告白されるイコール付き合うだと思っていた。
だから四葉の言葉は更なる予想外であったが、混乱しすぎている今はむしろ助かったと言えるものであった。
「だからせめて、家庭教師のお手伝いはさせていただきます!」
「どうやってだ?」
「昨日二乃が説明してくれたけど、私達って頭の中で考えていることまでは共有できないんだよね。だから私達、他の姉妹達に伝えたいことがあったらノートに書くように日記を書いているの。そこで、風太郎君は悪い人じゃないよーって書いてみるね」
「そんなんであのふた……お前の他の人格たちが納得するか?」
「すぐには無理かもしれないね。でも、私は精一杯お手伝いするよ!」
そう言って小さくガッツポーズをする四葉。
それから四葉は後ろに手を回し、少しだけ体を前に傾けてから風太郎の顔を下から覗き込むと「だから」と続けた。
「他の姉妹達にも風太郎君が悪い人じゃないって分かってもらえたらその時は、さっきの返事を頂戴」
「それって……!」
「言いたいことはそれだけ。じゃあね! 風太郎君!」
そう言うと、顔を赤らめた四葉は足早に屋上から去っていった。
それは風太郎へ四葉が告白をする日の朝のこと。
「おはようございます。四葉」
「お母さんおはよー」
「あなたの番になった時にお知らせしておこうと思ったのですが──」
「風太郎君のことだよね?」
「覚えていましたか」
「私、風太郎君には五年前の事は言わないでおこうと思うんだ」
「何故ですか?」
「がっかりされたくないの……風太郎君はずっと正しく努力して結果を出してきたのに、私はそうはなれなかったから」
「それだけですか?」
「え?」
「私も人生の選択を間違えた人間ですが、一度間違えたからといって全てがなかったことになるわけではありません」
「……」
「あなたが私のためにどれだけ頑張ってくれていたのか、私は知っています。風太郎君もきっと、話せば分かってくれると思います」
「話すって、何を」
「あなた自身のことをです。あなたが今どう思っているか、その全てを正直に話してくれればきっと風太郎君も受け入れてくれるはずです」
「そんな都合良くいくかな……」
「きっと大丈夫ですよ。だってあなたは凄く良い子ですから」