「解離性同一性障害は精神障害のため、これからご説明することは全て推測となります」
そう前置きをしてから話し始めたのは、マルオが務める総合病院の精神科担当医であった。
診察室の一室、丸椅子に座る医師の対面にはスーツ姿の零奈とマルオの二人だけの姿があった。
一花の姿はない。
本人の精神的な不安定さを考慮して、まずは保護者の二人が話を聞くということになっていた。
医師は、やや多汗気味な首元を拭いながら委縮して話を続ける。
「中野院長にご説明をするのは大変恐縮なのですが──」
「構わないよ。ここでは君が一番詳しい。気にせず話してくれたまえ」
「では……ご認識の再確認からいたします。お嬢さん──中野一花さんが障害を発症するキッカケとなったのは実のお父上の死亡事故でした」
話をしながら二人を見る医師に、間違いないというように零奈が頷いた。
「発症後、一花さん自身の人格形成には何の影響もありませんでしたが、新たに生まれた他人格達に対しては攻撃的な行動を取るようになったと聞き及んでいます」
「元は優しい子だったんです。他の子達への態度は、普通の一花なら考えられないものなのですが、それはあくまで正常の範囲内とのことでしたね?」
「はい。過去、別の事例でも似たようなことがあります。一花さんの精神的不安定さは、あくまで自身に降りかかった現象に対する正常な反応と推定されています」
医師は話を一度区切ると、テーブルの上に置いていた用紙を手に取った。
過去に一花を診察した時の記録を記載したカルテだった。
「一花さんの精神的不安定さは月日が経つごとに顕著になっていき、ピークと思われる時期は"現在の高校への転校前"でした」
「……はい」
零奈は当時のことを痛いほど覚えていた。
親と言えども無限の愛があるわけではない。
"当時"の一花は最も苛烈に周囲へ当たっており、親として、教師として最も彼女に接していた零奈は疲弊していた。
そしてかつての高校、黒薔薇女子での”出来事”によってとうとう転校することにまでなった。
これは未だに風太郎に話せていないことだが、当時は一花からの当たりを"分散"させることも一つの狙いだった。
本当に申し訳ないことをしたと思っているが、そのおかげで嬉しい誤算もあった。
「そしてその転校が、転換期だったと言えるでしょう。徐々にですが、あなた方ご両親から見ての一花さんは落ち着き始めているように見えていたそうですね」
「あくまでも客観的には……ですが」
転校後の一花しか知らない人間、例えば風太郎の場合などは、まさかあれでも大人しくなってきているとは夢にも思わないだろう。
そして、その落ち着き始めた原因もまた、おそらくは風太郎のおかげだということを知らないだろう。
五年前に四葉と一花は京都で風太郎と出会ったことがある。
風太郎との邂逅は他人格達にも多大な影響を与えていたが、直接対面した二人に関しては特に衝撃的なものだったらしい。
だから零奈もマルオも、風太郎には極力家庭教師を続けて、娘達と接する時間を増やしてほしいという願いがあった。
「徐々に障害に改善が見られてきた一花さんにとって決定的だったのが、かつての事故を再現したかのような、先日の事故未遂だったと思われます」
林間学校の肝試し中に起きた、一花と風太郎の救出劇のことである。
このことに関しては、零奈はマルオからも似たような話を聞かされていた。
かつて親を失う原因となった事故とまったく同じ状況にて、風太郎を助けることに成功したという体験。
それが一花の深く根付いていたトラウマの克服に繋がったのだろうと。
同様の説明を医師もして、聞いていた。
そして続く医師の話は要約すれば、今後は経過を観察して再発が無いかを見るといった内容だった。
その言い方はつまり。
(他の子達がまるで、本当にウイルスか何かみたいじゃないですか……!)
零奈は自然と膝の上で掌をギュッと握りしめていた。
けれど医師の言葉を遮ることはなく、最後まで聞いていた。
自分でも、自分の考えが正しいか分からなかったからだった。
(一花のためを思えば、このまま治した方がいいのでしょうが……ですが……!)
「以上が私からの診察結果となります。何かご質問や分からなかった点はございますか?」
「────っえ、あ……えっと」
「大丈夫だ。ありがとう」
気がつけば最後ら辺の話は聞き逃してしまっていたらしい。それほどまでに考え込んでしまっていただろうか。
零奈の代わりにマルオが返事をすると、それでその場は以上となった。
医師に見送られるような形で診察室から二人は出ると、そのままの足で駐車場にて江端が待っている車へと向かった。
車に到着し、後部座席に乗り込む零奈とマルオ。
診察室を出てから車が発進するまでの間、二人に会話はなかった。
けれど、車が道路へと出て本格的に走り始めたころになると、抑えきれなくなったかのように零奈がぽつりと言葉を漏らした。
「あの子達は、本当にいなくなってしまったのでしょうか……」
”いなくなった”という言葉を用いた後、自分自身の胸がきゅうっと締め付けられるような感覚を零奈は憶えた。
その感覚が、自分はやはりもう、とっくの昔に自分の娘は五人だと思っていることを証明していた。
初めの頃は一花と同じで戸惑うばかりだった。
自分の命よりも大切な子供が、まるで別人のような言動ばかりする光景は奇妙なものだと思った。
それでも最初は病気だからと、受け止めることから始めた。
一花以外の子達のことを娘だと思うことはできなくても、それが原因で娘を遠ざけるような態度を取ってしまわないように。一花をこれ以上傷つけることがないようにと、自分だって最愛の夫を亡くしたばかりで辛かったはずなのに無理して明るく務めて振舞った。
だけど、段々と救われているのはどちらなのかと思うようになっていた。
六年、それだけの時間は他の子達を娘だと思えるようになるには十分な時間であった。
「私は、本当のことを言うと……あの子達とまだ一緒にいたいのです」
「…………」
「一花以外の子達は、お腹を痛めて生んだわけではありません。接してきた時間だって、一花の三分の一程度です」
だけど。
「私はあの子達のことを知り過ぎてしまいました……! 二乃は作った料理を私が美味しいと言って食べるのを凄く喜んで、気づけば私よりも料理が上手になりました。三玖は一番優しい子で、いつも他の子達のことを気にしてくれていて、だけど本当は臆病だから何度も私に頼ってくれて、それが凄く愛おしかったです。四葉は誰よりも元気で、まるで男の子が私の子供だったらこんな風だったのかななんて、可能性を見せてくれました。五月はこんな私に憧れてくれて、私の真似なんかをするようになって、だけどあの子なりの成長を見せてくれる良い子で……みんな、みんな私の大切な子供なのです……!」
娘達の思い出を語る間、マルオは何も言わなかった。
ただ耳を傾けて、零奈も聞いているのが分かっているからこそ、今は全て吐き出してしまおうと言葉を続ける。
「こんな思いをするくらいなら、どうして私はあの子達を全員一人の人間として、五つ子として生んであげられなかったのでしょう……!」
最後は最早慟哭とも呼べる零奈の言葉を聞き届けた後、マルオも答えた。
彼は同じ医師として精神科医の説明を否定しないように、そして同時に零奈の不安を増長させないように慎重に言葉を選びながら、応えた。
「同じ医師として僕からも一つ言えることとして、彼はまだ、僕たちに治療方法を提示していません」
「……え?」
「先ほど彼が説明をしたのは、あくまでも現在の状況に至った経緯の憶測だけです」
「……それは、そうですが」
「解離性同一性障害の治療方法は、おおよその場合人格の統合を目指すのが一般的です。けれどこれは絶対ではありません。目指す先は他にもあります」
「どういうことでしょう?」
「これは普通の病気ではなく、精神的なものということです。精神疾患における共通の目的は『患者を社会復帰できるようにする』ことです。一花君の場合、他人格の存在が大きく彼女自身の精神を乱していたため、これまでは"統合"も視野に入れて治療を続けてきました。しかしこれが何らかの理由で逆転した場合。例えば一花君自身が他人格の存在を望んだり、統合によって社会的な不利益をもたらす場合には障害を"定着"させることもあり得ない手段ではないと、僕は考えます」
「つまり一花が望めば、またあの子達を戻すように病院はしてくれるということですか?」
零奈の問いかけにマルオは「必ずとは約束できませんが」と付け加えた上で頷いた。
話は理解できた。一瞬、再びあの子達に会えるかもしれないという淡い期待も胸のうちに沸いた。
しかし、それを実現するためには最も分かりやすい難関が待ち構えているために、零奈はすぐさま嘆息を漏らした。
マルオから視線を外し、俯いた。
「無理ですね。一花がそれを望む訳がありません」
「それはどうでしょう。僕は可能性があると思いますけどね」
再び、零奈は顔を上げた。
医師として、零奈以上に専門的な目線で一花を見ていたからこそ意外な発言であった。
その意外という感情は、純粋に疑問として口から出た。
「可能性があるとは?」
「零奈さんと同様、僕も一花君のことは六年間見てきました。僕から言わせればこれから彼女は、六年間のツケを払うことになるでしょう」
「ツケ…………ですか」
「ええ」
マルオは頷き、目線を少し上げた。
一花のことを思っているのだろうか。
その表情はいつものように無表情なだけだったが、少しだけ眉間にしわが寄っていた。
毎日自分で朝起きて、学校に通わなければいけないのを正直面倒くさいとは思うものの、ようやく手に入れた自由の日々には思わず軽快なステップを踏んでしまうほど一花の心は弾んでいた。
けれどそれは、最初の数日間だけであった。
一花の多重人格が解消されたことは学校にも共有されていた。
学校に入る時、一花の元には時々他の人格達が仲良くしていた生徒が伺いに来ることがあった。
彼女達も一花以外の人格を目的に、一花へ話しかけてしまっていることには十分配慮した聞き方をしてくれていた。
それに対して一花は、これまたかつての自分の障害の事後処理だと割り切って面倒ながらもいなしていたが、問題はそれからだった。
一花自身と仲良くしていた友達もまた、彼女を少々腫れもののように扱う節があった。
障害が完治したという言い方をすればこれほど良いことはないのだろうが、別の言い方をすればクラスメイトが四人消えたのである。
だというのに当人の一花はそれを何とも思っていないどころか、喜ぶような素振りさえ見せたことにクラス内の一花に対する認識は波紋を呼んだ。
元々、世渡りが得意な一花は自身の振る舞いが軽率だったということに即座に気が付いたものの時は既に遅く、いつの間にかクラスの中で孤立しているような空気が漂い始めていた。
続けての問題が授業であった。
単刀直入に言えば一花は障害を発症してからの六年間、一切の勉強をしていなかった。
前の学校含めてテストは全て五月が受けていたことも含めて、勉強はすべて他人格に押し付けていた。
一花はそれを、むしろ自分の体を勝手に使うのだからやってもらうべき彼女達の義務だとすら思っていた。
だから現在の一花の学力は中学生はおろか、小学生レベルであり高校二年生に向けての授業など意味不明な呪文以外の何物でもなかった。
勉強ができないならば、すればよい。
だから一花は切羽詰まるように勉強を取り掛かったが、当たり前のように自力での学力向上は困難を極めた。
幸い、零奈や下田は協力してくれたのだが、後もう一人の先生に対してが非常に気まずかった。
「あ……フータロー君」
「……なんだよ」
学校の廊下でのこと。反対側から歩いて来た彼を思わず呼び止めてしまった。
話をするのは久しぶりだった。
風太郎は現在、家庭教師を休んでいた。
と、いうのも経緯を話せば複雑になるのだが、一花が風太郎から教わることを強く拒絶していたこと自体は周知のことであった。
だから誰から言い出したというわけでもないが、自然と風太郎が家庭教師に来る必要はないという空気になり、どういうわけかマルオも風太郎の休職を承諾した。
風太郎が新たにバイトを始めた様子はないが、お金周りのことがどうなっているかまでは一花は知らなかった。
本音を言えば一花は風太郎にだって”今は”勉強を教えてほしかった。
だけど、どういうわけか。
「用が無いなら行くぞ」
「……あ」
風太郎の一花への態度はこれ以上ないほど冷淡なものになっていた。
いや、どういうわけもないのだろう。
(当たり前……だよね……)
これまで自分が風太郎にしてきた散々の仕打ちを思えば、風太郎が自分を嫌っているだろうということは誰もが想像できた。
むしろそうなるように、自分でしたことなのだ。
だからこれは当然の結果なのである。
結局、風太郎ともそれっきりで、学校にも居心地の悪さを感じたまま家へ帰ってきてしまった。
投げ捨てるように鞄を置くと、寝室の座卓の前に座り、両手で顔を覆った。
「こんなはずじゃなかったのに……」
ずっと一人に戻ることを願っていた。
自分は悲劇のヒロインだと信じて、周りの全てを憎んで、拒絶した。
だけどその願いが叶ってしまった今、結果はどうだろうか。中野一花という自分には一体、何が残っているだろうか。
かろうじて誇れるのはタレントとしての中野一花だろうか。しかしそれすら今となっては自分の存在を知らしめるためだけにしていたことであって、本当の自分を知る人間など誰もいない空虚な虚像のような気がしてならなかった。
ここまで勉強で落ちこぼれてしまえば将来など期待できない。
事務所の仕事にだって一人に戻ってしまった今、活動を続ける意味を見出せない。
好きな人と一緒になることすら、望めない。
「風太郎君……」
いつもとは違う、五年前の呼び方をした。
あの時からずっと自分の心の中に住んで、今でも一花の心を温かくしてくれる存在。
だけど四葉に先を越されて、二乃にも越されて、それが嫌で嫌で堪らなくて今に至った。
自分のせいでこんなことになった。
また、自分のせいだ。
「もうやだぁ……!」
零れた声は気づけば涙声になっていた。
顔を覆っている手のひらは涙でぐっしょりしていた。
だけどそれを拭う余裕すらなくて、後はひたすら嗚咽を漏らしているうちに、次第に疲れてきた一花は机の上に突っ伏すようにして眠った。
久しぶりに一花と会話をした日、風太郎は近所のファミレスから自宅へと向かって歩いていた。
下田との打ち合わせの帰りである。
一花一人になったこともあり家庭教師の難易度は各段に下がったため、本職である下田が専任となるようにマルオとは話がついていた。
だというのに、どういうわけか風太郎は完全に家庭教師の仕事からさよならというわけでもなく、マルオからの申し出によって下田のサポートをするように申し付けられていた。
給料も相場の五倍という今まで通りでいいとの条件でである。
この話には流石に遠慮しようと思った風太郎であったが、マルオ曰くまた近いうちに風太郎の力が必要になるかもしれないとのことで引き留められてしまった。
だから風太郎は一花と顔を合わせても喧嘩になるのは火を見るより明らかであるため、彼女がいない場所で下田の仕事の手伝いをしているのであった。
現在歩いている場所は公園だった。
中央に巨大な池があるその公園の、池沿いの遊歩道を歩いていると反対側から歩いてくる影が見えた。
気にせず通り過ぎようと思ったが、近づくにつれてそれが見知った顔であることに気が付いた。
「こんばんわ、フータロー君」
「一花……?」
風太郎に対して軽く手を挙げる一花。
「こんな時間に奇遇だね。新しい仕事でも始めたの?」
「お前には関係ないだろ」
「……そうだよね。ねえ、少し歩かない?」
「俺は帰る途中だ。お前が来た方向とは反対方向だが、それでいいなら勝手にしろ」
「じゃあそうするよ」
歩みを止めずに歩く風太郎の横に並んで立つと、一花は方向転換をして風太郎の斜め少し後ろを歩いた。
歩きながら一花は、努めて明るい口調で話をする。
「ずいぶんと冷たいね」
「自業自得だろ」
「そうだね。でも、もう少し優しくしてくれてもいいんじゃないかな?」
「だったらそうしてもらえるように日ごろの行いを改善しろ」
「一人になっちゃったし……真面目に勉強するかなぁ」
「そいつは殊勝なこった」
「ねえ、だったらさフータロー君。私に勉強を教えて────」
「おい、さっきから何のつもりだ?」
風太郎は足を止めた。
振り返り、一花を見た。
少し、驚くような、焦るような顔をする一花。
「な、何かな?」
「いつまで一花のフリをしてるつもりだ、お前」
「────」
一花は……彼女は目を見開いた。
「なんで……」
対して風太郎は一切の顔色を変えずに話す。
「こっちはお前が消えたと思ってお前のお袋さんも親父さんも、全員大騒ぎなんだぞ。こんな悪ふざけしてる場合じゃないだろ」
「待って待って! フータロー君ったら変なこと言うじゃん! せっかく私一人に戻ったって言うのにそんなこと言うなんてひどいよ! そんなに言うなら私が誰か当ててごらん!?」
「当てるも何も、お前は────」
「ただし、適当に名前言ったってダメだからね!」
「……林間学校の帰り、お前とは家の前で手を、握っちまってたな」
「…………!! うそ……」
「あの時はすぐに気が付けなかったが、考えているうちに分かったよ」
あの日、帰りの車内で眠りから覚めた彼女は一言も話さなかったし、彼のことを呼ばなかった。
それはつまり、仕草だけで誰かを見分けたことになる。
そこまで彼女のことを理解できているとなれば、いよいよ自分は────
「そこまでバレてるなら……仕方ないね」
「喋り方、いつも通りにしないのか?」
「だって、戻したら寂しくなっちゃうでしょ? 君が」
「……うるせえ」
おもむろに前髪に触れ、弄りながら呟く風太郎に彼女はクスッ、と笑みを漏らすと脇へとそれ、池沿いの木製の手すりに手を付いた。
空を見ながら彼女は言う。
「先に教えてあげるね。私達、ほんとうに結構ヤバいかもしれないの」
「急になんだよ」
「記憶ないんだ。ここ最近一花が活動してた時の記憶」
「裏で見てもいなかったってことか……?」
「うん。きっと今も一花も含めて誰も見えてないかもね。こんなこと初めてだよ。私達が生まれる前の記憶だって一花からもらってたんだもん。さっき目を覚まして時計を見たら何日も日付が飛んでてびっくりしたや」
「だったらこんなことしてないで急いで病院に行けよ!」
声を荒げる風太郎を、彼女は飄々として受け流した。
「行ったところで変わらないよ。多分だけど」
「そんなの分からないだろ!」
「分かるよ。自分のことだもん……それに、覚悟もできてた」
「覚悟って……」
「この感覚は流石に君にはわからないだろうし、説明できる気もしないや。私達一花から生まれた存在はずっと、泡みたいな感じなの。いつかパチンと弾けて何も残らなくなっちゃうかもしれない感じ」
「…………!」
「怖くないわけじゃないよ。でもそういうもんだって、何となく理解してるの。きっと他の子達もみんなそうだと思う」
聞いた訳じゃないからわからないけどね、と彼女はこちらに振り向いて言ってからペロリと舌を出した。
その意図的におどけている様子は、まるで風太郎を不安にさせないようにしているようだった。
「だからもし私達が本当に消えちゃったら、君には一花をお願いしたいの」
そう言って一度言葉を切ると、彼女は風太郎へ頭を下げた。
「一花を助けてあげて……多分あの子、今一人になったら何もできない」
まるで本当は見ていたのではないかと疑いたくなるほど、彼女の言い分は当たっていた。
彼女は顔を上げて言う。
「勉強を教えてあげて。友達になってあげて。きっと君が言えば、一花は喜ぶから」
「そんなの、分からねえだろ……」
「分かるよ! だって一花も私なんだから!」
「……!」
正直に言えば、風太郎には理解できない理屈だった。
一花が一人になった後も、風太郎を小ばかにするあの態度は変わらなかった。
だから純粋に風太郎が歩み寄ろうとした未来を想像しても、そこから話がうまく転がるような想像はできなかった。
それに目の前にいるこいつらも、互いの考えはわからないと言っていた。
だから「分かる」と言い切ったそれは結局、こいつ自身の思い込み以外の何物でもないのだと思う。
だというのに、ああ、これだから『こういう感情』を持ってしまうと困るのだ。
何の根拠も無いのに、彼女の言葉だから信じたくなってしまうのだ。
「分かった」
「よかった! ……これで心配ないや。それじゃあ私は────」
「待て!」
ぱぁっ、と顔を輝かせた彼女に対して、対照的に意を決したように風太郎。
その場を早々に立ち去ろうとした彼女の手を掴んだ。
風太郎の様子に彼女は疑問気に首をかしげる。
「どうしたの?」
「ただし、一つだけ約束しろ」
「約束?」
「消えるな、絶対に」
そう言い切った風太郎の言葉にだろうか、それとも瞳に宿る感情にだろうか、気が付いた彼女は息を飲んだ。
強く言い切るその言葉とは裏腹に、この手を放せばもう二度と会えなくなるのではないかという不安に襲われて懇願するようになっているこの想いに。
だから本当は話を終わらせたくなくて、彼女の手を強く握っていた。
彼女は答えた。空を見上げて。
「難しいこというなぁ、私自身にだってどうしようもないって言うのに」
「頼む……!」
「……どうしたらいいか分からないけど、一応頑張ってみるね。私だって消えたいわけじゃないし」
だから、と彼女は続けた。
「君が一花を認められるようになったら、その時にまた来るね」
そう言うと彼女は最後に一度だけ微笑んでから、風太郎の手をするりと抜けると歩き去っていった。