彼女から一花を託された次の日。
昼休みの最中の屋上へと風太郎は向かっていた。
旭高校は最近の学校では珍しく、屋上の出入りが自由な学校だった。加えて屋上の際の部分にある堀は胸の高さまでしかなく、やろうと思えば簡単に身を乗り出せてしまう。事故が起きる前にいずれ出入り禁止になるだろう。
そういったリスクがあるため、あまり好き好んでこの場所に立ち入る生徒はおらず、風太郎にとっては好都合だった。
懐からスマートホンを取り出した。まだ若干おぼつかない手つきだが、アドレス帳を開くと一人の名前の表示をタップする。
コール音が鳴り始め、スマートホンを耳へと当てた。
屋上には職員室から伸びている空調の室外機なども置かれている。明日からは12月に入るこの時期ともなれば暖房も稼働し始めており、排気のプロペラ音が少し煩わしかった。
数コールが鳴った後、音は途切れた。数拍の間を置いてから男性の声が聞こえた。
『中野です』
「お世話になってます、上杉です」
『君か。この前は連絡先を交換していなかったと思うが、この番号をどこで?』
「下田さんから教わりました」
『そうかい。彼女とも仕事仲間として上手くやっているようで何よりだ。上杉とは大違いだよ────ああ、君のことじゃなくてね』
「……どうも」
『それで、僕に何の用だい?』
電話の相手はマルオであった。
風太郎はこの電話をするために、昼休みになるまでの時間を使って下田へチャットでマルオへ連絡先を聞いていた。
つまるところ、それまでは雇用主のはずの相手なのだが知らなかったわけである。
本人も言っていた通り連絡先の交換などしていないので向こうの画面には未登録の番号だけが表示されたのだろう。電話に出た時の声と名乗ってからの声では大分声の固さが違っていた。
電話の相手が風太郎だと分かるなり軟化した声に切り替わったマルオであったが、風太郎側は依然として強張ったままの声だった。
何故ならば彼と話すのは対面を含めてもこれが二度目とまだ慣れないことに加えて、これから自分は無茶なお願いをしようとしているからだった。
「勝手ですがお願いがありまして」
『なんだい?』
「あいつの、一花の家庭教師を復帰させてもらいたいんです」
風太郎の申し出の後、マルオからの回答には少し間があった。
『一花君と君の仲は険悪だったと聞いていたが、どういう風の吹き回しかな?』
やはり「じゃあどうぞ」などと即答でOKはもらえないかと背筋を伸ばした。
この場で言うつもりはないが、風太郎がこうして提案をしているのは正直に言えば、昨晩彼女から頼まれたからである。本心から一花のためだとは思っていない。
対してマルオがどう思っているかはわからない。分からないが娘が障害から回復したのだから、それはもしかしたら喜ばしいことなのかもしれない。
(だとしたら、かなりムカつくがな……)
「都合の良い話ですが、考えが変わりました」
『それでは答えにならないね。君を下田のサポートへ回して一花君と顔を合わせる機会を減らしたのは、彼女への悪影響を避けるためだったと、他でもない君自身と話して決めたことだと記憶しているが?』
「確かに俺もそうした方が良いと思いました。でも今は違います」
『というと?』
「俺なら、"あいつ"の手助けになってやれると思うんです」
何故そう思うのか、とは聞かれたくなかった。
”勉強を教えてあげて。友達になってあげて。きっと君が言えば、一花は喜ぶから”
所詮、今の自分は彼女に言われたその言葉を信じた、ただのエゴイストであるからだった。
そう願ってマルオの返事を待つと、電話越しだから表情は分からないが声は変わらず、淡々とした口調が返ってきた。
『それは"一花君の手助け"という意味かな?』
(鋭い……)
親としての嗅覚だろうか。それとも風太郎自身の浅さを看破されたのだろうか。
触れて欲しくない部分を掠ったものの、それでも今聞かれたことにであれば答えられそうだった。
自分がこうして行動に起こしている起爆剤となったのは紛れもなく彼女との約束だが、それ以前にこのまま家庭教師を終えること自体に思うところもあったからだ。それは────
「そうです。それに始めたからには最後まで責任をもって送り出してやりたいんです」
『責任か。妙な言い回しをするね』
「い、いえ! 今のはただの言葉の綾であって決してそういう意味では……!」
『冗談だよ』
(淡々と言われると冗談に聞こえないんだが……)
『何か言ったかい?』
「いえ何も!」
(鋭い……!)
「とにかく! 俺は相手が一花だけになったからって途中で投げ出すようなことはしたくないんです!」
『……そうかい』
一拍、間をおいてから吐息交じりに応えたマルオの声に、風太郎の脳裏には自然とわずかながら笑みを零すマルオの顔が浮かんだ。
そして、つかの間。
『ではよろしく頼むよ』
「……えっ?」
『どうしたんだい? 他にも話があるのかい?』
「いえ、そういうわけじゃないんですが……もっと色々言われるものかと思ってましたので……」
『すまないね。正直言うと君の提案を断るつもりは初めからあまりなくてね、少々確認をさせてもらっただけさ』
「俺を?」
『君が本当に一花君へ悪影響を与えると僕が判断したなら、一花君以外の娘達が姿を見せなくなった時点で君との契約は終わりにしていたよ』
「…………!」
『そうしなかったのは、君にはいずれ家庭教師に復帰してもらうつもりだったからだよ。といっても、僕の見立てではもう少し先になるかと思っていたがね』
風太郎からすれば自分で言い出しているものの先行きなど不透明だし、一花の学力だけで考えるならば絶望的なのだが、マルオには何が見えているのだろうかと思った。
『いずれにせよ、一花君が深刻な状況であることには変わりはない。君が僕の払っている高い給料だけを目的で仕事にしがみつこうとしていないか、それを確認する義務が親であり雇用主である僕にはあったんだよ』
「……そこまで明け透けに話してくれるってことは、俺は合格ですか?」
『どうだろうね。君のこれからの成果次第だろう』
「…………」
『上杉君』
「何でしょう」
『僕は同じ失敗を二度はしない。だから君にはきちんと説明するよ。現在の一花君は他人格が姿を見せなくなっているが、担当医はまだ障害が完治したという判断には至っていない』
「────」
どういうつもりで話しているのか意図は汲めなかったが、その話は風太郎にとっては光明であった。
『加えて一花君本人の状態は、これまでとは違った形で不安定になっている。その彼女の家庭教師をするということは、君にはただの家庭教師だけではなく、それ以上のことを求められることになる』
君に、と続けて言った後マルオは言葉を切った。数舜の後、一段トーンの落ちた声で────
『その覚悟はできているかい?』
その問いに対して、風太郎は即答した。
「あります。あいつには俺が必要のはずです」
『……よろしい。では改めて期待しているよ。上杉君』
電話を終えた後、教室へと戻る途中の廊下でのことだった。
「上杉君」
「ん?」
男子の声に呼びかけられた。
振り返った先には学生だというのにネクタイを締め、見るからに材質の良さそうなベストを着た妙に眩しい優男が立っていた。
知らない顔だった。
「君の教室に行こうと思っていたんだ。これを渡そうと思ってね」
「……?」
男子が近寄ってくると、一冊のノートを渡された。
何かと表紙を見れば、そこには”中野四葉”の名前が書かれていた。
「四葉のか? ……悪いがあいつは今────」
「知っているよ。出てこなくなってしまったらしいね」
「知ってるのか」
「噂になっているからね」
「……そうか。ならこれは一花に渡しておけばいいのか?」
「いいや、君に渡したかったんだ」
「四葉の持ち物だろ? なんで俺なんだよ」
「こうなった今、君には知っておいてもらいたかったからさ。彼女、君に隠れて僕に勉強を教わっていたんだよ」
「はぁ? なんでお前になんだよ」
男子は説明してくれた。
四葉達の入院中、お見舞いに来た彼が風太郎に勝らずとも勉強ができることを聞くなり、自分に勉強を教えてほしいと頼んできたことを。
元々、親の繋がりで中野家とは懇意にしていたからその申し出を受けたと。
「勉強中、彼女はずっと君の話をしていたよ。テストの点を取れるようになれば褒めてもらえるか、もっと仲良くなれるかとね」
「あいつ……そんなことを。見直してもらいたいなら俺に素直に頼ればいいものを」
「さあ、僕は頼まれたことをしただけだからね。彼女の本心まではわからないよ。だけど」
「?」
「君なら分かるんじゃないのかい? 傍にずっといたんだろう?」
「────」
”好きです。風太郎君”
”もう少し、このままでいさせてもらいます。上杉さんを今まで困らせてしまったのは事実でしょうし……その、『お友達から』っていうことで仕切り直しをさせていただければと……”
”後悔のない林間学校にしてくださいね”
思い返せば、こんなに家庭教師という仕事が大変だと思わされ始めたのは四葉からだったかもしれない。
多重人格といっても、体は一つなのだし五人全員が真面目に取り組んでくれれば大して本来の仕事の範疇は超えなかったはずだ。
五人全員が馬鹿だったということも想定外だったが、それに加えて風太郎が最も見下していた"恋愛"などということにまで頭を悩ませることになるとは、始めた時は思いもしなかった。
きっと今、風太郎の手元にある勉強のノートも、自分との距離を近づけるための彼女なりの作戦だったのだろう。
だけど今、四葉はいない。
四葉だけではない。二乃も、三玖も、五月も全員いない。
風太郎を困らせていた要因の大分部が消え去ったというのに、風太郎の胸中には一片の晴れやかさもなく、ずっと暗雲が立ち込めたままだった。
むしろこのまま終わるのではないかと思った方が、空模様は黒くなるばかりであった。
(あいつだけじゃない、他の奴らだって消えて欲しいわけじゃない……)
いつの間にかノートを握りしめる手に力が入っていた。
少し歪んだノートを持ち直し、男子へと向く。
「サンキューな、確かに受け取った」
「僕は部外者だから、これ以上の口出しはよしておくが──」
男子はこちらを指さしてきた。
「きっと君なら、良い結末を迎えられると思うよ」
「お前……」
「何しろ僕のライバルだからね」
「……ああ……!」
風太郎は頷いた。
良い結末が何かは分からない。だけど風太郎の目標は最初から変わらない。
五人揃って笑顔で卒業。そのためには彼女達の存在も、一花の赤点回避も必要不可欠なのだ。
だからその意味を込めて頷いた後、改めて風太郎は男子へと向くと────
「ところでお前誰だ?」
「分かってないなら今の「ああ……!」はなんだったんだい上杉君!?」
昼休みの終わり際、男子──もとい武田の哀れな叫びが廊下へと響き渡った。
同日。中野家。
帰宅していた一花の周りには零奈と下田の姿があった。
今日は下田が家庭教師をする日であり、零奈はたまたま居合わせているだけだった。
今、下田は座卓に肘杖をついて頭を抱えていた。もう片方の手は一枚のプリントを握っている。
「想像以上にやべえな、こりゃ」
苦々しい顔でそう呟いた。
プリントは一花の実力を計るための小テストだった。結果は散々。赤点回避ですら夢のまた夢のような点数だったのだから、教師である下田の反応は当然のものだった。
一花の回答はとにかく基礎がなっていなかった。一つ例として挙げると、国語の場合は文章題を解くための漢字が読めないような、そもそも問題で問われていることが理解できていないのである。
この惨憺たる状況は零奈も下田も知るところではあった。元々風太郎よりも勉強を教えている期間は長いのである。
とはいえ、風太郎ほど各人格に五等分に向き合っていたかというとそうでもなく、まずは将来を見据えて五月を第一の生徒に据えて授業をしていた。
決して一花をおざなりにしていたわけではないが、それでも改めて一花一人と向き合って実力を計ってみたらこの様だったというだけである。
「率直に聞くけどよ零奈せんせー、これ卒業までに巻き返せると思うか?」
「どうでしょう……小学生のころは結構テストの点も良かったと思いますが……」
「小学生のころと比べてもなぁ……」
言いながら下田は頭を掻いた。零奈も困ったように頬に手を当てている。
自分の学力に対して、二人が揃って頭を痛めている様を見ている間、一花は内心で縮こまり続けており、いっそこのまま消えてしまいたいほどであった。
一花が口を挟んだ。
「あの、もうやめませんか……?」
「あ? なんだよもう疲れちまったのか?」
「そうじゃないです。プリントの点数見れば分かるじゃないですか。私がこれから勉強できるようになるなんて、やっぱり無理だったんです」
「一花……」
「何だよ。お嬢ちゃんこの前は『ようやく一人になれたんだから人生取り返します!』って意気込んでたじゃねえか」
確かにそう言った。
まだ一花が一人になりたてのころだった。
毎日自分の体を自分の思うように動かせる、そんな普通の人なら当たり前のそれを心底喜び、ようやく自分の人生が始まった気がした。
しかし実際は違い、既に触れた通り一花に待ち受けていたのは他人格達を攻撃するばかりに費やして、自分自身の経験を何も積み重ねてこなかった空っぽの人生だけだった。
世の中を生きていくということに、こんなに経験を要求されるとは想像もしていなかった。
一花は自分を卑下するように下田へ言う。
「あの時は確かにそう言いました。だけど現実は違ったんです……勉強だけじゃなくて、私の人生はもう、取り返しがつかないんです……!」
「一花……そんなことはありません……! あなたはあの子達の分もこれから────」
「お母さんには分からないよ! 私の人生はもう終わっちゃってるんだよ! きっとあの時、お父さんと一緒に私も死んじゃってたんだよ!」
「バカなことを言うんじゃありません! あなたはちゃんと生きているじゃないですか!」
「もう私に関わらないでよ! 私なんか消えちゃえばいいんだ! お母さんなんて、あの男が好きなら一緒にどっか行っちゃえばいいんだ!」
「一花!」
聞く耳など持ちたくないと、自分で自分の頭を抱きかかえる一花は、叫びながら頭を振った。
流石の下田もかける言葉が見つからないように困惑した目を向けるばかりで、零奈が必至で言葉を投げかけ続けた。
その時であった。
そんな場の空気とは場違いな、インターホンの音がした。
チッ、と下田が舌打ちをした。
「この大変な時に誰だよ。追い返してやる」
立ち上がった下田は玄関へと向かった。
扉に手を掛けると、いら立つ気持ちが先走ってしまったのか少し勢いよく開かれる。
開けた先の外に立っていたのは風太郎であった。
予想外だったのだろう。下田は目を丸くして言う。
「坊主、お前がなんでここに……」
「一花の親父さんからは許可をもらいました」
「マルオさんが……?」
風太郎の返事に反応したのは零奈だった。
一同が見守る中、下田の横をすり抜けて部屋へと入ってきた。
一直線に一花の前まで来ると、正面から見下ろすようにした立ち止まる。
「一花」
久しぶりに名前を呼ばれた。
他の子達が出てこなくなってから、風太郎とは碌な会話をしてこなかった。
本当ならば彼とも、やっと一対一で向き合えるようになったのだからもっと沢山の話をしたかった。
けれど、今まさにささくれ立った心は、長年あらゆるものを否定してきたこの性格は、思っていることと裏腹の言葉を紡いでしまう。
「急に押しかけてきてなにかな? 私以外が姿を見せなくなった途端にパッタリ来なくなって家庭教師をサボってたくせに……やっぱりお金欲しさにまた始めるの?」
「嬢ちゃん! 風太郎君はマルオと話し合ったからここに来たって今────」
「いいです下田さん。俺がこいつの面倒見るのをサボってたのは事実ですから。だからな一花、今度はお前にちゃんと勉強を教えてやる。もう逃げねえ」
「…………!」
そう言った風太郎の瞳の奥には、今までとは違う何か覚悟めいたものを感じた気がした。
これまでだって風太郎が自分に勉強を教えようとしてきたことはあった。
けれどそれは家庭教師が仕事だからという、ただそれだけが理由だと思っていた。けれど今は違う、もっと別の何かのために風太郎は動いているように見えた。
その想いの強さに、男らしさに、空気を読まず一花の胸は高鳴らされたものの、それとは別にしていくら風太郎に言われたところでどうしようもないこともあった。
勉強のことなど、今まさにそれで零奈と口論になっていたのだ。
「こんなこと自分で言うのも恥ずかしいけど、無駄な努力だからやめた方が良いよ。見てよこれ」
先ほどまで下田が見ていたプリント。来客へ応対しに行くために座卓に置かれていたそれを摘まみ上げると風太郎に手渡した。
紙面に目を落とす風太郎に向けて一花は先ほどの零奈たちとのやり取りを繰り返すように言う。
「点数がどうとかいう話じゃないよ。私はそこに書かれてることが何も分からない。無駄なことに人生の時間を使いすぎたんだよ……今更勉強したって、みんなに追い付けるわけないじゃん!」
話しているうちに一花の語調はどんどんと強まっていった。最後の方などは叫びに近かったが、それを受けても風太郎は無反応だった。
代わりに、一花が言いたいことを言い終えただろう話しの区切りのタイミングで紙面から目を離すと、風太郎は一花を見て短く一言。
「それだけか?」
「……え」
「昔……つうほど昔でもねえな。これは本人から聞いた話だが、お前らが転校してきた最初の頃、同じような理由で自分の気持ちを誤魔化そうとしたやつがいた」
語り始める風太郎が誰のことを言っているのか気づいたように、零奈が目を見張った。
「そいつはお前と似たようなことを言ったらしい。むしろお前よりひどいぞ。俺みたいな奴と比べて、そいつは自分だって努力してきたのに結果を出せなかったって悔やんでたらしい。だがそいつは結局、また勇気を出して次へと挑戦できた。なんでかと言えば、そいつは母親からこう言われたらしい」
風太郎は零奈を見た。目が合った零奈は何かを許すように頷いた。
「『自分も人生の選択を間違えた人間だが、一度間違えたからといって全てがなかったことになるわけではない』ってな。お前も知ってる奴の話だぞ」
当然、知っていた。自分はその光景を裏で見ていたのだから。
四葉のことだ。
五人の中でただ一人、風太郎と共に勉強をする約束をした子。
けれどこの体のせいで約束を果たせなかったあの子が立ち直った時の話だ。
(この体のせい……?)
自分で考えた内容に一花は一つの違和感を覚えた。
ずっと思い込んでいた。一花は被害者で他の子達は加害者だと。
だけど一花は今、四葉の気持ちを代弁するように、四葉もまた『この体のせいで望んだ結果を得られなかった』ということを無意識に語ってしまった。
彼女たちもまた、自分と同じで体の主導権を五等分にされた被害者なのではないかと、そう肯定してしまった。
もしも彼女達が自分達を被害者だと思っていたとして、どうして一花はそのことを知らなかったのだろうか。四六時中、文字通り常に一心同体で彼女達の動向を見ていたはずなのに。
(だって、そんなこと一度も口には……!)
そこで気が付いた。
五人は同じ境遇だというのに、自分だけが被害者ぶって周囲に当たっていただけなのだと。
自分達は互いが心の中でどう思っているのかまでは分からない。それでも少なくとも一花に見える形では一度も彼女達はこの体のことで弱音など吐かなかった。
彼女達だって同じ辛さを持っているはずなのに、そんなことなどおくびにも出さずに動じず、自分達の人生を歩んでいた。
元は同じ自分なのに、どうしてそんなに強いのかと不思議になった。
そして同時に、どうして自分はこんなに弱いのかと消えてしまいたくなるほどの惨めさを感じた。
「それにな一花、あいつだけじゃない。自分は無意味で、必要ない人間だと思ってた人間はここにもいる」
「え?」
「俺だ」
「……!」
「五年前の京都で、お前たちからキッカケを貰えたから俺は変われた。感謝してる。お前らのことを尊敬さえしてる」
「でも、君を変えたのは四葉であって私じゃ────」
「かもな。だが、お前と会ってたって俺は同じように変われていたんじゃないかと思う……根拠はないけどな」
風太郎は知らない。五年前だって一花は風太郎と会ったことがある。
会ったと言っても、宿泊先のホテルでトランプをしただけだから劇的なことなんてなかったし、当時の風太郎は自分達が多重人格なんて知りもしなかっただろうから、当然なのだが。
だけどもしも、昼間の京都で会っていたのが四葉ではなく一花だったら、そんな可能性は何故か考えたこともなかった。
「こんな俺みたいなやつと、お前が散々馬鹿にしてきたあの馬鹿共が変われたんだ……だったらお前が変われない理由なんてないだろ」
「でも……私が変わったって現実は……!」
この数日、一花だって一花なりに本気で勉強には取り組んだ。
確かに”妙に勉強の進みが良い時”もあったが、それでも基本的には中々結果に結びつかなかった。
気持ちの問題だけでは、どうしようもないことだってあるのだと一花はプリントを見ていった。
「それなんだがな一花……後、下田さんと一花のお袋さんも見てくれ」
「?」
再びプリントを座卓の上に置いた風太郎。
呼ばれ、一同は集まるようにそのプリントを覗き込むと、風太郎がとある一か所を指さした。
「例えばここ、数学の問題だ」
「……間違ってるじゃん」
そう呟く一花。続けて風太郎。
「確かに答えは間違ってる。見て欲しいのは中間式だ」
「計算ミスってるな。最後んとこの公式使った計算が合ってりゃこの問題は正解だったはず……ん?」
下田が言われた通り、中間式を見ての感想を漏らした。そしてなにかが引っ掛かったのか首をかしげた下田に同調するように風太郎。
「そう、この公式は中学生にならないと教わらない」
「……!」
「他にもある。歴史のこの範囲も、理科の化学式も、英語の文法も、全部一花が本当に小学生止まりだったら書けないはずのことばかりだ。残念だがどれも最終的な回答は間違ってるがな」
「これは……どういうことでしょうか?」
疑問を挙げる零奈に風太郎は答える。
「一花の記憶力は思ったより良いのかもしれないってことです」
「記憶力……」
「これらは全部、一花以外の奴らが勉強した跡ってことですよ」
つまるところ、風太郎の推理はこうだった。
一花の多重人格の特性について繰り返しになるが、裏に控えている間も視界も聴覚も共有し、個人ごとに別々の記憶を蓄積し続けている。
そして見える視界は体を操作している人格に依存するため、裏を返せば裏に控えている人格は見たくなくても見なければならないわけである。文字通り、目を逸らすことすら許されない。
たとえ一花がどれほど勉強に興味をもっていなくても、一花は他人格の勉強している光景を見せられていたというわけである。
「覚える気がこいつには無かったから今はこんな結果だが、少なくともこいつは高二までの勉強を一度”体験”している」
「つまり、これから一花がする勉強は全て単なる"復習"というわけですか」
「そうです。それにあいつらだって多少は勉強した内容を覚えてた。記憶なんて曖昧なもんじゃなく、現実の話として一花の脳には一度はそれらの情報が刷り込まれているんです」
「一度覚えたことを覚え直すのは簡単だって、そう言いたいわけだな?」
「その通りです。下田さん」
つまり、と風太郎は続けた。
「こいつに勉強を教えることはただのやり直しじゃない。もっとずっと近道のはずなんですよ」
「フータロー君……それって」
「だから一花、お前も諦めるな。むしろお前が諦めて、嫌だと言っても俺が勉強を教えてやる」
一花。彼は私の名前を呼んで手を差し伸べた。
「ドジなお前が何度やらかしたって、覚えるまで俺が何度でも叩き込んでやる」
「────」
もう、何度目だろうか。こんなに心の音がうるさくなるのは。
彼への想いなど、自分でもとっくに気が付いている。
だけど今回はそれだけじゃない。彼の差し伸ばしてくれる手が、彼自身が、目が焼き付きを起こすほど眩しかったのに、それでも目が離せなかった。
ずっと好きだったのに、素直になれなくて禄にちゃんと見れなかった彼を、ようやく正面から見た時、私は自然とその手を取っていた。
だけどまだ、ちょっとだけ素直にはなれなくて────
「なにそれ、スパルタじゃん……」
「ああ、ビシバシいくから覚悟しろよ」
いつかこの人に教えられるだけじゃなく、教えるぐらいになって、お姉さんぶってやれるようになりたいと、そう思う私だった。
数時間後。テキストを進める私の隣でフータロー君と下田さんとお母さん。
「一花はともかくあいつらはちゃんと勉強してたはずなのになんであの点数なんだよ……! あいつらがもっとちゃんと覚えててくれたら一花もこんな苦労なかったぞ……!」
「それはまあ、私らの実力不足もあったんじゃねえか?」
「それもあるでしょうけど、あいつらが本当に馬鹿なのは間違いないでしょ」
「ま、そりゃそうだ」
「二人とも、私を前にしてずいぶんと言いたい放題ですね」
少しだけ、また自分の将来が不安になった私だった。