一花が勉強を取り組むようになってから三週間程が経過した。
直前に控えていたテストも終わり、終業式も過ぎ、冬休みへと突入した。
その間に起きたこととして、学校には一花以外の他人格が出てこなくなったことが共有されていた。
今回、一花達が目前に控えていたのは二年生の二学期末テストだった。これまでは五月がテストを受け、その結果を成績としていたのに対して今回は特例として一花のテスト結果を成績とすることで話がついた。
むしろそうしなければ成績が付けようがないのでやむをえないのであるのだが。
そして、そうなれば当然のように一花は全ての科目で赤点を取った。この結果を覆すためには奇跡の一つどころか、五教科なので五つぐらい起きなければ無理だっただろう。
「まあ、仕方ねえよな」
一花の家で答案を眺めながら、流石の風太郎であっても予想できていたというように呟いた。
家には風太郎の他に一花と、少し離れてキッチンに零奈がいた。
「……ごめん」
風太郎の隣に座る一花にも、あらかじめ今回のテストは捨てる他ないと教師陣(風太郎、下田、零奈)で言い含めていたが、それでも多少は気を落としているようであった。
その様子を前に風太郎はむしろ、真面目に自分の成績を上げようと考えてくれているのだと十分満足していた。
これまではひとたび勉強をしようとすればアナフィラキシーショックでも起こすのではないかと思うほど拒絶してきたのだから、その頃と比べれば目覚ましい変貌である。
「元々どうあがいても回避できなかったことだ、悔やんでも仕方ない。切り替えてこの前の続きをやるぞ」
「うん」
風太郎が言うと、一花もそれに応じて座卓に置いていたテキストを開いた。
テキストは下田が調達してきてくれた中学生用の参考書だった。
そもそもの基本が無い人間にどれだけ高校の勉強を教えても仕方ないため、ここ最近の一花への授業は中学生レベルからのやり直しとなっていた。
先日の話で普通の人よりは早く追い付けるだろうという見立てはあるものの、それでもゴール地点である高校二年生レベルまではまだまだ先は長い。それなりの期間は必要となるだろう。
風太郎と一花は零奈に見守られながらも勉強をし始めたのだった。
数時間後のお昼前の頃。
勉強は順調だった。一花も風太郎に自分は追い付ける可能性があると言って貰えたことが自信にも繋がっているおかげか、手応えのようなものを感じながら勉強を進めていた。
そんな二人がいる居間の隣、寝室からしばらく引っ込んでいた零奈がと出てきた。
出てきた零奈は妙にめかしこんでいた。
派手すぎず、しかしみすぼらしく見えないように気が回されていることが伺えるファッション。メイクも同様にどちらかと言えば薄いが、元の素材が良い零奈の魅力を引き出すような最大限の工夫がされていた。
普段の零奈は、化粧やファッションといったものにはどちらかといえば無頓着で、娘である一花や同じくそう言った方面に気を配る二乃などは独学でそれらを学ぶことになり苦労したのは遠くない記憶である。
そんな零奈だからおめかしをするシチュエーションなどパターンが限られており、一花の鼻はその数パターンのうちの一つを鋭敏にかぎ取っていた。
居間へ出てきた零奈はそのまま玄関に向かおうと体を向けながらも途中で立ち止まると、風太郎達へと目を向けた。
「すみませんが私はこれから所用があり外出します。後のことはお任せできますか?」
「ええ、まあ」
「一花、夜には帰ってきますので勉強頑張ってくださいね」
「はーい」
一花の軽快な返事に零奈は薄く微笑んだ。
これまではこんなにもあっさりと会話が済むことの方が稀だったから嬉しいのだろう。
零奈はそれでは、と一言置いてから再び歩き出すと玄関でヒールの高いパンプスを履いて外へと出て行った。
遠くから小さく、鉄骨の階段を下るカンッカンッという音を聞き届けてから一花は走らせていたペンを止め、ノートの脇に置くとパタリと参考書を閉じた。
急なその様子に疑問気にする風太郎。
「どうした一花、休憩か?」
「フータロー君、今日の勉強はここまでにしよう」
「はぁ? お前さっきテストの点であれだけ凹んでたじゃねえか。ここで頑張んなきゃ三学期も同じ結果になるぞ? それともまさか、また勉強したくないなんて言い出すんじゃねえだろうな?」
「違う違う! 今日は急用ができたんだよ!」
「急用? それは勉強よりも大切なことなんだろうな?」
「今日じゃなきゃダメな用なんだって! そんなに気になるならフータロー君も付いてきて!」
「おい待てって!」
一秒でも会話する時間が惜しいとでも言わんばかりに一花は立ち上がると、駆け足で玄関へと向かった。
続けてその後ろを風太郎が付いてくる。
玄関の戸を開け外へ出ると、アパート二階の入り口の扉が並ぶ通路の手すりの隙間から屈みながら道路の様子を伺った。
一花の後ろで再度扉が開く音がするなり、一花はしゃがむように風太郎へ手でジェスチャーした。
「フータロー君、静かに」
「一体何なんだよ、分かるように説明してくれ」
「あれ見て」
「あれ?」
風太郎が一花に並んでしゃがみ込んでくれたのを確認してから、一花は道路沿いを指さした。
指さした方向を風太郎も釣られて見ると、人影が二つ。影は風太郎も知る人物であった。
「お前のお袋さんと親父さんじゃねえか。なんでわざわざ外で待ち合わせたんだ?」
「フータロー君、今日が何日か分かってる?」
風太郎のことだから本気で分かっていない可能性もあると、半ば呆れながらも一花が訊くと、風太郎はまるで何事もない普通の日のような口ぶりで言う。
「12月24日だな」
「クリスマスイブじゃん。それだけで想像できない?」
「……デートってことか? お前が大変な状況だってのにあの人たちがそんなことするか? どっちも真面目な人じゃねえか」
「でもしないって確証もないじゃん! それにお母さんは君に任せてるつもりなのかもしれないし」
現に、零奈は家を出る前に風太郎に対して『任せる』という言葉を使っている。
対して風太郎はそれでもいまいち納得できていないようだった。
「それで、あれがお前の用ってやつか? 何する気だよ?」
「もちろん尾行する」
「何故……」
「危なくなったら私が止める」
「危なくなるってなんだよ……」
「女の子の私に言わせるつもり!?」
「夫婦だったら別にそういうことがあっても普通だろ!? つーか何だよこれ話してるこっちも恥ずかしいぞ!」
「君が聞いて来たから答えただけだもん!」
そこでいったん、二人揃って声が高くなっていることにハッと気づき、口元を抑えた。
恐る恐る零奈たちの方を見れば気づかれていないらしい。
改めて小声に抑えてから風太郎が言う。
「……大体娘のお前がなんでそれを止めるんだよ? 親のそういう事情を知りたくない気持ちは分かってやれるが、だったら知らないふりをすればいいだけだろ」
「単純に私があの人嫌いだから。お母さんには近づけさせない」
「近づくも何も夫婦だろあの二人。それにお前……改心したかと思ったがそうでもねえな。本当にそういう好き嫌いだけで人の邪魔しようとするところ直した方がいいぞ」
言いながら風太郎は頭を抱えた。
その言い分には一理あると一花も思う。というか全面的に正しいとぶっちゃけ気づいている。
一花だって自分の方がおかしいことをしようとしているのは分かっている。それでも理屈じゃないところで頭が働いているから止まれないのだ。
昔からあのマルオとかいう男が嫌いだった。
未だに一花は多重人格を発症する前と後に対して、明確に自分の心の拠り所を分けていた。多重人格を発症する前、つまり実父の無堂が亡くなるまでを幸せな時間だとするならば、亡くなった後は苦しみの時間だ。
六年にも及ぶその長い苦しみの時間は今まさに、終わりを迎えんと光明が見え始めているが、それはそれとして実父と入れ替わるようにして姿を見せるようになったあの男はまさに苦しみの時間の象徴とも言える存在だった。
他の人格達はそれなりに”あれ”を父だと認めているようだったから、それが心底理解できなかった。
二乃だけは、一花ほどではないがマルオに対して反抗的な態度を取っていたから、一花にしては珍しく仲間意識を持てる部分ではあった。
「とにかく、私はあの二人について行くからね」
「勉強を続けるつもりは──」
「今日はない」
ピシャリと言い切ったことに対して風太郎はうな垂れた。
うな垂れたまましばらく考えこんでいると、ようやく結論が出たのか深いため息をついてから顔を上げた。
「わかった」
「君が話の分かる人で良かったよ」
「ただし俺もついて行く」
「フータロー君にはそれこそ関係ないことじゃない?」
「いや、ある。いざとなったら俺がお前を止める」
「なんでさ?」
「お前を逃がしたことがバレれば、任された俺も怒られちまうからな」
聞こえは悪いが、それはつまり一花のマルオを嫌う気持ち自体は理解できるということだろうか。
自分でも正直、かなり陰湿な性格にひねくれてしまったなと、自分自身に対する嫌な感情はもっていた。
だけどそれを否定されるでもなく、かと言って肯定されるでもなく……なんというか、ありのままの自分を受け止めて貰えている気がして悪い気はしなかった。
「ふーん」
だから一花はどう反応すればいいのかわからず、唇を尖らせた。
零奈とマルオの二人は徒歩のまま駅前の栄えている場所へと移動をし始めた。
駅前には巨大なショッピングモールを始めとして数々の店が構えられている。
クリスマスイブの今日はその街並みの至るところでクリスマスツリーを模したリースやサンタ服を着た店員が見受けられた。
街道を往来する人の数も普段より多く、いずれもクリスマスの雰囲気に当てられているような明るい顔つきをしていた。
そんな賑わう華やかな空気の中で、一組の男女の後を尾ける怪しい影二つ。
その影の一つが物陰に隠れながら小声で言う。
「どこへ行くにも江端さんが運転する車で移動してるあの人が歩くってことは、二人っきりになりたいってことだよね」
「目的地が近くて車に乗るほどじゃないってだけじゃねえのか?」
「鋭い着眼点だねワトソン君」
「誰がワトソンだホームズ気取りめ」
「わお、フータロー君結構ノリいいね」
「ノリ良い方か今の? ……おい、また移動し始めたぞ。見失うぞ」
「あ、危ない危ない」
言われ、慌てて次の物陰へと移動する一花。
風太郎も面倒くさそうにだが、一花の後を追う。
「人が多いからね、ここで見失っちゃったらこの灰色の脳細胞を持ってしても再び見つけ出すのは困難だよ」
「それはポアロだ」
「同じ人じゃないの!?」
「……なあやっぱり帰って勉強の続きしないか? お前はまだまだ勉強した方がいいぞ」
テストに『ミステリー小説の主人公の名前を書け』みたいな問題が出るなら一花もやぶさかではなかったが、出るわけはないので無視をした。
一花の視線の先で零奈達は駅前の歩道橋の階段を上り始めた。
いつだったか、結構最近この場所は三玖と風太郎も来た場所なのだが駅前歩道橋が繋がっている先には三カ所ある。
一つは名前の通り、駅の改札へ。
一つは恐らく二人が入っていくだろうと一花が推理していたショッピングモール二階の入り口。
そしてもう一つは────
「あれ?」
拍子抜けのような声を挙げる一花。
階段を上って左に曲がればショッピングモール二階の入り口がすぐにあるというのに、二人は逆方向へと曲がった。
逆側に曲がった場合の行き先は、一本道のためにやはり一つしかない。
風太郎が言った。
「俺たちの学校じゃねえか。何の用だ」
「もしかして……」
一花には一つの心当たりがあった。むしろ旭高校の教員ではない零奈や部外者のマルオが学校に行く理由など一つしか知らなかった。
「そっか、今日相談しに行くんだ……」
「何の話だ?」
風太郎に問われ、一花は一瞬目を泳がせた。
しかし、その逡巡もわずかな時間で、すぐに風太郎へと目を向けた。
「フータロー君には決まってから話そうと思ってたんだけどね」
「ああ」
「私、三学期は休学しようかって話をお母さんとしてたの」
「なっ……!?」
当然、初耳だったのだろう。面を食らったように固まる風太郎。しかし二の次に何故、という疑問が飛んでこない辺りは理由もすぐに思い至ったのだろう。
念のためという訳ではないが、一花は説明をした。
「今の私じゃ学校の授業についていけてないのはフータロー君もわかるでしょ? 頑張って聞けばなんとなるとか、そういうレベルじゃないからさ。それならいっそのこと、学校は休んじゃおうってことになったの」
「その間お前はどうするんだよ?」
「下田さんところの塾が面倒見てくれるって。時々中学生の子たちに交じって授業受けたりしなきゃいけないから、結構恥ずかしそうなんだよね」
そう言って一花ははにかんだ。
風太郎は心配そうな目をしてくれたが、言葉を探しているようで何も言わなかった。ただ、一花の本心から言えば何か余計なことを言われるよりずっとましだった。本当は自分が話している内容に対して目から血が噴き出しそうになるほど悔しいと思っているからだ。
一花は自分の状況を痛いくらいに理解していた。それでも先日の説得のおかげで再び頑張ろうと思えたし、周りの期待に応えたいと今も思っている。それでも、一花の奥深くの部分に未だ強く根付いている被害者意識は、何故自分がこんな思いをしなければならないのかと今なお常に絶叫していた。
ただ、そのヒステリックな自身の感情が今となってはおかしなものであると自覚もあったために、はにかむような曖昧な表情しか浮かべられなかったのだった。
この被害者意識から来る対外への攻撃的な衝動を風太郎たちに対して向けないようにも一花は意識していた。かといって、今は姿を見せないでいる他人格に対してサンドバッグのように感情を打ち出し続けているかといえば、そういうわけでもない。
他人格も結局、自分と同じ境遇の敵ではない存在だと気づいてしまったせいであった。
そんなわけで現在の一花は、自分が人と比べて明らかに劣っているという現実を突きつけられ、常に自尊心と自己肯定感を傷つけられるようにして溜まり続けている鬱憤を晴らす先も見つけられず、少しずつ弱音や助けを求めるといった形で零奈や風太郎達へと吐き出し処理しようとしていた。
しかしそれも、例えばダムで表現するならば放流より早く雨水が溜まっていくような感覚があり、必死に溢れないように耐えながらも感情は自分の中で抑圧され、濃縮され、泥のような粘り気を帯びてきてさえいることを薄々と自覚し始めていた。
客観的な話をするならば今の一花は今すぐの現状の打開はできずとも、素直に風太郎達へ助けを求めることができるのだからもっと本心を吐露すべきであったのだろうが、この時は過去の自身の行いが後ろ脚を引っ張ってこれ以上彼らの負担になるようなことはできないという、一種の強迫観念に近い思いもあった。
それ故に本当は辛いはずの一花だったが、対面の先でどう反応したらいいかと言葉を濁している風太郎に対して、むしろこちらから気を回すように笑みを浮かべた。
「結局私の推理が的外れだっただけみたいだね。なんか拍子抜けしちゃった」
「だから言ったろ。お前が大変な時にあの二人だけでデ、デートなんてしないって」
こうなれば今日の残りは帰ってまた勉強だろうか、と一花は思った。
だけどそれは、今日という日に限ってはあまりにももったいなく、一花自身の精神的な余裕の無さからも理性よりも欲求の方が優位に働いた。
だから、気が付いた時には一花は風太郎の手を握って────
「ねえフータロー君。せっかくだしさ、このまま二人で出掛けちゃわない?」
「却下だ。返って勉強の続きをやるぞ」
「いいじゃん少しだけ!」
「よくねえよ!」
手を引いて家へ連れ戻そうとする風太郎に、一花は踏ん張って抵抗した。
一花の体重は女子の平均と比べてそれほど変わらないはずなのだが、風太郎が力いっぱいで引っ張っている割には引きずられすらしなかった。
どうすればこの男が納得するようなことを言えるのかと考えた時、思い出したのは三玖の存在だった。
どういうつもりか知らないが、風太郎は三玖の『自分も他の子達の恋に協力するために君に恋したい』とかいう一花からすれば正気を疑いたくなる自己犠牲理論に基づいた遊びの誘いにノコノコ乗って来た。
風太郎がどうして誘いを受けたのか知らないが、同じ理論を今は利用させてもらうことにした。
「私とも仲良くしておけば……いつかあの子達が帰ってきた時に褒めてもらえるかもしれないよ……!?」
「────」
途端に、一花を連れて帰ろうとしていた風太郎の手から力が抜けた。
風太郎の手からもすり抜け、勢いよく一花は尻もちをついた。
「きゃっ!」
腰に痛みと衝撃が走った。
それと同時に一瞬、一花は反射のように体の力を抜いてしまった。
こういう事態になった時、以前ならば入れ替わりが発生するからだ。
だけど今はそんなことが起こるわけもなく、そうだったと一花は再び体に力を入れると、痛む腰をさすりながら立ち上がった。
続けて急に引っ張るのをやめた風太郎を見た。
「フータロー君……?」
「わかった」
「え?」
「夜には帰るからな。だから少しだけお前に、付き合ってやる」
※過去話含め、主要キャラの読み上げ辞書登録対応しました。