年末の空気というものは、人間の五感のいずれにもひっかからないが、年末特有のそういうものがあると言われると妙に納得してしまう不思議な電磁波を漂わせている気がする。
この電磁波、もとい空気を感じる能力が人間に備わっているとするならば、それこそが第六感というやつなのかもしれない。
空気ではなく、雰囲気と言い換えてもいい。
この形容しがたい共通認識のような曖昧なものを具体的に説明してみろと言われても言葉に困る。何しろ実際は年末以外の春夏秋冬いつの空気と成分を比べたって同じだからだ。
ただし感覚的な話でもいいからといわれれば、どういうわけか言葉にできる気がするし、中には共感をしてもらえる人もいるかもしれない。
端的に言えば”ワクワク”というものである。
年の瀬は師走という言い方もする通り何かと忙しい時期だが、中でもクリスマスやら大晦日、年を越したら正月などといった万人共通の楽しいイベントが目白押しである。
マジョリティに属することを是とする日本人にとってこの、同じ楽しみを多くの人々と無意識下で共有するという感覚が心地よく、早くその時を迎えたいと妙に浮足立つ感じが、年末の空気というものの正体なのだろう。風太郎はそう分析し、思っていた。
まあ、思っているだけなのだが。
(帰って勉強してぇ……)
ひねくれ者の風太郎はそんな空気に含まれた複雑な情景など、言語化できたところで一切腹落ちはしていなかった。所詮空気は空気。窒素と酸素、微量のアルゴンと二酸化炭素の化合物。それが空気の正体だと言われた方が百倍納得できた。
掌を返すようだが風太郎だって一応、肌感では年末の空気というものが普段とちょっと違うような”気”がするのはわからないでもない。
だけどわざわざ同年代達で集まってバカ騒ぎする必要性は感じなかったし、それをするくらいなら勉強をしたかった。
せいぜい、ちょっとムードに当てられてソワソワするくらいなのである。
それが風太郎にとっての年末である。
さて、では今目の前にいるもう一人の少女はどうだろうか?
両親二人へのいらぬ心配も済ませ、学校に入っていくのを見届けた後、風太郎と二人で繁華街へと繰り出した現在の一花はといえば。
「フータロー君! はやくはやく!」
テンションMAXだった。
クリスマスムードの街中をこれでもかというほど跳ね回っていた。
「分かったから少し落ち着けって」
「せっかくフータロー君とクリスマスにおでかけなんだよ! 落ち着いてなんていられるわけないじゃん!」
「……お前、俺のことは嫌いとか言ってなかったか?」
一花の物言いに思わず言わずにいられない風太郎だった。
確か林間学校の肝試しの頃だった気がする。”私は君が嫌い。君も私が嫌い。なら関わらなければいいと思うんだ? ”みたいな話をクドクドとされた記憶がある。
それに一花。急に明後日の方を向いて焦るように。
「さ、さぁ、何のことだったかなぁ……!」
「……まあいい。それでどこへ行くんだよ」
「もうすぐ着くよ」
深く追求してこない風太郎に露骨に安堵の吐息を漏らした一花は、再び先を歩き始めた。
一花の誘いに乗って今日は外出に付き合うと決めた風太郎達。それを決めたのは学校の目の前であり、すぐ傍には一日を潰すには最適な大型のショッピングモールがあったのだが、一花の提案によりそこはスルーして現在の繁華街へと来ていた。
どうやら目的地が初めから決まっているらしく、一花の足取りはまっすぐ一直線であった。
黙ってその後ろを着いて行くと、ようやく目的地に到着したらしく一花が足を止めた。
「ここだよ」
その瞬間、風太郎の目がつぶれた。
無論比喩だが、潰れたと錯覚するほど煌びやかな外観をしたTHE・高級店というようなレストランの前で立ち止まったせいだった。
店の前へくるりと翻って風太郎へ向く一花。
「ここ、私のお気に入りなんだ。何か良い時にお母さんと……まあ高いお店だからお金はあの人が出すのもあって一緒にいるんだけど……とにかく良い事があった時に来るんだ」
”あの人”というのはマルオのことだろう。
今日は家を出てからずっとマルオと零奈二人の後を尾行したのだから、マルオの話題もそこそこに出たのだが一花は一度として名前で呼ばず、父とも呼ばなかった。
一花のそんな態度に対しても、風太郎はある程度の理解を持っていた。
現在の一花は大分丸くなっているが、未だに多重人格になる前と後で明確に心の置き所を分けているように見受けられた。
零奈と実父の無堂と、三人で暮らしていた頃を幸せな日々とするならば、多重人格となった後は苦しみの日々だと思っているのだろう。
そしてマルオは多重人格になった後で無堂と入れ替わるようにして関わり始めた人物であるため、一花にとっては苦しみの象徴とも言えるのかもしれない。
それに一花のマルオに対する解像度というところで言えば、父がいなくなったと同時に母へ言い寄ってきた不埒な奴というもう少し下卑た認識である可能性もある。いかんせん状況だけで言えば否定しきることも難しかった。
それにそこまで掘り下げた話になると一花達家族の話となるため、風太郎がとやかく言うのも野暮というものだろう。
だからこの場ではひとまず、一花のマルオに対する態度を咎めることを風太郎はしなかった。
それに、そんなことよりも気になることが風太郎にはあった。
今目の前にしている、いかにもな高級店に貧乏人の自分が入るのかという不安である。
たった今、一花は家族と来る時もマルオに金を出してもらっていると言っていた。
「見るからに高そうだとは思ってたが……お前も普段は親父さんに金出してもらってんなら、俺たちじゃ無理なんじゃないか? 少なくとも俺は金なんて持ってないぞ」
持ってたとしても使わないぞ、までは流石に口がすべらなかった。
対して一花、口元をニンマリとさせるとおもむろに取り出したるは懐に入っていた財布。
「安心して、今日は私が出すから。これでもタレントやってるからお小遣いは多少あるんだから」
「……そういえばそうだったな」
先日の三玖との外出時、水族館でアナウンスをしていたのを思い出した。仕事をしているというからには、当然稼ぎもあるのだろうし、一花がそれを他人格と共有するわけもないのだから結構貯め込んでいるのかもしれない。
逃げ道を塞がれるように他に入店を断る理由も見つからなかった風太郎が頷くと、一花はそれでは、と店の扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
扉を開けた先では複数人のウェイターが整列をして出迎えをしてきた。
そのうちの一人は、ちらりと一花を一瞥するなり、再び頭を下げてから口を開く。
「中野五月様。ようこそいらっしゃいました」
「っ…………!」
直後、一花の笑顔が引きつった。
(やば……!)
身を固くした一花と、後ろで焦る表情を浮かべる風太郎。
その二人の普通ではない反応に、五月の名を口にしてしまったウェイターがいち早く気づき、続けて言った。
「大変失礼いたしました! お母様と一緒でない時にいらっしゃる時は決まって五月様でしたものですので……!」
口ぶりからしてどうやらこの店は一花の体質のことを承知しているらしい。
更に外見での判断はできずとも、来店のスタイルから識別をしようとした辺り、やはり接客の質も高いのだろう。
問題は、そんな弁明一つしたところで”あの”一花が他人格と間違えられてどういう反応をするだろうか。
恐る恐る、一花の横顔を伺った。
すると一花。顔を引きつらせただけではなく、眉まで跳ね上がったまま、しかし笑みを崩さず。
「い、いえ、大丈夫ですよ。間違ってませんから……! それじゃあ席に案内してもらいましょうか、う、上杉君……!」
「────」
どういうつもりか知らないが、急に五月の真似をしだしたものだから風太郎は目を丸くした。
二人はウェイターに連れられテーブル席の一席に案内された。
店は外見だけでも十二分に豪奢であったが、店内も負けじとどこのブライダル用の式場かと思わせるような華美な洋風づくりをしていた。
吊り下げられたシャンデリアの下、純白のテーブルクロスが敷かれた円形のテーブルに向かい合うように座ると、すかさずウェイターは脇に挟んでいたメニューを一ページ目を開き、風太郎側にメニューが見えるようにして置いた。
続けてお絞り、水の入ったグラスと順に置いた後、最後に一花へ本当に間違えていないかと、気を使っていないかと確認してきた。
「本当に大丈夫ですから。お気になさらないでください」
それを一花は”五月”として応対した。
ウェイターは安心した素振りを見せると、とはいえ取り乱した様子を見せたことに一言非礼を述べてから、席を離れていった。
その姿が遠くまで去った後、風太郎はさりげなくメニューを一花の方へ向けながら、自分自身も少しテーブルから身を乗り出して一花へと近づいた。
周りに聞こえないように小声で話しかける。
「どうした。お前ならもっと怒ると思ったぞ」
風太郎が聞いているのは先ほどのウェイターの人違いのことである。
普段から一花に対して持っているイメージから述べるなら、五月でなくとも他の人格と間違えられた時点で列火の如く癇癪を起こして怒鳴り散らすのではないかと、ウェイターが間違えた瞬間は危惧した。
まあ、今になって冷静に考えればそれは少々誇張が過ぎた妄想だったと思い直せたし、場所が場所だけにそんなことをすれば最悪の場合は店のブラックリストに名を連ねることになるだろうから、一花だって本当にそこまではやらないかと風太郎は改めて考えた。
ただ、それにしたって間違いを素直に指摘するくらいのことはするだろうと常識的に思った。風太郎とて別人と間違えられれば違うと言う。
ましてや他人格に対して多少の理解は見せるようになったにしても、未だに嫌悪感を持ったままの一花が否定せず、逆になり切るなどとは思いもよらなかった。
風太郎の問いに対して、同じく小声で一花。
「そりゃ、ちょっとムッとはしたけどそんなに簡単にあの子達やフータロー君以外に怒ったりしないよ」
「何故俺には怒るんだ……」
「それに、ここのお店の人は私が他の子達のこと嫌いなのも知ってるから、正直に間違ってるなんて言ったら、今度お母さんたちと来た時にお母さんにまで謝られちゃうよ」
「そういうことか……」
つまり、今日この場所に来ていることがお忍びであることを一花も理解しているということだった。
風太郎も本当なら今頃は授業をしているはずの時間に生徒を連れ出していることは知られたくなかった。
(……ん? いや、素直にこいつがわがまま言い出したって言えばいいだけじゃねえのか?)
仕事として考えるなら、キチンと報告するのがむしろ筋だろう。
なのにそうしようと思わないのは────
「フータロー君、それで何にしようか?」
「ん、何がだ?」
「そりゃご飯に決まってるじゃん。フータロー君何しにここへ来たつもりなの?」
「ほんと、何しに来てんだろうな……」
いやまあ、レストランと分かって入ってるんだから食事するためなのだが。
別に来たくて来たわけじゃないし連れてこられただけ、と思ったのを、思っただけに留めた。
風太郎、本日二度目のファインプレーである。
「まあいい。決まったんならメニューを貸してくれ」
「ん、ちょっと待って。まだ私も決めてないから」
「飯なんて食えれば何でもいいだろ。そんなにメニューにがっつきやがって、そんなに食い意地張ってると太るぞ」
ファインプレーからの凡ミスであった。
風太郎達の周りにもし人がいればカチンッ、という音が幻聴などではなく実際に聞こえていただろう。
そしてその音は、何故か風太郎にだけは合わない周波数だったのか、失言をした張本人は素知らぬ態度のままだった。
「…………」
「一花?」
固まっている一花を呼びかける風太郎。
数秒の硬直の後、メニューから目を離した一花の顔は、笑っていた。
その笑顔はほんの数分前に見た笑み。
「あなたという人は本当に学習能力が無いですね。それともあれですか? その言葉は五月ちゃん……私にだけ言わなければ良いとでも勘違いしてます?」
「……一花さん?」
「いいでしょう。またあなたが同じような失言をしないように、ご飯の間は五月ちゃんになってあげます」
「……すみませんでした」
食事の間、高級料理特有の複雑のせいなのか、風太郎でも分かるほどの痛ましい空気のせいか、料理の味を感じない風太郎であった。
レストランでの食事を終えた後も一花達は時間の許す限りクリスマスの街を満喫した。
風太郎は終始仏頂面だったが、彼が普段からそういう顔なのは一花だって知っている。
だから自分と一緒のように楽しんでくれているかは分からなかったけど、少なくとも一花は今の時間を楽しいと思っていた。
学校の前で風太郎へ休学期間中に自分が年下と混ざって勉強をしなければならないと説明した時に感じていた不愉快さなど、かなり水に流されていた。
だけど、時々その気持ちには新たに水を差されることがままあった。
「ここはお休みの日とかによくリラックスで来るスパでね────」
「三玖様。いつもごひいきにしていただきありがとうございます」
「……ど、どうも」
「ここはよく私の服を買いに来る店で────」
「二乃じゃんいらっしゃい! 最近来なかったから心配してたよ、連絡もくれないし。もう春コーデ出し始めてるんだけど見てってよ」
「────! ご、ごめんねー、今日はちょっと覗きにきただけだからさー。今度ちゃんと見るねー」
(ああ、もうどうして今日に限ってこんなことばっかりあるかなぁ……)
ゆく先々で一花は誰かしらと間違えられた。そしてその度に今後のことも考え、間違えられた子として振舞った。
この街とは付き合いが長い。それは裏を返せば他の人格達も同様で、多重人格になってからは一花が過ごした時間と同じ時間、他の子達だってこの街で過ごしてきたのである。
そこかしこに残留思念とも呼べる彼女達が生活していた証や、誰かの記憶として残っていた。
彼女達と交流がある程度深い関係の人々は、大体の場合が体質のことを知ってくれているから、今まではこういった人違いならぬ人格違いのようなことはあまりなかった。
だというのに、それがどういうわけか今日はやけに間違えられたのだから一花としては堪ったものではなかった。
「災難だな」
「え?」
「せっかくクリスマスで浮かれてたのに、あんなんじゃ楽しめるもんも楽しめなかったろ」
「……浮かれて」
ああ、そういうことかと、一花は内心で納得した。
今日に限ってやたら間違えられるのはクリスマス”だから”なのだろう。
店員だって普通の人間だ。クリスマスの空気に当てられて普段通りにできていない可能性はある。それとシンプルにお店が忙しいから、客の一人ひとりにまで気を回す余裕もないのかもしれない。
それでも顔を見ればキチンと常連であると気づいてくれるのだから、自分達はむしろ特別扱いを受けているのかもしれない。
少し考えれば分かることだったかもしれないが、意外だったのはそのことに当事者である自分よりも先に、風太郎に気づかされたことだった。
きっとそれは、今日この先行く場所でも同様のことが起こるのだろう。
それならばと、一花は妙案を思いついた。
「……」
「どうした一花?」
「フータロー君。次はさ、君の行きたいところに連れて行ってよ」
「俺は別にどこでも……帰って勉強する以外だったら、そうだな。もう少し庶民的な場所がいい」
「庶民的って、例えば?」
「金を使わなくて、人もそんなに多くない、落ち着ける場所だな。今日はずっと動いてたし、流石に少し疲れた」
「クリスマスなのに落ち着ける場所なんて…………あ、あそこなら────」
風太郎を連れて来た場所は寂れた公園だった。
いつもなら子供たちが賑わっている場所だが、日が日だし、時間も夕方から夜に変わろうとしている。子供たちはとっくに帰っていたし、夜になるまでには帰ると約束していた自分たちにとってもここが今日最後の場所になるだろう。
公園の片隅に設置されているベンチへ二人で腰かけた。
座って、それから少しの時間が流れてから一花は夕暮れの空を見上げた。
(何か話さないと……)
今日は何かと他の人格の真似をしてばかりで、その時は風太郎と話すことも多かった。しかし改めて”一花”として勉強や多重人格の話以外をするとなると、自分でも驚くほど話すことがなかった。
それだけ風太郎と自分は、ちゃんとしたコミュニケーションを取ってこなかったのだろう。
この沈黙をどうにかしようと一花は頭を働かせた。
これは風太郎は気づいてないのだろうが実は、今日は一花も風太郎に対して色々と気を使っていた。
フータロー君は楽しんでくれてるかな。
フータロー君は今日出かけるならどこへ行きたいかな。
フータロー君は、誰と一緒に今日を過ごしたかったのかな。
今日の外出自体は一花のわがままから始まったものだったが、いざデートが始まってからは満喫しているように見せかけて、内心ではずっと彼は何をすれば楽しんでくれるか模索し続けていた。
だからあちこちと行先を転々としたし、しかし正解が分からなかったし手応えも感じなかったから、思いつくままに自分が好きな場所ばかり巡ってしまった。
自分でも信じられなかった。まさか自分が、自分を差し置いて彼を楽しませようとしているのだから。これが惚れた弱みというやつなのだろうかと思った。
ふと、どうして自分は彼のことが好きなのだろうかと、改めて疑問に思った。
明確にこの気持ちに気が付いたのは林間学校の後ぐらいからだっただろうか。
その時から感じていた自分の気持ちを一花は思ったほど言語化できない。だけどどういう時に心臓が高鳴るのかは知っていた。
きっと本当の自分を見てくれた時だろう。
これはあくまで客観的に自己分析した上での話だが、一花はおよそ大体の人からは蝶のように花のように丁重に扱われることが多かった。
それが母親譲りの持ち前の美貌のおかげか、はたまた社会的に自己を確立させるために鍛え上げてきたコミュニケーション能力のおかげか、それとも障害というセンシティブな問題を抱えているせいで腫物扱いされているだけなのかはわからない。
ただ、往々にしてそういった必要以上に優しくされることに辟易していた。
優しくされることに疲れてしまうなど、自分でも少し傲慢だとは思う。
だけど風太郎は違った。風太郎は一花が失敗をした時には笑ったり、怒ってくれた。他の人なら一花に合わせてご機嫌を取ろうとして来るところを、彼はどっしり構えて自分の言葉で自分と向き合ってくれる。
彼は一花という個人をどんな形であれ特別扱いせず、対等に接してくれた。それが心地よかった。
そんな一面が好きで、喜んでもらいたくて今日は何度間違えられても怒らず、平静を務めるよう頑張った。
なのに彼は一目で、本当は一花が楽しめていなかったんじゃないかと、仮面の裏側を見抜いてきた。
(君ばっかり、ずるいな)
だから知りたくなった。
風太郎がどう思っているのか。
一花は自分でも不意に口を開いた。
「ねえ、フータロー君はさ、他の子達がいなくなって寂しいと思う?」
「────」
自然と出た疑問だった。
本当は他の子達に帰ってきてほしいと思っているんじゃないかと。
風太郎は一花を見ず、前を向いたまま答えた。
「そうだな」
「……!」
「あいつらには帰ってきてもらいたい。正直に言えばな」
ズキン、と胸が痛んだ。目線も自然と地面に向いた。
正直、聞かなくても答えは分かっていた。
風太郎にとっての自分達五人が接してきた時間はまさしく五等分である。
その間に一花が彼と接してきた時間の大半を、喧嘩や一花からの陰湿な言動に費やしてしまった。
だから他の子達と一緒にいた方が彼にとっては楽しいのだろうということは、何となく分かっていた。
「そう、だよね……」
「ま、欲を言うならお前のところに戻ってくるんじゃなくて、あいつら一人ひとり別々で戻ってきてほしいがな」
「……え?」
予想外の言い方に、一花の顔が上がった。
前を向いていたはずだった風太郎の顔もこちらに向いていて、目が合った。
表情は相変わらず淡泊だけど、瞳は一花の胸の内を見通すようにまっすぐだった。
「嫌なんだろ? 他の奴らに体を取られるの」
「それは、嫌、だけど……フータロー君は私より他の子に会いたいんじゃないの?」
「俺がいつそんなことを言った。あいつらに戻ってきてほしいのは、単純に消えていい奴なんていないからだ。それは一花、お前もだ」
「私も?」
「お前の親父さんの事故がショックだったのは……多少分かってやれる。俺も昔、似たようなことがあったからな」
そんなの初耳だ。
「俺の話は置いておくが、それから他のあいつらが出てくるようになったってのも聞いてる。もし、俺がお前の立場だったら神様ってやつを呪うな」
「……他の子じゃなくて?」
「あいつらだってお前と同じ境遇にぶち込まれた被害者だろ。そのあいつらを呪うのはお門違いだろ」
「……!」
「俺も少し勉強したが、多重人格ってやつは脳の働きの一環でそうなるらしいな。だが、だからってあいつらはお前が作ろうと思って作ったわけでもない。ならそれは最早、運が悪かったって言うしかないだろ」
風太郎の言っていることを今なら素直に受け止められる。
受け止められると同時に、自分が思ったよりも他の子達に抱いていた憎悪の感情も薄らいできているのに気が付いた。
もしかしたら、一か月近く自分だけの時間を取り戻せて心の余裕が戻ってきたおかげだからなのかもしれないが。それでも、何となく他の子達が自分の中に帰ってきたとしても、受け止められるような予感がした。
もう一つ、訊いてみたくなったことがあった。
「じゃあさ、もし私が出てこなくなっちゃっても、フータロー君は今と同じ答えをしてくれる?」
「……? 勿論」
一花が問いかけに、風太郎は当然のように言った。
その”当然”こそが、一花には嬉しかった。
「そっか……よかった」
言いながら一花はベンチから立ち上がった。
急にどうしたのかと見てくる風太郎へと振り返った時、一花はまた笑みを浮かべていた。その笑みは今日何度か見せた怒りを押し殺したものではなかった。
「そろそろ夜になっちゃうね。帰ろっか」
「……そうだな」
風太郎も立ち上がった。
公園への出口へと向かっている最中、背中越しに話しかけられる。
「そういえばよくこんなところ知ってたな」
「私が見つけたわけじゃないんだけどね」
風太郎から行先の要望を聞いてこの場所を決めたのは確かに一花だったが、この場所も結局は他の子の行きつけを借りただけだった。
「四葉のお気に入りなんだ、ここ」
「へー」
「四葉ね、一人で考え事する時とかよくここに来てるんだよ。フータロー君から距離を取ろうとした時なんか、ここにきてあの子泣いてたんだから」
「それは、悪いことをしたな……っていうか、そんなことバラすなよ。あいつだって俺には知られたくないんじゃないのか?」
「ふーん、知らないよーだ」
顔だけを振り返らせると、ベッ、と舌を出した。
風太郎にしたその仕草は、実際には風太郎に向けてというよりも四葉に対してしていた。
これは一花の直感だが、今他の子達がなりを潜めているのは一時的なだけが気がしていた。きっといずれ、また自分は多重人格に戻るのだろうと、根拠のない予感がしていた。
その直感を一花は、ちょっとやだな、ぐらいにしか思っていなかった。以前のようにまた体を取られてしまう、などという危機感は無いにしても、自分の自由時間が単純に削られてしまうことに対する忌避感だった。
だから四葉のお気に入りの場所を風太郎に教えたのも、それに対するちょっとした四葉への嫌がらせだった。
そして風太郎にも。
「上杉さんは一花と仲良くしてればいいんですー」
そう一花が言うと、風太郎は呆れたような顔をした。
しかしその顔も一瞬のことで、すぐさま不敵な笑みを浮かべて彼は言う。
「そうかよ……ったく、相変わらずお前は性格が悪いな」
「素直な子の方が好き?」
「さあな」
実は本当に答えを聞いてみたい質問だったが、風太郎は結局答えてくれないまま、互いの家への分かれ道まで来た。
「じゃあ、今日は付き合ってくれてありがとね」
「家まで送って行かなくていいのか?」
「いいよ。君だっておうちでらいはちゃんがご飯作って待っててくれてるんじゃない? もう結構暗いよ」
「確かに……わかった。じゃあ、またな」
「うん。ばいばい」
一花が手を振って見送る中、風太郎は道の先へと消えていった。
彼が見えなくなってから、ようやく一花も自分の家の方へと歩き出した。
空を見た。もう夕焼けもほとんど沈んでいて夜と言っても差し支えない暗さだった。
天気予報ではこの後、雪が降ると言っていた。
突き刺すような寒さの中、今日は楽しかったなと一日を思い返した。
なんだかんだいって風太郎と二人で遊んだのは今日が初めてだ。
本当は二人だけの時間に専念したかったけど、頻繁に人違いをされてしまったのだけが残念だった。
だけど、得るものもあった。
他の子達を真似する時、彼が自分を見る目も変わったことだった。
二乃の、三玖の、四葉の、五月の真似をした時に彼が見せた顔はその時々の真似をしている子を見る目をしていた。
以前の、まだ多重人格だった頃に裏で控えている時だって一花は、他の子達と接する風太郎の様子は見ていたから知っていた。
だけど不思議なもので、今日は風太郎の見え方が違った気がした。自分が表にでているからだろうか。例えば普段二乃と接している時の風太郎と、今日二乃の真似をした一花と接する時の風太郎は違う気がした。
別人だから当たり前なのかもしれないが、もしかしたら自分が表に出ているから感じ方が違ったのかもしれない。
一花達各人格は裏で控えている間も五感を共有している。では、もしも第六感などというスピリチュアルなものが実在したとすれば、それは共有できているのだろうか。
もしかしたら表に出てきている時しか感じられないことがあるのだろうか。
そして、他の子達は知っているだろうか。風太郎が各人格と接する時に放つ独特の雰囲気のようなものの違いを。
一花は先ほどの公園での会話の最中、ずっと気にしていたことの一つを聞かなかった。
”フータロー君は、誰と一緒に今日を過ごしたかったのかな”
その答えを一花は訊くまでもなく、何となく察してしまった。
一花以外の四人と接する風太郎を目の当たりにして、そのうちの一人と接する時だけ風太郎の様子が違っていた。
風太郎の仮面の裏側を覗いてしまった気がした。
「やっぱり遅かったんだなぁ」
ずっと自分の気持ちについてばかり考えていたから、彼がどう思っているかなど、ちゃんと考えられていなかった。
夜空を見ていた視界が少しだけ震えた。
(いるじゃん。フータロー君に好きな人)
思っても、声には出さなかった。他の子に聞こえてしまうと思ったからだ。
他人格が出てこなくなって久しいが、裏で彼女達が見ているのかはわからない。だけどもしも見えていたらと思うと、一花はこの気づきを彼女たちにバラしてはいけないと思った。
何故ならば一花は、風太郎の想い人がいるのを知ると同時に想いの先にいる人物が自分ではないと知ったのに対して、他の子達はまだ風太郎に想い人がいることすら知らないから。
今まで散々邪魔をしてきた自分だからこそ、これ以上は余計なことをしてはならないと思ったから。
だから一度だけ心の中で、彼が好きになってしまった子に対して嫉妬の炎を燃やして、だけどすぐに消した後、この後零奈とどういうクリスマスの夜を過ごそうかと無理やり思考を切り替えた。
ぐす、と一度だけ音がした。