五つ子ミルフィーユ   作:真樹

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37_信ずるものは

「電話してから行くから、先におじいちゃんのところに戻ってて」

 

 話も終わり、海辺で少し時間を潰した後の頃だった。

 何の電話かと興味本位で聞いてみれば「仕事先だよ」と返事をされた。

 前に会った織田とかいう髭面のおっさんと会ったこともあったので、相手の顔がすぐに想像できた。

 なんでもここ最近の一花は学業を優先して仕事をしばらく休んでいるらしかった。風太郎的には嬉しい話である。

 元々一花に振り分けられていた仕事は、体質の問題上スケジュールに融通が利くものがばかりを取っていたことも有、休職の連絡をした時もあまりトラブルにならなかったという。

 休職の連絡の際は一緒に多重人格が治ったかもしれないという話もしたという。もしも自分ひとりの体のまま仕事を続けるとなれば選べる仕事の幅は大幅に広がることになる。それは事務所にとって喜ばしいことだろう。

 けれど、状況はまたふりだしに戻るかもしれないから、しばらくは様子見ということになった。

 結果論でいえば一花と織田の判断は英断だった。もしも仕事の調整などしていたら、仕事内容に変更の変更を重ねることになっていた。下手をすれば中野一花というタレントのブランディングに信用情報という観点から傷がついていたかもしれない。

 電話は少しでも早く、一花の自分の決断を連絡しておきたいとのことだった。

 曲がりなりにも仕事の電話ということもあり、聞いてはいけない話がでるやもしれないと考えた風太郎は一花を置いて一足先に防波堤へと足を運んだ。

 防波堤の上には海に来る時に乗ってきたバスが停車しており、その脇で一花の祖父が釣りをしていた。

 その祖父の隣まで風太郎は来たものの、向こうはこちらを見るどころかピクリとも動かずに釣竿を握り続けていた。

 

(死んでんのか……?)

 

 バスの鍵も閉まっているし、中で待つこともできない。

 仕方なく祖父の隣に座った。

 

「お主、孫とは仲がずいぶんと良いようだな」

「うぉ……!? 生きてたか…………まあ、色々と世話はしてやってます」

「世話?」

「家庭教師です。あいつの親から頼まれたんです」

「ほお、零奈が」

 

 意外そうな声だった。祖父はわずかに顎を上げ、風太郎を見た。

 風太郎よりも長い前髪に隠れていた瞳に初めて風太郎が映った。

 

「見たところお主は孫と年が近いように見えるが?」

「同い年ですよ。それでも教師役が務まるほどあいつがバ……俺は頭が良いんです」

 

 すんでのところで言葉を変えるのが間に合った。あやうく目の前で孫のことをバカ呼ばわりするところだったと冷や汗をかいた。

 ほぼアウトなところまで言ってしまったような気がしないでもないが、どうやら肝心な部分は聞こえないでいてくれたらしい。

 

「あやつのことだ、お主にいらぬ期待までかけておらんだろうな?」

「誰のことです?」

「零奈じゃよ。あやつはどうも教師というものに妙なこだわりがあるようでな」

「それは……まあ」

 

 否定はできなかった。

 というか、多重人格の子の面倒を見させる以上はどうしても普通の家庭教師の領分は超える。

 最初の頃こそ受け止めきれずに戸惑ったが、今となってはそれも覚悟できている。

 

「大丈夫ですよ。お孫さんとは上手くやってますから」

「上手く……だと?」

 

 もう一度祖父がこちらを見てきた。

 否、睨んできた。

 ジロリという眼光が風太郎に突き刺さった。

 

「あれ?」

「わしは零奈が時々、いい年をして乙女のようなことを抜かすことを指して問うたつもりだったが、それに上手くとは……お主、孫に手を出しておるとでも?」

 

(いらぬ期待ってそっちか!)

 

 話すごとに声のトーンが下がっていく祖父に、質問の意図を取り違えていたことに気づいた風太郎が心の中で頭を抱えた。

 確かに、確かにそういった話もあった。下田から聞いた話だ。

 自分達の親世代の人間にとって零奈と無堂の馴れ初めは美談で、今の一花達と風太郎はどうしても当時の二人と比べられてしまうとか、なんとか。

 主語が抜けた会話をするとこういうことがあるから困る。

 

(だが待ってくれ、これ本当に俺が悪いのか!?)

 

 何が悲しくて片や恋愛トーシローの朴念仁、片や枯れた老人という華やかさの欠片もない野郎二人の会話の中で恋バナなんてしないといけないのだ。

 そんな会話になるかもしれないと予測するのは無理にもほどがある。

 そして何かリアクションをとろうにも、”あながち間違ってもいない”から余計にタチが悪い。

 とにかくここは、勘違いをしたまま返事をしてしまっただけだと正直に答えた方がいいと高速回転した風太郎の脳内は瞬時に最適解を弾き出した。

 

「俺が上手くって言ったのはそういうんじゃなくて、あいつの体のことです」

「体!? 貴様よもやその年で孫のカキタレなのか!?」

 

 カキタレとは古い言葉で、要するに体だけのお付き合いというやつなのだが────

 

(冷静にそんなこと考えてる場合じゃねぇ! なんでこの口は余計な言い方ばっかりするんだ!?)

 

 祖父を見れば事と次第によってはこの場で海へ突き落すとでも言わんばかりに肩を上下させ息を荒くしていた。

 口調も今まで聞いたことがないような具合になっているし、年なのにそんなに怒ると血管きれるぞと、頭の中の俯瞰している自分が祖父へ言っていた。

 

(だからそういう考えが失言に繋がるんだよ! もっとこの状況を何とかしようとしてくれ!)

 

 先ほど一花と話をしていた時には名推理の末に二択の正解を導きだしてくれた自分の脳、どうして今はポンコツなのか。

 とにかく、改めて言い直すしかないと思った。

 さっきは下手に言葉を選んだのが原因なのだから、なるべく誤解がないよう、事実に基づいた言葉を。

 

「そうじゃなくて、あいつの障害のことです!」

「……なんじゃと?」

 

 祖父がピタリと止まった。

 この隙にと口早に説明をする風太郎。

 

「あいつの多重人格のことですよ。家庭教師として勉強を教えるにしても頻繁に中身が入れ替わるから最初の頃は大変だったってだけで────」

「それは……本当か……?」

「本当ですよ」

「いつからだ?」

「ここであいつの父親が亡くなった後すぐって聞きましたけど、知らなかったんですか?」

「知らん……そんなこと、零奈は一度も……そんな……一花が……」

「爺さん……?」

「嘘だと言ってくれ……」

「爺さん!」

 

 

 

「はい、そういうことなので仕事は今後も変わりなく……はい、失礼します」

 

 電話を終えた一花はスマホを耳から話すと、海岸沿いに歩いていた歩みを逆へと向けた。

 視界の少し遠く先、防波堤の上にはバスと小さく風太郎と祖父の姿が見えた。

 

「あれ、立って話してる。釣りしてるんじゃなかったのかな?」

 

 祖父の前には固定された釣竿も置かれていた。だからそれ自体は間違いないのだろうが、当人である祖父は釣竿など見向きもせずに風太郎へと詰め寄っていた。

 

「もしかして喧嘩してる? もう、フータロー君また何か失言でも────え」

 

 仲裁でもしてやるかと、心の中でやれやれと思っている最中だった。

 祖父が胸を抑えてその場で膝をついた。

 傍では風太郎が駆け寄り、祖父の肩を揺すっていた。

 

「嘘、何があったの……!」

 

 足元の砂を強く蹴って駆け出し始めた。

 少しずつ二人への距離が近づく中、電話を終えたばかりで手にしていたままのスマホで再び電話を掛けた。

 電話先の相手はすぐに出た。

 

「お母さん! 今すぐ来て! おじいちゃんが!」

 

 

 

 

 

 一花は零奈へと連絡した後、そのまま病院にも緊急連絡をしたが、離島に医院がないため救急隊が駆け付けるのに少し時間がかかるとのことだった。

 駆けつけた零奈を始め、大人たちによって祖父は旅館へと運ばれた。祖父がいた海岸と旅館では、島に到着した救急隊が駆け付ける時間にも大差がなく、せめて到着までの間はマルオが落ち着いて診ることができるようにという判断だった。

 マルオが診察している間、隣の客室では中野家と上杉家が集合し、主に零奈が風太郎へと質問する形で状況説明が執り行われた。

 逆に零奈からも教えて貰った祖父についての話はこうであった。

 

「仁之助さんが亡くなった当時、一花だけではなく私も精神的に摩耗してました。お父さんは昔から私を過保護気味で、すでに相当な心配をかけさせてしまっていたために一花の体質のことを言い出せなかったのです」

「それにしたって今まで時間はあったんだし、説明するタイミングなんていくらでもあったでしょう?」

「今にして思えば、風太郎君の言う通りで耳が痛いです。あの事故以来、一花はここには来たがりませんでしたし今回ここへ来るにしても今は他の子達もいませんから、無用な心配はかけさせたくなかったのです」

 

 またしてもお得意の説明不足が出たかと、半ば呆れる思いだった。

 けれど状況は理解できた。

 つまり祖父にとって一花が多重人格だと知ったのは風太郎の発言が初めてであり、そして祖父自身は性格上からその事実を受け止めきれず、ショックを起こしてしまったというわけだ。

 家族なのだから知っているだろうと安易に想像した自分にも落ち度はあるのかもしれないと、自省した。

 説明が終わったころ、部屋の襖が開いた。

 奥からはマルオが入ってきた。

 

「マルオさん、お父さんは」

「安心してください。今は落ち着いて休んでいます。ここに運ぶ途中は意識も錯乱しましたが、休まれる前にはハッキリしてましたよ」

「よかった……」

 

 ほっとしたように胸を撫で下ろす零奈。

 祖父の状態を目の当たりにした風太郎からすれば、一時はどうなるかと思ったし、最悪な事態となる可能性まで脳裏を過ったもののひと段落したかと思った。

 まだ中野家内では積もる話もあるだろうが、ひとまずこの場は解散かと思ったところで、零奈の隣に座る一花が神妙かつ、暗い面持ちをしていたことに気が付いた。

 

「どうした一花?」

「フータロー君……」

「一花? どうしました? あなたも具合が悪いのですか?」

「お母さん……」

「もう片方の隣の部屋も空いていたね。そこで診てあげようか?」

「……お父さん」

 

 一瞬、ピクリとマルオと零奈の眉が動いた。

 確か一花はマルオのことを未だに父と認めていなかったはずだ。だからこれまでも名前だったり、あの人言ったり、他人行儀な呼び方をしていたと風太郎も記憶している。

 それがどうして急に、と不思議に思っていると一花はマルオに向かって顔を上げた。

 

「昨日の話の続きなんだけど」

「一花君の今後のことかい? ……悪いが、それも大事な話ではあるが今は君のおじいさんの方を優先して──」

 

「私以外の子だけを、この体の持ち主にする事って、できないかな」

 

「……は?」

 

 一花の言葉の後、唯一声を漏らしたのは風太郎であった。

 それ以外の物は全員、目を剥いて固まっていた。

 一瞬だが、数秒にも思える静止した時間の後「な」と音を発したのは零奈であった。

 

「何を言っているのですか、一花!」

「だから、私なんて消えちゃった方がいいって言ってるんだよ!」

「落ち着け! お前さっきの海じゃそんなこと言ってなかっただろ!」

「フータロー君には分からないでしょ!?」

「だったら分かるように言え! こっちは話がちっとも見えねえんだよ!」

 

 一花の怒声に被せる様な、更に上を行く怒声で返す風太郎。

 だけど感情から任せた声ではなく、逆に一花を抑え込むために意図的なものだった。

 自分よりも感情が高ぶった人間を見ると、逆に冷静になるという心理を突いたものだった。

 それにより、多少落ち着きを取り戻した一花は、しかし焦るような雰囲気は残したままだった。

 

「私はきっと、いちゃいけないんだよ。お父さんが死んじゃって、それから生まれたあの子達に振り回された挙句に林間学校では君を危ない目に合わせて、一人に戻った後は私自身が大変な目にあって……どれもこれも全部私のせいじゃん!」

「一花、それは違う……! 今までのことはお前じゃなくたって誰だって──」

「違くないよ! 全部私が自分で蒔いた種が原因じゃん! だから私が勉強凄く頑張らないといけなくなったり友達から距離を置かれた時には自業自得だけど、これで最後だと思ったんだよ? ……なのにまたこうして、私のせいで今度はおじいちゃんが……!」

 

 キッ、と一花は零奈を睨みつける。

 

「これから先、もしかしたら私のせいでお母さんが危険な目に合うかもしれない。私がいるだけで周りの人を不幸にさせちゃうかもしれない! 私が酷いことをしてきたのはもう分かったから……許してもらえないならいっそ、私を消してよ……!」

 

 初めは強かった語調は徐々に弱まり、最後は消え入りそうなほどかぼそいものとなっていた。

 正座をしていた体勢は前のめりに倒れ丸まっており、まるで誰かに向かって土下座をしているようにさえ風太郎の目には映った。

 一花の言葉を聞いて、そんなことを思っていたのか、とも思った。

 風太郎はかつて、一花が自分の授業を受け始めるようになってくれたころ、いやに態度が殊勝になったと思ったことがあった。

 それを単純に一花は他人格に頼ることができなくなって現実を知った上で、勉学において巻き返せる希望があることや、実際には誰も一花を責め立てる人間がいないことに気が付いたからだと思っていた。

 おそらく間違いではないのだろう。だけど見落としもしていた。

 他でもない一花自身が、誰よりも過去の自分を責めていたのだ。

 これまでの一花の振る舞いは残念なことだが、心情こそ理解してやれるものの誰が見ても褒められる行いではなかった。現実を知り、心を改めた後、自分の歩んできた過去の道を振り返った時に後悔が襲ってくるだろうということは今にして思えば想像できたことだった。どうしてそれを汲み取ってやれなかったのかと、歯がゆさを感じた。

 そして、一花がここまで追い詰められてしまった以上、風太郎は何て言葉をかけてやればいいか分からなかった。

 

(過去は消えない……)

 

 今の一花は、自暴自棄にこそなっているが以前のように心そのものが間違った方向を向いていない。

 明確に、何か解決すべき問題が壁としてそびえたっているわけでもない。

 ただただ、過去を嘆き、未来に不安をいだいているだけなのだ。

 だから何て言葉をかけてやればこの状況を解決できるのか、答えが出なかった。

 

「…………」

「一花」

 

 黙っている風太郎に変わり、名前を呼んだのは零奈だった。

 一花は反応しなかった。

 

「一花、顔を上げてください」

 

 二度目の呼びかけにも応じなかった。

 

「顔を上げなさい」

 

 三度目。

 ビクリと、一花の肩が震えた。

 零奈の声は明らかに冷たく、鋭いものとなっていた。

 昨日、勇也とマルオの喧嘩を仲裁した時ですら聞かなかった静かな怒声には一花であっても言われた通り、顔を上げた。

 それと同時に聞こえたのは、鈍い音だった。

 

「────ッ!!」

 

 一同が注目する中で、零奈が一花に拳骨を落としたのだった。

 よほど痛かったのだろう。頭を押さえて再び畳に蹲る一花。

 一花が弱っている状況で何を、という視線が零奈へと集まる中で、当の零奈本人は淡々とした口調に戻り言った。

 

「自分をそんな風に扱うのはやめなさい、一花」

「お母さん……?」

「今までしてきたことがなんですか。これから起こるかもしれないことが何ですか。あなたの人生はずっと、これからだって続いていくではありませんか」

「でも、私は皆に酷いことをしてきたんだよ……? フータロー君は許してくれてるかもしれないけど、他の人にだっていっぱい、いっぱい……!」

「だったら私も、その人たちに許してもらえるまで一緒に頭を下げて回ってあげます」

「…………!」

「それにこれから私に不幸が待っていたとしても、それはあなたのせいじゃありません。私の不注意のせいです」

「それは……そんなの屁理屈じゃん……!」

「いいじゃないですか、屁理屈で」

「っ!?」

 

 打っても響かないかのように、一花が言葉を強くしても応じず、冷静な口調のままでいる零奈。

 

「未来のことなど誰にもわからないのですから、むしろ適当に予想するくらいでいいのですよ」

「だけど私の場合は違くって」

「では、私の場合は仁之助さんをみすみす亡くしてしまったわけですけど、次は一花、あなたに不幸が訪れる番ですか? もしそうなった時、それは私のせいですか?」

「それは……」

 

 端から話を聞いていて、零奈の発言は何というか、開き直っているような、例えていうならば煽りのように聞こえた。

 それに加えて言うなら、理屈だってめちゃくちゃだ。過去の事故に零奈は関係してないし、未来のことに対する話なんて最早意味不明だ。

 だけど零奈も教育者だ。考えなしに話しているわけじゃないはずだ。

 

「一花、あなたの頭が多少冷えているなら、私が支離滅裂なことを言っているのはわかりますね?」

「……うん」

「あなたが私に言ってたのは、こういうことです。あなたは確かに仁之助さんの事故に関係してたかもしれません、だけどそれと未来のことなど無関係です。関係があると思うのなら、それはあなたが運命とか、そういう都合の良い言葉でこじつけているだけの妄想です」

「妄想……って」

「あなたが自分のしてきたことを反省するのは良いことです。私も今更も責めませんし、怒りもしません。だけど、これから先も絶対に許さないことが一つだけあります」

 

 言いながら、零奈は正座で座っていた膝を二度、三度と前へと動かし一花へ寄った。

 それから一花の肩へ手を置くと、体を起こさせた。

 

「あなたが自分を大切にしないことです」

 

 一花の、息を呑む音が聞こえた。

 同時に起こした一花の体を零奈が抱き寄せた。

 

「あなたがしてきたことを許すかどうかは、他の人たちが決めるでしょう。そしてもし許してもらえないなら、私も貴女と同じ罪を背負います。そして今日みたいに、またあなたが自分を投げ出そうとして時には怒ってあげます。私はいつだっていつまでだってあなたの味方ですよ、一花」

「何で、私なんかのために……」

「私があなたのお母さんだからに決まってるじゃないですか」

「……! ごめん、ごめんお母さん……ごめんなさい……!」

 

 抱きしめられていた一花は、自分の手も零奈へと回し抱き返した。

 涙交じりの声は徐々に嗚咽と比率が変わっていき、今はただ声にならない声が響くだけだった。

 その一花の頭を、零奈は優しく撫でた。

 

「すみません、久しぶりだから痛かったでしょう。今まではこれをするとあなた、入れ替わってしまうかもしれないからできなくて」

「いだかった……痛かったけど、でも、嬉しかったぁ……!」

 

 なおも室内に響く一花の声は、零奈の浴衣の袖を自分で顔に当てたことによって抑えられた。

 その姿を愛おしそうに眺めた後、零奈が勇也へと顔を向けた。

 

「すみませんが上杉君、少し家族だけの時間にしてもらえますか? この場はもう大丈夫ですので」

「あ、ああ……むしろ今まで邪魔しちまっててすみません……風太郎、らいは、行くぞ」

「お、おう」

「うん……」

 

 若干気まずそうな顔をしたまま席を立った勇也は、風太郎達を顎で指示して部屋の外へと続いた。

 廊下に出て襖を閉めて以降、部屋の中の音は聞こえなくなった。きっとこの後、本当に一花のこれからのことを話したりするのだろうが、そこまで聞くことはできなさそうだった。

 中庭沿いの二階の廊下を歩きながら、ふと疑問に思ったことが口に出た。

 

「一花のお袋さん、一花が入れ替わっちまうかもしれないから今までやれなかったって言ってたが、そんなになのか?」

「ああ、まあな。先生の鉄拳を初めて受けた時は、頭割れるかと思ったぞ」

「暴力教師……」

「今のご時世であれを許されるのは、零奈先生だからだろうな」

「綺麗だもんね、あの人」

「らいはもそう思うか? 女でさえ惚れさせちまうんだから、魔性だなありゃ」

「親父、一応世話になった人なんだろ? いいのかよそんなこと言って」

「いいんだよ。もう長い付き合いなんだから。それより風呂でも行くか? 少しは気も晴れるだろ。次一花ちゃん達に合った時に俺らが引きずってちゃ申し訳ねえしな」

「……わかったよ」

 

 廊下を歩く上杉家一行は、その足のまま温泉の暖簾の奥へと潜っていった。

 

 

 

 

 

 海での一件は朝方の出来事だったため、話がひと段落した時でさえまだ時刻は昼前だった。

 零奈たちは話を終えた後、残りの時間を純粋に旅行を楽しむ時間として使おうとしたのだが、些か刺激的すぎたこともあり一家が寝床に着くのも早かった。

 だから隣で一花が目を覚ました時、時刻はまだ夜中の12時ごろだった。

 隣でごそりと布団を剥がして起き上がる気配に、寝ぼけ眼でだが零奈も目を覚ました。

 

「どうしたのですか一花、トイレですか?」

「…………」

 

 返事はなかった。

 うっすらと目を開けると、一花は首を左右に振っていた。

 そして時計に目が留まると、じっと固まった。

 

「まだ夜ですよ。今日は寝るのが早かったですが、まだしばらくは休んだ方がいいです」

「……そうみたいだね。でも先に、やっぱりトイレも行ってくるね」

「はい、いってらっしゃい……」

 

 一花が立ち上がり、部屋の廊下へ出て行く音がした。言葉通りトイレに向かったのだろう。

 零奈はそれ以上は気にせず、眠気に負けて再び意識を落とそうとした時ふと、今の一花の様子は何か変だったような気もしたのだが、睡魔には勝てなった。

 

 

 

 風太郎は中庭へ涼みにでていた。

 その日、勇也は中野家と一緒に食事をするわけでもないので一人で酒盛りをし、風太郎とらいははその付き合いをさせられていた。

 ようやく勇也は先ほど眠りについたので、自分も休む前に少し、酔っ払いの相手をさせられてイラついていた頭を覚ましに外へ出ていたのであった。

 本当ならば単語帳でも開きたいところだったが、月明かりしかない中庭ではろくに見えないだろうし、ベンチに座ってぼんやりとしていた。

 

「フータロー君」

 

 そこへ呼びかける声に、風太郎は顔を向けた。

 

「一花か。もう大丈夫なの────」

 

 か、とまでは最後まで言えなかった。

 彼女の姿を見た途端に、気づいたからであった。

 

「お前……」

「──凄いね。見ただけで分かるんだ。もしかしたらお母さんより見分けできてるかもしれないよ?」

「何でここに……」

「それは私より君の方が知ってるんじゃないかな? 私は裏にいる間何も見えてなかったし」

 

 そう、相手は一花ではなかった。

 そして彼女が言うことが本当なら、状況は随分と変わっている。

 何しろ彼女達が姿を見せなくなったのは去年の十一月の中頃からだからだ。今は三月、四ヶ月近く過ぎている。

 

「ここ、おじいちゃんの旅館だよね。一花がここに来れたってことは、昔のことは随分克服できたみたいだね」

「そうだな。あまりにもマトモになり過ぎて、お前らがもう戻ってこないんじゃないかってヒヤヒヤしたぞ」

「……トイレのために廊下に出た時、この中庭で君を見つけた時はビックリしたけど」

「まあ、なりゆきでな」

「ずばり、一花が良くなった決め手は?」

「知らん。一つに絞れないぐらい色々あった」

「そっか……でも、嬉しいな。君は約束守ってくれたってことだよね」

 

『勉強を教えてあげて。友達になってあげて』

 

 彼女から言われた言葉だった。

 一花には悪いが、あれが無ければ自分はここまでできなかったかもしれない。

 

「お前の方はどうなんだ。他の奴含め、戻れそうなのか?」

「さあ?」

「さあって、こっちはお前のために今まで苦労してやったんだぞ」

「そんなこと言われたって私にとっては君と最後に話したのも昨日の出来事みたいなもんなんだよ?」

 

 だけどね、と続けて彼女は言う。

 

「多分、戻ってくると思う」

「それはお前の勘か?」

「半分勘で、もう半分は何となく、かな」

「そうか、なら信じる」

「あっさりだね」

「前にお前に会った時も、お前が消えないように頑張るって言ったのを信じたから、こうして今に繋がった。なら今度も信じるさ」

「君はこういう根拠のない話は信じないほうだと思ったけど」

「うるせえ」

 

 彼女はこちらは歩み寄ってくると、隣に座った。

 風太郎と同じように、夜空を見上げた。

 

「なあ」

「何?」

「他の奴らは今、見えてるのか?」

「うーん、これも多分だけど、まだ見えてないんじゃないかな」

「それも勘か?」

「うん、勘」

「そうか」

 

 なら信じる、とは再び言わなかった。

 実際、そこまで本気で信じているわけでもなかったからだ。

 未知の心の病を相手に、勘などという信憑性もないもので立ち向かうのはあまりにも無謀だろう。

 もしかしたら今日を最後に、また彼女達はしばらく姿を消すかもしれない。

 だけど信じたかった。

 もしも彼女達がまたしばらく消えてしまうなら。

 もしも今、彼女の裏で誰も見ていないのなら。

 ずっと胸に抱えてた不安と、想いを、軽くしたかった。

 

「そろそろその一花っぽい話し方、やめていいんじゃないか?」

「これはこれで結構話しやすいから、いいかなって思ったんだけど」

「お前と話してるはずなのにずっと一花の顔がちらつくんだよ」

「同じ顔だけどね。じゃあさ、もう分かってるんだから今更かもしれないけど、誰か当てて見せてよ」

「なんで」

「ずっと”お前”呼びじゃん。女の子はそういう雑な扱いで、結構あっさり傷つくんだよ?」

「そうかよ。気を付けないとな」

 

 期待をするような目で彼女はこちらを見た。

 風太郎は体を少し後ろへ傾け、両手を自分の腰の辺りに置くと、元々見ていた夜空へと大きく仰いだ。

 そして一点を見て、言った。

 

「月が綺麗だな、五月」

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