五つ子ミルフィーユ   作:真樹

38 / 68
38_答え合わせの採点結果

 夏目漱石の逸話については諸説ある。

 その諸説の中には、くだんの"I Love You"の和訳に関するものもあり、やれ本当はこんなお上品なエピソードではなかっただの、やれ本当はこんな話自体が無かっただの、案外言いたい放題だったりする。

 絵巻物語りじゃあるまいし、明治から大正にかけてという比較的最近活躍した文豪の記録で、何故こうも様々な話が出回っているのかといえば当時の時代背景が関係するのかもしれない。

 現代でこそ漱石の作品は純文学の代表の一つとしてよく名を聞くが、当時は低俗な娯楽品でしかなかったという。

 そうなれば当時であっても時の人であった漱石の周りについて回る話というのは、学問的な記録のみに留まらずゴシップのような噂だってあっただろう。

 ゴシップ好きの大衆にとって、漱石の和訳の逸話などは胸をときめかせるために人づてで加工されていったのだろう。

 さて改めて、漱石の逸話は要すると実際のところ本人は逸話のような和訳などしておらず、根も葉もない単なる噂でしかなかったという可能性もあるというわけである。

 火のない所に煙は立たぬという言葉もあるが、漱石の著作を隅から隅までひっくり返せば逸話の源流となった文章もでてくるかもしれない。ただそれを確かめるのは砂漠から宝石を掘り出すようなもので骨の折れる作業となるが、幸いにも調べてくれている先人がいた。

 先人の調べた結果をつまびらかに語るのは避けるものの、要約すると漱石の作品の一説に逸話の元となった一文が確かに存在し、それが時代を経て変質していった結果、"月が綺麗ですね"という訳に最終的に落ち着いたという。

 この、一文の形として定まるまでは実に長い年月がかかっており、受け売りでしかないためまったくもって真実と言い切ることはできないが、最終形となった上記の言葉の初出は昭和の映画だという説もある。曰く、葛飾柴又の下町を舞台にした風来坊の男の恋物語をえがいた某映画とのことだ。ここまでくると世代ではないだろうが、タイトルが頭に過った人もいるかもしれない。*1

 

 ここまでの話は、五月が風太郎からいつぞやの国語の授業を受けた後にネットやら本で集めた情報だった。

 なにせテストに出ない話なのだから、いくらなんでもこんな話までは風太郎だって知らないだろう。

 ならば何故五月がこうも躍起になって調べ上げたのかと言えば、原因はやはり風太郎にあった。

 正直五月は色恋の話について風太郎ほど鈍いわけではないが、かといって他人格と比べると未熟だった。

 だから"月が綺麗ですね"という言葉が、それに付随する漱石の逸話によって風情をはらんでいることの理解はできたが、言葉それ自体に対しての情緒を感じることまではできなかった。

 五月だってこの言葉を風太郎から教わっただけならまだ、実際に調べるという行動までは起こさなかっただろう。

 問題なのは、彼からその言葉を聞いたのが、二度目だったからだ。

 

 一度目は花火大会の日。

 打ち上げ開始のアナウンスと共に人混みの雪崩に巻き込まれた五月は風太郎に手を引かれた。その後、予期せぬ接触に風太郎は大層慌てふためき、どうにか取り繕おうとした末に咄嗟に彼は口走った。

 

『月が綺麗だったから!』

 

 打ち上げ花火の音でかき消されたとでも思っているのか、それとも咄嗟に口から出たから言った本人も忘れているのか。

 どちらにしても、あの時から風太郎の気持ちというものは無意識に動き始めていたのかもしれない。

 今改めて思い返しても何故あの場で風太郎からその言葉が出てきたのかは完全にはわからないが、その時は五月も純粋に言葉の意味を理解できず、ただただ大きな花火の音に驚いて一花へと入れ替わっただけだった。

 

 そして二度目は繰り返しになるが、風太郎の家庭教師の授業中だった。

 彼から教わった逸話によって、花火大会の日に言われた言葉の意味に遅れて気が付いた五月は驚き、けれど必死に感情の高ぶりを抑えようと顔を顰めた。その日は風太郎と四葉が揉めている最中で、五月はその日の始まりに色恋沙汰に自分を巻き込むなと宣言した手前でもあったからだった。

 その時の授業では、漱石の作品を題材にした文章題を教わっていたから自然と逸話も聞く流れになったのだが、それにしたって平然と風太郎解説するものだから、この男は自分が言ったことを忘れているのかと睨んだのに気づくことはついになかった。

 もしかしたら他にも意味があり、自分こそがその言葉と恋愛を勝手に結び付けてしまっているのではないかと勘ぐったものだから、自分で"月が綺麗ですね"の言葉の歴史を調べたわけだが、とうとう最後まで他の意味を見つけることはできなかった。

 

 そして三度目。

 本物の月夜に照らされた旅館の中庭。

 ただ、一花の口調で話し続けていた自分が誰か当ててくれればよかったというのに。

 

「あああ、あなた、自分が何を言っているのか分かっているのですか!?」

 

 不意打ちのあまり動揺で声が震えた。

 頬が熱い。胸の中はもっと熱い。

 一花"っぽい"演技なんか全部吹き飛んで風太郎を見た。

 風太郎の顔も真っ赤だった。

 

「すまん……ダサかったか……? 少しカッコつけすぎたよな……」

「謝るなら初めから言わないでください! ……いえ、むしろ今のは取り下げられてしまうようなことなのですか!?」

 

 一転して、風太郎は表情を引き締めた。

 

「いや、本気だ。今、ここでお前に言うべきだと思ったんだ」

「……! ……何故私なのですか? 私などより他の子達の方があなたに好意的だったではないですか」

「確かに、あいつらの気持ちとも向き合っていかないといけない……だが、これが俺の気持ちなんだ」

「でしたら理由を教えてください。私は少なくとも、あなたに好意を持ってもらえるようなことをした覚えはありません」

「確かにお前はずっと俺から一線を引き続けてきた。お前とだけはずっと教師と生徒であり続けた。だがそれは、裏を返せばお前の番の時だけはあいつらに振り回されずにいたんだ。俺があいつらに振り回された時には助けもしてくれた。多重人格の相手なんかやってられないと、家庭教師なんて辞めようと考えた俺をお前が踏みとどまらせてくれた。お前が俺に道を示してくれたんだ」

 

 それはつまり、他の子達がアピールをし過ぎたせいで疲れてしまった風太郎にとって自分は癒しだったとでもいうのか。

 

(そんな皮肉な話があっていいのですか……!)

 

 二乃も、三玖も、四葉も、確かに自分勝手に行動していたかもしれないが、そこに悪意があったわけではない。

 それどころか三人とも、彼との距離をきちんと測りながら仲を進展させていこうとしていたはずだ。

 それなのに風太郎側からすれば疲れてしまうようなことだったのか。

 どうして、と思うものの、きっと理由など一つしかないのだろう。

 四葉の告白が早すぎたのだ。

 他の子達のしてきたことが間違いではなかったと思う。

 だけど、一番最初に四葉が風太郎へ告白した時など出会ってまだ三日目かそこらだった。

 恋愛というものが勉強には不要の余計なものと思い込んでいた当時の風太郎にとっては、四葉の純粋な好意でさえもノイズとなってしまったのかもしれない。

 そして四葉に引っ張られるように一花が暴れ出し、二乃が思いを秘め始め、三玖が行動を起こし始めた。

 自分だけが何もしなかった。

 五月の番の時だけが、変化し続ける風太郎の状況の中で凪の時間だったのだ。

 

(だからって……!)

 

 それでは他の子達があんまりじゃないか。

 あの子達はあの子達なりに正しくやってきたはずなのに、それが報われないなど────

 

(いえ、待ってください。本当に報われないのでしょうか?)

 

「俺の気持ちは今ので全部だ。だから、次はお前の気持ちも教えてほしい」

「……あなたの言い分はわかりました。お答えする前に、一つ確認させてください」

「……」

「他の子達とはどうするおつもりですか?」

「正直言って俺はまだ、お前達五人全員と付き合うことだけが、互いが互いを監視しあっているお前達を不幸にさせない方法かどうか判断できないでいる。だが、必ず答えを出す……だから今は、お前の気持ちが聞きたいんだ。五月」

「私は……」

 

 五月だって、もしも風太郎と付き合うことになったとしたら、ということは考えたことはあった。

 三玖と風太郎のデートを目の当たりにさせられたから、いよいよ彼との交際に現実味が帯びてきたと思ったからだ。

 だから風太郎と三玖が水族館やらをデートしている間にずっと考えていた。

 そして、そのおかげで答えだって出ていた。

 その答えに気づいたせいで、三玖のデート後辺りから風太郎に冷たく当たってしまっていた。

 

「ごめんなさい」

「────」

 

 言って、五月は頭を下げた。

 五月の回答に風太郎は可能性としてはあり得ると想像はしていたのだろう。だが、面と向かって言われることによるショックを受け止めきれていなかった。

 そんな風太郎に、五月は続ける。

 

「正直突然で、私も私自身の内にあるこの想いを理解しきれていません。それでもできる限り言葉にするなら、あなたの気持ちは嬉しいです。もしかしたらこの想いはあなたに対する好意なのかもかもしれません。それが正直な気持ちです」

「……待ってくれ、ならどうしてお前の返事は……」

 

 ごめんなさいなんだ、とまで言葉は続かなかった。

 それほどまでに狼狽する様をありありと見せて風太郎は五月が何を考えているのか探ろうと、必死になっていた。

 

「この問題が、私たちだけの問題ではないことからです。一花も、二乃も、三玖も、四葉も、そして私たちも皆、何かしらの解決策を見出さなければなりません」

 

 五月は一度言葉を切って風太郎の反応を伺った。

 彼の表情は真剣そのもので、五月の言葉を一つ一つ噛み締めるように聞いていた。

 

「全員が納得する形で関係を築くことができなければ、私たちの始まりは誰かを傷つけることになります……ですから──」

「本当のお前の答えを聞くのは、全てが終わった後ってことか」

「私達、そしてあなたにはまだやらなければいけないがことがある。それだけです」

 

 言い終えてから、五月は腰かけていたベンチから腰を上げた。

 もう一度、月に目を向ける。満月だった。

 ここでそのようなことを思うのは、別の意味ももってしまいそうで少しためらったがそれでもなお思ってしまった。

 

(本当に良い月ですね)

 

 心が驚くほど穏やかだった。

 流石に風太郎からあの言葉を言われた時には驚いたが、それ以降はずっと冷静な自分が話をし続けてくれていた。

 ドラマで見る告白のシーンなどはもっと情熱的で、胸が高鳴るものかと思ったが現実はそうでもないかな、と思った。

 

「そろそろ戻りますね。あまり遅くなるとお母さんに心配をかけてしまいます」

「五月」

 

 中庭から旅館の中へと入ろうとした五月の背に再度風太郎の声が飛んだ。

 足を止める五月。

 振り返るよりも早く、風太郎の声が続けて聞こえた。

 

「最後に一つだけ教えてくれ」

「何でしょう?」

 

 風太郎へと五月は振り返る。

 

「もう大分前のことで、今更なんだが……お前らが出てこなくなっちまうようになる直前、俺はお前を……怒らせちまっただろ?」

「ええ、覚えています」

 

 彼にとっては何か月も前のことだろうが、五月からすれば一昨日の話ぐらいの感覚なのだから忘れようもない。

 

「俺は一体何をして怒らせちまったんだ?」

「呆れました。少しは自分で考えようとは思わないのですか?」

「むしろこの数か月、ずっとそのことばかりを考えていた……だが結局分からず、正直あのことのせいで俺はお前に嫌われているんじゃないかと思ってた……」

 

 言って、悔しそうに拳を握る風太郎。

 その様子に五月は少しイジワルをし過ぎたかもしれないと自省した。

 直前の自分の考えを繰り返すようだが、五月からすれば一昨日の話でも彼にとっては数か月前の話。その間をずっと、好きな人から嫌われてしまっているかもしれないと考え続けていたとしたら、生きた心地がしなかったかもしれない。

 だったら今、ここで彼を楽にしてあげたかったのだが、そのために必要なことは彼の質問に答えることであり……それは少々、恥ずかしかった。

 

「…………私が自分の気持ちを多少なり言葉にできたのは、三玖のおかげです」

「三玖が……? なんで……」

「三玖とあなたが楽しそうにおでかけをしているところを裏で見ていて、少し、面白くないと思った……それだけです」

「それってつまりお前、三玖に嫉妬────」

「ヒントはおしまいです! それではまた明日おやすみなさい!」

 

 風太郎の言葉を遮るようにして言い切ると、今度こそ五月は踵を返して旅館の中へと足早に消えていった。

 残された風太郎はひとりポツンと残されて、呟いた。

 

「合ってた……」

 

 

 

 

 

 翌朝、旅館の宿泊もまばらに起きては朝食を取りに食堂へと向かい始めたころ。

 

「ふっか────つ!」

 

 長い夜が明けたことを知らしめるが如く、四葉の大きな宣誓が旅館中に響き渡った。

*1
出典:北村薫著『中野のお父さんと五つの謎』より"漱石と月"

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。