朝になって目が覚めた時、五月はこれがまだ夢であることにすぐに気が付いた。
体を動かしている時と裏で控えている時では少しだけ感覚が違う。
少しだけ宙に浮いているような、ここにいてここにいない感覚というのが裏にいる時は常に付きまとう。
自分の意思で起き上がった時の五月の感覚はそれだった。自分の体を自分の意思で動かしているけど、感覚は裏に隠れている時のもの。だから今はきっと夢の中なのだろう。
所謂、明晰夢を見ているということに気が付いた五月だったものの、さりとて自分の意思で目を覚ます方法など知らなければ無理に起きる必要もないので状況に身を任せて部屋を出た。
今いる場所は新しく引っ越したマンションの方だった。
五つ並ぶ扉の一番端、現実と変わらずそこが五月の部屋だった。
部屋からロフトへ出た五月に声がかかる。
「ようやく起きたわね、お寝坊さん。一花より遅いなんてだらしないわよ」
知らない声だった。
いや、知ってるには知ってる。正確には聞いたことがあるけれど、自分の知り合いの中ではその声の持ち主はいないという意味で知らない声だった。
どういうことかというと聞こえてきたのは自分の声だったからだ。
録音を再生した時のような、発話中に自分へ反射してくるものとは少し違う、聞いていると恥ずかしくなるような自分の声。
それが五月とは違う語り口で話しかけてきたのだ。その口調に聞き馴染みがあった。
だから五月は眼下のリビングで呼びかけてきた自分と同じ顔をした少女が誰であるかすぐに合点がいった。
「二乃……」
「何よ。幽霊でも見たような顔で人のことジロジロと。そんなにガン見しないでよ」
「だって……」
まさか自分達がこうして顔を合わせる日が来るとは、それこそ夢にも思わなかった。
それに二乃は今、普段五月がしている格好とも少し違う。
髪は短いし、頭の両端に蝶の羽のような柄のリボンまで付けている。こんな格好、一度だってしたことない。
それにだ、おかしなのは二乃だけじゃない。
リビングには他に後三人いた。
全員が同じ顔で、少しずつ細かいところが違う。
その中の一人、二乃より更に短い髪の自分が口を開く。
「それよりさ二乃、さっきのはどういう意味かお姉ちゃん気になるなぁ?」
「どういう意味も何もそのままの意味よ。自覚がないなら重症だわ」
「いつも片づけのお手伝いやモーニングコールをありがとうございます」
「反省しなさいって言ってんのよ!」
「一花……」
「ん、五月ちゃんどうしたの? そこにずっと立ってないでさ、早く朝ごはん食べちゃおうよ」
言われてみれば確かに、食卓の上には朝食が並べられていた。
朝食は五人分。空いている席は残り一席だった。
言われるがままに五月は階段を下り、その残りの席に腰かける。
すぐ傍に座っていた肩にヘッドホンを掛けている自分がこちらを向いた。
「寝坊なんて珍しいけど、昨日は遅くまで勉強してたの?」
「えっと……」
大人しい話し方で問いかけてくる彼女は恐らく三玖だろう。
訊かれたことに対しては五月は答えを持っておらず、繋ぎで口にした言葉を持て余した。
昨日のことなど知るわけがない。何故ならここは夢の中で、昨日は一花の番だったけど特に夜更かしもしていないからだ。
とりあえず、そのままのことを言ってみる。
「昨日は一花の番でしたが夜更かしも特にしていませんでしたね」
「私? 何のこと?」
「ですから、昨日は一花が多重人格の入れ替わりの番で──」
「五月、寝ぼけてるなら先に顔を洗ってきなさいよ」
急に名前を挙げられキョトンとした顔をする一花と、呆れ顔の二乃。
その反応と、話の通じなさからしてやはり夢の中の自分達は多重人格ではないのかなと、そう推測した。
五月の考えに答え合わせをするように三玖。
「確かに昔は見た目も性格も一緒だったけど、それでも体まで一緒だったことはないよ。私達はずっと五つ子だった」
「五つ子……」
なるほど”そういう設定”かと状況に理解が追い付いた。
もしも自分達がバラバラの独立した人間だったら、こんな風景になるのかと思うと状況に流されて座っている朝食の風景も感慨深いものを感じた。
きっとこの世界だったら、例えば一花はあんなに自分達他人格を憎むこともなかったのだろう。
なんとこの世界は羨ましいことなのかと、五月はそう思った。
ふと、朝食の風景に違和感を覚えた。
違和感というか、単純に足りない部分を見つけた。
「あの、二乃」
「何よ」
「お母さんの分のご飯が無いようですが?」
「────」
五月の発言に、全員が絶句した。
今度は他の面々が五月に対して幽霊を見たかのような顔で凝視をしてきて、そのものものしい雰囲気に思わずたじろいでしまった。
何でそんな顔をするのか理解できず、恐る恐る五月は言う。
「あの、みんなどうしたのですか? お母さんは──」
「五月」
視界の外で、四葉が声を遮って名前を呼んできた。
見えていないのに何故四葉と分かったかと言えば、既に視界の中にはそれぞれどれが誰か特定している一花、二乃、三玖がいるからだ。つまり消去法である。
呼びかけに対して五月は、四葉へと向いた。
「ひっ!?」
引きつった声が五月から出た。
目を向けた先の四葉には、顔がなかった。
皮を一枚張り付けただけののっぺらぼうが、黄緑色の大きなリボンを頭に付けていた。
その四葉が、無い口でどうやって発音しているか分からないまま言葉を続ける。
「まだ寝ぼけちゃってるみたいだけど、お母さんはもう────
「……っ……!?」
勢いよく息を吸うと共に五月は再び目を覚ました。
目を開けた先に見える室内はまだ暗かった。
窓の外から光は入っておらず、代わりに星々の煌めきと月明かりだけがぼんやりと差し込んでいた。
「起き、た……?」
布団から体を起こす。パジャマがぐっしょりと汗で湿っていた。
夜闇に慣れた目で室内を見回せば、見慣れた室内だった。
自分と四葉の私物が置かれた二人部屋だ。
「四葉……」
その名前を口に出した時、嫌な寒さを感じた。
(何でしょう、この嫌な感じ……凄く嫌な夢を見た気がします……)
寝汗のこともあって、自分が悪夢を見たのは間違いないらしい。
気晴らしと着替えのために五月はベッドから降りると、パジャマを新しいものへと着替えた。
脱いだ後、一時的に床へ置いた着替える前の方の湿り気を帯びたパジャマを持ち上げると、部屋を出た。
しんっ、と静まり返った暗い吹き抜けのリビングが広がっていた。
暗闇の中、つまづかないように気を付けながら階段を降りて脱衣所へ向かった。
浴室手前の脱衣所まで来て電気をつけると、電球型のLEDライトが室内を照らしてくれてようやく呼吸ができるようなったかのように一息ついた。
持っていたパジャマを洗濯籠の中に放り込むと、ついでに洗面台の前に立った。
「今日はもう、眠れそうにありませんね……」
どんな夢を見たのか知らないが身震いするような恐ろしさは今も胸の芯の辺りでたむろしている。
もう一度布団に潜って眠ったとして、もう一度同じ夢を見ることになるかと思うと、どんな内容なのかも分からないのに怖かった。
だから今日はもう朝まで起きていてしまおうと眠気覚ましに顔を洗った。
二度、三度と冷たい水道水が顔に当たり、春先のこの時期ではまだ寒くなってしまうから敬遠するはずのその温度は、逆に現実に引き戻してくれているようで心地よかった。
満足するまで顔をこすった後、フェイスタオルで顔を拭いた。拭き終わってから鏡を見た。見慣れた自分の顔が映った。
寝起きだからいつもの星形のヘアピンは付けていないが、それ以外はいつも通りだ。
(……いえ、寝ぐせが酷いですね。いつも通りではありませんか)
そう考えるとクスリと笑みがこぼれた。
ようやく余裕が戻ってきたらしい。
使い終わったフェイスタオルも洗濯籠に放り込むと、自分の部屋へ帰ろうと廊下からリビングへ、リビングから階段へと戻って行った。
二階の自室に入る前に、自分の部屋の三つ隣の部屋の扉を見た。母の部屋だ。
五部屋あるこの物件のうち、自分含めた娘達には三部屋が割り当てられている。一花で一つ、二乃と三玖で一つ、四葉と五月で一つだ。
零奈の部屋は一花の隣、だから五月の部屋から見ると三つ隣の部屋だ。
自分でも何故そうしようと思ったのか分からないが五月は自分の部屋に入る前に、一度だけ零奈の部屋の前に来た。
音を立てないように慎重に扉を開けると部屋の中が見えた。
ベッドの上で零奈が静かに寝息を立てていた。
その光景に心底、安心が湧き上がった。
それから部屋へと戻ると、ベッドには入らず枕元に置いていたスマホだけ取ると、勉強机の椅子に座った。
画面を点けると時刻は間もなく日の出の時間だった。
布団に入った時間から睡眠時間を算出すると、これなら日中寝不足で悩まされる可能性も低いだろう。
また一つ、安堵の吐息を漏らすとスマホの画面を消し、五月は日の出まで自習用のペンとノートを手に取った。
夜が明けて、時刻はすっかり昼へと差し掛かろうとしている、まだギリギリ午前の頃、"自分"はデパートに来ていた。
今日ここに来たのは他でもない、風太郎の誕生日プレゼントを買いに来たわけである。
ただ残念なのは……
「五月……あんたそんなに真面目なのに何で寝ちゃうのよ……!」
デパートの入り口で頭を抱えているのが、五月ではなく二乃であることだった。
五月は自習をしている最中、力尽きて寝落ちしてしまっていたのであった。
何故か知らないが一花の指名によって風太郎のプレゼント購入係は五月となっていた。特に共有もなかったため、二乃は何を買わなければいけないのかまるで知らない。
だというのに目前まで迫った風太郎の誕生日から逆算すると、買い物に出れる日は今日しかなく、やむなく代打を務めているというわけであった。
急な責任重大に頭痛すら感じる気がする。
とはいえ、好きな人の誕生日を自分で決めれるのだから本来だったらそれほど難易度の高い話というわけでもない。
ならば何故頭を抱えているのかといえば、頭痛の種がもう一つあるからであった。
「まずはどこへ向かうんだい?」
「なんであんたが一緒にいるのよ!?」
二乃の隣には武田がいた。
デパートに入る直前、ばったりと鉢合わせてしまったのであった。
「どうしても何も、ただの偶然だと思うけどね?」
「私が聞きたいのはそれから私についてくる理由の方よ!」
「上杉君へのプレゼントを買うと聞いたからには、僕も黙っていられないさ」
「なんでよ!?」
武田には既に、ここには風太郎への誕生日プレゼントを買いに来たことは説明済みだった。
説明したというか、性格に言うと思わずポロリと漏らしてしまっただけなのだが。
「あんたはフー……上杉とは関係ないじゃない!」
「それを言うなら中野さんだってそうじゃないかい? 学校で君と上杉君が話しているところなんて数えるほどしか見たことがないけど」
「それは……」
あらぬ誤解を招かないため、学校内では風太郎が自分の家庭教師であるということを二乃含め全員が言っていなかった。
二乃的にはあらぬ噂の一つや二つあってもむしろ全然OKなのだが、何しろ相手があの風太郎である。それがストレスになられても困る。
だから学校内ではあくまでただのクラスメイト止まりのはずなのだが……それよりむしろ気になるのは────
「それより、まだ私の質問に答えてもらってないわ。あんたが上杉のプレゼントに口を出す理由なんて無いじゃない!」
「まあまあ、細かい話は置いておいてまずは探し始めようじゃないか。時間は有限だよ」
「聞きなさいよ!?」
武田とも同じ学級長になってからというもの、それなりに話す機会もあって距離の近い話し方ができるようになった気はする。
それは向こうも同様らしく、二乃の詰問など軽くいなすと、そそくさとデパートの専門店売り場の方へ突き進んでいった。
さっさと自分を置いていく後ろ姿を見ながらこのまま置いて帰ろうかとも考えたが、学級長に任命されてしまったからには今後の学園生活のためやむなく後をついて行く二乃であった。
まずは一件目。スポーツ用品総合店。
「意外だね、上杉君はこういう店にも興味があるのかい?」
「さあ、どうかしら」
デパートの入り口でまずは武田の後に付いていってみたところ『上杉君なら実用品を好むだろう』というかなりもっともらしい、かつ的を射た提案のもと筆記用具売り場へ連れて行かれた。ただ何が悲しくて文房具なんかを意中の相手にプレゼントしなければならないのかと思い却下した。
続けて二乃の案内によって来たのがこの店であり、店の選定基準は三玖による事前調査の賜物であった。
ここならば『体力向上』に役立つ何かがあるかもしれない。
総合店だからサッカーボールや野球のグローブ、それらのスポーツに適した衣類なども取り扱っているようだが、二乃はそれらを無視してフィットネス用品売り場へと足を運んだ。
(今更フー君が何かスポーツを始めるとは思えないし)
体力づくりならばこういった類の方がよほど効果もあるし役立つだろう。
スポーツ用品店どころか、ペンギンがモチーフの某激安店でも取り扱っていそうな腹筋ローラーやら腕立てバーを眺めつつ、どれなら風太郎が喜んでくれそうか二乃は眺めた。
対して、付いて来たわりにはそれらの品々など興味なさそうにしながら、一応棚に目だけは向ける武田。
「確認したいのだけど、君たちは上杉君とはどういう仲なんだい?」
「質問の意味が理解できないんだけど?」
品物からは目を離さないまま二乃は答えた。
「いやなに、以前四葉さんが僕に勉強を教わったことがあっただろう。あの時に彼女、やたらと上杉君の話を出すものだから気になってね」
「出歯亀に教える義理はないわ」
「これは手厳しい」
確かに以前、四葉だけが武田に特別勉強を教わっている時期もあった。
けれどそれからすぐ後、四葉もしばらくは一花の影に隠れて姿を潜めて有耶無耶になっていた。
「むしろどうしてあんたは上杉へそんなに絡むのよ」
「彼が僕のライバルだからさ」
「ライバル?」
「彼は常に学年一位、そして僕は二位だ。いつか超えて見せようと、彼と切磋琢磨している仲さ」
「その割にアイツからあんたの話を聞いたことないけど」
「ぐっ……」
武田が胸の辺りを押さえて苦しそうに悶えた。
何か知らないが致命傷を与えたらしい。
「ていうか私の知る限りアイツが一位以外取ったところ見たことないけど、あんた競い合う相手にすらなってないじゃない」
「中野さん、早速僕は君のことが嫌いになりそうだよ……!」
「それはどうも」
冗談かどうか分からないが、取り合わずに受け流す二乃。
そこで棚を一通り眺め終わったが、結局めぼしいものは見つからなかった。
屈んでいた腰を上げると、次の売り場へと向かう。
「もういいのかい?」
「ええ、次行くわ。そこにあるやつ、どれ買ったってあいつなら三日坊主にして部屋の隅で放置しそうだし」
「……」
武田の表情はフォローしてあげたいが、風太郎のことだからありえなくないという顔だった。
店を出る時、スポーツジムのペア券なるものの臨時販売をしている広告も目に入ってこれならあながち悪くないとも思ったが、別に自分が運動したいわけではないのでパスをした。
続けて二件目。ギフトカードなどを取り扱う金券売り場。
「次」
「早くないかい?」
「誕生日プレゼントにお金渡すなんて論外でしょ?」
「ならどうしてここに来たのさ?」
「一応アイツ、事前に聞いた時には『お金持ちになりたい』とか言ってたから寄る候補に入れてただけよ」
「へえ」
「何よ」
「事前調査までしているとなると、君はもしかして──」
「それ以上言ったらあんたの悪口パパに言いつけるから」
「……君意外と性格悪いね……」
「褒めてくれてどうも」
続けて続けて三件目。生活雑貨売り場。
といってもオールマイティに日用品を幅広で品揃えているような雑貨店ではなくフレグランスを重点的に取り扱った店だった。
ここが二乃の本命の店でもあった。
「香りか。悪くないと思うけど、上杉君はこういうお洒落なものとは無縁だと思うけど?」
「一応理由があるのよ。事前調査の中に『疲労回復』もあったの」
「なるほど、アロマのリラックス効果狙いか」
「ご明察」
入り口付近に置かれているガラス瓶に木製のスティックを差し込んだリードディフューザーは素通りして、店の中へと入った。
後ろにくっついて来た武田がそのディフューザーの前で歩みを止めた。
「さっきも言った通り上杉君はこういうのとは無縁だろうから、まずはこういった初心者向けの物を渡した方がいいんじゃないかい?」
「一理あるけど、それって部屋に置いたら放置するだけでしょ。上杉のことだから一度置いたら次に見てくれるのはすっかり瓶の中身が空っぽになってスティックがカピカピになった頃よ」
「なるほど……」
「それより使いきりでもいいからインパクトがあって記憶に残るやつにしたいわ。例えばそうね……アロマキャンドルとか」
試しに手に取って見せてみた。
使い切り一つにつきひと箱で梱包されているそれは結構良い値段のする代物だが、決して高すぎるものではない。二、三個くらいならまとめ買いもできるだろう。
「まあ、君が良いと思うなら僕は口を出さないが……」
「何よ、付きまとってくる割に大人しいわね。とりあえずこれは買ってくるわ。店の外で待ってなさい」
会計を済ませた後、専門店からショッピングモール内の通路へ出てくると武田は大人しく待っていた。
「お待たせ」
「ああ」
「一応私の用は済んだけど、あんたまだ私に付いてくる気?」
「君の買い物に付き合ったんだ。僕の用にも付き合ってくれないかい?」
「頼んだ覚えはないんだけど……まあいいわ。別に用があるわけでもないし」
武田の提案に、断りたい気持ちもあったが渋々二乃は頷いた。
目的地もないため、フラフラと建物内を練り歩き始める武田と二乃。
武田の方から話しかけてきたのはすぐのころだった。
「もうすぐ全国模試だね」
「興味ないわ」
「君はそうかもしれないが、彼はそうじゃないだろう?」
武田のいう彼というのは無論、風太郎のことだろう。
「今日は彼は模試に向けて勉強中かい?」
「私に聞いたってわかるわけないじゃない」
「そんなことはないだろう。今日はいつも通りなら彼の家庭教師の日のはずだ」
「……!」
並び歩いている最中で、初めて二乃は武田の方を見た。
何故知っているのかという驚きの目を向けている。
その視線を横目で受け止めながら武田。
「すまないね、実は君たちの事情はある程度父から聞いているんだよ」
「……そういえば、入院してる時もパパの顔色伺いのためにお見舞いに来てたものね」
マルオと武田の父の間でどこまで話がされているのかは分からない。
ただ、先日の見舞いの際に自分へと接してきた武田父の態度を見たところ、上下関係という意味ではマルオの方が上らしい。
ならば武田家は中野家にお近づきになりたいだろうし、そして互いの家庭には同い年で、かつ異性の子供がいるともなれば都合がいい。
(まさかこいつ……)
背筋に寒気が走って一歩、武田と距離を空けた。
「そう露骨に距離を取らないでくれ。僕だって傷つくよ」
「…………」
「父がどういうつもりか知らないが、僕は君が警戒しているようなことなんて考えていないよ」
「言葉だけで信用できるとでも?」
「すまないが今は他に証明できるものを持ち合わせていなくてね────さて、着いた」
武田を追って歩いていただけなのでどこが目的地か分かっていなかったが、彼がそう言って立ち止まったのは先ほど二乃が寄ったタイプとは別の、本当に幅広なものを取り扱う生活雑貨売り場だった。
しかも百円均一ならぬ、五百円均一のような店である。
「意外と庶民的な店を使うのね」
「僕は庶民だよ」
「嘘よ、あんたからは金持ちボンボンの匂いがぷんぷんするわ」
「僕の家より格の高い家のご令嬢にそう言われるとは思わなかったね」
「私は……」
令嬢などと呼ばれるような立場にない、と言いかけたが改めて考えると武田の言う通り、今の自分はマルオとの戸籍縁組上立派な娘のため、否定はできなかった。
ただ、気持ちだけの話でまだあのボロアパートに住んでいた頃の感じが抜けきっていないから、しっくりこなかっただけである。
言いかけていた言葉を二乃はかぶりを振って言うのを止めた。
「いえ、何でもないわ。それよりも」
「話が逸れてしまったね。どこまで話したっけか」
「うえす──事情まで知られてるなら呼び方を誤魔化す必要もないわね。フー君ならあんたの言ってた通り、今日は家庭教師を休んで家で勉強中よ」
「それは僥倖。彼が自分から休みを申し出たのかい?」
「いいえ、私の方のお母さんに止められたのよ。あいつは両立させてみせるって意気込んでるぐらいだったわ」
「中野院長の奥方か、聡明な方だとは聞いているよ」
「ありがと」
本人を知ると意外と拳で黙らせる脳筋だったり、ポンコツな一面があったりするのだが基本は理知的な人なので嘘ではない。
それに大好きな母親を褒められること自体は素直に嬉しく、二乃の表情は僅かにほころんだ。
「実は心配していたことがあるんだ」
「何よ」
「君たちにかまけているせいで、上杉君が凡人に成り下がらないかとね」
「はぁ?」
凡人。嫌な言葉を使うなと、二乃は内心で眉を潜めた。
ただ言いたいことは分かる。最初から天才というわけではない風太郎を相手に、彼の時間を奪うことはすなわち彼のライフラインとも呼べる成績を貶めることに繋がりかねないということだ。
けれど。
「フー君は今もずっと一位よ。あんたもそれで満足なんでしょ? 仮にちょっとくらい成績落としたって別にダメになるわけじゃ──」
「ダメだね」
「……!」
二乃を遮った武田の声は、これまでの友好的なものとは打って変わって真剣なものへと変わっていた。
「彼が学年一位でなくなれば、僕は彼に価値を見出せなくなる」
「────」
「家柄も、交友関係も、彼自身の人間性も、どれをとっても杜撰と言わざるを得ない。それでも僕が彼をライバルと認めているのは、そんな彼でも決して僕が努力したって届かない”一つ”を持っているからだ」
ただ学年一位で、自分達多重人格者の家庭教師を務めてしまえる男。それが上杉風太郎という男。
「そんな彼が成績まで落としたらそれは凡人以外の何物でもないだろう。僕もそんな男をライバルだと思っていたなどとなってしまったら、それは──」
「さっきから黙って聞いてたらずいぶんと好き勝手言ってくれるじゃない」
大人しく話を聞いていた二乃であったが口を挟まずにはいられなかった。
確かに武田の言うことは筋が通っていて、武田と風太郎、どっちが社会的に優れた人間なのかといえば前者に軍配が上がることは必然かもしれない。
しかし、一つだけ武田は二乃の神経を逆撫ですることを言ってのけた。
『彼自身の人間性も、どれをとっても杜撰と言わざるを得ない』
「あんた、自分がフー君のことを全てわかったつもりになってない? それともそんなにあんたと彼は仲がいいのかしら?」
「…………」
彼は答えなかった。いや、多分答えられなかったのだろう。
少なくとも二乃が知る中で、風太郎が武田と話しているところなど見たことがなかった。
自然と目で追ってしまう学校でも、いつも勉強を教えてもらうため一緒にいるプレイベートの時間でもだ。
だから武田の言っている風太郎像というのは、ただ教室でクラスメイト全員が何となく共通認識に成績なんかも加味したものなのだろうと、そう思った。
「人のことをとやかく言うのなら、まずは自分の目で確かめてみなさいよ。クラスメイトでしょ? 学級長でしょ? いくらでもチャンスはあるじゃない」
「だが、彼は話しかけたところで教室ではマトモなコミュニケーションなど──」
「なら今度の修学旅行、私と班を組みなさい。うちの班にはフー君もいるわ」
以前、前田が諸所の事情から自分と風太郎を班に誘うという話を一花越しに聞いたことがあった。
実際のところ、誘い終えているのかまで確認が取れているわけではないが多分大丈夫だろう。
班の上限人数は五人までだったから、確か空きもあったはず。
だから自分が監視する下で武田が風太郎とコミュニケーションを取ってくれるのに班の話は好都合で、半ば勢いで誘ってしまった。
ここまで来たならばと、二乃は勢いのまま押し通る。
「私はあんたの親でも世話焼き係でも何でもないから、後は好きにすればいいわ。でも、フー君のことをよく知りもしないで勝手なこと言うのは許さないから」
捲し立てるようにそう言うと、詰め寄られた側の武田は困惑するように一歩、退いた。
それから一度自分を落ち着かせるに目を伏せると、次に目を開けた時にはいつもの余裕の笑みが張り付いていた。
「どうやら、僕としたことが少し熱くなっていたらしいね。すまない、中野さんの言う通りだよ」
「……分かってもらえたならいいわ」
「君の誘いには乗らせてもらうよ。班の申請、君の班に僕の名前も追加してくれて構わない」
「ん」
「さて、少し話過ぎたね。僕は買いたいものは選び終えたけど、お詫びだ。君も何か欲しいのがあればこの場は僕が奢ろう」
「いいわよ別に」
「誠意を見せたいんだ。提案を受けてくれた方が僕は嬉しいよ」
「……」
そんなことを言われたとて、来たくて来た店でもなければ会話に夢中で商品もろくにみていない。
これから選ぶにしても少し疲れたし、早く済ませたかった。
ふと、棚に目を向けるとアクセサリー売り場が目に留まった。
五百円で買えるような品だから綺麗なチャームも付いていなければ、大きさもそれほどでもないワンポイントなものばかりだったが、可愛いものがあった。
「じゃあこれでいいわ」
「他にはいいかい?」
「いいわよ、もう」
”何故か”目に留まった蝶の柄のリボンと、緑の大きなリボン。
いつも五月のセンスに合わせて星型のヘアピンを付けているが、たまにはこういうのも悪くないだろう。
それらの品を武田に渡した後、店の外に出て少しした後、会計を終えた彼も部屋を出て来た。
「はい、これ」
「ありがと」
「謝罪の気持ちだからお礼は結構だよ」
「言いたいんだから言わせなさいよ」
店のブランド名が印字された不透明のポリ袋を受け取った後、二乃は武田に背を向けた。
「話したいことももう終わりなら今日はここで解散でいいかしら?」
「うん、大丈夫さ」
「そ、じゃあ次はまた学校で……あ、ちょっと待って」
「?」
去ろうとした足を止めて、二乃はもう一度だけ向き直った。
「一つだけ確認したいんだけど、いいかしら」
「なんだい?」
「あんた、修学旅行でフー君とか私と一緒にしている間、私の邪魔をするつもりないでしょうね?」
明言はしないが、先ほどの話の続きだった。
風太郎が成績を落とす要因が自分にあるならば、二乃の邪魔を武田がしないかという不安だった。
二乃の質問の仕方は、自分の風太郎への想いを前提にした問いかけであったから、まったく”そういった”事情を知らない武田からすれば何のことかわからない質問のはずだが。
「安心してくれて結構だよ。僕が口を出そうとしたのは君のお父さんと上杉君の雇用関係の話だけさ」
「本当でしょうね?」
「本当に他意はないよ。僕もまだ、馬に蹴られて死にたくないしね」
「……なにそれ?」
「このことわざは上杉君からまだ教わっていないのかい? というか、一般教養だと思うがね」
「知らないわ」
「まあいいさ。出歯亀になるつもりはないということだよ」
「ならいいわ。呼び止めて悪かったわね。それじゃ」
言いたいことだけ言い終えると、今度こそその場を去る二乃。
後ろ姿を見ながら武田は一人呟いた。
「上杉君も隅に置けない人だね、まったく」
そう言えば、二話前の「41_五分の一じゃなくて、五分の四側」の回にて、松井さんが一緒に修学旅行の相手として組みたいと言っていた相手の名前を前田ではなく武田と言い間違えてしまっていたので修正しました。
大変失礼しました。