とある日、中野少女達が他人格と交流をするためにつけている日記に、日々の記録とは別に一文が書かれていた。
『夏休みの間に行くフータロー君とのお出かけ先、海がいいかな? それとも山がいいかな?』
『2018/7/15 二乃
断然海ね。海意外あり得ないわ。だってまず私が山に行きたくないもの。何が悲しくてクソ熱い中わざわざ汗をかいて山昇んなきゃいけないのよ。それに私は何年か前のトラウマを今でも忘れてないわよ?
四葉の番だった日。あの時もハイキングに行く日だったから四葉ならぴったりだと思ったら、休憩所で暇になるなり突然虫取りを始めるんだもの。
最悪。本当に最悪だったわ。
今でも間近で見させられたセミは夢に出るし、触った感触を思い出す度に手を洗いたくなるわ。
だから仮に、万が一山になったとしても絶対に虫に近づくんじゃないわよ四葉。いいわね! 絶対よ!?』
『七月十六日 三玖
私は山がいいかな。確かに虫は嫌だけど、山の方が静かだし、自分のペースで楽しめるから。
それにフータローとお話する時間だって多く取れると思う。海だと多分、動いてる時間の方が多くて話してるどころじゃないだろうし、もし私の番の時だったとしたら終わった頃には私が虫の息になってると思う』
『2018年7月17日 五月
私も山の方がいいですね。私も体力には自信がありませんし。そういった意味で言うと、上杉君も同じではないでしょうか。
二人揃って浜辺で体力尽きてダウンというのは、端から見れば中々滑稽な光景になりそうです』
『7/18 一花
海派でーす。言い出しっぺながら、やっぱり意見割れるねー。
でもフータロー君が体力切れしちゃうって話なら、あのもやしっ子は山でもダウンしちゃうんじゃないかなぁ。
あ、でも三玖が山が良いって言うなら私は山でもいいかも。
まあとりあえず今のところは海派ってことで、二対二で丁度だし、最終決定権は四葉に託したってことで!』
『7月19日 四葉
夏休みは時間いっぱいあるんだから、どっちも行こうよ!』
夏休み三日目。
冷房の効いた部屋で二乃は自室にいた。
今年の夏の厳しさはお天気キャスター曰く、過去最高の酷暑とのことらしい。
リビングでそのニュースを見た時、零奈などは。
「ボジョレーの売り文句みたいですね」
などと呟いていたのが何となく記憶に新しい。
家に引きこもってはいるものの、別にひとりというわけではなかった。今日に限った話でなく、なんとこの三日間、常に風太郎が傍らにいたのであった。
この夏休みで風太郎からの好感度をどのようにして稼ごうと思っていた自分達にとって、これ以上の僥倖はないだろう。
また一日、彼と一緒に過ごすことができる。そんな一日の始まりの朝。
「もういやー!!」
朝から晩までフルタイムの勉強地獄が三日目に突入し限界を迎えた二乃が吠えていた。
「なんで毎日毎日朝から晩まで勉強しっぱなしなのよ! もういや! うんざり! こりごり! 帰る!」
「お前の部屋だろ」
「フー君の鬼! 悪魔! ひとでなし!」
「うるせえ。さっさとやれ」
「少しぐらい遊ばせてくれたっていいじゃない! 私達なんて夏休みが楽しみ過ぎて、どこに行くのか相談だってしてたのよ!?」
引き出しにしまっていた日記を取り出すと、先日相談した海か山か論争のページを開いて突き付けた。
風太郎はその日記をわきにどけながら。
「お前らがいつまで経っても赤点を取り続けるのがいけないんだろ」
「赤点を取ってるのは五月よ! 私は関係ないじゃない!」
「五月が受けたテストと同じ問題をお前ら四人も受けてるだろ。その結果しっかり赤点を取ってたじゃねえか」
言いながら、風太郎は三年に上がってから最初の期末テストの答案(手書きコピー品)を机の上に出してきた。
二乃の名前が書かれている五教科の答案は、赤点と赤点じゃない答案が半々くらいあった。
う、と言葉に詰まる二乃。
「し、知らないわ!」
「そうか。なら改めてお前ら五人がどれだけ馬鹿か知ってもらわないといけないな」
机の上に置かれている、二乃が現在取り掛かっている真っ最中の風太郎お手製の問題集。
二乃一人だけでも数十ページに及びそうなその紙束の上に、同じ分厚さの紙束がリュックサックから取り出され、重ねられた。
「……何それ」
「問題集に決まってるだろ」
「そうじゃなくて、さっきまでのが夏休み中のノルマじゃないの!?」
「そんなわけないだろ。今までの分は一週間分だ」
「ということは後四倍近い量が残ってるってこと……?」
旭高校の夏休みの期間は一か月と少しほど。そこから二乃は問題集の量を逆算し、答えを導き出してから、しなければよかったと気が遠くなった。
へにゃりと椅子に座り直す二乃。
そんな二乃に容赦なく、風太郎は目線だけで早く続きを進めろという圧を掛けていると、扉をノックする音がした。
扉が開くと、入って来たのは麦茶のデカンタと氷の入ったグラスをトレーに乗せて運んできた零奈だった。
「頑張っていますね。勉強熱心なのはいいことですけど、少し根を詰めすぎじゃありませんですか?」
「俺はこいつらのためを思って言ってやってるんです。まだこいつらは一学期丸々をスキップしたロスだって取り返せていないんですから」
風太郎の言うロスとは、一花以外の四人が抱えている問題のことだった。
一花の学力は最近は既にかなり改善されてきているが、ついこの間まで小学生レベルで止まっていたということが発覚し、風太郎も最も力を入れて勉強を教えている。
ただそれとは別に、他の四人も二年の三学期の期間を丸々姿を見せなくなってしまったせいで、かなり遅れていた。
正直言って留年しなかったのが奇跡なくらいだった。
だから一花以外の四人も含め、実は勉強方面でもかなりヤバく大真面目に取り組んでいるという次第であった。
「風太郎君の言っていることは分かりますが、それは二乃達だってよく分かっていることです。この子達、一人の時だって結構頑張っているんですよ」
「学生として当然です」
「……普通の子は、君ほど集中がもたないものなんですよ」
いわゆるオーバーワークというやつだろう。
確かに、世の中には起きている時間全てを勉強に費やしてもなれるかどうか分からない職業というものがある。身近な例でいえば医者とかだろうか。
ただ往々にしてああいうのは頭の良さの他に、努力することそのものに対する才能のようなものも持っているのだろう。
残念ながら凡人の二乃にそんな才能はなかった。
「そうよ。一生に一度しかない高3の夏休みだもの。もっと何かするべきだと思うわ」
「何かって、何するんだよ。出掛けるっつっても金なんか持ってないぞ」
「おあつらえ向きなのがあるじゃない」
「?」
「クラスLOINE。連絡あったでしょ?」
「?」
「なんでピンときてないのよ」
呆れ顔の二乃は自分のスマホを取り出すと、クラスのグループLOINEを見せた。
『それじゃあ皆さん来週の月曜日午後から海に集合ということで』
前後のクラスメイト同士でのやり取りは割愛するものの、〆として武田から学級長としてそのようなまとめのメッセージが画面には表示されていた。
そのメッセージを見せてから改めて風太郎の顔をみたが、いまいちピンと来ていないようで逆に二乃の方が不安になった。
いやまさか。そんなわけないでしょと。
一抹の不安を携えてグループラインの自分が最後に送ったメッセージを見ると、既読の数は"28"で止まっていた。
なお、二乃と風太郎のクラスのメンバーは30人である。
自分自身は既読の数に当然含まれないものの、それを差し引いても後1足りない。
焦る気持ちでグループメンバー一覧を表示させると、フルネームで登録されている風太郎のアカウント名を探して画面をスワイプした。
無かった。
「おい二乃、固まってどうした────」
風太郎の言葉を遮って両肩を掴む二乃。
掴んだ手の力は強く、真正面に据えたまま顔だけは床に落とすと、吐き出すように言った。
「ごめん気が付いてあげられなくて……! まさかあんたがハブられてるなんて私、ちっとも思ってなかった……! ごめん、ごめんね……!」
「LOINEのグループならスマホを買った時に誘われたが断っただけだぞ」
「もっとクラスに馴染もうとしなさいよっ!? 紛らわしいわねっ!!」
本日二度目、二乃は吠えた。
海に向かった二乃と風太郎の二人は、現地に到着すると一度着替えのために解散した。
水着に着替え終え、更衣室を出ると近くに風太郎の姿はなかった。
こういうところで気が回らないのが彼らしいと思いつつも、二乃も仕方なくスマホや日焼け止めなどの消耗品を入れた鞄だけを持つと、一人で歩き始めた。
向かった先は浜辺の一角で、更衣室に向かう途中、道路と浜辺の沿岸沿いを歩いている時に同年代ぐらいの集団の影が見えた方角だった。
案の定、近くまで寄ってみればクラスメイト達の姿があり、近くに休憩所らしきスペースも作られていた。
こちらが向こうの姿を確認した時、同じぐらいのタイミングで向こうもこちらに気が付いたらしく、クラスメイト達の中に紛れていた松井が手を挙げた。
「中野さん来た! 待ってたよー!」
「少し遅くなったわ。待たせたわね」
「あ、今日は二乃の番なんだ。ラッキー」
言ってから、松井は気が付いたように口に手を当てた。
「って、こういう言い方したら他の子は嫌な気分になるよね。ごめん」
「別にいいわよ。慣れてるし」
(ま、一花には後でフォローした方がいいかもしれないけど)
正面に立つ松井から視線を外すと、周囲を見回した。
視線を巡らせた先では他のクラスメイトたちもそれぞれ思い思いにビーチでのバカンスを満喫していた。
今日のこの場はとにかく夏休みの間でも皆で何かやろうという集まりであったので、集まったからといってすることが決まっているわけでもないから自由なのであった。
「誰か探してるの?」
「フー君は?」
「ああ、上杉君もさっき来たところだよ。ほらあそこ」
言って、松井は一つの方向を指さした。
二乃達がいる場所よりも海よりの砂浜で、武田と前田に捕まっているところだった。
向こうは向こうでわざわざ水着に着替えているというのに、何やら立ち話をしているらしかった。ていうか何よ武田のあのブーメランパンツは。
「呼んでこようか?」
「自分でいくからいいわよ」
「流石二乃、大胆だね」
「ていうか一緒に来たくせして先に行っちゃうんだもの。一言文句を言ってやらないと気が済まないわ」
「一緒に?」
疑問気にオウム返ししてくる松井に、何か自分は変なことを言っただろうかと二乃は視線を戻す。
戻した先で松井、口元をニヤつかせながら。
「そっかー、つまり二乃は海に来る前から上杉君と一緒だったんだ。やーらしーっ」
「殴るわよ? あんた分かってて言ってるでしょ?」
「何が?」
「あいつは私の家庭教師でもあるって────説明するのも馬鹿らしいわね。悪いけどまた後でね」
「そういえばそんなこと言ってたね。まあいいや、うん。行ってらっしゃい」
松井に見送られながら二乃は風太郎達のいる方へと向かい始めた。
歩きながら、風太郎が自分の家庭教師であることなど今更説明する必要などないほど当たり前のことだと思っていたのだが、他人からすれば忘れてしまうようなことなのかと考えていた。
風太郎達三人の方へと近づいてから。
「ちょっと」
「二乃か。どうした?」
「やあ、中野さん」
「おう」
風太郎の返事に続いて挨拶をしてきた武田と前田の二人にも一度だけ目線を送り、軽く手を挙げて反応した。
それから風太郎へと向き直ると。
「どうしたじゃないわよ。あんたね、普通一人で先行く?」
「何の話だ?」
どうやら着替えを待たずに先に行ったことに対して怒られていることすら理解できないらしい。
こう飄々とした態度を取られると、腹が立つどころかむしろ呆れてしまう気持ちの方が先に沸いて来た。
これ以上は言ったところで何も響くまいし、むしろせっかく外へ連れ出せたというのに台無しにしかねないと踏んだ二乃は続く言葉を飲み込んだ。
その代わり。
「なんでもないわよ……それよりもよ……」
「?」
「私にも少し、構いなさいよ……」
自然と視線が斜め下の方を向きながらも、そう言った。
先日の修学旅行の際、自分から風太郎に対する告白を前田と武田にも見られているらしい。だから今更隠す必要もないという判断で率直に自分の気持ちを言ったのだが、それにしたってやはり多少は恥ずかしかった。
二人の方も目を丸くしている。その様子からして、もしかしたら自分が自覚している以上に夏の海に気分が浮つかせられて、大胆なことをしているのかもしれないと、今更ながら自分を客観視できた。
けれども。
(こういう大胆なアピールはキュンと来るものよね……私がこんなに恥ずかしいんだから、きっとフー君だって────)
「わざわざ俺のところに来るって、お前友達いないのか……?」
「あんたにだけは言われたくないわよ」
恥ずかしがるどころか真顔で心配そうな顔をしてくる朴念仁に、二乃の心は急転直下で冷えていった。
「上杉君、いくらなんでもそれはないんじゃないかな」
「やっぱお前に一花さん譲ったの間違いだったか……?」
そうよそうよ、もっと言ってやんなさい。でも一花は初めからあんたのものじゃないわよ
「すまなかったね中野さん。僕達のことは気にしなくていいから、彼を持って言ってくれたまえ」
「え? あ、うん。じゃあお言葉に甘えて」
「人を物みたいに言うな」
「オメーは大人しく二乃さんに持っていかれとけ」
前田からの名前呼びに少しばかりひっかかりつつも、二人からもお許しを貰った二乃は風太郎の手を引っ張ると人気のない方へと向かって再び歩き出した。
その二乃の背中に向かって、武田の声が響く。
「後、15時ぐらいになったらみんなでスイカ割りをすることにしているから戻ってきておくれよ」
「りょーかい。学級長の仕事任せちゃって悪いわね」
「こういう立ち振る舞いをしている方が僕の性分に合うだけさ。気にしないでくれたまえ」
つくづく同僚に恵まれたものだと肌で感じながら風太郎を引っ張ると、二乃はクラスメイト達が先に設営しておいてくれたらしい休憩所まで来た。
休憩所はレジャーシートが敷かれており、ビーチパラソルが開いた状態で立ててあるおかげでシートの上は日陰が作っている。
同じようなセットが何個か並んでいて、仮に何人かまとめて休もうとしても十分収まるだろう広さをしていた。
今はまだ全員遊び初めだからか、休憩所内にクラスメイトの姿は一人もいない。
選び放題の中で二乃は一つのシートを選ぶと、その上に腰を落として持っていた鞄を横に置いた。
「ったく、こんなところまで連れてきて何がしたいんだよ」
風太郎が頭の後ろに手を回し、浜辺の方を見ながら言った。
対して二乃は鞄の中から日焼け止めを取り出すと、それを自分の体に塗りながら後ろで突っ立っている風太郎に向けて背中越しに返事をする。
「そりゃ私だって悪いと思ってるわよ。せっかくクラスのみんなが集まってるんだもの。私だって他の子達とも遊びたいし……」
「何ブツブツ言ってんだ?」
「だけどね! 気に入らないのよ! せっかくの夏休みに、初めてあんたと海に来たのに、あんた何も言ってくれないじゃない!」
言葉が強くなるのと反比例して、内心で二乃は『これはマズイ流れだ』と冷静に俯瞰していた。
分かっていても、口は止まってくれない。
元々我慢の限界を迎えてこの場に来たのだ。だというのにこのノンデリカシーはこちらに気を使ってくれている気配など一切なしで、二乃のフラストレーションは解消されるどころかむしろ溜まる一方だった。
「何もって、何を言えっていうんだよ……」
「それくらい自分で考えなさいよっ!」
(あ、ヤバ、涙声にまでなってきちゃった……)
今日、二乃が着ている水着は買ってから初めて着たものだった。
もちろん、彼のために新調した水着である。
日記で一花から夏休みの過ごし方を訊かれた時点で二乃は、海に限らず水場の遊び所には一度くらい行くだろうと考えて買いに走ったのであった。
もしも自分が着るなら黒や薄紫を基調としたものにしたかったが、他の人格が着る場合でも変にならないように虹色をベースに、しかし派手にならないよう彩度はパステルカラーまで落としたデザイナーによる一品ものをわざわざ選んだ。
それぐらい気を回したというのに、対して向こうは何も気を使ってくれないのが女心として腹が立ってしまったのだ。
だけどここで詰めるような言い方をしてしまえば、割とストレス耐性の低い彼のことだ、怒らせてしまうか最悪、嫌われてしまうかもしれない。
そんな恐ろしい展開が見えているというのに、ブレーキが壊れた列車のような自分の感情は止まってくれないから自分でも困っていた。
「二乃……」
「何よっ!」
「その、置いて行っちまったことは悪かった……」
「今更謝られたって遅いわよ!」
自分という人物は本当に面倒だと思った。怒っていると伝えた後に謝られてしまうと、それだと実は本音では悪いとなんか思っていなくて、この場を何とかしたいから謝っているのではないかと勘繰ってしまう。
だから謝られたことで、むしろ一層虫の居所が悪くなりそうだったところに、風太郎の声が続いた。
「お前がクラスに馴染めって言うから、焦っちまった」
「……あ」
そういえば家を出る前に、そんなことを言った。
更にそういえば、修学旅行の時は自分達の着替えも待ってくれていた。
あれは班行動で、彼の傍には他にも武田と前田がいたし、自分と一緒に松井も着替えていたからシチュエーションは同じでもベツモノかもしれないが、それでも彼は彼より遅く着替え終わった三玖に対して嫌味も何も言ってこなかった。
それどころか────
「じゃあ、私のためにわざと……?」
「思い出してみれば修学旅行より前までは、お前とは学校じゃあまり関わらないようにしてたからな……お前と一緒にいても冷やかされないように、先にクラスの奴らに顔を売っておこうと思ったんだが……」
それも合っている。
学校での風太郎は基本的に人間関係というものを自分から持たないようにしている節があった。
クラスメイトだけではなく二乃や他の人格に対しても同様で、風太郎は三年に上がった新クラスでも孤立しているといっても過言ではなかった。
そんな風に振舞ってしまうのは、彼が勉強以外の余計なものに極力関わらないようにしているからということを二乃も知っているし、むしろ学校外では自分達のために時間を使ってくれているのだから頑張ってくれているとさえ感じていた。
だというのに、たった一言二乃が言っただけで方針を変えてしまうということは。
それってつまり。
「改めて、人を知るってどうやったらいいかさっぱりわからねえな。言われた通りにしたみたって、結局何か掴めたわけじゃないし」
”私を見てて”
前に自分が言った事を、彼は実行しようとしてくれたということなのだろう。
「……何よそれ」
「二乃?」
反省するように俯いていた風太郎を見ているうちに、怒っていた気持ちやら悲しくなっていた気持ちがどこかに行ってしまっていた。
それよりもむしろ。
「ぷっ」
まだ目尻が熱いままだというのに、笑みがこぼれてしまった。
おかしいまま、バレないように目尻をぬぐいながら言う。
「顔を売るって、結局あんた顔なじみとしか話してなかったじゃない」
「こ、これから挨拶回りに行こうと思ってたところだ」
「そもそも何よその言い方。友達が相手でしょ? 大人じゃないんだから、もっと気楽な言い方でいいのよ」
「そうなのか……?」
「そうよ」
風太郎は顎に手を当てると、こちらに言うのではなく「難しいな……」などとぼやきはじめた。
その姿が妙に可愛らしくて、仕方ないというように溜息が出た。
「じゃあ、私と一緒に行きましょ。打ち解けてないあんたが行ったところで変な空気になるだけだろうし、私が間に入ればいくらかマシになるはずよ」
「結局お前に頼ることになるのか……悪いな」
「もう、フー君ったらさっきから謝ってばっかりじゃない」
「……そうだな、助かる」
「うん」
塗り終わった日焼け止めを鞄に戻した二乃は、立ち上がるとパラソルの外に出た。
さっきよりも足元の砂が熱くなっている気がした。
跳ねるようにしながらクラスの方へと戻ろうとすると、風太郎の前まで来た辺りで────
「戻る前になんだがな、二乃」
「え、何?」
「その…………似合、ってるぞ…………それ」
そう言った彼の顔が赤くなっているのは、気温のせいだけじゃないと思いたかった。
「────」
ただ、顔が熱いのは自分だって同じだった。
ジリジリとした太陽の光による外側からの熱さだけじゃなく、内側からの熱さ。目をまん丸にしながらその感覚だけを感じていた。
熱中症になりそうなそんな熱さは、けれど心地よく。我に返ると一歩、二歩とだけ進み彼の横に立つ。
それから彼の耳に顔を近づけると。
「皆のとこ戻らないで、このまま二人で遠くまで行っちゃう?」
「…………!」
仕返しをしてやった。
今度はこっちが目を丸くさせてやる番とでも言わんばかりに。
返事を待たずに今度こそクラスの方へと向かって歩き始めた。
跳ねるような足取りは、砂浜が熱いせいだからか、気分のせいだからか分からなかった。
「あ、後二乃、最後になんだが」
「んー?」
「結局お前を怒らせちまった原因の、俺が言ってやれなかったことって何だったんだ?」
彼は心底本気の顔で訊いてきた。
つまりさっきのは”言われたから”じゃなくて”自分で思いついて”言ってくれた一言らしい。
なんというか、この男のこういうところのせいで時々ノンデリカシーという言葉の定義を疑いたくなる。
それはともかく、二乃は振り返ると、さっきからこっちの気持ちを振り回し続けてくる彼をもう少しだけ困らしたくて、不敵な笑みを作って答えた。
「さあね、内緒よ」