新学期初日。教室の扉を風太郎が開けるとガラガラとした音がいつもより大きく聞こえた気がした。
夏休みに入る前と比べると小麦色に焼けた生徒も多く見える間をすり抜けて風太郎はいつものように自分の席へ行くと、リュックサックを机の横に掛けて中からノートと参考書、それから筆記用具を取り出した。
相変わらず風太郎に話しかけてくる生徒はいない。それは風太郎本人からしても都合のよいことであった。
いつものように一心不乱にノートにペンを走らせている間も次々と生徒達が登校してくる。
その度に久しぶりの再会に喜ぶクラスメイト達の黄色い声がして、風太郎はそれを煩わしく感じていた。
そうしてまた、次の生徒が登校してきた。
ガラガラ、とまた一際大きく扉の音が真っ先に耳に届いた。
(……?)
風太郎はペンを走らせている手を止めた。一つの違和感に気が付いたからであった。
教室内がやけに静かになったのだ。
先ほど、自分が教室に入った時も扉の音が大きく聞こえたのも、これが原因かと気が付いた。
扉の音が大きくなったのではなく、周りの音が静かになったのだ。
そしてその静まりは風太郎の時よりも顕著だった。何故ならば風太郎が顔を上げてなお、その静寂が続いていたからだった。
顔を上げた風太郎の、偶然視線の先にいた何人かの生徒は一様にして教室の出入り口の方を見ていた。
釣られるように風太郎も視線を追ってみると、その先には五月が立っていた。
「お、おはようございます……」
わざわざそう言ってからクラスの中に入って来た五月の目線は俯きがちだった。
背中も丸まっており、肩に掛けた鞄を両手で握り占める姿はまるで縮こまる子供のようであった。
その五月が自分の席に座ったところでようやくクラスの空気は徐々に戻り始めていった。
けれども、ぽつぽつとところどころから聞こえてくる生徒達の声は上擦っているような感じがあり、無理やり普段通りの振る舞いをしているような気配さえあった。
風太郎はこの時の雰囲気を、何かいつもと違う気がする、程度に感じたまま自分もノートに向き直ったのであった。
「五月」
風太郎は廊下で五月を呼び止めた。
呼びかけに五月も振り返る。
「今日はこの後どうする? 今日も図書室でやっていくか?」
風太郎はリュックサックを背負い直しながら訊いた。
五月は質問に対して、今朝、教室で見かけたような自分の鞄の取っ手を両手で握って考える素振りを見せた。
二人が互いに鞄を持っているのは現在が既に放課後であるからだった。
新学期初日なので授業はなく、始業式しかない。放課後といっても太陽はまだてっぺんにも昇っていない時間だった。
今から図書室に入り浸ればこれでもかというほど勉強の時間を取れると、風太郎は内心で喜び勇んでいたのだが。
「すみません、今日は用事がありますので」
「……そうか」
苦笑交じりに断られてしまい拍子抜けの気分だった。
棒立ちの風太郎をよそに、五月は「それでは」と軽く会釈をしてから先を行こうとするも、風太郎はその背中に再び「待て」と呼びかけた。
もう一度振り返る五月。
「何でしょうか?」
「俺の気のせいならいいんだがお前、何か変じゃないか?」
「……人のことを捕まえておいて変とは、やはりあなたはデリカシーに欠けていますね」
「そんなことは知っている。だが、今日のお前はいつもと様子が違うような気がしてな」
「――――」
五月が目を丸くした。
明らかな動揺を見せる素振りに、やはり気のせいではなかったかと風太郎は確信めいたものを得た。
大方、また裏で控えている間にまた出来心で生まれたといういつものパターンかと、内心でだけため息を吐いた。
「時間は取らねえからちょっと話してみろ」
「すみませんが、またの機会にさせていただけませんか? 今日は少々、その、忙しくて」
「駄目だ、今話せ」
「うぅ……!」
もう考えを読み取るところから始めるのはコリゴリだった。
悩みの種を持っている張本人が目の前にいるなら直接聞いた方が早いと、風太郎が真顔で圧をかけると五月は圧されるようにたじろいだ。
「五月君」
そこに、第三者の声が割って入って来た。
声のした方を見てみると五月が向かっていた先、廊下の曲がり角のところでマルオが立っていた。
「お父さん……?」
「……あなたにお父さんと呼ぶ筋合いはありませんよ」
ぼやいた風太郎に反射的に五月が口を挟んだ。
少し先ではマルオが五月から風太郎へと目線を変えると。
「ああ、上杉君か。この前、川で会って以来だね。すまないけど五月君と用があってね。娘との話はまた今度にしてくれないかい?」
「用……? 五月、お前本当に用があったのか?」
「ですから初めからそう言ってたではありませんか!」
うっ、とこの度は風太郎の方が呻く番だった。
風太郎が言い返せない様子を見ると、五月は今度こそ「それでは失礼します」と短く会釈をしてからマルオの方へ早足で向かっていった。
残された風太郎は一人、その後を見送っていると。
「どうやらフラれてしまったみたいだね」
と、背後からぬっと人の気配をした。武田だった。
「うぉっ」
ぎょっとして後ろを振り返る風太郎。
「五月の親父といいお前といい、唐突に出てくるな」
「それは中野院長に似ているということかい? 光栄だね」
「言ってねえ」
「僕は日頃、大人しくしてても目立ってしまうと言われるから、影が薄いと言われても悪い気はしないね」
「だから言ってねえし聞いてもいねえよ!?」
一息。
「それで、何の用だよ」
「君には一言言っておかなければいけないと思ってね」
「何だよ」
「彼女、転校するかもしれないよ」
「はっ!?」
不意を突かれた気分だった。頭の後ろを鈍器で殴られたような衝撃さえ感じた気がした。
転校するかもしれないなんてこと、本人の口からは一度たりとも聞いたことはなかった。
それどころかそんな可能性を示唆するような素振りさえ夏休みの間付きっきりだったというのに欠片も見せなかった。
五月の様子がおかしいのだって今日、初めて気づいたぐらいだった。
「なんで!?」
「詳細までは僕の口からは言えない。すまないね」
「だからなんでだよ!?」
「彼女の尊厳を守るためだ」
風太郎から三度問いただすことはしなかった。
尊厳などという大仰な言い方をされ、言葉の意味を咀嚼する時間を要したからだ。
その間に粟立った感情も多少は静まったようで。
「言っている意味がわからん。せめてもう少し納得できるような言い方をしてくれ」
そう平静に戻った口調で訊いた。
「ここで僕が君に説明しなかったとしても、君がその理由を知るのは早いか遅いかの違いしかないかもしれない。それでも僕はできれば彼女自身から聞いてほしいと思ってるんだ」
「その五月から、今さっき断られたばかりなんだが」
「それは彼女が本当に忙しかったからだろう。今頃は中野院長と一緒に僕の父と会っている頃だろうからね」
確かこの学校の理事だったかと、風太郎はクラスメイトへのペラペラなプロファイリングの中から情報を思い出した。
父親同伴で学校のお偉いさんと面談。なるほど転校まで話が飛躍するのにも多少現実味が出るというものだ。
ただ、どうしてもその理由が分からない。
「彼女が転校するかどうかは僕の見立てだが、まだ決まってはいないと思うんだ」
「なんでお前がそんなこと言えるんだよ」
「状況から見たただの僕の推測でしかないよ。絶対じゃない」
「ならお前はどうしてそんなことを俺に言ってきたんだよ?」
未確定な情報とバラまいて混乱をさせるだけなど、武田らしくない軽率な判断だと思えた。
武田は質問に対して、指を二本立てた。
「一つは転校という言葉をいきなり彼女の口から聞かされても君が驚きすぎないようにするため」
「……もう一つは?」
「君に考える時間を与えるためさ」
「時間?」
武田は指を立てていた手を下ろした。
「彼女が転校しなければならないかもしれない理由は複数あるんだ。一つ一つは些細なことかもしれないが、積み重なれば学校としては容認できなくなってくる」
「それって……」
「君だっていくつか心当たりはあるだろう?」
確かに心当たりはあった。
元々中野少女という生徒は問題を多く抱える人物だ。多重人格という精神疾患を抱えていることに加えて、学力も著しく低い。
留年もせず三年生に進級できたのだって、多少は親の七光りがあったのだろうという邪推は風太郎でさえも多少は持っていた。
ただ、それでも三年の一学期はなんとかやり過ごしたのだ。理由がそれだけならば理事の判断は今更と言わざるを得ないだろう。
だとすると。
「他にも理由ができたってことか」
「そしてそれこそが僕の口からは言えないことというわけさ」
「こんな回りくどい言い方をしたんだ。それが決めてってわけではないんだな?」
「そうだね。むしろその三つ目の理由をもってしても、まだ確定していない”程度”の話なのさ」
程度、という語句に武田は一際アクセントを付けて言った。
転校というインパクトのワードを先に突き付けておきながら、その実のところ回避する方法はあると光明を示したいのだろう。
三つの理由が混合した結果、学校が中野五月という生徒を許容できなくなるのであれば、どれか一つを解消してやればよい。
多重人格を直すなどということはことさら論外だ。
第三の理由とやらは説明しないからには、武田だって解決できると思っていないのだろう。
ならば残る一つ。学力。今更こいつから言われなくても風太郎がどうにかしなければならなかった課題。風太郎の中で導火線に火が付くイメージが突如として湧いて来た。
ここまでの風太郎の思考は全て武田の掌の上での出来事なのだろう。器用で、面倒くさい喋り方をしやがると風太郎は舌を撒きつつも悪態を内心で吐いた。
武田もまた、風太郎が話に付いてきていることに満足したように頷くと「上杉君」と改めてこちらの名前を呼んで仕切り直しをした。
「頑張りたまえ。君なら良い結末を迎えられると思うよ」
「……ああ」
いつだったか、武田から聞いたことのある言葉をもう一度聞いた風太郎であったが、その額には一滴の汗が垂れた。
旭高校理事室。
「中野院長にこのようなことを申し上げることになるとは大変恐縮なのですが……」
「武田理事長がそのように頭を下げられることではありません。むしろ僕はあなたのご厚意に十分感謝をしております」
応接スペースでは武田の言う通り、中野五月の転校にまつわる話が繰り広げられていた。
転校の可能性を勧告するものと、それを聞き入れる側。無論それは前者が理事長であり、後者がマルオなのだが、実態として平身低頭して脂汗をしきりにハンカチで拭っているのは理事長の方であった。
五月はマルオの横で暗い表情で俯くばかりであった。
「お話はよく分かりました。それで、学校としての期限はいつ頃でしょうか?」
「恐らくは、今学期いっぱいももたないかと……」
「……!」
理事長の回答に弾かれるように五月は顔を上げた。
言葉はないが、視線は理事長を貫かんとするほどに強い眼力を持って見つめていた。
その視線を受け止めて、理事長。
「五月さんの言いたいこともよく分かる。私もなるべく教師や保護者からの苦情を受け止めようと思ってる」
「なるべく、というのはいつですか……」
「五月君……」
「私はいつまでこの学校にいられるのですか……?」
震える声で問う五月に、理事長は少しの間沈黙した。
二度、三度と額をハンカチで拭った後、言葉にするだけでも意を決したように。
「学園祭」
「……!」
「来月の中頃には学園祭がある。私も教育者の端くれだから、そういった行事には勉学の枠を超えた大きな意味があることを理解しているつもりだよ。だから五月さんにもそれに参加できるようにしてあげたいと思うが、そこまでが限界だろう」
「そんな……後、一か月ちょっとしか……」
五月のつぶやきに、被せるようにしてマルオが口を開く。
「確か学園祭の後、十月末頃には中間テストがあったと記憶しています。それまでは難しいのでしょうか?」
「この後の職員会議で議題としますので、この場での断言は難しいですがご期待なさらない方がよろしいでしょう」
「つまり、学園祭が終わった直後の頃に五月君個人の実力テストを行うということですね」
「左様でございます」
「……分かりました」
マルオは目を伏せて小さく頷いた。
カップに注がれていたぬるくなった紅茶を飲み干すと、ソファから立ち上がる。
「早急なご連絡感謝します。先ほどの期限のことも含めて、武田理事長の温情には大変助けられました」
「温情など……! 私は結局お力にはなれていないかと」
「そんなことはありません。あなたが早く教えてくれたおかげで、もしかしたら助かることがあるかもしれません。迅速な処置は医療行為における基礎ですから」
そう言ってガラにもなくマルオは少しだけ表情を崩すと、ソファの脇に置いてあった鞄と上着を手に取った。
「帰るよ五月君。急いで帰って授業を始めよう。下田と上杉君にも連絡をしないといけないね」
「……はい」
武田との会話の後、上杉家にて。
午前様で終わった風太郎の学校より早く終わり、いち早く帰宅していたらしいらいはが風太郎の帰宅と同時に玄関に突っ込んで来た。
「お兄ちゃんお兄ちゃん大変だよ!」
「おい落ち着け。急にどうした」
「これが落ち着いてなんかいられないんだって! これ見て!」
そう言いながららいはが見せてきたのは中身を開いた一冊の雑誌だった。
表紙からして華美な写真で飾られた本はどうやらゴシップ誌の類らしく、風太郎からすればどうでもよい情報が過密に詰め込まれた本にしか見えなかった。
「らいは、お前これ買ったのか? 兄としてはもう少しためになる本を――――」
「そんなお説教はいいから、とにかくここ見て! ここ!」
改めてらいはは開いたページの一角を指さした。
指さされた場所にとりあえず顔を寄せてみる風太郎。読ませる気があるのかと疑うほど小さなフォントで過密に書かれた文章の羅列はどうやら役者のインタビュー記録のようだった。
『今年の春に情報公開された完全新作ホラー映画”呪いのリプライ”にて出演される、主演俳優の方々へ独占インタビューを実施! ~中略~ 続けてお話を伺うのは”珠子”役をされる劇団”アサヒ”より今川さんです』
『よろしくお願いします』
『早速ですが、今回の撮影は実は負傷から復帰されてすぐに撮影に取り掛かられたと伺ったのですが、その辺りを詳しくお聞かせいただけますか?』
『実は私、撮影する少し前まで足の骨を折っちゃってたんですよね。去年の夏ごろですかね。私がドジして起こしちゃったただの事故なんですけど(笑)』
『いや笑い事じゃないですよ(笑) どんな事故だったんですか?』
『他のお仕事のことなんであんまり詳しくは話せないんですけど、他の役者さんと演技中に接触しちゃいまして。そのまま勢いでバタンッ! みたいな』
『お相手さんは大丈夫だったんですか?』
『はい、怪我したのは私だけだったのでよかったです(笑)』
『良くは全然ないでしょう(笑)』
『でもそれでその現場は流れちゃって、そしたらお給料も入らないから早く次の仕事見つけないとー! ってむしろ死ぬ気になってお仕事探したら今回のお話をいただけたので、むしろラッキーだったかなって――――』
「役者のインタビューなんてどうでもいいんだが……」
「読み終わった? そしたら次これ見て!」
「今度はなんだよ……俺はそれどころじゃないんだが……」
仕方なく、続けて出してきたものを見た。
風太郎が家に忘れていたスマホだった。
最近ではすっかりらいはのおもちゃになっているスマホにはSNSの画面が表示されていた。
どうやら今川というインタビューを受けた役者の名前で検索したらしい。
「なんだよ、これ」
最後の投稿は恐らく一花が所属する事務所からの声明だろう。
「一花さんのこと凄く悪く書かれてて……大丈夫か私心配だよぉ……」
心配するらいはの声を聞いている余裕が風太郎にはなかった。
ただただ、もしかしてこれが”そうなのか”と、昼間の五月のおかしな様子や武田の思わせぶりな言動の答え合わせをされている気分だった。
自分とは全く縁遠い世界で起きてる、一花や他の人格達を苦しめている事象。
今さっき自分がすべきことは彼女に勉強を教えることだと、そう決めたはずだというのに、その決心が揺るぎそうな気がした。
どうするべきか。考えども慣れない出来事すぎて一向に思考は空転するばかりの中で、眼前のスマホが震えた。
SNSの画面に被せるようにして表示されている通知のポップアップは、マルオからの電話を知らせるものだった。