噂の影響が学校の教職員だけでなく、クラスにまで及んでいることは新学期初日に雰囲気で何となく気づいていた。
数日たった今でもネットでは本当に一花が役者に怪我をさせたかどうかという議論が繰り広げられている。
ただ、その議論が真実を解き明かそうとしているのかといえばそうではなく、どちらかというとパフォーマンスとしての側面が強いように見えた。
流行の話題に便乗した注目集めが本当の目的で、そのために噂をより過激な方へと誘導しようとする者達。それらを正義感に駆られて批判しようと行動する者達という二つの陣営が対立している現状だった。その会話の場に一花や怪我をした役者当人といった関係者が登場することはなく、部外者同士が口論するばかりであった。
一花は自分を擁護してくれているはずの後者でさえ正直言ってあまり好きではなかった。所詮は正論を振りかざすことで批判を浴びないようにしているだけで、根っこの部分ではやはり注目を浴びたいだけな同類だろうと思っていた。
この件に関しては悲しいことに一花が事故を起こしてしまったということの方が真実なのだが、幸いにもネット上にそれを証明する証拠は未だ上がっていなかった。無論、捏造でもしない限り一花の潔白を証明する根拠だって出るわけがない。
だから彼らの論争は双方共に根拠も出なければ関係者の証言も出ないで想像の話ばかりが飛び交っているうちに気づけば泥沼化していた。
恐らくこの話題は時間と共に風化するまでは終わらないだろう。
加えて言うなら一花はそれらネット上の話題に対してはさほど興味がなかった。
勝手な主張ばかりしている彼らが対岸の火事として囃し立てているように、一花も最早ネット上の話は自分の手から離れたところにあるものになりつつあると感じていたからである。
強いて言えば、この噂が悪い方向へと転がった場合は最悪の結末として一花が芸能界を去らなければならなくなるかもしれないが、元々芸能界は自分の居場所を見つけるために始めたことの一つでしかなかったので、去ること自体にあまり未練はなかった。
むしろ、そんなインターネットでのことなどより遥かに重大で深刻なのは、そういったゴシップの影響をクラスメイト達まで受けてしまっていることの方である。
新学期から数日経過したその日、当番だった三玖は噂の影響による実害を受けていた。
「あの、お願いだから話を聞いて……!」
教壇に立っていた三玖が狼狽しながらクラスに向かって言った。
今日は学園祭でのクラスの出し物を決める話し合いをする日だった。
この日のために武田と二人で去年殿の実績を調べたり色々と準備をしてきたのだが、いざ始めて見れば話し合いどころではなかった。
最早三玖本人に聞こえても構わないといった勢いでそこかしこから陰口が飛び出し、訝しむような目での注目を浴びた。初めての経験に三玖は少し怯えさえした。
ネット上でも結論が出ていない以上、クラスの皆も真実を計りかねているのだろう。
追い打ちをかけるように、この件に関して今日に至るまで三玖達に直接確認してくる生徒はいなかった。
この状況がマズイという自覚はあったが、どうすればいいか分からなかった。
三玖自身は状況を俯瞰できるほどの余裕が無かったせいで気づいていないが、端から見ればイジメの前兆のような気配がクラスに蔓延していた。
少なくともこれ以上、三玖が司会となって話し合いができるような空気ではとてもではなかった。
だというのに三玖本人は自分で何とかしようとするからガラにもなく声を大にして呼びかけたりしていて、それでもクラスには届いていなかった。
「お前らいい加減にしろ!」
痺れを切らしたようにガタンッ、と音を立てて風太郎が立ち上がった。
慌てるように三玖。
「フータロー、待って……!」
「だがこのままだと埒が明かねえ。一回腹割って話した方が────」
「上杉君」
風太郎の言葉を遮って制したのは三玖と同じく教壇に立つ武田であった。
言葉だけでなく手でも静止、風太郎が彼の方を見ると彼もまた小さく頷いた。
「今ここで君がしようとしている話をしたところで、事態は収まらないと思うよ」
「……」
風太郎は応えなかった。多少冷えた頭で先の未来を想像し、どれほど言葉を尽くして一花が無罪だと主張したところで言葉だけでは信用を勝ち取れないと悟ったのだろう。
武田は風太郎から目を外すと、クラス全体を見回すようにした。
「どうだろう皆、今日はとりあえずここまでにして、また後日話そうじゃないか。まだ先生に提出する期限まで時間はあるからね」
反応はなかった。
「次回はもっとしっかスムーズに進められるように準備をしておくよ。準備不足の司会ですまなかったね。それじゃあ解散」
ホームルームが終わり、放課後となってクラスメイト達も徐々に帰宅し始めていること、武田が席まで来た。
「すまなかったね。クラスの雰囲気には気づいているつもりだったけど、こんなことになるのは想定外だったよ。君を前に立たせるべきじゃなかった」
「武田君は何も悪くない。私達の方こそ迷惑をかけてごめん」
「気にしないでくれたまえ。この程度のトラブルすら解決できないようじゃ僕の夢は、夢のまた夢だからね」
「夢……?」
「ああ。昔からの持っている夢さ。それが何かを話すのはまた今度にしようか。長くなりそうだし、僕は帰って用があるからね。それより明日は次回の話し合いに向けて作戦を立てよう」
「うん、わかった。じゃあまた明日」
「さようなら」
三玖に見送られながら武田は教室を出ていった。
一人になってから三玖は顔の向き先を変えた。風太郎の席を見ると彼の姿はなかった。
机の横に鞄はまだ掛かっている。帰ってしまったわけではないらしい。
本当なら今日は五月の言いつけ通り、学園祭に向けてできることをもっとしたかったのだが、クラスの空気があの通りなのでそれは叶わないだろう。
だから風太郎と一緒に帰って少しでも五月の役に立つように勉強をしておきたいと思ったのだが。
(待ってたら戻ってくるかな)
学校での風太郎はいつも一人で自席に噛り付き自習をしている。何か用があって離席をすることは稀だから大方トイレにでも行っているのかもしれない。
それならば自分もトイレに行けば途中ですれ違うかもしれないと考えると席を立った。
教室を出て廊下を進み、階段を超えてすぐのところにトイレはある。
まっすぐその方向へ歩いている途中、階段の踊り場の方から女子の声が聞こえてきた。
「上杉君って中野さんのことが好きなの?」
(……えっ)
反射的に足が止まった。
視線を声がした方に向ければ風太郎の姿があった。
慌てて手すりに隠れると、風太郎の真向かいに立っている話し相手が見えた。
いつの頃だったか、一花に絡んできたことがある女子だ。
その女子に向かって風太郎。
「いきなり呼び出して藪から棒になんだ」
「だって上杉君、中野さんがさっきおどおどしてた時怒ってたじゃん」
「お前らがあいつの話を聞かねえからだろ」
威圧的に言う女子に対して、一歩も引かず腕を組んで応対する風太郎。
「あれって中野さんを守ろうとしたってことだよね。それってつまり上杉君ってば中野さんのことが────」
「お前には関係ないことだ」
凛とした声で遮る風太郎。
これ以上話すことはないと、今すぐにでも会話を終わらせたいという気配を全身から発している風太郎であったが、女子も負けじと引き下がらなかった。
「でも否定しないんだ」
「…………」
(フータロー……本当に……?)
およそこの場の空気に似つかわしくないことは重々承知しているが、それでも三玖の心臓は高鳴っていた。
女子の言う事が本当であってほしいと思ってしまった。
(このまま聞いてていいのかな……)
風太郎の防御姿勢に入っていると思わしき無表情には一筋の汗が垂れていた。言葉に困っているようだった。
まさか風太郎も話を三玖に聞かれているとは思っていないだろう。
それに自分だって風太郎の気持ち自体を知りたいとは思うものの、こんな形で聞きたくはなかった。
立ち去った方がいいかと思ったが、それでも足は動いてくれなかった。
眼前では黙ってしまっている風太郎に対して女子がなお続けて。
「どうなの?」
「俺のことはいいから要件を言え。お前だって俺のことなんて本当はどうでもいいんだろ」
「知ったようなこと言わないでよ。ただ確認したかっただけだし。もし上杉君が中野さんのこと好きだったら、その方が話が早いと思ったんだもん」
「…………」
「中野さんのこと好きならさ、協力してあげるよ」
「……どういうつもりだ?」
本当にどういうつもりだろうと、三玖も女子の言いたいことが分からなくなってきた。
「それでさっさとあれを武田君から引き剥がしてよ」
女子がそう言うと、ようやく合点が言ったように風太郎の瞳孔が少しだけ開いた。
「……そういうことか……ったく、くだらねえ」
「は?」
「くだらねえっつったんだよ。時間取らせやがって」
「な、何よ。図星だからって怒っちゃったの? それとも照れ隠しでもしてるつもり? ガリ勉のくせしてキモいんだけど」
(────!)
瞬間的に心が沸騰した気がした。これが腸が煮えくり返るというやつだろうか。
どうして自分を庇ってくれた風太郎が責められなければいけないのか、どうして自分の好きな人が馬鹿にされているところを黙って見ていなければいけないのかという考えが脳裏を埋め尽くした。
衝動的に隠れるのをやめて出て行こうとした。
しかし。
「お前が何のつもりでこんな話を持ち掛けてきたのかようやく理解できた。前に聞いたことがある。あいつらが学級長をしているのは武田に媚びを売るために違いないと思い込んでるらしいな。そのせいで前に一花へ絡んだこともあるらしいじゃねえか」
「なんであんたがそれを……」
「話を聞く機会ぐらい俺にだってある」
「陰口なんて最低……!」
「ただの情報共有だ。お前に言われる筋合いはない」
淡々と、事実だけを語る風太郎によっていつの間にか会話の流れは風太郎が女子を追い詰めるような方向へと逆転していた。
最初の勢いなどどこへやら、女子は片足を一歩だけ後退していた。
追撃せんと風太郎。
「話を持ち掛けてきたのがこのタイミングってことは、お前も例の噂とやらを信じてるんだな? そんなやつを武田の近くにいさせられないと焦ったわけだ」
「だったら何よ」
「信じるかどうかは勝手にしろ。同情はするが今の状況は間違いなく一花の自業自得だからな」
「どういうこと?」
「答える義理はない」
再度ぴしゃりと風太郎は言い切った。
風太郎の圧に、女子は少しだけ身を震わせた。
「だがお前が考えている以上に、今の状況にあいつらは苦しんでいるし、真剣に悩んでる。だから面白半分でひっかきまわすのは止めろ」
「…………」
女子は閉口した。
思うところがあるらしく、女子の顔は困り気味だが何か思案しているようであった。
以前から敵対的な行動を彼女には取られてきたが、考えなしというわけではなさそうだった。
だが、考え終えたというタイミングで女子は腰の位置に下げていた手で拳を握ると。
「私だって面白半分なんかじゃ……武田君のことが本当に……!」
「なら安心しろ。三玖も一花も、他の奴らも武田を狙ってるわけじゃないのは間違いない。それだけは確かだ」
「信じられない! なんで上杉君にそんなことわかるの!?」
「あいつらは、個人ごとにバラバラの恋愛ができないんだ」
「はあ? 意味わからない! それがどうしたっていうの!」
まるでサッカーの試合のように、再び攻める側が入れ替わり女子が風太郎に詰め寄った。
対して風太郎、一瞬閉口した後に意を決したように。
「あ、あいつらは俺をすっ……好きだからな! だから仲良くしてやってくれ!」
言い終えてから、風太郎はバツが悪そうに目をギュッとつぶった。
誰かに心の中で謝罪をしているようであった。
何か変な電波を受信した気がした。
それはともかく、風太郎に対して一瞬ポカンとした顔をする女子。
完全に死角からの発言だったのだろう。ようやく我を取り戻すと絞り出すようにして。
「う、上杉君……妄想はやめよう」
と、先ほどまで風太郎のことを責める様な顔つきをしていたはずの彼女は、いつの間にか何かかわいそうなものを見る慈愛に満ちた顔つきで言った。
「その設定は中野さん達がかわいそうだよ」
「ち、違う本当に────」
「うんうん、良い子紹介してあげるからさ」
いたたまれない気持ちになり、そこで二人から目を離した。
止めていた足を再び動かしながら、胸の内では聞いていた話の内容を反芻していた。
特に風太郎の言葉が胸に残っていた。
”今の状況にあいつらは苦しんでいるし、真剣に立ち向かっている”
先の会話の中で、好きかどうか明言しなかった理由は風太郎が自分のことを好きだからだと勘違いしそうになったが、それは先走った考えなのだろうと今なら思えた。
風太郎が本当は自分達のことをどう思ってくれているかはまだ分からない。
ただ、風太郎は恋愛感情からではなく、今三玖達が直面している状況を心からどうにかしようと考えてくれているからなのだろうと、そんな風に感じた。
何故なら彼は自分達の友人であり、そして同時に今もなお家庭教師なのだから。
自分達のことを真剣に考えてくれているのだ。恋愛のことも、将来のことも。
(将来……)
ついさっき、武田が自分には夢があると言っていたなと思い出した。こんなことを考えているのも彼に感化されたからかもしれない。
将来のことを本気で考えたことなど今までなかった。
考えたところであまり良い未来が想像できなかったからだ。
別に三玖が悲観的だからというわけではない。他の人格達だって同じで、言葉にすると辛いが世間一般の目から見れば精神疾患を患っている自分達では職業選択の幅がぐっと狭まるだろうということが明白であるからだった。
今の日本なら職に就けないということはないだろう。だけど普通の女子高生のように煌びやかな将来を夢見ながら進路を決めることは、三玖達にとっては些かハードルが高いように思えた。
(本当はもっと早くから考えてないといけないんだよね)
トイレに入る前に、廊下からガラス越しの空を見た。
空では自分の陰鬱な思考とは無関係に快晴の空が広がり、少しばかりの雲が流れている。自分のことなど無関係に世界は周り、時間は流れ続けている。
今、五月を筆頭に自分達は目先のこととして退学を掛けたテストと学園祭、それから風太郎の気持ちを自分達に向けさせることでいっぱいいっぱいだ。
だけどそれら全てを超えた先だって自分達の人生は続く。
高校生活という面においても学園祭が終われば残るは受験勉強一直線だ。
自分はまだ、惰性で選んだ大学受験をするという程度のことしか決めていない。それですら先日帰って来た全国模試の結果での合格判定はDだった。
(模試を受けたのは四葉の時だったから、私か他の子だったらもう少しマシだったんだろうけど)
心の中で思ってから、今の考えは絶対に口には出せないなと、裏で独り言だって聞いているはずの四葉のことを思うとクスッと笑みが零れた。
三玖は窓から目を離すと、ようやくトイレへと入っていった。
(帰ったら少し、お母さんと話をしてみよう)
同日の夜、マルオは他の医師達との打ち合わせを終えて自身の執務室へと戻ってきた。
自宅の自室よりも広い部屋を横断して、縦に垂れかけのブラインドが閉められている窓際のデスクを回り込んで、高級な素材を使っている革張りのパーソナルチェアに腰を落とした。
マルオはこの椅子を仕事用に使っているのでデザインも派手すぎないものを選んでいるが、本来は仕事とは真反対のリラックス目的として使用するものである。今はたまたまその本来の用途としての恩恵にあやかろうと、背もたれに体重を乗せると右手で眉間を摘んだ。
まだ仕事は山のように残っている。先ほどまでの打ち合わせに向けて働かせていた頭を切り替えようと一つ、深く息を吸ったところでデスクに備え付けの内線がなった。
「私だ」
リラックスの様子から一転して、電話に出た時には姿勢も正しく直り、普段通りの声色に戻っていた。
『江端でございます。先ほど、奥様からお電話がありましたので折り返すようにと伝言を預かっております』
「そうかい、ありがとう」
『少々お急ぎとのことでしたので、お早めになさいますとよろしいかと』
「わかった」
では失礼します、と江端の方から言葉を置いて通話が切れた。
マルオも受話器を元の位置に戻すと懐から私用のスマートホンを取り出した。
画面をつけてみれば確かに零奈から着信が一件と、時間が空いた時に折り返しがほしいとショートメッセージが届いていた。
普段、マルオは精密な医療機器を取り扱う部屋に入室する時以外は普通にスマートホンを携帯しているが、今のように連絡があっても取り出した時に気づくことが多かった。
純粋に人と話す時間が多く連絡を受けても取れないことが多いので、私用のものはサイレントモードにしているのである。
それを零奈も知ってのところだから、こうして直接連絡をするだけではなく江端の方にも申し送りをしているあたり"そつのない人"だと改めて感心した。
着信に対してリダイレクトをかけてみると数コールで零奈は出た。
通話が繋がってから最初に口を開いたのはマルオからだった。
「もしもし」
『お仕事中にすみません。折り返しありがとうございます』
「いえ、こちらこそ遅くなりすみません。何か御用でしょうか?」
『今日、三玖が学校から学園祭の招待状を持ってきたのです。あなたの都合を聞いておこうと思いまして』
なるほど、やはり"そつがない"。
普通だったらその程度のことに他の人間に伝言まで頼む必要はないと思うかもしれないが、なにぶんマルオも自分の忙しさは自分が一番理解している。
空いている時間など基本的になく、予定を作るには前後に予定をズラして無理やり空きを作らなければいけないので、こういった相談は早ければ早い方がありがたい。
「すみませんが、開催がいつか教えてもらえますか。今この場で予定を確認します」
『来月二週目の金曜から日曜日の三日間です』
すぐにマルオは手帳を取り出すとカレンダーのページを開いた。
分かりきっていたことだが予定が空なわけがないので、書かれている仕事を前後にずらせないかと高速で予定を組み立て直し始める。
数秒の沈黙が続いた後。
「すみません」
『やはり難しいですよね……』
露骨に落胆した声がした。その声色の変化だけでも零奈もかなり楽しみにしていたことが窺える。
ただし向こうも大人でしかも年上だ。これ以上はごねてこないだろう。
ただ、マルオも組み直した予定を言っていないので、そのまま零奈へと話した。
「三日間全て顔を出すことは難しそうです。おそらく二日目に時間を少し作れるぐらいでしょう」
『えっ』
「どうしました?」
『いえ、てっきり全く来られないかと予想してて、ダメ元で聞いてみただけだったので正直意外で』
「僕だって忙しいですが、行きたくないわけではありません。むしろ本当ならもう少し家にいる時間を作りたいぐらいですから」
話しながら時計を見た。時刻は普通の社会人だったらとっくに帰宅している時間どころか、就寝していてもおかしくない時間を指していた。
『……ありがとうございます』
「当たり前のことをしているだけです。話はそれだけですか?」
『あの、実はもう一つありまして』
歯切れが悪い、と電話越しの声を聞きながらマルオは思った。
「なんでしょう。すみませんがこの後も別件があるのであまり長話はできないのですが」
『実は今日、三玖から招待状を渡された時に別件で相談もされたんです。将来のことで悩んでいると』
「聞かせてください」
マルオは椅子に座り直し姿勢を正した。
『今まで、あの子も私たち障害のことをなんとかするために忙しくしてばかりで、あの子のこれからのことを話してきたことがあまりなかったじゃないですか』
「……そうですね」
耳の痛い話だった。
マルオだってこの時期になってようやく娘が進路の話を持ち出してきたことに対して、遅いという気持ちがないわけではない。
けれど零奈の言う通り娘は普通の女の子よりも大きな悩みを抱えており、それは父親であると同時に医者である自分にとっては最優先に対処すべきことだと思い対処してきた。
(……いや、これも言い訳だろうか)
そこまで考えたところで頭を振った。
たった今自分が考えたことは嘘ではないが、前提が抜けている。
正直に白状すれば娘の教育に関することは零奈に任せてしまっていたのだろう。
重ねて言うが零奈は年上であることに加え教職に着いている。しかも娘は零奈の連れ子であって自分などより遥かに長く寄り添っている。
今の扶養者は自分なのだから娘の進路に対して意見をする権利はあるだろうが、優先されるべきは零奈や本人の意思だろうと思っていた。
更に言い訳を重ねるなら自分も零奈も言葉数が多い方ではないから、そういった話し合いの場を設ける機会が普通より少なかったことも反省点なのだろう。
それを改めて零奈に言語化されてしまったからこそ、耳の痛い話であった。
『本人も同じで今まで考えてこなかったからこそ、改めて考え始めたら不安に思ってしまったようで、どうしたらよいかと相談を受けたのです』
「零奈さんはなんと答えてあげたのですか?」
『具体的なことは何も。ただ、ちゃんと進学していい仕事に就きなさいと、それだけしか……』
そうですか、とマルオは続く話の流れに予想がつきながらも相槌を打った。
『マルオさんはどう思いますか?』
「どうとは?」
『あの子がどんな仕事に就くべきかです』
「それは……」
答えられなかった。
マルオは自身の経験を振り返ってみても職業選択におけるそれぞれの職種のメリットデメリットというものを知らなかったからである。
幼い頃に医者となることを目指した時点でマルオにとっての進路は医学の道しかなく、他のことを考えたことがなかった。
娘に自分と同じ道を進めというのはいかんせん、娘の方が足らないものが多すぎる。
むしろそういった相談は高校教師である零奈の方が多くの答えを持っているはずなのだが、その彼女をもってしても答えられない難題など自分が答えられるわけがないとさえ思った。
だからというわけではないが、マルオはせめて一般例を口にした。
「三玖君や他の子が考えればいいことではないでしょうか」
『……どういうことですか?』
零奈の声のトーンがひとつ、下がった気がした。
「少なくとも三玖君達を進学させてあげられる程度の経済的余裕がうちにはあります。それは別の言い方をすれば数年は考える時間があるということです」
『あなたらしくありませんね。そんな先延ばし思考だと次の期限がすぐに来てしまうだけではないですか?』
「それは仮に彼女達が大学に在籍している間の期間を怠惰に過ごした場合の話です。今、三玖君は真剣に考え始めたというのですからそうはならないのでは……」
『では私も仮の話をひとつしますが、もしも受験に落ちてしまった場合はどうするつもりですか。あなたが数年後だと思っている期限は突然目の前に迫ってしまうのですよ?』
零奈の様子がおかしい、とそれとなしに感じた。
電話越しに聞こえる声の抑揚は大きく、徐々に感情が昂っている気配を感じた。
「もしそうなってしまえば、今この場で結論を出しても遅いくらいです。就職を選択する他ありませんが、だとすれば夏休みの時から就職活動を始めるべきだったでしょう」
『それができなかったから今、相談をしているのではないですか!』
マルオはスマートホンを少し耳から離した。
未だかつて聞いたことのない零奈の怒声に驚きのあまり反射だった。
再び耳に当ててから、マルオは目を閉じ繰り出す言葉に集中した。
「すみません、僕が仮定の話を持ち出したのがいけませんでした。現実的な話をするなら仰る通り然るべき時期にすべきことをできなかったのですから三玖君が受験に落ちないように最大限努力し、僕らはそれを補助すべきだと思います」
『……いえ、私の方こそ取り乱しました。すみません』
「三玖君達の将来の話はそれが終わってからにしましょう。それに彼女達がどんな道に進みたいと考えているのかさえ聞けていないのですから、答えの出しようもありません」
『…………わかりました』
「納得いただけてよかったです。それでは僕は仕事に」
『はい、それでは』
その言葉を最後にブツリと電話は切られた。
無機質な電子音が聞こえたところでマルオも画面を消すと、スマホをデスクの上に置いて再び背もたれに身を預けた。
最初に電話をし始めた時とは別の、肉体的にではなく精神的な疲労を感じた。
「どうしたのだろうか……」
最後の方の零奈の様子がどうにも気がかりだった。
常に理性的で、トラブルが起きた時でさえ誰よりも冷静にことにあたっていた零奈が癇癪を起こしたと思えば、直後には少し大げさなほど落ち込んでいた。
なぜそうなったのか答えを出すには情報が足りなかった。
電話の前半で話していた学園祭に向けた楽しみな気分が泡のように弾けて跡形もなくなった気になった。
今、五月などは自分が立たされている苦境を対処しようと善戦している。ここで親の方が揉めてる場合ではない。
少なからず、今日のように日頃から夜になっても家を空けている自分にも非があったかもしれないと考えたマルオは手帳を再び手に取ると、零奈に時間を作れると答えた学園祭二日目のところにその予定を書き、重要な用事であると強調するように丸で囲った。