クラスの出し物についての話し合いが失敗に終わってから、学園祭の日までは瞬きの時間だった。
その間、武田祐輔というクラスメイトは本当に同じ年頃なのかと疑いたくなるほどその優秀さを見せつけてくれ、学級長としての相方である三玖達が例の噂によってクラスメイトとのコミュニケーションに問題を抱えていると知るや否や、その対策を翌日には考えてきた。
例えばホームルームでのクラスメイト達との対話は、あの一件以降全て武田が前に立って行われた。三玖達が矢表に立つことが無くなると、怪訝な空気に当てられる機会も極端に減った。
続けて、三玖達から意見を出したい場合もクラスメイト達には上手く誤魔化してくれた。
この時の口車も実に巧妙で、クラス内の内気な性格の子なんかはホームルーム中に発言することが難しいだろうなどと理由付けをし、匿名のアンケートを取ることにしたのである。
クラス全体から集まった意見の中にそっと三玖の意見も混ぜ、あたかも三玖以外の誰かが意見を出してくれたかのようにしてみると、驚くほどすんなり三玖の案も候補に取り入れられた。
余談だが、ここで一度だけ問題が起きた。
三玖はパンケーキを提案してみたのだが、これがあわやクラスを二分する惨事になりかけたのである。
女子受けが良い反面、男子はからはパンケーキよりもたこ焼きを推す声の方が多かった。
最終的に候補はこの二つまで絞りこまれたのだが、そこから互いに譲ることなく、どちらを採用すべきかで議論が平行線を辿り始めた。
口論が過熱していった中で真っ先に折れたのは男子と女子、そのどちらでもなくパンケーキを候補に出した三玖だった。
匿名だったから引っ込みがついたということもあり、意見を取り下げる旨を武田に申し出たのである。
三玖の申し出を受けてから事態の収束に乗り出したところでも、武田の見事な手腕は発揮された。
このまま決着がつかないのではと思われていた話をたこ焼きをやることで集結させたのである。
どのようにして説得させたかといえば、二つの候補のメリットデメリットをそれぞれ並べ立てたのだが、決め手はパンケーキの場合は調理に圧倒的な不安要素を抱えているという点であった。
クラスの女子達もパンケーキ屋が良いと主張こそすれどその実、作れる人がいなかった。
三玖達の中でも頑張って二乃が、次点で三玖が作れる"かも"という程度だった。
当然、今の空気の中で二乃や三玖が料理講師をするなどと出しゃばることはできないので、彼女達がパンケーキを作れると言い出すことは最後までなく、では誰が作り方を確立させるかというところで女子は言い返せなくなったわけである。
余談から話を戻すと、出し物が決まってみれば後はもう学園祭までひたすら準備一直線で、学校での微妙な空気はそのままだったが、学園祭当日を迎えた。
「忘れ物はありませんか?」
「ん、大丈夫」
朝食を終えた二乃は玄関で最後の身だしなみのチェックをしながら答えた。
廊下では零奈が見送りに立ってくれている。
「私も今日は少しだけ自分の学校に顔を出してから、あなたのところに行きますね」
「無理して三日全部来なくていいのに。ぶっちゃけ私、学級長の仕事で忙しいからあんまり店の方にはいられないかもだし」
「寂しいこと言わないでください。せっかくあなたの学校に行ける機会なのですから、なるべく行きます」
言ってから零奈は微笑んだ。
二乃は最後に前髪を整え終えるとパタン、と手鏡を閉じた。それから一拍、間を置くと。
「あのさ、お母さん」
「なんでしょう?」
零奈の顔を見た。
いつも通り無表情で何を考えているのかあまり分からない母親の顔を二乃はまじまじと見てから、言おうとした言葉を飲み込んだ。
「ごめん、やっぱなんでもない」
「変な子ですね。何か言いかけたのではありませんか?」
「そうだけど、考えてみたら大したことじゃなかったから。気にしないで」
そうですか、と零奈もそれ以上は訊いてこなかった。
本当は何を言いかけたのかと言えば、零奈に来る日を減らして欲しかった。
今の学校は自分たちのことを非難する空気に満ちている。学園祭に来た零奈にそれを悟られるのが嫌だったのだ。
ただ、学校に充満しているそれはあくまでも空気であって、実際に表立って何かされているわけではない。だから零奈が学校に来たからといって必ずしも自分たちの現状を知られるとも限らなかった。
クラスのゴシップ好き達だって二乃達に聞いてこなかったのだから、わざわざ保護者にまで質問したりしないだろう。
むしろここで来ないでほしいということの方が自分から白状するようなものだと思えた。
「じゃあ行ってくるね」
「はい、行ってらっしゃ────」
見送ろうとしてくれた零奈が頭を押さえた。
「…………っ!」
「お母さん?」
「……すみません、今日は今朝から少し頭痛があって」
「うそ、大丈夫?」
「平気です。よくあることですから、薬を飲めば平気です」
「ならいいけど……」
気丈な笑みを見せてくる零奈だったが、二乃の表情はちっとも晴れていなかった。
昔から零奈は偏頭痛持ちだった。特にそれは仕事が忙しい時ほどよく出た。
今日だって他の学校は普通の平日で零奈も仕事だったろうに、仕事を休むために無理をしてくれたから、そのぶり返しが来たのだろう。
二乃だって伊達に零奈の娘をやってるわけじゃない。零奈の偏頭痛は基本的に重くなったり長引いたりすることはないということは知っていた。
だから。
「じゃあ、うちのお店で美味しいたこ焼き作って待ってるから。それ食べて元気出してね」
「はい、そうさせていただきます」
ここで無理に寝かせても零奈は学園祭に行けない悔しさで、それはそれで嫌な思いをさせてしまうだろうと思った二乃はそう言った。
『ご来場の皆様は体育館にお集まりください。第29回 旭高校「日の出祭」開会式を執り行います』
祭りが始まってからの学級長の仕事の忙しさは想像以上だった。
朝イチでクラスの手伝いを少しはしたのだが、すぐさま学園祭の運営の方から手伝ってほしいと呼び出されてしまったりもした。その時の勢いたるやまるで誘拐のごとくだった。
学級長の仕事というのは要するところ、学園祭の実行委員も兼ねている。各出店の安全点検や臨時休憩所の設営、迷子の案内など数え上げたらキリがない。
こうも仕事の量が多いとなると実行委員達も総力戦で、二乃にだって力仕事だろうが容赦なく割り振られた。ただ、女子である二乃でさえも重労働が課された理由はそれだけでもないのだが。
二乃が気が付いた時、時計の短信はてっぺんなどとう過ぎていて学園祭も後半に差し掛かっていた。
その中で二乃はと言えば、今も中庭で両手に椅子を持って運んでいるのであった。
「なんで、私が、こんな重労働を、しなきゃなんないのよ……!」
十月にも入り大分涼しくなってきた季節だというのに、顔から吹き出るような汗を流しながらボソボソと呪詛を吐いた。
「これならいっそ今日は別の子の番でも良かったわ。少しでも楽しめるかもしれないと期待して損したわよ……!」
どうせ別の人格の番だったとしても疲労は共有されるのだから二乃の負担は軽くならないのだが、苛立ちのせいでそんなことにまで頭は回っていなかった。
もはやこの辛いだけの時間が早く過ぎろとだけ念じていると、意識がそっちのけになり足をもつれた。
「やばっ……!?」
「────あぶねぇ!」
前のめりに倒れかけたところに、横から伸びる手があった。
腹の辺りを抱えるようにして支えられ間一髪、体勢を維持できた。
一体誰がと隣を見れば風太郎が心配そうにこちらを見ていた。
「フー君……!」
「ふらふらじゃねえか。無理すんなよ」
「……ごめん、助かったわ」
二乃は足に力を入れてもたれていた体を起こすと風太郎の腕から離れた。
地面に置いてしまった椅子を持ち直そうとしたが、すかさず一つを風太郎に取られてしまう。
風太郎は片手に椅子を持ったまま、空いていたもう片方の手を突き出してくると。
「そっちも貸せ。俺が運ぶ」
「あんたの仕事じゃないでしょ。やらせちゃ悪いわよ」
「ここでそんな状態のお前を見なかったことにする方が余程心残りになる」
「だけど」
「つーか武田はどこで油売ってんだ。お前にそんな仕事を押し付けやがって」
言いながら、首を伸ばして少し先にある噴水広場の方を眺める風太郎。
視線の先では他の学園祭の実行委員たちが仕事をしていた。その中に武田の姿はなかった。
困り顔で二乃。
「待って、彼を責めないであげて」
「だが────」
「別にサボってるわけじゃなくわ。むしろ私より沢山仕事をやってくれてるのよ。私が椅子運びをしてたのは、その、あんまり学校の子達と関わらなくて良い仕事だからってだけで……」
「……なるほどな」
話しながら、徐々に尻すぼみになっていく二乃の様子に風太郎もバツが悪そうに目を伏せた。
今、学校内に蔓延している二乃たちを取り巻く噂を鑑みれば、クラスメイト達と話をするような仕事をさせたって両者ともに水を差すだけの結果になりかねない。それならば椅子運びの方がまだマシだということを風太郎も理解してくれたのだろう。
しばらく沈黙した後。
「だがせめて少し休め。どのみちその様子じゃ仕事になんねえだろ」
「…………わかったわよ」
同時刻、校舎前の出店通りにざわつく声があった。
曰く、もの凄い美人が来ただの、誰の親御さんかなどと、およそ特定の誰かに対する噂で持ちきりであった。
その噂の中心点、本人にだって多少は聞こえているだろうに、かといって台風の目のように涼しい顔をしているその人、零奈はパンフレットを片手に二乃のクラスが出しているたこ焼き屋の前まで来ていた。
店番をしていた零奈の知らない女の子に零奈はすみません、と声をかけた。
「あ、はいなんで…………は、はい! うちみたいな無骨なたこ焼き屋に御用でしょうか!?」
初めは普通に返事をしようとしたが、零奈の顔を見るなり女の子は声を上擦らせた。
対して真顔のままの零奈。
「……珍しい宣伝文句ですね。御用というか、当然たこ焼き屋に来たのですから、たこ焼きを一人前いただけますか?」
「は、はい喜んで!」
注文を受けた女子は口振だけはまるで居酒屋の店員のごとく威勢が良かったが、姿勢の方はまるで警官が任務を拝命したかのごとく背筋をピンと伸ばしていた。敬礼をしたって不思議に思えないほどの直立ぶりだった。
たこ焼きはある程度作り置きをしているらしく、熱せられていないたこ焼き用の鉄板の上に何人前かがあらかじめ置かれていた。
女の子はそこから一人前分を別の鉄板へ移動させて温め直し始めた。
すでに出来上がっているので、温め直すと言ってもじゅうじゅうという小気味の良い焼き音もなければ焼き上がる良い匂いもせず、待っている側の零奈としては少し退屈な時間だった。
待っている間、視線を焼いている子から別の子へと移した。
その子もまた零奈の知らない子であったのだが。
「あの、お聞きしてもいいですか?」
「なんでしょう?」
話しかけたもう一人の子は普通に返事をしてくれた。零奈としてはこちらの方が話しやすくありがたかった。
「そちらのクラスに、二乃という子がいると思うのですが、店に戻ってくるのはいつ頃かわかりますか?」
「……えっと」
女の子は答えるより先に、戸惑いの色を見せた。
どうしたのかと思うより先に、自分が名乗り忘れていたことをその子の反応を見て気がついた。
「失礼しました。私、二乃の母です」
言いながら招待状を鞄から取り出すと見せた。この学校の学園祭の招待状は生徒が送り主に宛てて手書きのメッセージを書くことができるようになっているため、身分証になると思っての判断だった。
招待状を一瞥すると納得したような顔をする女の子、しかし。
「保護者の方でしたらご自分で連絡を取られた方が早いんじゃないですか?」
と、当然の疑問を投げかけてきた。
まだ完全にこちらを信用していないらしい。
(機転が効く子ですね)
零奈は続け様の質問に悪い気はせず、むしろ危機意識のある子だと感心をした。
だから信じてもらえるようにと、なるべく丁寧に説明をしようと心がけて口を開いた。
「連絡はしたのですが忙しいらしく繋がらなくて。それにあの子は学級長の仕事を優先しないといけないから、あまりシフトの時間も決まっていないと事前に聞かされていたので把握できていないのです」
質問されたことに対しての答えだけではなく、事前に二乃から聞かされていた情報も付け加えた。
そこでようやく女の子の方も表情が和らげてくれた。彼女の中で見知らぬ部外者からクラスメイトの保護者にランクアップされたことで見せてくれば微笑(おそらく愛想笑いだろうが)は本当はこんな風に笑う子なのだなと零奈の心も和らげてくれた。
しかし、女の子の方は少し申し訳なさそうにした。
「実は、二乃は朝イチでお店を手伝ってくれたので今日はもうお戻ってくる予定はないんです」
「あら…………」
言いながら零奈も少し肩を落とすと、スマホを取り出して直近の二乃のやり取りを見返した。
今聞いたような話はやはり書いていなかった。
「あの子ったら仕事が終わったなら言ってくれればいいのに」
「なんかお店の手伝いから出て行く時も、実行委員の人に連れ去られるみたいにして行っちゃったから余裕がなかったのかもしれないです」
「そうなのですね……ご丁寧に教えていただきどうもありがとうございます」
「あの、たこ焼きはどうしますか? 二乃が作ったやつじゃないならあまり意味がないんじゃ……」
「いえ、注文した分はいただいていきます。せっかく来たのですから」
「そうですか、わかりました。ねえ、出来上がったやつこっちに渡してもらえる?」
後半はたこ焼きを作っている子の方へ言ったようだった。
丁度たこ焼きを温め直しも終わったところのようで、紙皿に写している最中だった。
言われた通りたこ焼きは零奈ではなく、応対してくれた女の子の方に渡されると、その子はぐるりと屋台の裏手を周り零奈の前に来てから手渡してきた。
「どうぞ」
「わざわざありがとうございます。カウンター越しでも良かったのに」
「あ、いえ、せっかくなので今二乃がどの辺にいるか聞いてみようと思いまして」
「聞いてみるとは?」
零奈の聞き返しに女の子はたこ焼き屋から三軒離れた斜め向かいの屋台を指差した。
「あっちの斜め向かいにあるお店で店番してる子、あの子も学園祭の実行委員で、私の友達なんです。もしかしたら二乃がどの辺で仕事してるのかとか知ってるかもしれないので」
「そんな、そこまでしていただかなくても…………!」
「聞くだけならタダですから気にしないでください────ねえちょっといい!?」
零奈の返事を待たずに指差した店へと駆け出して行ってしまう女の子。調理係のためか長い髪をポニーテールにしてまとめている茶色の髪がフリフリと揺れるのが愛らしいなと零奈は内心で思った。
たこ焼きを持っているので走ることができなかった零奈も歩いて後を追うと、ちょうど首を横に振られているところだった。
女の子は零奈に振り返り。
「ごめんなさい、分からないらしいです」
「謝らないでください。むしろここまでしてくださって感謝しているぐらいです────あなたの方も、お邪魔しましたね」
と、零奈は話に巻き込まれた別の店の子にも言った。ぺこりと会釈を返された。
零奈はたこ焼き屋の方の女の子に向き直り。
「それでは私は二乃を探すついでで、ゆっくり学校を回らせてもらいます」
「わかりました、じゃあここで。楽しんでいってくださいね」
「ありがとうございます。差し支えなければですが、あなたの名前を聞かせてもらえませんか? 後で娘からもお礼を言わせたいので」
「松井です。でも気にしないでください。二乃とは仲良くさせてもらってますけど、改めてお礼なんか言われてもむず痒いだけなんで」
少し恥ずかしそうにしながら笑みを浮かべると、松井は指で頬を掻いた。先ほどの愛想笑いとは違う、今度は本当の笑みのようだった。
その彼女の笑みに、零奈も自然と表情が崩れた。
「わかりました。では松井さん、改めてありがとうございました。あなたのおかげで娘に会う前から学校生活も楽しくやっていそうだなと想像ができたので、とても安心できました」
少し大袈裟かもしれないな、と零奈は自分でも言いながら思ったが、風太郎以外の学校での友達を初めて見かけたこともあり言わずにはいられなかった。
けれども、それに反して松井の反応は。
「え」
と、少々強張ったものだった。
不思議そうに零奈。
「どうしたのですか?」
「あの、こんなこと聞いていいのかわからないんですけど……」
「?」
「今、二乃……というか一花ちゃんが起こしたかもしれないって最近話題になってる噂でもちきりで」
「────」
「あの子、クラスだと結構浮いちゃってるというか、正直除け者にされてるというか……なるべく私もフォローするようにはしているんですけど、そういった相談って二乃達からお母様にはしてないんですか?」
風太郎に椅子運びを手伝ってもらった後、二乃は教室へと移動していた。
学園祭の真っ只中、何も出し物がない教室に立ち寄るような物好きなどいるわけもなく、教室は二乃の貸切だった。
その教室内の自分の席で、ぼんやりと空を眺めていた。
窓ガラスから差し込んでくる日光はだいぶ傾いてきていて、色もかなり強いオレンジを帯び始めていた。眩しくすら思うその夕日が、もうすぐ学園祭も一日目が終わりかけていることを告げているようだった。
(学級長、断ればよかったな……)
一日を振り返りながらそんな風に考えた。
今日はずっと忙しくしてばかりで楽しい出来事などまるでなかった。
一応、少しだけたこ焼き屋のシフトに就いたりもしたのだが、クラスメイト達からは腫れ物を扱うような態度を取られてしまった。零奈も二乃のシフトが早かったせいもあってか、勤務中の間には来てくれなかった。
学級長の仕事までの合間で少しばかりの自由時間をもらったこともあったが、運の悪いことに風太郎や松井とはシフトが入れ違いだったので一人で回ることになってしまった。
せっかく学園祭の三日間の中で自分の番を引き当てることができたというのに、とんだ大外れだという気分だった。
空から目を外すと思わずため息が溢れた。
「で、あいつは何やってんのよ」
逸らした目線を扉に移してぼやいた。
誰もいない教室にいるのは何も好き好んで来というわけではなかった。仕事を手伝ってもらった後、風太郎から遅れて行くから先に行って休んでるようにと言われたからなのである。
だから大人しく言われた通りに従っているのだが、いったいどれだけ遅れてくるつもりなのやら。
徐々にまた苛立ち始めてきた頃。
ようやく、片手に何やらビニール袋を下げた風太郎が入ってきた。
「よお、待たせたな」
「遅かったわね。どこ行ってたのよ?」
「お前のメシを用意してたんだよ」
言いながら、風太郎は二乃の机の前まで来るとビニール袋を置いた。
たゆんだビニールの口からは唐揚げが見えた。
思わず目を丸くする二乃。
「……フー君が買ってきてくれたの?」
「そうだが」
「あのフー君が……!?」
「どういうつもりで言っているのか知らねえが、失礼なことを思われてるのだけは俺でもわかるぞ」
「だって!」
風太郎がどれほど貧乏性なのかはよく知ってる。下手すれば学園祭の三日間、何も買い物をしないで終える可能性だった十分あり得る。
そんな風太郎が、まさか人のためにお金を使うなどとは全く考えていなかったから、驚きを通り越して驚愕とさえ呼べるほどに二乃の内心は飛び上がっていた。
「いいから食え。冷めちまう」
「むぅ……いただきます……」
急かされ、一つ唐揚げを頬張った。揚げたてらしく口の中で熱い肉汁が弾けた。
一人で学園祭をまわっている間も多少は食べ物を口にしたが、唐揚げのような油ものを五人格の中でも特に女子力の高い二乃が選ぶわけがなかったので、ようやくまともにエネルギーになりそうなものを食べている気がした。
「うま……!」
「揚げたてをもらってきた甲斐があったな」
「は? もらってきた? 買ってきたんじゃなくて?」
二つ目を摘もうと伸ばしていた爪楊枝を止めると、風太郎の方を二乃は見た。
対して風太郎、まるで恥ずかしそうにするでもなく。
「最初はうちのクラスのたこ焼きを少し分けてもらおうと思ったんだがな、ちょうどそこで武田とでくわしたんだ」
「それで?」
「お前に食わせるものを用意してるっつったら、唐揚げの引換券をくれたんだよ。仕事中に店の奴から貰ったやつらしい」
「そうだったんだ……」
改めて唐揚げを見た。なるほどそれなら美味しいはずだ。これには風太郎だけではなく、二人分の思いやりが込められているのだから美味しくなければ食の神様は気が利かないことになってしまう。
自分も家で頻繁にご飯を作る身だからこそ、むしろ納得できた。
「それでたこ焼きは?」
「からあげがあるだろ」
「からあげも確かに美味しいけどフー君はたこ焼きを買いに行ったんでしょ?」
「それで十分だろ。五月じゃあるまいしそんなに欲張ったら太るぞ」
「……あんたって本当に勉強以外のことは学ばないというか、もしかして鳥頭なんじゃないかって時々思うわ」
三歩歩けば忘れるというやつだ。
「失礼なやつだな」
「どっちがよ!?」
憤慨しながら二つ目を頬張った。くやしいけど美味しかった。
もぐもぐと口を動かす二乃を見ながら風太郎は話を切り替えるように言う。
「それと、仕事のことを武田からも聞いた。なるべくクラスの連中と関わらないで済むやつをお前に振ったらしいが、そのせいで力労働が多めになっちまったことを申し訳なさそうにしてた」
「まあ、大変だったのは本当だけど気にしないでほしいわね。むしろせっかくの学園祭の間に嫌な気分にならないでいられているから感謝してるくらいだわ」
「……」
「武田君が私の代わりにやってくれてる仕事だって大変なの分かってるしさ。凄いのよ彼ったら、私が使いものになんないからって二人分の仕事を一人でやってくれたりして────」
「…………」
「どうしたの?」
「えっ?」
「え、じゃなくて顔。なんかつまらなさそうな顔してるけど」
「そうか?」
自分では気が付いていなかったらしく、風太郎は言われてからペタペタと自分の顔を触った。
表情が触っただけで分かるわけもないのに、何をしているんだと呆れそうになったその時、二乃は気が付いた。
「……もしかして、ヤキモチ妬いてくれてるの?」
「…………!」
答えはなかった。ただ、ぷいとそらされた目線と、なんとなく彼から滲み出てくるような気恥ずかしさが、言葉以外で答えてくれた。
ぱぁっと、花が咲いたかのような気分が胸の内から沸き上がった。
むしろ気分だけでなく、きっと顔にも出ているのだろう。
顔を赤くする彼の顔が堪らなく愛おしく思えてならなかった。
けれども。
「安心して」
風太郎が今抱いてくれているであろう気持ちは、もっぱらここ最近の自分達が上手く消化しようと躍起になっている感情だったから、二乃は優しい声色で彼へと言った。
「今も好きなのはフー君だけだから。武田君のことは単純に、同じ学級長として凄い相方だなって思ってるだけよ」
「……俺は別に心配なんかしてねえ」
「はいはい、そういうことにしておいてあげる」
言ってから、一つ二乃は伸びをした。何というか、ようやく報われた気分だった。
今日は一日踏んだり蹴ったりな日だったから、ずっと晴れない心と一緒に肩にずっしりと乗っかっていた見えない重りが取れた気がした。
「はー、なんだかやっと今日が良い日だったって思えた気がしたわ」
「……学園祭、お前は楽しめてないのか?」
「当たり前でしょ。こっちはあんたと違って忙しいのよ」
「そうか……」
一瞬、考え込む素振りを見せる風太郎。
こんな時に水を刺してしまったかと、二乃も自分の発言が軽率だったかと反省しようとした。
ただ、それより早く風太郎から。
「いつ言おうか、ずっと考えていたんだがな」
「?」
なんの話かと二乃は首を傾げた。
「学園祭の後はテストだって控えているし、今ここでお前らのペースを狂わせちまったらと考えていたら、本当はもっと後の方がいいと思ったんだ」
「ごめん、話が見えないんだけど、なんのこと?」
「だが、今のお前らの状況は俺から見ても大変で、お前らはそれに正しく努力し、乗り越えようとしている。そんなお前らが学園祭を楽しめないなんて間違ってるとも、俺は思う」
「……フー君?」
「だからもし、俺のこの、"答え"が少しでもお前達の気持ちを良い方向に持っていけるなら────」
「────!」
ここに至ってようやく二乃は風太郎が何を口走ろうとしているのか、考えが追いついた。
「二乃、それと裏で見ている他の四人も聞いてくれ。俺は────」
「────待って!」
最後まで言い切る直前、二乃は声を張り上げて遮った。
風太郎の続く言葉は発されたかどうかも聞こえなかった。
ただ彼のことだ。すぐに言い直すかもしれない。いてもたってもいられず、席から立ち上がった。
「二乃…………?」
風太郎は困惑気味に名前を呼んだ。
二乃は風太郎の顔が見れないまま、立ち尽くした。
「心の準備、させて」
「…………」
言ってから窓際へと歩いた。
窓際近くまで来てみれば、遠くの街並みや空だけではなく、眼下の景色まで見えるようになった。見えているのは先ほど二乃と風太郎が二人で椅子を運んだ中庭の休憩所である。
そこではまばらだが生徒達が集まっており、何やら楽しげに会話をしているようだったが、なんの話かまでは二乃に聞こえていなかった。
離れているからとか、窓が閉まっているからというわけではない。それよりももっと大きな音で、自分の心臓が高鳴っていたから周囲の音何て聞こえなかった。
最後まではっきりと聞かなかったとはいえ、風太郎の話そうとしたことの予想がついてしまったから。
彼への告白の、その答えが。
きっと、イエスなのだろう。
嬉しかった。
ずっと待っていた。
溢れるような有頂天の気持ちで幸せに満ちていた。
けれども、彼の話を最後まで聞くのが自分で聞いていいのかと、一度だけ引っかかってしまった。
(私らしくないけど…………)
かつて二乃は自分の気持ちを自覚しながらも、それを風太郎に伝えずに、ずるずると想いを抱えたまま引きずってしまった時期があった。
だけどそんな恋の仕方は自分らしくないと嫌気が差して、修学旅行のあの日、彼に告白をした。
今だってこんな話を先延ばしにするような行為が自分らしくないということは十分理解している。
それでも彼の言葉に待ったをかけずにいられなかったのは、ひとえに他の子達のことが気がかりで仕方がないからだった。
五月はいい。自分と同じ体を共有する複数人格の一つのくせして知らないうちに既に彼からの告白が済んだことになっているのは気に食わなかったが、兎にも角にもあの子は風太郎から直接想いを告げられているのだからひとまず例外とする。
しかし、五月以外の他の子達はまだ一度も風太郎からの告白を受けたことがない。
つまり一人の例外を除いて"初めての”風太郎からの告白を聞くのは自分ということになり、本当にそれでいいのかとどうしても思ってしまったのだった。
(いつもの私だったらそれで良いって思うわ。むしろ、自分こそが聞くべきとさえ考えたかも)
だけどここで勝手に決めて、彼の答えを抜け駆けのようにして聞いてしまったら、それで自分が満足できるのかと想像すると途端に不安になった。
なぜならば自分は四葉が抱えている嫉妬心を理解できているから。
一花と三玖が自分自身を差し置いて他の子達のために行動しようとしてくれていることに感謝しているから。
自分の番のうちに答えを聞いてしまったら、彼女達がどう思うかと思うと怖かった。
とはいえ、たとえ今自分が風太郎の告白を聞くことを辞退したとしても、結局残る三人のうちの誰か一人しか聞くことはできない。
風太郎のことだから一人ずつ告白して回るかもしれないが、そういう話じゃない。
他の人格が経験したことだって裏で見えている多重人格だからこそ、最初の一回が重要なのだ。
二回目以降の告白など、どれほどロマンチックな演出をされたところで初めての感動には遠く及ばないのだ。
(だけど……)
風太郎が何を言おうとしたのか察してしまった時点で、そういった意味ではもう、手遅れかもしれない。
諦めるように、下唇を噛んだ。
「ごめん、お待たせ」
「…………」
「聞かせてちょうだい。あんたが出した、答えを」
「……ああ」
朱色の西日に雲がかかった。
半目にしなければ直視できなかった空が途端に暗くなると、透明だった窓ガラスは蛍光灯の光を反射するようになって、窓越しに背後の風太郎が見えるようになった。
真剣な表情で二乃の背中を見つめる彼を、二乃も鏡のようになった窓を経由して見つめ返した。
一拍。
彼が今度こそ話をしようと口を開いた。
「俺は────」
瞬間、二乃の視界に飛び込んできたものがあった。
「やっぱちょっと待った!」
「今度はなんだよ!?」
二度目の静止には流石に風太郎でも声が大きくなったが、二乃は意に返さなかった。
それどころか風太郎に反応すらせずに、急いだ手つきで鍵を外すと窓を開いた。
教室内を反射していたせいでよく見えなかったが、開けた途端にやっぱりという気持ちが湧き上がった。
二乃が見たものは、人影だった。休憩所の一角でベンチに座っていた人が、ベンチに横たわるようにして急に倒れたのだ。
考え事をしているうちはただ座っている人のことなど気にならなかった。
倒れた瞬間を目撃した時、ガラスは不透明さが強くなっており誰か識別できなかった。
だから倒れた人間が誰なのかようやく気がついたのは、二乃が窓を開けた瞬間で。
「お母さん!」
二乃は倒れた人物、零奈に向かって叫んだ。