学園祭の約一ヶ月ほど前のこと。
その日の零奈は部屋の外から何やら物音がする気がして真夜中に目を覚ました。
気になって部屋を出てみれば時計の短針はとうにてっぺんを超えているだろう時間だというのにリビングがやけに明るい。
二階のロフトになっている廊下からだとリビングの南側半分と全面ガラス張りの壁しか見えないのだが、窓ガラスにはキッチンから発せられている蛍光灯の光が反射していた。
最初は消し忘れかと思ったが、すぐにバターを溶かした甘い香りとパン生地を焼く香ばしい香りが鼻孔をくすぐってきて、現在進行形で誰かが料理をしているのだと理解した。
嗅ぎなれた匂いに作っているものがパンケーキだとすぐにわかった。
「誰か起きているのですか?」
「あ、お母さん……ごめん、起こしちゃった?」
返事は三玖からのようだった。
零奈は階段を下りて三玖の方を見た。
下ってすぐのところからだとキッチンのIHコンロはカウンターで仕切られていて手元が見えないのだが、そのキッチンの手前のテーブルには大量の失敗作────努力の跡が並んでいた。
それを見ながら零奈。
「たまたま目を覚ましただけなので気にしないでください。それよりもずいぶんと張り切っているみたいですね」
「まだ決まったわけじゃないから言ってなかったんだけど、学際のクラスの出し物に私が出した案が選ばれそうなんだ」
「それがパンケーキなのですか?」
うん、と三玖は頷いた。
「意見を出した私が作れないんじゃ、恰好がつかないから」
「それでできるまで頑張っているというわけですね」
零奈はテーブルに歩み寄ってみると、試しに一番手前のパンケーキを小さくちぎって口に運んでみた。
冷めているのは仕方ないとして、ずいぶんと硬い気がした。スフレパンケーキというよりはホットケーキに近いかもしれない。
「お母さんみたいのを作りたいんだけど、上手にできなくて……」
「でしたら手伝いましょう。お手本でも味見役でもなんでもしますよ」
「でも、せっかく教えてもらったのにクラスの出し物にならなかったら申し訳ないし……」
「そんなの気にしなくていいのですよ。頼ってもらえるだけで私は嬉しいのですから」
昔から三玖は自分に対して遠慮がちなところがあった。
自己主張の強い一、二、四や意外と甘えん坊の五の振る舞いを裏から見ているから、自分まで自分勝手に振舞えば迷惑をかけてしまうと思っているのかもしれない。
零奈からすればそんな心配など十年早い。
娘が母親に甘えるのは当然の権利だし、義務といったって差し支えないだろう。
そしてそれは、裏を返せば子供が小さいうちは甘えてもらえる親の特権とも言えるかもしれない。
「大丈夫です。コツを掴めば難しいものじゃありませんから」
「そうなの?」
「ええ。二乃に教えた時だってあの子もすぐにできるようになりましたし、あなただってきっと────」
できるはずです、と言葉を続けようとしたところでふと思ったことがあった。
そういえば自分は一応”二乃には”教えたことがある。
つまりそれは教えた現場を”三玖も”裏から見ていたはずということになる。
「急に黙ってどうしたの?」
「……三玖、一つお聞きしたいのですが、あなたは私が二乃に教えた時のことって憶えていますか?」
「憶えてる」
「では作り方は……?」
「……覚えてる」
「…………」
三玖のその言い方に、この子は当時のことを単純に記憶しているだけではなく、きちんと料理の工程まで暗記しているのだろうと汲み取れてしまった。
つまるところそれは、三玖は作り方は分かった上でテーブルの数々の努力の跡────失敗作を生み出したわけということなので。
「長い夜になりそうですね……」
零奈を窓の外、遠い夜の空を見ながら呟いた。
話は戻り、学園祭三日目。
三玖は教室で風太郎の帰りを待っていた。
三玖が四葉から入れ替わっているのは、クラスのたこ焼き屋の前で起きた女子との口論の最中、女子が風太郎へ手を出した現場を目撃してしまったことが原因だった。
既に今日は三度も入れ替わりが起こってしまっているからというのもあるのだろうが、四葉にとって風太郎が怪我をさせられるということはよほどショッキングな出来事だったらしい。
(それは私も同じだけど……)
女子からの平手打ちを喰らった時、風太郎はどうやらは口の中を切ったらしい。本人はへっちゃらそうにしていたが、痛くないはずないだろう。だというのに本人はやけに慣れた様子だった。
口の中に溜まった血を吐き出した直後は、流石に例の女子もやり過ぎたかと顔を青ざめさせていた。
互いにそれ以上口論を続けんとする空気も消え失せて、どちらからともなくその場は解散となると、風太郎は保健室へと向かい、三玖もそこで一度別れた。
三玖が教室で待っていることは保健室前で別れる時に彼にも伝えてある。だからしばらくすれば彼はここに来るだろう。
ちょうどその時だった。当の風太郎が教室へと入ってきた。
「悪い、待たせたな」
「フータロー! 大丈夫!?」
勢いよく席を立つと風太郎へと駆け寄る三玖。
「大げさだな。さっきも言ったが平気だ。せいぜい少し話し辛いぐらいか」
と、普段より若干活舌が悪くなり話しづらそうにしている風太郎の片側の頬には湿布が貼られていた。
話し辛そうにしている時点で平気ではないだろうし、何より湿布からはみ出て赤くなっている彼の頬が痛々しくて見ていられなかった。
何も悪いことをしていない風太郎がどうしてこんな目にあわなければいけないのかと、三玖の腹の奥底でむかむかとした感覚が湧き上がってくる気がした。
「……許せない」
「三玖?」
「私にだったら何をされたっていい……でも、フータローにそんなことされて黙ってなんていられない。私、もう一回あの女子のところに行って文句言ってくる」
風太郎の横をすり抜け、今度は自分が教室を出ようとしたところで手を掴まれた。
「落ち着け、それじゃさっきの二の舞になる」
「でも……!」
「俺は本当に平気だ。だからお前も頭を冷やせ」
「だけど手を出したのはあっちだよ……!?」
「だとしても、ここでやり返したらお前も同じ穴の狢だろうが」
「……むじな」
最後の言葉の意味がわからず一瞬、三玖は勢いが弱まった。
風太郎も話の腰が折れたのを感じたのか、一つ仕切り直すように息を吐くと改めて言い直す。
「……同類って意味だ。なにより三玖、クラスの奴らに不審がられてるお前から突っ込んでいったら今度こそ弁明のしようもなくなる」
「だけど、そしたら私はどうしたら……」
「とにかくできるところから一つずつ解決してくしかない。例えば今日のお前がサボリじゃなかったと、武田辺りから説明をしてもらって無実の証明してもらうとか」
「その後は?」
「その後は……」
風太郎から続きの言葉は出てこなかった。
言葉を詰まらせている理由は分かる。今日についての誤解が解けたのなら、次はもっと全体的に蔓延している自分たちに対するクラスからの目を改めさせる必要があるのだろう。けれどもそれができれば今日にまで至っていない。
クラスメイトと誠意をもって対話に臨むことが最善の策だろうということを頭では理解しているが、誠意をもって話すということはすなわち真実を話すということになる。
真実とは無論、一花があの事故を起こした白状することと、そのキッカケを作ったのが三玖であるということまで洗いざらい告白することである。
無論、そこまで話すのであれば何故、一花がそんな凶行に及んだのかという心情の部分にもメスを入れて話す必要があるだろう。
全てを白日の元に晒せば、純粋に真実を知りたがっているだけの人たちからは理解を得られるかもしれない。
ただ、理解を得られるのは恐らく一部の人間であって、全員ではないだろう。
背景などあえて無視して、一花が傷害事件を起こしたというただ一点だけを糾弾しようとする勢力からすれば、本人からの自白などむしろ批判をするための大義名分をこちらから与えることになりかねない。
だから真実を話すことは最善であったとしても、最良の選択ではないのだろうと、そんな気がしていた。
では最良とは何か、そう考えるといつも答えは出ないのであった。
「悪い、黙っちまったな」
「ううん。私も同じこと考えてた。とにかく今はフータローの言う通りにしてみる」
「ああ」
最終的な着地地点が見えてないとはいえ、風太郎の言う通りできることはある。
まずは今日のことを釈明しよう。
何もしなければ学園祭が終わった後だって、居心地の悪い日々は続くだろう。
ならば行動を起こそうと、改めて目的を変えてから教室の扉に手をかけた。
『あんたさっき大丈夫だった? 上杉君殴っちゃったけど』
『あー、うん。後で謝っとく』
「……!」
扉を開けようとした向こうの廊下で、先ほどの女子の声が聞こえた。
女子の声は段々とこちらに近づいているようで、思わず三玖は身を固くした。
『おかげで生活指導の先生に呼び出されるしさ、マジでサイアクなんだけど』
(それは自業自得……!)
さらに近づいてくる声に、このまま廊下に飛び出してやろうかと扉にかけている手に無意識に力が入った。
しかし、扉を開けるより早く三玖の肩に手が置かれた。
振り返れば風太郎がこちらを見て顔を左右に振っていた。
我慢しろということらしい。
(なんで止めるの……!)
自分でも頭では分かっている。風太郎からさっき言われた。
ここで相手に噛みつくようなことをすれば自分はあの女子と同類になるのだと。
けれども、ならばこの腸が煮えくり返るような感情はどう処理すればよいのかと、悶々としている間にも声は更に近づいてきて、ついには扉のすぐ前まで来た。
『なんか学園祭、思ったよりつまんなかったなー。屋台もたこ焼きとか冴えないのになったし』
声はそのまま、扉の前を通り過ぎていった。
彼女たちのクラスも三玖たちがいるこの教室なのだが、どうやらただ通りすがっただけらしい。
通り過ぎてからの声はどんどんと離れていき、徐々に聞き取りづらくなりながらも、女子と一緒にいるらしい別の友達の声がかろうじて響いてくる。
『じゃあさ、あんたはなんだったら良かったの?』
『そりゃ決まってるでしょ。そんなの────
(…………え?)
女子たちの声は遂にはまったく聞こえなくなった。
ただ、声が完全に聞こえなくなる直前にぎりぎり聞こえた話に三玖は自分の耳を疑った。
あの女子が本当にやりたがっていた出し物。
それは。
────パンケーキでしょ』
そんな風に三玖には聞こえた。
『これにて、旭高校学園祭、後夜祭全てのスケジュールを終了とします』
今まさに、体育館で行われていた閉会式が終わった。
放送は学校中に響き渡っている。
後片付けやらなんやらで閉会式に参加できない生徒や職員も大勢いるので、そんな人たちのための計らいの放送だ。
それを三玖は自分の教室で聞いていた。
外は学園祭三日目の今日もすっかり暗くなって、教室内だけが蛍光灯によって煌々と照らされている。
黒板にはこれでもかというほど学園祭を楽しもうという気概が見て取れる落書きが一面に書かれていて、それを背にして三玖は一人黙々と作業をしていた。
ここからが勝負だ。放送を聞き終えた三玖はそんな風に心の中で覚悟を決めた。
「フータロー、上手くやってくれるかな」
昼間、あの後三玖の中で一つの作戦を思いついた。
その作戦を遂行するのはひとりではできない。
だから風太郎の協力を求めた。
まもなく自分と風太郎、二人で結構した作戦の結果とのご対面だ。
自分はただ、その時を待つだけ。
動かざること、山の如し。
「……来た」
遠くから、ゾロゾロと足音が聞こえ始めてくるのを三玖は静かな教室で耳にした。
校内放送が終わった今、静まり返った教室に響く音は一つしかなく。それは小さな音だったので足音にはすぐに気が付いた。
その室内に響く音とは違う、廊下から足音は一人や二人ではなく、集団のものだった。
まるで波のように響き渡る足音は一斉に教室の前まで来ると、ガラリと大きな音を響かせて扉を開けてから中に入ってきた。
先陣を切って入ってくるのは風太郎だ。
「連れてきたぞ、三玖」
「……ありがとう。待ってた」
風太郎の後に続いて入ってきたのはクラスの皆だった。
旭高校の学園祭は後夜祭まで終わった後は自由解散となっている。
後片付けをする必要がある生徒以外は閉会式が終わり次第そのまま直帰してもいいところを、三玖の代わりに参加してもらった風太郎によって一度教室へ集合するように呼びかけてもらったのであった。
教室内に入ってきたクラスメイトの一同は、どうして三玖が一人で待ち受けているのかと不思議そうにこちらを見てきたが、その後すぐに教室内に響くホットプレートで食べ物を焼く音に気が付き、続けて三玖が準備をしているものを見て目を丸くした。
「パンケーキ……」
クラスの中の誰かが呟いた。
「皆、学園祭お疲れ様。お腹いっぱいかもしれないけど、良かったら食べていって」
そう言いながら、新たに出来上がったパンケーキを紙皿に載せるとまた一つ、と言った机に置いた。
三玖が皆を待ちながら作っているものは、パンケーキだった。
すでにいくつも作ってあり、並べられているそれらを見たクラスメイト達の表情は驚きと、それと同じくらい動揺の色を多分に含んでいた。
なぜわざわざ学園祭が終わったこのタイミングに、わざわざ教室にホットプレートまで持ち込んで、わざわざクラスメイト達のために作っているのか。
その場にいるほとんどの人がその意図を汲み取れないでいるようだった。
ただ一人、三玖だけが話を続ける。
「今年の学祭、私は皆の役に立てなかったから」
三玖はフライ返しをホットプレートの横に置くと、一番最後に作った出来立てのものが乗っている紙皿を持ってクラスの方へと歩いていく。
立ち止ったのは、例の口論をした女子の前だった。
「あなたにも」
「……! なんで私に持ってくるのよ……?」
「昼間はごめん。私が言い過ぎた」
「────!」
本当は四葉が口を滑らせたせいなのだろうが、それは言いっこなしだ。
誰かの失敗は自分たち五人の失敗。そうやって補っていかないと、自分たちは困難に立ち向かえないから。
「信じてもらえないかもしれないけど、私が学園祭の間、学級長なのに何もできなかったのは本当に任せてもらえる仕事がなかったからなの。だから武田君に休んでいいって言われてて、昼間はそれを伝えたかたった……武田君にも言ってほしいんだけど、私、嘘言ってないよね?」
話の最後をクラスメイト達の中に混じっていた武田に振るように顔を向けた。
生徒たちの中から武田の声が帰ってくる。
「ああ、間違いないよ」
「……だけど、私がこの三日間……ううん、もっと前からずっと役立たずだったのは弁明のしようもない。そんな私がいくら……あの事故の噂を否定したって信じてもらえないとも思ってる。だからこれは────」
「信じてもらうための賄賂だっての? ……いらないわよ。何入ってるか分からないし、障がい者が作ったものなんて誰が────」
「あーお腹すいた。ちょうど小腹を埋めるのほしかったんだよねー」
武田とはまた違う位置から、わざとらしい女子の声が挙がった。
三玖も含めて一同の視線がいっぺんにそちらに集中する。
視線の集まった先、松井は一人グループから抜け出ると、一番にパンケーキの近くに寄って行った。
いくつかの机を繋げてあるそれらの上に並べられたパンケーキの紙皿、そのうちの一つを手に持ち、空いた片手で机の隅の方に置かれているメイプルシロップなどを調味料を指さす松井。
「シロップとか適当に使っていい? 後一人一個までとかあるかな?」
「調味料は自由に使って。材料も一杯用意してるから何個でも食べて大丈夫。足りなくなったら私が作る」
「本当に!? じゃあ遠慮なく」
紙皿に載っているパンケーキ丸ごとにシロップをこれでもかとかけると、松井は使い捨てにフォークを手に取った。
円形状のパンケーキを等分にカットをすることもせず、自分専用だとでも言わんばかりに自由気ままな形で一口サイズに切り分けるなり、まだまだ塊のように大きなそれを頬張った。
三玖の目からしても病気になるんじゃないかと不安になるほど大量のシロップがかけられたそれを十分口の中で堪能してから飲み込むなり。
「んー! うまっ!?」
これまたでかい声で唸った。
なおもバクバクと実に美味しそうに食べ続ける松井に、気が付けば全員が目をくぎ付けにされていたが、その中から更に続けて一人出てきた人がいた。
前田だった。
「シロップ俺にもくれ。あんま金なくて屋台で食えなかったからな。ここで腹いっぱいにしてやる」
「食い意地張っちゃってー……はい」
当たり前のように松井に並んだ前田もまた、彼女と同じようにまるでクラスメイト達の目など無いかのように食べ始める。
「────マジでうまいな。こっちで屋台出してりゃ最優秀賞取れてたんじゃねえの?」
「前田はバイトの腕前見せてやるって意気込んでたくせに他の組に賞を取られたから、さっきめっちゃ落ち込んでたもんねぇ?」
「うるせぇ!」
ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる二人。
あれはもう気にしないでいいだろうと三玖は目を外すと、クラスの中からぼそりと声が挙がった。
「そういえば、パンケーキって最後まで候補に残ってたけど誰も作れないからって流れたんじゃ……」
誰かもわからないその呟きは、水面をゆらす水滴のようにざわざわと周囲へと伝播していく。
どういうことかと。何故中野さんが作れるのかと。そんな疑問が次々に湧き上がってくると、今度は武田が前に出てきた。
パンケーキに向かうのではなく、クラスメイト達の前で振り返った彼は意を決したように言葉を紡ぐ。
「実は、パンケーキをクラスの出し物として案をだしてくれたのは中野さん……それどころか今ここにいる三玖さんなんだ」
「……!」
どよめきが一同の中で立ち上がる。
武田は説明を続ける。
「クラスの出し物について話し合いをしていた時、僕が匿名で案を出すように提案したのは彼女の意見も公平に取り入れてあげたかったからさ。結局、たこ焼きとパンケーキのどちらにするかという話でクラスの仲が割れかけたから彼女は意見を取り下げたが、もしも通れば彼女が君たちに作り方を教えることになって、パンケーキ屋も実現していたことだろう」
「なんで……」
武田に対して声を上げる例の女子。
「なんで武田君がそこまでしてあげるのよ!」
「彼女にも公平に学園祭に参加する権利があるからさ」
「だからってそこまでしてあげる必要なんてないじゃん!」
今も目の前に三玖から差し出され続けているパンケーキなど見えないようにしながら、武田を睨むようにして見つめる。
そのまなざしに対して武田はいたって平坦に返す。
「では君はあの時、中野さんが自分の意見として案を出したら素直に聞いていたかい?」
「……それは……」
「これはあくまで僕の予想だけども、もっと早い段階で候補から落ちていただろう。どうしてだと思う? それは君たちが聞く姿勢を端から彼女に対して持っていなかったからさ」
「…………」
返事はなかった。
語る武田の口ぶりは女子に対してだけではなく、クラス全体に向けて話しているようだった。
武田の弁舌によりいつの間にか空気はクラスから三玖達に取ってきた態度を糾弾するかのような雰囲気になってきたことに、三玖自身も多少驚いていた。
三玖的にはせいぜい、皆が食べたがっていたものを出してあげることで少しでも心象を良くできればよいと、その程度の考えだったのだが。
好いているはずの武田からさえ責め立てられる状況になっている女子は、苦しそうにしながらも、それでも反論の言葉を口にしてくる。
「それだって元はと言えば中野さんがあんな事件を起こすからいけないんじゃ……」
「その事件とやらを、お前らは何を根拠にして言ってやがる」
これまで、クラスメイトを連れてきてからは黙ったまんまだった風太郎が言った。
「そもそもお前らが言ってる事件ってのは誰から聞いた情報だ。ネットの情報ごときに踊らされやがって。こいつは初めから事故なんて────」
「待って、フータロー」
「……三玖?」
「そこから先は、私が話さないといけないと思うの」
振り返りこちらを見る風太郎の目を見て、三玖は静かに言った。
何を言うつもりかと、まさか本当のことを言うつもりかと疑念の目を向けてくる風太郎に向けて、三玖はまっすぐ頷いた。
全員の視線が三玖へと集中する中、言い間違えることがないように三玖は深呼吸をした。
緊張しすぎるのもいけない。
もう四度も入れ替わってる今、自分に下手なストレスをかければ入れ替わってしまう。
ゆっくりと、三玖は口を開く。
「お仕事先の人たちとの約束とかもあるから、詳しいことは私一人の判断じゃ言えないんけど、本当はもう少し、あの事故のことについて隠してることがあるの」
今、こうして話している内容は初めて言うことだった。
「私の中にいる一花は、その隠してることを近いうち、事務所を通してちゃんと説明してもらうことになってる」
「そんなの初耳だぞ……」
唸るように言う風太郎。
「ごめんね、フータロー。でも、私達の間だけで決めたことだから」
昨日、竹林との会話を終えた一花は寝る前にいつものように日記を書いた。
他の人格達に伝えたいことがある場合にメッセージを残すための、コミュニケーションノート。
竹林に対して真実を告白した一花は、一つのことを書き残した。
『10/14 一花
皆に凄い迷惑をかけて、それに協力もしてもらって今まで黙ってもらってたのに、結局私が最初にバラすことになって本当にごめん。
だけど、竹林さんには私、言うべきだとあの時は思ったの。
それと、もう一つ思ったことがあるの。
やっぱり私、本当のことを事務所を通して公表してもらおうと思う。
私のしたことを私は後悔してるし、私のことを知ってる親しい人たちは皆許してくれてるけど、やっぱり私は罰を受けるなきゃいけない気がしてならないの。
もちろん、皆にも迷惑かからないようにする。
全部を正直に言ったら取り返しがつかないくらい色んな人から、沢山の嫌なことを言われちゃうと思うから、公表してもらうのは私が今川さんに怪我をさせちゃったっていう事実だけを、なるべく客観的な視点から伝えてもらうつもり。
私が言っている罰っていうのは、世間から怒られる事じゃなくて、自分の夢を諦めることにしようと思ってるの。
事故を起こした責任を取って、女優、中野一花を廃業にしようと思うんだ。
ごめん、続き書くのにちょっと時間かかっちゃった。涙が止まんなくなっちゃって。今日泣くの、これで何回目だよってね(笑)
これおじさんくさいかな。
あはは。
四葉が言ってた福祉の進路っていうのも、私は悪くないと思うから。
もともと女優の仕事を突けるにはこの体じゃ無理があったし、始めた理由も不純だったから、潮時かなって気持ちもあるし。
うん、決心できた。長々とごめんね。
謝ってばっかりだな、私。
すぐには社長に連絡しないからさ。もしも反対の人がいたら、この日記に返事を書いて。
皆の意見も聞いてからちゃんと行動にしたいから、これは相談。
だけど、私にやり直すチャンスを貰えたら嬉しいです。
それじゃあ、改めて今日の日記を書いていくね。
………………
…………
……』
日記にはところどころ涙の後が残っていた。
あの日記を書くのにどれだけ時間がかかったのかは、裏で見ていた三玖だって知っている。
一花が決心をした今、自分だって罪を償うべきだと思った。
あの事故は当時の歪んでいた一花の悪意だけが原因じゃない。偶然撮影現場にいる間に入れ替わってしまったのに、それを言い出せず一花に成りすまして、一花の居場所を奪いかねないことをしてしまった自分にだって責任がある。
だからあの事故が原因で及んできている影響は、一花と、そして自分が何とかしないといけない。
昼間の時はまだ正直に言う勇気があったけど、目の前にいる女子みたいに、本当はパンケーキ屋をやりたいと思ってくれている子が自分以外にもいて、そこに事態の解決の糸口があるのなら掛けてみたいと三玖は思ったのだった。
三玖はクラスの皆に向かって勢いよく頭を下げた。
「結局全部話せるわけじゃないから混乱させちゃだけかもしれないけど、ごめん! でもあの事故は、一花が何もかも悪いわけじゃないの!」
「そんなの、どうやって信じろって言うのよ……」
言葉だけの釈明に、当然の返事が返ってきた。
今までずっと、この返事に対する更なる答えを返す”勇気”がなくて、三玖は言えなかった。
本当は、三玖は答えをずっと持っていた。
料理だけじゃない。いつだって三玖にはできないことをしてきた、一花の言葉を借りるなら、頼れる姉の一人の姿をずっと見てきたから。
修学旅行のあの日、答えを貰ったから。
「私達を見てて! 私達の誰も、本当は人を傷つけるようなことなんてしないって信じさせてみせるから!」
「……!」
「私を信じて」
あの後、ひとまずはクラスの皆も作っておいたパンケーキを食べてくれることになった。
一人一個換算での人数分までは作っていなかったらから、途中で追加を作ることになったが、その時には三玖に作り方を聞きに来てくれる子もいた。
全員が全員、三玖の言うことを完全に納得してくれたわけではなかったが、それでも三玖のクラスの中での居場所が返ってきたような、そんな気配は確かにあった。
あの女子も、風太郎には謝ったものの、自分達の方には最後まで謝罪をしに来ることはなかったが、それでもこっそりパンケーキを摘まんでくれていることを三玖は見逃さなかった。
結局彼女は自分の言いたいことばかりを自分に言ってきた結果になり、三玖達のような償いといったことは何もしなかったわけだが、それでもいいかと三玖は思えた。
あの女子にも間違いなく非はあるはずだが、許す許さないは当事者たちで決めればいい。
少なくとも三玖は彼女のことを許した、というか一旦気持ちをリセットしたつもりでいた。
あの子がいつか、改めて自分達に謝ってきた時はこちらももう一度ごめんなさいをして、手打ちにするつもりだ。
喧嘩両成敗。
大岡越前も『これにて一件落着』というだろう。
「何笑ってやがる」
「べ、別に……!」
風太郎に言われ、いつの間に顔に出ていたのかと思わず口元に手を当てた。
しまった。またオタクみたいな笑い方をしてしまっていただろうか。
「さっさと片づけろ。帰りが遅くなる」
「う、うん……!」
現在、自分と風太郎は教室の後片付けをしている最中だった。
急遽結構したパンケーキづくりによって大量に出た使い捨て食器のまとめと、ホットプレートの掃除などだ。
他のクラスメイト達の姿はない。三玖が自分が勝手に始めたのだから、自分が全てやりきると申し出を断ったのだった。
「つーか俺はなんで手伝わされてんだよ。別に手伝うとも言ってないでしょ」
「……別に帰ってもいいけど」
「……そう言われて帰れるか」
文句を言いながらも風太郎は二袋目の満杯になったゴミ袋の口を結んだ。
素直じゃないそんな彼がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「また笑ってやがる。集中しろ」
「ごめん、フータローがおもしろくて」
「はぁ? こっちは真面目にやってるんだが……」
「……フータロー?」
急に黙り込む風太郎に、今度こそ三玖は作業する手を止めて彼の方を見た。
風太郎はゴミ袋の口に手を掛けながら。
「すまん、実は俺は諦めてた」
「え?」
「学校に流れてるお前たちの噂。真実だからこそ、言い訳のしようがないと勝手に自分で線を引いちまってた」
「……」
「お前には教えられたぜ」
そう言って風太郎がこちらを見て来た。
彼から珍しく向けられてくる尊敬の眼差しに、ふと、気持ちが浮ついた自分は自分でも気が付かないうちに────
「うおっ!?」
彼を押し倒していた。
「三玖……?」
「私に何か言うことない?」
「言うこと……?」
「一花と約束してたでしょ!」
「あ……例のミルフィーユがどうとかいう……」
「私だけまだ言われてない!」
「あ、あー……」
風太郎は、ようやく三玖が何を求めているのか理解したようだった。
ただ、それにしたってもう少し聞き方というものがあるのではないかとか、お前がそんな風に言葉を求めてくるのかとか、訴えかけてくるような動揺の目をしていた。
だけど仕方がない。
あの夏の河原で自覚したらどんどん皆の気持ちが分かるようになってきたから。
二乃に好きだって言う風太郎を見て。
四葉のわがままだって受け入れる風太郎を見て。
五月と通じ合っているかのような風太郎を見て。
一花を見分けてあげる風太郎を見て。
嫉妬という気持ちがこんなにも辛くて、それ以上に彼のことが一刻も早く欲しくなる気持ちなのだとようやく理解できた。
だからこの学園祭の間、ずっと自分の番を待っていた。
ずっと彼から答えを聞くのを待っていた。
だけど三日目の今日は凄く大変で、やっと全部終わった今、もう我慢なんてできるわけがなかった。
「…………」
「…………」
「……三玖」
「うん」
「……好きです」
「……うん……!」
ようやく風太郎と近かった顔を少し離れた。
余裕ができたように風太郎。
「つーか、俺だってお前から聞かされてねえぞ」
「そうだっけ……? そうだったかも」
「そうだよ」
「ごめん」
「聞きたいのはそれじゃなくてな」
そうだよね、と口の端を上げた。
フータローに言わせたんだから、私だって言わないと。
「スキ」
「……ああ、知ってる」
「後それと」
「……?」
「キスしたい」
「え!?」
叫ぶフータロー。
「いや、お前からの言葉も聞きたいとは言ったが、そこまで今は求めたつもりはないというか────」
「あ、ごめん」
そんなことは知ってる。
私がしたいからするの。
「返事は後で聞くね」
堪らない気持ちに素直に従って。
今、表に出ているのは自分というアドバンテージを最大限活用して。
あれだけチャンスがあったくせに、誰も奪わなかった彼の初めてがそこにあるから。
彼の言葉を、私は自分の唇で塞いだ。
初めてのキスはレモンの味っていうけど、ちょっとだけ鉄の味がした。
私たちの幸せのためにと、偉そうに武士道なんていう話まで持ち出した私には、おあつらえ向きで、ちょっと嫌だけど、凄く幸せな感覚だった。
幸せで。衝撃的で。数秒のその間、唇に触れてる感触が何度か遠のいた気がした。
まるで何度も、その瞬間だけで入れ替わったかのように。
私が唇を話すその時まで、その不思議な感覚は続いた。
多分次回で最終回です。