ベルセルクのルカさん 作:あとば
「……なるほど、魔眼か」
意識がはっきりして、すぐに理解した。
七尾の、妖しく光っていた眼は魔眼の合図だったか。そういえばアリスもそうだった。イリアスヴィルとベルクで受けた。七尾が使ったのは睡眠の魔眼とかいう奴だろう。
「……あれか。アリスのいってた、精神がどうたら……」
油断だ。俺は勝ちを確信して、七尾に対する警戒が甘くなっていたのだ。
油断していた。だから魔眼に気づかなかったし、防ぐ暇もなかった。
「はあ……」
まさかアリスの言う通りだったとは。
完全に俺の怠慢だ。アリスと対等でないのが嫌だなんていう、子どもみたいな意地っ張りで、助言を雑に扱った。その結果が敗北とは。
死んだ方がいいな、俺は。まあ望むまでもなくそうなるが。
「……」
しかし、どこだここは。
俺は変な場所にいた。
見渡す限りの漆黒が広がる場所だった。闇ではなく、漆黒。暗い訳ではない。闇ならば全く目が使い物にならないだろう。でも黒だから、自分の手や足などの体を視認できる。
陰はない。曖昧な世界だ。でも地に足は立っていて、地面はしっかりあった。地面といっても、変な凹凸は一切ない平らだ。地平線もない。ただ真っすぐに、黒だけが広がっている。
「……はは」
要するに、白昼夢、明晰夢とかいうそれに近い奴だろう。時々見る奴か。考えて、動くことのできる夢。その感覚に近い。
なんとなく自分の置かれている状況を認識し始めると、他事を考える余裕が出て来た。
「負けたんだな……」
たぶん、生まれて初めての、死に直結する敗北だ。これまでも幾度となく敗北をして来たが、これは決定的だ。取り返しがつかない。どうしようもない負けだ。
たぶん目が覚めたら、地獄が始まる。
魔物に捕らえられた男は魔物の生殖に使われるらしい。どうやるのか知らないが、たぶん地獄だろう。本当にやってられない、そんなものは。
だが……もう無理なんだろう。目覚める方法などない。あの一瞬で感じたのは、三日三晩不眠不休で動いたときのような、泥沼につかる入眠だった。
「……疲れたな」
そう呟いて、寝そべった。
仰向けだ。空もない。真っ黒だ。でも地面はあるから、この疲れた体、後悔、何もかも全部、地面に受けてもらおうなんて……柄にもないことを考えた。
取り返しのつかない敗北の悪寒が、身に纏わりついた。手足を一ミリも動かしたくない億劫さが体を支配している。
「……目が覚めた瞬間に、死ぬか」
眼を閉じ、自分に声かけするように言った。
目が覚めるまでの、死刑執行までの、最後の時間。生殖奴隷なんかまっぴらごめんだし、そうなれば目的も糞もない。死を選んでもいい──いや、駄目か。
地獄ならば、俺はそれを受け入れなければならないはずだ。そういう人生を歩むと、決めただろう。
「……ふう」
落ち着け。鼓動が高鳴っている。死を実感し始めているからか、余裕が無い。
ああくそ。死んだっていいと思っていたくせに、いざ直面するとなんて恐ろしいんだろうか、死は。俺は甘い。中途半端な奴だ。
そう、俺は中途半端だ。
「アリス……」
あいつは見抜いていたな。いつから、だろう。最初から? いや、盗賊団辺りからか。
俺は結局、最初から甘い奴だった。
冷酷になれなかったんだろう。なるべきだと、ならなければならないと目指したが……結局は表面的だった。
今回だってそう。冷酷に七尾を殺していたら、こうはならなかったのに。
多分冷酷な奴というのは、どこの誰が死のうが気にしない奴。俺は、そこまで振り切れなかった。
「母さんの遺言が、まだ残っていたんだろうな……」
遺言──『誰も恨まず、立派な勇者になりなさい』
その、立派な勇者になれの部分。
あの言葉の中の勇者が、理想が、俺の中では生きていた。だから見過ごせなかったんだろう。放っておく選択肢が勝手に消えていた。さっきの狐とか、盗賊団とか……アリスと出会う前の色々。
「……お笑いだ」
ふざけた冗談みたいな人生だよ。決して成れない者に、俺はまだどこか縋っていた。
思考と感情が、一致していなかった。振り返ってみるとなんてどっちつかずで、情けない奴なんだ。
『怒りを燃やし続けて、苦しみ続けて贖おう』なんて誓ったいつかの日の俺が見たら、鼻で笑い飛ばされるだろう。ひどい体たらくだ。
こうなったのは、完璧に、完全に、絶対的に──
「……俺のせい、だな」
誰かのせいになんて、する気にもならないくらい、完膚無きまでの俺のせい。
俺は、目的を果たせず死ぬよ。目的の向こうへ行けずに、終わるよ。
「……ああ」
──どうすれば、良かったのだろう。
なんて自分に尋ねてみたけれど、答えは既に決まっている。
「何もかも全部……捨て去ることができたら、良かったんだ」
母さんの遺言も、他者の存在も、一切合切の“しがらみ“が、俺の目的にとって邪魔だった。だから捨てる。捨てて、体を縛る鎖を断ち切る。そうしたら俺は、ずっとずっと、強くなれるはずだった。それはもう、証明されてたはずだ。
でも、それができなかった。
だから冷酷であれなかった。目的のためには冷酷であるのが一番だと、理解していたのに。贖うためには、それしかないとわかっていたのに。
「……アリスも、そうだ」
わかっていたよ。
そうなったのは多分、なんとなくだけれど、理解していたからだと思った。あいつが何かそれらしいことを言った訳じゃない。旅を供にする中で、感じたことだ。
俺とあいつは、似ている。
だから、けっきょく、俺は。
「あいつといるのが……」
そう言いかけて、止めた。これを言ったら負けだ。全部折れた後の弱い俺でも、最後の矜持がその言葉を紡ぐことを止めさせた。
これを言ってしまったら、俺の人生を全否定したようなものだ。
(……もういいや、寝よう。どうでもいい。夢の中で寝るなんて、ちゃんちゃらおかしな話だが……)
目を閉じる。閉じれば浮かんで来るのは過去だった。必死に戦い抜いた、日々だ。あれだけやったのに、最後は敗けて、こんな負け犬になったなんて、情けないと思う。
ああ違う。もう考えるな。何も、思いたくない。
もう無理なのだ。満足している。十分だ。諦めた。それでいいだろう。やめろ。
「……」
──暖かさ?
「……?」
まっくらな景色の中に、日だまりのような暖かさを感じた。そうなる原因なんて、何もないはずだ。この世界は、完全な黒なのだ。暖かいも冷たいもない。
でも確かに、感じる。
「……あれは」
寝ながら、それがある方へ顔だけ向けて、正体を確かめようと注目した。
遠くの日だまり。いつの間にできていたのだろう。歩けばすぐ着く距離。黒の中、明らかに浮いている光。その中心部分に、懐かしい者がいる。
俺は立ち上がって、歩く。底も天井もない、黒の上を歩いていく。
見るべきではない。わかっている。だが、足が勝手に動くのだ。眼が勝手にそれを見つめるのだ。顔が決して背くことを許さないのだ。
近くで、それを見た。そこだけは光の中、確かな景色が映っている。木目、土下座する子ども、床、男、棚に並んだ薬や本。
「……」
──かつての”お前”がいた。
*
ああ、あれは、泣いて懇願する、お前だ──。
『お願いします。薬を売ってください……母さんが、このままじゃ……』
『よそ者に売る薬はねえよ! とっとと村から出ていきな!』
『お願いします……お願いします……』
『こっちに来るんじゃねえ! 病気が
『うあっ……うう……薬を……』
『次きたらぶっ殺すぞ!』
そうしてお前は村で一つしかない、道具屋を追い出された訳だ。
薬はここしか売っていなかったのに。咳止めとか、熱下げとか……他にも薬草の類。ここ以外で、入手する手段は村の中にはなかったのに。
ひどい顔だ。涙で、泣いて泣いて、ひどい顔。目は真っ赤で、殴られ顔に残る跡も赤く腫れていて、痛々しい。
でも──ああ、体を丸めて暴力に耐える間、お前は何をした?
祈って、いた。
祈ることしか知らなかった。できることがそれしかなかった。
世界は、お前に優しくなかった。イリアスヴィルは、子どものお前にはむご過ぎる。大人だってあそこに入れられたら苦しいだろう。子どもには本当に、地獄だっただろう。
この世は地獄、あの世は天国なんて言うけれど、本当にそうだ。
ああそう、こんなことも、あった。場面が回転するように切り替わる。
『神官様……どうか母さんを助けてください……』
『良いか、君は今すぐ家に戻るのじゃ。そして家の中で祈り続けなさい』
『で、でも……あんなに祈っても、イリアスさまは──』
『早く神殿から失せろと言っておる! 早く消えろ、ヨソ者め!』
『──イリアスさまは、助けてくれないじゃないですか……!』
『この……不届き者が! イリアス様を疑うか! お前のような者は、いやお前たちは早く死ね! 母子揃って死んでしまえ!』
『そんな……』
『イリアス様もそう仰せなのだ! とにかく、早く消えろ!』
お前は、三日三晩祈り続けて、必死に母さんを助けてくださいと祈った。
でもイリアスは助けなかった。だから神官にお願いしに行った。
『神官ならイリアス様に口利きしてくれるんじゃないか、そしたら、母さんの病気もきっと治るよね』なんて、甘ったるいことを考えていた。
お前はよそ者だった。
俺たちはだから、迫害された。
母さんは、流行り病にかかっていた。きっと最初から村人だったなら、助けてもらえた。でも俺たちは移民で、ほとんど外部の人間。
仲間じゃなかった。共同体の中に入れなかった。ただそれだけだった。
母さんは、見殺しにされようとしていた。
お前はそれが、許せなかった。
逃げられなかった。母さんは移住して、少し経った後に病魔に侵された。家に日がな一日籠りっぱなしになることがほとんどだった。そんな体でまた、当てもなく居場所を探すことなど、できなかった。
だからこの地でも、できる限りは、抵抗しようとしたんだ。抗おうとした。その結果が、さっきの惨めな有様だ。
お前は──無力だ。
だから、祈り続けることしか、できないんだ。じっと座って、来るかどうかもわからぬ、救いを、待つしかないんだ。
お前は泣きながら、母さんの待つ家へ帰る。
でもちゃんと、母さんに涙を見せまいと、しっかり涙を拭いて、家へと帰るんだ。目だけが明らかに赤いのだから、泣いていることなど、誰だってわかるのに。健気な様子だ。愚かで痛々しい青臭さは、きっと健気と表現していいんだ。
帰る。その道でも、苦しい。
目が、たくさん向けられた。針のように尖った目だ。お前は目を向けられるたびに、爪の間に針を一本ずつ刺されていくような、そんな痛みを味わった。
『見ろよ、ほら、アレ……』
『……まだ生きていたのか、あのガキ』
『早く死ねばいいのにね、病気の親も、あの子どもも』
『よそ者に病気をもらうなんて考えたくもない。今すぐ消えて欲しいわね』
言葉は、頭に響いた。立ち眩みに似た感覚だった。あれに痛みが追加されたような感じだった。
一言一言が、黒々とした鉄でできた鈍器のように重たくて、痛かった。
でもお前は彼らを恨まなかった。ただひたすらに、胸が締め付けられる思いだけ抱いて、歩く。
ああ、俺は、今ならばきっとこう思えるのに。
あそこにいる奴ら全員──半殺しにしてやりたい。お前を傷つける奴、傷つけた奴、全員死ぬほど後悔させてやりたい。二度と逆らわないよう、徹底的に痛めつけてやりたい。もう二度と悪口も冷たい目も向けませんと泣き叫ぶまで、殴り続けてやりたい。
でも、ルカ。
それは“俺”の話だ。
お前は薬を売ってもらえなかった。神官にも邪険に扱われた。村人にも味方なんて一人もいない。
それでお前は、どう思った?
悲しかったか? 憎んだか? 怒ったか?
きっと、最後二つだけ、違うな。
お前はきっと、誰より優しいからだ。
だから”これら”に対して、両の拳から血を流すのは、俺だけでいいのだ、まだ。
お前はまだ、両手を組んでイリアスへ祈りながら『助けてください』を呟く、無力でいい。
『……』
家の前に、お前はいた。
お前は、その頃にはもう、とめどなく溢れる涙も拭き終えて、前を向けていた。
お前はきっと、弱いわけじゃなかったのだ。
そして、何よりも。
お前はドアノブに手をかける。手をかけ、そこで、止まった。
『僕が、僕が母さんを助けなきゃ……母さんを、助けるんだ!』
お前には自分が何とするのだという、他力とは真逆の、自力が芽生えていた。
それは祈ることを、忘れた瞬間だった。
──だからここがきっと、分岐点だった。
お前は、森へと駆け出した。薬草を採取し、自分で薬を作るためだ。
村の外へ出る。激情に駆られたまま、母さんを絶対に助けるという思いのままに、走った。
村の出入り口に見張りはいた。
でも見張りは無視をした。お前が、よそ者だから。勝手に外に出で死んでも、誰も問題にしないとわかっていた。
無計画に、お前は走る。薬草を採取できても、薬の作り方などわからない。この判断が間違いか正解か、考えることもない。
ただお前は走り、疾走し続ける。
転んでも、すぐに立ち上がる。怪我を負った。だが無視した。母さんの苦しみに比べれば、何も、何一つとして、痛くなかったと思っていた。
走り、走って、走った。
お前は、とても大きな森にたどり着いた。迷いの森と地元で呼ばれる、毎年遭難者が後を絶たない森だった。
『ここなら、きっと薬草が……』
お前は恐怖した。
森。子どものお前でも、森には魔物や、危険な獣がいると知っている。そして何より単純な恐怖──闇は、怖い。子どもならばそれは顕著だ。
でもそんな恐怖を、かき消せた“もの”があった。
だからお前は、その一歩を踏み出せた。
でも、思いは万能ではない。子どものお前は、すぐに迷った。無計画で後先を何一つ考えない行動だった。
当然──魔物にすぐ見つかった。
初めて見た魔物は、ダークエルフだったと思うが、話はほとんど通じなかった。精をよこせと叫んでいる。
幸いだったのは、お前が子どもすぎたことだ。森は隠れるのにうってつけだった。また相手も興奮しすぎていて、冷静とは言い難かった。
だから運よく逃げることができた。だがいよいよ、迷いが深刻になった。逃げたせいで深部まで入り込んでしまったのだ。
お前は迷い続けた。
数時間──何日も。時間感覚は遠の昔に消え失せて、ただ、歩いていた。食料は獣の死骸を偶然見つけて、その血を啜ったり食べたりできた。生だとか腐っているとか、そういうのは全く気にしなかった。そのくらいに、空腹だった。
思えば、村で食料も満足に入手できなかった。お金がなかった。薬を買うために、母さんの食事のために、お前は我慢していたから。
そこらの雑草を食むなんてよくあることだった。食べない言い訳に、断食して三日三晩イリアス様に祈るから、と言ったこともあった。お前はその時、水があれば人間は何とか生きられるのだと知った。
お前は
そして、ようやくだ。ついにお前はたどり着く。もう何が目的かすら忘れた頃、そこへ着いた。
エンリカ──隠れ里、エンリカだ。
エンリカに着いた瞬間、お前は気絶した。人里に着いた、その安心感から、お前は気を失った。
眠る。泥のように眠る。夢は見た。母さんが元気だった頃の夢だ。夢の中でお前は泣いた。
お前は眠り続けて、そして目を覚ます。
ベッドにいた。これは夢、ではない。でも手当はされていた。誰かがお前を助けてくれたのだと、気づいた。
ベッドからお前は出た。近くに人の気配がした。
恐る恐るドアを開けると、そこには、女性がいた。彼女の家に運び込まれたのだ。
それが、ミカエラさんだった。
子どものお前には、冷たい目に見えた。お前はおどおどしながら立ち止まっていると、ミカエラさんから話してくれた。
『……目が覚めましたか。……それで何故、あんな所にいたのです。森は危険だと、教わらなかったのですか?』
『その、まずは助けてくれて……ありがとうございます。危険だとは、知っていました。でも実は母さんが──』
お前は嬉しかった。久しぶりに他人から受けた、優しさだった。
自分のことを、母のことを話す。ちゃんと話を聞いてくれた。お前は、それも何より嬉しかった。
『その、だから薬草を取りに来ました……それが迷ってしまって……』
ミカエラさんはお前の話を真剣に聞いてくれた。時には共に悲しんでくれた。お前は、優しさに触れて泣いた。ミカエラさんは、お前を抱きしめてくれた。
そして彼女は、優しすぎた。
『……持っていきなさい。そして今すぐに、村へ帰りなさい』
『そんな……お金もないのに──』
『いいのです。早く帰り、お母さんを助けなさい』
ミカエラさんには、感謝してもしきれない。お前を助けてもらった上に、薬をくれた。母さんまで助けてようとしてくれたのだ。こんな世界で、見返りもなしに。
お前は、ミカエラさんのような優しい人になりたいと思った。
『ありがとうございます……護衛まで……』
帰り道、迷わないように、また魔物に襲われないように、エルフの護衛をつけてくれた。お前の涙はとっくに枯れて、笑えていた。
この時、この村はエルフなど色んな魔物の隠れ里なのだと知った。
村を出るすぐ前、お前はそういえば名前を言っていなかったことに気づく。
『僕はルカと言います。また必ず、お礼をしにここへ来ます……ありがとうございました……』
そういうと、ミカエラさんの目が大きく開かれた。そしてすぐに鋭い目つきになり、冷たい声色で言った。
『……もう、ここに来てはなりません。この村に来たことは、忘れなさい……いいですね?』
お前は、何を言っているのかよくわからなかった。ただミカエラさんの鬼気迫る表情だけが、深刻だった。だからただ、よくわからずに頷いた。
護衛に先導されながら、村へと帰る。途中疲れても、歩く、歩き続けた。希望があったから、どんなに疲れていても、歩き続けることができた。
護衛の人は、お前を強い子だといった。お前はまた、嬉しくなった。
お前は満面の笑みを浮かべて歩いている。これで母さんを救うことができると、お前は本気で、信じていた。
森から出た。そのまま少し歩いて、知っている道が見えた所で護衛と別れた。ここまで来れば一人で帰ることができる。
お前は礼を言って、護衛と別れた。護衛は魔物だ。村の近くには行けない。
森から出た頃には、もう夜といって差し支えないくらいだった。夕焼けの橙色がほんのり雲を染めていた。
早く帰らなければと、お前は駆けだした。薬の入った瓶は胸に抱えて、落とさないよう細心の注意を払っている。
ひた走る。景色が目に入った。草原だ。かすかに残る夕焼けの光が、原っぱを赤く色づけていた。
母さんと一緒に、ここらまでピクニックに出かけたことがあった。だから、道がわかった。お前はふと、その思い出が頭に浮かんで、目が熱くなった。
元気だった頃の母さんと、手をつないで歩いた。一緒に木にもたれかかって、ご飯を食べた。思い出の場所だった。
お前はひた走る。転びそうになる。何とか持ちこたえる。薬瓶を落としたらと想像すると、お前は恐ろしくて堪らなかった。
森へ行ってから何日経ったのだろう。わからない。わからないから恐ろしく感じた。もしも帰ったとき母さんが物言わぬ躯であったならば、発狂してしまうだろう。
走り続けて、村の門の前についた。門の前には人がいた。二人だ。門番ではない。道具屋の店主だった。近くに商人らしき男がいる。商品の仕入れをしているのだろうと、お前は思った。
道具屋の店主とすれ違う。目は、合わない。店主は、お前の抱える薬瓶にだけ、目を向けていた。
──今だからこそ、言える。お前がもう少しだけ遅く、イリアスヴィルに着いていれば。お前がもう少しだけ早く、エンリカに着いていれば。
お前はきっと、母さんを助けられた。
イリアスヴィルに帰って来た。母さんの家まであと少しだ。
雨が、降り出した。夕焼けは消えた。闇の時間がやって来る。
お前は、走り疲れて、何とか帰って来れて気が抜けたせいか、少し歩く。ここで走っていれば──いや、きっと結果は、大して変わらなかった。
お前は、安心している。母さんを助けられると、信じている。
お前は、これから絶望するなど、微塵も思っていない顔で、歩き続ける。
お前は、何者かの息遣いを感じて、振り返る。しかし夜の闇に包まれた世界では、遠くまで見通しが効かない。
お前は、少しの恐怖を感じた。走ろう、と思った。雨も体にまとわりついて嫌だった。
お前は、また振り返る。直感的なものだった。
──お前は、本当の恐怖を知った。
『おい、ガキ……何でお前が、薬を持ってる? まさか……店から盗んだのか? 盗んだんだろ?』
欲望で動く、獣の恐ろしさだ。
そこには道具屋の店主が、いた。
目は血走っている。何かを求めていると察した。森で見た魔物と同じ目だった。でも、魔物とは違う。人の精ではなかった。精の方がむしろ、まだ、ましだったかもしれない。
店主の目は、お前の持つ薬瓶にだけ、注がれていた。
『今ならまだ許してやる。さあ、返すんだ』
『これは……村の外でもらったんだ。ぼくは盗んでなんか……ない』
お前は、その目に恐怖しながら言った。声は、体は震えていた。
後からわかったことだった。
お前の持っていた薬は、世にも珍しいものだった。エルフの秘薬だった。どんな病気もたちどころに治るという、伝説的な秘薬だった。
お前の持っている薬瓶のラベルが、伝説のそれだったと気づいた商人が、お前にいちゃもんをつけて奪おうとしたのだ。
『嘘をつくな! このクソガキ! さあ、今すぐ返せ!』
『わたさない! わたしてやるもんか!』
お前は、必死に抵抗しようとする。お前の全てに今、母さんの命が懸かっていたためだ。
腕力では敵わない。かといって逃げても、追いつかれて奪われる。身を縮めて助けを待っても、村人が助けてくれるとは到底思えなかった。
だからお前は、戦った。敵わないとわかっていても戦う以外の選択肢などなかった。
初戦だった。
敗けた。戦いですらない。
お前は一撃で地に伏せられ、地面に叩きつけられた。
拳だった。顔面を打ち抜いた。鼻血が風邪のひどい時に出る鼻水のように流れ出た。
薬は、奪われた。
攻撃はまだ続いた。日頃の鬱憤でもたまっているのだろうか。よそ者だから死んでもいいと思われたのだろうか。店主には妻子がいたから、何かと苦労でもあるのだろうか。
お前は、何で人がこんな悪魔になれるのか、わからなかった。納得できなかった。
お前は、頭を踏みつけられた。お前の額から血が溢れた。お前は殴られたとき口を切った。お前の口に血の味がいっぱいに広がった。お前は割れていない子供らしい腹を踏まれ嘔吐した。
お前は、お前の意識はもうろうとして、気絶、しかけていた。
お前は、けっきょく無力だった。
『手間かけさせやがって……へっ……。……だが、これさえあれば……』
──また、祈っている。
泣きながら助けてくださいを呟いている。イリアスへ祈ることを、まだ続けている。
だが、少しだけ、ほんの少しだけ、自覚はないだろうが、違う何かをお前は宿しているはずだ。
歪む景色、あやふやな視界。ただ聞こえた、商人が嘲笑うかのように、言い放った声。体を焼き尽くさんと燃え盛る、痛み。胃液と血が混ざった最低の味が舌にまとわりつく。喉が溶かされるように熱い。
お前はそこで初めて、胸が熱くなる。エネルギーが嫌というほど湧いてくる”それ”を、知る。
「──なあ、ルカ」
”俺”は”ルカ”に話しかける。
ああ、無論、もちろん、過去の話。過去を垂れ流しているだけだ。話しかけた所で、返答など何もないだろう。何も変わらない。俺が道具屋を殴り飛ばしに行っても、何の意味も為さない。
それでも、だとしても、俺はお前に話す。お前に、呼びかける。呼びかけたくて、我慢できなくなった。見ているだけではいられなくなった。
お前は、四つん這いになっている。顔は見えない。でもわかるよ。
未だに祈ってるんだ、イリアスへ。
店主は去ろうとしている。高笑いしている。背中は、どんどん遠ざかる。早くしなければ、あの薬が完全に道具屋のものになってしまう。
結果はわかっている。だが、俺は問いかける。
「……いいのか?」
それで、いいのか。祈るばかりで、いいのか。
俺は、お前に一歩近づいた。顔はやはり見えない。
お前が、近くにいる。俺の足とお前の頭の距離は遠くない。俺は片膝をついた。
近くで見ればよくわかる。お前は、泣いていた。地面にいくつも跡が残っている。涙は枯れつくしたと思っていたのに、まだ、出た。よく泣く子どもだったのかもしれない。
きっと今日を以って、涙はほとんど枯れる。
「……少し先の話だ。お前はこれから、この世の地獄を味わうことになる」
目を背けたくなるような、凄惨な現実。果てしなく自分勝手な人間。愛別離苦。子どものお前には刺激の強すぎる、どうしようもない地獄を、味わうことになる。
それは、変えられない未来だ。俺にとっては、起こってしまった過去だから。
「それがお前を、根本から変える」
優しいお前など消し去ってしまう。誰かの為に泣けるお前など、葬り去ってしまう。
「笑えてくるだろ。今でさえ死んでしまいたいほど苦しくて、つらい。だってのに、まだまだお前の苦しみは終わらない。始まったばかり、なんだ」
終わらない苦しみ。それを何て言うか、お前はまだ、言葉を知らない。
「その先も同じだ。こんな苦痛は比じゃない、色んな痛みが、お前を待っている。お前は幾度も後悔する」
今日まで歩いて来た、日々。ひどい折檻も受けた。雷が落ちた。豪雪の中、手を縛られて放置され凍死しかけたこともあった。どれも死ぬかもしれないと思ったことばかりだった。
でも、その度に俺は──。
「でも、お前は──何度でも立ち上がれるんだよ」
きっとこれは、この世で一番信頼できる未来予知だ。
俯き、祈り続けるお前に向かって、俺は言う。言葉ばかりを投げかける。どの口が言うんだ、と思う。お前だって、立ち上がる気力が湧かなかった癖に。
でも、今ならきっと、立ち上がれる。俺もお前も。
「理由ならそこにある。そこら中に、転がっていたんだ」
俺はイリアスヴィルを見渡す。夜の村だ。遠くに見える家々には灯りがともっていて、今のお前の状態なんて、誰も知らない。でも気づいていたって、関係ない。見殺しにされる。
イリアスだって、そうなんだ。誰も助けてはくれない。
お前にだって、それは見えているはずだ。わかってない訳ないはずだ。
お前はその目で、何を見た? その耳で、何を聞いた?
どんなものだった、それらは。
「わかるだろ、ルカ。見て見ぬ振りはもうできない」
知ってしまったから。お前は、誰よりも優しかったから、見過ごせない。お前が、母さんが受けた数々の不条理を、理不尽を。それらに対して、お前が抱いた感情が、悲しみだけのはずがないんだ。
「お前はもう知っている」
そう、世界は──。
「世界は、どうしようもなく、
言葉のボルテージが、上がる。回り始めた口は止まるところを知らない。お前と同じように激情に駆られて、言葉を放つ。
「だからお前は、
世界の不条理を、理不尽を、いびつさを、お前は誰よりもわかっているから。お前がこの村で味わった全ての苦痛が、世界のかたちそのものだ。
だってそうだろう。俺たちはただ、よそ者だっただけだ──迷惑など何もかけてない! なのに、こんな目に遭うんだ。そんなの、許していいはずがないだろう!
お前は、まだ手をつないでいる。祈る。だが唸り声のような叫びを、喉奥から出している。
「お前はこんな所では終わらない、死ぬまで決してお前は止まれないんだ! こんな所で負ける、立ち止まるような奴じゃないんだ、お前は──俺は!」
吠えるように言葉を一つ一つお前にぶつける。
お前はまだ俯いている。でも、俺にはわかる。お前が今、どんな顔をしているのか──。
「拳を握れ。歯を食いしばれ。体の管全てに血を巡らせて、熱を生み出せ。それら全てが、何もかも全部が、お前の理由になる──」
お前が、合わせる手と手を、強く、硬く結ぶ。二つの手の甲に爪が食い込む。歯ぎしりが聞こえた。片膝をついてお前を見守る俺にも、その熱は伝わった。
そうだ。理由はいつだって一つしかなかった。その一つだけ胸に燃やしてお前は進めば良かった。
「
──そうだ。原動力はいつだって怒りだった。この時ばかりは怒りしか、なかった。俺はそうやって生きて来たんだ。
「俺たちは死ぬまで──死ぬまで、怒り続けろ! それが宿命だ、それが罰だ、それこそが、使命だ!」
どんなことがあっても変わらない、永遠の原動力だと信じていた。
迸る雷のように猛々しく、降り注ぐ豪雪のように荒々しく、全てを覆い隠さんと広がる影のように重い──それらこそがお前の根源で、唯一絶対の動機で、力そのものだった。
──だから、立て。
「立ち上がれ、ルカ」
”ルカ”は、立ち上がった。
地面はある。でもふらふらしている。地に足がついていない。ルカは気つけのつもりで自分を殴る。頭をぶんぶん振った。
涙と血の混ざった液体が目にしみたのか。ルカは服の袖でごしごしと拭う。鼻血を親指でぴっと払い飛ばす。
再び顔を上げる。
目は、もう子どものそれではなかった。ルカは俺の体を突き抜けて、道具屋の元まで走っていく。
その姿に、ほんの少しの後悔を抱いて、俺はルカを見送った。
数秒経って、道具屋の声、咆哮が聞こえた。
「そうだ……それで、いい。それで良かったんだ……!」
俺はにやりと笑う。振り返る必要など、どこにもない。
あいつは、涙でぬれた頬、血が止まらない傷、泥だらけの服、すべてひっさげて、戦いに行った。もう心配なんて、する必要はない。
戦士の顔だった。どんな手段を使ってでも薬を奪い返してやろう、そんな決意が込められた、貌だった。
あいつは今やっと、その一歩を踏み出した。
祈りを、誰かに頼ることを捨てれたのだ、あいつは。
もう二度と祈らない。イリアスなんかに頼らない。どれだけ『助けてください』を叫んでも、助けてくれない、そんな奴に祈る必要はないんだ。
これが、この日が、俺の根源だった。
「……わかってる」
次は俺だ。今に目を向けよう。捨てよう。
捨てることこそが、俺の根源そのものだ。
もう一度、戦いへ行こう。
ちょっと弱って、過去を振り返った。ただそれだけだ。五臓が疲れているときは、悪い夢だって見たくもなる。
俺ももう行くよ。振り返らない。でもルカ、少しだけ。
お前の戦いはこれからだ。道具屋を倒してからが、本当の始まりだ。
具体的には、お前はまだイリアスに“様”が付いてる。それが無くなる日が、来る。
とにかく頑張れよと、心の中でエールを送る。
「……」
どこか清々しかった。あんなものを見せられて、奮い立たない訳にはいかなかった。
しかし昔の自分に救われるなんて情けない話だ。後であいつのように、俺を殴り飛ばそうと本気で思った。
そして俺は何の未練もなく、記憶の陽だまりの中から、一歩、外に出る。黒の世界へと戻る。
暖かさを失って、振り返ってみたら、もう何もない。
ただ黒が広がっていた。どこまでも続く、ひたすらに黒だった。ルカがいた名残などどこにもない。それでも、お前がいた証──胸に灯った火は、残っている。
すれ違ったとき、火を交わし合ったかもしれない、なんて馬鹿なことを思った。
──やることはわかってる。
「……早く、戻せ。時間の無駄だ」
そう呟く。途端に、黒ばかりの世界に、白きヒビが入る。ヒビから光が漏れ出ている。
戻せと言ったら戻って、理由を忘れかけたら奮い立たせてくれるなんて、すごく都合の良い世界だ、ここは。まあ当然か、俺の中だ。
外の理不尽まみれのくそな世界とは違う。
──諦めている暇なんてない。そうだろう?
ヒビは増えていく。床、前、後ろ、上──全てに大小、数えきれない量のヒビが、白が、まっさらが、どんどん増えていく。
「早くしろよ、さっさと起こせ」
それでもまどろっこしいと、今すぐ起こせと催促する。待ちきれなくなって歩き出す。駆け出す。すぐに壁にぶち当たる。意外と狭かった。
目の前には、黒い壁があった。でもヒビが入っている。もうすぐ、割れる。
そのはずだが、加速度的に進行していた世界の崩壊は、ぴたりと止まった。
少し考えて、ため息をついた。
「ああわかった。誓うよ──誓ってやる」
俺がそう宣言しなければ、この世界から解放してくれないらしい。誓えと、言われた気がした。でも確かにそうだ。再起に、誓いは付き物だ。
わかったよと、思い切り拳を振りかぶる。
「全部捨てるよ」
──必要の、ないものは。
全ての意味を込めて言った。母さんの遺言も、過去も、“あいつ“も何もかも全部だ。重荷は全て投げ捨てて、ひたすらに“目的”のために、愚直に突進してやる。
あの時と同じ、信仰を捨てた時のように。
それが絶対に正しいと信じて、怒りを燃やして、目の前の黒を思い切りぶん殴った。
拳は壁を容易く突き抜ける。
音もなく、壁は崩れる。
世界は、砕け散る──。
その瞬間、自分の中の何かと何かが溶けて、混ざり合う。
意識が浮上する。
そして──刹那に胸へ走る痛み。何を忘れていったのか。家から一歩出て、忘れ物をしたなと勘づく──根拠なんてないのに──そんな感覚。
だが止まらない。痛みなど無視してただ、ひたすらに進む。ここでの意識が途絶えていく。
ぷつりと、糸が切れたように、それは消えた。
暖かな陽だまりばかりを、ここに残して。