ベルセルクのルカさん 作:あとば
「そうか……それが、貴様の初めてか……」
「……そうだ」
ごつごつとした岩壁を背に、ルカとアリスは並んで座っていた。
びしょ濡れで、戦ったせいで泥だらけだ。だがそんなことは、二人にとってどうでもいいことだった。
「……奴の遺体は、比較的早期に発見された。ラザロがうまく証拠を残して、すぐばれるようにしたんだ。でも、俺は捕まっていない」
「……ラザロが、罪を被ったか」
ルカは頷いた。
「すぐ犯人として浮上したのがラザロだった。当日に被害者と会っていたという証拠を残していた」
道具屋の手記にその記録が残されていたらしかった。ルカのことは当然だが一切書かれていなかった。
「当時は、あいつを信頼してたよ。魔物を排斥する集団の棟梁だとは知っていたし、クズだってわかってた」
それでも殺しの際に見せた奴の正義、怒りには嘘ではない部分があった。
「でも、初めて味方だと思えた他人だった。だからあの時も、勇者的な奴なんだと思った……」
それでも当時のルカ自身は、それを悔いた。
ラザロに自身が被るべき罪を着せてしまったことを後悔した。調査はすぐに打ち切られてしまって、自白はできなかった。
「そして、ラザロは俺の前から一度姿を消した。捕まることはなかった」
アリスも知っている。捕まっていない。ベティが語っていた情報の意味があの時は理解できなかったが、今になって腑に落ちていた。
「……そして、次にあいつが俺の前に姿を現したのは、最低のタイミングだった」
ルカは空を見上げた。分厚い雲に覆われた空には、青の欠片も感じなかった。
「ルカ。色々、聞きたい」
無言で、ルカは答えた。
「貴様は……憎しみで殺したのか? 正義で殺したのか? 貴様自身は、今どう思っているのだ?」
結局どちらだったのか、アリスにはわからない。こればかりはルカ自身に尋ねなければならなかった。
「……憎しみ、だよ。でも、そこに正義で殺したという上塗りをしたんだ」
ルカの答えは決まっていた。それは既に出ている答えだった。
「だから遺言を破ってない──俺はまだ大丈夫だ。そんな風に、自分を正当化した」
私怨で殺したら勇者じゃない。誰かに言われた言葉だ。でもルカ自身も、それに納得していて、そうだと思っていた。
「だが、今の貴様は……完全に、破っていると」
「ああ。当時の、ほんの一時だよ。今ではもう……完全に破ってる」
勇者には決して成れず、そしてイリアスを憎んでいるから。破っているどころの話ではない。破り捨てて燃やしたようなものだった。
「では……殺し自体はどう思う?」
「絶対に、駄目だ。やっちゃいけない」
ルカは即答した。
過去を振り返った直後というのもあるが、ルカ自身も驚くほど早く答えることができた。
「……そうか」
アリスは、何かに気づいたように、言った。
雨は、未だざあざあと降っている。
「もういいか? ……じゃあ、次の話だ」
少しだけ話し慣れて来たのか、スムーズに次の話にルカは移行した。
「俺は道具屋殺しの後、殺人を正当化するために、正義という言い訳をした」
正義が剥がれれば、殺人はただの罪。そして、誰かを恨んだ結果の殺しになる。それだけは絶対に否定したかった。
遺言を完全に破ってしまう行為だからだ。『誰も恨まず』と『勇者になれ』を、終わらせる行為だった。
「だが、殺しのすぐ後。俺はその上塗りを、一瞬ではがされることになる」
泥と傷に塗れたルカの顔が、暗くなる。
「だから正義も、勇者も死んだ」
雨がいっそう、強くなった。
「遺言は──燃えて、朽ちた」
*
──俺は、間違っていない。
徒歩で目的地まで向かう最中、お前は自分にそう言い聞かせた。
あいつはクズ、くそ野郎、死んで当然の人間……。
だから俺が、正義。
そんな言葉を重ねて自分を正当化する作業に集中した。それはお前自身が、間違えたのだという事実に、気づいていたからこそだったと、今では思う。
そう思わなければ何かが折れて、自分が自分でなくなることを予感した。だからやらざるを得なかった。
そして、お前は──墓地に着いた。
ある程度イリアスヴィル住人の墓石で固められている。その外れに、お前は母の墓を作った。
「……」
墓石の前にたたずんで、花を供えた。木でできた十字架に花の冠を添えて、黙祷する。風が髪を撫でた。
そして、墓に向かって言葉をかける。
「母さん……俺は、たぶん、勇者だよ。悪を殺したから」
そう言って、お前はすぐに自嘲した。
「なんて、嬉しくは、ないか」
当然だ。どこの親が息子の殺しを喜ぶというのだろう。そんなことはお前も気づいている。
「母さん、俺は……」
それでもそんな報告をした──。
かがんで、墓にもたれかかる。感じたのは温かみのない石の触感だけだった。
「わからないよ、母さん……」
そう言って、お前はふらふらと立ち上がる。その目元にはくまができていた。
立ち去ろうとする。共同墓地から相当に離れた場所に、この墓はある。そうしないと手痛く文句を言われるためだ。
そしてとぼとぼ、自身の家に帰ろうと、歩き出す。
「……!」
そこでお前は思わず木陰に隠れた。様子を見る。見なくてはならないという気がした。
とある母子を、発見した。
その母子は真新しい石でできた十字架に、花束をささげていた。
「……あ」
あれは──お前が殺した道具屋の、遺族、だ。
二人は、話す。お前に聞こえる音量だった──聞かなければならないと、震える足を抑えた。
何故なら、聞かないということは、負い目、罪悪感を抱いているということになるからだ。正義のつもりで殺したならば、胸を張って自身の正義で言い訳の言葉を言えるはずだった。
『あの殺人は正義だ』とか、最低でも『仕方なかった』そんな言葉で正当化できるはずだ。
「……ねえ、お母さん。本当に、お父さん死んじゃったの?」
「ああ、そうだよ」
でもお前はもう耳を塞ぎそうになった。塞ぎたくないと、手を必死で抑えた。聞かねばならないと偽物の正義が言っている。
「お父さんは、死んだ」
お前は鼓膜を破りたくなった。
「何で?」
「お父さんは、この村の人たちに薬や道具を売って、いいことをしてたんでしょ?」
聞きたくない、本当に聞きたくない言葉が飛んで来る。自身の行いの、その全てに罪悪感しか生まれていない。本当にあれは正しかったのかと、殺してしまった瞬間に後悔した。
ならばもうそれが全てだったのかもしれない。
「何で死んじゃったの、殺され、ちゃったの……?」
娘が墓にもたれて、泣いている。肩が震えていて、鼻声になっていた。だから泣いているのだと理解できた。
「お父さん……お父さん……」
その瞬間──お前は折れた。
正義が粉々に砕け散った。
浮遊感を感じた。すっ、と地面が割れて、落ちた感覚があった。
そこからは一瞬のこと。最低まで落ちるのは、刹那。太陽がぱあっと大地を照らすときのようだった。
人間を上がるのはこんなにつらいのに、時間がかかるのに、どうして、人間を下がるのはこんなに、楽で、一瞬なんだろう。
「お父さんっ……」
あの子どもの姿と、在りし日の母が死んだ日のお前が、重なる。
同じ、
──お前にとって、勇者とは何だったのか。
それは、日常を守るために戦う人のことだった。
お前自身が壊された側だったから、だからそれを守ってくれる人間を理想とした。お前自身もそう成ろうと、思っていた。
そのために道具屋を殺した側面はあった。奴が悪党だから、悪党がまた誰かの日常を壊さないように、殺したという意味はあった。
「……ほら、泣くんじゃないよ。早くお祈りしな。あの人が天国に行けるように祈るんだよ」
「うん……わかった……」
でも、奴もまた、誰かの日常を成り立たせていた。
それをお前は殺した。
それはつまるところ──あの母子の日常を、壊したことに他ならない。
だから正義は、勇者は、この時に死んだ。
お前が憎んだ道具屋と、ほとんど同じことを、お前はやってしまったから。
始まりは、元凶は奴だったかもしれない。因果応報だったかもしれない。でも、彼女たちは関係なかった。被害者だった。
それはお前も同じだった──のに、お前はもう、加害者だ。
母子は祈る。祈り続ける。数分は祈っただろうか。そこまで伝えたいことがあったのだろうか。お前にとってあの母子の全ての行動に、今となっては罪悪感しか感じなかった。
祈りが終わる。母は娘を先に帰した。今度は母としてではなく、妻として話すことがあるのだろう。
お前は、そこでやっと動き出す。
「……」
お前は道具屋の妻の後ろ姿に向かって、声をかけた。
「あの……すいません……」
目的は──自白、だった。
せめてもの、できる限りの償い。恨むべきものがいれば、怒りによってつらさを少しでも軽くできるはずだという、予感からの行動だった。少なくともお前は怒ることで自分を保っている。
「なんだい、よそ者」
刺々しい態度だった。でもそれはありがたいものだった。刺すようなよそ者へ向ける視線も、今だけはお前を気楽にするものだった。
「その……」
こう、言うつもりだった。
『あなたの夫を殺したのは、僕です。だから、僕を殺してください』
「その、お墓って、誰のです、か?」
──何をいってるんだ、お前は。
「は?」
母は驚いている。お前は、愕然としている。
「何、いってんだい?」
わなわなと、震えている。お前も自分の口が思いに反したことで、震えている。
「うちの亭主のに決まってんだろうが!」
そうだ。知っている。だから、あなたの恨むべき者が誰かを示そうと、ここに来た。
でも、口がまるで自分のものではないかのように、全く思う通りに動かない。
いったいどういうことなのか──全く、わからない。言えるはずだ。頭に言うべきことは浮かんでいて、一言一句脳内で再生できる。
「ああ……そう、じゃあ……ご冥福を……」
ならば言える。だが言えない。その訳は、極めて単純なのだろう。
「お祈り、します……」
お前は。
「……」
罰を受けるのが、怖かった。
自分を殺したくなった。自身こそ、彼ら──遺族にとっては何よりの悪だ!
それを理解しているのに、怖いから、言えない。心の底からこう思う。当時のお前でさえこう思う。
──死んでしまえ。
「よそ者に祈られても何も嬉しかないね。それより早く消えな」
悪態でさえ今は嬉しい。できれば殺して欲しかった。
恐怖から言えないと断じたのは、お前にまとわりつく悪寒のような震えだ。膝が、腕が、体が、意志と反発するように、口を動かそうとすると震えて、言葉が全くでなくなる。
何者かの作為を感じるほどに、意志と行動が、まるで異なった。
「……」
そしてお前は、墓からの帰路に、着いてしまった。
お前は結局、言えなかった。自分が道具屋を殺したと、言えなかった。
「……」
──俺が殺したんだ。他でもない俺が殺したんだ。
この時でも思うばかりで、言えない。
──受けるべき罪を、俺が、受けなかった。
悪寒が、体の全てを凍り付かせた。
──自白すら、できないのか。自分の罪を認めて、それを、あの人たちのために、あの人たちが楽になるように、恨みの対象を置けるようにすることすら、できないのか。
──ああそうか。いったら、言えば、また折檻だ。今度は殺人だ。傷じゃ、済まない。殺されるだろう、だから、逃げたのか俺は。
──俺は、俺は、絶対に勇者なんかじゃない。それどころか、あの、道具屋、奴と、同じだ。
──俺は、悪だ。
お前は、あの二人の日常を、奪った。奪い去った。それはかつて自身がされた、理不尽そのものだった。
完全に取り返しのつかないことをした実感が、津波のようにお前に押し寄せる。
その時、うぷっ、と抑えきれないものが胃の底からこみあげてきて。
「げぇ────」
お前は小さく、嘔吐した。
勇者が、断末魔の悲鳴を上げた。
*
数日後──。
気の入らない状態で、日課の修行に取り組んだ。足取りは重たい。勇者にはなれないと知っている。それでも、続けた。続ける意味はわからない。ただ体が勝手に動いてしまった。
何度も自白しようと足は動いた。だがその場になってから急に口が動かなくなるのだ。体が心の制御から外れてしまうのだ。
それがさらに自己嫌悪を加速させた。
だから、ずるずると、後悔ばかりが積もる悶々とした生活を送っていた。
「……?」
ある日、家に戻ったお前は、手紙を見つけた。
「……!!」
それを開いた瞬間に、お前は駆け出した。
そこにはとある場所と、差出人が示されていた。乱雑に、こう書かれていた。
『タラスの丘』
差出人は、道具屋の妻だった。
村をすぐに飛び出す。一目散に走った。指定された目的地は、あの場所だ。お前が店主を──彼女の夫を殺した場所だ。
何をされるかなど関係がない。ただ一言、殺されても構わないから、言いたかった。
謝罪を述べたかった。なぜ呼ばれるか察している。殺しがラザロによるものではないと気づかれた。
願ってもないことだった。言わねばならない。今なら、今なら言って、贖罪はできなくとも謝るだけでもできるのだ。
目的地へ着く。
「……」
そこには敵意を持った目の、復讐者がいた。
母はお前を待っていた。娘は母に抱かれて眠っているようだった。
息を切らして、そこへ向かったお前に、彼女は言った。
「お前が──お前が殺したんだ。ラザロさんに教えてもらったよ……」
お前は一瞬、何をいわれたかわからなくなった。
事実に気づいたとはわかっている。だから手紙をお前によこした。だがラザロが──なぜ?
「アンタの家に、血まみれの凶器が置いてあるから確認しろって。そして、ああ──置いてあったよ!」
頭がぐらぐら揺れ続ける。眩暈がする。そんなもの知らない。誰が、なんで?
「もう、あたし達は生きていけないよ。あの人を、失ったから……」
彼女は娘を抱きしめる。そして涙を流した。
「金がない。金が全てなんだよ。金があったからこの子は学校に行けていた。金があったから食べることができた。金がなければ、全て終わりなんだよ!」
なんで──お前は思う。
お前はそれに共感できなかった。だってあの道具屋は金稼ぎに熱心だった。金は余りあると言っていた。遺産は十分にあるはずだ。
「もう、女の身じゃ実を売るくらいしか生きていけないよ。親類もあの人以外にはいない。後を継いで道具屋を営むなんて女の身一つじゃできっこない!」
でも、彼女の言い分は違った。
「なんで、ないんだ。あいつは、金は……」
「なかったんだよ! 家のどこを探しても……資産の一つも、残ってない……」
「……そんな、馬鹿な」
お前は愕然とする。あの殺人で、自分はまさか彼女たちの全てを奪ったことになるのではないかと、絶望する。
「あたし達には、他の家族も、親類もいない。頼りになるものも、あの人以外にいないんだよ」
完全に夫に依存していた彼女たちは、どうすればこの先人間的な生活を営んでゆけるのか、何もわからなかった。そのノウハウをほとんど知らなかった。
「だがね……あたしを買う奴なんてこの世界にいない。あたしを娼婦として雇う奴がいる訳がない」
実際、彼女の容姿はとても身売りで稼げるようなものではない。だが、彼女をもしかしたら救えるかもしれない選択肢はあった。
「でもね……この子ならばきっと買ってもらえる。この子を犠牲にすれば、生きていける」
それはとても残酷な選択肢だった。しかし母が身を売るよりもずっと稼げる道だった。世の中には子どもを好み手を出す──そんな醜悪な本性を持つものが大勢いる。
だが、母がそんな選択肢を選ぶはずもない。
「でもそんなことを、この子に強制できる訳がない……」
故に八方塞がりだった。
「だから、ごめん、ごめんなさい……」
だから、彼女は別の救いを求めた。彼女は、懐から取り出したものに、マッチで火をつけた。
そこでお前は気づいた。母に抱かれて眠っていると思われた娘の顔に、何の生気も宿っていなかった。首元に、赤い跡がついていた。
でももうそんな気づきは──遅すぎる。
「愛してるよ」
二人が、吹き飛んだ。
血しぶきがお前の顔を濡らした。肉片が辺りに散乱している。
お前は、何も考えられなくなった。
あまりにも、あまりにも過ぎて、脳が完全に思考を停止していた。
これ以上彼女の言葉を取り込んで、頭で理解しようと努めて、そして何かを想う──そんなプロセスを踏んだら、壊れてしまうと体が止めていた。
それでも確かに感じたこと。
この時、完全に遺言が死んだ。
既に死んでいた遺言。それが、完全に燃やされて、もはや灰だけになったと、察した。
お前は、頼りを失った。
*
「今思えば、その時だった」
ぼうっと前を見ているが、何も見ずに言った。
「遺言の意味を、やっと理解できた」
『誰も恨まず』の部分だ。
俺もアリスも、おかしいって思ってたことの、意味だ。
「母さんは俺に、止まって欲しかったんだと思う」
「復讐とか、憎しみによる行動は結局、だから俺を止めようとした。俺を、信じてくれたんだ」
俺ならばそれが出来ると信じて、そして俺ならばそれに気づいて苦しみから抜け出せると、愛を以って最後に告げてくれた。
「でも俺は今、こんな奴になってる」
その思いに気づいていながらも──
「俺はイリアスを憎んでる。憎み、続けてる」
苦しむためと言い訳をして、ただ我慢ができないだけなのに、憎み続けてしまう。
「そしてだから、アリス。俺は勇者にはなれない」
他の誰が俺を勇者だと認めても、俺自身が絶対に否定する──そんな奴になってしまった。
「誰かを恨み、殺して、死なせた。こんな奴はどうやっても、勇者になんて成れるはずがないんだ」
「……おまけに、あの母子のつらさを和らげようと自白することも、できなかった」
「家族の喪失の時に、怒る対象とか、恨む対象がいれば少しは楽になるから。だから俺は理不尽という悪に怒ってたんだ」
「だというのに、俺は誰かのためを思って行動するという、勇者の最低条件すら、できなかった」
「だから、貴様はずっといっていたのだな……勇者では、ないと」
「あと……ここが原因だよ。償うためといったのは」
この時はもうぐちゃぐちゃで、何をどうすればいいのか、全くわからなかったから、少し落ち着いてから思い至ったことだ。
「俺は彼女たちの人生を奪った。殺した」
だが──
「償えない。彼女たちは死んでしまったから」
償いの対象がいないのだ。生きていたら、俺を殺すなり痛めつけるなり何でも受け入れるが、それができない。
「だからせめて、
ただ死ぬなんて、何の償いにもならないから。せめて最もつらい道を歩んで、それから死のうと決めた。
「そのための、冷酷だ」
「……?」
意味がわからないといった顔をした。さすがに言葉足らずだったなと、付け足すように続ける。
「冷酷な奴は誰だって殺せるだろう? それは俺にとって、最悪の理想像だ」
一番なりたくない存在だ。そんな者になる姿を想像したくもない。
「だから……そんな最悪に成ることは、償いになると信じたんだ」
人の受け売りではあるけれど、俺は今も本気でそう思っている。まともな罪の償いができない以上、そうするしかない。
「そして……魔王を殺すためにも、そうなるべきだと、思った」
魔王を殺すということは、魔王の家族や、魔王の配下を悲しませることになる。それを痛くも痒くもないと思える冷酷さが無ければ、殺せないだろうと考えた。
「……貴様」
そこまで言って、アリスは眉間にしわを寄せて、怒り──いや、明らかな違和感を抱いていた。
「どうした? 何か、変なところはあったか?」
「……いや、続きを話せ。今はいい。話を終えたら、いうから」
それは嫌だなと思いつつ、わかったと返事をする。でも何がおかしかったのかわからない。
「そして、その後──」
*
硝煙よりも先に、濃密な血と糞尿の匂いが鼻腔に絡みついた。お前は口元を抑える。呼吸が速くなったり遅くなったりを繰り返して、鼓動が嫌というほど大きく聞こえる。
ざっ、と影ができると共に足音がした。ルカは振り返った。
「……ははは、ルカ、こりゃひでえな」
「──ラザロ!」
ラザロだった。あの爆発もラザロ手製の爆弾によるものだった。お前はラザロに爆弾の手ほどきを受けている。だからすぐにわかった。
お前はラザロに詰め寄る。胸元を掴んだ。
「なんでっ、なんでこんな……なんで!」
ラザロは、無感情にお前を見下した。
力は、すぐに抜けた。怒る元気が残っていなかった。力を込めて掴んでしわができた胸元も、向けていた顔も、すぐに沈み込んだ。
「なんで……なんでだよ……なん、で……そんな顔、してるんだ」
何で、だった。ラザロが何で罪を被ったのか、何であの母子にあんな死に方をさせたのか、何でお前に復讐をさせたのか──全てわからなかった。
「あの二人が、そう望んでたからさ……実際、幸せそうだぜ?」
ラザロは赤く染まった地面を踏んで、肉片を拾う。首から上は火傷や損壊は多々あるが原型は保っていた。ラザロは剣を用いてそれを持ちやすいように整形すると、二人の首を両手でそれぞれ掴み、お前に見せた。
「ほら。笑ってるぜ」
お前は絶句した。
そして遅れてきた吐き気がして、大きく吐いた。
「俺も思わず笑っちまう。くくくっ、ほら、見ろよ」
そんなお前を無視して、ラザロは二人の首を投げ捨てると、懐からあるものを取り出した。
「お前の罪を被ったくらい、どうでもいいぜ、マジで」
それは──大金、だった。
「……!!」
一瞬でお前は理解する。
大金持ちの道具屋の家族、でも金がないといった彼女、だから死ぬしかなかった──こいつが、盗んだせい。
お前は膝から崩れ落ちた。
怒って、ラザロにとびかかるなどできない。もうお前は怒ることができない。
だって、全部、お前のせいだ。ラザロじゃない。ルカ、お前のせいだ。
だって、お前がラザロの口車に乗って復讐したことから全て始まった。お前があの時、道具屋の家に行かなければ。お前があの時、剣を投げ捨てていれば。ラザロの爆弾を奪って水に投げ込めば。
こうは、ならなかった。
もう怒りなど湧かない。ひたすらに──地獄のような申し訳なさが、お前を支配した。
「さて、人が集まって来るとまずい……」
ラザロは、無慈悲だ。でも優しそうな表情と、声色だった。悪魔は常に笑っているものだ──それをお前は、この時まで知らなかった。
「ルカ。今からちょっと遠いが、良い所に連れて行ってやる」
ラザロはお前に笑いかける。そして、手刀を振りかぶった。
お前の眼にはひどくゆっくりに映った。自分に向かってくる攻撃だったが、興味がなかった。どうでもいいと思っていた。自分の命に関心を無くしたことと変わらないことだった。
「だからな、眠ってろ」
お前の首に手刀が当たる。お前は精神の摩耗もあってか、すぐに、気絶した。
*
「……」
その後、激しい揺れによって目が覚めると、ラザロが目の前にいた。座って明後日の方向を見ている。体を起こそうとするが、足と手が縛られていて起こせなかった。
「起きたか」
ラザロはこちらを見もせずに言った。
お前はとりあえず、状況を把握しようと努めて、首と目を動かした。覚醒直後だったから少し把握に時間を要したが、察した。
「……馬車?」
「そうだ。ずいぶん疲れてたらしいな。二日も眠ってたぜ」
そう言われて、口がものすごく乾いていることに気が付いた。さっき発した言葉もひどく掠れていた。ラザロは皮袋に入った水を差しだした。
「……どこに、向かってる」
喉を潤したお前は尋ねた。
「ゴルドポート。イリアスクロイツ本部がある町だ」
二日も寝ていたのならば、もう自分が全く知らない土地にいるのだなと、お前は少しの恐怖を覚えたが、すぐにどうでもよくなった。
「……」
興味がない。
この自分の命がどうなろうが、どうでもいい。今すぐ死んでも構わない。死ねば償いになるかもしれない。そんな風にしか思えなかった。
「なに、大丈夫さ。心配することはねえ」
ラザロはお前を安心させようとしたのか、煽ろうとしたのか、言葉をかけた。
「何もしねえからよ」
また卑しく笑って言った。
お前は、馬車に乗っている間、何の抵抗もしなかった。
もう別に、どうでもいいと思っていた。魔物の餌にするでも、奴隷として売り付けるも、好きにしてもらって構わないと思っていた。
できる限りの、つらさを以って、自身を殺して欲しいと切に願った。
この時、生きる理由は、完全に消失していた。
時々馬車は止まって、手や足を解放されて食事が与えられた。機械的にそれを食べた。味はしなかった。何も感じなかった。
何日揺られたかはわからなかった。ただとても退屈で、でもそれは心地良かった。
罰が少しでも与えられたように感じた。それは償いにつながるものだ。だから、良かった。
そして、何日揺られただろうか。
馬車が止まる。馬車の窓から見える景色は、転がされているお前からは見えなかったが、潮の香りがしたことで海が近いなとは思っていた。
「着いたぜ」
縄が解かれた。途中から常に足の縄は解かれていたが、何週間か、もしくはひと月の間何もせず横になっていた。そのせいで体はかなり固まっていた。髪もかなり伸びている。肩まで雑に伸ばした髪は、しおれたリンドウの花弁のようにくちゃくちゃだった。
自身で立ち上がる力が残っていない。お前は馬車から這いずって出て、地面にべしゃりと落ちた。
それを見たラザロは、お前を鼻で笑った。
そんな嘲りを受けて、なけなしの根性がお前を立ち上がらせた。小鹿のように震えている。小さくジャンプして、歩けることを確認すると、よろよろ歩き出した。
「こっちだ」
ラザロがお前の先を行った。お前は素直についていった。
ゴルドポートを見て最初に抱いた感想は、荒んでいる、だった。
それは空気のせいだった。乾燥していて、とげとげしかった。海が近いはずだが、不思議と湿気は感じない。さっきまで感じていた潮の香りもしなかった。
「歩けるようでよかったぜ。じゃ、少し店でも寄るか」
ラザロはお前をつれて町を歩く。港ではあるが栄えているように見えない。人通りも特に多いと感じなかった。
地理的に見て、この場所は人間界から見て最先端だからだろうとお前は思った。ゴルドポートを超えれば、後はヘルゴンド大陸へ行く以外、先に進むことはできない。
「……お、土産屋だ。行くか」
ラザロはお前に提案したが、お前はただ地面を見て歩いていた。
「寄りたくない……用があるなら、早く、終わらせてくれ」
「全く、道草を楽しむ余裕が旅には必要だぜ?」
ラザロは仕方ねえなと呟くと、町の奥へと進んでいく。お前もそれに着いていった。
「ほら、ここだ。さ、入るぞ」
目的地──イリアスクロイツ本部に到着した。
教会のようないで立ちだった。おそらく教会をそのまま本部にしたのだろう。イリアス五戒の魔姦の禁を拡大解釈して、魔物迫害を行っている組織だと知っていたから、お前は特に違和感もなく受け入れることができた。
「覚悟を決めろよ? 後悔しないように」
「……?」
ラザロは中に入り、まず部下らしき人物らと顔を合わせ会話──いや口論だろうか。そんなものをした。
「何してんだ! お前がいない間! 近隣の村が蜘蛛の魔物に襲撃された! 人手が足りない、今すぐ──」
「まあ落ち着けよ。土産がある──」
お前は口論中のラザロを抜かして、中に入る。
「……!!」
言葉を、失くした。
それらを見て、どうでもいいと、思うことができなかった。乾いた大地に、死んだ心に水や愛を与えたように、一瞬で“何か“が戻った。
「……何だよ、これ」
医者や看護士らしき人びとが忙しなく働いていた。
床やベッドに、人があまた寝そべっているからだ。
本部を見渡す。足の踏み場の方が少ない。教会の椅子は全て取り払われている。そうしなければ患者を寝かせられないのだ。四方の壁には俯きながら座る人々がいた。明るい顔は誰一人見せない。寝込むほどではない傷を負った者が、壁に背を預けて意気消沈している。
特に異様なのが、奥のベッド群だった。祭壇に近い場所には、誰一人として正常である者がいない。みんな体や精神に異常をきたしている様子だった。発狂している者がベッドに縛り付けられている。
ざっと見ただけでも、非常に残酷な姿をしたもの達ばかりが目についた。
悲惨な姿を見ると、ひどく胸糞が悪くなる。
身体中の水分が抜けてしわしわの子ども──魔物の毒で体がもう一生動かない男──何かに怯えてずっと発狂している男──戯れに四肢をもがれ、だるまのようになった女──全て、この世の醜悪や理不尽をまとめたような光景がそこにはあった。
何よりお前に感情を戻させたもの──その近くで、涙する親類。
呆然とするお前の肩が叩かれる。ラザロがいた。口論は終わったようだ。
「これは……何だ……?」
ラザロが答える前に男の怒号が響く。入口がばんと開かれた。男が数名、ものすごく焦った表情をして担架を運んでいた。
「そうだな……何ていおうか」
こちらに担架を抱えた男たちが向かってくる。
「あ、そうだ」
男たちを避ける。担架が通り過ぎていく。
「現実だよ」
その担架には、生きているのか死んでいるのかわからないような状態の、誰かがいた。あまりに壮絶な姿だった。眼が両方ない。左腕がもげている。両足は糸で斬られたように膝から下がすっぱりなかった。
剣や盾などを男は装備していた。もしかしたら魔物を討伐しに向かって負った傷なのかもしれない。
「お前の親父の名残でね。魔物に虐げられた人々をここで治療してる」
親父──マルケルス。
「まあ、中にはもう、どうやったって治らないような怪我の奴もいるがな……だから、死を待つ人の家と、巷じゃ呼ばれてる」
さっきの男もそうなのだろう。そこで寝転ぶ者たちの大半もそうなのだろう。ここには明らかな重傷者しかいなかった。
「いつも、こんなの、なのか?」
「……さすがに違うさ。これは蜘蛛の仕業だ。奴らは繁殖期の時に種と栄養を求めて活発になる。だからここまでひどいのは、この時期だけだ」
蜘蛛の魔物。おそらくアラクネだろう。その種は残酷な魔物が多いというのは、お前も聞いたことがあった。
「お前の親父──初代団長マルケルスが死に、組織も変わる」
マルケルス。血縁上の、お前の父親だ。
「マルケルスは、光だった。この糞溜まりのような世界を、あいつなら変えれるんだと、俺も、皆も信じてた……だが奴は俺たちを裏切──いや、それはいい」
ラザロは何かを言いかけたが、お前はそれよりも、この現実を受け止めることに必死だった。
「今、組織は求心力を失っている。もともとイリアス教からも異端扱いの俺たちは、マルケルスが殺されてメンバーも数を減らし、魔物を攻撃するだけの集団だという情報ばかりが広がってる」
お前もそうだと思っていた。イリアスクロイツは魔物嫌いでテロ行為を頻発するだけの集団だと思っていた。
だがこれを見て、まさか母さんが親父を憎むなと言ったのは、このためだったのかとさえ思った。
「今の組織の形は、数年以内に崩壊するだろう」
その言葉に疑う余地はない。団長であるラザロが言ったのだ。違和感も何も感じない。だが、わからない。お前には理解できない。
「なんで、俺に、これを、見せたんだ……?」
ラザロに問う。ラザロはすぐに返事をする。
「わからねえか? お前がマルケルスの息子だからさ。子には親父の責を継ぐ必要があるだろ?」
この時、お前は全て気づいた。
何故ラザロはお前に接触したのか、何故復讐を手伝ったのか、何故あんな結末になったのか──。
「お前は、俺の次のイリアスクロイツ団長になれ」
全て、この為だったのだ。
瞬時に拳を振りかぶった。でも、握りこぶしは作れない。握れない拳に威力は期待できない。突き出す気力も一瞬で尽きて、拳は下がった。
「実際、お前は才能あると思うぜ?」
この悪魔のような男よりも、お前自身が、最低だと今は思ってしまったからだった。
「お前は、俺と同じだ──理不尽が、大っ嫌いなんだろう?」
「何を、いってるんだ……」
ラザロの異様な雰囲気にお前は恐れを抱いた。ラザロは目つきを異様に荒ませて、冷酷な顔をし始めた。
「なあ、俺がただ親友の息子だってだけで、お前の復讐に手を貸すと思うか」
思わない。少なくとも今のラザロからはそんな情があるとはとても思えなかった。
「確認したんだ。お前の正義が、どこにあるか。満場一致さ。俺ん中だけだけど……お前は才能があるぜ。俺と同じものを抱えてる。期待通りだ。お前はあいつとよく似てる」
ま、途中で止まったのはちょっと残念だけどな、とラザロは笑いながら付け足した。
「……俺は、嫌だよ。イリアスクロイツなんて、あんな奴の跡を継ぐなんて、いやだ」
「へえ、そうか」
ラザロは、間の抜けた表情になって、問うた。
「じゃあ、お前はこれから何になるんだ?」
「……?」
勇者──は無理だ。
「……!」
お前は気づいた。これから、何をすればいいのか、全くわからない。
遺言は完全に死んでしまった。だからせめて償いをと思う。
でも、償うべき人も、もういない。
村人たちに怒る? それは目的に向かう活力を生み出していたもので、目的そのものではない。
遺言を守るという目的の燃料だっただけで、それ単体では、意味がない。
それにもう──怒りなんて、燃やせない。
「とりあえず、勇者は無理だよなあ」
気づいたお前に向かって、ラザロは笑い混じりの言葉を次々と投げかけた。
「殺しはまあ……あいつは、ゴミクズだから良いとして……」
ラザロはうーん、と眉間にしわを寄せて、悩む振りをしながら口を動かしている。
「やっぱ、あれが痛いよなあ──あの二人にいえなかったの」
「……! 見て、たのか……!」
「そりゃそうだ。蒔いた種。水やりも丁寧に。雑草も抜いて大切に。そして成長し、花開く瞬間。できることなら見たいだろう?」
最低な趣味をしている男だった。あの墓地での場面を想定していたようだった。
「で、やっぱり正義を主張できなかった。あれがな、終わってるよな。道具屋殺しを憎しみでやったってことなんだから。そりゃ勇者じゃねえわ」
「……っ! お前……!」
何食わぬ顔でお前に向けて
「だからお前さん今、償いたいんだろう」
図星だった。
ラザロという人間は、そういう才能でもあるのか、お前の嫌な部分を的確に貫いて来る。
「ならここはうってつけさ。よくある理論だけど、殺した人間以上の命を救えってな。魔物から、人間を守るんだ」
それはもっともな理論だ。償いの道になるかもしれない。しかしお前はそれを拒む。
「でも……俺は、親父と一緒のなんて……」
「ああ? じゃあ勇者もなおさらだぜ。あいつも昔は勇者だったしな」
それでも、だとしてもこれは違う。イリアスクロイツはただの野蛮な集団──でもなかった。
「でもまあ、勇者に憧れる必要なんかないさ。そもそも、勇者ってのは異常者だよ」
ラザロはにこやかな顔になった。
「お前は、大丈夫さ。あそこでいえなくて当然」
お前を安心させるような声色になった。
「いってたら異常者さ。そこまで自分の正義を信じられるなんて、キチガイだ。大丈夫、お前はノーマルだ。全くもって、正常だよ。お前は余裕で普通の奴さ。ちょっと頭が悪──ああ流されやすくて、何一つとして現実を知らない、子どもだ」
いかにも気の良さそうな大人になった。
「だから勇者にはなれない」
冷酷に、笑っていた。
「あそこで、あの母子相手に、自分の正義を告白できる異常者が、勇者なんだよ」
「……そんな訳、ないだろ」
確かにあそこでお前は、自身の正義が揺らいだ。あの子どもの顔を見て、泣き声を聞いて、正義が死んだと感じた。
でも、あそこで正義を主張するなんてそれは──
「あるんだよ。自分の殺人を完璧に正当化して正義と声高に叫べる、そんな狂ってる奴が、勇者なんだ」
そんな訳がないとお前は睨む。勇者を侮辱するのかと、勇者からかけ離れたお前が、そう思った。
「なぜかわからないだろう。教えてやる」
「いってみろ。なんの根拠があって──」
「勇者は、魔王を殺すための者だからだ」
一瞬、理解できなかった。
「……!」
「そう。魔王にも子どもがいて、家族がいて、仲間がいる。勇者ってのはそれをぶち殺すんだ。そしてそれをやったと公言して、世界中から賞賛を受けなきゃいけないんだ」
理解した。ぐちゃぐちゃになる。お前の中の憧れが、成りたいと思った存在が、消えて──それでも。
「魔王のことなんて何も考えちゃいない。魔物は人間を襲うから、だからその長の魔王を殺す。魔王側の意見なんか聞きもせず、殺しにいく。それも一人じゃない。何人も送り出されるんだ」
事実だ。イリアス神殿で洗礼を受けた勇者は、年に数人どころではなく、数百は送り出される。彼らの最終目的は、夢見る所は、魔王を殺すことだ。
「なあ──狂ってんだろ?」
ラザロの勇者観には、確かに納得できる所はあった。それでも。
「殺人を、正義という異常者ども。それが勇者だ」
「違う」
でもお前は、それだけは否定したいと思った。
「勇者は」
どれだけ間違っても、お前の中で折れない。いや間違えたからこそ決して折ってはならない、死なせてはならない理想的な勇者像。
「誰かの日常を、守れる人のことだよ」
これだけは、ラザロの狂った勇者像を耳にしても、自信をもって言えることだった。
「……なんで、そう思うんだ?」
理由は既に決まっている。
「俺と、真逆のやつを、勇者というから」
お前は勇者になって何をすべきか知っていた。
理不尽を殺すべきだと、思っていた。誰かを理由なく虐げる悪を、討つために、それらから人々を守るために勇者になると、決めていた。
でも。
あの母子にとっての、理不尽はお前だ。
それが何より重く、お前の肩にのしかかっている。
「……ひひっ」
ラザロは、悪魔のように笑った。
それ以上声を出して笑わなかった。お前は俯いていて、ラザロの顔は見なかったが、ひどく卑しい笑みを浮かべていると察していた。
徹底的に、お前は破壊された。
それを行った張本人は目の前にいる。
だがもう破壊され過ぎて、ラザロに怒りを向けようとすら思えない。
かつてお前にあれだけ力を与えた怒りは、もう全く燃えない。湿気って、燃え尽きた炭のように白く、かびていた。
それから、十分な間をおいてから、ラザロはゆったりと語り出す。
「ルカ。お前の正義は死んでる。もうお前は勇者になれない。でももう少しだけましな奴には成れるよ──俺に着いてこい」
お前は、顔を上げた。
「見ただろう。魔物は残酷だ。悪逆非道だ。卑怯者だ、裏切り者だ。人間にとって奴らは、どうしようもない理不尽だ」
そうだとお前も思う。さっき見せられた現実は、あまりにも理不尽過ぎた。あんなことを魔物がやるなんて、許してはおけない。
「だから、マルケルスと俺は剣を取った。あんな理不尽をあんなことを、許せなかった」
ラザロの中に燃え滾るような憎しみが宿った。どこか常に薄ら笑いを浮かべているラザロから、それが消えたことを感じた。
「でもマルケルスが死んで数年。イリアスクロイツは、ただのチンピラ集団になりかけている」
どうしてもガラの悪いクズが集まっちまうからだと、苛立ちを隠さずに言った。
「一部のマルケルス派が抵抗しちゃいるが……このままじゃイリアスクロイツはさっきもいった通り崩壊する」
それを止めるために──
「だから、お前が変えろ」
お前が、イリアスクロイツを作った頃のマルケルスになれるかもしれないから。だからラザロはお前にここまで言った。だからお前に接触したのだ。
「お前がイリアスクロイツを立て直せ」
「なんで、なんで……俺がやるんだ……?」
それでもお前には理解できない。ラザロがやればいいじゃないかと思う。ラザロだって魔物に怒りを覚えて、こんな現状の人々を救いたいと思っているんじゃないかと思う。
「俺が、マルケルスの息子だから……?」
まさか、とラザロは笑って言った。先ほど言った事と違う。
「そんなのは方便さ。一番は、お前が誰よりわかってるはずだ」
──それは。
「お前は魔物に虐げられた奴を見て、どう思った?」
お前は、答えなかった。それを言ったら後に引けなくなると思った。
しかし確かにお前は、彼らの悲惨な姿を見て思った。感じたことがある。熱意が再燃したことを、心が熱くなったことを知っている。
村人たちや道具屋の店主に対して、お前が思った──それに酷似する感情を抱いていた。
それは、理不尽に対する怒りだ。
魔物によって無惨な目にあった者たちの受けた傷の、その痛みを想像することで、お前の心に、魔物に対する確かな怒りが宿っていた。
ラザロは、それに気づいている。
だがまだ答えない。答えてしまえば後には引けない。少しだけ悩む時間が欲しかった。
「まあ……少し急すぎるわな。ガキとはいえ、急ぎ過ぎたか」
頭をぼりぼりど掻きながらラザロは言った。
「時間をやる。そこらを歩きながら、自分と話し合ってみろ」
そして、そんな願ってもないことを言われて、お前は本部を追い出された。