ベルセルクのルカさん 作:あとば
村を出た後、妖魔──アリスと合流した。
ここからは街道沿いに歩くだけ。何度も通った道だ。目的地に着くのは明日の夕方ごろだろう。
「しかし貴様、良かったのか? 村人たち、何か貴様にいいたげだったが……」
数分黙って歩いた──妖魔アリスは蛇腹の部分で這っていたが──その後。
沈黙に耐えかねたのか。村人の誰一人にも声をかけず、かけられずの俺を見かねたのか。アリスが話しかけて来た。
「……生憎、仲が悪いんだ。気にする必要はない」
あの村に住んでいる者たちとの関わりはほぼ皆無だ。挨拶すら交わした覚えもない。たびたび開かれている村の集会は招かれないし、食料も自分で調達していた。
「……貴様がいいなら、いいが」
妖魔は首を傾げたが、しぶしぶと納得した。
「そういえば、とりあえずの目的地はどこだ? さすがにあてもなく流浪の旅に出る訳ではあるまい」
まあそうだなと言って、地図を広げて指で行先を示した。
「まずはイリアスベルクだ。そこを出たら適当にうろついて戦って、それが終わり次第……イリアスポートに行く。イリアス大陸からは出て、セントラ大陸の四大国を戦いつつ巡る」
最終的な目的地のことは触れなかった。アリスも答えないと察して聞かなかったのだろう。
ただ、イリアスポートは最近、妙な噂をよく聞く。詳しい話はわからないが、船が嵐で全て沈むという物騒な話だ。自然災害なら時間経過で終わるだろうと甘く見ていたが、そろそろ対処法を考えないといけない。
「しかし何というか、貴様は戦闘ばっかりだな……戦い以外にないのか? 他の何か……趣味とか」
「……さあ? 考えたこともない。まあ、強いていうなら料理か」
「む、それはいいな。楽しみだ」
(……この女、まさか俺の飯を食うつもりか? 二人分なんてないのに)
そのままくだらない会話を重ねつつ、アリスの情報を得ていく。とりあえず図々しい奴だとはわかっている。
馬車が行き交うため、ある程度整備された道を歩きながら、そういえば、と疑問をアリスにぶつけてみる。
「アリス、お前はなんであんな所で倒れていたんだ?」
倒れていたというか、墜落して来たのは何故だろうか? ここは魔物にとっては辺境の地だろうし、特殊な事情があるのだろうとは思うが。
「こんな僻地にいる理由なら、イリアスに吹っ飛ばされたからだ」
「イリアスに吹っ飛ばされたってなんだよ……ん? てことは、正午前──俺が洗礼に行く少し前に、お前はイリアスに会ったのか?」
「ああ、会った……人前に出られぬ顔に整形してやった」
そう言うとアリスは悪人面をした。いろいろ衝撃的な情報が入ったので、少し情報を整理する。
正午の前にイリアスとアリスが会い、二人は戦った。アリスは吹っ飛ばされてイリアスヴィルに。で、イリアスは整形された。正午以前の話がこれだ。
で、その後イリアスは降臨しなかった。
……ということは。
「俺の計画を邪魔したの、お前か」
「あっ」
イリアスの洗礼ビームを避けて、適当に嘲笑してやろうという、長年の計画。それが実行する以前に失敗で終わったのは、アリスのせいだった。
その可能性は高いだろう。人前に出れない顔というくらいなら、結構な傷を残したと取れる。イリアスはプライドが高い奴だ。性格的にも、そんな顔になったら絶対に人前には出てこない。
「……なんか、ごめん」
「別にいいよ。イリアスへの嫌がらせを、お前が代行したと思えば」
この先イリアスへ嫌がらせする方法などいくらでもある。まだまだ計画は考えてあるのだ。俺の108の計画の内、その一つが潰えただけだ。
ただ少し意外なのは、傲慢な態度の癖に謝ったということだ。何か言い訳でもするかと思った。意外と素直な一面もあるのか?
とりあえず、次やるとしたらどういう嫌がらせにするかと考えていると──。
「む……」
「わかってる。魔物だな」
ナメクジ娘が現れた!
上半身は人間。下半身はナメクジ。ぬめぬめしている。見るからに魔物そのものだ。上半身の外見はまるで貴婦人のようだが、下半身の異様さで完全に人外であるとわかる。
「旅人……しかも、洗礼を受けていない……」
「そうだよ、美味そうか?」
軽くレスポンスしながら、外套で隠れる木刀を腰から抜き去り、構える。
旅人が洗礼を受けた方がいいといわれる理由の一つに、魔物に襲われにくくなるため、というものがあるが、やはり洗礼の有無は魔物にとって重要事項だ。
「アリス……下がってろ……って、もういないか」
ちらりと後ろを見やれば、アリスの姿はなかった。遠くから視線を感じるから、急に地元に帰った訳ではないようだ。
さて、とナメクジ娘を睨む。
久しぶりに、俺の顔を見ても襲いに来る敵を見た。イリアスヴィル近辺の魔物からはブラックリスト扱いされているが、時々新参の魔物か復讐しに来る魔物がいる。
(……まあ、多分新参者だな)
復讐者特有の敵意も、自信と不安が両立した不安定さも感じない。この魔物は妙な自信に包まれている。
挫折経験がないように見えた。生まれたての魔物だったりするかもしれない。そう言えばミダス村辺りで、この魔物が大量発生する時期があるとか昔聞いた気がする。
(だから何だという話だが、どうするか)
ナメクジ娘はじりじりと、俺を捉えようと近づいて来る。
さてどうするか。木刀を構えはしたが、ナメクジの粘液が付着すると手入れが面倒くさくなる。とはいっても逃げる気にはならない。
となると一つだろう。
今から行うことに大事なのは、遠慮しない精神。敵を悪辣非道な存在であると信じる思い込み。そして戦意を真っ向からへし折りに行く遠慮のなさだ。
何を言われても気にする必要はない。おふざけでも何でもなく、この魔物は大真面目に俺に挑んで来た。痛みを負う覚悟を持っていて当然だ。
だから──
「どうしたの……? あなたは、これから私の餌食にな──るぇ!?」
会話の途中で駆け出し、勢いのまま魔物の顔面に飛び蹴りを放った。ナメクジ娘は吹っ飛んで、地面に粘液をまき散らしながら背中で着地する。
ナメクジ娘はぐぐぐと上体だけ起こして、蹴られた衝撃によって目線が定まらない様子で、
「ひ、卑怯な……」
と、言った。俺はそれに対して、乾いた笑いを零した後に、
「卑怯? お前に斬撃が効きづらいのは知ってる。その粘液で滑るからな」
淡々と言った。そして、じゃあどうすればいいのか? と言葉を続ける。
「直線的でかつ高速に、砂の混じった靴底で攻撃すれば滑らないしダメージも入る。別に俺は木刀を使うなんて一言もいっていない。不意を突いたのも卑怯じゃない。というか当たり前だ」
「っ……!」
ナメクジ娘は立ち上がれていない。ただ強がりの敵意がこもった目で、俺を睨むだけだった。
勝負は終わった。場の優劣は既についている。これ以上痛めつける趣味はない。
「いいか。襲うならもっとあからさまな新米勇者を襲え。俺はお前を殺さないが、ある程度経験を積んだ戦士ならお前くらいは余裕で殺せる」
木刀をしまい、未だに俺を睨むナメクジ娘の前を通る。
「次からはもっと相手を選べ」
これ以上時間をかける必要はない。木刀をしまって先へと進んだ。
その、数分後──。
「……? 戻って来た」
「……? なぜ戻らないと思ったのだ」
アリスが戻ってきた。てっきり戻ってこないと思ったので驚いた。
「何を驚いている? 魔物に姿を確認されると面倒だから、一時的に離れただけだが」
「いや、一応あれでも魔物、同族だろ? 思いきり蹴っ飛ばしたから……」
アリスはそういうことかと納得した顔を見せた。
「別に同胞へ攻撃することを咎めることはしない。精を求めて襲うならば、返り討ちにされる覚悟を持つのは魔物として当然だ」
「へえ、結構ドライだな」
「だがもちろん、過剰な暴力は許さん。魔──……族として、厳正に処罰する」
「つまり殺すってことか、理解したよ」
さらっと殺気と爆弾発言を受けて、内心面食らう。だがまあ、過剰な暴力をするつもりはないし関係はないだろう。そういう趣味はない。
それから、特に話すことがないまま黙々と進み、日の赤みが濃くなり始めた。
「日が落ちて来た……近くに水辺もあるし、野営の用意をしよう」
「……夕飯か? 夕飯だな。貴様の飯はなかなかうまそうだ、期待しよう」
そして野営の準備をする。しかしアリスにただ飯をやるのは癪に触る。
だからダメ元でアリスに火をつけといてくれと頼んだら、魔法で焚火を作ってくれた。転移する魔法だったり、目の魔法だったり、便利だなと思った。
……仕方ないので、飯を食わせてやるか。
*
「あー食べた食べた……」
「ごちそうさま……余は大変満足したぞ」
完全に日が落ち、辺りは真っ暗。焚火の灯りと月明りが夜中の頼りだ。
こうなるとほとんどの魔物は活動をやめてねぐらへ帰るので、昼間よりは安全になる。
夕食にはパンと、適当な野草と、狩りをして得た獣肉を焼いて挟んで食べた。アリスも随分と満足したようである。昼間は怜悧な表情をしていたが、今は微笑んで満足気だ。
もう後は、日課のトレーニングをこなすだけ。だが食後だし、少し休憩してから行うことにした。
ぼうっとしていると、アリスが話しかけて来る。
「しかし、先のナメクジ娘もそうだが……貴様はかなり戦闘に慣れているようだな。どこで習ったのだ? あの村で平和に暮らしていただけでは、貴様のようにはならんだろう」
「……」
まあ確かに、もっともな疑問だ。あの村で平穏を享受するだけならば、口だけ悪く実力が全く伴わない、ただのチンピラになっていたはずだ。
しかしどこで習ったかとなると、正直答えづらい質問だ。
「そうだな……村に立ち寄った冒険者には喧嘩を吹っ掛けるようにしていたよ。剣の振り方や対人戦の心得は、そこで学んだ」
なんだかまたドン引きされている空気を感じたが、無視して話を進める。
「あと、村を出て魔物と戦ってた。洗礼を受けてないと、歩いてるだけで襲われるから楽だったよ。……一応正当防衛だから、怒るなよ」
「まあ、それならば……それより、そんなことをして村人からは何もいわれなかったのか?」
「当然いわれた。戦士狩りはひどく。子どもの頃なんか、村の奴らに折檻されっぱなしだった」
「……」
そう答えるとアリスは黙った。場が沈む音がした。気まずいからもう少し何か言う。
「でもそんなことを数年も続ければ何もいわれなくなる」
「……それは、なぜだ?」
単純な話だと、当時を思い返しながら言う。ずっと昔のように思えること。何の力もなかった頃。抵抗力が足りなかった頃。無様を晒していたばかりのあの頃。
「怒りの目が、得体の知れない何かを見る目──恐怖の目に、変わるからだ」
ずっと続けていると、そうなるのだ。怒りが畏怖になる。理解できない存在を見たら、怒るなんてできない。恐怖するのだ。そうなったら俺の勝ちだ。せいぜい冷たい眼を向けられるくらいで済む。
加えてその頃には、俺も大分強くなっていたから折檻のために捕まることもなかった。
アリスから目を離し、メラメラと燃える焚火を見る。少し火が弱いと感じて、燃料を追加した。
「……苦しくなかったのか? 貴様は」
アリスは尻尾を抱えるようにして座り、問いかけた。
「苦しさはあったさ。でも、苦しさを小事と思えるくらい、大事なことがあった」
だから何をされても耐えられた。
「……覚えとけよアリス。何よりも大切な目的のためならば、人間は何にだってなれるんだ」
と、薄く笑いながら言った。
自分の中で、
端からみれば異常かもしれない。だがそれでも、自分がどうなろうとも、成し遂げたい目的がある。
「その目的とやらは……」
「いわない」
誰一人として、他者に言ったことがない目的だ。お前になぜ言わなければならないのだと、睨んだ。
「……では、もう一つ」
「図々しいな」
悪態をついたが、アリスは気にしない。並大抵の奴ならこんな小言をねちねちいう奴とは関わりたくないと思うだろうが、こいつは頭がおかしいのだろうか。
「なぜ、イリアスを憎む?」
やはり、図太い。そして面倒くさい。
「……くそ野郎だからだ」
薬草を食んだときみたいに苦々しく顔を歪めて言った。
休憩は終わりだ。答えになったかどうかは知らない。
俺は立ち上がり、木刀を持つと、焚火から少し離れた場所で構えた。
「鍛錬か」
「ああ、久しぶりに敗北したんだ。なかなか密度の高い鍛錬になりそうだよ」
ほう、とアリスは感心したように俺を見た。
「……負けたその日にとは、なかなか勤勉だな」
「当然。鉄は熱いうちに打てという。敗北も、熱いうちに……だ」
人は心が原動力だ。心で体が動いている。
そして、心を働かせるには、感情という名のエネルギーがいる。そしてそのエネルギーで有用なものは、悔しさやら、憎しみやら、怒りやら。とにかく爆発力のある感情。
そういう感情が最も高まっているとき──負けたその日のうちにトレーニングするのが、最も効果的だ。必死になれる。
俺が木刀を構え、精神を剣に集中させていると、アリスは、よし、と言って、
「飯の礼に余が付き合ってやろう。打ってこい!」
「……いいのか?」
アリスは体を起こし、焚火から離れて、腕を組み攻撃を待ち構えた。それが問いの答えだった。
じゃあ遠慮なく、と剣と体をアリスに向ける。そしてまじまじと相手を観察した。
(……待ち構えているが、構えていない)
戦いの体勢を取っていない。眼も敵を見る者の目ではない。弱者を見る目だ。余裕がある。師匠が未熟な弟子に稽古をつける風景を想像した。
(──舐められている)
一瞬、怒りが頭を赤く染めた。
しかし、これは当然だと自分を律する。百人中百人が当然と言うだろう。例えば、指一本しか使わないアリスであっても、俺は敗北するはずだ。それほどまでの力量差があると、あの攻防で思い知っている。
俺だって特別弱い訳じゃないはずだ。今日まで、もう何年も負け知らずだった。
だが、世界は広い。こういう奴もいる。意味わからない術を使うし、眼にも止まらない速さで攻撃してくる怪物が、いる。
だからそういう奴を含めてしまえば、俺は弱くなるのだろう。狭い世界では強くても、広い世界に飛び出せば、弱い。
「……」
不甲斐なさが自分の中にできる。久しぶりの感覚。そしてそれは自己嫌悪になる。鬱屈とした感情。今度はそれが、怒りになる。つまりは──激情だ。
「…………!」
激情。要するに燃えていた。百人が何だ。俺は百人が“できない”と言っても“できる”と言い返せるような奴でありたい。
侮られるのは当然だ。俺もスライムやらナメクジやらを舐めている。人のことは言えない。だがそれをわかっている上で、俺を侮るのは許せない。
自分勝手など百も承知である。それでもなお、侮ることを許さない。
よし──絶対に鼻を明かしてやる。
そう思ったとき既に体は動いていた。
今日の、あの場所の、敗北の焼き増し。二番煎じである。だが違うのは、俺が負けた後であるということ。敵が何をしてくるか予想できているということ。アリスが油断しているということ。
木刀を肩に担ぐようにして動いている。右上から左斜め下に斬り下ろすように見せている。アリスを睨む。どこか失望の表情がある。狙いはバレバレだろう。それでいい。馬鹿に見えるくらいがこの作戦には丁度いい。
奴の間合いに入る──視界の端で捉えていた、それが動いた。
即座にかがむ、左腰に木刀を持ち替える。奴の尻尾が髪を掠った。さっきまで顎があった場所だ。ぞくりと冷や汗が出る。当たれば終わりだ。加減を知らないらしい。
だが躱した。見上げて見るアリスは目を大きく開いた。その隙に木刀を振る“溜め”をする。居合の構えに変えている。
「二度も同じ手にかかる馬鹿がいるか」
そう呟いた時、既に木刀はアリスの脇腹に当たっていた。
「むっ……」
一閃。渾身の一撃だった。かつてないほど集中した。タイミングは最高だったはずだ。
だが──。
「ちっ……やはり有効じゃないな」
反撃を警戒して瞬時に離れる。攻撃は通ったが、痛手ではない。アリスは平然としている。これは由々しき問題だ。
「……驚いた。読んでいたか」
そう言うとアリスは尻尾の先を揺らす。彩度の高い赤が焚火の灯りで橙に近い色になっている。初戦は尻尾の攻撃で気絶させられたのだ。
「当然。というか前と全く同じはふざけ過ぎだろ。格下で、
「……!」
そう言うとアリスは口を開いて、何か言いたげにして、最後にはつぐんだ。
「……そうだな。うん、今のは余が悪かった。侮っていた」
そう言うとアリスは、ぶつぶつと考え事を始めた。よくわからない奴だ。
その隙に攻撃を当てた場所を見てみる。入れ墨……タトゥー? がない方、左わき腹に直撃したはずだ。しかし痣にもなっていない。青い肌だから青が濃くなっているはずだが、それすらない。あいつにとって赤子が張り手をしたみたいなものだろうか?
どうすれば倒せる。人間と同じように顎を狙えば脳を揺らせるか? アリスか、奴と同レベルの相手に試してみるか。たださすがに急所は狙うのが難しい。
「よし、続きだ! 今度は──」
「いや、今日はもういい。素振りをやる」
アリスが急にやる気を出しているが、今日はもう十分実践した。後は内省に時間を使いたい。
結局、実践をして、敗北をして、内省をして、改善する。この繰り返しが手っ取り早い。下手に実践を重ねても、改善の後でなければ無意味だ。
「…………………」
「そう睨まれてもやらない」
アリスは睨んでくる。この女の睨みは背を向けていてもよくわかる。蛇のにらみは纏わりつくような、特徴的な不快感がある。
いまいち集中できないが素振りを開始した。ウォーミングアップに、何も考えず適当に振ることをする。敵もイメージしない。思考を“まっさら”にすることを目的とした。今日は色々あり過ぎた。
「……それを見ていると、貴様の剣はどれも独学のようだし、戯れに余が技を教えてやってもいいぞ」
アリスが、暇そうにして言った。俺は背を向けたまま素振りを止めずに返事する。
「それはいらない」
情けのつもりか何かは知らないが、余計なお世話だ。それに人に習うのは嫌いなのだ。あれこれ指示されるよりも自分で考えた方が良い。
「……余が教える技は強いぞー……グランベリアが使う技も教えれるぞー……」
響かせるように語尾を伸ばして言っている。後ろは冗談か何かだろうから無視する。
しかし、いい加減邪魔になってきた。
「悪いが」
次の言葉を紡ぐのに、一瞬の静寂があった。
「よく動いて、時々反撃してくるサンドバックの方がありがたい」
さっきみたいな感じだ。別に教えてもらう必要はないから、戦闘用の置物になってくれと言った。自分で考える方が得意なのだ。
また静寂。アリスは返事をしない。素振りをやめて振り返る。するとアリスは今日一番のどん引きを見せていた。
「うわあ……貴様余を何だと思っている……」
「……よくわからない強いやつ。あと、図々しい」
そう言うとアリスは目に見えて機嫌を悪くし、バッグをごそごそと漁って干し肉を強奪、食いちぎると木に巻き付きふて寝した。サンドバックはさすがに言い過ぎただろうか。
……まあ、いいか。アリスが俺に愛想を尽かし、興味を失くして離れてくれた方が助かるのだ。他者が近くにいるというのは慣れないから気持ちが悪いし、変に気安い関係にはなりたくない。
そこからは会話が止んだ。俺はひたすらに素振りを続けた。ウォーミングアップは終わり。今度は当てずっぽうではない、一振り一振りに、きちんと敵をイメージして振っている。
そして同時並行で考える。足りないものは何だろう。
無論全て……といってもそれは当たり前だ。絞る必要がある。
となると、力だろう。
根本的な力がないから、攻撃の意味が薄くなる。だがすぐに伸ばせる能力じゃない。ならばやはり急所狙いを徹底するしかない。でも綺麗に当たってもさっきは……。
そうやって延々と木刀を振り、内省を繰り返していると意識が曖昧になっていく。そのうち運動の熱で頭が沸騰して何も考えることができなくなる。それまでは振ることにしている。
そして木刀を握る手にしびれがやって来た頃、ほんの少し体を休める。
肘をつっぱり、腰に手を当てて、顔と大地を並行にして、息を吐いた。汗が闇に吸い込まれていく様が見えた。
「……」
ふと辺りを見渡すと、すっかり夜が濃くなっている。
休憩がてら夜を仰いだ。夜の匂いが体に充満する。夜の音が体に響いている。すると体がほんの少しだけ軽くなったような感覚を覚えた。羽でも生えたような浮遊感──そしてどこへでも行けそうになる全能感。二つを同時に覚えている。
「……」
つくづく夜は“いいもの“だ。
そう思うのはきっと、夜は人間にとって安らぎであるからだと思う。
喧騒も雑踏も闘争も──しがらみ。それらを夜は少しだけ、忘れさせてくれる。それを安らぎと言わずして何というだろう。
でも、だから夜は魔性だ。どれだけ思いを込めた誓いであっても、一瞬、それを忘れさせる力がある。安らぎは必死さを奪うものだ。それは何かを成したい者にとって“よくない“ものだ。
だが、だからこそ夜は“いいもの”だろう。そして、だからこそ“よくない”ものなのだろう。
どちらの面もあるのが、夜だ。安らぎは時に天使のようで、時に悪魔のようである。
そういう訳で、安らぐばかりではいけない。休憩は終わり。また木刀を振り始めた。
夜は、どんどん更けていく。