葛飾区の西側にある都道を、一台の軽自動車が走っていた。 この車は販売開始から三十年以上経過したモデルであったが、その年月を感じさせない軽快な走りを見せる。 車はスピードをどんどん加速させ、前を走っている車を無理やり追い越したりするなど、非常に危険な運転を繰り広げていた。
クソっ、ハンドルが効かない!
ハンドルを握っていた紫莉は突然の事態に気を張り詰めらせた。 紫莉はお世辞にも可愛いとは言えない、何かの動物をモデルにした着ぐるみを被っている。 とある事情からこのような珍妙な恰好をしてはいるが、本人はいたって真面目に車を止めようと試行錯誤している。 けれど、ブレーキペダルを何度踏んでも、空気の抜けたボールのようなふにゃふにゃした感触しか伝わってこない。
「車を乗っ取られたか」
「うええええ!? ちょっとちょっと!」
変声機で加工された冷静な声が車内に響いた。 これは紫莉が喋ったのではなく、今回の依頼人であるウォールナットのものだ。 着ぐるみの頭部に内蔵してあるマイクから、遠隔で声を届けられている。
それを知らない千束は素っ頓狂な声を挙げて、後部座席から身を乗り出してきた。 直後、車は更に加速を強め、その勢いで彼女は後ろに転がっていった。
「回線の切断を!」
同じく後部座席にいるたきなが叫ぶが、ウォールナットは彼女の提案をあっさりと拒否する。 車は完全に敵ハッカーの手に落ちているらしく、簡単には制御を奪い返せないとのことだ。 だが、このままでは土手を乗り上げてしまい、川に突っ込んでしまうだろう。
このままじゃ、全員仲良く魚の餌になっちまう……!
着ぐるみの中は酷く蒸し暑かったが、それとは裏腹に紫莉の肝はどんどん冷え上がっていった。
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数時間前のことだ。紫莉は、朝日がぼんやりと登り始めた時間帯にリコリコへ向かっていた。 何やら火急の要件らしく、まだ開店までは時間がかなりあったが、ミカ直々の呼び出しであったため行かないわけにはいかない。
店に到着するとミカとミズキだけが出勤していた。 どうやら
紫莉は朝の挨拶を交えつつ、ミカに二人の所在を訊ねてみる。
「おはようございます。 錦木さんと井ノ上さんはまだ来てないのですか?」
「おはよう、紫莉。 ああ、あの二人には今回は別行動を取ってもらう予定だ」
「別行動……ですか。 それならば自分だけなぜここに呼ばれたのですか?」
「まあ待ちなさい、先に状況を説明するからそこに座ってくれ」
彼に促されるまま、紫莉はカウンター席に着く。 横にはミズキが座っていた。 その際、彼女をちらりと横目で見たが、普段の吞んだくれてだらしない態度は無く、真剣な面持ちでノートパソコンのキーボードを叩いていた。 やる時はやるのだな、と内心彼女を見直した。
「さて、手短に説明しよう。 時間があまり無いからな。 ミズキ、彼女の例のメールを見せてやれ」
「あいよー」
紫莉はミズキに差し出されたノートパソコンの画面を覗き込む。 一通のメールが表示されており、タイトルは『緊急:ウォールナットより』と書かれてあった。
ウォールナットという単語に、紫莉は一瞬引っ掛かりを覚える。 そしてすぐに意味を思い出した。 ウォールナットとはダークウェブで暗躍する天才ハッカーの名称だ。
ネット黎明期である三十年前からその存在は確認されており、彼のおかげでダークウェブはある一定の秩序が保たれていることや、この三十年間に何度も死んで生き返っているなど様々な都市伝説じみた逸話は紫莉も耳にしたことはある。 そんな伝説的人物が、何の用があるのかと、少しだけ興味がわく。
紫莉はメールを読み進め、内容の要約するとこうなる。
彼はとある組織からの依頼を受けた。 請け負った依頼は無事達成したのだが、好奇心から依頼主の都合の悪い領域まで足を踏み入れてしまったらしく、命を狙われるようになった。 実は、依頼主は別のハッカーと手を組んでおり、そのせいで現在の彼の居場所を特定されてしまう事態まで陥ってしまった。 海外へ逃亡せざるを得なくなったが、敵対ハッカーが雇った傭兵集団に追われており、危機的状況を回避するためリコリコに救援を求めた、とのことだ。
紫莉はおおまかな状況は把握出来たのだが、ひとつ疑念が生まれる。
「……失礼ですが、これは本当にウォールナット本人なのですか?」
紫莉は画面から顔を離し、ミカに疑いの目を向ける。 仮に
紫莉の質問にミズキが答えてくれる。
「確かに私達も最初はいたずらかと疑ったわよ。 でも報酬を相場の三倍払うと言ってきたし、オッサンに相談して依頼を受けるって返信してみたら、すぐに大金が入金されたのよ。 しかも一括」
「……嘘でしょ」
「嘘じゃね~よ。 ほら、見てみなさいこの金額」
ミズキはノートパソコンを操作し、この店の口座残高を見せてくれた。 最新の入金を見た瞬間、紫莉は息を呑んだ。 護衛の報酬の相場などは知らないが、額があまりに太すぎる。 この金額を惜しみなく送金したということは、確かに悪戯などではないような気がした。
「……ひとまず状況については理解しました」
「よし。 では次に作戦について説明しよう。 結論から言っておくが、今回の成功の鍵はウォールナットの死だ」
「は?」
紫莉は今度こそ理解が追い付かず、間抜けな声を出してしまった。 なぜ守るべき護衛対象の死を望まなければならないのかと、疑問符が浮かび上がる。
少しの間、頭を捻らせるがどれもピンとこなかった。 紫莉が正解を早く知りたいと思った矢先に、ミカは例え話を始めてきた。
「お前がある標的を追っていたとしよう。 標的を銃撃して、相手は倒れてピクリとも動かなくなった。 その後はどう行動する?」
「そうですね……まずは標的の生死の確認をします。 最近は防弾性の高い装備もかなり増えてきているので、胴体に当てたくらいではまだ息がある可能性があります。 なので、確実性を求め頭部への銃撃を可能な限り行います」
これは紫莉の経験に基づいての回答だった。 とある任務で、12ゲージバックショット弾を標的の胴体に叩きこんだ。 確実に始末できたと思っていた。 しかし敵はレベルⅢ以上の防弾チョッキを着用しており、致命傷には至っていなかった。
幸いその時はすぐに気づき、頭部へもう一発食らわせたのだが、そのまま気づかずに背後を見せてしまったら、ここには居なかったかもしれない。 今思えば、居なかった方が幸せかもしれないが。
紫莉の回答に二人は微妙な反応を示した。 ミカは頬を若干引きつらせ、ミズキは「やっぱリコリスだわ……」と額を押さえている。
な、なんだよ、違ったのか……?
模範的な回答をしたと自信があったが、二人に哀れまれているような気がした紫莉は困惑する。 まだ他に注意すべき点があったのかと、真剣に考えこんでしまう前に、ミカがコホンと咳ばらいをした。
「……少し例を変えよう。 追っている標的の遺体が確認困難な場合はどうだ? 高所からの転落、もしくは乗っている車両が爆発炎上したなどだ」
「その場合でしたら、命令が無い限りそれ以上の追跡はしません。 わざわざリスクがある場所に行くのは得策とは思えません。 そもそも標的は死亡している可能性の方が── あっ……!」
「察しが良いな。 今回の狙いはそこだ」
ニヤリと笑ったミカを見て、彼が本物の先生みたいに見えた。 つまり彼の狙いはこうだろう。
目の前でウォールナットが死んだと思わせれば、敵は勘違いし、それ以上の追跡を止めるであろう。 死んだ人物にいちいち関心を持つなんてことは時間の無駄だ。
紫莉は、ミカの作戦プランに素直に感心する。 彼はDAの教官にスカウトされる前には、とある海外の警備会社で腕利きとして活動していたらしい。 単純に依頼人を逃がすだけでなく、死という概念を逆手に取る発想が、経験豊富なベテランらしい。
続いてミカは、作戦の全容を教えてくれた。
まず、ミズキが依頼人と接触。 彼女が依頼人に成りすまし、用意した車で千束とたきなに合流する。 その際には敵の追跡及び攻撃が予想されるので、ミズキを守りつつ指定したポイントへ向かう。 何やらハリウッド並みの大爆発を用意しているらしく、その爆発に巻き込まれることで、相手にウォールナットは死んだと思い込ませる作戦だった。
紫莉は内容を頭にしっかり叩きこんだところで、ある意味一番重要な点を訊ねる。
「承知しました。 改めて自分は何をすれば?」
「お前には私と一緒に行動してもらう予定だ。 作戦が成功した時のためにな」
「そう……ですか」
予想通りの割り当てだった。 まだ現場には出させてもらえないことに、紫莉は肩をがっくりと落とす。 同時に心の奥底を搔きむしられるような感覚に囚われる。 人を傷つけることでしか自己の存在意義を見出せない己にとっては、歯がゆいことこの上ない。
一体何が足りないのだろうか。 問題なく働けることを示すために、毎日早めに出勤して店内外の清掃を行い、それが終われば在庫チェックなどの開店前の段取りを済ませている。 営業中も大きなミスはしていないはずだ。 家に帰った後も、勘が鈍らないようにトレーニングだってしている。
はっきり言えば、ファーストだった頃よりも体調は良い。 ここに配属されたおかげで規則正しい生活を送れているからだ。 慢性的な胃の痛みや四肢の倦怠感は残っているが、この程度何の問題もない。
我慢が抑えられなくなった紫莉は、ついつい口を滑らせてしまう。
「……自分も護衛を務めるのは駄目でしょうか」
「何?」
「アンタさぁ……そんなにドンパチしたいの? つか、オッサンが許可するわけないでしょ。 ダメダメ却下却下!」
紫莉の発言にミカは額のしわを深く刻み、険しい表情のまま黙り込んでしまった。 彼の代わりにげんなりしたミズキがひらひらと腕を振る。
紫莉は無駄だと頭では分かっていたが、希望を捨てきれずに再び口を開く。
「無理を言っているのは承知しています。 ですが、正直今のままでは皆さんの役に立てているとは思えません」
「……そんなことはない。 そう自分を卑下するな」
「護衛が無理なら囮役でも良いです。 中原さんは非戦闘員ですよね? なら、自分の方がそういう事態には慣れています。 ──どうか、この通りです」
紫莉はその場にしゃがみこむと、床に膝と手を着いた。 ミカは「止めろ紫莉! そんなことをするんじゃない!」と焦った様子で、カウンター越しに腕を伸ばし止めようとしてくるが、紫莉の決意に満ちた瞳を見て動きを止めた。
紫莉の中で過去の自分と今の自分が交錯する。 きっと前世でもこんな人間だったから、人に頭を下げることには何の抵抗も恥も覚えない。 これはただのお願いではない。 自身の存在価値を示すための訴えだ。
心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が背中に滲む。 声が震えそうになるのを必死に抑えながら、紫莉は平伏すると、まるで自分に言い聞かせるように呟く。
「俺はリコリスなんです。 戦うように育てられ、生かされてきました。 それ以外のことなど、当の昔に諦めました。 ──ですから、せめて囮役は俺に任せていただけませんか……」
店内がしんっと静まり返る。 息苦しくなるほどの沈黙が続いた。 紫莉からは二人の表情は伺えないが、きっと困り果てているのは雰囲気で分かる。
これは我慢比べだ。 紫莉はミカから許可が下りるまで、意地でも顔を起こすつもりはなかった。 やがて、ミカが観念したように重苦しいため息をついた。
「……分かった。 囮役はお前に任せよう」
「本当ですか!? ありがとうござ──」
「ちょっと、オッサン!
ミズキは紫莉の言葉を遮って立ち上がる。 ミカの決断に納得がいかないと言ったようにたたみかける口調で彼に詰め寄った。 しかし、彼は発言を撤回せず、目を閉じたまま腕を組み黙り込んでしまう。
ここでミカが揺らいでしまったら困る。 紫莉は二人の間に入り、「俺は大丈夫です」とミズキを宥めることにした。
「アンタには訊いてない!」
「落ち着いてください。 確かに今までの俺を見てたら、心配になる気持ちは分かりますが……」
「駄目よ! アタシは認めないわ!」
「……どうしてそこまで否定するんですか。 俺では荷が重いと?」
「それは……!」
ミズキはそこまで言うと言葉を詰まらせてしまった。 眼鏡のレンズ越しに彼女の目には葛藤が浮かんでいた。 何かを言うべきか否かを悩んでいるようだった。
なぜそんなにも必死に、現場に出ることを否定する理由が知りたい。 紫莉は彼女が口を開くまで、息を殺して待った。
しばらくすると、ミズキは遠い目をして過去を思い出すかのように静かに語り始める。 彼女の声音には、押し殺した感情が滲み出ていた。
「……私も元々孤児なのよ。 それでDAに拾われてリコリスになる予定だった。 でも適性が無さ過ぎて落第して、情報部に異動になったのよ」
「そう、だったんですか……」
「当時もたくさんの子が居たわ。 私みたいに落第する子もいたけど、大体は候補生として訓練を積んでリコリスになっていったわ。 ──その時、仲が良い子が居たの」
居た、という単語が何を意味しているのがすぐに分かった。 つまり、そういうことだろう。 紫莉の嫌な予想は的中する。
「その子はさ、なんとかリコリスになった子なのよ。 落第した私が言うのもなんだけど、向いてなかった。 けどね、人一倍責任感が強くて、真面目に訓練に取り組んでいた凄く良い子だったわ。 ──その子はすぐに死んだわ。 明らかに荷が重たい任務だったけど、今のアンタみたいに『自分もリコリスだから』って、無茶な任務に参加してね……」
「……」
どうやらミズキは、昔の友人と紫莉を重ね合わせており、紫莉が同じ末路を辿ってしまうのではないかと危惧しているようだった。
ミズキが元リコリスの候補生だった事実には驚いたが、親しい者が亡くなってしまったことに関しては、彼女には悪いが特段何も思わなかった。 紫莉自身も、同時期にリコリスになった子がいつの間にか居なくなっていたのは覚えがある。
紫莉も一応血の通った人間だ。 大切な人が命を落とし、もう二度と会えなくなってしまった時の絶望や喪失感は理解出来る。 けれど、そんな感情は捨てるようにしてきた。
リコリスである以上、死は常に隣り合わせであるからだ。 いちいち他人の心配をしていたら、自分の精神が持たなくなる。
紫莉の場合、仮に死んだとしても悲しんでくれる者などいないと断言できる。 いるとすれば、本部に在籍していた時に色々と面倒を見てくれた先輩の春川フキくらいだろう。 紫莉の存在を疎ましく思っている連中──特にリリベルの司令なんかは両手離しで喜ぶさまが目に浮かんできそうだった。
ミズキの心遣いに、紫莉はしばらく忘れていた暖かさを感じた。 それでも紫莉は自分の意思を曲げたくなかった。 再度、根気強く彼女に交渉した結果、「勝手にしなさいよ!」とさじを投げられたが、囮役を譲ってもらうことができた。
すみません、中原さん。 でも、これで良いんだ。
紫莉はわがままを訊いてもらったことに、若干の後ろめたさを感じた。 それでも、これが最善の選択なのだと自分を納得させることにした。
話がまとまった頃合いを見て、ミカは「時間だ」と時計を見やりながら告げる。 そしてウォールナットに会うために、ご機嫌斜めなミズキと共に合流地点に向かうのだった。
▼
ミズキの運転する車に揺られること数十分。
紫莉はとある工場跡地に連れて来られた。 放棄されてから随分年数が経っているらしく、外壁は薄汚れており窓ガラスも何枚か割れていた。
ミズキは敷地内の空いてるスペースに車を停めてくれた。 彼女曰くウォールナットは既に中で待っているらしい。 紫莉は礼を言って車から降りようとした時、呼び止められた。
「なんでしょうか?」
「……いや、何でもないわ。 とにかく絶対無理しないこと、いいわね!」
「分かってますよ。 それでは、また後で」
声音から察するにもう一度、紫莉を説得しようとしたのだろうか。 だが、彼女はそれ以上何も言わず、黙って見送ってくれた。
紫莉は再度心の中でミズキに感謝する。 彼女は結婚できないことを常日頃から嘆いているが、もう少し男性の理想を下げて酒癖を改めれば、すぐに良い相手が見つかるだろうに。 でも、それが出来たら苦労はしないだろう。
人はそう簡単には変われない。 紫莉も女になって十五年経つが、精神の根っこにある男の部分は変わることなく、殺人に対する忌避感も拭えずにいた。 そうは言っても、自分自身の性同一性はともかく、倫理観だけは変えるように努めている。
組織のために尽くす、ということは、自分の感情を押し殺すことだと紫莉は考えている。 悲しい日本人の性か、はたまた前世のサラリーマン生活で培われた忍耐力なのだろうか。 DAは反吐が出るほど嫌いだが、そこから本当に逃げ出す選択はない。
全員に当てはまるわけではないが、組織に対する不平不満を漏らすことはあっても、ほとんどの人間はそこを離れようとしない。 答えは単純明快、人は変化を恐れるからだ。
仕事を辞めたらどうやって生きていく、残った他の人達に仕事のしわ寄せが行ってしまい恨まれてしまうのではないか、と辞めることを止める理由を探してしまう。
実際に紫莉がそうだからだ。
……また、余計なことを考えちまった。 早く行こう、ウォールナットが待っている。
紫莉は深い思考の沼に陥る前に切り替え、工場内に入った。 工作機械等の設備はこの工場が潰れる時に売り払ったのか、内部はがらんとしていた。 それでも建屋に染み付いた工業用油の臭いとカビ臭さが混ざりあった何ともいえない空気が、紫莉の鼻腔を刺激する。
塵が積もった床を進み、奥にある小部屋に入った。 まず紫莉の目に飛び込んできたのは、部屋の真ん中に鎮座している動物の着ぐるみだった。 ちらりと周囲を見渡すと、この古工場には不釣り合いなほど綺麗な黄色のスーツケースが壁際に置いてあった。
とりあえず着ぐるみを調べてみよう。
紫莉は、腰に隠してあるナイフに右手を添え、ゆっくりとした歩調で着ぐるみに近づく。中に敵がいたとしたら、首元にナイフを突き立ててやるつもりだ。 手が届く距離まで接近した時、紫莉は抱いていた感想をついつい呟いてしまう。
「ビーバーか……? 全然可愛くねぇな」
「──リスだ。 可愛くなくて悪かったな」
「っ!?」
突然、着ぐるみから変声機で変換された誰かの不満そうな声が、紫莉の鼓膜を揺らした。 紫莉は反射的に、着ぐるみの顎を掴み被り物を弾き飛ばす。 そのままナイフを相手目掛けて滑らせようとしたが、ピタリと動きを止めた。 やはり誰か中に入っていたのかと、予想していたが着ぐるみの中はもぬけの殻だった。
一体どういうことだ、と思案している最中に、床に転がった被り物からもう一度同じ声聞こえた。
「……流石は国の秘密エージェントだな。 容赦なくナイフを振り回すとは。 もしボクがその中にいたらどうするつもりだった?」
「……ウォールナットですか?」
紫莉の質問返しに、「ああ、そうだよ」とウォールナットと思わしき人物は、さらりと正体を明かす。 何処にいるのか、と訊ねようとした瞬間、壁際に置いてあった黄色のスーツケースが開いた。
紫莉は黒紫色の目を大きく見開いた。 なぜならスーツケースの中から、紫莉より幼く見える少女が出てきたからだ。
少女──下手をすれば幼女くらいの年齢に見える彼女は、絹のように柔らかそうな癖のある金髪を腰まで伸ばし、空色の瞳を持っている。 兎の耳のようなカチューシャで前髪を纏めて、卵のように滑らかな額をさらけ出している。 一言で表現するとすれば、北欧風の美少女になる。
少女は、とことこと紫莉に近づいてくると、サイズの合ってないブカブカのパーカーの袖から、白い肌の手を差し出した。
「初めまして、リコリス。 ボクがウォールナットだ」
「……まじかよ」
紫莉は目の前の少女が伝説のハッカーであるという事実を受け入れられずにいた。 驚きのあまり、彼女が差し出した手を握り返すことができずに固まってしまう。 一瞬、罠か質の悪い悪戯なのではと勘ぐってしまうのだった。