誤字脱字の報告をしてくれた方、ありがとうございます。
店内の時計が静かに秒を刻んでいた。 紫莉は、手慣れた手つきで洗い終えた食器を乾燥ラックに並べていく。
やっと終わった。 まったく、食洗器でも買えばいいのに。
紫莉は、仕事が全て終わったことに一息つきながら、更衣室に向かおうとした。 その時、賑やかな声が耳に入り、ふと客席の方に視線を向ける。 もうすぐ閉店時間だというのに、小上がりの座敷席にはの常連客達が集まっていた。
顔ぶれは、作家の米岡を始め、漫画家の伊藤、普段何をしているかが不明の後藤と山寺。 加えて女子大生の北村と刑事である阿部もいた。 そしてその中心にいたのが、自称リコリコの看板娘である錦木千束だった。
和服姿の千束は、キラキラと表情を輝かせ高らかに宣言し始めた。
「ではではぁ、リコリコ恒例閉店後ボドゲ会──スタートぉー!!」
千束の号令とともに常連たちは「おぉーっ!」と拳を突き上げていた。 よく見ればその中にクルミも混じっていた。 テーブルを囲む全員が生き生きとした表情で配られたカードをめくり、楽しそうに花を咲かせていた。
このボードゲーム大会はリコリコではお馴染みのイベントだったが、紫莉は一度も参加したことはない。 ボードゲームに興味は無いこともあるが、そもそも誰かと何かを一緒に楽しむという行為がいつの間にか苦手になってしまったからだ。 あの平和な空間に自分がいる資格は無いと本気で思っている紫莉は、足早に更衣室に向かった。
手早く着替えを済ませ、戸口を開けた時誰かとぶつかりそうになった。
「……お疲れ様です」
たきなだった。 紫莉は思わず顔をひきつらせてしまったが、彼女は気にも留めず入れ替わる形で、更衣室の中に入っていく。 彼女がいつも以上に素っ気ないのは、昨日の任務で紫莉が変なことを言ってしまったからであろう。 誰でも面と向かって己の目標を否定されたら、不快な気持ちになるのは考えなくても分かることだった。
「あっ紫莉もここに居たんだ~」
続いて現れたのは千束だった。 彼女はいつもと変わらない眩しい笑みを浮かべてたが、紫莉は更に頬をひきつらせてしまう。 それは、この後の彼女の台詞が予想出来てしまったからだ。
「ねえねえ、紫莉もさ一緒にボドゲやろうよ。 ね?」
「……いえ、遠慮しておきます。 俺が参加したら場がしらけると思うので」
「そ、そんなことないしょっ。 皆、紫莉が参加してくれるって知ったら喜ぶと思うよ、絶対! ねぇ、先生っ?」
千束が背後に居たミカに取りつくように訊ねる。 彼は静かに頷いたが、その瞳には何か言い知れぬ憂いが浮かんでいた。
「そう遠慮するな、折角だし交ざってきたらどうだ? 千束の言う通り、お前が参加すると知ればお客さんも喜ぶだろう。 たまには息抜きも必要だぞ」
「そーそー先生、良いこと言うじゃん!」
紫莉は頭を抱えてうなだれてしまいそうになる。
人が遠慮しているのだから無理に誘わないで欲しい。 きっと彼女達は心配してくれて言ってくれているのだろうが、紫莉にとっては迷惑以外の何ものでもなかった。 とはいえ、あの時のように怒りに身を任せて突き放すのも良くないと思った。
色々と考えた末、紫莉は彼女らの誘いを断わるべく明日の予定を伝えることにした。
「すみません。 実は明日、本部に行く用事があるので……」
「え? あの山奥に……?」
「健康診断と体力測定の期日が明日までで……」
紫莉がそう言うと、ミカは何かを思い出したように千束を見つめ始めた。 すると、千束は彼と視線を合わせること避けるように、バツの悪そうに顔を横に逸らした。
「千束、そういえばお前は済ませたのか?」
「へ? い、いやぁ~それが中々暇が無くてぇ……あんな山奥の行くのダルいし……」
「ライセンス更新の必須項目だと、毎度言っているだろ。 ここでの仕事を続けられなくなるぞ」
「うぇ~そこは先生上手く言っといてよぉ…… 先生のお願いなら、訊いてくれるでしょー楠木さん」
「──司令と会うのですか?」
突然更衣室の戸が勢い良く開いた。 戸を開けたのは中にいたたきなだった。
紫莉はぎょっとした。 いきなり扉が開いたことに驚いていたのではなく、たきなが下着姿にも関わらず戸を開けたことにだ。 顔を真っ赤にした千束が「バカ! 服!」と叫んで戸を閉める。 一方、紳士のミカはたきなの下着姿を見ないように明後日の方向を見ていた。
いくらリコリスとして育てられたとはいえ、彼女には羞恥心というものが無いのかと、紫莉は内心呆れてしまった。
数秒もしないうちに、今度は制服をきちんと着用したたきなが出てきた。 彼女は紫莉の前に立ち、真剣な面持ちで頭を垂れてきた。
「私も本部に連れて行ってください」
「いや、あの……俺に言われても……」
「お願いします」
紫莉は、懇願してくるたきなにどう対応すればよいか分からなくなった。 きっと彼女は何かを勘違いしているのだろう。 確かに本部に行くが、別に楠木に会いに行くわけではない。 それにアポイント無しで司令官である楠木に会うのは無理があるだろう。 多忙なあの人の予定が都合よく空いているとは思えない。
それに、紫莉は一人で本部まで行く気でいた。 目的が違うのだから、一緒に行く必要性がまったく感じられない。
けれど、たきなは更に「お願いします」とより深く頭を下げていた。 困り果てた紫莉は、千束のたきなを相手を任せるべく目配せをした。 すると千束はたきなのその姿に心を打たれたのか、悩む素振りも見せず、快く本部への同行を了承していた。
ひとまず話は纏まった。 千束はたきなを連れて行くと言ったが、自分は含まれていないと勝手に解釈する紫莉。 ただでさえ本部に顔を出すだけでも憂鬱なのに、道中もそんな気分になるのはまっぴらごめんだった。 少しでも一人になる時間を設けるべく紫莉は、早急にこの場を立ち去ることを決めた。
「では、そういうことなので俺はこれで失礼します。 お疲れ様でした」
「ちょいちょいちょい! 何しれーっと帰ろうとしてんの……どうせなら三人で言った方が良いでしょ? とりあえず、皆で駅に集合してから行こう。 ね?」
「……拒否権は?」
「あるわけないでしょ」
紫莉は頭を必死に回して上手い言い訳を考えようとした。 けれど結局何も浮かばなかったため、千束の提案に首を縦に振るしかことしかできなかった。
クソっ、なんでいつもこうなるんだ……
紫莉は思い通りにいかない現実に憤った。 舌を強く噛みしめてしまい、血が出そうだった。 いっそこの場で嚙み切ってしまおうか。 そうすれば千束も考えを改めるかもしれない。
だが実際には実行に移すことはできない。 そんなことをしても無駄だとは分かっているからだ。 人生とは我慢の連続、思い通りに行くわけがない。 それにこの程度の事で心を搔き乱されるのは、心が弱いからだと自分に言い聞かせ無理やり気持ちを封じ込めた。
「……分かりました。 一緒に行きましょう」
紫莉は目を閉じ大きく深呼吸した後、一緒に本部に向かうことを了承した。 すると千束は表情を明るくし、ミカは胸を撫でおろすように安堵の息を漏らしていた。 きっと紫莉が申し出を断るのだと思っていたのだろう。
今度こそ話が纏まった、と紫莉は、千束をミカの間をすり抜け店の出口へと向かう。 その際客室を通った時、ボードゲームに熱中していたはずのクルミを含めた常連客達の視線が紫莉に向けられた。
「えー紫莉ちゃんも帰っちゃうの? 一緒にゲームやろうよ、楽しいよー」
「ほらほら、こっちこっち! 私の横空いてるよ!」
伊藤と北村が笑顔で手招きしてきた。 それをきっかけに他の客達も和気あいあいとした様子で紫莉をゲームに誘ってきた。 けれど虫の居所の悪い紫莉にとっては、神経を逆なでる不愉快な雑音に訊こえてしまうのだった。
クルミまでもが「どうだ~紫莉?」と訊ねてきたので、紫莉は目つきを鋭く尖らせると、目で参加する意思がないことを伝えた。 すると和やかな空気は一瞬で凍りつき、クルミを含めた面々は、表情を強張らせた。
「わ、分かったよ。 無理に誘って悪かった、だからそんな睨むなよ……」
おどおどし始めたクルミの姿を見て紫莉は冷静になった。 気づけば他の常連客達も、まるで何か恐ろしいものを見るかのような視線を向けてきていた。 紫莉は頭から水を浴びせられたかのように、全身の血の気が引いていくように感じた。
「あ……その……ごめんなさい!」
何とか言い取り繕うべく言葉を絞り出そうとするが、謝罪の言葉しか思いつかなかった。 いたたまれなくなった紫莉は逃げ出す形で店を飛び出した。 皆の呼び止める声が訊こえたが、それらも無視して、家までの道のりを走った。
現在の住処として使っているマンションにはすぐに着いた。 玄関をくぐった所で、足の力が抜けてしまい、扉を背にしてへたり込んでしまう紫莉。 ほぼ全力疾走してきたので、呼吸は乱れ額には玉のような汗をかいていた。 自身の服の胸倉を握り締め、どうにか呼吸を整えようとするが、うまく息が吸えない。 先ほどの常連客達のことが脳裏の焼き付き頭から離れなかった。
彼らが自分を誘ってくれたのは、善意からだとは理解している。 それなのに自分はその善意を踏みにじり、まるで殺すべき標的に向けるような冷たい眼差しを向けてしまった。 何の罪の無いただの一般人に。
「うっ! おげぇぇぇ」
喉を焼き尽くすような感覚とともに、口内が吐しゃ物で満たされる。 咄嗟に両手で口を押さえるが、抑えきれず玄関に吐しゃ物をぶちまけてしまった。 苦みと酸っぱさが混ざりあった臭いが周囲を満たす。
……ほんとクズ以下の存在だな俺は。
愚かな自分に対し、紫莉は苦笑いを浮かべた。 ここまで堕ちた自分を、自嘲せずにはいられなかった。
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次の日は雨だった。 電車の窓越しに見える空は分厚い灰色の雲で覆われており、地上へと水滴を降り注いでいた。
まるで自分の心境が映し出されているようだ、と紫莉は思った。 天気予報では夕方には雨は止み、その後は晴れるらしいが、己の心は永遠に曇り空だろう。
紫莉は雨が嫌いだ。 傘などの手荷物は増えるし、今のような梅雨の時期はじめじめとした湿気が煩わしい。 この湿気のせいで、くせ毛がいつも以上に跳ねまわってしまうのも気に入らない。
不意に肩を誰かに叩かれた。 紫莉がイヤホンを外しながら首を動かすと、通路を挟んで反対側の席にいた千束が、いつ間のにか横に座っていた。
「……何ですか?」
「飴いる? イチゴ味」
「いりません。 健康診断前に糖分の摂取するなって言われているので」
「うぅ~紫莉もたきなと同じこと言う……」
しょんぼりとした千束は、すごすごと自分の席に戻っていった。 紫莉はその際千束の対面に座っているたきなに視線を向けた。 彼女は真剣な表情で手帳にペンを走らせていた。 きっと楠木に訊きたいことをリストアップしているのだろう。
楠木に何を訊くのかは興味も無いが、どうせ適当にかわされるに決まっている。 やるだけ無駄な行為だと紫莉は思ったが、彼女の逆鱗に触れたくないので黙っておくことにした。
紫莉はイヤホンを耳に戻して、再び外へと視線を向けた。 イヤホンからは曲は流れてきていない。 電車に乗った時は曲を流していたが、段々とそれも鬱陶しくなりただの耳栓代わりと化していた。
しばらく電車に揺られること数十分。 紫莉達はDA本部の最寄り駅に到着した。 ホームを抜けて駅前のロータリーまで出ると既にDAの迎えが来ていた。 そして職員が運転する車で本部へと向かった。
鬱蒼とした森の中に近代的な建物が見えてきた。 顔認証システムや金属探知での手荷物検査など厳重なセキュリティーチェックを受けた後、一行は本部のエントランスに着いた。
受付の職員に体力測定に来たことを伝えると、千束と共に隣の医療棟に向かうように言われた。 紫莉の横では職員の一人がたきなに要件を訊ねていた。
「井ノ上さんはどのようなご用で?」
「楠木司令にお会いしたいのですが……」
「司令は現在会議中ですね。 お戻りになるのは二時間後になりますが……よろしいでしょうか?」
「……そうですか」
たきなは表情こそ変わってはいなかったが、その声は力を失っていった。
やはり、そう簡単に司令官である楠木に会うのは無理があるようだ。
その時、紫莉達の背後を三人組のリコリスが通った。 彼女達は紫莉に気づくと、ひそひそと頭を寄せ合って何かを話し始めた。
「ほら見てあれ、味方殺しと幽霊じゃん」
「うわほんとだ。 確かDAから追い出されたんじゃなかったっけ?」
「二人共指令無視したんだってね。 ヤバすぎでしょ」
「味方殺しはともかく幽霊の方はありえないよねー ファーストなんだし──あ、元か」
「ちょっと……! 聞こえちゃうでしょ」
その声は十分すぎるほど紫莉の耳には届いていた。 おそらく、わざと聞こえるように話しているのだろう。 千束が「なんだぁ? あいつら……」と不愉快そうにムッとしていたが、紫莉は「気にしないでください。 いつものことなんで」と彼女を宥めた。
紫莉は本部のリコリスからは嫌われていた。 ファーストでありながら、常に本部や寮にはおらず、たまに帰ってきても誰とも親睦を深めることなく再び消えていく──それこそ本物の幽霊のような存在だと認識されているからだ。
陰口などは好きなだけ言ってもらって構わない。 そもそも陰口を言わない人間はこの世にいないと紫莉は思っている。 それにリコリス達は特殊な環境に身を置いているとはいえ、多感な思春期真っ只中の者がほとんどである。 紫莉のような輪に加わろうとしない者を煙たがることは特段おかしいことではなかった。
だが、とうの昔に思春期を終えた紫莉とは違って、たきなには今の陰口は刺さるものがあったのか。 彼女は憂いた表情を隠しながら「私、訓練所に行ってます」と短く告げ、小走りで去ってしまった。 千束が後を追いかけようとしていたが、たきなは通路の角を曲がってしまいすぐに見えなくなった。
「先に行きますよ――ん?」
紫莉は千束を置いて先に行こうとした時、見覚えのある少女がこちらを見ていることに気づいた。 頬のそばかすが特徴的な少女──蛇ノ目エリカだった。 彼女は目が合った途端、狼狽するかのように視線を泳がせていた。
紫莉は、気にも留めずそのまま横を通り過ぎようとした。 すると彼女は突然大きな声で呼び止めてきた。
「あ、あの!」
「……はい?」
声をかけられるとは思っていなかった紫莉は、つい怪訝な態度で応じてしまう。 不機嫌なことを察したのか、エリカは再び尻すぼみになり、何も言わずに逃げていってしまった。
「知り合い……?」
「違います」
不思議そうな様子の千束に訊ねられたので否定しておく。 ある意味ではたきなの機銃掃射を受けた被害者同士だったが、元々の親交は皆無だ。
一体何だったのか、と紫莉は他に思い当たる節を探してみたが、特に心当たりが無かったので忘れることにした。
医療棟に着いた紫莉達が、その中にある更衣室に入ると、千束が「おやぁ~?」と声を漏らした。 千束の背後にいた紫莉は首を傾け。彼女の背中越しに中を覗いた。
「千束……! って、紫莉もかよ……」
「おやおやぁ? しっかり者のフキさんがライセンス更新最終日だなんてぇ~ どうしちゃったの?」
「ちっ……忙しかったんだよっ。 お前のズボラと一緒にすんじゃねぇ」
更衣室に居たのは、紫莉にとって唯一の顔馴染みとも呼べる春川フキだった。 元相棒に出会えて嬉しいのか千束は軽口を叩いたが、フキは慣れたように流していた。 フキは千束を睨みつけていたが、紫莉の方を見やると表情を緩ませた。
「久しぶりだな、紫莉」
「春川。 元気だったか?」
「……前より顔色は良いみたいだな」
「おかげさまで、随分と緩くやらせてもらってる」
フキは「そっか」と安心したような声を漏らした。 短く簡潔であったが、心の底から彼女が安堵しているように思えた。
紫莉はそんな姉貴分の心遣いをありがたく思いながら、奥側のロッカーまで足を運んだ。 制服を脱ぎ捨て、代わりに陸上競技で使われるようなセパレート式のトレーニングウェアに着替えた。 この格好では素肌を晒してしまう形になるが、規則で決まっているため仕方がなかった。
着替えを終えその姿を晒すと、千束とフキはそれぞれ表情を強張らせた。 フキは苦虫を嚙み潰したように視線を逸らし拳を握り締め、千束は動揺を隠しきれず絶句していた。
「ゆ、紫莉……? その怪我は……」
「別にリコリスなら珍しくもないでしょ」
「でも、いくら何でもそこまでは」
「見た目は酷いですけど、痛みは無いので問題ありません。 ほら、二人とも行きますよ」
紫莉は千束の哀れみの視線に嫌気が差した。 全身に刻まれたこの傷痕は、紫莉が今まで必死に生きてきた証でもある。 安っぽい同情心などでこの傷痕が消えるわけでも、ましてや壊れた心が戻るわけでもない。 フキのように何も言わないでいてくれた方が、よっぽどマシだった。
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体力測定を本気で取り組む者など、この世にいるのだろうか。 もちろん存在するだろうが、そういう人物は普段から運動を心掛けているか、何かのスポーツに情熱を注ぎこんでいるに違いない。 少なくとも紫莉は、前世では己の限界を試すことをしてこなかった。 けれど、今世ではそういうわけにはいかなかった。
ライセンス更新に関わるこのイベントに手を抜くつもりは毛頭ない。 手を抜いた挙句にライセンス更新が出来ませんでした──など笑い話にもならない。 ある意味で自分の人生の行く末が左右されるため、紫莉は毎年全力で取り組んでいた。
種目内容はごく一般的だ。 持久走、走り幅跳びなど総合的な運動力を測るものや、反復横跳びや垂直飛びなど、特定の部位を測るものだ。 中には反射神経を測定する種目もあり、これは咄嗟の反応が生死を分けるリコリスらしかった。
全ての競技を終えた紫莉は肩で息をしていた。 額からは汗が滴り落ち、何度腕で拭ってもキリがない。 横では隣に座っているフキも同じく玉のような汗を流していた。 けれど、千束は違っていた。
彼女も多少の汗を掻いてはいるが、紫莉やフキのようにへばっておらず涼し気な表情だった。
「……相変わらずタフだな」
「そりゃどーも」
フキの少し恨めしげな言葉に、千束は飄々とした態度で応えていた。
二人のやりとりを横で見ていた紫莉は、やはり千束は人ならざる者なのではないのかと疑ってしまう。
紫莉とフキも決して平凡ではなく、平均的なリコリスの成績と比べても上位に入るほどだ。 それにも関わらず、千束の成績は紫莉達よりも遥かに上回っており、特に反射神経の項目は異常とも呼べた。 彼女が相手の動きを見て銃弾を避けれらる理由が改めて分かった。
流石に『人外』は言い過ぎかもしれないが、彼女の身体の一部が機械だったとしても驚かない気がした。 そうでも考えなければ納得がいかない。
紫莉が現実離れした物思いにふけていると、休憩所の出入り口から二人の女性が入ってきた。 先頭に立っていたのは、赤髪の女性──司令官の楠木だった。 彼女は真っすぐ千束に向かって声を掛けてきた。
「久しぶりだな。 千束、紫莉」
「楠木司令……!」
突然現れた上官に、紫莉は目を丸くしてその場に立ち上がった。 フキも表情を引き締めて立ち上がったが、千束だけは態度を変えることなく「ど~うも」と間延びした挨拶を返す。 しかし、彼女の生意気な態度にも楠木は表情を変えることはなかった。
「リコリスの義務は果たさないくせに、ライセンスの特権は欲しいんだな」
「DAの仕事もたまにはやってるじゃないですかぁ。 ほら、この前の違法密輸品の回収とか。 ねぇ、紫莉?」
「……錦木さん、司令の前ですよ。 それに、あなたは別任務でいなかったでしょ……」
「まあまあ細かいことは良いじゃ~ん」
上官である楠木を前にしても調子を崩さない千束に、紫莉は背筋が冷え上がった。 鉄仮面のように表情をまったく変えていない楠木が、余計に恐ろしかった。
楠木の傍らに控えていた秘書が「司令に対して無礼なっ……!」と苦言を呈した。 けれど、千束は意に介さず楠木に問いかけ始めた。
「なんでたきなと紫莉、追い出したんですか?」
「命令違反だ。 聞いているだろ」
「けど仲間の命を救った!」
「その結果千丁の銃器は依然行方不明だ。 商人は殺してはいけなかった」
楠木は紫莉を一瞥しながらはっきりと言い切った。 強い罪悪感を覚えた紫莉は歯を食いしばり俯いてしまう。
楠木の言うことは何も間違っていなかった。 あの時、自分が待機命令を守っていればこんな事態には陥らなかっただろう、と何度思ったことか。 自分のせいで、今この瞬間も千丁の銃を抱えたテロリストが、何処かに息を潜めていることを考えると気が滅入りそうになる。 紫莉が商人を殺めたことについては不可抗力だったと、千束がフォローしてくれるが、それが余計に惨めな気持ちにさせる。
「……錦木さん、もう良いです。 俺が商人を殺したのは事実ですし、司令を責めるのは間違っています」
「でも!」
「結果が全てなんです。 確かにあの時は通信障害がありましたが、その前に俺は待機命令を受けていました。 だから──」
「ちょっと待って、それ本当なの?」
「え?」
今まで聞いたことのない千束の声音に、紫莉は言葉を止めてしまった。 面をくらっていると、千束は紫莉の両肩を力強く掴んできた。
「通信障害、本当に起きたの?」
「え、ええ、数分間だけ……」
「原因は知ってるの?」
「……いえ詳細なことは。 でもあの作戦ではラジアータが機能していたはずです。 ラジアータに限ってそんなことは──」
「それはこっちに訊いてみようよ」
千束は上官を糾弾するように、実はラジアータがクラッキングされたのではないかと問い詰めた。 しかし、楠木は「ただの技術的トラブルだ」と一蹴し、一方的に話を切り上げて立ち去ろうとした。 なおも千束は食い下がろうとしたが、フキに止められてしまう。結局、楠木は去ってしまい、真相を明らかにすることはできなかった。
紫莉は目の前が真っ暗になりそうだった。 前からラジアータがクラッキングされた可能性があると思っていたが、それを認めたくなかった。 認めるということは、本当に自分が忌み枝であることを受け入れなくてはならないからだ。
ラジアータは、DAやリコリスなど決して白日の下に晒す事が出来ない存在の隠蔽する役割を担っている。 このAIのセキュリティを突破されたとなれば、DA創設以来一番の大事件であろう。
そこで楠木は、任務失敗の原因を紫莉とたきなに背負わせることで、真相を闇に葬ることにしたのだ。 事実をありのままに上層部へ報告したら、どうなるかなど考えなくても分かる。
紫莉は心の底から楠木の行いを憎悪した。 自分が何のため数多の命と奪ってきたのか。 何のために前世の倫理観をかなぐり捨て、身も心もズタズタになって組織に尽くしてきたのか。 紫莉にとって、今までの自分を全て否定されるに等しいものだった。
「なんだよそれ。 おかしいだろっ……!」
「ゆ、紫莉?」
「ふざけんな。 こんな仕打ち、あって、たまるか……!」
紫莉は、その場の空気が一瞬で重くなったのを感じた。 怒りで胸が焼けつき、握り締めた拳からは血が流れ出たが、痛みを感じることはなかった。
紫莉は低く唸るような声音をフキに向けた。
「春川は知ってたのか? いや知ってたんだろうな、顔をみれば分かる」
「……紫莉、落ち着け。 これには訳があるんだ」
「ああそうだろうな! こんなヤバいこと上層部に報告出来るわけない。 そんなこと分かってるんだよ。 でもそれくらいなら、司令もひと言くらい教えてくれても良いだろ!」
「それは……」
「別にリコリコへ左遷されたことは百歩譲っていい。 組織を守るためには仕方がないことだろうからな。 許せないのは、俺がそんなに口が軽い奴に思われたことだ。 俺はファーストだった、この身も心も捧げてきた。 俺への信用はこんな薄っぺらいものだったのか!?」
紫莉の言葉に、フキからの返答はなく、ただ視線を逸らすのみだった。 彼女の行動が余計に紫莉の胸に鋭い悲しみを突き立てる。
こんな行いは子供がする我儘と同じことで、フキに対しては八つ当たり以外の何物でもない。 それでも紫莉は負の感情を抑えきることが出来なかった。
「もういい……」
紫莉は小さく呟き二人に背を向けて静かに立ち去った。 思考を遮断し、ただこの場から消えることだけが唯一の望みだった。