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水上バスのディーゼルエンジンが低く唸っている。 船体がゆっくりと揺れ、船着き場を離れた。 アナウンスによれば、目的地の浅草二天門まで約十五分で到着するらしい。
紫莉は客室入口付近に立っていた。 客室の座席は通路を挟み、両窓側と中央の三列に三人掛けのシートが並んでいる。 ほとんどの乗客達は風景を楽しむため窓側に固まっているため、中央座席には誰も座っていない。
紫莉は壁に背中を預けたまま、乗客の様子を注意深く観察する。 最初に目に入ってきたのは二十代前半のカップルだ。 スマートフォンで熱心に写真を撮り、その出来栄えを見せ合って和気あいあいと盛り上がっている。
次に視線を移したのは、六十代ほどの高齢者の団体だった。 彼らは常連客のようで、景色には目もくれずお喋りに夢中だった。 そして、外国人の旅行客も数組いたが、こちらも純粋に日本旅行を楽しんでいるようで、血生臭い暗殺者の集団とは思えなかった。
船内はクリア。 ここに敵はいないだろう。
そう判断した紫莉は、壁から背を離して屋外デッキにいる千束たちの元へ向かう。 船の後部に行くと、同じく周囲を警戒しているたきなの姿が目に入る。 さらに奥には千束と松下もいた。
紫莉がたきなに近づくと、彼女は真剣な表情を崩さないものの、警戒の色をやや緩めた。
「どうでしたか?」
「船内は安全だ。 ここも大丈夫そうだな」
「はい、今のところは」
「屋上の方は確認したか?」
「いえ、まだです」
「わかった。 じゃあ俺は到着するまで屋上で監視を続ける。 ここは任せた」
紫莉の言葉に、たきなは小さく頷いて再び周囲の警戒に戻った。
屋上デッキに上がる階段に向かう前に千束に視線を向ける。 彼女と松下は旧電波塔の方を見ながら楽しそうに会話を弾ませていた。 どこからどう見ても健康そのものであり、その体が人工心臓によって動かされているとはにわかに信じがたい。
先ほどは、少し、いやかなりの衝撃を受けた。 紫莉の中では、千束は常に健康で病気とは縁遠い存在だという先入観があったからだ。 だが、今思い返してみれば納得がいく点は多い。
彼女の体力は底なしだ。 本部での体力測定でも、呼吸ひとつ乱していなかった。 もともとフィジカルも高いのであろうが、運動時に血液を送り出すポンプの役目を果たす心臓が機械であれば、常人とは比べ物にならないパフォーマンスを発揮するだろう。
だが、その事実を知ったからといって彼女との関係が変わるわけではない。 変に気を遣われるのは嫌がるであろうし、紫莉もそこまで器用ではない。 事実を受け入れ、これまで通り接するのがベストなのだろう。
屋上デッキに足を踏み入れた瞬間、蒸発しそうなほどの熱気が全身を包んだ。 雲のおかげで直射日光は多少やわらいでいるものの、肌をじりじりと焼くような感覚に思わず顔をしかめる。
「特に問題無し、か。 にしても、マジでクソ暑いな……」
ざっと見渡しても、そこにいたのは無害そうな旅行客の姿ばかり。 あまりの暑さに下へ戻ることも一瞬考えたが、これも任務であると自分に言い聞かせ、耐えることにした。
▼
水上バスを降りた後、紫莉達は最初の目的地である浅草寺に歩き出した。 巨大な赤提灯がぶら下がった総門の前には、国内外問わず多くの人々で賑わっている。
世間では『雷門』と呼ばれることが多いが、正式名称は『風雷神門』だ。 名前の由来どおり左には雷神、右には風神の像がそびえ立っている。 この二神によって浅草寺はあらゆる災害や争いから守られている──と千束が解説してくれた。
「つまりガードマンってことですね。 私とたきな、紫莉と同じ。 私達は松下さん専属ですけどっ。 あ、でもそれだったら一人多いか」
──ふふ、可愛い神様ですねぇ。
可愛い、という言葉に反応したのか、たきなは少し恥ずかしげに顔を逸らす。 だが、対照的に紫莉は複雑そうな表情を浮かべた。
神などという慈悲も存在もない概念に例えられるなど、まっぴらごめんだった。 この世で最も忌み嫌うもののひとつであり、耳にしただけで、背中に負った古傷がずきずきと疼きだし、忌々しい記憶が病魔のごとく脳を侵食していく。
もし仮に神がこの世に存在して目の前に現れたとしたら、ありったけの散弾を叩き込み全身の関節をへし折ってやりたい。
……まぁ、そんなことはありえねぇけど。
途中の自販機で買った水を一気にあおり、こみ上げてきた不安ごと飲みこむ。 気温のせいでぬるくなりかけていたが、それでも多少の気を紛らせるには充分だった。
その後は仲見世通り、宝蔵寺を抜け本殿でのお参りを済ませたのち、西のかっぱ橋商店街まで足を伸ばす。 道中、リコリコ常連客である刑事の阿部と彼の部下を見かけた。
阿部は「この人混みの中でよく見つけられた」と驚いていたが、千束は「私、目が良いので!」と朗らかな笑みで返していた。 実は心臓だけではなく、目も人工物なのではないかと紫莉は思ってしまったのは内緒だ。
浅草寺に戻ると予定どおり縁日を巡ることにした。 千束がおふざけでひょっとこのお面を松下に被せた時は、紫莉は流石に失礼なのではないかと冷や汗をかいたが、彼は怒るどころか写真撮影にも快く応じていた。
大企業の役員というのは、プライドが高く礼儀にうるさい者が多いと思っていたが、どうやら松下はそれに当てはまらないようだった。
千束の行いより失礼なことを紫莉が考えていると、いきなり千束が大きな声を上げた。
「ん? あぁ~組長さんだ!」
「ち、千束っ!?」
千束が指差す方向へ視線を向けると、甚平を着た小柄な老人がいた。 彼はリコリコで挽いているコーヒーを愛飲しているヤクザの組長で、シノギであろう射的の的屋を出していたのだ。
組長は不味い奴に見つかった、と言わんばかりに笑顔のまま頬を引きつらせた。
「千束、やっていくのか……?」
「んっふっふ~もちろん!」
「おいおい、手加減してくれよぉ?」
組長からコルク銃を受け取った千束は、不敵な笑みを浮かべながら先端に弾を込める。 前かがみの姿勢で台に肘をつきコルク銃を構える姿は、プロの狙撃手の様になっていた。 そんな姿を見守っていたたきなが小さく呟く。
「……すごい、銃身がまったくブレてません」
「あいつのとっては朝飯前だろう。 組長さんもお気の毒に……」
組長は紫莉達がリコリスであることを知っている、数少ない人物だ。 それだけに、この暑さとは別の冷汗が額に浮かんでいた。
千束が一発目を放つと、コルクはまっすぐに的のぬいぐるみを打ち抜き、台座から落下させる。 さらに続けざまに全弾を命中させ、ぬいぐるみを次々と撃ち落としていった。 横で遊んでいた子供達は目を輝かせる。
「ぃやったー! 全弾命中ぅ~!!」
「お姉ちゃんすげーっ!」
「ふっふっふ、好きなのを選んでいいぞ少年少女達よ」
「いいの!? やったぁ!」
誇らしげに立派な胸を張る千束とは対照的に、組長は「手加減しろって言ったのに……」と肩を落としてぼやいていた。 紫莉は不憫な組長に、心の中で合掌して別の屋台で買ったイカ焼きを一口かじる。 懐かしさを感じさせるソースの味が非常に美味だった。
縁日をひと通り楽しみ次の目的地である江戸城に向かうため、再び水上バスを利用した。 行きと同じように、紫莉は屋上デッキにて見張りにつく。
両国JCTの下を抜け新大橋に差し掛かった時だった。 首都高の路肩に何かが立っていることに気づく。 目を凝らしてみると、それは人だった。
不審に思った紫莉はスマートフォンを取り出し、風景を撮るふりをして首都高の方にカメラを向ける。
確かに人だった。 推測ではあるが長身の男性であり、手には双眼鏡らしきものが握られていた。 フルフェイスのヘルメットを被っているため人相までは分からなかったが、おそらく松下の命を狙う暗殺者だと紫莉は断定した。
素早く男の姿を写真に収める。 少しぼやけていたが、クルミに頼んで解像度を上げてもらえば問題ないだろう。
そうこうしていると、男は傍らに置いていたバイクに跨り走り去ってしまった。 紫莉は急いでミカとクルミに敵が現れたことを伝える。
「ミカさん、不審な人物を発見しました。 素性は不明。 現在、バイクで首都高六号線を南下していると思われます。 そちらで確認出来ますか?」
―少し待ってくれ、確認する。
ミカが短く応じた後、すぐにクルミからの続報が入る。
―あぁ、ボク達の方からも確認できた。 全身黒づくめの奴だろう?
「ええ、そいつです。 一応、粗いですが写真を撮りました。 そちらに送っても?」
―頼む。 こっちで照合して身元を割り出してやる。
「お願いします」
紫莉は敵が迫っていることを下にいる千束らに伝えるため、足早に階段を降りる。
「おい、敵さんのお出ましだぞ──って、何やってんだ……?」
紫莉は目の前に広がる光景に肩の力が抜けそうになった。 顔を真っ赤にして胸を隠す千束と、彼女の胸に手を伸ばしているたきなの姿があったからだ。
「井ノ上、何やってんだ?」
「いえ、千束が鼓動がないと言っていたので確かめようかと」
「お、おう」
あまりに真剣な表情で返事を返してきたので、紫莉は反応に困ってしまう。 一方の千束は「別に確認するのはいいけど、公衆の面前で乳を触るなぁ!」と叫んでいた。
▼
ミカ達から再び連絡が入ったのは、江戸城跡の観光を終え美術館に向かう途中だった。 同時に暗殺者の身元についての情報も訊かされた。
今回、松下氏を狙っているのは“ジン”と呼ばれるベテランの殺し屋だ。 その静かな仕事ぶりから“サイレント・ジン”というあだ名がついているらしい。
驚くべきことにミカはジンを知っていた。 彼曰く、昔所属していた警備会社の同僚でありバディを組んでいたとのことだ。
ミカは通信機越しにくぐもった声を漏らす。
―ジンは不味いな……
―どんな奴なんだ?
―プロ中のプロだ。 気を引き締めろ、手ごわい相手だぞ。
ミカの言葉に紫莉を含めた全員の表情が引き締まる。 まさかミカの元同僚という大物とぶつかることになるとは思いもしなかった。 だが、焦った感情を表に出してしまえば、松下を不安がらせてしまうことに繋がるため、紫莉は平常心を心掛けた。
何度か深呼吸をしていると、今度はミズキからの通信が入る。
―標的を三十メートル先に確認。 こっちは顔がバレてない。 発信機をつけにいくよ。
紫莉の心臓がどくんと跳ねる。
ミズキは荒事に慣れていると言ってはいたが、それでも不安は拭えない。 それに相手がベテラン殺し屋となればなおさらだ。 今はただ彼女が無事に役目を果たせることを祈るばかりだった。 しかし、ミズキからの一報が、その祈りを無情にも打ち砕いた。
―クソ、バレてる!
「どうしたんですか!?」
何事かと紫莉は慌てて訊ねたが、ミズキからの返事は返ってこなかった。 代わりにクルミが応える。
―ドローンが撃墜された。 ジンの奴わざと誘い込んだな……予定変更、松下さんを避難させて一人打って出るべきだ。 ミズキが予備のドローンを起動させたら、ジンを見つけ次第攻撃に出よう。
「了解、俺が行きます。 錦木良いな?」
「……わかった」
許可を得た紫莉は、松下の方をちらりと見る。 彼の表情を読み取るのは困難だったが、おそらくはバレていないはずだ。
紫莉は適当にトイレに行ってくると理由をつけ、その場を離れた。 しかし、数分もしないうちに悪報が飛び込んでくる。 なんでもミズキとの連絡が途絶えてしまい、さらに彼女が持っていたドローンの起動も確認できてないとのことだった。 たった今クルミが別の機体を向かわせているらしいが、現地到着まで時間を要するようだ。
クソ、最低のパターンだ……!
紫莉は腹の奥に鉛を流し込まれたような苦しさを覚える。 ミズキの安否を確かめに行きたい衝動に駆られるが、彼女に手を掛けたジンはすぐにでも松下を狙いにやってくるだろう。 仲間と依頼主、どちらを優先するかの天秤を目の前にかけられた気分だ。
悩んだ末、紫莉は千束らの元へ戻る選択をした。 決してミズキを見捨てたわけではない。 自分に与えられた任務を迅速に遂行するのが、最善策と判断したまでだ。
急ぎ足で東京駅近くの美術館まで戻ると、出入り口付近で千束と松下の姿を見つけることができた。 こちらの存在に気づいた千束は表情を少しだけ緩ませた。
松下に訊こえないように、頭を寄せて話を始める。
「紫莉、戻ってきたんだね」
「状況が変わったからな。 ……おい、井ノ上は何処に?」
「……ジンを迎え撃ちに行った。 止めようとしたんだけど、松下さんを一人にするわけにはいかなかったし」
「まじかよ……奴はもうここに?」
千束は「多分来てる」と小さく頷いた。
紫莉は口元に手を持っていく。 自分がジンの立場だとすれば、まず護衛の数を減らすことを真っ先に考える。 そうなれば今一番狙われるのは、単独行動をしているたきなであろう。
「井ノ上を援護しに行くべきだと思うが、リーダーの意見を訊かせてくれ」
「うん、それが良いと思う。 私は松下さんを連れて電車でここを離れるから、たきなをヘルプに行って」
「了解」
それぞれの役割を決まったことで行動を開始する。 紫莉は素早く人気の無い場所に入り、スタッフバックからM870を取り出す。 手短に動作確認を済ませ、先端に長方形のサプレッサー“サルボ12”も装着する。 最後に非殺傷が装填されていることも確認した。
本来であれば、白昼堂々こんな物騒な物を振り回すべきではないが、相手が実力者であるため出し惜しみするわけにはいかない。
続いて紫莉はたきなへ通信を入れる。 通信はすぐに繋がった。
「こちら倉木。 井ノ上、今何処にいる?」
―上の階にいます。 敵はまだ現れていません。
「わかった。 そっちに合流するから待っててくれ」
紫莉は関係者専用階段を駆け上がり上階に向かう。 目的の階に到達し扉を開けると、窓際で外を警戒しているたきなの姿があった。
敵と対峙する前に無事に合流できたのは僥倖だった。 紫莉がたきなのもと駆け寄ろうと一歩踏み出す。 ──その刹那、彼女の背後で人影が動いた。
黒いロングコートに長い髪を持ち、頬を少しこけさせた男が、サプレッサー付きの拳銃をたきなに向けていた。
紫莉は反射的に声を張り上げた。
「後ろだ! 伏せろ!」
「っ!!
たきなは驚きで目を見開いたが、紫莉の叫びに素早く反応し、身を丸めて床に倒れ込む。次の瞬間、ジンの放った銃弾がひゅん、とたきなの頭部があった位置に着弾する。 銃弾は壁にめり込み、壁の一部がぱらぱらと崩れ落ちた。
もし少しでも反応が遅れていれば、たきなはこの世に居なかったであろう。 ミズキに続いてたきなまでやられてしまうわけにはいかない。
紫莉はM870を突き出すように構え、銃口をジンに向け引き金を絞る。 サルボ12によって減音された銃声が短く空気を裂き、跳ね上がる反動が腕を振るわせる。
非殺傷弾がジンの体で炸裂し、赤い粉末が舞った。 しかし、彼は僅かに表情を歪ませただけだった。
たきなも倒れ込んだ状態のまま、自らの銃を構え反撃する。 彼女の弾も命中したはずだが、ジンの身体を貫くことはなかった。
たきなが血相を変えて叫ぶ。
「コートが防弾です!」
「ちっ……! そんなのありかよっ」
紫莉は思わず舌打ちが出てしまう。 たきなの背後に音もなく忍び寄っただけでなく、防弾コートなどを揃えているとは、流石ベテラン殺し屋と呼ばれるだけはあった。
ジンは二対一では分が悪いと思ったのか、身をひるがえすと脇にあった通路へ退却していく。 無駄に深追いしてこないことも手練れである証拠だ。
紫莉はたきなに手を差し伸べ「怪我は?」と訊ねる。
「大丈夫ですっ」
「立て、奴を追うぞ」
「はい!」
たきなの腕を引き起こし、互いの銃を構えながらジンが逃げた先へ進んで行く。 道中、クルミからの通信が入り、ジンはこの先にある扉を通って外に行ったとのことだ。
何故位置が分かるのだと、紫莉は疑問に思っていると、たきなが補足してくれた。 どうやらジンに発信機をつけることに成功したらしい。 それをやってのけてくれたのは他でもないミズキだった。 彼女はやられる前に使命を果たしたのだ。
「……中原さんの犠牲は無駄にはしない」
胸を締め付けられるような苦しみを噛みしめ、紫莉はそう呟く。 必ずジンの行いを止めてみせると心に誓っていると、クルミが「あー……」と何か言いたげに小さく唸る。
―せっかく気合を入れてるとこ悪いんだが、ミズキは生きてたぞ。
「は、え……!?」
―ジンに拘束されて、近くの工事現場の倉庫に閉じ込められただけだったらしい。 何とか抜け出して今そっちに向かってる。 だから、余計な心配はしなくていい。 さっさと任務を終わらせよう。
紫莉は驚きと安堵が入り混じった感情のせいで、一気に足の力が抜けそうになった。 今が任務中でなければ、この場に崩れ落ちていただろう。 勝手にミズキを亡くなった者扱いしてしまったことへの自己嫌悪と罪悪感が紫莉の胸を締め付けた。
ともあれ、彼女が無事であったことは朗報には変わりない。 後はジンさえどうにかすれば、この任務も完了したも同然だ。
紫莉達はビルの屋上に出た。 駅に隣接するこのビルの屋上には、人の背丈以上の室外機が多く並んでいる。 身を隠すには絶好のポイントだった。
足音を立てぬように慎重に移動し、室外機が切れるところまで来た。 角から顔を覗かせると、四つ先の室外機からジンが着ているコートの一部が見える。 案の定待ち伏せをしていたのだ。
紫莉は即座に思いついた策をたきなに耳打ちで伝える。
「俺がこの上に登ってわざと音を立てて注意を引く。 その隙に井ノ上は反対から回り込んで奴を仕留めてくれ」
「わかりました」
紫莉はたきなの手を借りて室外機をよじ登る。 ファンモーターから発せされる低い振動が足元と鼓膜を揺らす。 自然とグリップを握る手にも汗が滲む。
短く息を吐き出し、弾かれたように駆け出す紫莉。 可能な限り大きな足音を立てながら、一つ目、二つ目を飛び越える。 そして、四つ目を飛び越える瞬間、体を捻りながらM870を下に向けて叫ぶ。
「こっちだ、このクソ野郎──っ!!」
紫莉は瞳を大きく見開いた。
コートの下は空だった。 彼はすでにその場を離れており、罠に嵌められたと紫莉は理解した。
「あそこにいます!」
たきなが指差す方に視線を向ける。 少し離れた位置にある建設現場の方からジンがこちらを見ていた。 彼は紫莉達には興味が無いと言ったように、視線を外すと悠然とした足取りで歩き去って行く。 下手に挑発される以上に屈辱的だった。
たきなが「待て!」と叫びながら後を追い始めた。 紫莉も慌てて室外機から飛び降り、後に続く。 しかし、建設現場の足場は幅が狭く、天板の上を進むたびに耳障りな軋み音が響いた。 思うように速度を上げることができない。
紫莉は何とかたきなに追いつき、L字になっている角を曲がった。 奥の足場が切れている場所にジンはいた。 彼は丸の内駅広場を見下ろすような形で拳銃を構えており、広場に目を向けると、何故か先に避難したはずの千束と松下の姿が見えた。
紫莉は火照った体が、水を浴びせられたように急速に冷えていくのを感じた。 早くしなければ松下はともかく千束も危ない。 だが、紫莉がそう考えてる間にたきなが動き出した。
たきなは、千束達に訊こえるような声量で「逃げてっ!」と声を張り上げた。 そのままジンに飛びつくと、彼を巻き込みながら紫莉の目の前から消えた。 そして、何かが砕け散るような派手な音が紫莉の耳に入ってくる。
「お、おいおい……! 嘘だろっ!!」
紫莉は一瞬息をすることさえ忘れてしまった。 自分の足元が崩れ落ちたのかと思うほどの衝撃だった。 何とか我を取り戻し、足場の端まで行き下を覗き込む。 落下の衝撃で木製の足場は砕け散り、土煙が舞っていた。
落ちた二人の姿を確認することは困難に近かった。
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三週間前、一人の女性がジンを訪ねてきた。 二十代後半くらいで、つばの広い白いハットに、同色のワンピースを着た品の良い女性だった。
殺しを生業としている自分の元に来る人間は二種類しかいない。 昔の仲間か、仕事の依頼をしてくる者のどちらかであり、彼女は後者であった。
彼女が依頼してきたのは、とある企業の役員の暗殺だった。 その役員とやらは、情の欠片もない非道な人物であり、ライバル企業はもちろん時には同僚までも貶めて現在の地位を手に入れたらしい。 だが、運を使い果たしたようで現在は完治不能の病に罹り、自分の力では喋ることも動くこともできないとのことだ。
その役員、名を松下という男が、日本の首都である東京に訪れることが確認出来ており、そこで彼を消して欲しいというのが、今回の依頼内容だった。 さらに報酬は現金前払いと破格の条件だったため、ジンには断る理由が無く二つ返事で了承した。
いざ現地へ訪れると少し奇妙な状況だった。 松下の周囲には護衛がいると訊かされていたが、その護衛三人がどう見てもおかしい。 それぞれ赤、黒に近い紺、白色と言った学生服に身を包んだ少女達で、護衛というよりも学生ボランティアの方がしっくりきた。
病に体を蝕まれた老人に、子供の護衛とは冗談にも程がある。
しかし、その考えはすぐに覆された。
紺色と白色の学生達は、常にアンテナを張っており、下手なボディーガードより様になっていた。 さらに彼女らの仲間と思わしき車の尾行、加えてドローンによる監視も行われており、普通の相手ではないとジンは悟った。
それでも自分はプロの殺し屋という矜持がある。 経験の差で少女達を出し抜き、松下をあと一歩のところまで追いつめた──はずだった。
……話が旨すぎたはずだ。 これでは割に合わん。
そんなことを考えているうちに、身体を襲う痛みでジンの意識は現実へと引き戻された。 数十メートル上から落下したせいで体のあちこちに鈍い痛みが走る。 だが、幸運にも落ちた箇所にはセメント袋が多く積まれていた。 それがクッションとなったおかげで、重症にまでは至らなかった。
「くぅ……」
呻き声がした方に視線を動かすと、自分とともに落下した黒髪の少女──もとい今回の敵が同じくセメント袋に埋もれていた。 彼女も苦痛に悶えてはいたが、目立った外傷は見当たらない。 おそらくまだ動けるだろう。
そう思っている矢先、黒髪はよろよろと立ち上がりこの場から逃げようする。 ジンは震える体に鞭を打ち、腕を伸ばして愛用の拳銃を突きつける。
こいつらは危険だ。 ここで始末しなければ仕事を果たせない。
少女を手に掛けるのは本意ではなかったが、やらなければ自分の身が危うい。 そして、指に力を込めようとした時だった。
「──井ノ上! たきな、走れ! ジンが狙ってる!」
頭上から白服の切羽詰まった声が響く。 彼女はM870で武装しており、火力的に一番厄介な存在だ。 たきなと呼ばれた黒髪は、白服の声に反応し袋の山から抜け出すと一目散に駆け出した。 ジンは彼女目掛けて何発か発砲するが、周辺の鉄骨やコンテナに穴を空けただけだ。
逃がすか!
ジンも袋の山から這い出し、逃げ出したたきなの背中を鋭い目で捉える。 彼女は振り返る余裕もなく、ただがむしゃらに逃げるだけで反撃の素振りも見せない。 よく見ると、彼女は武器を手放していた。 どうやら落下の際に何処かに落としたようだ。
形勢逆転したことに、ジンは唇に薄い笑みが浮かべる。 決して攻撃の手を緩めることなく、銃弾の雨を降らせた。 そして、その内の一発が彼女の左腿を掠めさせることに成功した。
たきなはバランスを崩し転倒したが、傷は浅いようで膝を着きながら側にあったコンテナの影に隠れた。 ジンは素早く移動し、上方から彼女を狙える位置まで回り込んだ。
たきなと目が合う。 彼女の瞳からは完全に戦意は消えてなかった。 だが、若干の恐怖の色が見て取れる。
ジンはここまで手こずらせたことに敬意を表し、せめて一撃で楽にさせてやろうと指の力を込めようとした──その瞬間だった。
突然、パシュっとガスが抜ける音が鳴り足元に赤い霧が舞った。 微かに音が訊こえた方へ首を回すと、白服が一直線に突進してくるのが見えた。
チッ、次から次へと……!
ジンは反射的に標的を切り替え、即座に迎撃する。 白服は背負っていたバックを腹部へと回した。 直後、バックのフロントパネル内側から白い袋が膨れ上がり、彼女の姿を覆い隠し向かっていた銃弾を全て吸収した。
視界を遮られたジンは苛立ちながら横に飛び、白服を補足しようと試みる。 だが、彼女は行動を予測していたように同じ方向に移動していた。
懐に飛び込んできた白服は、鋭く散弾銃の銃先でジンの手を打ち抜き、拳銃を弾き飛ばした。 続けざまに腹部への容赦のない銃撃を食らわせた。
ジンは内臓がひっくり返りそうな激痛を食いしばって耐えた。 最初に撃たれた時から気づいてはいたが、この少女が使用しているのは実弾ではなく、フランジブル系の非殺傷弾だった。 被弾すれば死んだ方がマシに思えるような痛みに襲われるが、ダイニーマ生地で編まれたワイシャツのおかげで最悪の事態は防げた。
ジンが意識を保っていることに白服は目を丸くする。 彼女の動きが鈍くなった隙を突いて反撃に出た。 M870の銃身を掴み、彼女の手から凶器を奪い取る。 そのまま無防備になった足を払い転倒させることに成功した。
「くっ……!」
好機と捉えたジンは、そのまま少女の顔面を踏みつけようとした。 だが、彼女は体をコマのように回転させ、ジンの脚へと逆に絡みつく。
──何だと!?
膝を取られたジンはたまらず体勢を崩し、うつ伏せに近い形で倒れ込む。 白服はジンの足首を抱え込むように持つと、小柄な体躯を目いっぱい捻りあげた。 足首から発生した電流が背骨を通じてジンの脳天を貫く。
不味い思ったジンは、残った片方の脚で白服を何度も蹴り付ける。
「がっ……!」
鈍い感触とともにくぐもった声を出す白服。 ジンの靴底が彼女の鼻先を掠めたせいだ。
ジンは拘束が緩んだ隙にするりと抜け出し、前転にて彼女との距離を取った。
危ないところだった。 あのまま技を極められていれば、足首を破壊されていただろう。 そうなれば完全に詰みだ。
額に浮き出た嫌な汗を乱雑に拭い、ジンは白服を見据える。 彼女は鼻を押さえながらよろよろと立ち上がり、視線を返してきた。 彼女のスギライトを連想させる瞳には、戦意の炎が未だに宿っていた。
本物だ──ジンは背筋を震えわせる。 十代半ばも行っていない者が、出せる気迫ではない。 この少女が潜ってきた修羅場に、底知れぬ恐怖と敬意を抱いた。 だからこそ、プロとして負けるわけにはいかなかった。
両者の間に緊張が走る。 次の一手で勝負が決まると、お互いに確信しているように感じた。
ジンは先に動き、自分の拳銃が落ちている所まで駆けた。 銃を拾い上げた直後、白服が再び足元へ滑り込んでこようとしてくるのが分かった。 ジンは僅かに身を引き、彼女のスライディングの勢いを足で受け止めた。
足を掴まれてしまったが、これで良かった。 何故ならジンの銃口の先は、白服の頭に真っすぐ向けられていたからだ。
「紫莉!」
ジンが横目で声がした方を見やると、青い顔をしたたきなが鉄骨にもたれ掛かっていた。 この紫莉という白服を始末した後は、お前の番だと睨みを利かせ、視線を戻す。
「終わりだ」
ジンは短くも敬意を持った声音で告げた。 すると、踏みつけられたままの紫莉は、にやりと白い歯を見せた。
「くたばるのはお前の方だ」
強がりを、とジンは引き金を引こうとした──その時だった。 背後に何かが降り立つ音ともにとてつもない殺気を感じ、弾けるように後ろを向いた。
現れたのは、また色違いの赤い制服を着た金髪の少女だった。 三人の中で一番身長が高く、女性的な身体つきをしていた。 けれど、ジンの脳内は警鐘を鳴らしていた。 人間的な本能なのか、それとも経験から来るものなのか。 目の前の深紅の瞳に射抜かれた瞬間、全身の細胞が危険を告げる。
この少女こそが、最大の脅威だと。
ジンは迷うことなく赤目に向けて発砲した。 だが、放った銃弾は彼女の髪を数本飛ばしただけだった。
馬鹿な、この距離で外すだと……! いや、避けたのか!?
ジンは今起きた出来事が信じられず、虚を突かれた。 そして、その一瞬が命取りとなった。
赤目は瞬間移動したかのように、ジンの懐に入り込むと右腕を大きく横に振りかぶった。 彼女が持つスパイクが装着された拳銃がジンの腹部に突き刺さる。 さらに彼女はトリガーを引き、銃弾を叩き込んだ。
トラックに轢かれたような衝撃をジンは受け止め切れず、体をくの字にして後方へ飛ばされた。 飛ばされた先にあった鉄柵に背中を強く打ちつけられた瞬間、ジンの意識は闇へと沈んだ。
▼
横たわったジンを見て紫莉は、ほっとひと息をついた。
今まで様々な戦闘を経験してきたが、彼は間違いなく上位に入るほどの実力の持ち主だった。 出し抜かれた時はどうなるかとかなり肝を冷やしたが、ひとまず一番の山場を乗り越えることはできた。
気が緩みアドレナリンが低下したのか、ジンに蹴飛ばされた鼻先が痛む。 指先で軽く拭ってみると、鼻から少しだけ生暖かい血が滴っていた。
「うへぇ、血ぃ出てんじゃん。 はい、これ。 自分で立てる?」
「すまん、助かる」
千束が差し伸べてくれた手を握り返し、紫莉は立ち上がる。 ポケットティッシュを受け取り、鼻周りを綺麗にした。
「も~それにしても、二人とも無理しすぎ! 私が少しでも遅れてたら危なかったよぉ」
「ジンと向かい合ってる時、あんたが走ってくる姿が見えたんだ。 あいつに気づかれないようにするには、ああするしかなかった。 それに、多少無理でもしなかったら、井ノ上がやられてた」
「……そうなの、たきな?」
紫莉の過去の行いが裏目に出ているのか、千束は半眼で疑ってきた。 いきなり事の真偽を訊ねられたたきなは「え、えぇ、本当です」と首を縦にこくこくと振る。 彼女の言葉を信じたのか、千束は肩をすくめるだけで、それ以上のお咎めはなかった。
―殺すんだ。
突然耳に入ってきた物騒な言葉に、紫莉はぎょっと目を白黒させた。 いつの間にか松下までもがここに来ていた。 奥には肩で息をしているミズキの姿もあった。
松下は車椅子の車輪を回し、千束に近づき語りかける。
―そいつは私の家族を奪った男だ。 生かしておけない。
「え……でも……」
―本来であれば二十年前に自分の手でやるべきだった。 けれど、今の私には無理だ。 お願いだ、君の手で──
「ちょ、ちょっと待ってください」
場の空気が不穏なものに変わりつつあったことを感じ取った紫莉は、両者の間に無理やり割り込む。
「松下さん、落ち着いてください。 お気持ちは察ししますが、どうかここは穏便に……」
―君は黙っていてくれないか!
松下は今までの穏やかな雰囲気が嘘のように、厳しい言葉をぶつけてきた。
彼の気持ちを言葉だけでなく、充分理解しているつもりだ。 目に入れても痛くない妻子を奪われたのは、身も心も引き裂かれる経験だろう。 そして、その仇が目の前で力無く横たわっているのだ。 感情が高ぶってしまうのも無理はない
しかし、紫莉はある点が引っかかってしまう。 何故彼はわざわざ千束を指名するのか。 仇を討つだけならば、彼女じゃなくても良いはずだ。 それがどうしても腑に落ちない。
この老人は何かを別の目的を隠している──紫莉の直感が、静かに警鐘を鳴らしていた。 胸の奥に湧き上がる小さな疑問を確かめるべく、一芝居打つことにした。
「……とある事情がありまして、その注文は聞き入れることが出来ません。 特に錦木には彼女の信条的な問題がありまして」
―だから、君は黙っていてくれと。
「──ですが、大切なお客様のご注文なら仕方がありません。 誠に勝手ながら、自分が代わりを務めさせていただきます」
―は……?
言葉を失った松下を無視して、紫莉は戦闘の際取り落としたM870を拾いにいく。 紫莉の唐突な行動に千束は「ちょ、紫莉、本気なの!?」と慌てふためく。 止めようとしてくる彼女を手で制し目配せする。
大丈夫、本当に殺したりはしない。
紫莉の目を見て意図を察してくれたのか、千束はおずおずと伸ばした手を引っ込めてくれた。 紫莉は松下の前に立ち、チューブ内に入っていた非殺傷弾を全て排出する。 続けてスカートの中に忍ばせていた実弾を取り出し、彼のゴーグルの前に突き出した。
「これはスラグ弾。 熊や猪などの大型の動物を一撃で仕留められます。 人体に使うには過ぎた代物ですが、大切な人達を奪った相手には相応しいですよね?」
―……待ちなさい。
「ご心配には及びません。 すぐ終わります」
紫莉は足早にジンの元へ向かうと、足を使って彼を仰向きにする。 彼はまだ気絶しているようで、起き上がってくる気配は微塵もなかった。
紫莉はスラグ弾をチャンバーに滑り込ませ、フォアエンドを鋭く引いて弾を送り込んだ。 硬質な金属音が響き渡り、場の空気を凍りつかせるのを肌で感じた。 そして、銃口をジンの頭部へと向けた。
―やめろ、彼を殺すな!
松下の苦渋な叫びが耳に入った瞬間、紫莉は動作を止めた。 構えは解かず目だけを動かし、彼に訊ねる。
「何故止めるんです。 彼を生かしておく理由は無いはず」
―違う、そうじゃないんだ……
「失礼ですが、仰っている意味がわかりません。 ジンを殺して欲しいのか、殺さないで欲しいのか、はっきりしていただかないと」
―っ……! 千束、頼む君の手で殺してくれ、君はアランチルドレンのはずだ! 何のために命をもらったんだっ。 その意味を考えるんだ!
松下が千束に話題を逸らしたことで、紫莉の疑問は確信に変わった。 この老人は何かを隠している。 すぐにでも、彼の化けの皮を剥がしてやりたかったが、最後は千束に委ねることにした。 もっとも、彼女の答えは決まっているだろうが。
「ごめんなさい、松下さん。 私はね、人の命を奪いたくないんだ」
―は……? 千束、何を、言っているんだ……?
「確かに私はリコリスだけど、誰かを助ける仕事がしたい。 ──これをくれた人みたいにね」
―そんな……それでは、アラン機関は何のために、その命を……
千束は、アランチルドレンの証であるペンダントを指先で撫でながら、優しくともはっきりとした口調でそう言った。 望んだ返事が得られなかった松下は、完全に意気消沈したようで口を閉ざしてしまった。
実に千束らしい返事だ、と紫莉は心の中で賞賛する。 他人の意見に流されない自分軸を持っている彼女は本当に立派だ。 それこそが彼女が多くの人を惹きつける魅力であり、本当の強さなのだろうと感じた。
そんなことを考えていると、遠くの方からパトカーのサイレンが訊こえてきた。 これだけ派手に暴れたのだ。 おそらく工事現場の作業員が通報したのだろう。
ミズキが面倒くさそうに眉根を下げる。
「ああ、もうっ。 面倒なことになる前にさっさと逃げちゃお。 ほらほら」
「そうですね。 松下さん、一旦店に戻りましょう。 そこで頭を冷やして──松下さん?」
紫莉は松下の車椅子のハンドルを持ち、その場から退避しようとする。 しかし、すぐに松下の様子がおかしいことに気づいた。 よく見れば、彼のバイタルを示すモニターも消えていた。
冗談だろっ。
紫莉は慌てて彼の状態を確認するが、脈は正常に動いており、寝息のような呼吸もしていた。 けれど、彼の意識は戻らず全員で呼びかけても返事が返ってくることは無かった。
▼
吉松は汗ばんだ額に張り付くゴーグルを、震える指先で取り外した。 とてつもない悪夢を見せられた気分だった。 あれだけ用意周到に『松下』という老人になりすましていたにもかかわらず、最後の最後で計画を崩された。
何てことだ、ありえない。 千束は何故あんな事を、ミカは今まで何をしていたんだ……!
吉松の胸に渦巻く困惑した感情は、すぐに沸々とした怒りへと変わる。 千束の己に課せられた使命を否定する発言。 十年も彼女の側に居ながら、あの時の約束を果たせていないミカ。
何よりも許せなかったのは、肝心な時で横槍を差してきた、倉木紫莉の存在だった。 取るに足らないただの凡人が、身の程もわきまえずこちらの計画を台無しにした。 彼女の行動は吉松に対する宣戦布告にも等しい。
吉松は側で控えていた姫蒲に声を掛ける。
「……あの男を使う計画を進めると同時に、もうひとつも進めよう」
「はい、例の計画ですね」
「話が早くて助かるよ。 首尾は?」
「大方の居所は掴めております。 指示さえもらえれば、早急に接触を試みます」
「頼むよ」
吉松は机の上に置いてあるタブレットに視線を移す。 画面には浅草で千束達と撮った写真が映し出されている。 写真の隅には見切れている倉木紫莉もいた。
これは千束に纏わりつく悪い害虫だ。 一刻も早く排除しなくては。
吉松は写真を削除して、紫莉に対する憎悪を静かに燃え上がらせた。