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部屋の中には消毒アルコール独特の臭いが充満していた。 怪我をすることが多い紫莉にとっては馴染みの臭いだったが、未だに慣れることはない。 どちらかと言えば嫌いな部類に入る。
「はいよぉ、じゃあ、こっちに背向けて」
紫莉はスツールを回転させ、白衣を着た小太りの女性に背を向ける。 女性が持っていた聴診器が地肌に触れた瞬間、反射的に変な声が出そうになるのをぐっとこらえる。 これも何度経験しても慣れない。
「……脈拍異常無しっと。 服下ろしていいわよぉ」
紫莉はコンプレッションウェアの裾を下ろしながら、女医の方へ向き直る。
その女医──もとい彼女の名は山岸。 DAから東京地区所属リコリスの体調管理や検診を委託されている医者だ。
直接年齢を訊ねたことはないが、およそ四十後半から五十代前半かと紫莉は勝手に推測していた。
「はいよ、これで今月の検診は終わりよぉ。 お疲れさん」
「ありがとうございます。 毎度のことですが、お見苦しいものを見せてすみません」
「何さ改まって……こちとら長年医者やってんだから、傷のひとつやふたつどうってことないわよぉ」
山岸は語尾を伸ばす癖があり、その見た目も相まって“肝っ玉母ちゃん”という言葉がぴったりだ。 性格も竹を割ったようなものなので、変な緊張感が生まれず親しみやすさもある。
にしてもよぉ、と山岸が両腕を交差させじろじろと見つめてくる。
「あんた、随分と顔色が良くなったわねぇ。 前なんて過労死寸前のサラリーマンみたいな顔つきだったのに」
「か、過労死って……流石にそこまで酷くは……」
「酷かったわよぉ。 検診はしょっちゅうすっぽかすし、やっと顔を見せたと思えば全身傷だらけ。 ろくなもん食わないから栄養の偏りも酷いし、おまけにビタミン剤に鎮痛薬、睡眠薬、それに特注の精神安定剤と薬のフルコース。 いくらあんたが普通の子とは違う環境にいるとはいえ、異常なレベルよぉ」
「あ、あはは……」
忘れたい過去を語られた紫莉は、恥ずかしさのあまり肩を縮こませる。
確かに当時の生活は不摂生であったことは認める。 だが、そこまでだったのかと疑ってしまうが、医者の山岸が言うのだから本当のことだろう。
……きっと前世でも同じような人生を送ってたんだろうな。
霞みかかった前世の記憶を掘り起こしても、似たような情景しか思い浮かべることしか出来なかった。 おそらくそうであろうし、今となっては確かめる術も無い。
そんな事を考えていると、一旦退席していたたきなが戻ってきた。 今の話を聞かれなかったか不安になるが、彼女の様子を見るに大丈夫そうだった。
しかし、動揺しているのがまるわかりであったようで、たきなは不思議そうに首を傾ける。
「何の話してたんです?」
「いや、別に……」
紫莉は誤魔化そうと言葉を濁したが、山岸が話を被せてくる。
「規則正しい生活を送れ、って説教してたとこ。 たきなは知らないかもしれないけど、この子ったら本当にヤバかったのよ。 前とは大違い」
「そ、そんなにですか……確かに彼女と初めて会った時と最近の印象は全然違いますけど」
「そうなのよぉ。 特に酷かったのは、診療中に貧血でぶっ倒れた時ねぇ。 流石に無理させ過ぎだって、医者として楠木にガツンと言ってやろうとしたの。 そしたら、この子なんて言ったと思う?」
「まさか……」
「『それだけは勘弁してくれ、せっかくファーストになったばかりなのに司令の耳に入って使い物にならないって判断されたら、俺はお終いです』って。 アタシも頭に来てたから、絶対に言ってやると取り合わなかったんだけど……今度は急に大泣きし始めて、それどころじゃなくなってねぇ」
「紫莉、あなたって人は……」
呆れと憐れみが入り混じったたきなの視線が痛かった。 その件に関しては非常に反省している。
あの時は、結果を出さなければ自分の価値は無いと本気で信じていた。 普通の人生を諦め、組織のために身を削ることがこの人生なのだと、己に言い聞かせ日々を過ごすことで心の均衡を保っていた。
人は追い詰められ視野が狭まると、まともな判断が出来なくなるという話を訊いたことがあるが、まさか自分がその状態に陥っていたとは夢にも思わなかった。
これ以上、昔話を暴露されたくなかった紫莉は慌てて口を挟む。
「せ、先生、それは誰にも言わない約束だったじゃないですかっ」
「そうだったっけ? ま、最近は薬に頼らずやっていけてるみたいだし、検査数値もおおかた基準内に収まってるんだから、ちゃんと今の生活リズムを維持すんのよぉ──っと、話が逸れたけど、あんた達に言っておかないことがあるわ」
山岸は先ほどとは打って変わって真剣な表情を作る。 そして、彼女の口から言葉が出てくるのを紫莉はじっと待った。
「──あんた達、リコリス襲撃の話は耳に入ってんの?」
「え?」
紫莉とたきなの声が被る。 訊き間違いかと思い紫莉は耳を疑ったが、同様の反応をしていたたきなと目が合う。 やはり間違いなどではなさそうだ。
山岸は紫莉達の反応を一瞥すると、残念そうに深いため息をつく。
「……やっぱ、知らされてないかぁ。 ま、支部のアンタ達には上がまだ伏せてるのかねぇ」
「し、襲撃とはどういうことですか!?」
血相を変えたたきなはスツールから立ち上がった。 山岸は背もたれに寄りかかり、鼻先を少し天に向ける。
「詳しいことはアタシも訊かされていないのよぉ。 先月、二子玉川でサードの子がやられてね。 そっから今月に入ってからお台場、立川、品川で立て続けに三人も襲撃されたみたい。 全員、単独任務中に大勢に襲われたって本部の連中は言ってたわよぉ」
「……四人の安否は?」
その質問に山岸が首を横に振ったのを見て、紫莉は眉間の皺を深くした。
任務中不測の事態に見舞われ、命を落とす者も少なからずいた。 だが、明確にリコリス単体を狙った襲撃など紫莉は知らない。
それはつまり──リコリスの存在を認知しているということを示唆していた。
……まさか。
とある組織の存在が紫莉の脳内を過ぎる。 まるで特殊部隊のように洗練された技量を持ち、リコリスとは比べ物にならない装備を携える。
リコリスと同じ花の名前を由来とし、力終主義をモット―に掲げるおぞましい連中が。
……いや、ありえない。 連中がこの程度で動くはずがない。 でも、やられた四人の素行を俺は知ってるわけじゃない。 何かDAにとって都合が悪い子達だったのか? そう言えば、春川が言ってたな連中が俺を狙ってるって。 ──それなら、次に狙われるのは俺……?
紫莉は全身の毛がよだつような恐怖を覚える。 一度このような状態に陥ってしまうと、悪い想像が頭を埋め尽くしていく。
たきなに「大丈夫ですか……?」と声を掛けられるまで、紫莉は思考の海に沈んでしまった。 喉を無理に動かし、なんとか「あぁ」と返すのが精一杯だった。
紫莉はごほんと喉を鳴らし、山岸に再度訊ねる。
「本部は四人を襲った連中の正体を掴んでいるのでしょうか?」
「さぁね、さっきも言ったけどアタシは何も訊かされてないわ」
山岸の言葉に嘘の臭いは感じられなかった。 彼女は本当にこれ以上のことを知らないのだろう。
顎に手を当てたたきなが、そっと会話に割って入る。
「……もしかしたら、例のハッキングの件と関係があるのかも」
「銃取引の連中ってことか?」
「はい、確証はありませんがその線が妥当かと」
確かにたきなの言う通りに思えた。 DAは現在も銃取引の連中の足取りを最優先で追っている。 自然に考えるのであれば、取引に関わっていたテロリスト達が犯行に及んだのであろう。
「ま、とにかくあんた達も単独行動はしばらく控えなさいよぉ。 夜間の外出は特にね」
「承知しました。 錦木にも伝えておきます」
「それならあいつにもうひとつ伝言があるわ──『今月の検診昨日までよ!』ってね!!」
額に青筋を浮かべた山岸の剣幕に圧倒された紫莉は、「しょ、承知しました……」と人形のように首を激しく上下させた。
必ず千束に伝えておこうと心の中で固く誓う。 彼女の怒りの矛先が、こちらに向くことだけは勘弁願いたい。
▼
山岸診療所を後にした紫莉達は、リコリコへ向かっていた。 冷房の効いた室内とは違い外は残暑による熱気に満ちていたが、来週にはこの忌々しい暑さも収まるらしい。 しかし、紫莉は薄っすらとした寒気が背筋から抜けなかった。
紫莉の脳裏にはの不可解な出来事──松下の一件を振り返っていた。
気を失ってしまった松下をクリーナーに一旦引き渡した後、紫莉達はジンに身柄を回収した。
陽が落ちかけた頃にジンは意識を取り戻した。 彼はミカが居ることに驚いていたが、だからとって焦る様子もなくいたって冷静だった。
流石プロだな、と紫莉が感心していると、ジンがこちらを一瞥して言った。
「お前の部下か……良い腕だ」
ミカは誇らしげに胸を張っていたが、紫莉は何処か引っかかるものがあった。
純粋に自分が捻くれているだけだろうが、立派な
ジンはミカと二人きりで何かを話すと、バイクに跨りを去って行った。
紫莉は遠くなっていく彼の背中を見つめながらこう思った。 ──できれば、二度と闘いたくない相手だな、と。
戻ってきたミカに、何を話したのかとそれとなく訊ねてみた。
内容を要約すると、三週間前ジンの元へある女性が松下の暗殺を依頼してきた。 条件が良すぎて嫌な予感はしていたが、依頼人の素性を詮索しないのが彼の流儀らしく了承したとのことだ。 しかし、その後にミカが語った内容は、全員の思考を凍りつかせるには十分だった。
ジンは二十年前に松下の妻子を手に掛けた──そう紫莉達は訊かされていた。 だが、実際にはそのような仕事を受けた記憶もなく、ミカもその頃は彼と常に行動を共にしていたと証言した。
それが事実なら、松下の復讐そのものが根本から崩れることになる。
場に重々しい空気が立ち込めた。 誰もが戸惑い、言葉を失っていた。 そんな中、クリーナーからの一報で事態はさらに混迷を深めることになった。
松下の身元を照合した結果、先々週都内のある病院から姿を忽然と消した薬物中毒者の末期患者であることが判明した。 しかし、彼は植物人間であり、自力で動くことはおろか、話すことも不可能という状態だったという。
「そんな! だって皆と喋ってたじゃない!?」
千束は声を荒げていた。 それに応えたのはクルミだった。
「第三者がネット経由で千束達と話してたんだよ。 おそらく車椅子に付いてたスピーカーやカメラ付きゴーグルを使ってリアルタイムでな」
要するに“松下”という存在は、誰かが作り出した虚像であった。
「じゃあ誰が……なんで私にジンを殺させようとしたの……? 一体、何の目的で……?」
千束は眉を八の字に下げ、ぽつりと呟く。
紫莉は何も答えられなかった。 答えようにも頭の中で上手く情報が整理しきれない。 それは他の誰もが同じだったようで、沈黙が場を支配していた。
そして、この疑問は今もなお、何ひとつとして解き明かされていなかった。
紫莉は、大きいため息を漏らす。
リコリコへ配属されてからというもの、不可解な出来事ばかり起きている。
千丁もの銃器流失、ラジアータを破った正体不明のハッカー。 地下鉄を脱線させたテロ組織、そして千束に人を殺させようとした操り人形の老人。
挙句の果てには、リコリスを狙った明確な攻撃。
最後のものに至ってはDAに対する宣戦布告と言っても過言ではない。 DA上層部や楠木は、事態を収拾させるため躍起になっているに違いないだろう。
仮に自分がまだファーストだったら、間違いなく前線に駆り出されていただろう。 それこそ、休む間もないほどに。 想像するだけで頭が痛くなりそうだった。
本部のリコリス達には申し訳ないが、比較的安全であろうリコリコに配属されたことは幸運なことだと紫莉は痛感した。 だが、少なからず敵に狙われる可能性はあるため、気を緩めるわけにはいかない。
「……由々しき事態ですね」
たきながぼつりと呟いたかと思うと、急に歩みを止めた。
紫莉も足を止め、腕を組んだまま立ち尽くす彼女に振り返る。
「どうした、いきなり」
「いえ、襲撃の話がどうにも気になって……何か私達に出来ることはないかと考えていたところです」
「出来ることって言ってもな……相手の正体すらわかってねぇんだぞ。 打つ手なんてないだろ」
「ですが、少しでもリスクを減らすことは重要です。 何か良い方法が……」
「あー、山岸先生が言っただろ? しばらくは物騒な仕事だけじゃなくて、豆の配達や保育園での民間業務とかも三人一緒に行動した方が良いだろうって。 まぁ流石に、寝る場所から飯まで一緒にするのは難しいけど──」
「──それです、紫莉!」
いきなり顔をずいっと寄せてくるたきなに、紫莉の心臓がびくりと跳ねた。
思わず反射的に身を引こうとしたが、たきなにがっしりと両肩を掴まれ、逃げる道はなかった。
たきなの整った顔を少し見上げるように眺める。 こうして間近で彼女の顔を見たのは初めてだった。
自分の野暮ったいくせ毛とはまるで違う、艶やかで絹のような黒髪。 彼女の内に秘められた芯の強さをそのまま映し出したかのような真っすぐな瞳。
リコリコ女性陣のレベルは高いと前々から思っていたが、彼女も例外ではない。
もし自分が男のままであったのならば目で追ってしまうだろう──そんな場違いな感想さえ抱いてしまうほどに。
って、俺は何アホなこと考えてんだ……
顔の火照りを誤魔化すように、紫莉は息をつきながら短く問い返す。
「……で、何がそれなんだ?」
「紫莉、今から家に戻って、着替えや銃のメンテナンス道具など必要な物資を持ってきてください」
「は?」
「だいたい二、三日分あれば十分かと。 善は急げ、です。 十五分後ここにまた集合しましょう」
「……全然話が見えてこないんだが。 てか、俺今日、店でやらないとい──」
「店長には私の方から連絡しておきます。 安心してください」
「そうじゃなくて……! そんなもん集めて何処行くんだよっ」
「千束の家です」
「え」
「時間がありません。 では、また後で」
たきなはそう言うと紫莉の反応などお構いなしに、踵を返して行ってしまった。
呆然とした表情で遠ざかっていく彼女の背中を眺める紫莉。 我を取り戻した時には、既にたきなの姿は見えなくなっていた。
「何なんだよもう、意味わかんねぇ……」
紫莉は頭をがしがしと搔きながら、しばらくその場に立ち尽くすのであった。
▼
「リコリスを狙った襲撃事件……ねぇ」
部屋の主である千束は、アイスコーヒーをストローですすりながら懐疑的に呟いた。 寝起きから間もなかったのか、パジャマ姿だった。
テーブルを挟んで反対側に立っていたたきなが真剣な表情で頷く。
「はい。 四人とも単独任務中大勢に襲われたそうです」
「な~んでその子達がリコリスってバレてんだぁ?」
「それはわかりません……ラジアータのクラッキングの件と関係してるのかも」
「そっかぁ。 私達も支部所属とはいえ、いつ襲われるかわかんない状況にあるのは間違いないね」
「その通りです。 ですから、二十四時間常に行動を共にしていれば安全というわけです」
「つ・ま・り。 ウチにお泊まりするってことだよね! くひひ、賛成賛成、大賛成っ。 紫莉もそう思うでしょ!?」
千束は喜色満面の笑みを浮かべたまま、話を振ってきた。
実に千束らしい反応だった。 おそらく彼女の中では、襲撃を受ける危険に怯えるよりも、突如決まったお泊まり会への喜びの方が強いのだろう。
物騒事には慣れているのか、それとも単に楽観的なだけなのか、きっと両方なのだろうと紫莉は心の中で思った。
そして、話の腰を折るようで悪いと思いつつ、自分の意見ををはっきり伝えておくことにした。
「断る」
「うんうん、紫莉も賛成だよねぇ──え……?」
「断る」
ぴしっと場の空気が張り詰める気がした。 千束は笑顔のまま固まり、たきなに至っては信じられないものを前にしたような視線を送ってくる。 だが、想定済み反応だったため紫莉はかえって安心した。
すぐさま千束がテーブルに手をつきながら立ち上がる。
「えぇー! なんでなんでなんでさぁ! 今のは肯定する流れでしょうよぉ!!」
「無理、嫌だ、断る」
「そ、そんなはっきり言わなくても……」
先ほどのテンションは何処へ行ったのか、千束は空気が抜けてしまった風船のように力無く椅子にへたり込む。
たきなが仕切り直すようにこほん、とわざとらしく咳払いをした。
「……紫莉、この案はあなたが言い出したはずですが」
「俺は例えばの話をしただけで、別に一緒に住もうなんて言ってない。 まぁ……勘違いさせたなら謝る」
「別に謝ってほしいわけでは……ですが、これが現状考えれる内最も最適な案です。 それとも他にいい案が?」
「それは……」
紫莉は、射抜くようなたきなの視線から逃れるように明後日の方を向く。
拒否する理由はいくつかある。 ひとつは単純に面倒くさいからだ。
一人で過ごすことを好む紫莉にとっては、他人と同じ屋根の下で暮らすのは気が重い。
数日、長くても一週間程度なら、まだなんとかなる。 しかし、今回のように安全が確保されるまでという曖昧な場合は、どうしても気が引けてしまった。
二つ目は自分が“元男”であることだ。 千束達のような美少女と同居するのは、大多数の男ならラッキーなイベントだと思うはずだ。 しかし、いざその現実に直面してみると、何処か後ろめたさを感じてしまう。
今の紫莉の身体には、かつての男の象徴など存在しないし、欲に駆られ間違いを犯すことはない。
それでも気分の問題というか、どうにか自分の中で折り合いがつけられないのだ。
「いやさ、シェアルームしたら始めは良いけど、段々相手の悪いところが目に付いたりしてきて仲が悪くなるって話があるだろ? それにお互いのプライベートの時間も大切だし」
「なんで早口なんですか……? ……まぁ、紫莉の言い分も理解は出来ます。 リコリス寮でも、大なり小なりリコリス同士の衝突は耳にしたことはありますし、中には一人部屋を強く希望する子も居たらしいですね」
「そうそう、まさに俺がそうなんだよ! 俺は見ての通りズボラだしな。 料理とか掃除も下手くそだし、洗濯物も綺麗に畳まない。 だから、一緒に生活なんてしたらきっと二人の迷惑──」
「ですが、理由にはなりません。 いいですか紫莉。 共同生活はあくまでも事態が収拾するまで。 もちろん生活の中で相手の悪い部分も見えてくるかもしれませんが、お互いに話し合って擦り合わせをしていけば乗り越えられるはずです。 嫌かもしれませんが、これも任務です」
「ぐっ……」
紫莉の決意がジェンガのように揺らぐ。 つい“任務”というワードに反応してしまい、「わかりました」と口を滑らせてしまいそうになる。
どうやら前世で培われた社畜気質は、体が変わったとしても精神にはしっかり残されているのだと実感した。
いつ間にか調子を取り戻した千束も会話に割り込み、たきなを援護する。
「そ、そうそう、これも任務って考えればさ。 それにズボラなのは私も一緒だからさ、ほら!」
「それは誇ることじゃねぇだろ……」
紫莉は部屋のリビングへと視線を向ける。
テーブル上には空になったマグカップや封を開けたお菓子が放置され、名作映画のブルーレイディスク至っては床にまで散らばっている。 お世辞にも整理整頓が行き届いているとは言えない。
だが、吐いた唾は呑めない。 紫莉はどうにかして妥協策を見出そうと、脳を回転させる。 平和かつ即座に結果が出る勝負へとたどり着いた。
それは──。
「じゃんけんだ」
「えぇ……?」
「じゃんけんしよう。 小細工無し、真剣一回勝負だ」
「あれだけ渋っていたのに、結局じゃんけんですか……」
たきなが苦言を呈すが、紫莉は訊こえないふりをした。 今の自分にはこれくらいしか思いつかなかった。
すると、千束は目を光らせ紫莉の案に賛同してきた。
「はいはいっ、私、私がする!」
「千束まで……はぁ、わかりました。 では、千束が勝ったら全員で共同生活、逆の場合には他のプランを考えましょう」
「よっしゃー! 紫莉、ぜったい負けないからね!」
腕をまくる動作をして気合を入れる千束に、紫莉は違和感を抱いた。 何か大切なことを忘れているような気がしたが、思い出せなかった。
……何か嫌な予感がする。 いやいや、気持ちで負けてどうすんだ。
紫莉は頬を手で軽く叩くと、拳を握り前に突き出した。 心理的に揺さぶってこようとしてくるのか、千束が不敵な笑みを浮かべる。
「ふっふっふっ、いいのかなぁ~引き返すのなら今のうちだよぉ~?」
「随分自信があるみたいだな。 男に二言は無い」
つい、昔の癖でそんなこと口走ってしまい、たきなが「……映画の見過ぎでは?」と呆れていた。
紫莉は小さく咳払いをして、再び訊こえないふりをした。
「よく言った! よーし行くぞぉ~、最初はグー!」
「じゃんけん!」
ぽん! と二人の声が重なる。
紫莉が出したのはパー。 そして、千束が出したのはパーを切り裂く無情なチョキだった。
「いよっしゃ! 私の勝ちぃ~!」
「ク、クソぉ……!」
飛び跳ねて喜ぶ千束の傍らで、紫莉は膝を着いて崩れ落ちる。
じゃんけんの勝率は統計で三割のはずだったが、日ごろから運の悪い紫莉には縁がなかった。
紫莉は、わなわなと身を震わせ拳を強く握り締める。
負けた現実を受け入れたくはなかったが、あれだけ啖呵を切った以上、もう一回など口が裂けても言えるわけがない。
「……約束は約束だ。 指示に従う」
「決まりですね。 では、早速家事の役割分担をを決めましょう。 これが共同生活を送るうえで公平な家事分担です」
前もって準備していたのか、たきなは一枚の表を壁に貼り付けた。
縦軸には『料理』『洗濯』『掃除』の家事の項目、横軸には月曜から日曜までの曜日が記されている。 各マスには三人の名前も記されており、一日ごとに家事を交代する仕組みが取られていた。
今日の俺の担当は……料理だと……? クソ、まじかよ。 一体何作りゃいいんだ。
紫莉は普段からろくに自炊をせず、大抵はコンビニやスーパーの総菜で済ませることが多い。 リコリコへ配属されてから取れる時間があったため、簡単なものを作ることはあるが、それでも人に振舞えるかは自信がない。
……最悪、見た目がアレでも火が通ってれば食えないことはないだろ。
紫莉は開き直りつつ、スマートフォンを取り出して『失敗しない簡単レシピ』と検索を始めた。
▼
熱したフライパンにオリーブオイルを入れ、油が温まったところに五、六ミリに切ったウインナーを投入する。 ウインナーにある程度の火が入ったタイミングで、輪切りにした玉ねぎ、縦切りにしたピーマンを入れた。
具材を炒めている間に、まな板や包丁など必要ない物は先に洗っておく。 腹が満たされた後に山盛りになった洗い物を見るのはうんざりする。 手早く洗いを済ませ、フライパンに目を向ける。
具材がしんなりしてきた頃合いに、適当に塩コショウを振り、ケチャップを追加してさらに炒める。 味見をしてケチャップの酸味が飛んでいることを確認した後、にんにくチューブを加えしっかりと混ぜ合わせる。
仕上げに湯切りしていたパスタを入れ込み、ソースが麺に絡むまで混ぜ合わせ、火を止めた。
紫莉はスプーンで再度ソースだけを掬い、小皿に移して味の最終確認をする。
ちょっと味が濃いか? ……まぁ、このままでいいか。 下手にいじったら余計変になりそうだ。
紫莉は用意しておいた三人分の皿に、パスタを均等に盛り付けた。
レシピの写真と見比べても、見た目はそこそこ近いはず。 ひとまずは安心だ。
皿をトレイに載せ、リビングへと持っていく。 ソファーに座ってお笑い番組を見ていた千束が、身を乗り出して皿を覗き込んできた。
「おぉ~ナポリタァンじゃん! おいしそぉー!」
「……味は期待すんなよ」
「またまたぁ、謙遜しちゃって~こんないい匂いしてるんだから大丈夫しょ!」
千束はそう言ってくれるが、それが逆にプレッシャーになる。
紫莉が内心ひやひやしていると、風呂掃除を済ませたたきながリビングへ戻ってきた。
「あ、食事の準備終わったんですね。 ありがとうございます」
「そっちも掃除お疲れ。 まぁ……この後洗濯が残ってるけどな……」
紫莉は壁に貼られたスケジュール表に視線を移す。 名前が書いてあるマスは紫莉とたきなの名で埋め尽くされていた。
紫莉がレシピを探し始めた直後、千束が家事スケジュールに不満を漏らした。 その理由は単純に「つまんない」というものだった。
困ったたきなが、再度じゃんけんにて役割を決めようと言い出したのが失敗だった。
三人でじゃんけんをしたのだが、初戦は千束が先に勝ち最終的な敗者はたきなとなった。 だが、ここからが問題だった。
二度三度と続けてやっても、千束が一番に勝ち、残った紫莉とたきなだけが勝負する事態となった。
たきなが「不正をしていませんよね……」と千束を疑っていたが、当の本人は「別に~」と何処を吹く風だった。
紫莉もそう思ったのだが、そもそも運要素しかないじゃんけんで不正を働くのは不可能に近い。 それに、千束が特段変な動きをしているわけではなかったので、言葉を喉に押し込んだ。
その後も勝負を続けた結果、紫莉は六割の家事をやる羽目になってしまった。 残りの四割はたきながやることになったが、千束とは全て免除という悲惨な結果に終わった。
……錦木の奴、絶対何か隠してやがるな。 クソ、次は絶対勝ってやる。
紫莉が決意を胸に刻んだところで、三人揃って「いただきます」と手を合わせた。
まず、千束がフォークでパスタをくるくると巻き取り、ぱくりと口に運ぶ。 その瞬間、顔をぱっと輝かせた。
「うんまっ! 紫莉、美味しいよ!」
「……本当かよ」
「ほんとほんと! ちょびっと塩っ辛いけど、全然気になんないし。 何て言うか、ザ・男飯! って感じ?」
紫莉はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
千束の表情からは噓の臭いは感じなかったので、おそらく本心から言ってくれたのだろう。
続いて、たきながフォークを口に運ぶ。 問題はこちらの方だった。
紫莉の中では、たきなは栄養さえ摂れれば何でも良いという食事には一見無頓着そうなイメージであった。 しかし、京都支部出身ということもあるのか、意外と味にこだわる節がある。
前にまかないで関西風のうどんを振舞ってもらったことあるのだが、彼女はしっかりと出汁から作っており、舌が肥えてない紫莉でも、明らかに味が違うことだけはわかった。
以前、テレビでたまたま見た一流シェフに味を批評してもらう番組のことを思い出しながら、たきなが口が開くのを待った。
「……確かに少し塩気が強いですが、全体のバランスは悪くありません。 美味しいですよ。 しいて言うならば、もっと味にコクが欲しいかも」
「そうか……砂糖でも入れればよかったか?」
「ですね。 それか牛乳やバターを入れてみては? もっとコクが出るはずです」
「なるほど……参考にする」
紫莉は麺とたきなのアドバイスを噛みしめながら、頭の中にアレンジ方法を書き留めた。
ソースを入れるとか、麺の種類を変えてみるのもありかもしれないな。 今度試してみるか。 いや、次も同じ料理だったら二人も飽きるかも……
紫莉が真剣な表情で次の献立を考えていると、千束がニヤニヤとこっちを見ていることに気づいた。
「……なんだよ。 口にソース付いてるのか?」
「いや~やっぱ紫莉ってすごい真面目だなーって思ってたとこ」
「どこがだよ」
「どうせ次の料理のこと考えてたでしょ? ま、それが君のいい所なんだけど、あんまり深く考えんなよ~ 自分が食べたい! って思うものを作ったらいいんじゃない?」
「食べたいもの……? パッと思い浮かばん……」
「まぁ、私は料理を作ってもらうだけでハッピーだしぃ。 そんな気を負わなくていいって!」
千束がにっこりと目を細め、紫莉にフォークを突き出してくる。 紫莉はため息をつきながら、「……努力する」とナポリタンの乗った皿に視線を落とした。
「うんうん、楽しみしてるっ。 ……って、たきな。 どったの? そんな皿をジーッと見て」
「あぁ、いえ。 これをお店で出せないかなと考えていました。 パスタならコストもそんなにかからないと思いますし」
「──それナイスアイディア! ナポリタンって、日本の喫茶店でも馴染み深いし、良いかもっ!?」
「……待て、まさか俺に作れって言うんじゃないだろうな」
紫莉がそう訊ねると、千束はウインクしながら親指を上に立ててきた。 どうやらそういうことらしい。
紫莉はため息をつき小さく肩をすくめた。 どうせ拒否したところで、話は勝手に進んでいくだろうから無理に食い下がらなかった。 ミカから採算が取れないと理由で却下されるのを祈るのみだ。
食事が終わったのち、紫莉は手早く洗濯に取りかかった。 自分では決して着用することのないような下着等を洗濯するのは、羞恥心で気が遠くなりそうだったが、心を無にして片づけた。
家事を全て終わらせ、乗り越えるべき問題は入浴だけになった。
紫莉は意を決して二人に切り出す。
「錦木。 上の部屋ってお湯は使えるのか?」
「ん? 一応使えるけど……どうしたの、改まって?」
「いや、さ……自分勝手な事言ってばかりで本当に申し訳ないが、風呂と寝る時は上の階で済ませて良いか?」
「何かあったの──あっ……」
千束は不思議そうに首を傾げたが、すぐに紫莉の意図を察したのか表情を曇らせる。 紫莉は服の袖を指でつまみながら話を続けた。
「いつも長袖で隠してるけど、この季節は流石に暑いだろ? 寝る時は俺も半袖とか着るんだ。 ほら、俺の体って傷跡が酷いだろ……? だから、二人の目に毒かな……って」
「っ! そんなことないよっ、私達は全然気にしない。 ね、たきな!?」
たきなもこくこくと頷きながら「そ、そうですよ。 傷跡のひとつや二つ何も問題ないです。 気にしないでください」と優しく諭してくれた。
「……ありがとう、そう言ってくれると助かる。 けど、二人は良くても俺がやっぱり駄目だ。 多分、変に意識しちまって逆に気をつかわせそうだし」
「……わかりました。 その二つは例外として認めます。 ……すみません、そこまで配慮が至らなくて」
「あ、謝るなよ井ノ上。 俺も早めに相談すれば良かった話だ。 あんたは何も悪くないだろ?」
紫莉は想像以上に二人が落ち込みそうだったので、慰めるように優しく微笑む。 上手く笑えているか不安だったが、彼女達は表情の影が薄くなったので大丈夫だろう。
自分には過ぎた仲間だと思いつつ、好意に甘えて上の階に続く梯子に向かうのだった。
▼
三人での共同生活が始まり数日が経過した。
紫莉は狙われてる対象であることを危惧して、気を引き締めていた。 だが、今のところ目立った異変は起きていない。
日中はリコリコでのカフェ業務や民間の依頼をこなし、夜は千束の家で映画を観たりして過ごすなど、言ってしまえば普段通りの平穏な日常が続いていた。 そして、今日も何事もなく一日が終わろうとしていた。
湯気立ちこめる浴室内で、紫莉は入浴していた。 前まではめんどくさいことを理由にシャワーだけで済ましていたが、湯船に浸かることで疲労の抜け具合が違うことに気づいてから、積極的に浸かるようにしている。
紫莉はとろんとした目つきで白くなった空間を眺めながら、夕食でたきなが作ってくれた関西風うどんのことを考える。
昆布やかつおの効いた出汁に油揚げやかまぼこを乗せたシンプルなものだったが、小食の自分でもお代わりをしたくなるほどの味わいだった。
今度作り方を教わろうかな、と思いつつ湯船から出た紫莉は髪を乾かすため洗面所へ向かう。 洗面所にて髪を乾かし、バスタオルを首にかけハーフパンツ一丁になりリビングに向かった。
上の部屋は、家具の類は一切置かれておらず入居前のようにがらんとしていた。
この部屋は、千束が過去の様々な経験からダミーとして使っているものだった。 彼女曰く「長く仕事してると色々あんのよぉ」と含みのある言い方をしていた。 民間の仕事とはいえ、中には反社会的勢力を相手にすることもあるため、恨みを買うこともあるのだろうか。
夜風に当たりたくなった紫莉は、部屋の電気を消しカーテンと戸を開けた。 流石にこの格好のままバルコニーには出なかったが、それでも風を浴びるにはちょうど良い塩梅だった。
やっと涼しくなってきたな。 ったく、一年中こんくらいの気温だったら最高なんだけどな。
火照った身体を初秋の風がゆっくりと冷やしていくのが、とても心地良かった。 これがサウナを愛好する人々が口にする“整う”ということなのだろうか。
紫莉が季節の移り変わりを感じていると、部屋の中から物音が聞こえた気がした。 耳を澄ませてみると、玄関の方から音がしていた。
何の音だ……?
紫莉が原因を確かめようと玄関の方へと足を運ぶ。 そして、ドアの前に立った瞬間、突然戸が開き、外から二人の若い男達が部屋になだれ込んできた。
紫莉が反射的に身を後ろに引いた時、バスタオルが床に落ちた。
「なっ……!」
「動くんじゃねぇ!」
紫莉は大人しく黒いブルゾンを着た男の指示に従う。 彼の手には拳銃が握られており、今まさにその矛先を向けられていたからだ。 視線だけを動かし、もう一人の茶髪男を見やるとそちらも同じ凶器を手にしていた。
ブルゾンは紫莉の顔をじろじろと覗き込んだかと思えば、首を傾げ相方とひそひそと話を始めた。 耳を澄ませ会話を盗み聞きしたところ「金髪」という単語が訊こえたので、彼らの狙いが千束ではないかと疑った。
紫莉は毅然とした口調でブルゾンの方に声を掛けた。
「……誰の差し金だ? 何が目的だ」
「黙ってろ、勝手に喋るんじゃねぇ。 ……ん? おい、よく見りゃこいつ女じゃねぇか、暗くて全然わからなかったぜ」
ブルゾン男が鼻で笑いながら見下してくる。 茶髪もつられるように口角を上げ、なめまわすような気持ちの悪い視線を送ってきた。
「まじかよ、俺も男かと思ってたぜ。 つか、全身エグい傷だな……気持ち悪りぃ……」
その言葉が、胸の奥に鈍く突き刺さった。
気持ち悪い、というたったひと言。 何の重みのなく吐き捨てられたそれは、紫莉の蓋をしていた感情を乱暴にこじ開けた。
──知らないくせに。 この傷がどうやって刻まれ、俺に何を背負わせているのかを知らないくせに。 それを笑いやがって……!!
忘れようとしていた負の感情が、決壊したダムのように心を満たしていく。
湧き上がるのは、相手に対する明確な殺意。 すぐにでも飛び掛かり、腕も脚をへし折ってやりたい衝動。
だが、目の前には銃口がある。 この状況で感情に身を任せて飛び出すのは、リスクが高すぎた。
紫莉は奥歯を食いしばり、怒りを喉の奥に押し込めた。
……いや、こいつらは多分素人だ。 どうにかして気を逸らせれば……
ブルゾン男の方はこちらを常に警戒していたが、もう一人は部屋の捜索に夢中になっている。 隠し通路の存在を知らない彼は、悪態をつきながら苛立った様子で部屋中を歩き回っていた。
「おい、金髪女がいないぞ! 何処に行きやがった!?」
「でも、確かにこの部屋に入ったはずだ! お前も見てただろっ」
痺れを切らしたブルゾンは、声を荒げ紫莉の額に銃口を押しつけてきた。
紫莉は、乾きつつある喉を動かし生唾を呑みこむ。 もう少し様子を見て仕掛けたかったが、これ以上引き延ばすのは危険だと本能が訴える
意識を集中させ相手をしっかりと見据える。 そして腕に飛び掛かろうとした──その瞬間だった。
「──私に何か用?」
「は……?」
この緊迫した空気には合わない涼やかな声が部屋に響いた。 紫莉を含めた全員の動きがピタリと止まる。
次の瞬間、壁から飛び出た影が、迷いも躊躇も無くブルゾン男の脇腹を蹴り付けた。
「ぎゃっ!!」
鈍い音を立てた男の身体は宙に浮き、受け身も取れぬまま壁に叩きつけられる。 持っていた拳銃が床を滑るよう転がっていく。
慌てた様子の茶髪が「な、なんだ!?」と叫ぶ。 同時にどん、と空気を震わせる音が鳴り響き、彼は腹を押さえながら背を丸めた。
「に、錦木!?」
「もう大丈夫だよぉ、紫莉。 ──すぐに終わらせるから」
千束はにへらと笑ったかと思えば、即座に表情を引き締めると不法侵入者を睨みつける。 彼女は腕を回しながら、ゆったりとした足取りでチンピラ達に歩み寄る。
そして、その凛々しい彼女の横顔を見た途端、紫莉の胸は今まで感じたことない高鳴りを覚えた。
「さぁて、年頃の女子の部屋の土足で入り込んでくる悪い輩には、しっかりとお灸を据えないとなぁ」
「このアマぁ……おい、撃て!」
ブルゾン男に急かさせる形で、茶髪が拳銃を発砲する。 しかし、千束相手には無意味な行為であり、あっという間にマガジンを撃ち尽くていた。
二人はあり得ない、といったように目を見開き、サッーと顔の血気を引かせる。
「な、何だこいつ……何で当たらねぇんだよ……」
「もう終わり? じゃ、今度はこっちの番!!」
チンピラ二人組は明らかにパニックになり、部屋中を逃げ回り始めた。 そんな彼らに千束は非殺傷弾の雨をお見舞いする。
肉食動物が草食動物を狩るがごとく、一方的な蹂躙劇が目の前で繰り広げられた。
「あらよっと!」
「ぐわあぁぁぁっ」
千束の腰が入った蹴りが再び炸裂し、男達の身体が宙を舞う。 そのままバルコニーの窓を突き破り、彼らの姿は完全に見えなくなった。
外から「うわあぁぁ、逃げろぉ!」と悲鳴が訊こえたのを最後に、部屋は水を打ったように静かになる。
紫莉は呆けた表情でぺたんと床に座り込んでいた。 瞳の先はバルコニーで銃を構える千束の姿しか映っていない。
かっこいい、と紫莉は素直にそう思う。 まるでピンチの時に颯爽と現れるヒーローみたいな千束に完全に見惚れてしまっていたのだ。
振り返った千束を目が合うと、彼女はいつも通りの穏やかな笑みを浮かべた。 彼女は玄関の方へ足を運び、紫莉が落としたバスタオルを拾ってきた。 そして、そのままタオルを背中にかけてくれた。
あ、ありがとう、と紫莉は礼を言うと同時に、今の自分の格好を思い出し慌てて身を丸める。 今の姿を何故か千束に見られたくなかった。
「……悪い、すぐに服着るから」
「気持ち悪くないよ」
「え……?」
「傷、全然気持ち悪くないよ。 それはさ、紫莉が今まで沢山頑張ってきた証だもん。 ──それを笑ったあいつらが許せなくて、ついやりすぎちゃった」
てへ、と舌を出しておどける千束。 確かにあの程度の敵を追い払うのに、弾を使いすぎていたように今は思う。 おかげで一部の壁紙はボロボロに剝がれていた。
だが、それほどまでに千束は怒りを感じていたのだ。 自分のために怒ってくれて、心が傷ついた自分に寄り添ってくれる。
今までない扱いを受けた紫莉は、胸が締め付けられる感覚を覚えていた。 苦しいわけではない。 むしろ、正反対の心地の良ささえあった。
なんだ、この感覚。 やばい……錦木の顔が直接見れない……
風呂で蓄えた熱などは、すっかり冷めているはずなのに、全身が火照るように熱くなってきた。 こちらの様子がおかしいことに気づいた千束が「ど、どったの?」と戸惑っていた。
紫莉は恥ずかしさを隠したくて、バスタオルを頭から被り部屋の隅に纏めていた衣服を指差す。
「……ごめん、それ取ってくれないか?」
「う、うん。 わかった」
千束が取ってくれた服にいそいそと袖を通す。 念のため用意していたジャージも羽織っておいた。
すると、騒ぎを聞きつけたたきなが現れた。 部屋の惨状を目の当たりにした彼女は「な、何があったんですか……?」と訊ねてくる。
千束が「あー」と頭を掻く。
「そこら辺のチンピラが押しかけてきただけ。 あ~あ、また窓注文しなきゃ……」
「このために複数のセーフハウスを持ってるんですね……」
「まぁね~でも、あんな連中ならいいんだけど、昔はリリベルもよく来てたから」
「リリベル?」
「ん~男の子版リコリス、みたいな。 おっかないよぉ」
「普段何してるんですか、それ……?」
「さぁ? よく知らな──って、どしたの紫莉? そんな首を横に振っちゃって……あ」
こちらに意図を察してくれたのか、千束は口を手で塞ぐ。 ほとんど喋ってしまった後なので、全く意味を成さないかもしれないが、今のたきなにこれ以上の情報を入れるのは危険だ。
たきなは不思議そうに髪の毛を揺らす。
「どうしたんですか、二人とも? 急に黙り込んで……」
「な、なんでもない。 それより、破片を片づけよう。 踏んで怪我したら危ないし」
「えぇ……わかりました。 そう言えば紫莉、寝る場所がこんなになってしまった以上、下に来るしかないですね」
「へ?」
「やはり、お互いの目が届く範囲に居るべきです。 我慢してください。 これは貴女のことを思ってです」
「……了解」
紫莉は観念して首をがっくりと下げた。
想定外の展開になってしまったが、黙って指示に従うしか道は残されていなかった。
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