蜘蛛の糸を掴めたら   作:SHALC7

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大変遅くなり申し訳ありません。
八話 後編になります。
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八話 後編

 アラーム音が紫莉の鼓膜を叩く。 締め切ったカーテンの隙間から差す朝日までも、安眠を妨害してくる。

 紫莉は足で布団を蹴り飛ばし、目覚まし時計を手探りで叩き止めた。

 

 

「ふわぁ……もう朝か……」

 

 

 まだ布団の中に潜り込んでいたかったが、いつまでも寝ていると叱られてしまう。 這いずるように布団を出て閉ざされているカーテンの前まで行く。

 両開きのカーテンを一気に開けると、まばゆい日光が部屋を満たした。 今日も清々しい快晴だった。

 朝日を浴びながら背伸びをしていると、漂う香ばしい匂いに鼻をくすぐられる。 もう既に朝食の支度が進んでいるようだった。

 寝室から出てキッチンに向かうと、包丁がまな板を叩く軽快な音が訊こえてきた。 背を向けて立っていた人物が振り返り、柔らかな声を掛けてくる。

 

 

「おはよう。 朝ご飯できてるわよ」

「おはよう──母さん」

 

 

 桂依は穏やかな笑みを浮かべ、「ほら、早く顔と口を洗ってきなさい。 料理冷めちゃうわよ」と言い調理に戻った。 

 紫莉は手早く洗顔を済ませ、先に席に着いている桂依と向かい合うように座った。

 朝食のメニューはトースト、目玉焼きにウインナーにサニーレタス。 平凡なラインナップであるが、どこか眩い光景に思えた。

 いただきます、と手を合わせ、始めにトーストを一口かじる。 咀嚼する度に豊潤な小麦と溶けたバターの香りが口内に広がった。 

 続いて目玉焼きに箸を伸ばす。 目玉焼きに何をかけるかは、人によって様々であるが紫莉はめんつゆ派だ。 甘さと程よい塩気が食欲を掻き立ててくれる。 半熟の黄身にウインナーをくぐらせるのがたまらなく美味だ。

 反対側に座っている桂依が、こっちを見ていることに気づいた。 彼女はテーブルに頬づけをして慈母のように微笑んでいる。

 

 

「どしたの? 何かついてる?」

「ふふっ、そうじゃなくて紫莉ったらあまりにも美味しそうに食べるんだもの。 何だか嬉しくなっちゃって」

「だって、めっちゃ旨いもん。 凄く安心するって言うか、これを毎日食べられるなんて俺は幸せ者だよ」

「ありがと、頑張って作った甲斐があったわ」

 

 

 紫莉は頬が熱くなるのを感じた。 誰かと囲む食卓がこんなにも心が温かくなるのは、記憶をいくら探しても思い当たらない。

 

 ほんと母さんの料理は最高だな。 昨日の晩飯だって──あれ……? 昨日何食べたんだっけ……? 

 

 紫莉は眉をひそめた。 カレーだったか、ハンバーグだったか。 どれもしっくりこなかった。 思い出そうとすればするほど、記憶の霞が濃くなり曖昧になっていく。

 首を傾げた桂依が「どうしたの? 手が止まってるわよ」と言ってくれるまで、瞬きするも忘れてしまった。

 紫莉は「な、何でもないよ」と慌てて取り繕い、ウインナーを口に放り込んだ。

 ──味がしなかった。 肉の濃厚な味わいも香辛料の風味も感じない。 味覚と嗅覚という機能が突然死んでしまったかのように。

 

 

「紫莉……? やっぱりどこか悪いんじゃないの? 顔色も悪いわよ」

「い、いや、大丈夫だよ! 旨すぎて噛みしめてただけ。 はは……」

「……そう? なら、良いけど。 それじゃ最後にこれを食べて。 あなたの大好物よ」

 

 

 桂依が次に出してきた一品は、白く湯気が立つコーンスープだった。

 淡い黄色の液体にベーコンやクルトンが浮かんでいた。 おそるおそる鼻を近づけてみたが、これは甘い香りを感じることができた。

 紫莉は内心安堵した。 先ほどの味覚異常は、きっと気のせいだろう。

 

 

「……いただきます」

 

 

 紫莉はスプーンでスープを掬い、唇に運んだ。

 舌に広がったのは甘味でも香ばしさでもなかった。 率直に言ってしまえば、血を連想させる鉄の味だった。

 

 

「ごほっ……!」

 

 

 鼻を突き抜ける生臭さに耐えられず酷くむせてしまう。 胸の奥からせり上がってくる吐き気に、手が震えてくる。

 

 

「か、母さん、何だよこれ……! 何入れたんだよ!」

「何って……あなたが用意してくれた具材しか入れてないけど」

 

 

 きょとんと首を傾げた桂依に、紫莉は肩透かしをくらった気分になる。

 

 

「は、はぁ? 俺が用意したって、どういう……」

「よく見てみなさい」

 

 

 紫莉は言われるがまま視線を落とす。 そして自分の目を疑った。

 いつの間にか淡い黄色の液体は、どす黒く変色し泡立っていた。 クルトンだと思っていた物体は歯になり、ベーコンは剥がれ落ちた皮膚片に変わり果てていた。

 

 

「ひっ……!」

 

 

 目の前の凄惨な光景に声が出なかった。 反射的に身を引いてしまい、足をもつらせ椅子から転げ落ちてしまう。

 

 

 

 意味が分からなかった。 さっきまで平穏な食事だったのに、どうしてこうなってしまったのか。

 それに母の意味深な言葉もだ。 彼女は紫莉がこのゲテモノを用意したと言っていたが、あいにく身に覚えもカニバリズムの趣味もない。

 紫莉は荒くなる息を抑えつけ、桂依を睨みつけた。 聞きたいことが次々と浮かんできたが、ひとまずは訳を訊ねるのが先決だ。

 

 

「……笑えない冗談はよしてくれ。 こんな物俺が用意する訳ないだろっ!」

 

 

 腕を振るいテーブル上にあるものを全て払い落とす。 食器が割れる音が部屋に響きわたり、木目調のフローリングが赤黒く染まる。

 すると、笑顔だった桂依が能面のように感情を感じさせない無表情が一変した。

 

 

「あーあ、もったいない……」

 

 

 桂依は抑揚のない口調で告げると、ゆっくり椅子から立ち上がった。 迫ってくる彼女に紫莉は身構えるが、横を素通りされる。

 桂依は冷蔵庫の前で立ち止まった。

 

 

「紫莉ったら、本当におてんばに育っちゃったわね。 ほら、早く席に戻りなさい。 もう一品作り直してあげるから」

「っ! ふざけんな、料理とかどうでもいいから答えろ。 何で人の肉なんか──え」

 

 

 紫莉が話している最中に、桂依は冷蔵庫の戸を開けた。

 冷蔵庫の中は赤黒い血で染まり、滴る液体が棚の隙間からこぼれ落ちていた。 どの棚を見ても、血まみれの肉塊や白く乾いた骨が無造作に積み込まれていた。 

 紫莉は酷い悪臭に胃の中身が裏返りそうになる。 歯がガタガタと鳴り、足から力が抜けへたり込んでしまう。

 そして、最上段に置いてある生首を見てしまった。

 山村。

 二度と顔も見たくない。 死してなお、紫莉の心の奥底に住み着き、精神を犯してくる疫病。

 紫莉は思い出した。 母親に売られた日に食べたコーンスープ。 山村の狂気を押し付けられた地獄の日々とこの男を自らの手で殺めてしまった事実を。

 

 

「う……うわぁあああああああああああ!!」

「ああ、もう! うるさい! 静かにしろ!」

 

 

 桂依の怒声と同時に鋭い痛みが頬に走った。 

 先ほどまでの穏やかな雰囲気は消え失せ、般若のような形相をした母の姿があった。

 母は機嫌が悪いと、暴力を振るってきた。 殴る蹴るは当たり前、お腹がすいたと言えば、いつ買ったかもわからない食材を無理やり口に押し込んできた。

 かつての恐怖の象徴が目の前に蘇ってしまった。

 紫莉は血相を変え、桂依の足に縋り付く。

 

 

「ご、ごめんなさい。 もうわがまま言いませんから、許してくださいっ」

「せっかく忙しい私が、作ってやったのに! もう一回作ってやるって言ってるのに! 何でアンタはそんなこと言うの!?」

「ごめんなさい……ごめんなさい」

「謝ればいいってもんじゃないわよ。 恩人の山村さんまでこんなにしちゃって。 どう責任取るつもり?」

「な、何でもします! 家事も洗濯も料理も、お金もどうにかして稼いできます。 だから……だから、許してください……」

「あはは! 家事はともかく、アンタみたいな何の才能も無いクズがどうやってお金稼ぐってのよ。 どうせ安い時給でちまちましか稼げないでしょ。 ──あー、もう。 だったらさ、殺し屋にでもなれば? もう一人殺ってるんだし、一緒でしょ」

「……っ!!」

 

 

 どんな侮辱も歯を食いしばって耐えてきた。 作り笑いで流してきた。 自分は確かな愚者だと認めている。 

 だが、人の道は踏み外さないことだけは固く誓っていた。 それこそが“倉木紫莉”という存在を保つだけの唯一の手段だった。

 それをこの女は簡単に踏みにじった。 苦労して積み上げた積み木を蹴っ飛ばすような感覚で。

 紫莉の中にあった恐怖や自己嫌悪は既に消え去っていた。 代わりにあったのは、どす黒い負の感情──母に対する明確な殺意だ。

 紫莉は目を見開いたまま、桂依を憎悪と憐れみが混じった視線を向けた。 すぐに感情的になり、自分より弱い相手を威圧することしかできない母を本気で憐れんだ。

 桂依は不快そうに舌打ちをすると、調理に使っていた包丁を手に取る。

 

 

「何よその目は?」

「……」

「……ふざけんじゃないわよ。 そんな目で私を見るなぁあああああああ!」

 

 

 桂依はヒステリックな雄たけびを上げて包丁を振り下ろしてきた。

 紫莉は両腕を交差させ、桂依の一撃を受け止める。 そのまま左へ両腕を移動させ相手の姿勢を崩した。

 床に手をつく桂依。 紫莉はすかさず彼女の横顔に右拳を叩きつけた。

 桂依は情けない声を漏らし、フローリングに倒れ込む。 彼女の手から離れた包丁が床を滑っていく。

 紫莉はそれを目で追っていた。 転がるように移動し、包丁を手に取った。 そのまま桂依の腹の上に馬乗りになり、両手で掴んだ包丁を胸あたりを目がけて振り下ろした。

 何度も、何度も何度も。 今までの恨みつらみを全て発散するように。 顔や着ている服が真っ赤に染まっても気にも留めなかった。

 最後に全体重を乗せて刃を突き立てようとした。 急に起き上がってきた桂依に顔を掴まれる。

 

 

「……ほら……やっぱり」

 

 

 桂依は血にまみれた口を三日月状に曲げた。

 

 

「アンタは立派な人殺しよ」

 

 

 

 ▼

 

 

 

 世界に光が戻る。 

 紫莉の視界に飛び込んできたのは、見慣れた天井だった。 掛け布団を跳ねのけ、上体を起こして首を左右に振る。 

 喫茶リコリコの休憩室だった。

 一瞬だけ安堵に身が包まれるが、すぐに胸が激しく波打ちだした。 胃液が逆流する焼けつく痛みと吐き気に襲われる。

 紫莉は芋虫のように背を丸めた。 胸元を握り締め、皮膚に爪が食い込むのも構わず力を込めた。 鋭い痛みと不快感で勝手に涙が出てくるが、歯を食いしばって耐える。 

 そうでもしなければ、部屋中を汚物まみれにしてしまうことになる。 

 布団に顔をうずめ、深い呼吸を何度も繰り返す。 次第に吐き気は和らいできた。 さらに指に力を入れ、必死に波が過ぎ去るのを待った。 

 ようやく波が引き、紫莉は布団から顔を離すことができた。

 額には玉のような汗が浮かび、着ていた服も水を被ったようにぐちゃぐちゃだった。

 

 

「クソ……何で今更、あんな女の……!」

 

 

 紫莉は声を震わせ吐き捨てた。

 母の言葉が耳の奥で残響のように響く。

 誰のせいでこんな目に遭っている。 誰のせいで命を奪うなどという愚かなことをさせられている。

 全て金に目が眩んだあの悪魔のせいだ。 彼女にもう少しでも良心があれば、夢の前半のような穏やかな人生を送れていられたかもしれない。 そう考えれば考えるほど、母に対する憎悪は膨れ上がっていく。

 叶うのであれば、現実でも一発鼻っ面を殴りつけてやりたい。 いや、そんなものでは生温い。

 やるならば徹底的に。 それこそ母の人生を終わらせてやることも──

 

 やめろ、やめろやめろやめろやめろ! そんなことを考えるな! 俺はもう、誰も……! 

 

 全身の毛穴から脂汗が噴き出そうになった時、襖が開く音がした。

 

 

「おー起きたか」

 

 

 押し入れのパソコンブースにいたクルミが声を掛けてきた。 

 紫莉は弾かれるように首を回し、息を呑んだ。 もしかすれば、苦しんでいる声やもがいている醜態を見られたかもしれない。

 紫莉が固唾を呑んでいると、クルミは「何だよその反応は? 寝ぼけてるのか」と普段と変わらない様子だった。

 彼女の反応に紫莉は内心胸を撫でおろした。 恐らくであるが、バレていないだろう。

 紫莉はあくまで平静を装い、手を振った。

 

 

「い、いえ。 起きたばっかりで頭が回らなかったので、すみません」

「……ふぅん。 まぁ別にいいけど」

「そ、そう言えば今何時ですか? まだ営業してます?」

「いつも通り閑古鳥が鳴いているよ。 それより、まずシャワー浴びてこい。 凄い汗だぞ」

「……そうします」

 

 

 クルミに言われるがまま、紫莉は身体に纏わりつく嫌な汗を洗い流すため、浴室に向かった。

 蛇口を捻ると、拡散された冷水が降り注ぐ。 水が胸にできた新しい傷に触れた瞬間、意志に反して体が僅かに震える。

 呼吸は乱れ、全身の血管が一気に収縮しているのが分かる。 だが、紫莉は温水に切り替えることも蛇口を閉めることもしない。

 この冷たい水で、胸の奥に溜まったざらざらとした感情を削ぎ落とすことが今の紫莉には必要だった。

 紫莉は眠りにつく前の記憶を振り返る。

 マンションに連行された後、二人にこっぴどく叱られた。 今回ばかりはいつも優しい千束も簡単には許してはくれなかった。 

 言い訳を並べてもすぐに論破され、こちらが黙っていれば向こうも一言も発さないという、地獄のような空気だった。 妙な既視感があったのは、前世でも同じ経験をしたからだろう。

 結果的に許してはもらえたが、条件としてスマートフォンにGPSのアプリを入れること、電話して三コール以内に出ない場合は危険な状況にいると見なすと告げられた。

 あまりに束縛的な条件に、紫莉は緩和できないかと恐る恐る交渉してみたが、千束に「何か問題?」と満面の笑みで訊かれ何も言えなかった。

 けれど、頭を冷やして再認識できた。 自分が愚かなことをしてしまったことを。 余計な心配を千束達にさせてしまい、彼女達の身を必要以上に危険に晒してしまった。

 全て自分のせい。 勝手に飛び出したことも、一人でドローンを追跡することを選択したのは他でもない自分の判断だ。

 少し気が楽になった所で蛇口を閉めた。

 浴室を出て手早く体を拭き、ベージュの制服に袖を通して身なりを整える。 鏡の前に立ち心の中でそっと呟く。

 

 過去がなんだ、あの女がなんだ。 俺は変わると決めたんだ。 変わらないといけないんだ……

 

 頭は軽くなったはずなのに、体は鉛のように重かった。 それも寝不足からくる倦怠感のせいにした。

 紫莉が休憩室に戻ると、クルミが声を掛けてきた。

 

 

「さっぱりしたか?」

「ええ、おかげさまで」

「風呂は良いよな。 身も心も綺麗にしてくれる。 あーあ、なんか久しぶりに温泉行きたくなってきたなぁ」

「クルミさんは本当に風呂好きですね。 今は無理かもしれませんが、いつか行けるといいですね」

 

 

 紫莉が話を合わしながら、脱いだ衣服をバッグに詰め込む。 クルミはため息混じりにぼやいた。

 

 

「まったく、堂々と外を歩ける日が早く来て欲しいよ。 それと紫莉、ひとつ訊きたいことがある」

「はい? 何でしょうか」

「──随分とうなされていたが、本当に大丈夫なのか?」

「ひゅ……」

 

 

 あまりにも不意だった。 そのせいで喉から変な音が鳴ってしまった。 せっかく綺麗に流したにもかかわらず、嫌な汗がどっと全身から溢れ出る気がした。

 まさか見られてしまったのか。 情けなく呻いていた声も、見苦しくうずくまっていた姿も全て。

 

 

「な、何のことですか? 別に俺はうなされてなんか……」

「嘘つけ。 あれだけ酷い寝汗かいてたのは、どう考えても異常だぞ。 悪い夢でも見たんだろ」

「だから、別に何も……!」

 

 

 紫莉は語尾を強めて否定するが、声が裏返ってしまった。 これでは慌てているのがまる分かりだ。

 クルミはじっと見据えて、少し間を置いてから口を開いた。

 

 

「なら千束に報告してもいいな。 お前が胸を抑えてのたうち回っていたってな」

「なっ……!」

 

 

 クルミの脅しに紫莉は言葉を失った。 全て見られていたのだ。 

 そんなことをされてしまっては、千束に何を言われるかわかったものではない。 外回りの任務から外され、店の内勤だけに戻るのは絶対に嫌だ。

 紫莉は悩んだ末、他言しないことを条件にと重々しく唇を動かした。

 

 

「……母親の夢でした」

「母親? でも、お前達リコリスは孤児のはず──いや、すまん、そういうことか」

 

 

 クルミは、何かを察したのか言葉を途中で止めた。 申し訳なさそうに視線を逸らす。

 おそらく彼女は勘違いをしているのだろう、と紫莉は思った。 ここで話を終えても良かったが、この際なので少し吐き出しておくことにした。

 

 

「おそらくですが、クルミさんの想像は外れです。 俺の母は立派な人間じゃありませんでした。 なんせ、実の子供を金で売ったんですからね」

「……売っただと? どういうことだ」

「当時の生活は困窮していました。 母は朝から晩まで働き、日銭を稼いでいました。 始めは良かったですが、ストレスからか段々とおかしくなって。 夜遊びに出かけては、朝まで帰って来なかった日もあれば、帰ってきたかと思えば男を連れ込んだり、酔って暴力を振るってくる日も珍しくありませんでした」

「……絵に描いたようなクズだな」

「ええ、本当にろくでもない親でした。 ある日、一人の男の前に連れて行かれました。 そこであの女ははっきりと言ったんです『この子を売ります』って。 あの時の金を受け取った時の表情は絶対に忘れません。 死ぬまでね」

 

 

 紫莉は吐き捨てるように言葉を重ねると、ぐっと口を閉ざした。

 誰にも打ち明けたことのない過去を初めて人に話した。 

 少し楽になるかもと思ったが、クルミの反応を見る限り失敗だ。 面白みのない身の上の不幸話など、誰が訊きたいというか。

 部屋は気まずい沈黙に支配された。 

 クルミはただ「……そうか」と呟いただけで、それ以上は何も訊ねてこなかった。

 その時、クルミの背後にある襖がすっと開いた。 二人の視線が自然とそちらを向く。

 

 

「あ、紫莉起きてたんだ。 よく眠れた?」

 

 

 襖を開けたのは千束だった。 またもや話を訊かれたのではないかと、内心たじろいでしまったが、千束は「ど、どったの? そんな固まっちゃって」と首を傾げていた。

 紫莉は手のひらを振りながら、何でもないといったように応えた。

 

 

「え~なになにぃ、絶対何か隠してるでしょ~」

「そ、そういえば千束、伝えたいことがある。 ほら、地下鉄襲撃犯とリコリス襲撃犯は例の銃を使ってるみたいなんだ」

「例の?」

「これだよ」

 

 

 クルミがキーボードを叩くと、モニターに写真が表示された。 篠原沙保里が偶然撮った銃取引の現場を押さえたものだ。 千束は合点がいったように「あぁ」と小さく頷く。

 ふと、紫莉は浮かんできた疑問を口にする。

 

 

「あの時、DAをハッキングしてきたハッカーはこいつらの仲間なのでしょうか?」

「え?」

「ずっと考えていたんですが、これほど大規模なテロを仕掛けてきたので、それぞれが独立した組織とは考えにくいので」

「あ、あぁ~そ、それはどうだろうかなぁ……?」

 

 

 急にクルミの歯切れが悪くなった。

 

 

「どうかしましたか。 ……もしかして犯人に心当たりでも?」

「うぇっ!? い、いや~心当たりというか、何と言うか。 ち、ちなみに何だが、もし犯人のハッカーを見つけたらどうする。 やっぱりDAに引き渡すのか……?」

「そうですね。 最終的な判断は上に委ねますが、個人的には指の骨を全部へし折ってやりたいですね。 ──二度とキーボードが触れないように」

「そ、そうか~ ははっ……リコリスは物騒だなぁ」

 

 

 怪しい、この人は何かを隠している。 紫莉は率直にそう思った。

 少しカマを掛けるつもりで強い言葉を使ってみたが、明らかにクルミの動揺が大きくなった。 現に今も視線が泳いでいる。

 先ほどの仕返しではないが、逆に問い詰めてやろうかと一瞬思ったが、千束がいる手前止めておくことにした。

 千束が間に割って入る。

 

「ちょいちょい、紫莉ぃ。 真顔で物騒なこと言わないのぉ。 そういえばさ、私も思ったことあるんだけど、相手はどうやってリコリスって識別してるのかな?」

「……確かに俺達と同年代は山ほどいる。 奴らはその中からピンポイントでリコリスだけを当てている。 何か特徴を掴んでいると考えた方が自然か。 クルミさんはどう思いますか?」

 

 

 紫莉はあえてクルミに話を振ってみる。

 クルミは既に落ち着きを取り戻しており、「そうだなぁ」と真剣な表情で思案していた。

 

 

「まだ、確証は無いけど、その制服がバレてるんじゃないのか?」

「おぉ、なるほど」

 

 

 千束が拳で手のひらをポンと叩く。 

 納得できる仮説であるが、それ故に紫莉は渋い顔を作った。

 

 

「……もし、そうだったとすればかなり厄介ですね。 この制服を着てないとリコリスとしての活動は出来ないし……」

「ふっふっふっ」

「んだよ錦木、わざとらしく笑って…… 良い案でもあるのか?」

「まぁねぇ~後で見せてあげるよ~」

 

 

 そう言い残して千束はホールの方へ戻って行った。

 正直不安しかなかったが、一旦この件は置いておくことにした。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 日も暮れた頃合いだった。

 紫莉は、華やかな香りの立つコーヒーを一口すすった。 

 野性味のある酸味が口いっぱいに広がり、コーヒーならではの深いコクが余韻を残す。

 雑味なども一切ない。 自然と気分を落ち着かせてくれる一杯だ。

 

 

「美味いか?」

 

 

 ミカの言葉に紫莉は深く頷く。

 

 

「はい、とても。 これは……キリマンジャロでしたか?」

「その通り。 キリマンジャロは世界三大コーヒーのひとつで、広く親しまれている。 私も好きな銘柄さ」

「へぇ、そうなんですね」

 

 

 ミカの解説に耳を傾けながら、紫莉はカップを唇まで持っていく。 何度飲んでも美味だ。 豆の良し悪しは紫莉にはよくわからない。 きっと彼の腕前が良いのだろう。 

 このまま優雅なコーヒーブレイクにしたかったが、先ほどからどうにも気になることがあった。

 視線を横にずらすと、目を閉じているたきながいた。 彼女は腕を組んだまま、うーんと小さく唸っていた。 

 紫莉は上げかけたカップを置き、たきなに声をかけた。

 

 

「どうした井ノ上?」

「……絶対におかしいです」

「え、何が?」

「じゃんけんですよ。 紫莉もおかしいとは思いませんか。 じゃんけんで勝てる確率は三割のはず。 なのに、一度も千束には勝てない」

「あぁ……そのことか」

 

 

 紫莉もおかしいとは思っていた。 たきなの言う通り、十回やれば三回は勝てるはずなのにそれが一度もない。 現に紫莉の敗北数は十を超えていた。 その時点で挑むことはやめにした。

 たきなは違った。 ことあるごとに勝負を持ち掛けてはいるが、結果は紫莉と同じであった。 それでもまだ諦めず勝つ方法を模索するのは、負けず嫌いな彼女らしい。

 

 

「まぁ、頑張れ。 いつか勝てるさ」

 

 

 紫莉はたきなに檄を飛ばし視線を元に戻すと、ミカとカウンター席に座っていたミズキがお互いの顔を見合わせてることに気づいた。 

 すると、呆れたようにミズキが言った。

 

 

「アンタ達、最初はグーでやってるでしょ」

「は、はい。 そうですけど」

 

 

 紫莉が困惑しながら首を縦に振ると、今度はミカが言った。

 

 

「それじゃあ千束には勝てない」

「ど、どういうことですかっ」

 

 

 ミカは真っ先に食いついてきたたきなを手で制すると、千束が行っているからくりを教えてくれた。

 千束は、優れた観察眼で相手の服や筋肉の動きを見ている。 つまり、じゃんけんにおいては相手が次に出す手がわかるということになる。

 こちらが手を変えずにグーを出した場合、千束はパーを出せばよい。 手を変えるとわかったのならば、チョキを出せば確実にアイコへともっていける。 普通にやっていれば、千束に勝つのは不可能とのことだった。

 

 何だよそれ、ただのズルじゃねぇか…… いや、自前の能力だからありなのか……? 

 

 真相を知った紫莉は、がっくりと肩を落とした。 

 たきなの方も同感なのか、唇をわなわなと震わせ固まっているのが目に入った。

 彼女の気持ちは痛いほどわかるつもりだ。 これでは躍起になって勝とうとしていた自分達が馬鹿みたいだ。

 やはり知らなかったのか、と言わんばかりにミカは肩をすくめる。 

 紫莉はどうすればよいのか訊ねる。

 

 

「千束に勝つためには『最初はグー』はやめて、始めの勝負で勝つしかない。 まぁそれも、あいつに観察する暇を与えず、ほぼ不意打ちに近い状態に持っていかなければならないが」

「……ご忠告ありがとうございます」

 

 

 紫莉が礼を述べていると、話の中心であった千束が現れた。 

 彼女は茶袋片手に「組長さんのとこ配達行ってくるわぁ~」と呑気にしていたが、他の全員から注がれる呆れた視線に首を傾げる。

 

 

「ど、どったのみんなして?」

「……別に何でもねぇよ」

 

 

 紫莉が適当に濁すと、千束は「えーなになに」と訊ねてきた。 すぐにたきなが間に入る。

 

 

「本当に何でもないですよ。 今から支度するので待っていてください」

「あー今回は私一人で大丈夫。 クルミがさ制服がバレてるんじゃないかって言ってたし」

「リコリス制服が?」

「そそ」

 

 

 紫莉はまさか、と思いながら千束を指差す。

 

 

「そのポンチョが良い案のことか?」

「そ~これなら~絶対わからな~い」

「けど、私服じゃ銃は使えないんだぞ……」

 

 

 紫莉の言葉に乗っかり、ミズキが「警察に捕まっちまえ」と茶々を入れる。 

 千束は唇の先を尖らせた。

 

 

「知ってますぅ~それに下に制服着てますぅ。 ほらぁ」

 

 

 千束がポンチョの裾をたくし上げると、赤い制服が現れた。 

 確かにこれなら銃を使うには問題ないであろうが、紫莉は別のことを危惧していた。

 

 

「……本当に一人で行くのか?」

「うん。 近所だから大丈夫だよぉ。 なぁに~心配してくれてんのぉ?」

「当たり前だ。 あんたの身に何かあったら困る」

 

 

 紫莉が眉をひそめ、腕を組んだまま千束を見据える。 冗談の響きはない、嘘偽りのない本心だ。

 千束は一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせる。 だがすぐに口元を緩め、肩をすくめてみせた。

 

 

「ありがと、心配してくれて。 でもこれ実験みたいなもんだし」

「実験?」

「そ、襲撃犯が本当に制服でリコリスを識別しているのかテスト。 それにぃ千束さん一応ファーストだし、誰が来ても返り討ち~」

 

 

 千束が銃を撃つポーズをするのを見て、紫莉は不本意であるが首を縦に振った。

 理屈と動機もわかる。 それに彼女ほどの実力があれば、並大抵の人間は敵わないだろう。 けれども、胸の奥のざわめきは収まらない。

 ミズキが横から会話に入ってきた。

 

 

「あんたの心配もわかるけど、千束は何十人ものテロリストを一人で倒した女よ。 こいつに勝てるのは、ターミネーターかプレデターくらいよ」

「だぁれが筋肉モリモリマッチョマンだって、酔っ払い?」

「ざーんねん。 今日はまだ一滴も飲んでないわ~」

 

 

 ミズキの軽口に千束は顔をしかめたが、すぐに表情を戻す。

 

 

「配達送れちゃうから、もう行くね」

「……何かあったらすぐ連絡しろよ」

「大丈夫だって! あ、それよりも今日の夕飯楽しみにしてるよ~ それじゃ、いってきまーす!」

 

 

 千束はそう言い残して店内から出ていった。

 静けさのあと、ミズキが肩をすくめ紫莉を指差す。

 

 

「あんたさぁ、あたしの時もそうだったけど心配しすぎ。 その癖治した方が良いわよ」

「……はい」

「それとも何? 千束と離れるのが寂しいわけぇ? 始めの頃はあんなにツンケンしてたのにぃ」

「なっ! ち、違いますっ。 俺はただ本当に心配で……。 それに俺だけ行動制限されて、ずるいっていうか」

 

 

 紫莉が反論すると、たきなからの横槍が入る。

 

 

「それは紫莉が勝手なことをしたからです。 反省してください」

「ぐっ……」

 

 

 言葉が詰まる。 ぐうの音も言えないとは正にこのことだ。 

 そして、千束が出かけてから三十分ほど経ったころだ。

 突然、何かが倒れる音が訊こえた。 紫莉を含めた全員が目を向けると、血相を変えたクルミが叫びながらホールへ駆け込んできた。

 紫莉は目を丸くして、クルミに訊ねた。

 

 

「ど、どうしたんですか。 そんなに慌てて」

「見てくれ!」

 

 

 クルミが持っていたタブレットを覗くと、ドローンで撮影された写真が表示されていた。 映っていたのは、何処かのビルの裏口で待機している四人のリコリスだった。

 

 あれ、この顔を何処かで──もしかして、あの時の……? 

 

 紫莉の予想は当たっていた。

 クルミ曰く、彼女達は銃取引事件の際に現場のビルの裏口で待機していたチームだった。 写真はDAのものらしく、これが流出して敵に顔がバレてしまったとのことだ。

 ミズキが訝しげに首を傾ける。

 

 

「なんでそんなものが流出すんのよ」

「まさか、あの時のハッキングか」

 

 

 低い声音でミカが呟くと、たきなも付け加える。

 

 

「DAもそのハッカーをまだ見つけられていないみたいです。 ラジアータをハッキングできるほどの人物なんて、極わずかなはずですが……」

「あんたのお仲間じゃないの、ガキンチョ? 早くそいつ特定しなさいよ」

 

 

 ミズキがそう訊ねると、急にクルミは言いよどむ。 一瞬の間を置き、衝撃の事実を吐き出す。

 

 

「──あの時のはボクだ」

 

 

 全員の「はぁ!?」が重なる。 

 クルミは小さな体をびくっと震わせた。 そしてうつむきながら言葉を続けた。

 

 

「依頼を受けてDAをハッキングした。 そのクライアントに近づくためには仕方なかったんだ……」

「じゃああんたが銃をテロリストに流した張本人ってわけ!?」

「それは違う! 指定の時刻にセキュリティを攻撃しただけだ。 銃取引が行われているなんて知らされてなかった」

「そうですかっ。 おかげで正体不明のテロリストが山ほど銃を手に入れて、たきなと紫莉はDAをクビになりましたっ」

 

 

 耐えかねたミカが「もういい! やめろミズキ」と叫ぶ。 ミズキはまだ何か言いたげであったが口を一文字に結んだ。

 たきながそれ以外の映像はあるのかとクルミに訊く。

 

 

「全部じゃないんだ……」

 

 

 次に見せられた写真に一同は、完全に言葉を失ってしまった。

 一枚目はビルの外階段を駆け上がっている千束の横顔。 そしてもう一枚には──

 

 

「う、嘘だろ……」

 

 

 紫莉の視界が歪む。 呼吸が浅くなり全身の力が抜けていくのが嫌でもわかる。 危うく椅子から落ちそうになるが、すんでのところでたきなが支えてくれた。

 もう一度画面を見つめた。

 全てを拒絶するかのような陰鬱な雰囲気と赤の制服を身に纏った少女──何度見返しても自分だった。

 紫莉は喉を震わしながら、クルミに訊ねた。

 

 

「……何か隠しているとは思いましたが、まさかこんなことを」

「……ごめん」

「謝ってすむ問題かっ! 自分が何をしたのかわかっているのか? あんたの、あんたのその軽率な行動が、四人のリコリスを──」

 

 

 紫莉の声は途中で掠れ、最後まで言葉を吐き出せなかった。 言ってしまえばこの先の関係が崩れてしまう気がしたからだ。

 たきなが静かに紫莉の肩に手を置く。

 

 

「紫莉、気持ちはわかりますが今は冷静になって。 ……クルミを責めるのは後でも出来ます」

「でもっ……!」

 

 

 紫莉は歯を食いしばる。 頭では理解していた。 ここで感情を爆発させたとしても、状況は改善しない。 けれど、心の方が追い付いてくれなかった。

 紫莉は力任せにカウンターに拳を振り下ろす。 カップが跳ねる乾いた音が店内に響き渡った。

 ミカが深く息を吐き、その場を鎮めようとする。

 

 

「たきなの言う通りだ。 頭を冷やせ紫莉」

「……了解」

「ひとまず千束の安否を確認するのが優先だ」

 

 

 ミカは和服の袖からスマートフォンを取り出し電話を掛けた。 

 すぐに千束は出たようだ。

 千束が無事であったことに、一同が胸を撫でおろした──次の瞬間。 電話越しに何かが衝突するような激しい音が聞こえた。

 

 

「千束? 千束!?」

 

 

 血相を変えたミカが何度も呼びかけるが、千束からの応答はないようだ。

 紫莉はたきなとともに店を飛び出し、組事務所へ向け駆け出した。

 頬に当たる夜風は涼しかったが、足を動かす度に体は熱を帯びていく。 心の中で何度も千束の無事を祈りながら、静かになった街を駆ける。

 

 

「紫莉、あれ!」

 

 

 前にいたたきなが指差す方を見る。 少し先の地面に黄色のポンチョと中身がこぼれた茶袋が落ちていた。

 たきながポンチョをめくる。 しかし、千束の姿はなかった。 代わりにあったのは彼女のスマートフォンだった。

 紫莉は電話でミカに状況を伝える。

 

 

「錦木のポンチョとスマホを見つけました。 けど、肝心の本人の姿が……」

「……わかった。 今クルミに街中のカメラをハッキングさせている。 お前達は引き続き千束を捜してくれ」

「了解」

 

 

 通話を切り、再び駆け出す。 やがて大島小松川公園付近に差し掛かった時、クルミからの通信が飛び込んでくる。

 

 

 ―千束を見つけた! その先の公園にいる。 急げ、やられてるぞ。

 

 

 紫莉は耳を疑った。 彼女が一方的にやられているなど信じられないからだ。

 嫌な予感が脳内を巡る。 

 深手を負わされたか、大人数で囲まれているのか。 どちらにしても危機的状況には変わりないだろう。

 たきなと目線を交わすと、二人の走る速度はさらに上がった。

 すぐに公園が見えてきた。 

 園内に入り、近くの植木の側に身を潜め、木々の隙間から状況を伺う。

 中央部だけが不自然に明るく、それはヘッドライトを灯した複数の車によるものだった。

 それらを円状に作業着姿の男達が囲んでいた。 彼らは闘技場の観客のように口汚く野次を飛ばしていた。

 その光の中心で、二つの影が揺れ動く。

 ひとつは千束であることがわかった。 彼女の制服は土埃にまみれ汚れていた。 しかも頭部から出血しているようで、彼女の目付近には血が付いているのも見て取れた。

 もう一つの影が千束を殴打する度に、男達の歓声が響き渡る。 まるで公開処刑だ。

 

 まずい、このままじゃいくら錦木でも……! 

 

 紫莉は焦る気持ちを抑えきれず身を乗り出そうとする。 しかし、肩に置かれたたきなの手に阻まれる。

 

 

「なんで止めるんだ。 錦木が!」

「このまま無闇に飛び出しても危険です。 私がタイミングをみて撃ちますから、その隙に」

 

 

 たきなはM&P9にサイレンサーを装着しながらそう言った。

 彼女の声は低く、静かな怒りに満ちていた。 仲間がやられて平常心でいられないのは自分だけではないのだと、紫莉は冷静になった。

 

 

「……ああ、わかった。 タイミングはそっちに任せる。 錦木を助けるぞ」

「ええ」

 

 

 二人は互いの拳をこつんと合わせ、背を向けて散開した。

 紫莉は手早く肩にかけていたスタッフバッグを降ろし、息を整えてからM870を取り出した。 サイレンサーはあえて着けない。 少しでも相手の意識を引くのが狙いだ。

 植木の影を忍び足で移動し、停車している車の側まで来た。 息を潜め、再度状況を確認する。

 光の中で千束を襲っている男の姿がはっきりと見えた。 

 緑がかった髪に黒いコート。 紫莉は妙な既視感を覚えた。

 

 ……あの人、まさか!? 

 

 紫莉は息を呑む。

 先日チンピラから助けてくれた男。 一瞬見間違えたかと思ったが、間違いなく彼だった。

 

 どういうことだ……? なんで錦木を……

 

 恩人だったはずの男が、今は拳を握り、千束を殴りつけている。

 胸の奥がぐらりと揺れ、視界がにじむ。

 何が起きているのかが理解できない。 頭では動かないといけないとわかっているが、足が上手く動いてくれない。

 ようやく我に返った時には、緑髪は千束に銃を突き付けていた。

 

 ──まずい。

 

 紫莉が腰を浮かしかけた刹那、乾いた金属音が闇を裂いた。 

 何が起きたのか一瞬わからなかった。 瞬時に状況を確認すると、緑髪の手に拳銃が無かった。

 たきなだ。 彼女が緑髪の拳銃を撃ち抜いたのだ。

 彼女の正確な射撃は、一人、また一人と敵を射抜いてく。 だが致命傷になる箇所は避け、あくまでも相手を行動不能にするまでに留めていた。

 そのおかげで先ほどまで浮足立っていた敵の集団は、パニックになり慌てふためいた。

 これが合図なのだと理解した紫莉は、M870を抱え影から飛び出す。

 

 

「クソ、何処から撃ってきやがる!?」

「あそこだ! 街灯の下に──おい、後ろにもう一人いるぞ!」

 

 

 飛び出した先には二人の男がいた。 彼らは突然現れた紫莉に驚愕し、急いで銃を向けてこようとした。 しかし、紫莉の方が速かった。 

 紫莉は芝生を強く踏み込み、右側の男の懐に潜り込む。 銃口を相手の腹部に突き刺し、ためらうことなく引き金を引いた。

 炸裂音とともに、男の体がくの字に曲がり崩れ落ちる。 

 すぐに視線を横に移す。 左の男がこちらに銃を向けているのが見えた。

 紫莉は膝を曲げ身体を低くし、右に体重を逃がす。 左足を振り上げ、相手の腕を銃ごと蹴り払う。 

 相手の銃口が逸れた。 その隙を突き、フォアエンドを滑らせ次弾を装填。 無防備になった胸部に弾丸を叩き込んだ。

 

 

「あがぁっ!」

 

 

 目の前の脅威を排除した紫莉は、新たな標的に狙いを定め駆け出した。

 紫莉は緑髪がこの騒動の元凶であり、集団のリーダー的存在なのだろうと考えた。 推測であるが、彼が千束を殴っている時に手出しする者はいなかった。 

 つまり奴を無力化できれば残った敵は瓦解し、数で劣るこちら側にも勝機が見えるはずだ。

 紫莉は、息を大きく吸い込み声を張り上げた。

 

 

「おい! こっちだ!」

「あ? お前──」

 

 

 緑髪の男と視線が交差する。 彼も頭部から出血しており、目元がべったりと血にまみれていた。

 だが、敵である以上容赦するわけにはいかない。 今彼を無力化しなければ、千束を救うことはできない。

 

 

「このっ!」

 

 

 紫莉は左肩を丸め全身を使い体当たりを食らわせた。 体格差があるため吹き飛ばすまではいかないが、怯ませることはできた。 

 半歩身を引き、M870の銃口を突きつけるように構え、二度引き金を引いた。 一発目は肩、二発目は下腹部辺りに命中させた。

 しかし、男はよろめいただけで倒れることはなかった。 それどころか、薄気味悪い笑みさえ浮かべている。

 

 

「痛てぇなぁ……いきなりひでぇじゃねぇか」

 

 

 緑髪の男は撃たれた箇所を押さえながら、口角を吊り上げて笑っていた。

 非殺傷弾とはいえ、威力と衝撃はボクサーのパンチに匹敵する。 それなのに、彼は痛みを楽しんでいるのかのように見えた。

 紫莉が背筋にぞっと寒さを感じていると、緑髪は思い出したのかのように手を叩いた。

 

 

「誰かと思えば、昨日の嬢ちゃんじゃねぇか。 驚いた、お前もリコリスだったのか」

「……こんな形で再会したくなかった。 悪いことは言わない、部下を連れ撤退しろ」

「そりゃ無理な話だ。 こっちにも事情があるんでね」

「そうか、なら──」

 

 

 紫莉は言い終えると同時に引き金を絞り、炸裂音が空を切る。 

 だが、緑髪は紙一重で身を捻り、弾丸を躱した。 彼は反撃することなく、背を向け走り出した。

 

 

「悪いな嬢ちゃん。 今はお前に構っている余裕はねぇんだ」

「っ! 待て!」

 

 

 紫莉は後を追いかけようとするが、千束のかすれた呻き声に踏みとどまる。

 紫莉は千束の元に駆け寄り、膝を着いた。

 

 

「錦木、大丈夫か」

「う、うーん。 何とか……」

 

 

 千束は片手で顔を押さえながら、薄く笑う。 目元には血が付着していたが、表情は苦し気ではなさそうだ。

 紫莉は周囲を見回す。 断続的に聞こえてくる敵の悲鳴や怒声が上がっているところをみるとたきなの援護もまだ続いているようだ。

 近くに落ちていた千束の愛銃を拾い上げ、彼女の傷の具合を確かめる。

 

 

「怪我の具合は? 見せてみろ」

「これは私のじゃなくてさっきの奴の。 あんにゃろー、血ぃ吹きかけてきやがって」

 

 

 千束はぺっ、と口内の異物と唾を吐き出す。 念のために彼女の額に手を当て確認したが、目立った外傷は無い。

 紫莉が胸を撫でおろしていると、インカム越しにたきなからの通信が入る。

 

 

 ―千束の容態は!? 

「無事だ。 多少の傷はあるが、問題は無さそうだ」

 ―はぁ、よかった……店長達がもうすぐ回収に来てくれるはずです。 あと少しだけ耐えてください。

 

 

 たきなの言葉が切れたタイミングだった。 

 一台の赤いSUVが唸りを上げて公園に侵入してくる。 リコリコの社用車として使われているものだ。

 

 

「あっちだ、錦木! 先に行け、援護する!」

「了解!」

 

 

 千束を先に向かわせ、彼女の背中をカバーしながら紫莉も後に続いた。

 車に近づくと、ハンドルはミズキが握っておりミカは後部座席にいた。 ミカがドアを開ける。

 

 

「二人とも乗れ!」

「どりゃー!」

 

 

 千束が車内に飛び乗ったのを見て、紫莉は助手席側で膝を着く。 手早くリロードを済ませ、まだ街灯の下で射撃をしているたきなを呼ぶ。

 敵も徐々に態勢を立て直しつつある。 移動中のたきなが撃たれるリスクを少しでも減らすため援護射撃を続けた。

 程なくしてたきなも後部座席に飛び込む。 さすがに三人は狭く、すし詰め状態になっていた。

 紫莉も急いで助手席に乗り込むとミカが叫ぶ。

 

 

「ミズキ出せ!」

「バッチコイ!」

 

 

 ミズキの掛け声とともに、タイヤが地面を掻く音が響いた。 

 SUVは舗装された道の砂利を飛ばしながら急加速し、公園の出口へと向かう。 その間も敵の放った弾丸が車体に当たり、金属を叩く音が連続する。

 

 

「くっそ、しつこい連中ね!」

 

 

 ハンドルを切りながらミズキは悪態をつく。

 紫莉は手持ちの残弾を確認する。 急いで来たせいで残りが心もとない。 だが、出し惜しみしている場合ではない。

 窓から身を乗り出し発砲を繰り返した。 しかし、揺れる車と非殺傷弾の特性で弾が何処へ飛んでいるのかもわからない。 これでは威嚇にもなりもしない。

 

 

「逃がすかよ、アランリコリス!」

 

 

 声がした方を見やると、鬼気迫る表情の緑髪が追いかけてきていた。 何処まで獲物を狙う猟犬のような男の姿に、紫莉は畏怖の念を抱いた。

 

 

「っ! 中原さん前、前!」

 

 

 紫莉が指差す方向から、軽自動車が猛スピードで逆走してきた。

 見れば運転席は無人であり、誰かが遠隔にて操っているのだろう。

 

 

「ヤバいヤバいヤバい!」

 

 

 血相を変えたミズキは叫びながら、目いっぱいハンドルを回す。

 金属が擦れる嫌な音が鳴り響き、車体が大きく揺れる。 弾かれた相手の車が、石造りの屋根付きベンチに横から突っ込んでいた。 危ない所だったが、寸での所で躱すことができた。 

 紫莉が胸を撫でおろしたのも束の間、更なる脅威が目に飛び込んできた。

 敵の一人が、何かを肩に担いでいた。 黒い筒の先端に円筒状の物体が取り付られていた。 

 紫莉の頬に冷たい汗が伝い落ちる。 そして、咄嗟に声を張り上げた。

 

 

「三時の方向、RPG!」

「うっそでしょ! 何であいつらそんなもんまで持ってんの!?」

 

 

 千束が悲鳴のような声を上げる。 すぐさま狙いをRPGの方へ向けていたが「あー! ダメだこの弾じゃ当たんなぃ!」と不満を漏らしていた。

 いくらこの車が防弾仕様は言え、あんなものをくらってしまえばひとたまりもない。 すぐに排除しなければ、全員の命は無い。

 紫莉とたきなもRPGの方へ火力を集中させる。 だが、弾は虚しく空を切るばかりだった。 

 M870を撃ち尽くした紫莉は、グロック21に持ち替えるが結果は同じだった。

 やがて、たきなも弾が切れたことを告げた。 千束の方はまだ残っているようだが、それも時間の問題だろう。

 

 クソ、どうすりゃいいんだ! 

 

 紫莉は頭の中で悪態をつきながら、必死に思考を張り巡らせるが焦りばかり募っていく。

 最早万事休すかと諦めかけた──その瞬間だった。

 

 

 ―あぁもう、仕方ないなぁ。

 

 

 覚悟を決めたようなクルミの声がインカムから訊こえた。

 紫莉が良い手があるのかと口を開きかけると、上空で待機していたクルミのドローンが動いた。

 機体は高度を下げ、一直線にRPGの元へ向かって行った。 そして、その勢いのままRPGを構えている男の顔面に激しく衝突した。

 男の体が後ろにひっくり返ると同時に空気を裂く音が訊こえた。 すぐさま背後の軽自動車があった場所に爆炎が上がり、爆風によって車体が激しく揺さぶられる。

 

 

「ミズキ、チャンス! アクセル全開!」

「言われなくても!」

 

 

 千束の号令にミズキはアクセルを踏み込む。 

 SUVは速度を上げあっという間に公園を抜け、やがて道路に出た。

 しばらく走り、追手の姿がいないことが分かると車内にいた全員が安堵の息を漏らした。

 

 

「あ~疲れたぁ。 もぉ~何だったのあいつら……」

 

 

 千束はシートにぐったりともたれながら言った。 

 紫莉は首だけ回し、応える。

 

 

「例の襲撃犯だ。 俺もアンタも奴らに面が割れてたんだ。 まぁ、まさかここまで派手にやってくるとは思わなかったが……」

「え、嘘でしょ。 どっから漏れてたの?」

「それはクルミさんに訊いた方が早い」

 

 

 千束は「クルミが……?」と首を傾げた。 一方、他の面々は表情を強張らせていた。 

 これから紫莉が何をするのかが、既に分かっているのかように。

 

 

 

 ▼

 

 

 

 紫莉達は無事リコリコへと帰還した。 

 本来であれば肩の力を抜き、皆で苦労を労い合うところだ。 だが、そういった和やかな雰囲気は無く、重苦しい空気が立ち込めていた。

 店内に入ると奥の部屋から、バタバタとクルミが小走りで出てきた。 安堵混じりの笑顔を浮かべているものの、どこか怯えているようにも見えた。

 

 

「お、おかえり皆。 無事で何より」

 

 

 紫莉はその声を訊いた瞬間、足が勝手に前へ動いた。 胸の奥に渦巻いていたものが、堰を切ったように溢れ出しそうになる。

 だが、不意に伸びてきたたきなの腕に進路を阻まれる。

 何故止める、と問いかける前にたきなはクルミに歩を進め、静かに言った。

 

 

「──クルミ、そこに正座してください」

「え。 な、何でさ」

「クルミ?」

「わ、分かったよぉ……」

 

 

 紫莉は少し面を食らった。

 普段のクルミであれば、あれこれと不平を並べるだろうが、今回ばかりは大人しくたきなの指示に従っていた。

 

 ……少しは反省する気持ちがあるみたいだな。 一旦様子見するか。

 

 そう判断した紫莉は一歩下がり、玄関近くの壁に背を預けた。 

 たきなによる尋問が始まる。

 クルミはラジアータのクラッキングをしたこと、その影響で通信障害を引き起こしたことは素直に認めた。 だが、故意に千丁の銃器をテロリストに流したことは無い、と頑なに否定していた。

 たきなが繰り返し同じ質問をしても、返答は一緒だった。

 すると、ビールが入ったグラスを片手にミズキが口を挟む。

 

 

「まぁ、ようするにこいつが全ての元凶ってわけでしょ」

「な、何だよ! 助けてやっただろ!?」

「たきなと紫莉、アンタ達は被害者なんだから、もっと言ったれ言ったれ」

 

 

 紫莉が黙っていると、ミカに傷の手当てをしてもらっている千束が参戦してきた。

 

 

「なーるほどねぇ……状況は飲みこめた、うん。 ──それでどぉーすんのぉ、二人とも。 ここでやっちまうか!」

 

 

 わざとらしく拳を振り上げる千束にクルミは「ち、千束ぉ……」とか細く鳴いた。 

 彼女は助け舟を求めるように視線を泳がせるが、この場に味方はいない。 やがて、それを悟ったのか、両手を床に着き頭を垂れた。

 

 

「──ごめん! たきな、紫莉!」

 

 

 震えと後悔と少しの覚悟が混じった、聞いたことのないクルミの声だった。

 その姿に紫莉の胸で渦巻いていた怒りの炎が微かに揺らぐ。 彼女が心の底から反省しているのが伝わってきた。

 少し間を置き、たきなが切り出す。

 

 

「……あれは私の行動の結果であって、クルミのせいじゃありません。 でも、あいつは捕まえる。 最後まで協力してもらいますよ」

「もちろんだ! ボクに出来ることなら何でもする」

 

 

 クルミは笑顔を浮かべてそう言った。 

 他の面々もこうなると始めから分かっていたように、それぞれ頷いた。

 千束はいつも通り微笑み、ミカは静かに目を細める。 ミズキは「え~もう許しちゃうのぉ。 つまんねぇ~」とビールをあおった。

 ようやく場が落ち着きかけたその時だった。

 

 

「──納得できない」

 

 

 紫莉が静かに口を開くと、場の空気が再び凍りつく。

 壁から背を離し、ゆっくりとクルミに近づく。 彼女を見下ろし冷たい声音を出す。

 

 

「クルミさん、あなたが奴らと繋がっていないのは本当でしょう。 その証拠に俺達を助けてくれた。 そこは認めますし、感謝しています」

「だ、だったら……」

「言いましたよね。 犯人を見つけたら指の骨をへし折ってやるって。 ……正直腸が煮えくり返りそうな気分です。 こんな身近に犯人がいたなんて」

「……ごめん」

「反省するだけなら、子供でも猿でもできます。 俺が求めているのは、言葉だけの謝罪じゃなくケジメです」

 

 

 紫莉の容赦のない言葉が、店内のムードを更に悪化させる。

 たきなもミカもミズキも、千束でさえひと言も発さなかった。

 紫莉は腰を落とし、クルミと目線の高さを合わせる。

 

 

「覚悟、出来てますよね?」

「っ! 紫莉!」

 

 

 紫莉は鬱陶し気に千束を見やる。 

 千束の瞳には、これ以上はもういいだろうと訴えが浮かんでいた。

 

 

「邪魔するな錦木。 逆に訊くがお前はよく納得できるな? この人のせいで俺達は殺されかけたんだぞ」

「そうだけどさ……本人も反省してるんだし、それで良いじゃん!」

「俺達はリコリスだぞ。 常に命の危険に晒されてる身なら、こういった件は徹底的に対応すべきだ。 いつ寝首を搔かれるかわかったもんじゃない。 それに罰を与えるのが駄目なら、俺のGPSの件はどうなる? クルミさんは無罪放免で、俺は性犯罪者みたいに四六時中監視されるのはおかしくないか?」

「そ、それはっ……!」

 

 

 千束が言葉を詰まらせる。 彼女の悲しげな表情に一瞬心が揺れ動くが、紫莉は引き下がらなかった。 

 

 

「──もうやめてくれ!」

 

 

 クルミの悲痛な叫びが店内に響き渡る。

 

 

「紫莉の言う通りだ。 ボクが……ボクがあんなことをしなければ、こんな事態にはならなかったんだ…… だから、しかるべき罰を受けるのは当然だ」

「クルミ……でも……」

「いいんだ千束。 この場が収まるなら、それでいい」

 

 

 紫莉はクルミの碧眼をじっと見つめる。 彼女の瞳には若干の恐怖が見え隠れしていたものの、嘘偽りの匂いは微塵も感じられない。 覚悟を決めたということなのだろう。

 

 

「では、いいんですね?」

「……あぁ」

 

 

 クルミは右手を差し出してきた。 反対の手で手首を掴み、震えを抑えようとしていたがあまり意味を成していない。

 その姿に紫莉は酷い頭痛を覚えた。

 あまりに似ている気がしたのだ。 幼少期に母から折檻されていた自分は、きっとこんな姿だったのだろう。 

 迫りくる恐怖に怯えながら、絶対に逆らえない存在によって与えられる痛みに耐えようとする哀れな姿に、胸の奥と胃がキリキリと痛み出した。

 紫莉はクルミの手を取る。 そして──

 

 

「……すみません」

「へっ……?」

 

 

 紫莉が謝罪の言葉を口にすると、クルミの間の抜けた返事が返ってきた。

 少し間を置き、紫莉は小さく息を吸い込み言った。

 

 

「……少しやりすぎました。 すみません、怖がらせてしまって」

「……ゆ、許してくれるのか?」

「はい。 クルミさんの覚悟は十分伝わりました。 でも、これだけは約束してください。 もう二度とこんなことはしないって」

「あ、あぁ! 約束する、するさ!」

 

 

 クルミが何度も頷く様子を確認して、紫莉はゆっくりと彼女から離れた。

 途端に店内の張り詰めていた空気もふっと緩み、皆がほぼ同時に息を吐いた。

 

 

「は、はぁ~よかったぁ……」

 

 

 千束が胸に手を当てへなへなと崩れるように座った。

 たきなも紫莉の顔を覗き込み、ようやく肩の力を抜いていた。

 

 

「……今のは演技ですか?」

「俺にそんな才能はねぇよ。 怒ってたのは本心だ。 クルミさんの覚悟が本物だってわかったから、これ以上は無駄だと思っただけ。 それに……」

「それに?」

「……裏切られるのが怖かった。 それだけだ」

 

 

 紫莉は消え入る声で呟きミカの方を向く。

 

 

「すみません店長、今日は疲れたので奥で休んでも?」

「……あぁ、構わない。 ゆっくり休みなさい」

「ありがとうございます」

 

 

 紫莉は足早にその場を後にした。 奥の座敷に駆け込み、戸を閉めた途端へたり込んでしまう。

 真っ暗な部屋で紫莉は頭を抱える。

 

 

「何してんだ俺。 これじゃ……これじゃあ、あの女と一緒じゃないか……」

 

 

 反撃されない安心感。 相手が萎縮するのを見て、自分は間違っていないという正義感。 たった一時しか得られない優越感に浸ってしまっていたことを信じたくなかった。

 

 

「違う……違う違う違う。 俺はあんな人間とは違うんだ……!」

 

 

 否定の言葉を口にすればするほど、余計に惨めにそして逆なのではないのかと言われているような気がした。

 

 

 

 

 暗闇は何も答えてくれない。 そんなことはわかりきっていた。 返ってきたところで余計に惨めになるだけだ。

 今の紫莉に出来るのは、必要以上に自分を責めるのを止めることだけだった。

 

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