「……ごめん、勇太。冷蔵庫から水を取ってくれる?」
二人で話し込んだあと、ふいに結愛がそう頼んできた。
自分から主張しない彼女から頼られるのは嬉しかった。
もしかしたら、俺は尽くしたがりな男なのかもしれない。
そう思いながらも、あらほらさっさと役に立つことにした。
「ありがとう。そろそろお薬を飲まなきゃ」
結愛は水を受け取ると、ベッドの横にある棚から袋を取り出した。ビニールの紐を開くと、大量の薬が出てきた。
慣れた手付きで彼女は薬を取り出し、口の中に流し込んでいる。俺と顔が合う度に、彼女は笑顔になる。
この夥しい量の薬があるからこそ、彼女の笑顔が成り立っている。そう思うと、俺の存在がちっぽけだなと思っちまう。
医者にも医学部生でもない、ただの浪人生には。
◇◆◇◆◇◆
薬を飲んだせいか、結愛はうとうとし始めた。
可愛い彼女の寝顔を見たい気持ちもある。
だが、このまま長居しても迷惑になるだけである。
そう判断した俺は、
「じゃあ、そろそろ帰るわ」
と、パイプ椅子から立ち上がったのだが——。
「待って。勇太」
呼び止められてしまった。
こんなことは初めての出来事である。
俺が帰るといえば、じゃあねと手を振ってくれるのに。
「ん? どうしたんだ?」
「あたしが眠るまで手を握っててくれないかな?」
「ん? 今日は甘えん坊だな、結愛」
「……迷惑かな? 早く家に帰って勉強したい?」
「いや、別にいいよ。結愛が甘えるなんて珍しいからな」
病院の面会時間には制限がある。
俺の持ち時間は、もう少しで終わってしまう。
だが、少し時間を越える分には見逃してくれるはずだ。
そう思い、俺は愛する彼女が眠るまで隣に居ることにした。
「何かね、嫌な予感がするんだよ」
ベッドに寝転がったまま、結愛は深刻そうな表情で呟いた。
「嫌な予感?」
「うん。とっても嫌な予感」
震えた声で言い放ち、本懐結愛は悲しそうな声で。
「勇太があたしの前から消えてしまう気がするの」
「馬鹿なこと言うなよ。俺が結愛の前から消えるわけねぇーだろ? これ以上馬鹿なことを言ったら、デコピンすんぞ」
「…………そうだよね。あたしのただの勘違いだよね」
長年病院生活を繰り返しているのだ。
考える時間が多くなって、色々と考えてしまうのだろう。
暇なときってさ、誰でもアレやコレやと考えてしまうし。
本当にどうでもいいことなのに。
「……こんな可愛い顔をしてたら襲っちまうぞ、バカ」
結愛は眠ってしまったらしい。
俺の腕からは手が離れて、気持ちよさそうに寝ている。
あまりにも愛らしい姿に、彼女の唇を奪いたくなる。
でも、寝込みを襲うのは反則だ。
それに、彼女を苦しめる怒りが込み上げてきた。
「俺が絶対治療法を探してやる。だから、待ってろよ」
スヤスヤと可愛らしい寝顔を晒す彼女に別れと誓いの言葉を告げてから、俺は病室を後にするのであった。
◇◆◇◆◇◆
「さぁ〜て、今日も家に帰って勉強でもしますか」
愛する彼女の顔を見て、今日も勉強が捗るな。
そう思いながら、エレベーターを降り、病院のロビーへと出た。すると、見覚えがある長い黒髪の少女を発見した。
嘘だろ……? どうしてアイツがここに……?
俺の足音が大きかったのか、相手側も振り返る。
彩心真優であった。
偶然にも予備校内で傘を貸してあげた女の子だ。
俺の顔を見るなり、彼女は険しい表情を向けてきている。
このまま何も言わずに帰るのは失礼だろう。
そう思って、俺が近づいてみると。
「どうしてキミがここに居るのかな?」
「それはこっちのセリフだよ」
「もしかして、私を尾けてきたの?」
「ただの偶然だよ、偶然」
「という設定の新しいナンパ?」
「彼女が居る病院でナンパなんてするか!!」
◇◆◇◆◇◆
俺と彩心真優は一緒に帰ることになった。
別に浮気では断じてない。
田舎の夜道は暗く、女の子を一人歩かせるのは危険なのだ。
自転車でさっさと帰りたい気分なのだが、彩心真優を置いていくことはできない。かと言って、二人乗りする間柄でもない。というわけで、俺は自転車を押しながら歩いている。
それにしても、雨が止んでくれて本当によかった。
「で、彩心さんはどうしてここに?」
「おばあちゃんが入院してるの」
「そっか。それは律儀だね、自分一人で来るなんて」
「毎日彼女に会うために通う人もどうかと思うけどね」
「純愛だよ、純愛」
「しつこい男は嫌われるよ?」
「余計なお世話だよ」
彩心真優は社交的な女の子だ。
俺みたいな根が暗い奴とも対等に喋ってくれる。
多少、揶揄われてる部分もあるが、それはご愛敬だろう。
実際、予備校内でもクラスの中心に居るんだよな。
「でもさ、彼女さん嬉しいだろうね。これだけ想われたら」
「まぁ〜な。それは毎日俺は自転車漕いで行ってるからな」
「……それはそれで重すぎると思ってるかもね、彼女さん」
よかれと思ってやっている行動だが、逆にそれが相手の重荷になっている。そんなことは世の中には沢山あるだろう。
でも、それを他者からガミガミ言われるのは好きではない。
「別にいいだろ、俺と結愛の関係に口を挟むな」
「へぇ〜。結愛って言うんだ、彼女の名前。可愛いね」
「うう……」
彩心真優は微笑んだ。良い情報が手に入ったと。
会話の主導権を握り、誘導尋問するのが得意なようだ。
「ちょっと時間いいかな?」
「いいけど何だよ?」
「傘を貸してくれたお礼をしてあげる」
彩心真優は悪戯な笑みを浮かべてきた。
彼女が連れて来られたのは、人気が全くない自販機。
誰がここまで買いに来るのかと戸惑ってしまうほどだ。
「何にする? 一本だけ奢ってあげるよ、私が」
「コーラでいいよ」
「私と同じものを選ぶって……運命的な出会いを演出してるストーカー?」
「同じものを選んだだけでストーカー扱いされる筋合いはねぇーよ。てか、コーラって万国共通な美味い飲み物だろ!!」
至極真っ当な意見を申してみた。
だが、彩心真優は全く聞く耳を持たずに、自販機で購入していた。静かな空間でガシャンと大きな音がやけに響いた。
真優は腰を屈めて、二本の缶ジュースを取り出した。
「これ、私のお気に入り。それでもいい?」
「へぇ〜。何これ? 三ツ谷のクラフトコーラ?」
コーラといえば、コカコーラかペプシか。
この二択しか考えていなかったのだ。
だからこそ、俺は戸惑ってしまっていたのだが。
「飲みたくないなら別にいいわよ。その代わり、もう二度と何もしてあげないんだから」
余程、彩心真優は三ツ谷のクラフトコーラにお熱のようだ。
お礼をしてもらったので、このまま帰るか。
そう思っていたのだが、彩心真優は付いてこいと言わんとばかりに、前を歩き出す。俺はその後を追った。
辿り着いたのは小さな工場跡地であった。
潰れてからまだ時間が経過していないらしく、まだ外観が整っていた。と言っても、窓ガラスが破られ、誰かが侵入した跡が垣間見ることができる。
「こんな場所をよく知ってたな」
「病院に行く途中に偶然見つけちゃって」
「なるほどな。確かに気になるよな、これは」
自転車を漕いで病院まで全速力で向かっていた。
だからこそ、俺の視界には全く入らなかったのだろう。
というか、入っていたとしても、建物がある。そんなふうに認識していただけで、実は工場跡地なのだとは知らないはず。
工場の入り口か、それとも裏口なのか。どちらかは検討が付かないものの、厚い扉がある近くに、ちょっとした階段があった。階段といっても、三段しかない。なので、段差と言っても差し支えない場所なのだが、そこに彩心真優は腰を落ち着かせた。
俺もそれに倣って、隣に座る。屋根があるので、地べたといえども全く濡れていない。
俺の隣に座った彩心真優は、パンと手を叩いて。
「それでは、乾杯にしましょうか」
「何に……?」
「キミと私が志望校に合格する前祝いかな?」
雨が止み、月明かりだけが頼りの夜、俺たちはクラフトコーラで乾杯をした。
それにしても……。
ゴクゴクと美味しそうに飲む女である。
これだけ美味しそうに飲んでくれるのであれば、生産者さんたちもさぞかし喜んでくれるだろう。というか、いい飲みっぷりである。俺がプロデューサーならば、CMの出演願いを出しているところである。
そんな彼女は飲む手を止め、こう切り出した。
「そういえば、キミの名前は……?」
「知らなかったのかよ。てか、今更過ぎるだろ!!」
「ごめんごめん。同じクラスの人ならまだ覚えてるんですが」
彩心真優から認識されていなかったらしい。
相手が相手である。俺みたいな地味男は興味ないよな。
はぁ〜と溜め息を吐きながら、俺はいう。
「
「……そういえば見たことあるかも。サボり癖があるの?」
「サボってねぇーよ。毎日予備校に居るわ!!」
「……ごめん。素直に気付かなかった」
俺たちの間には、深い溝ができてしまった。
無言の状態が続き、虫の泣き声が聞こえてくる。
工場跡地周りは、草木が生い茂っているのである。
「ここは私だけの秘密基地なんだ」
星々を見上げながら、彩心真優は目を輝かせている。
胸を張って堂々と言っている彼女には申し訳ないが。
「もう俺も知ってしまったけどね」
「……あ」
失敗したとでも言うように、彩心真優は頭を抱えた。
どうして教えてしまったのだろうと思っているのだろう。
「彩心さんって意外とポンコツなの?」
その言葉に、空かさず顔を真っ赤にして反論してきた。
「ポンコツじゃないわよ。模試の成績は毎回トップですよぉ〜だ。それで、キミは?」
「……ううっ、男の子に身長と模試の成績は聞いたらダメなんだよ」
「初めて知った。男の子って複雑な生き物なんだね」
冗談が通じないタイプなのかもしれない。
もしくは、天然ボケなのかな。
「でも、まぁ〜安心してよ。誰かに教えることはしないから」
「当たり前です。ここは私だけの特別な場所ですから」
彩心真優がそう言い返した瞬間。
「あ、にゃこ丸だ!!」
俺との会話では一切聞いたことがない嬉しそうな声を上げた。
「にゃこ丸??」
戸惑う俺に対して、彩心真優は指差した。
草木を抜け出してきたのは、一匹の黒猫である。
魔女の宅急便に出てくる猫にそっくりだ。
そんな猫は人間慣れしてるのか、こちらに近づいてくる。
そのまま彩心真優の元まで来ると、可愛く鳴いた。
「うん、にゃこ丸だよ。にゃこ丸」
彩心真優が顎の辺りを摩ると、にゃこ丸と名乗る黒猫は嬉しそうに顔を左右に動かしている。余程懐いているようだ。
予備校内では決して見れない表情である。予備校内でも笑うことはあるけれど、それとは全く異なる笑みだ。言うなれば、無邪気さ溢れる本当の笑みって感じかな。猫と戯れるときは、余程楽しいのか、笑みが絶えることは決してない。
そう思いながらも、俺は奢ってもらったコーラを飲んでみた。コカコーラともペプシとも異なる味付けである。
美味しいか美味しくないかでいえば、美味しいと思う。
だが、わざわざこんな辺鄙な場所に来てまで飲まない。
「あ、そうだ。にゃこ丸、これを食べていいよ」
バッグの中から魚肉ソーセージを取り出した。
元々、今日は俺に出会わなくても、ここに来るつもりだったようだ。にゃこ丸とやらに会いに来るついでに、俺を秘密基地にお誘いしたのだろう。
「ちょ、ちょっと待ってよ。準備するんだからさ」
彩心真優は魚肉ソーセージの袋を開く。
その姿を見て、待ち望んでいたかのように、にゃこ丸は尻尾を振って喜んでいる。一度食べた味を忘れられないのだろう。
普段は凛とした表情しか見せない彼女だが、意外と無邪気に笑うこともできるんだなと感心してしまう。こんな一面を予備校内でも見せれば、彼女の人気はもっと広がることだろう。
そんなことを思いつつも、にゃこ丸のお世話をする彼女を見て、俺は彩心真優が将来世話焼きな母親になると予想した。
「何? こっちをニタニタ見てきて」
「別に何でもないよ」
「……それならいやらしい目つきで見ないでよ、変態さん」
「変態さんって……お、俺は彼女持ちだぞ?」
「男はどんな女の子でも見境なしと聞いたことがあるけど」
「生憎だが、俺を他の男共と一緒にしないでくれ。俺には世界で一番愛すべき彼女が居るんだぜ。だからさ、俺には——」
愛すべき彼女——本懐結愛の魅力を語ってやろう。
そう思っていると、彩心真優は完全無視でにゃこ丸と戯れていた。もう俺が彼女たちに付け入る隙はなく、微笑んで見守ることにした。あとから、ニタニタしてて気持ち悪いとお叱りの言葉を受けちまったがな。悪いかよ、こんな顔なんだ、元々。
◇◆◇◆◇◆
地方の予備校は、定員割れを起こしやすい。
大学全入時代と言われる昨今に、わざわざ浪人する必要があるのかと疑問視されてしまうのだが。
特に地方の予備校は少子化の影響を
一番驚いたことといえば、環境格差を痛感したことだ。
周りの奴等は両親が医者だとか弁護士だとか官僚だという。
その話を聞くだけで、俺は劣等感を覚えてしまうものだ。
だから、というわけではないが、俺は周りの奴等と喋る機会が極めて少ない。勿論喋る機会はあるのだが、事務的な会話である。浪人生はどんなときであってもガチ勉するもの。そういうタイプもいるので、割と珍しくない光景だと思いたい。
友達がいなくてもいい。だって、彼女がいるのだからさ。
というわけで。
俺は結愛の存在を励みに、朝早くから予備校の教室で勉強に集中していた。
そんな折、廊下側からまたザワザワとした声が聞こえてくる。教室に入って来たのは、彩心真優であった。大きなヘッドホンを付けて、周りの音を完全遮断しているようである。
彼女の耳には聞こえていないようだが、彼女を見る誰もが「うわぁ……今日も可愛い」とか「カッコいい」と口々に声を揃えて典型的な褒め言葉を発していた。
華やかな世界を生きる彼女を見ても、辛くなるだけだ。
そう思い、俺は現実を直視する。今、やるべきことは、勉学のみだ。昨日は家に帰るのが遅くて、あんまり勉強ができなかった。だから取り返すのだ。
「おはよう、
高嶺の花である彩心真優が喋りかけてきた。
それも、自分の座席とは全く異なる場所に座る俺に。
この行動には、俺は戸惑いを隠せなかった。
「…………」
予備校内では、誰からも喋りかけられない空気のような存在。
ただ必死に勉学に励み続けるガリ勉くん。言わば、予備校の空気的存在。
そんな俺に、あの彩心真優が喋りかけてくるなんて嘘みたいな話だった。
「あれ……? もしかして時縄くんじゃない??」
「……いや、俺で間違いないけど」
「なら、挨拶ぐらい返してよ。普通に寂しいじゃない」
「おはよう」
「ちゃんとできるじゃない。でも、今後は一回でお願いね」
そう言い放ち、彩心真優は自分の席へと戻っていく。
男子嫌いで有名な彩心真優。
そんな彼女が自分から喋りかけに行くなんて。
あの男とは、一体どんな関係なんだ。
そんなイロモノを見る目が、俺の集中力を阻害するのであった。