予備校のクラスメイトが目の前に居る。
それも自分よりも遥かに頭が良い生徒が。
今日戻ってきた模試結果で、校内一位に輝いた奴が。
「ねぇ、こんなところにいたら風邪引いちゃうわよ。何やってんの?」
俺は彩心真優の顔を一度だけ見上げた後、目線を逸らした。
あまりにも惨めな気分になるから。
模試結果も悪ければ、彼女との関係も悪くなった自分のことが。
現実のことが全て上手くいかなくなって、道路の上で大の字に寝そべる自分のことが。
「さっきから無視決め込んでるけど、何それ? 感じ悪いだけだよ」
彩心真優は頭が良い。それはテスト結果が示している。
だが、彼女は人間の感情を理解する能力には長けていないようだ。
これ以上人様が喋りかけてくるなと思っているのに、ひたすらかまってくるのだから。
「黙ってたら何も分からないよ。ほらっ」
黙っている理由も分からないのか。
コイツには到底理解できないだろうな、俺の気持ちなんて。
どんなに努力しても、結果を出せない人間の気持ちなんて。
勉学以外の全てを捨ててきたのに、その勉学さえも中途半端なバカの気持ちなんて。
「ほら、時縄くん。何があったの? 教えてよ、私にも」
——私だって、時縄くんの力になりたいんだからさ。
人生には勝ち組と負け組が存在する。
その勝ち組の頂点に立つ少女——彩心真優は余程余裕があるようだ。
負け組の人間を助けられるぐらいに。誰かの力になりたいと思えるぐらいに。
「…………お前には無理だよ、言ってもどうせ」
彩心真優は住んでいる世界が違うのだ。次元が違うのだ。
どんなことでも軽々とやり遂げてしまう彼女と。
がむしゃらに続けているのに結果を出せない俺とでは。
「もう俺のことは放っておいてくれよ」
一人になりたかった。
雨に打たれれば、胸の中で蠢く悶々とした感情を冷やせると思うから。
「それは無理よ」
彩心真優は断言した。
続けて、至極当然のように。
「先に土足で人様の人生に踏み込んできたのはそっちでしょ?」
そう呟きながら、予備校内で一番の成績を持つ少女は手を伸ばしてきた。
その白くて細い手の甲で俺の頬をさすりながら、彼女は真剣な表情で訊ねてきた。
「ねぇ、お願い。何がキミを苦しめるのか教えてよ。私もキミの力になりたいから」
言語化するのが大変難しかった。
俺は何に対して、こんなにも苦しんでいるのだろうか。
ましてや、どうすればこの悶々とした感情から解放されるのだろうか。
自分自身でもそれが分からず、俺は苦しんでいるのだ。
自分のことなのに、自分自身でも分からないなんて……。
本当に人間とは、不思議な生き物である。
もっと分かりやすい生き物なら、どれだけ楽に生きられたことだろうか。
「…………俺は最低な男なんだよ」
「最低な男? どうして?」
「模試結果が悪くて、その腹いせに彼女を傷付けてしまったんだ」
自分の頑張りが認められなかった。
そのストレスを解消しようと思い、大切な彼女を利用したのだ。
自分の怒りを彼女への性的な暴力で晴らそうとしていたのだ。
彼女の同意を聞かずに自分一人で先走り、本能の赴くがままに毒牙を向けようと。
「それだけなのに、最低な男なの?」
「それだけって……」
彩心真優の無神経な言い分に、俺は茫然としてしまった。
それだけと言われれば、そうなのかもしれない。
だが、この問題は奥が深いのだ。当事者本人しか分からない程度に。
「俺は医学部を目指しているんだ。浪人までさせてもらって、親には高い学費を払わせている。それにも関わらず、全く成績が伸びていない。逆に以前よりも低い点数。その上で、自分の実力不足で悪い点数を取っているのにも関わらず、それをテストとは違う形……今回の場合は、最愛の彼女を利用する形で発散しようと思っていた。俺は最低なんだよ。最低な男なんだよ、俺は。周りからの期待に応えることもできない、ただのクズ野郎なんだ」
俺には医学部に入学しなければならない理由があるのに。
俺の夢は医者にならなければ叶わないのに。
その未来さえも、全てがブチ壊れてしまうかもしれないのに。
「…………悪かったな、お前にこんなこと言っても何の意味もないのにな」
彩心真優の手を振り払って、俺は地べたから立ち上がった。
転倒した衝撃の痛みは幾分か引いている。
少しだけ痛みが残っているものの、歩けない程度ではない。
足下が多少ズキッと痛むだけだ。これなら問題はないだろう。
「成績が悪いのも、彼女との関係が悪かったのも、全部俺が悪いだけなのにな」
そう呟きながら、俺は倒れた自転車の元へと向かった。
見た限りでは、外傷はない。とりあえず、無事で安心——。
「何だよ……? 彩心さん、まだ何か言いたいことがあるのか? この俺に」
俺は腕を掴まれていた。
掴む人物はただ一人——彩心真優だ。
力強く握りしめられ、振り払うことは到底できそうにない。
「私、時縄くんの悩みを解決する方法を知ってるよ」
ポツポツと彼女が持つ傘の表面に当たる雨音がハッキリと聞こえてくる。
「俺の悩みを解決する方法……? 何だよ、それは」
大粒の雨が降り注ぐ梅雨。
俺と同じく医学部を志す
「もうさ、医学部受験なんて辞めなよ。辛いだけだよ?」
医学部受験を辞める。
その選択さえできれば、俺が抱える問題は綺麗さっぱり消えてしまうだろう。
「諦めちゃいなよ、もう。自分の身の丈に合わせて生きていけばいいじゃん。それだけで、その苦しみから解放されるよ?」
模試結果で一喜一憂することもなければ、最愛の彼女を傷付けることもないはずだ。
平凡に生きる選択があるのならば、俺はもっと遥かに生きやすい人生のはずだ。
しかし、諦めるという選択は、辞めるという選択は禁じ手なのである。
言わば、それはダイエットしたい人間に「何も食べなければいい」と言っているようなもの。問題を消すことはできても、それは解決とは到底呼べるものではない。
それに、俺には逃げ出すという選択肢は元々存在しないのである。
「俺は医学部に行くんだ。そして立派な医者になって——」
医学部に入りたい。医者になりたい。
大きな夢はあるけれど、その夢はあまりにも遠すぎる。
だが、欲張りな俺の夢はもっとその先にある。
「
この世の全てを敵に回してでも守りたい人が居る。
最愛の彼女にして、最愛の幼馴染みだ。
子供の頃から入退院を繰り返す日々を送る彼女の側にずっと居た。
彼女が夜な夜な涙を流していることは知っていた。
自分の人生を奪った病魔を恨んでいることさえも。
だから、決めたんだ、俺は。
「俺は結愛の病気を治す。その為にも医学部に必ず入らなければならないんだ。そして、立派な医者になるんだよ、俺は」
そう宣言する俺の後ろから、彩心真優が抱きついてきた
先程まで聞こえていた、ポツポツとした雨音は消えてしまった。
数メートル先に彼女が手に持っていたはずの傘があった。放り投げてしまったのだろう。
温かい体温が感じるほどに密着した状態で、彼女は耳元で囁いてくるのだ。
「忘れちゃいなよ、あの子のことなんて」
あの子。
彩心真優が言っている子とは——結愛のことで間違いないだろう。
「……離せよ。俺は結愛を絶対忘れない」
そう答える俺に対して、彩心真優は言う。
耳の奥を通り越して、脳に直接届くような甘くとろける声で。
「忘れちゃいなよ、初恋なんて」
その言葉を皮切りに、彼女は俺の顎を掴んで振り向かせてきた。気が付いた頃には、俺は唇を奪われていた。唇の表面を覆う柔らかな感触に、俺は数秒間立ち尽くす羽目になってしまう。
しかし、すぐさまに冷静さを取り戻して。
「ッ————な、何をやってんだよ!!」
彩心真優を引き離して、俺は怒鳴った。
しかし、彩心真優は頬を真っ赤に染めて俯いたままに。
「忘れさせてあげようと思って、時縄くんを苦しめるものを全て」
「あ、あのなぁ……お、お前……好きでもない男のために」
彩心真優との関係は、仲の良いクラスメイト。
もしくは、勉強を教えてもらう側と教える側の関係性だ。
それ以上でもそれ以下でもなかったはず。
「本当に鈍感だよね、時縄くんはさ。本当に乙女心を理解できていないよね」
彩心真優は曖昧な笑みを浮かべた。
ただ、その笑みさえも幸せそうに見えた。
彼女は深呼吸を途中で挟んだ上で、俺の目を見据えたままに。
——もう恥ずかしいから次はないからね、今日だけだから聞き逃さないでね。
そう小さく呟いた上で。
「好きだよ、私。私は時縄勇太くん。キミのことが大好きです」
告白を受けた経験は、人生で初めてだった。
俺の人生は本懐結愛一色で染まっていた。
だからこそ、他の女の子と仲良くなる機会なんてなかった。
故に、今までこのような機会は一切なかった。
「私は時縄くんが一生懸命頑張ってることを知ってるよ」
「えっ……?」
「毎日予備校に残って勉強している姿を知ってる。私はちゃんと見てる」
仲が良いと思っていた女の子から告白を受けた。
その事実を冷静に受け止めよう。
そう考えていると、頭上から稲妻が落ちてきた。
辺り一面を真っ白に照らす光と人の心を不安に陥れる轟音。
「うわぁ。酷い雷ッ!! 落雷注意だよ。落雷注意!」
彩心真優は雷が苦手なようだ。
大人っぽい容姿なのに、意外と子供っぽい部分があるようだ。
彼女は耳元で、またしても甘い誘惑の言葉を放ってきた。
「ねぇ、私の家に来なよ。近くだからさ」
「……行かない、俺には結愛がいるんだから」
「でもさ、時縄くん——」
今まで仲が良い女の子だと思っていた少女は言った。
「あの子が許してくれなかった続きをやってみたくない?」
◇◆◇◆◇◆
彼女以外の女の子の家に上がるのは初めてだった。
隅々まで整理整頓された部屋の中。
と言えども、流石は変人——彩心真優と言ったところか。
変なキャラクターのグッズが至るところに置いてあった。
俺目線では、別にどうでもいい代物だが、彼女には必要なものなのだろう。
しかし、その点を覗いて、彼女の部屋は生活感が殆どなかった。
徹底した綺麗好きなのか、埃一つないと言えば嘘になるかもしれないが、それほどにゴミとは無縁な空間だ。
一人暮らしだと聞いていたからこそ、少しは汚れていると思っていたのに——。
「……本当にいいのかよ?」
「何? 今更怖気づいちゃったの?」
彩心真優が普段から愛用しているふかふかのベッド。
その上で、俺たちはバスタオル一枚を覆い、隣合って座っている。
大雨に伴い、落雷が引き続いている。このままでは一向に止みそうにない。
「俺は彼女持ちなんだぞ」
「知ってる」
彩心真優は朗らかな笑みを浮かべて。
「俄然燃える。そっちの展開の方がさ」
「何だよ、それ」
「彼女さんに初めて勝てるから」
「はぁ?」
「時縄くんの初めてを今まで奪われてきたけど、今回だけは特別だから」
彼女持ちなのに。
俺は他の女の子と新たな関係を構築しようと考えている。
心の奥底にいる自分は「ダメだ。引き返せ」と何度も引き留めている。
ただ、一度荒ぶってしまった性欲に抗うことは決してできない。
「私が上書きしてあげるから。新たな恋で」
七月上旬、全国模試の結果が返却された日。
彼女持ちの俺は医学部を志す仲間とキスをした。
それも二回も。
一回目は軽く短く、二回目は重く深く。
「初恋なんて捨てちゃえばいいよ、苦しむぐらいなら」
それは今までに感じたことがないほどに甘く。
それは脳がとろけてしまいそうなほどに優しく。
そして、最愛の彼女を裏切ったという背徳感があった。