忘れちゃいなよ、初恋なんて   作:平日黒髪

48 / 92
第37話『時縄勇太は悪女の色香に抗えない④』

 突然な質問だが、同年代の女の子から家に寄らないかと尋ねられたら……。

 それは一体どんな意味を指しているのか、分かる者が居たら手を挙げてくれ。

 勿論、俺の中でも、一つの答えが出ているさ。

 女の子が男を自宅に誘う理由——それは二人の愛を強固にする肉体的接触だ。

 

「悪いんだが……今日はそんな気分じゃない。まだ心の準備ができていないってか」

「別にやましい意味じゃないからね? 時縄くんが考えているようなことはないから」

 

 やましいことはない。

 そう言われて、少し寂しい気がするのはどうしてだろうか。

 それと同時に、ほっと一安心する気持ちも勿論あるのだが。

 

「ええと……ならどうして?」

「時縄くんにどうしても見せたいものがあるの」

「見せたいもの……それが家にあるのか?」

「自宅に寄るのは、にゃこ丸も一緒に連れて行ったほうがいいと思って」

「にゃこ丸? どうしてにゃこ丸も……?」

「偶には、散歩させることも必要でしょ? ずっと部屋に篭りっきりだから」

「つまるところ、にゃこ丸の散歩がてら、俺に見せたいものを見せるってわけか?」

 

 猫の散歩ついでにされるのは、些か腹立たしい話だ。

 しかし、久々ににゃこ丸に会えるならそれもそれでいいかもな。

 

◇◆◇◆◇◆

 

「お待たせ、時縄くん」

 

 彩心真優が戻ってきた。

 両腕に優しく抱かれた黒猫のにゃこ丸の姿もある。

 俺のことを認識しているのか、可愛らしく「にゃぁ〜」と鳴いてきた。

 

「はい、これ」

 

 玄関前で待つように指示を出され、忠犬のように待ち続けた俺。

 そんな俺にご褒美とでも言うのか、彼女の手にはアイスがあった。

 

「夏にはアイスでしょ、やっぱり。それにラーメン食べた後のアイスは美味しいよ」

 

 九州内で絶大な人気を誇る某アイス——ブラックモンブラン。

 以前までは九州内でしか販売されていなかったが、徐々にその美味さが世間の皆様にも知れ渡り、全国規模で販売されている九州民のソウルフードである。

 

「彩心真優もブラモン好きだったんだな」

「アイスと言ったらブラモン一択でしょ? ていうか、九州民なら誰でも好きでしょ」

「九州民は、豚骨ラーメン、甘い醤油、ブラモン。この辺りは鉄板だからな」

「気持ちは分かるけど、人それぞれじゃない?」

 

 ブラモンの袋を開いて、俺はチョコレートでコーティングされた某アイスを取り出す。

 外側はザクザクとしたチョコレートとクッキーのクランチで固められ、内側にはバニラアイスが入っているのだ。食感も楽しめがら、味も楽しめる。実に最高のアイスである。

 隣を見ると——。

 

「ううう〜〜〜〜〜〜!!!!」

 

 あまりの美味さに悶絶する彩心真優の姿があった。

 先程まで抱きかかえていたはずのにゃこ丸は自分だけで歩いていた。

 久々に外の空気を吸えて嬉しかったのだろう。スタスタと前へ前へと進んでいる。

 にゃこ丸に置いていかれないように先を急ぎながら、俺もブラモンを食べることにした。

 

「……やっぱ、これだな」

 

 世界で一番アイスは何か。

 そう問われたら、俺は間違いなくこれをオススメする。そう再確認できた。

 

◇◆◇◆◇◆

 

「で、だよ。俺たちは一体どこに向かって歩いてるんだ?」

 

 俺と彩心真優はアイスを食べながら、前を歩くにゃこ丸を追いかけている。

 時折、にゃこ丸は振り返って、「おいおい、まだかよ。人間ども」みたいな目付きでこちらを見てきている。猫が道案内するとは到底思えないのだが……。

 

「私とキミとにゃこ丸、二人と一匹だけの秘密基地」

「秘密基地……? ああと、あの工場跡地だっけ?」

「そう。そこだよ。どうしても見せたいものがあるんだよね」

「人様を引き止めるほどのものか。それはさぞかし凄いんだろうな」

「今年の夏しか見ることはできないよ。もう永遠に見ることはできない」

「えっ……? どういう意味だ?」

「もうあの工場跡地は取り壊すことが決まったらしいから」

 

 工場跡地の取り壊しが決まっただと……?

 急遽教えられた言葉に、俺は理解が追いつかなくなる。

 

「あの工場跡地で不審火事件が起きたらしくてね」

「……不審火事件?」

「実は、若者が花火を打ち上げてたらしくて、通報が入ったらしいんだ」

 

 そういえば。

 結愛も以前言ってたそんなことを言ってた気がするな。

 花火が打ち上がっているのを、病院から見たって。

 

「にゃこ丸を痛ぶってた奴等の仕業で……秘密基地まで潰されるってわけか?」

「そ〜いうこと。でも、それでいいかなと思ってる。来年、もうこっちに居ないし」

 

 俺と彩心真優は浪人生。

 来年の今頃は、お互い大学生になっているはずだ。

 それも、医学部に進学して——。

 

「今まで聞かなかったけど、お前はどの大学を狙ってるんだ?」

 

 その質問に対して、彩心真優は平然と答えた。

 元々、その大学に進学することを決めていたとでも言うように。

 

「北海道大学の医学部だよ」

 

 北海道という単語に、俺は思わず驚いてしまう。

 俺たちが住んでいるのは、九州の片田舎。

 そこから比べると、北海道はあまりにも遠すぎる。

 

「どうして……そ、そんな離れた場所を? お前の頭なら、東大でも京大でも……それに同じ安全圏を狙うなら九州大でもいいだろ? どうしてそこを……?」

 

 俺は地元の医学部を狙っている。

 親にはこれ以上迷惑を掛けられないし、結愛ともっと一緒に居たいからだ。

 そのためには、地元を離れることはできない。

 

「私は地元から遠く離れた大学に通いたいの」

 

 彩心真優は続ける。

 彼女の心の内側に秘めていたことを。

 

「誰も私のことを知らない場所に——」

 

 一度言葉を区切って、彼女は不敵な笑みを浮かべて。

 

「——そこでなら、人生をやり直せそうな気がするから」

 

 大変おかしな話かもしれないが、俺は今後も彩心真優と関わる人生を送ると思っていた。

 同じ医学部を志す者として、彼女も地元の大学に入るだろうと勝手に思っていたからだ。

 俺よりも頭が良い彼女ならば、トップレベルの大学に通うことは余裕でできるはずだ。

 と言っても、会おうと思えば、すぐに会えるぐらいの距離には居るだろうと……。

 

「どうして人生をやり直したいんだ?」

「私の家ってさ、地元では結構名が知られてるんだ」

 

 彩心真優の家は、代々医者の家系らしい。生まれてきた時点で、自分の意思など関係なく、医者を目指すように育てられてきたようだ。

 

「良い意味でも悪い意味でも、私は注目されて生きてきた」

 

 彼女曰く、医者の家系で育ってきたからこそ、美味しい経験を何度もしてきたそうだ。

 多くの人々から称賛と尊敬の眼差しを向けられてきたそうだ。

 頭も顔立ちも育ちもスタイルも全てを兼ね揃えた才女だと。

 そんな彼女は「だからさ」と強気な口調で呟き、真っ直ぐな瞳を向けてきた。

 

「全く違う環境に行って、自分一人の力で頑張りたいの」

「自分一人の力で頑張るって大切なことなのか?」

「親の目が全く届かない場所にまで逃げ出したいの」

 

 多分、と彼女は不安気な声で付け加えた。

 彼女自身も、それが正しいのか判断できないようだ。

 ただ、そう信じてるのか、確信に満ちた表情のままに。

 

「多分、そこに行けば、私は生まれ変わると思うから」

 

◇◆◇◆◇◆

 

「で、何を見せたかったんだよ?」

 

 工場跡地に到着し、俺は彩心真優にそう訊ねた。

 取り壊しが決定しているらしく、確かに『関係者以外立ち入り禁止』の看板が設置されている。と言えども、俺たち二人はそれを守るほど出来た人間じゃない。

 

「ねぇ、時縄くん。ここは私たちの秘密基地だから、もう関係者だよね?」

「あぁ〜そうだな。あとから知った人間が関係者面するのは許せねぇ〜な」

「万が一、大人に見つかっても、にゃこ丸を追いかけて入りましたで許されるはず……」

「そのための、にゃこ丸かよ!! 用意周到だな、おい!!」

 

 周囲をテープでグルグル巻きにされている工場跡地。

 もとい、秘密基地。

 常識知らずな俺たちはテープを乗り越え、工場跡地へと足を踏み入れた。

 にゃこ丸を保護して以来、この場に来ることはなかった。

 そのときと全く一緒の状態、もしくはもっと悲惨な状態になっている。

 割れたガラス、弁当やお菓子のカス、女性の裸体が表紙の雑誌、タバコや花火の残り。

 

「時縄くん、そんなにエッチな本が気になるの?」

「気になってねぇ〜よ!!」

「持ち帰り時間は後から作るから安心していいよ」

「俺は小学生か!! 山へ探検に出かけて、エロ本という名の宝を持ち帰ったけども」

 

 何故かは知らんが……。

 昔は、河原や山にエロ本が捨てられていた。

 俺たちはお気に入りの一冊を手に入れ、それを大切に家の中で保管していた記憶がある。

 

「………………エロガキだったんだね、時縄くんは」

「小学生男児なら誰でも通る道だからな!! エロ本探しの旅は!!」

 

 俺としては——。

 あの頃の俺たちは若かったぜ。

 という感じの懐かしエピソードを語ったつもりだったのだが……。

 彩心真優からはただただ引かれてしまうだけになってしまった。

 男女の感性と違いとでも言うのか。俺としては面白いエピソードの一つだと思うのだが。

 

「ちょっとこっちに来て」

「ん? 何だよ?」

「イイものを見せてあげる」

「掘り出し物があるのか!!」

「んなわけ、ないでしょうが!! ていうか、煩悩を捨てなさい!!」

 

 彩心真優に腕を引かれる形で、俺は階段を上がっていく。

 この工場跡地は何と驚きの四階建てなのである。

 寂れた町工場と言えども、意外と設備はしっかりしているのだ。

 勿論、古くに作られているので、エレベーターという代物はないのだが。

 逆に、その古臭さが何とも言えない良さを醸し出しているのだ。

 

「で、こちらの扉は?」

「屋上の扉だよ」

「鍵は持ってるの?」

「私が来たときに挿さったままだったから、そのまま拝借しちゃった」

「いやいや、鍵を盗むのは犯罪だよ!!」

「だから、今日ここに返しに来たんだよ」

 

 彩心真優はポケットから鍵を取り出した。

 多少錆び付いた金属製の鍵。

 それを使い、屋上へと連なるドアを開く。

 すると——。

 

「うおおおおお!!」

 

 開放的な空間がそこにはあった。

 視界を遮るものは何もない草木が生い茂っていることはなく、虫がブンブンと音を立てて近寄ってくることもない。若干だが、風通りもいい。

 

「驚くのはまだ早いよ、時縄くん」

「えっ……?」

「私が見せたいものはこれだけじゃないからさ」

 

 茫然と立ち尽くす俺を放って、彩心真優はブルーシートが覆いかぶさったものへ近づいていた。内緒だよ、とでもいうように、彼女は鼻先に人差し指を当て、ブルーシートを剥がした。

 

「——————————————っ!!」

 

 青色の衣が夜空を舞い、その下に隠れていたものが現れる。

 出てきたのは大きな天体望遠鏡だった。

 誰のものかは定かではないが、彩心真優の持ち物ではないと思える。

 

「何だよ……こ、これは」

「科学館から製造を頼まれた特注品の一つ」

「えっ……?」

「この工場は元々ビードロを中心に製造していたんだけど、最後の最後に天体望遠鏡用のガラス製造を依頼されたの」

「えっ……? どうして?」

「科学館から頼まれたらしいよ。地元を盛り上げるためにって」

 

 地元に創設された科学館。

 そこに頼まれて製造した最後の一品。

 それが科学館に展示された巨大望遠鏡。

 で、ここにあるのは——。

 

「そのサイズをもう少し小さく作ったものってことか?」

「そ〜いうこと。プロトタイプの作成品ってことだね」

「でも、そう簡単に望遠鏡なんて作れるのかよ? 半信半疑だぜ」

「望遠鏡の作り方は簡単だよ。ガラスを二枚用意して、それを固定すればいいだけだから」

 

 彩心真優がどうしてその情報を知っているのか知らん。

 だが、この目の前に俺の身長よりも遥かに高い超巨大な望遠鏡があるのだ。

 全長は3〜4メートルほどで、運ぶのにも一苦労しそうな代物だ。

 

「そんなことよりも早く。これで空を覗き込んでみなよ」

 

 彩心真優にそう言われ、俺はスコープを覗き込んでみた。

 そこに広がっていた景色は、俺の想像とは全く異なる世界。

 藍色に染まった夜空を埋め尽くすほどに、無数の星々が煌々と輝きを放っているのだ。

 プラネタリウムで見た景色とは違う、本物の美しさ。

 視点を切り替え、様々な惑星を見比べてみる。

 肉眼では、光の強弱しかハッキリと分からなかったものの、天体望遠鏡を使うと、形や大きさが異なることが分かった。

 自分が現在立っている場所から、遠く離れた宇宙の果て。

 そこに映し出される神秘的で幻想的な世界に、俺の心は完全に鷲掴みにされていた。

 

◇◆◇◆◇◆

 

「気に入ってくれた? 私から時縄くんへのお礼はさ」

 

 そう呟きながら、彩心真優がクラフトコーラを突き出してきた。

 星の観察に夢中になっている間に、自販機で購入してきたようだ。

 俺はそれを受け取り、缶の蓋を開けた。

 プシューっと炭酸の抜けた音が響く中、体内へとクラフトコーラを流し込む。

 

「最高だよ!! いや、お前なぜもっと前に教えなかったんだよ!!」

「教える機会が今までなくて……」

「ありがとうな、教えてくれて。最高の一日になったぜ」

「それはよかったよ」

 

 彩心真優は微笑んだ。

 口元に缶を当てたまま、彼女は続けた。

 

「私ね、ずっと不安だったんだ」

「不安? 何が?」

「時縄くんのことが」

「どうして? 俺の何か変か?」

「いや……そのさ、勉強が伸び悩んで苦しんでないかって」

「………今でも苦しいよ。全然成績が上がらないし」

 

 でもさ、と呟きながら、俺は拳を強く握りしめる。

 正直逃げ出したい。できることなら、勉強なんてしたくない。

 医学部を目指すことを諦めたほうが遥かに楽だと思ったことがある。

 それでも俺は——。

 

「諦めたくないんだ。いや……諦めきれないんだよ、医者になるって夢をさ」

 

 

 俺と彩心真優は二人で星の観察会を続けた。

 超巨大な天体望遠鏡で夜空を眺める。ただそれだけで時間だけが過ぎていく。

 プールで遊び過ぎたのがイケなかったのか、俺たちは地べたに座り込んでしまった。

 二人揃って仲良く屋上のフェンスを座椅子代わりに、俺たちは夜の空を見上げる。

 先程までは宇宙の神秘を知って、心が晴々した気分だったのは間違いない。

 ただ、少し目を離してしまうと、様々な不安や葛藤が生まれ、俺は溜め息を吐いていた。

 

「どうしたの? そんな大きな溜め息を吐いて」

「……乙女心が分からなさすぎて困ってるんだよ」

「私はね、時縄くんのことが大好きだよ」

「お前のことじゃないよ。結愛だよ、結愛」

「……結愛さんのことか。で、結愛さんがどうかしたの?」

「結愛のこと……実は最近分からなくなってきたんだ」

 

 本懐結愛のことを愛している。

 それは紛れもない事実だが、俺は最近彼女のことを理解できなくなってきた。

 誰かのことを全て理解するのは不可能なことは分かっている。

 でも、結愛の根本的な部分が理解できず、変な感じがするのだ。

 それは正に、歯と歯の隙間に魚の小骨が入ったかのように。

 

「情緒不安定っていうかさ、行動と言動が一致しないっていうかさ」

「例えばどんなことなの?」

 

 あの日——。

 俺と彩心真優が関係を持ってしまった大雨が降った日。

 彩心真優と関係を持つ前に、俺は本懐結愛の元へと向かった。

 そこで彼女を強く求め、彼女はそれを強く拒絶してきたのだ。

 それなのに——。

 

「……結愛はもっと強く迫ってきてほしかったってさ」

 

 俺は続けた。

 結愛に対する疑問を。乙女心が理解できない冴えない男の疑問を。

 

「好きだから拒絶することだってあるって。本当に意味が分からないだろ?」

 

 俺の質問に対して、彩心真優は「ふぅ〜ん」とつまらなさそうに返事をした。

 そんなことさえも分からないのかと、こちら側を嘲笑うかのように。

 

「私は結愛さんの気持ちが分かるよ」

「……結愛の気持ちが分かる? どういうことだよ?」

「乙女心が理解できない時縄くんに教えてあげる」

 

 月の光を浴びて、横顔の輪郭がハッキリと分かる。

 正面から見ても横から見ても美しい才女は真剣な表情のままに続けて。

 

「女の子はね、言い訳が欲しいんだよ」

「言い訳……?」

「そうだよ。自分は悪くない。そう思い込みたいの」

「意味が分からない。どうして言い訳なんて……」

「逃げ道が欲しいんだよ。時縄くんだってそうでしょ?」

「俺? どこに逃げ道なんて??」

 

 逃げ道を作った覚えはない。

 俺はどんなときでも真正面から向き合う男だ。

 そう自負しているだけに、その発言にはムキになってしまった。

 しかし、彼女はそんな俺をイタズラな笑みを浮かべて、軽くあしらってきた。

 

「時縄くんだって、私との関係は自分が悪くない。そう思っているでしょ?」

 

 図星だった。

 悪いのは彩心真優。

 俺はそう自己暗示を掛けていた。

 誘ってきた彩心真優が悪いんだと。

 俺は、ただその誘いを断り切れず……なし崩し的にそんな関係になってしまった。

 ただそれだけであると。

 

「時縄くんさ、もう結愛さんと別れたほうがいいよ」

「はぁ? 意味が分からないんだが。どうして俺が結愛と別れなきゃ——」

「あの子はさ、時縄くんを不幸にすることはあっても、幸せにすることはできないから」

「不幸? 俺のどこが不幸なんだよ、俺は結愛と一緒に居て幸せだぞ」

「へぇ〜。そうなんだぁ〜」

 

 小馬鹿にするように呟き、彩心真優は再度口を開いた。

 

「私ならもっと時縄くんを幸せにできるんだけどなぁ〜」

「俺が好きなのは、結愛だけだよ」

「ただ、もっと温もりが欲しいんじゃないの?」

「温もり?」

 

 そう問い返す俺に対し、彩心真優は小首を傾げながら。

 

「欲求不満が溜まるでしょ? 浪人生は辛いもんね」

「……お、お前……何を考えているんだ」

「嫌なことを忘れてしまうほどに、お互いを求め合う関係かな?」

 

 それにさ、と付け加えて。

 

「悩みの共有ができるのは、私だけなんでしょ?」

 

 勉強の悩みを共有できるのは、彩心真優だけだ。

 本懐結愛は応援してくれるものの、それ以上の価値を見出してはくれない。

 彩心真優ならば俺の気持ちを理解してくれるし、勉強も教えてくれる。

 

「もうさ、あの子のことなんて忘れて、私を彼女にしちゃいなよ」

 

 本懐結愛を忘れる……?

 そんなことできるはずがない。

 俺は結愛を愛しているのだ。結愛を心の底から愛しているのだ。

 だから、結愛のことを忘れて、彩心真優を彼女にするなんて……。

 

「俺は結愛と約束したんだよ。結愛を絶対に救ってやるって」

 

 そうだ。

 俺は本懐結愛のことが好きなんだ。

 結愛を守ると決めたのだ。結愛を救うと決めたのだ。

 この世界で一番愛している人を今後も好きであり続けると。

 

「良いことを教えてあげるよ。時縄くん」

 

 彩心真優は俺の頬に手を添えてきた。

 その後、彼女は小さな顔を近づけてくる。

 その距離は徐々に狭くなり、もう少しで唇と唇が触れ合いそうだ。

 かと言って、彼女は触れる直前で止め、その先へは進めてくれない。

 

「キミがあの子に抱いているのは、ただの同情だよ」

 

 大きな琥珀色の瞳を見ていると、吸い込まれそうになる。

 このまま彩心真優を抱きしめ、唇を奪ってしまえばいいのではないか。

 そんな邪な気さえ起きるのだが、俺は理性を保ち、彼女の言い分を聞いた。

 

「不幸なあの子に対する同情心だよ」

 

 だからさ、と彼女は不敵な笑みを浮かべ、結論を下してきた。

 

「だからさ、そこには何の愛情もないんだよ」

 

 今まで考えたことがない発想。

 それを告げられた途端、彩心真優は俺の唇を奪ってきた。

 彼女とのキスはこれで何回目かはもう分からない。

 ただ久々に交わしたキスは——。

 甘く、切なく、愛おしい——クラフトコーラの味だった。

 




——夏編『時縄勇太は悪女の色香に抗えない』完結——
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。