「実は俺さ、水族館に行ったことがないんだよな」
「あたしも似たようなものだよ。小さい頃に、一回か二回か行ったぐらい」
澄み渡った青い空に浮かぶ入道雲の下、俺と結愛は海岸に面した道を歩いていた。
流石はリゾート地というべきか、南国さ溢れるヤシが至る箇所に植えられている。
「行ってみた感想は?」
「昔のことだから全く覚えてないよ」
「……だよな。俺も昔のことなんて全く覚えてねぇーわ」
夏の陽射しが燦々と照り付けてくる。
と言えども、汗がダラダラ出てくる暑さではない。
空気が乾燥してるし、海側から涼しい風が吹き渡るのだ。
「勇太はさ、今までの人生の中で一番古い記憶って何?」
「突然だな」
「どれくらい前なら覚えてるかなと思って」
一番古い記憶と言われて、パッと思い付くのは何もない。
小学生以前の記憶も、必ず持っていたはずだが……。
今となっては、全く覚えていない。当時の記憶も、既にあやふやな段階である。
「結愛と一番最初に出会ったときのことは覚えてるぜ」
「あたしと一番最初に出会ったときのこと?」
「あぁ。結愛は覚えてないかもしれないけど、俺には衝撃的だったからな」
「何かあったっけ?」
「俺の身体にビビッと電流が走ったんだよ。一目惚れってヤツだな」
結愛と初めて出会った日——それは小学校の入学式だった。
偶然にもその式に参加したお互いの母親同士が隣の席に座って意気投合。
その後、母親の紹介で挨拶を交わすことになり——俺は恋に落ちてしまったわけだ。
初々しいあどけなさを持つ可憐な笑顔が満点評価の少女に。
「…………ごめん。あたし全然覚えてない」
「……俺と結愛が一番最初に出会った日を覚えていないなんて」
軽い鬱を発症してしまうぐらい落ち込んでしまうんだが。
「小学校の入学式の話だよ? もう十年以上前の話は覚えてないよ」
「じゃあさ、結愛が俺を認識したのはいつ頃なんだ?」
「勇太を勇太と認識したの……う〜ん、難しい質問だなぁ〜」
結愛は腕を組み、眉をググッと歪めて。
「あたしがさ、給食をひっくり返したことあったじゃない?」
「そんなことあったっけ?」
「あったんだよ。大きなおかずの鍋をザブーンって」
そんな過去があったことさえ、記憶が曖昧だ。
もう全く思い出すことができない。
ただ、当時の印象が強く残っているのか、結愛は再度口を開いた。
「クラスメイトたちがさ、批難の眼差しを向けてきたの。まだ小さい子供たちだから本音を次から次へと吐き出してきたんだ。過剰に批難してくる人たちもいれば、わざと大きな声を出してこの状況を楽しんでいる人たちもいてさ……」
俺には当時の記憶がない。多分、小学校低学年の頃の話なのだろう。
高学年の頃の話ならば俺の記憶にもまだ新しく、強烈に残っているだろうし。
結愛の話を聞くだけで、当時の教室が鮮明に思いついちまうな。
「そんなとき、勇太だけはあたしの味方になってくれたんだよね……」
遠い眼差しを向け、結愛は空を仰ぐ。
頬を綻ばせ、彼女は昨日の出来事のように遠い過去の記憶を語った。
「多くのクラスメイトから批難されてるあたしの前に立って、両手を大きく広げてさ……。そのとき……思わず、あたし涙が出てきちゃったんだよね。絶対に泣くもんかと思ってたのに、勇太が味方になってくれた瞬間……我慢できなくてさ」
「正義の味方が現れて安心したってところか?」
「自分のことを正義の味方と自称するのはどうかと思うけど」
「まぁ、別にいいだろ?」
俺はそう笑いながら。
「で、そのときの映像とかないのか? 俺の勇姿を見たいんだが」
「あるわけないでしょ。あったら一生モノのトラウマだよ、あたしには」
結愛は目を細めて「それにしても」と切り出した。
「あたしたちって昔のこと全然覚えてないね」
「逆に十年以上も前のことを覚えてるほうがおかしいんだと思うぜ」
大きな波風に前髪を奪われながらも、俺は続けた。
「だって、三日前の晩ご飯とかもう覚えてないだろ?」
「そ、それは……」
結愛は言い淀む。
顔を俯かせ、ギリギリと効果音が聞こえてきそうなほどに拳を強く握りしめて。
「いつの日か、あたしたちも忘れちゃうのかな。こんなに楽しい今日の出来事さえも」
結愛が立ち止まり、俺もそれに合わせた。
「大好きな人と一緒に過ごした時間のことも」
立ち尽くす彼女の方向へと振り向くと、彼女は暗い表情のままに。
「——こんなに誰かを愛していたことさえも」
俺は結愛へと手を伸ばし、彼女の無防備な腕を奪う。
強く引き寄せると、俯いたままの彼女が上目遣いでこちら側を見てくる。
そんな彼女に、俺は断言した。
「忘れてもいいんじゃないか?」
「えええっ??」
素っ頓狂な声を出し、結愛は戸惑いの表情を浮かべる。
彼女は俺を諭すように、もう一度確認を取るように切り返してきた。
「勇太はいいの? あたしと過ごした日々を忘れても」
「あぁ、俺たちは過去を生きるわけじゃないからな」
思い出を残すことは大切だ。様々な手段を用いて過去を残そうとするのだ。
ただ、過去に固執して生きるのはあまりよろしいことではない。
「今を生きる俺たちにとって、忘れることは大切なんだよ」
俺の感覚が間違っているのか、それとも結愛の感覚が間違っているのか。
世間一般的にどちらが正しいのかは知らん。
俺と結愛の意見が食い違った。ただそれだけの話だ。
「それでも、あたしは絶対にこの想いを忘れたくないな」
結愛は言う。
麦わら帽子の影に潜む向日葵色の美しい瞳を潤ませたままに。
「今のあたしが、時縄勇太という最愛の彼氏を大好きだっていうこの想いだけは」
自分の意見が正しい。
そう確信したかのように、もう一度結愛は潤んだ瞳のままに。
「絶対に忘れたくないよ。どんなに時が経とうとも、この気持ちだけは」
大好きな人と過ごした日々を忘れてしまう。
それは悲しい出来事かもしれない。だが、忘れるとは本当に悪いことなのだろうか。
「結愛、人の記憶は頭だけじゃないと思うぜ」
「どういうこと?」
「心にも記憶は残るんじゃないか? 誰かを好きだって想いはさ」
脳内の記憶では、俺は結愛との思い出を大部分を忘れてしまっている。
ただ、俺は彼女の側にいるだけで、彼女のことが好きだと分かってしまうのだ。
それは心臓の鼓動が早くなることや無駄に緊張して汗を掻いてしまうことが良い証拠だ。俺は「それに」と強い口調で付け加え、寂しげな結愛へと笑みを浮かべて。
「過去を忘れてしまうほど、今日という今を幸せいっぱいにすればいいだけだろ?」
昨日よりも今日。今日よりも明日。
幸せを更新し続ければいいだけの話だ。
「過去の幸せな思い出に浸るぐらいなら、今日を如何に幸せに過ごすかを考えようぜ」
我ながらいいことを言ったぜ。
そう自慢げに耽っていると——。
「…………そっか。勇太は強い人間だね」
「ん?」
「勇太は未来に希望を持って生きていけるもんね」
結愛は意味深な発言を残し、上目遣いのままに訊ねてきた。
「あたしも勇太みたいに強くなれるかな?」
俺は彼女の質問に対して、「うん。なれるさ」と強く言い返すのであった。
◇◆◇◆◇◆
遂に辿り着いた水族館の玄関口には、巨大クラゲのモニュメントがあった。
ここに至るまでにも海洋生物の展示物が幾つか存在していたが、別格に大きい。
「ここの水族館ってクラゲが主役なのか?」
「水族館に主役も脇役も存在しない。全員が主役だよ」
結愛が言う通り、水族館は全員が主役だ。
観に来る人が、何を目当てに来るかによって変わるのだから。
俺と結愛は仲良く手を繋いで、ドーム状の館内へと足を踏み入れる。
「うわあぁ〜。やっぱり人混みが凄いな」
「夏休み期間中だからね」
俺たちが訪問した水族館は、観光地計画が進む一帯にある。
海が綺麗な大人も子供も楽しめるリゾート地というのが売りというのが二年前の話。
ここ最近では、新たなホテルや大型ショッピングモールが近くに作られ、地元の人でも賑わうちょっとオシャレな街並みに変貌しているようだ。
そんな経緯があってなのか、チケットを購入するために大きな行列ができている。
「結愛、ちょっと待ってくれよ〜」
無事にチケットを購入し俺と結愛は水族館を観て回ることにした。
並んでいる最中からウズウズしていた結愛は俺の数メートル先をもう歩いている。
元気に動く姿は、まるで小さな子供を相手しているような気分になってしまう。
「待てないよ、勇太。いっぱいいっぱい観て回りたいんだもん!!」
「やれやれ……そんな急いでたら、迷子になるぞ?」
「迷子……? あたしが? なるわけないじゃん」
「なら、誘拐されるかもしれないぞ?」
「あたしが? あたし、十八歳なんだよ? それに来月には十九歳だし」
「なら、変な男たちから絡まれてしまうかもしれないだろ?」
バカな彼氏だと思われるかもしれないが、あながちそれは嘘ではない。
並んでいる最中に老若男女問わず、結愛の方向をチラチラ見る輩が多かった。
もしかしたら、彼女の美貌に他の方々も気付いたのだろう。無理もない話である。
幸が薄そうな顔をしているが、結愛は飛び切り可愛いことに変わりはないのだから。
「それは勇太が悪い。ちゃんと、彼女を見張っておかない彼氏の責任だと思う」
「恋人同士で遊びに来たのに、それを置いていく彼女側の責任もあるだろ?」
「迷子になっちゃうから?」
「誰が迷子になるか!! 俺だって、十八歳だぞ!!」
「安心してね。迷子になったら、勇太を館内放送で呼ぶから!」
結愛は悪戯な笑みを浮かべて言う。
「浪人生の時縄勇太くん、十八歳。最愛の彼女さんが総合受付けでお待ちしております。もう一度繰り返します。浪人生の時縄勇太くん、十八歳って」
「浪人イジリにもほどがあるわ!! それやられたら、マジで泣くぞ、俺は」
十八歳なのに、迷子のアナウンスを掛けられることも泣けてくるし。
それ以上に、自分が浪人生という身分であることも泣けてくる。
「なら、捕まえてよ。勇太」
結愛はクルッと回転した。足先まで隠す丈が長い白いワンピース。
それがヒラリと揺れ動いて裏返るのだ。少しだけ彼女の色白な肌が垣間見えた。
無邪気な笑みを浮かべる結愛の元へと急いで向かい、俺は彼女を後ろから抱きしめる。それから耳元で囁く。
「捕まえた。もう離さないぞ」
そう口にすると、彼女は抱かれる腕へと触れながら。
「……捕まっちゃった。絶対に離したらダメだよ、この手だけは」
普段では到底聞くことができない甘えた声を出し、頬を朱色に染めるのであった。