初恋に敗れた少女からの最後の願い。
俺はそれを聞き入れ、夜が明けるまで彼氏になることにした。
「お前の好きにしてくれ。それで気が晴れるなら、俺は手伝うよ」
我ながらお前は不埒な人間だと咎められるかもしれないが……。
それは今に始まったことではない。
「ただ、この夜が明けるまでだ。それ以降は友達だ。いいな?」
俺は本懐結愛という最愛の彼女を傷付けたと同時に——。
悪女——彩心真優の心さえも苦しめていたのだ。
性欲に溺れて、少女たちの心を弄んだ俺は罪滅ぼしをしなければならない。
(果たして、これで全てが解決するのだろうか……?)
彩心真優は俺の返答を聞き、肩の荷が降りたらしい。強張っていた肩がストンと落ち、「ふぅー」と口から声を漏らし、柔和な笑みを浮かべているのだ。
彼女にとっては、一世一代の告白だったはずだ。もしも断られたらどうしようと不安に思っていたはずだ。
(楽しい思い出を作っても、それはもうすぐに終わってしまうのだ)
悪女といえど、彼女も一人の普通の女の子。
人並みな感性を持ち、人並みな価値観を持つ、一人の女の子なんだから。
(彩心真優はそれで満足なのか。自分が手に入れたかった理想の未来を少しだけ味わえれば、それで彼女は本当に諦めることができるのだろうか……?)
自問自答を繰り返す俺の前に、彩心真優はビニール袋から何かを取り出した。
じゃじゃーんという効果音付きで。
「実はね、ここに花火があるんだよね」
本人が言う通り、確かにそこには花火があった。
全国的にどこでも売ってそうな花火の詰め合わせセットだ。
やけに荷物が多いと思っていたが、そんなものを隠し持っていたとは。
女性の荷物が多いのは、指摘してはいけない。そう聞いたことがあったし、俺は言及することはなかったものの……。
「お前ってさ、用意周到だな」
「それほどでも」
「褒めてるわけじゃなくて、ちゃっかりしてるなと思って」
「ちゃっかりじゃなくて、しっかりだよ、しっかり!!」
袋を開いて、花火を取り出す彩心真優。
遊ぶ気満々なのか、片方の手にはライターが握られている。
彼女は手慣れた様子で蝋燭に火を付け、砂浜の中にそれを突き刺した。
「よしっ!! それじゃあ、楽しみましょうか!! 夏を!」
手持ち花火を渡され、俺は戸惑いの表情を浮かべてしまう。
彩心真優はもう既に花火の先端に火を付け——。
「キタキタ!!」
興奮の声を上げ、彩心真優は俺から少し距離を取った。
正にその瞬間——闇夜に輝く無数の火花。
閃光が走るように光り輝くそれはあまりにも美しかった。
赤、黄、紫、青緑と自由自在に色を変えていく。
だが、その美しかった光も、一分も経たないうちに終わりを迎えてしまう。
「どうしたの? そんな白けた顔をして……時縄くんも楽しみなよ!」
「……いや、久々だなと思って。こんな花火をするのはさ」
「久々ってどのくらい前?」
「小学生の頃じゃないかな? 結愛と二人っきりでやってたんだよ」
結愛が身体を壊して以来、俺たちは夏を思うように満喫できなかった。
療養という理由で、結愛は夏の期間だけ田舎の別荘に行っていた。
それは、結愛の両親が彼女の身体を思っての、せめてもの救いだったのだろう。夏という期間だけは、少しでも病院から解放してあげたいという願い。
「なら、私が上書きしてあげる」
彩心真優は瞳に炎を宿らせる。
「あの子との思い出なんて全て忘れさせて、私一色に染めるから」
俺の手を引き、彩心真優は蝋燭の前へと立たせる。
彼女が先に火を付け、俺は彼女が手に持つ花火の火を受け取った。
バチバチと弾ける音が心地よく、もっと聞いていたいと思ってしまう。
火花が色を変え始めると、彩心真優が神妙そうな声色で言う。
「赤はリチウム、黄色はナトリウム、紫はカリウム」
化学を専攻している者なら誰もが知る炎色反応。
俺は彼女の声を聞きながらも、化学の復習を行うのであった。
本当に俺たちはどれだけ受験という名の魔物に飲み込まれているのだろうか。
◇◆◇◆◇◆
花火が残り半分となった頃合い——。
「初恋の忘れ方ってどうすればいいのかな?」
突然、彩心真優がそう訊ねてきた。
俺が困ることをわざと言っているのではないか。
そう疑問に思うほどに、彼女は次から次へと難しいことを言い出す。
「時間が解決してくれるんじゃないのか?」
「時間が解決か」
数秒間、俺と彩心真優の間には沈黙があった。
弾ける花火の音だけが響き渡る。
会話が途切れるのは気まずく感じるかもしれないが、逆に今はそれが心地よかった。
「無理だったよ。どんなに歳を重ねても、人生を何度やり直したとしても、私が時縄くんを好きだったという感情は忘れられそうにないよ」
たったの数秒間。されど数秒間。
その間に彼女は一度人生を終え、人生を何度かやり直した。
そう主張するかのように彼女は「えへへへ」と困った笑みを漏らした。
俺とは次元が違う天才様のことだ。
本当に数秒間だけで、人生全てをシミュレーションをしていたとしてもおかしくない。ならば、俺も少しだけ本音を漏らすしかないな。
「彩心真優。ありがとうな、俺のことを好きになってくれて」
感謝の気持ちだ。
俺みたいな冴えない男に恋をしてくれた女の子への切実な想い。
「結愛がいなければ、俺はお前に本気で恋してたと思う」
本懐結愛と彩心真優。
この二人のどちらを選ぶか。
その究極の選択で俺が選んだのは——。
「——やめて……やめてよ、時縄くん。その先は、まだ聞きたくないよ」
彩心真優は、俺の口から出てくる答えに拒絶の意を示した。
告げるべきかと思っていたものの、まだ伝えるべき段階じゃないか。
「………………そうか」
うん、と頷いたあと、彩心真優は普段通りの悪戯な笑みで。
「それに今の時縄くんは、私の彼氏でしょ? もっと彼女を大切にして」
もっと大切にしろと言われても……。
そう疑問に思った頃合い、俺たちの目に飛び込んできたのは——。
「クラゲだよ、クラゲ!!」
彩心真優は小さな子供のように指を差して口元を緩ませる。
海の水面に映るのは大量のクラゲ。
水色と緑色を混ぜたような色合いで発光しているのだ。
今まで何故この幻想的な景色に気付かなかったのか。
「可愛いよね、クラゲって」
海面へと近づく。
体内の95%が水分で構成されているクラゲはぷかぷかと浮かんでいた。
浜辺際に押し寄せる彼等の姿は、地球を攻め落としに来た宇宙人と言っても納得できそうな見た目である。
「何だよ、お前も好きなのか?」
「うん。大好きだよ。クラゲって可愛いじゃない?」
「可愛さが俺にはイマイチわからないんだが……」
「でも、何? そのお前もっていう言い方は?」
「……いや、結愛もクラゲが可愛いと言ってぬいぐるみを購入しててさ」
ゴクリと生唾を飲み込む音が聞こえてきた。
「何だか嫌になっちゃうなぁ〜。好きなモノの好みも同じなんてさ」
「お前もクラゲのぬいぐるみを買ったのか?」
「いや……私は購入まではいかなかったけど、ぬいぐるみを抱きしめるまではした。そしたら、近くで眺めていた男性が速攻で購入しに行ったけどね」
「その話……深掘りしたら、確実に危険なニオイしかしないんだけど」
「そうなのかな? 私が試着した服や靴って結構売れるらしいんだよね〜」
得意気に語る彩心真優には大変申し訳ないが……。
男性に限らず、女性さえも魅了してしまうカリスマ性があるとは。
クラゲの観察会も終了し、俺たちは蝋燭を突き刺した砂浜へと戻る。
俺と彩心真優は線香花火を取り出し、ほぼ同時に火を付ける。
「時縄くん」
その瞬間、俺は甘い声で名前を囁かれた。
まだ火花が炸裂する前の花火を携えたままに、名前を呼ぶ少女へと向き直す。
「この花火が終わるまでなら、私考え直してあげるよ」
「考え直すって?」
「あの子のことを忘れて、私に乗り換えてくれないかな?」
本懐結愛のことを忘れて、彩心真優のことを新たな彼女にしろってことか。
俺がそう訊ね返すと、彼女は首をコクリと頷かせる。
片方の手を鼻先に当てて、微笑みながら。
「ここだけの話にしといてあげるから」
蝋燭の火を受け、その種は次第に膨らんでいく。
最初は静かだったものの、徐々に激しくなっていく。
火の玉は四方へと伸び、蜘蛛の糸のようなものを吐き出していく。
と言えども、その軌跡は数秒で消え、また新たなものへと変化していくが。
「そう言ってくれたら、私は考え直してあげるよ」
考え直すと言われても、俺が好きなのは——。
「でも、この火の玉が落ちてしまったら、もうそれはなし」
ふっと微笑を浮かべながら、彼女は続ける。
「もう私は一生キミのことを好きになんてならない」
燃え上がった火の玉は膨らんでいるものの、花弁の勢いは収まっていく。
チリチリと音を立て、光の粒を溢れ出せるのみ。
その小さな火花は夏の夜風に揺られ、今にも落ちてしまいそうだ。
「さて、どうするかな? 私を選ぶ? それともあの子を選ぶ?」
本懐結愛を選ぶか。彩心真優を選ぶか。
二人とも、最高に魅力ある女の子たちだと思う。
正直な話、俺にはもったいないと思えるほど可愛い女の子たちだ。
けれど、この現代社会において、どちらか一人を選ぶことしかできない。
俺が出した結論は——。
「はぁ〜い、残念でしたぁ〜。時縄くん」
喉元まで出かけた言葉を出そうとした瞬間——。
彩心真優が持っていた線香花火が地面へと落ちた。
砂浜へと落ちた火の玉は星屑のように周囲を照らしている。
「何を白けた顔をしているのかな?」
「いや……だって、あれは」
俺が口に出そうとした瞬間、彩心真優はわざと手元を揺らしたのだ。
その結果、火の玉は落ち、続く俺の言葉を聞かなくて済んだようだが。
「もしかして本気にしちゃったのかな? さっきの言葉」
彩心真優は言い、すぐに立ち上がった。
まるで、この場から逃げるかのように
ホットパンツに付着した砂を取りながら、彼女は言う。
「でももう全てが遅いんだよ、時縄くん」
それから彼女は残りの花火を全て取り出し、蝋燭へと近付けた。
「もう私は、時縄くんのことを好きになることは一生ありません」
月光だけが届く世界の下で、悪女は微笑んだ。
その笑顔一回で、多くの男性たちを虜にしてきたのだろう。
両手に握った手持ち花火から火の粉が溢れ出した。
幾重にも持つそれは夜の静寂を引き裂くように色鮮やかな光を放つ。
悪女はそれを持ったままに、クルリ、またクルリと回転していく。
そうすると必然的に小さな光が闇夜の中で咲き誇るのだ。
通った場所に残る火の軌跡は、日中では決して見ることができない幻想の花。
その一瞬一瞬が永遠のように感じ、時間という概念を忘れさせてしまう。
ただ、始まりがあれば、必ず終わりが存在する。
数分も経たない間に、彩心真優が握っていたものは役目を終え、そこには火薬の香りとそれを発していた残骸だけが残っていた。
それにも関わらず、少女だけはまだ回っていた。
あはははと甲高い声で笑いながら。
しかし、足場が悪い砂浜だ。
彼女は足を踏み外したのか、砂浜へと仰向けの状態で倒れてしまう。
でも、俺がそうはさせない。
「——大丈夫か?」
倒れゆく彼女の腕を掴み、俺は自分側へと引き寄せる。
彼女の手からは、突然の事態に花火を地べたに落としていた。
彼女の顔を見てから気付いたのだが——。
「どうしてだろうね……最初から叶わない恋だって知ってたのに」
彩心真優の頬を伝うのは、溢れ出した涙の数々。
クルクルと回転しながら、彼女は涙を流していたのだろう。
決して俺は気付きもしなかったのだが……。
彼女は目尻を真っ赤に染めたままに。
「心の何処かで、もしかしたらまだ私が選ばれるかもと思っちゃうんだから」
諦めるとか忘れさせてとか言い出すくせに、彩心真優は希望を抱いていたのだ。俺がまだ彼女を選ぶ可能性を考えてしまっていたのだ。
選ぶ側の立場として、俺は彼女の気持ちなんて全く考えていなかった。
俺と結愛さえ幸せになれば、それだけでいいと。そう切り捨てていた。
だけど——。
「俺さ、お前の気持ちなんて全く考えてなかったよ」
「…………最低だね」
「あぁ、最低なドクズ人間だよ、俺は」
「おまけに彼女に嘘を吐いて、他の女に靡く最低なクズ男だよね」
「…………そこまで辛辣に言われるのは困るが、まぁそうだよな」
本懐結愛を傷付け、更には彩心真優まで傷付けて。
二人の女の子を困らせることしか、俺はしていなかった。
優柔不断な最低男には、ピッタリな役目かもしれないが。
「俺さ、別にお前を傷付けていたつもりはなかったんだよ」
「分かってるよ。結愛さんを優先して考えていたんでしょ? あの子のことしか考えられないほど、時縄くんが真っ直ぐな性格のこと知ってるよ」
少なからず、本音を漏らせば。
俺は彩心真優に惚れられて嬉しかったんだと思う。
本懐結愛という最愛の彼女を持ちながらも、都合の良い女を持ち。
俺は優越感に浸っていたのだ、きっと。
本懐結愛を優先するなら、俺は彩心真優を拒絶すればよかったのに。
そうすれば、初恋に破れる少女をこんなにも傷付けずに済んだのに。
「ありがとう。本音を教えてくれて」
「ごめんな、罪深い男で。さっさと断ればよかったのに」
「ううん。深追いした私が悪いんだよ。ダメ男に恋した私の問題だから」
だって、時縄くんは、と呟きつつ、報われない恋をした少女は言う。
「クズでダメで情けない、女の子を泣かせちゃう酷い男だもん」
クスクスと小馬鹿にする笑いは、相変わらず健在だ。
本当にこの子は、俺を困らせることが大好きなようだ。
「時縄くんが本音を言ってくれたから、私も言うね。本当の気持ちを」
彩心真優は念を押すように「これで終わりだから」「もう終わりにしていいから」と言い、更なる言葉を紡いだ。
「私のことをもっと好きになってほしかったよ。私のことだけを考えてほしかったよ。私を選んでほしかったよ、あの子じゃなくて。私を——」
心が引き裂けそうなほどに、それは致死性濃度が高い本音であった。
これほどまでに彼女を傷付けてしまっていたのは、紛れもない自分自身。
俺が知らない間にも、彼女は何度も何度も自分の気持ちを振り返ったのだろう。そこで自分の恋心に諦めを付けようと何度も思ったはずだ。
けれど、結局、諦めることはできなくて、今日まで至ったわけだ。
「私さ、やっぱり時縄くんのことを忘れられそうにないよ、あはは」
「無理に忘れる必要なんてないさ」
「ううん。違うの。私はそれでいいと思ったんだよね」
「それでいいって?」
「一生この恋心を抱えたまま生きていくって決めたんだよ」
「そんなの辛いだけじゃないか? 報われない恋心を抱えるなんて」
「なら——時縄くんが私を選んでくれるの?」
言葉が詰まる質問を受け、俺は口元を半開きにしてしまう。
その姿を見て、彼女は「冗談だよ、冗談」と両手を合わせてきた。
「忘れたくても忘れられないことに意味があると思うんだ」
「どういう意味だよ?」
「忘れたくないことも忘れたいことも、全て私にとって大切な記憶だから」
彩心真優の選択が正しいのか、間違っているのか。
俺には判別が付かない。
その答えを知るのは、未来の彼女のみだろう。
ただ、その道が茨であることは間違いない。
「キミはこの先、私のことなんて全て忘れちゃうかもしれない」
「忘れるわけないだろ?」
「ダメだよ。ここは忘れるって言わなきゃ」
「どうしてだよ?」
「——また、私が本気になっちゃうから」
彩心真優の願いは、初恋の忘れ方を教えてくれだった。
彼女の願いを叶えるためには、俺は悪い男になる必要があるのだ。
彩心真優のことなんて忘れて、他の女の子に夢中になる最低な男に。
「でもこれだけは覚えていてね。キミの初めてを奪ったのは私だってことは」
「忘れるさ」
俺がそう呟くと、彩心真優は微笑んだ。
夜風に吹かれ、長い黒髪が揺れ動く。
彼女はその風を気にする素振りもなく、鼻先へ指先を当てて。
「まぁ、これだけは二人だけの秘密だね、結愛さんにも内緒のことだね」
あぁ、誰にも話すことができない俺と彩心真優だけの思い出だ。
俺が一生愛する彼女に吐き続けなければならない隠し事である。
「それじゃあ、最後に過去の自分とお別れする前に、キスをしてくれないかな?」
「突然だな、お前は。キスなんてしたら……余計に忘れられなくなるだろ?」
「忘れるために必要なんだよ。今だけは時縄くんの彼女でしょ?」
そういえば……そういう約束をしていたな。
だが、ここでキスなんてしたら……。
彼女ではなく、俺が忘れられなくなる可能性があると思うんだが。
「早くしてくれないと、あの子に全部バラしちゃうよ。本当のこと」
小悪魔じみた発言をしつつも、彩心真優は手慣れた様子で俺の首に腕を回した。俺は逃げ場を失い、彼女と真正面で顔を見合わせることになる。
余裕そうな表情を浮かべていたのは、最初だけであった。
途中から彼女の表情は戸惑いのものになる。
もしかしたら、彼女本人も、これ以上先を求める行為に抵抗があるのかもしれない。これ以上進んでしまったら、余計に自分が傷付いてしまうだけではと。
「今日だけは。今だけでいいから」
ただ、一度昂った感情を消すことはできない。
人間は長期的な幸せよりも一時の快楽に溺れてしまう生き物なのだ。
それは紛れもなく、俺自身も同じで——。
「ちゅ♡ ちゅ♡ んちゅ♡ んんぅ♡ んんんんんううううぅ♡」
唇と唇を合わせるだけの接吻から、徐々にその間隔を短くしていく。
それから次第にその長さを深め合い、相手の瞳を見ながらキスをする。
これでいいだろと半ば思った頃合いでも、彩心真優は決して離れてくれない。
体内の酸素を全て吸い尽くすかのように、彼女は激しい求めてくるのだ。
俺もそれを取り返そうと必死になってしまい、結局泥沼化するのであった。
ハァハァと息を切らしながらも、彩心真優は言う。
「今この瞬間だけでいいから。もう一度、あの日と同じように名前で呼んでよ」
夜だけは、俺は彩心真優の彼氏になるしかないのだ。
罰ゲームで負けたから仕方ないことなんだ。
そう自分に言い聞かせ、俺はあの日と同じように彼女の名前を呼ぶ。
「真優」
名前を呼ばれただけで、儚い少女の肩が揺れ動く。
久々に名前で呼ばれたことが嬉しかったのか。
それとも本当に呼んでもらえるとは思っていなかった衝撃か。
調子に乗った彼女は、更なる要求をしてくる。
「偽りの愛でいいから、今だけは囁いてよ」
最愛の彼女持ちのくせに、俺は偽りの愛を囁いた。
大好きだと。
そんなまやかしの言葉さえも、彼女は素直に受け取り、笑みを漏らした。
「うん。私も大好き」
「愛も囁いて。あのときみたいに」
アイシテル。
たった五文字の魔法の言葉。
それを言うだけで、悪女の頬は緩んだ。
「私も愛してる」
その言葉を終わりの合図にし、俺と彩心真優は唇を離した。
名残惜しいという感想が出てきてはいけないのは理解している。
だが、今の俺は彼女をもっと求めてしまっていた。本当に最低な男である。
彼女のことを忘れなければならないのに。彼女を傷付けてはいけないのに。
「私に恋を教えてくれてありがとうね、時縄くん」
月明かりに照らされた満面の笑みを漏らす彩心真優。
俺は彼女を見て、果たして自分の行いが正しかったのかと思い直す。
でも、今の彼女を見る限り、幸せそうな表情を浮かべているのだ。
だから、きっと間違ってはいないだろう。
「こちらの方こそ、俺みたいな男に恋してくれてありがとうな」
足下を見ると、花火の残骸があった。
もう既に火は消え、煙も消えてしまった残骸が。
先程までは、もう花火はいいかと思っていたものの……。
もう一度やりたいと思ってしまうのはどうしてなのだろうか?
◇◆◇◆◇◆
浜辺から旅館への帰り道。
自販機でもう一度飲み物を購入し、俺たちはそれを回し飲みした。
喉が渇いたというよりは、口元の唾液などを除去する役割のためだ。
「私は今日のことを忘れないと思う」
購入したミネラルウォータ―を傾けながら、彩心真優は言う。
「ただ、もう時縄くんは忘れてよ。この日のことは全てね」
「あぁ、忘れるよ」
口ではそう言ったものの、忘れるはずがない。
彼女――彩心真優に対し、俺は少なからず好意を抱いていたから。
もしも、本懐結愛という最愛の彼女がいなければ、俺は彩心真優と付き合っていただろう。ただ、それはあくまでも仮定の話である
「もしも、もしもの話だよ」
そう前置きしてから、俺の隣を歩く少女は言う。
「もしもあの子がこの世界にいなかったら——」
それは決してこの世界では起こり得ないこと。
そんな話を、彼女は語りかけてきた。
「私は、時縄くんの一番大切な人になれたのかな?」
わからないよ、そんなこと。
一番大切な人になれるかなんて。
限りなく高い確率で大切な人になっていたかもしれない。
だが、そんな話なんて、考えても意味がないだろ?
俺がそう告げると、彼女は「そうだね」と苦笑した。
日中は蒸し暑いものの、夏の夜は意外と涼しかった。
空気がどんよりしている梅雨のほうが感覚的には暑いように思える。
時折吹く夜風が心地よく、もう少しだけ外に出ていたくなる。
と言えども、目の前にはもう既に旅館が見えていた。
あぁ、もう夏の逃避行も終わりかと思った頃合い——。
見てはいけないものを、俺は目撃してしまっていた。
旅館へと繋がる夜道に、一人の茶髪髪少女が浴衣姿のまま倒れていたのだ。
その姿は正しく、俺がこの世界で愛する彼女——本懐結愛の姿だ。
どうしてこんな場所に、と疑問を思う頃にはもう動き出していた。
「結愛!! 結愛!! おい……結愛、何してるんだよ、こんなところで」
呼びかけるものの、結愛の返事はない。
ただ、微かに呼吸はしていた。
結愛の心臓は動いている。
だが、今にも死にそうなほどに彼女の頬は青白く、そして冷たかった。