第60話『時縄勇太は最愛の彼女に依存している①』
夏が終わった。
それでも暑さは健在で、少し動くだけで汗が吹き出る。
寝坊気味な俺は自転車を全力で飛ばし、どうにか予備校へと到着した。
駐輪所へと自転車を停め、軽く息を整えながら自分の教室へと向かう。
(昨日も、今日も、明日も……俺は勉強三昧な毎日だ。浪人生万歳ッ!!)
扉を開くと、俺と同じく【浪人生】の落胤を押された者が集まっていた。
ノートと参考書を行き来する者、友達と雑談を交わす者、スマホをいじる者——。
果たして、一年後に微笑むことができるのは一体誰だろうか。
そう皮肉な笑みを浮かべながらも、俺は心に誓う。
コイツらよりも確実に良い点数を叩き出してやる。必ず俺は成功した人生を歩んでやると。
その熱が覚めぬうちに、英単語の一つや二つを覚えようと座席へと向かおうとした瞬間——。
「んっ!!」
彩心真優と目線が合った。
彩心真優の周りには彼女を慕う女子生徒数人が集まり、楽しく談笑しているようだ。
予備校内屈指の成績を誇る彼女だ。頼られることが多いのだろう。
そんな彼女は勉強に悩む女子生徒を尻目に、俺へと口元を緩め、右手を僅かに振る。
俺もそれに合わせ、彼女に右手を僅かに上げて応対する。
「えっ!! 今の何!? 真優ちゃん、今の……何!!」
「ん? 何のこと?」
「しらばっくれても無駄だよ!! あれ、明らかにアイツに向けたレスでしょ!」
「嘘でしょ……嘘だと言って……そんなわけが……」
声を荒げる女子生徒たち。
その声に、教室中の生徒たちの視線が集まる。
何があったんだと。何事かと。
「いやいやいや、ないない。真優ちゃんがあんな奴と……」
「でも、あの反応は……」
「嘘だと言って。お願いだから、真優ちゃんがあんな男と仲良いなんて……」
開いた口が塞がらず、視線を俺と彩心真優の間を何度も迷わせる女子生徒たち。
しかし、当の本人である一人——彩心真優は頬を赤らめて。
「……その勇太くんは悪い人じゃないよ? とっても優しいし頼りがいのある人だから」
「「「「「勇太くん〜〜〜〜〜〜??????」」」」」
黄色い歓声に包まれる教室。
俺は女子生徒たちの不審な視線から逃げるように自分の席へと座る。
「ったく……騒がしくて勉強どころじゃないぜ」
溜め息を吐きつつ、俺がスマホを取り出すと——。
『結愛:おはよう!! 今日も一日勉強がんばって!! 応援するぞ〜!』
思わず、握る手に力が入る。
最愛の彼女からの応援メッセージ。
こんな単純な文面でも、俺の元気は百倍になるのだ。
「……結愛、頑張るよ」
本当に男ってのは単純な生き物だぜ。
そう憐れみながらも、俺は英単語帳を取り出すのであった。
◇◆◇◆◇◆
地方の予備校に通う冴えない浪人生。
ボサボサ頭にゆったりとしたラフな格好。
他人とつるむことなく、朝から晩まで勉学に励むガリ勉野郎。
それが俺——時縄勇太を傍ら見た際に思う評価だろう。
正に「浪人生の鑑」として、校内で表彰してもらいたいのだが——。
俺には誰にも言えない秘密を抱えている。
それは——俺には二人の彼女がいるってことだ。
一人は、余命幾ばくな茶髪ショートの儚い少女・本懐結愛。
一人は、圧倒的な存在感を放つ黒髪ロングの少女・彩心真優。
俗に言うところの、二股ってやつだ。
俺が最低なクズ男であることは承知の上だが。
俺だって、本気なのだ。二人とも大切なのだ。
だから、選ぶことができず、結局俺は二人との関係を続けているのだ。
「もしかして結愛さんに申し訳ないって思ってる?」
いつも通りの昼休み、大広間教室にて。
隣の席に座る彩心真優が小首を傾げてきた。
「……………………」
午後の陽射しが机や床に淡い影を落とす。
僅かに開いた窓から風が入る度に、カーテンが揺れ動き、光の模様がゆらゆらと変化する。
それと同時に、寄り添うように隣に座る少女の切り揃えられた前髪が揺れ動く。
「そっか。やっぱり優しいから、あの子への罪悪感で押し潰されそうなんだね」
押し黙る俺へと慰めの言葉を掛け、彼女は小さな子供をあやすように頭を撫でてきた。
為すがままにされるが悪い気は全くしなかった。
彼女は全く動かない俺を見て、「よし」と判断したのだろう。
彼女は小ぶりな口を俺の耳元に寄せ、甘い毒を吐いてきた。
「でも、大丈夫だよ、勇太くんは何も悪いことしてないから」
——勇太くん。
以前まで、彼女は俺のことを「時縄くん」と呼んでいた。
だが、あの日を境に変わってしまったのだ。
結愛の誕生日であり、夏祭りが行われた、あの特別な日を境に——。
「悪いのは、全部私だから。私が勝手に二番目の彼女に立候補しただけだし」
「悪いのはお前だけじゃない。受け入れた側の俺の問題でもある」
「なら、私たちは二人とも最低な人間だね」
「最低なのは、俺だけだよ。二人の女の子を同時に好きになってしまったな」
「彼女さんから大切な彼氏を奪った私も同罪でしょ?」
彩心真優は優しい女だ。
いや、優しいわけではないか。
俺の罪悪感を少しだけ和らげるために甘い言葉を掛けてくれるのだ。
それを甘んじて受け入れている俺が最低な男であることは間違いないが……。
「勇太くんにとって、私はどんな存在?」
「難しい質問だな」
「本心を聞きたい」
「大切な人だと思う。多分、俺はお前が他の男と喋ってるだけでイライラすると思う」
「ふぅ〜ん。そんなに思ってくれるんだ。これは嬉しい報告かも。嫉妬するんだね、時縄くんも」
「当たり前だろ。俺は嫉妬の権化だぞ」
「それは威張ることではないと思うんだけど……」
俺は独占欲が強い。
自分が好きな女の子が他の男と喋っているだけで苛立ってしまう。
小学生の頃なんて、男子に取り囲まれて微笑む結愛を見て、どれだけ嫉妬したことか。
「私との関係って、結愛さんにはずっと黙っておくの?」
「逆に話す選択肢があると思ってるのか?」
「誠実な彼氏だったら切り出すのかなと思って」
「誠実な彼氏なら二股を元々やらねぇーだろ」
「それはそうだ。最低なクズ彼氏だから二股するんだもんね」
最低なクズ彼氏だと自嘲する分には構わないが……。
他の人に言われると無性に気になるのはどうしてか。
「なら、私たちの関係は結愛さんには内緒だね」
「当たり前だ。結愛にバレたらどうなることか……」
「ふふふ」
「何がおかしいんだよ。笑いやがって」
「イケナイことしてると思うと……口元が」
「お前って変だよな」
「彼女さんに隠れて行う真実の恋って背徳感最高じゃない?」
彩心真優の言葉に、俺は言葉を失ってしまう。
自分の本心を言い当てられてしまったからだ。
最愛の彼女を騙して、別の女とも関係を築く。
結愛の笑顔を思い浮かべるたびに、胸の内側に鈍い痛みが突き刺さる。
あの無垢な瞳、俺だけを信じる柔和な表情。
甘え上手で、俺以外に誰一人頼れる人がいない孤独な少女。
俺のことだけを愛し続けてくれる最愛の彼女なのに……。
俺はそんな大切な彼女を裏切っているのだから。
——結愛だけを愛せ、結愛だけを愛し続けろ、結愛だけを守ってやれ。
心の何処かでそう告げる自分もいるのだが、もう今の俺には無理な難題だ。
「真実の恋かは別だけど……最高だと思うぜ、二股ってのは」
「本当にクズだね。二股を最高だと自白するなんて」
「お前が言わせたんだろ?」
俺がそう問うと、彩心真優は無邪気な笑みを浮かべる。
その悪戯な笑みに、俺は吸い込まれそうになる。
今の俺にとって——。
結愛と過ごす温かな時間も、真優と交わす秘密な時間も。
その両方が、今の俺には必要なのだ。欲しているのだ。
それが許されざる行為だとは理解している。
いつの日か、俺が断罪される日が訪れるのは百も承知だ。
しかし、今だけは、俺はこの偽りな幸せを味わいたい。
「真優、キスしよう」
真優の言い分も聞かずに、彼女の顎を持ち上げる。
すると、彼女はもう既に準備が整えたようだ。
目を瞑って、淡い桃色の唇をこちらへと突き出してくるのだ。
俺以外の前では決して見せないメスの顔を曝け出す二番目の彼女。
俺は彼女を愛しいと思いつつ、彼女へと甘い口付けを行うのであった。
◇◆◇◆◇◆
【とある予備校の生徒たちの日常会話】
「なぁ、聞いたか?」
昼休みの教室の隅。
数人の男子が寄り集まって、ひそひそと声を潜めている。
その中心にいる一人が、不穏な口ぶりで口火を切った。
「彩心真優の彼氏いるだろ?」
「アイツの話はするな。飯がマズくなる」
「メシウマなネタかもしれないだろ?」
「それなら話を聞いてやろう」
「で、あの選ばれし男な。で、そいつがどうかしたんだよ?」
「実はな……アイツ二股してるらしいぞ」
その言葉に、周囲の空気が一瞬止まった。
椅子にだらしなくもたれていた一人が驚いたように声を上げる。
「はぁ? 二股? おいおい、何言ってんだよ」
「だよな。あの彩心真優の彼氏だろ? 他の女に目がいくかよ」
椅子に深く座り込んでいた男子たちが身を乗り出し、半信半疑と好奇心が入り混じった視線を向ける。
話を持ち込んだ男子は肩をすくめながら、ニヤリと微笑んだ。
「だからこそなんだよ。その彼氏って奴が、表向きは真優一筋に見えて、裏で別の女と……って噂があるんだ」
「……どこ情報だよ、それ」
一人が懐疑的に問い返す。
その言葉を待っていましたとばかりに、噂を持ち込んだ男子は得意げに笑う。
「根拠があるんだよ、根拠がよ。夏祭りの日の話知ってるだろ?」
「夏祭り? 何かあったっけ?」
「女の子が倒れたって話。めちゃくちゃ可愛い茶髪の女の子が倒れてたって話だよ」
「ああ……何か聞いたことあるような。確か、その彼女の彼氏が暴れたんだっけ?」
「ん? どうして彼氏が暴れるんだよ?」
「彼女の周りに寄ってたかって、野次馬共が集まってたからだよ。中には、その子に少しでも触ってやろうと企む気持ち悪い男どももいたみたいだぞ、お前みたいにな」
「いやいやいや……俺でもわざと人混みが集まる場所で偶然を装ってシリを触るぐらいだよ」
予備校仲間の口から出てきた痴漢エピソードに、残りの男子たちは固まる。
数秒間の沈黙後、とある一人の男がこの微妙な空気を元に戻した。
「そうだそうだ。思い出した。救急車が来て、危険な状況だったんだよな」
「ええと、何か叫んでたらしいんだよな。俺は詳しく知らないけど……」
——俺の彼女に指一本触れるな!!
話を持ち込んだ男がそう呟く。
すると、他の男子たちの間で爆笑の渦が巻き起こる。
「何だよ、それ。不良漫画の見過ぎだろ」
「てか、指一本触れるなとかカッコよすぎるだろ。てか、クサすぎるだろ」
「だろ? でも、この話はまだ終わりじゃない。もっと面白いんだよ」
「もしかして……」
「いやいやいや、まさか……その……いや? まさかな……」
「そのまさかだよ」
話題の中心にいる男が口元を緩め、続きの言葉を放つ。
「その彼氏ってのが、あの彩心真優の彼氏らしいんだよ」
話を聞いていた男子たちが、一瞬言葉を失う。
数秒後に一人が声を荒げた。
「いやいやいやいや! 何だよそれ! 完全に嘘くせぇだろ!」
「だよな! あの真優の彼氏だぞ? 二股なんて考えられるかよ!」
「お前、真優とか言うなよ。気持ち悪い」
「別にいいだろ。名前を呼ぶぐらいはさ」
「本人と一度も喋ったことないくせに、お前名前呼びするなよ」
「いや、喋ったことあるし。俺がおはようといったら、返してくれたし!」
声が大きくなるにつれ、周囲の生徒たちもちらちらと彼らに視線を向け始める。
しかし、噂を持ち込んだ男子は肩をすくめ、ふざけた調子で続けた。
「待て待て。お前と彩心真優の恋愛事情なんてどうでもいいんだよ」
「何が、俺と真優の恋愛事情はどうでもいいだ。ふざけるな!!」
彩心真優に儚い恋心を抱く男子を放って、噂を教えてくれた男子はいう。
「けどさ……これ、意外と信じてる奴多いんだぜ?」
「そんな話、誰が信じるんだよ! 証拠だせ、証拠を!」
「証拠なんてないって。その場にいた奴がそう言ったんだよ」
「いや、それじゃあただの噂じゃねぇーかよ」
ここで、一人の男子が新たな情報を吐き出した。
「でもさ……あの茶髪の女の子って病衣を着てたらしいな」
「病衣って……じゃあ、病院から抜け出してきたってことか?」
「マジかよ。そんなのありえないだろ」
「だからこそ面白いんだろ? 実際お前らも内心ちょっと気になってるだろ?」
笑いが絶えない噂話の中、一人がポツンと呟いた。
「もしそれが本当だったら、真優ちゃんがそんな奴と付き合ってるってのもヤバくね?」
「真優ちゃんがいるのに、もう一人女を作るとか……どう考えてもクズだな」
「でもよ、あの男はどうやって真優ちゃんともう一人を騙してるんだ?」
「洗脳能力か催眠能力持ちかもしれないな」
「いや……もしかしたら真優ちゃんは脅迫されているのかもしれない!」
「……ヤベェ、マジで気になる。どうやったらあんな男がモテるんだろうな」
長い沈黙が訪れた後、一人の男子が本心を告げる。
「アイツ……なんだかんだでカッコいいからな」
「……それ俺も思うわ。服装とか髪型はダサいけど、元々の素材がいいよな」
「顔だけは確かに認める。中性的な顔立ちで、最初見たときは女と間違えたからな」
この話題を話していた男子たちは、何の悪気もなかった。
ただの噂話に過ぎない内容を適当に喋っていただけに過ぎなかった。
しかし、彼等が話した噂話は次第に、教室全体、更には予備校全体に広がっていく。
「夏祭りで……」「病衣の女の子?」「真優ちゃんの彼氏が二股……?」
断片的な言葉が次々と飛び交い、それを聞いた生徒たちの間で勝手な解釈が膨らんでいく。
「えっ? それ本当の話なの?」
「いやいや、嘘に決まってるじゃん。あの彩心真優だよ。浮気されるわけなくない?」
「でも、もし本当だったら……これは事件だよ、大事件だよ!」
そんな会話が至る場所で囁かれる。
まるで、その噂は生き物のように形を変え、どんどん大きくなっていく。
しかし——。
その話題の当本人である二人——。
時縄勇太と彩心真優はこの荒波に気付いていない。
だが、この波が二人を飲み込むのはそう遠くないだろう。
◇◆◇◆◇◆
【本懐結愛視点】
「……ここが勇太が通う予備校!!」
夕暮れ時の予備校前。
自分と同年代の若々しい生徒たちが校舎から出てくる。
その姿を近くで見届けつつも、結愛は虚しい気持ちになってしまう。
浪人生という悲しい身分を持つ彼等だけど、それは今だけの辛抱だと。
それを乗り越えれば、彼等は大学生になり、明るい未来が待っていると。
「……やっぱりあたしとあの子たちは全然違う世界の住人なんだね」
本懐結愛は諦めた口調で呟き、首を横に振る。
今日自分が来たのは、虚しい気持ちになるためじゃない。
わざわざ外出許可を貰い、ここに来たのは理由があるじゃないか。
「勇太にこのお弁当を食べてもらって、もっと勉強に精を出してもらわないと」
彼女の手には何度も試行錯誤を繰り返したお弁当箱がある。
今の自分に、最愛の彼氏にできることは何か。
それを考えた結果——もうこんなことしか考えることができなかったのだ。
「でも、どうやって入ればいいんだろう?」
予備校の中がどんなふうになっているのかはわからない。
もしかしたら、厳重なセキリティがあるかもしれない。
「勇太からは全然既読も付かないし、何の連絡もないし」
ぷくーと頬を膨らませ、最愛の彼氏へと怒りを露わにする。
ただ、ずっとここで立ちっぱなしというわけにもいかない。
受付の人に手渡すのが一番早いかもしれない。でも、それで大丈夫なのかな?
「ねぇ、キミってさ、どこのクラス?」
物思いに耽っていると、結愛の前に突然知らない男が話しかけてきた。
その後方には、彼の仲間と思われる生徒が集まっている。
どうやら、自分は予備校の生徒だと勘違いされているようだ。
「ええと……あ、あたしは……そ、その」
「ほら、お前……困ってるじゃねぇーかよ」
「そうだぞ、お前何をやってるんだよ。こんな可愛い子を困らせやがって!!」
「ちょっと、お前ら抜け駆けするんじゃねぇーよ!!」
「そうだぞ!! お前だけズルいぞ!! 俺も彼女と喋らせろ!!」
本懐結愛は何も知らない。自分が可愛い女の子だということを。
故に、側にいるだけで、ドギマギしてしまう男性たちが大勢いることを。
おまけに、彼女と喋りたい一心で、男子たちがちょっとした争いになることさえも。
(勇太……どうしよう。あたし、変な人たちに絡まれちゃったよ????)