「くはぁ〜。やっぱり熱い湯船に浸かるってのはいいもんだぁ」
温泉宿で見かけるおっさんじみた口調で、俺はそう呟く。
身体全身を包む42度の湯船に、心までもが癒されていく。
湯船に浸かる文化は日本特有だというが、外国もさっさと導入するべきだ。
夏場ならシャワーでいいかもしれない。だが、冬場は寒いだろ?
俺が外国人のお風呂事情を憂いていると、突如として電気が消えた。
「て、停電か!?」
何が起きたのかは、さっぱり分からない。
視界が暗く、何も見えないのだ。
浴槽の隣にある窓から僅かにある月光だけが頼りだ。
「お待たせ」
脱衣所の磨りガラス張り扉が突如として開かれる。
現れたのは人影。姿形はハッキリとは分からない。
でも、声で分かる。目の前に最愛の彼女——本懐結愛がいると。
「結愛、これはどういうつもりだ?」
「勇太と裸のお付き合いをしてみようと思って」
冷静な対応を試みる俺を他所に、結愛は正気を保っていなかった。
当たり前のようにシャワーの蛇口を捻り、髪を洗い始める。
だが、その前に——。
「待て待て。そういう問題じゃないだろ?」
「ねぇ、勇太。そんなにあたしと一緒が嫌なの?」
肩口まで伸びた茶色の髪が濡れていく中、結愛は流し目でそう訊ねてきた。
横から見える彼女の白い肌に俺の心は奪われ、声が詰まってしまう。
男とは全く異なる柔らかそうな肢体に、横から見える豊かな乳房。
下半身がムクムクと膨らんでいることを自覚しつつも、俺は答える。
「嫌じゃないよ……」
「なら、何も問題ないよね?」
「いや……問題大アリだ」
俺はそう呟くと、浴槽から上がり、脱衣所へと向かう。
しかし、扉へと手を掛けた瞬間、俺の動きは止まってしまう。
「……逃げるんだ、勇太は」
結愛が俺の身体に抱きついてきたのだ。
抱きつく行為は何度もされたことがある。
ただ、今の俺たちはお互いに裸なわけで……。
背中に感じる柔らかさとコリっとした硬い感触。
求めるように、俺の胸元を摩る手のひらと指先。
「最初に迫ってきたのはそっちでしょ?」
最初に迫ってきたというのは、あの日のことだろうか。
本懐結愛に救いを求め、拒絶され——。
俺が彩心真優と一夜を共にしたあの日のことを言っているのか。
「自分が都合の良い時だけ迫るのに……」
彼女の吐息が俺の首元を擽る。
「彼女が迫るときは逃げ出すんだ」
それなら、と彼女はイジワルな声色で続けて。
「なら、あたしのことを非難することはできないね」
俺は言い訳を作るのが上手かった。
悪いことを起きれば、俺のせいじゃないと否定していた。
実際、彩心真優と関係を持ってしまったことも。
本懐結愛が俺を拒絶し、意気消沈して——。
心が弱ったところを彩心真優に付け入られてしまった。
だから——俺は悪くないという感じで、責任転嫁していた節がある。
最愛の彼女に対する罪悪感も残っていたものの、元を正せば、俺を拒絶した結愛の責任でもある。
あのとき、彼女が俺を求めていればと。あのとき、彼女が俺を求めなかったから。
——俺は彩心真優と関係を持ってしまったんだと。
しかし、先程結愛が放った言葉は、ちっぽけな俺の心の拠り所を壊すものだ。
自分が都合の良い時だけ迫るだけ迫って、自分が都合の悪い時は拒絶する。
言わば、それは——あのときの本懐結愛の行動を受け入れることになる。
「いいかげんにしろよ、結愛」
最愛の彼女を愛している。
その言葉には何の嘘もない。
俺は心の底から本懐結愛が大好きだ。
「俺は以前にも忠告したはずだ。歯止めが効かなくなるかもって」
俺の怒鳴り声を聞き、本懐結愛がより一層強く抱きしめる。
だが、俺は軽く彼女の腕を振り解き、小柄な彼女の身体を突き放す。
壁際にぶつかる彼女へと俺は一気に距離を詰め、顎を上側へと向ける。
「——お前を今ここで壊してやる。あとでゴチャゴチャ言うなよ」
その言葉を待っていた。
そう言わんとばかりに、本懐結愛の瞳が星のように煌く。
女の子だって、時には激しく求められたい。
そういえば……結愛はそんなことを言っていた気がする。
なら、別にいいだろう。彼女本人からも了承を得たのだ。
思う存分、彼女が嫌がるほどに求めてやろうではないか。
◇◆◇◆◇◆
女体を知ってしまった雄の性は言わなくてもいいだろう。
何度抱いても、何度唇を交わしても。
決して心が晴れる気配がない。
前方が暗闇のトンネルを突き進んでいる気分になる。
光も何も見えず、今更引き返すこともできず、ただ前へ前へと。
「勇太があたしを求めてくれて嬉しかったよ♡」
自分の性欲を掃き出す、言わばストレス発散の情事に過ぎなかった。
身勝手で傲慢で相手を思い遣る気持ちなど皆無なワガママな行為。
それにも関わらず、本懐結愛は嬉々とした声で甘えてくる。
「…………勇太のこともっと好きになった」
大人な俺たち二人が入るには少々狭い湯船。
お互いの身体が密着する中、俺の両足の間に座る最愛の彼女。
彼女は僅かに顔を後方へと向けて。
「キスして」
行為の最中にも、何度も結愛はそう求めてきた。
今も目を瞑ったままに、唇を突き出している。
最愛の彼女が求めているのだ、もう逃げ場はどこにもない。
男として、彼氏として、俺がやるべき行為は既に決まっている。
「んっちゅ♡ ちゅ♡ ちゅ♡ すごい……すごいよ……んんうう、うう」
彼女の甘い吐息が肌に触れ、お互いの目線が合う。
熱を加えたチョコレートのように茶色の瞳は溶けていた。
「これで満足か?」
「……うん。激しくしてくれて嬉しかった」
今にも消えそうなほどに小さな声で最愛の彼女は続けた。
「それだけ勇太があたしのことを愛してくれてるってことだから」
窓から差し込む月の光が彼女の肌へと降り注ぐ。
雪原のような白さだ。
静寂な空間に佇む息遣いと共に、彼女の肩がゆっくりと上下に動く。
「——あたしはね、要らない子なんだよ」
結愛の口から出てきた言葉に、俺は当然のように訊き返した。
「要らない子? どういう意味なんだ?」
「言葉通りの意味だよ。あたしは生まれてきたらいけない子だったんだよ」
透き通るほどに美しい声。
けれど、その声はどこまでも悲しげに満ちていた。
「あたしのせいでパパとママは仲が悪くなっちゃったんだよ」
「何言ってるんだよ、結愛は別に悪くないだろ……?」
「ううん。あたしのせいで、パパとママはいつも喧嘩ばっかりしてたの」
自分の耳を塞げば、これ以上聞かずに済んだかもしれない。
「あたしのことで、毎日言い争ってた。お前があんな子供を生んだから悪いんだって。お前があんな子供に育ててきたから悪いんだって」
結愛の口を塞げば、これ以上言わさずに済んだかもしれない。
「あたしがこんなカラダになる前は、みんな幸せだった!! パパもママも仲良しで、あたしの周りにはいっぱいの友達がいて……それなのに、それなのに、全部壊れた、全部壊しちゃった。あたしが……あたしが……全部全部悪いんだよ」
でも、俺はどちらもできず、ただ結愛が抱える闇を共有することしかできなかった。
「でも仕方ないよね。愛を注いで育ててきたたった一人の娘が、自分たちよりも先に死ぬんだもん。あたしは最低最悪な親不孝者だよ、何一つ恩返しできないんだからさ」
子供が生まれてきた時点で。子供が自分のもとに生まれてきた時点で。
親にとっては、もう既に恩返しは完了しているんだよ。
それなのに、どうして結愛はそれに気が付かないのだろうか。
「どんなに愛しても、どうせあたしは死んじゃうんだから」
あはっと壊れた笑みを浮かべる彼女を、俺は静かに抱き寄せる。
柑橘系シャンプーの香りが鼻腔を擽る。
本懐結愛は生きている。本懐結愛は、今確かに生きている。
それは紛れもない事実だ。近い将来死ぬかもしれないが、それでも今はまだ——。
「俺は結愛が生まれてきてよかったと思ってるよ」
「どうして……?」
「結愛が生まれてきたおかげで、俺は結愛に出会えたから」
「あたしは別に何も勇太にしてあげられなかったよ?」
「——初恋なんだよ、俺にとって本懐結愛という幼馴染みはさ」
初恋は特別だ。
忘れたくても決して忘れられない思い出だ。
本懐結愛に出会えたからこそ、俺の人生には色が付いたと思う。
「結愛がいたから、俺の人生は幸せだった」
本懐結愛に出会う前の人生なんて、思い出せない。
本懐結愛に出会った後の人生があまりにも輝いていたから。
彼女と出会ったことで、俺の人生は大きく変わったのだから。
「結愛はさ、何もしてあげられなかったと言ったけど、それは嘘だよ」
だって、と呟きつつ、俺は彼女の背中に顔を寄せる。
病弱なまでに小柄な少女のカラダ。
少し押しただけで倒れてしまいそうなほどに頼りがなかった。
ただ、身も心も全てを——本懐結愛に捧げていいと思ってしまう。
「俺は結愛の笑顔さえ見れるなら、どんなことでも成し遂げられるからさ」
本懐結愛が望むなら、俺は何だってやる。
本懐結愛が俺を求める限り。
俺の馬鹿な発言を聞き、結愛は「ふふっ」と鼻で笑いながら。
「あたしはね、自分のことが嫌いだった」
浴槽の中でクルッと身体を回転させ、俺と対面する形になる結愛。
彼女は俺の首へと白い腕を回して。
「でもね、勇太があたしを愛してくれるから」
息と息が絡み合う距離まで近付き、本懐結愛は闇色の瞳を向けて。
「勇太が好きでいてくれるから、あたしも自分のことが好きになれるんだよ」
雲が掛かったのか、月明かりが徐々に消えていく。
熱っぽい甘い声に、潤み今にも溶けそうな瞳。
満面の笑みを浮かべる彼女を眺めつつ、俺は口元を歪ませてしまう。
最愛の彼女——本懐結愛の笑顔を独占しているという優越感に駆られて。