忘れちゃいなよ、初恋なんて   作:平日黒髪

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第65話『時縄勇太は最愛の彼女に依存している⑥』

「くはぁ〜。やっぱり熱い湯船に浸かるってのはいいもんだぁ」

 

 温泉宿で見かけるおっさんじみた口調で、俺はそう呟く。

 身体全身を包む42度の湯船に、心までもが癒されていく。

 湯船に浸かる文化は日本特有だというが、外国もさっさと導入するべきだ。

 夏場ならシャワーでいいかもしれない。だが、冬場は寒いだろ?

 俺が外国人のお風呂事情を憂いていると、突如として電気が消えた。

 

「て、停電か!?」

 

 何が起きたのかは、さっぱり分からない。

 視界が暗く、何も見えないのだ。

 浴槽の隣にある窓から僅かにある月光だけが頼りだ。

 

「お待たせ」

 

 脱衣所の磨りガラス張り扉が突如として開かれる。

 現れたのは人影。姿形はハッキリとは分からない。

 でも、声で分かる。目の前に最愛の彼女——本懐結愛がいると。

 

「結愛、これはどういうつもりだ?」

「勇太と裸のお付き合いをしてみようと思って」

 

 冷静な対応を試みる俺を他所に、結愛は正気を保っていなかった。

 当たり前のようにシャワーの蛇口を捻り、髪を洗い始める。

 だが、その前に——。

 

「待て待て。そういう問題じゃないだろ?」

「ねぇ、勇太。そんなにあたしと一緒が嫌なの?」

 

 肩口まで伸びた茶色の髪が濡れていく中、結愛は流し目でそう訊ねてきた。

 横から見える彼女の白い肌に俺の心は奪われ、声が詰まってしまう。

 男とは全く異なる柔らかそうな肢体に、横から見える豊かな乳房。

 下半身がムクムクと膨らんでいることを自覚しつつも、俺は答える。

 

「嫌じゃないよ……」

「なら、何も問題ないよね?」

「いや……問題大アリだ」

 

 俺はそう呟くと、浴槽から上がり、脱衣所へと向かう。

 しかし、扉へと手を掛けた瞬間、俺の動きは止まってしまう。

 

「……逃げるんだ、勇太は」

 

 結愛が俺の身体に抱きついてきたのだ。

 抱きつく行為は何度もされたことがある。

 ただ、今の俺たちはお互いに裸なわけで……。

 背中に感じる柔らかさとコリっとした硬い感触。

 求めるように、俺の胸元を摩る手のひらと指先。

 

「最初に迫ってきたのはそっちでしょ?」

 

 最初に迫ってきたというのは、あの日のことだろうか。

 本懐結愛に救いを求め、拒絶され——。

 俺が彩心真優と一夜を共にしたあの日のことを言っているのか。

 

「自分が都合の良い時だけ迫るのに……」

 

 彼女の吐息が俺の首元を擽る。

 

「彼女が迫るときは逃げ出すんだ」

 

 それなら、と彼女はイジワルな声色で続けて。

 

「なら、あたしのことを非難することはできないね」

 

 俺は言い訳を作るのが上手かった。

 悪いことを起きれば、俺のせいじゃないと否定していた。

 実際、彩心真優と関係を持ってしまったことも。

 本懐結愛が俺を拒絶し、意気消沈して——。

 心が弱ったところを彩心真優に付け入られてしまった。

 だから——俺は悪くないという感じで、責任転嫁していた節がある。

 最愛の彼女に対する罪悪感も残っていたものの、元を正せば、俺を拒絶した結愛の責任でもある。

 あのとき、彼女が俺を求めていればと。あのとき、彼女が俺を求めなかったから。

 

——俺は彩心真優と関係を持ってしまったんだと。

 

 しかし、先程結愛が放った言葉は、ちっぽけな俺の心の拠り所を壊すものだ。

 自分が都合の良い時だけ迫るだけ迫って、自分が都合の悪い時は拒絶する。

 言わば、それは——あのときの本懐結愛の行動を受け入れることになる。

 

「いいかげんにしろよ、結愛」

 

 最愛の彼女を愛している。

 その言葉には何の嘘もない。

 俺は心の底から本懐結愛が大好きだ。

 

「俺は以前にも忠告したはずだ。歯止めが効かなくなるかもって」

 

 俺の怒鳴り声を聞き、本懐結愛がより一層強く抱きしめる。

 だが、俺は軽く彼女の腕を振り解き、小柄な彼女の身体を突き放す。

 壁際にぶつかる彼女へと俺は一気に距離を詰め、顎を上側へと向ける。

 

「——お前を今ここで壊してやる。あとでゴチャゴチャ言うなよ」

 

 その言葉を待っていた。

 そう言わんとばかりに、本懐結愛の瞳が星のように煌く。

 女の子だって、時には激しく求められたい。

 そういえば……結愛はそんなことを言っていた気がする。

 なら、別にいいだろう。彼女本人からも了承を得たのだ。

 思う存分、彼女が嫌がるほどに求めてやろうではないか。

 

◇◆◇◆◇◆

 

 女体を知ってしまった雄の性は言わなくてもいいだろう。

 何度抱いても、何度唇を交わしても。

 決して心が晴れる気配がない。

 前方が暗闇のトンネルを突き進んでいる気分になる。

 光も何も見えず、今更引き返すこともできず、ただ前へ前へと。

 

「勇太があたしを求めてくれて嬉しかったよ♡」

 

 自分の性欲を掃き出す、言わばストレス発散の情事に過ぎなかった。

 身勝手で傲慢で相手を思い遣る気持ちなど皆無なワガママな行為。

 それにも関わらず、本懐結愛は嬉々とした声で甘えてくる。

 

「…………勇太のこともっと好きになった」

 

 大人な俺たち二人が入るには少々狭い湯船。

 お互いの身体が密着する中、俺の両足の間に座る最愛の彼女。

 彼女は僅かに顔を後方へと向けて。

 

「キスして」

 

 行為の最中にも、何度も結愛はそう求めてきた。

 今も目を瞑ったままに、唇を突き出している。

 最愛の彼女が求めているのだ、もう逃げ場はどこにもない。

 男として、彼氏として、俺がやるべき行為は既に決まっている。

 

「んっちゅ♡ ちゅ♡ ちゅ♡ すごい……すごいよ……んんうう、うう」

 

 彼女の甘い吐息が肌に触れ、お互いの目線が合う。

 熱を加えたチョコレートのように茶色の瞳は溶けていた。

 

「これで満足か?」

「……うん。激しくしてくれて嬉しかった」

 

 今にも消えそうなほどに小さな声で最愛の彼女は続けた。

 

「それだけ勇太があたしのことを愛してくれてるってことだから」

 

 窓から差し込む月の光が彼女の肌へと降り注ぐ。

 雪原のような白さだ。

 静寂な空間に佇む息遣いと共に、彼女の肩がゆっくりと上下に動く。

 

「——あたしはね、要らない子なんだよ」

 

 結愛の口から出てきた言葉に、俺は当然のように訊き返した。

 

「要らない子? どういう意味なんだ?」

「言葉通りの意味だよ。あたしは生まれてきたらいけない子だったんだよ」

 

 透き通るほどに美しい声。

 けれど、その声はどこまでも悲しげに満ちていた。

 

「あたしのせいでパパとママは仲が悪くなっちゃったんだよ」

「何言ってるんだよ、結愛は別に悪くないだろ……?」

「ううん。あたしのせいで、パパとママはいつも喧嘩ばっかりしてたの」

 

 自分の耳を塞げば、これ以上聞かずに済んだかもしれない。

 

「あたしのことで、毎日言い争ってた。お前があんな子供を生んだから悪いんだって。お前があんな子供に育ててきたから悪いんだって」

 

 結愛の口を塞げば、これ以上言わさずに済んだかもしれない。

 

「あたしがこんなカラダになる前は、みんな幸せだった!! パパもママも仲良しで、あたしの周りにはいっぱいの友達がいて……それなのに、それなのに、全部壊れた、全部壊しちゃった。あたしが……あたしが……全部全部悪いんだよ」

 

 でも、俺はどちらもできず、ただ結愛が抱える闇を共有することしかできなかった。

 

「でも仕方ないよね。愛を注いで育ててきたたった一人の娘が、自分たちよりも先に死ぬんだもん。あたしは最低最悪な親不孝者だよ、何一つ恩返しできないんだからさ」

 

 子供が生まれてきた時点で。子供が自分のもとに生まれてきた時点で。

 親にとっては、もう既に恩返しは完了しているんだよ。

 それなのに、どうして結愛はそれに気が付かないのだろうか。

 

「どんなに愛しても、どうせあたしは死んじゃうんだから」

 

 あはっと壊れた笑みを浮かべる彼女を、俺は静かに抱き寄せる。

 柑橘系シャンプーの香りが鼻腔を擽る。

 本懐結愛は生きている。本懐結愛は、今確かに生きている。

 それは紛れもない事実だ。近い将来死ぬかもしれないが、それでも今はまだ——。

 

「俺は結愛が生まれてきてよかったと思ってるよ」

「どうして……?」

「結愛が生まれてきたおかげで、俺は結愛に出会えたから」

「あたしは別に何も勇太にしてあげられなかったよ?」

「——初恋なんだよ、俺にとって本懐結愛という幼馴染みはさ」

 

 初恋は特別だ。

 忘れたくても決して忘れられない思い出だ。

 本懐結愛に出会えたからこそ、俺の人生には色が付いたと思う。

 

「結愛がいたから、俺の人生は幸せだった」

 

 本懐結愛に出会う前の人生なんて、思い出せない。

 本懐結愛に出会った後の人生があまりにも輝いていたから。

 彼女と出会ったことで、俺の人生は大きく変わったのだから。

 

「結愛はさ、何もしてあげられなかったと言ったけど、それは嘘だよ」

 

 だって、と呟きつつ、俺は彼女の背中に顔を寄せる。

 病弱なまでに小柄な少女のカラダ。

 少し押しただけで倒れてしまいそうなほどに頼りがなかった。

 ただ、身も心も全てを——本懐結愛に捧げていいと思ってしまう。

 

「俺は結愛の笑顔さえ見れるなら、どんなことでも成し遂げられるからさ」

 

 本懐結愛が望むなら、俺は何だってやる。

 本懐結愛が俺を求める限り。

 俺の馬鹿な発言を聞き、結愛は「ふふっ」と鼻で笑いながら。

 

「あたしはね、自分のことが嫌いだった」

 

 浴槽の中でクルッと身体を回転させ、俺と対面する形になる結愛。

 彼女は俺の首へと白い腕を回して。

 

「でもね、勇太があたしを愛してくれるから」

 

 息と息が絡み合う距離まで近付き、本懐結愛は闇色の瞳を向けて。

 

「勇太が好きでいてくれるから、あたしも自分のことが好きになれるんだよ」

 

 雲が掛かったのか、月明かりが徐々に消えていく。

 熱っぽい甘い声に、潤み今にも溶けそうな瞳。

 満面の笑みを浮かべる彼女を眺めつつ、俺は口元を歪ませてしまう。

 最愛の彼女——本懐結愛の笑顔を独占しているという優越感に駆られて。

 

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