先に戻っていてほしい。
そう頼まれ、俺は一足先に結愛の部屋へと戻った。
机の上には先程まで見ていた卒業アルバムがある。
元の位置に戻しておこうと、俺は棚まで移動した。
置いてあった場所の隣に——。
「これって卒業文集か」
小学生時代に書いた卒業文集。
俺の家にもあるはずなのだが、今ではどこにあるのかも分からない代物。
それを手に取る。
クラス全員で撮影した集合写真。
美人で有名だった最愛の彼女——本懐結愛が中心に立っていた。
その周りには取り巻きの少年少女が居て、そこから少し離れた位置に俺が居た。
下手くそな笑顔を浮かべ、本懐結愛の側に居たいのに居られなかった当時の俺が。
「クック」
不気味な笑みが部屋中に響き渡る中、俺は文集のページを捲る。
出席番号順に生徒たちの夢や目標が書き綴られていた。
卒業仕立ての頃ならば、クラス全員の内容が気になっただろう。
けれど、今では縁を切れている奴等が書いた内容など興味がない。
「あった」
俺の指先は本懐結愛のページへと動いていた。
彼女の好きな食べ物、彼女の好きなテレビ番組、彼女の好きな科目。
彼女の好きな芸能人、彼女の結婚したい年齢、彼女の好きなこと。
そこには、当時まだ病気を患う前の明るい彼女の「好き」が書き綴られていた。
その中でも、俺の目に止まったのは——。
【将来の夢:歌手】
今でも決して忘れることがない小学校六年生時の発表会。
学年毎に行う劇の主役に抜擢された本懐結愛は見事な演技を行った。
俺たちの学年が行なったのはオリジナル脚本の劇。
内容は、小学生向けの劇にしてはシリアスなものだった。
核戦争で終末を迎えた世界で、少女が一人で歌を歌い続ける話。
物語は、過去の幸せな時間と、現在の不幸せな時間を交互に繰り返す。
過去の世界には、家族や友達が居て、温かな食事があり、ふかふかのベットがあって。
全てが幸せに満ちているのだが、現在の世界には全てが荒れ果てているのだ。
少女は質素な缶詰を開いて、食を満たし、眠気に襲われれば擦り切れた毛布を被る。
喋り相手は知性を持った炊飯器型のロボットだけで、少女は彼と二人だけの時を過ごす。
そこには救いなんて存在しなかった。ただ絶望の世界がそこにはあった。
最終的な終わり方は——核戦争の影響で退廃した空気に侵され、少女は死に至るもの。
ただ、この劇の出来は素晴らしかった。
主役を演じる本懐結愛の圧倒的な演技力と歌唱力によって。
客席に座っていた全ての人々が魅了されてしまったのだから。
少女が死に至って、舞台の幕が閉じた後——。
客席の人々が立ち上がり、全員で拍手を送った瞬間を、俺は今でも覚えている。
そして、あの日以来——本懐結愛の可憐さは今まで以上に加速したのである。
***————***
『本懐の演技、マジで凄かったよ!!』
——近寄るな、結愛は俺のものだ。
『本懐さん……めちゃくちゃ輝いてたよ。アイドルになれるんじゃね?』
——結愛に喋りかけるな。結愛は特別なんだ。
『結愛って、めちゃくちゃ歌が上手いのな。知らなかったよ!』
——お前が馴れ馴れしく、結愛の名前を呼ぶな。汚れるだろ?
なぁ、結愛。
お前もそうだろ?
結愛もそうだよね?
あんな男たちに喋りかけられて嫌だよね? 退屈だよね?
俺以外の男に喋りかけられて、気持ち悪いと思ってるはずだよね……?
ねぇ、そうだよね。そうだと言ってよ、お願いだから、結愛、結愛、結愛——。
「…………あ、ありがとう、み、みんな。褒められること少ないからとっても嬉しい」
——結愛、嘘だよね? どうしてなの? どうして顔を赤らめているの?
「あたし、もっともっと歌上手くなってみようかなぁ〜。えへへへ〜」
それってさ、照れだよね? どうして俺以外の男の前で照れてるの?
ねぇ、教えてよ、結愛。結愛は俺のことが好きなんだよね。
それなのに、どうして俺以外の男の前で笑ってるの?
結愛が笑ってもいいのは、俺の前だけじゃないのかよ。
***————***
過去の記憶が俺の脳裏に蘇る。
あの頃、俺が抱いていた鬱屈とした感情が。
俺以外の男と楽しそうに喋る結愛の姿が。
それが、正に今日起きた出来事と重ねってしまう。
予備校の前で、俺が知らない男たちと喋っていた最愛の彼女と。
「…………嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
俺がブツブツと呟いていると——。
「どうしたの? 勇太、何か怒ってる?」
後方から声が掛かり、俺は手元の卒業文集を落としてしまう。
それを拾うこともなく、愛想笑いを浮かべて俺は振り返る。
「怒る? 俺が? どうして?」
「今日の勇太は何かおかしいから」
「気のせいじゃないか? 俺はいつも通りだよ」
「もしかして、あたしが他の男の子にも大人気で嫉妬しちゃったのかな?」
「………………………………」
図星だった。だが、それを認めたくなかった。
心の奥底にある自分の本心を伝えたら、気持ち悪いと思われるかもしれないから。
どれだけ本懐結愛のことが好きで好きで堪らないのかを知られるのが怖くて。
「嫉妬するわけないだろ。あんな奴等と喋ってても、俺は何とも思わないよ」
「…………そうなんだ。あたしは嫉妬しちゃったのに」
「嫉妬?」
「うん。勇太が真優ちゃんと楽しそうに喋ってるのを見て」
結愛はそう呟き、ベッドの上に座る。
その後、近くにあるクラゲのぬいぐるみ——クラちゃんを抱き寄せる。
ぐにゃりと身体部分が曲がるクラちゃん。キノコ頭の部分だけは原型を留めている。
そんなぬいぐるみへと頬擦りを行い、引きつった笑みを浮かべたままに。
「でも……仕方ないよね。あたしと違って、とってもカワイイもんね」
「結愛だってカワ——」
「ううん。お世辞は要らないよ」
俺の言葉を遮り、結愛は首を横に振った。
「あの子には、あたし敵わないと思ったよ。別格の存在なんだもん」
本懐結愛は可愛い。それは、彼氏の偏見なしで断言できる。
街を歩く十人中八人九人は、結愛を可愛いと言うだろう。
だが、それ以上に彩心真優は別格のルックスを持っているのだ。
言わば、全員が全員「あの人は可愛い」と思ってしまうほどの。
ただ、それだけの話に過ぎないのだが、結愛はそれが気になるようだ。
「結愛。前にも言ったけど、俺は他の誰でもない本懐結愛を好きなんだよ」
本懐結愛よりも容姿が美しい女性は、世界中を探せば幾らでも出てくるだろう。
でも、それが何だという話だ。
容姿がどれだけ優れていようと、俺が世界で一番愛してるのは本懐結愛なのだから。
「あとな、容姿の優劣なんて好みの問題なんだよ。だから、あんまり気にするなよ」
現代社会は、ルッキズムという文化が席巻しているようだ。「美」を求めることは悪くない。良いことだと思うが、求めすぎるのはよろしくない。
ニュースで話題になっていたことだが、多くの可愛い女の子たちが自分の顔を見て、「可愛くない」とか「ブス」と卑下し、整形する道を歩んでいるのだという。
それで問題が解決すればいいのだが、整形を続けたところで、自分が思い描く理想の自分になれず、心を病み、命を立つ若者も少なくないそうだ。
「………………ありがとう、勇太。やっぱり優しいね」
暗い表情に光が射し込み、幼さが残る明るい笑顔へと戻る。
結愛はクラゲのぬいぐるみをテーブルへと置き、俺の方へと歩み寄ってきた。
距離にして、数十センチ。
少し手を伸ばせばお互いの身体が触れ合う位置で、結愛は両手を大きく広げて。
「勇太、抱きしめて」
「突然だな」
「嫉妬させた勇太が悪い」
「了解」
最愛の彼女からおねだりを受ければ、言うことを聞くしかあるまい
両手を差し伸べる彼女の元へと歩みを進め、ゆっくりと抱きしめる。
全体的に骨張っており、カクカクとした感触が残る最愛の彼女。
でも、出るべき部分はしっかりと出ており、確かな柔らかさが健在する。
「勇太に抱きしめられると安心する」
耳元でそう囁く最愛の彼女に、俺も本心を告げる。
「そう言ってくれたら嬉しいよ。俺も安心できる」
抱きしめる力を強めて、彼女をもっと感じる。
本懐結愛は温かい。人肌を持った普通の女の子だ。
俺だけの。俺だけを愛してくれる存在。
「今日は一段と強いね、勇太」
嬉しさ半分恥ずかしさ半分な曖昧な表情を作り、結愛も強く握りしめてきた。
彼女の胸元が押し潰され、俺の身体へとのめり込んでいく。
もっともっと彼女を感じたい。もっともっと彼女に触れたい。
そんな感情だけが支配する中、俺は——。
「ごめん。さっき俺、嘘を吐いた」
「嘘? 何のこと?」
「………………」
自分の気持ちを伝えたら、結愛に「気持ち悪い」と言われないだろうか。
一瞬そう悩んだものの、俺は自分の気持ちを正直に伝えることにした。
「笑わないで聞いてくれるか?」
「聞いてあげる。でも、聞いたあと、笑うけどいい?」
「…………まぁ、別にいいけど」
心の奥底に潜む、俺の本心。
ドス黒い感情を出せば、結愛に嫌われるかもしれない。
その可能性を考慮しつつも、俺はもう我慢できなかった。
「——結愛が俺以外の誰かと関わるの嫌なんだ、俺は」
女々しい発言だなと自覚はある。
それを直接彼女に言う時点で、自分の気持ち悪さは理解できている。
「男とか女とか関係なく、結愛には俺だけを見ててほしいんだ」
本懐結愛が好きなのは、俺だけで。
本懐結愛が関わっていいのは、俺だけで。
本懐結愛が心を許すのは、俺だけで。
本懐結愛が愛していいのは、俺だけで。
「結愛にはもっともっと俺だけを愛してほしいんだ。この俺だけを」
本懐結愛を救うために、俺は医学部を目指しているのだ。
医学部を目指すのは、本懐結愛を救い出すため。
自分の青春を捨て、勉学に全てを捧げたのも——全ては結愛のため。
「結愛を絶望から救い出せるのは俺だけなんだよ?」
結愛を救えるのは俺だけなのに……?
どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして、どうして。
どうして本懐結愛は俺以外の誰かと関わろうとするのだろうか?
それっておかしいことじゃないか? それっておかしなことじゃないか?
「結愛を救えるのは俺しかいないんだよ?」
だからさ、と俺は縋るような声で呟いていた。
「もっと俺を愛してよ。もっと俺を必要としてよ」
白い頬を掠めるのは目尻から滾れ落ちる水滴の数々。
「もっともっと俺を最優先に考えてくれよ。なぁ、結愛」
悶々とした感情の答えは——独占欲。
本懐結愛を誰にも奪われたくないのだ。
本懐結愛を自分の思い通りに動かしたいのだ。
最低最悪な男だと罵ってもらって構わない。
ただ、そんなクズ野郎の頬へと、最愛の彼女は手を添えてくれた。
「ごめんね、勇太。あたしのせいで傷付かせちゃって」
結愛は何も悪くない。
悪いのは俺だ。自己中心的で身勝手な俺が悪いだけだ。
彼女が社交的になることは喜ぶべきことなのに。
俺は、それを完全に否定しているのだから。
「…………ハハハ、俺って最低だな。クズ野郎だな、本当に」
もしも、彼女が社会に馴染めてしまったら。
もしも、彼女が社会復帰を行い、俺以外の誰かと仲良くなったら。
そうしたら、俺の存在はどうなるのだろうかと。
本懐結愛にとって、俺——時縄勇太という存在は特別なままなのかと。
「俺さ、結愛がずっとこのままならイイのにと思っちゃってるんだ」
脳内を支配するのは、相手を思うがあまりに先走った感情。
思い遣る気持ちなど一切なく、ただ相手を自分のモノにしたい独占欲。
本懐結愛が前向きに変わることは喜ばしいことである。
それは理解しているのにも関わらず、俺は心の何処かで思ってしまうのだ。
本懐結愛は一生このままで居てくれないかと。
一生病院という名の牢獄に囚われ、俺以外の誰とも関わらない人生を歩んでくれと。
本懐結愛の病気が完治し、幸せな笑顔を浮かべてほしいとは思っている。
ただ、その病気を治すのが俺じゃないのなら——。
このまま一生病気に苦しみ続ける可哀想な少女のままで居て欲しいと。
「勇太は、あたしのことをこんなに思ってくれてたんだね♡♡♡」
気持ち悪い発言を連発したものの、最愛の彼女は頬を緩め、柔和な笑みを浮かべた。
俺の頬を触れる白くて細い指先は冷たく、昂った感情を静めてくれる。
伝う涙を拭い取り、最愛の彼女は恍惚な表情を浮かべて言うのである。
「勇太がそれを望むなら、あたしは理想の本懐結愛を演じてみせるよ」
「えっ……?」
「勇太が思い描く本懐結愛を死ぬまで一生成り切ってあげるから」
だから、と呟きつつ、余命宣告を受けた少女は俺の身体を強く抱き寄せて。
「あたしを幸せにしてよ、勇太。あたしも勇太を幸せにするから」
その声は縋るようなものだった。
言わば、水を求めて砂漠を彷徨い歩く人々のように。
◇◆◇◆◇◆
長時間に渡って、俺と結愛は抱きしめ合っていた。
そして今——俺は結愛に詰められていた。
「それで勇太は何を見てたのかなぁ〜?」
足下に落ちていた卒業文集を手に取る結愛。
彼女は眉毛をピクッと動かす。
「……あははは。何か恥ずかしいね、叶わない夢を書いていたなんて」
「子供には夢を抱く特権があるんだよ」
「大人は夢を抱いちゃダメなの?」
「夢を抱くのは自由だけど、大人は現実と向き合う必要があるんだよ」
「大人になんてなりたくなかったよ」
そう小さな声で呟き、本懐結愛はページをパラパラと捲る。
その後、何か面白いものを発見したのか、彼女は満面の笑みを浮かべて。
「これ勇太のだよ!! ほら、見てみて」
出席番号順に書き綴られた卒業文集。
自分が書いたものを見ないはずがない。
俺はもう既に目を通している。本当につまらない内容だった。
「将来の夢が空白になってる。これってどういうこと?」
「俺にはね、夢や目標が何もなかったんだよ、結愛」
普通の小学生ならば、夢や野望があるだろう。
でも、当時の俺には何もなかったのだ。生きる屍に過ぎなかったのだ。
ただ毎日を鬱屈に過ごし、本懐結愛を遠くから眺める存在。
「でも、一つだけどうしても叶えたい欲望があったんだ」
結愛が小首を傾げる。
その仕草が可愛く、俺はまたしても見惚れてしまう。
「——結愛が俺のことを好きになってほしいってさ」
小学校の入学式——本懐結愛に一目惚れした日から。
俺の心は、結愛を俺のものにしたいという欲望に染まっている。
成長するたびに、俺の手が届かないほどに遠い存在になる彼女を。
どうして俺は引き止めたかった。
でも、どうすることもできず、俺は彼女をずっと眺めていた。ずっと見守っていた。
「そして——結愛が病に倒れた。一生完治しない病を発症した結愛を見て、俺は思ったよ」
今までクソみたいな人生を歩んでいた俺が。
本懐結愛を手に入れたい欲望と自分の力では無理だという現実に苛まれていた俺が。
「——俺が医者になれば、結愛の心を奪えるかもしれないって」
でも現実はそう甘くなかったよ。
俺は未だに医学部へ入学する学力さえ持っていないのだから。
「結愛、ありがとうな。俺に夢を与えてくれて。こんな空っぽな男に」
「………………そっか。あたしも勇太の役に立ててたんだね」
結愛は辿々しい口調で呟き、服をまた脱ぎ始める。
下着姿になった彼女は俺の腕を引き、ベッドの上へと倒れた。
結愛へと覆いかぶさる態勢になり、俺と結愛の距離がグッと縮まる。
「結愛はさ、俺のこと気持ち悪いと思わないのか?」
「気持ち悪いと思う」
「……だよな」
「でも、勇太の気持ちを理解できるのはあたしだけだもん」
戸惑いの表情を浮かべる俺に対して、本懐結愛は無邪気な笑みを浮かべる。
首へと回された白く細い腕により、俺の顔は更に彼女へと近まる。
「あたしと勇太は同類なんだよ。中身が薄っぺらい空虚な存在」「あたしと勇太は特別な存在なの」「あたしが居ないと勇太はダメだし、勇太はあたしが居ないとダメなの」「二人はね、支え合って生きているんだよ」「あたしは勇太に夢に与え、勇太はあたしに愛を与えた」「最高の二人だよ」「あたしたちは最高の恋人同士なんだよ」「どちらかが欠けたら、壊れてしまう。あたしたちはそれぐらい強い絆で結ばれた存在なの」「勇太を守ってあげられるのは、あたしだけだから……あたし以外に務まる仕事じゃないから」
言葉だけで愛を囁き続けた口が吐息が重なる距離まで動いた。
俺の心が呑み込まれてしまいそうなほどに、熱く溶けそうな瞳。
その瞳が横に薄く伸びた後、俺の胸には心地良い風が吹き渡った。
「勇太、もっともっとあたしに溺れていいよ。勇太を愛せるのはあたしだけだから」
その甘く誘惑な言葉に誘われ、俺は最愛の彼女とまた愛を誓い合うのであった。
——秋編『時縄勇太は最愛の彼女に依存している』編完結——