「時縄くん、この問題間違っているよ」
彩心真優はそう指摘し、ノートを取り出した。
「えっ? マジで? 完璧だと思ってたのに」
「詰めが甘いぜ、勇太くん。この問題はねぇ〜」
そう呟きつつ、彼女はペンを走らせ、丁寧な解説を行う。
医学部志望の分際なのに、数学が苦手な俺にもわかるように。
「いやぁ〜。やっぱりお前……凄いな。解説が上手すぎる」
「これぐらい普通でしょ? 逆に間違えるほうがおかしなレベルだよ」
「受験生の心には響くからやめてくれ」
「浪人生だからこそ、厳しい一言が必要なんだよ」
彩心真優は眉を潜めながら見つめてくる。その冷静な瞳が説教をされている気分になる。本人は俺を鼓舞するために言ってるのかもしれないけど。
その後も、俺は数学の問題を中心に解いた。普段の勉強では彩心真優の言いつけ通りに、一つの参考書を徹底的に繰り返しているのみ。
けれど、今回は抜き打ちテストという感じで、彩心真優が適当な参考書を取り出し、俺へと挑戦上のように問題を叩きつけてくるのだ。
俺はその問題を解き、彩心真優の解説を聞くという流れで勉強会は進んだ。
「数学ってさ、時間が過ぎるのが早いんだよな」
「それだけ数学への熱が入ってるってことだよね?」
「俺は数学が大嫌いだが、そうかもしれないな」
「私への熱も、もっともっと燃え上がらせていいからね」
「本気で燃えたら俺の愛を受け止めるのは無理かもしれないぞ」
「愛情を捧げてもらえるだけでも嬉しいから、私は大丈夫!」
愛を求める彼女の言葉を聞きながら、俺は立ち上がる。
背伸びをすると、ボキボキっと骨が鳴る。
勉強中は前傾姿勢で没頭してしまう癖があるが、注意しなければ。
「勇太くん、台所借りてもいい?」
「……何をする気だ?」
「何? その訝し気な表情は」
彩心真優は唇を尖らせ。
「私×台所=混ぜるな危険だと思ってない?」
「身の危険を感じるからな」
「人聞きが悪いなぁ〜。元々、今日は私が作る予定だったでしょ?」
本日の勉強会は、元を辿れば——。
人の手が込もった温かな食事を食べない俺のために。
彩心真優がお得意の手料理を食べさせることだった。
俗に言う、おうちデートと呼ばれるものだ。
けれど、俺たちは浪人生という身分。
故に勉強会という大義名分を掲げつつ、今回の勉強会を開催したわけだ。
「私が料理を作るの……そんなに不安?」
台所へ移動し、レッツクッキングのお時間へ。
俺と彩心真優はエプロンを纏い、早速料理を作ろうと袖を捲る。
やる気満々な俺を傍らに彩心真優の口から苛立ちの言葉が漏れた。
「毒薬でも入ってそうな気がして」
「誰が入れるのさ。今のはかなり失礼だと思うよ」
「悪い悪い。それに油に火が燃え移って、火事になる可能性も……」
「油は極力使わない料理だから安心して。あと、これでも私は一人暮らししてるからね。料理の才能も少しぐらいはあるんだよ」
彩心真優は一人暮らしの民だ。俺よりかは、確実に料理の腕があるだろう。
ならば、全てを任せても良い気もするのだが……不安なんだよな。
「勇太くんは、私を信じてくれないんだ」
「信じてるよ」
「それなら、全部私に任せてもいいんじゃないの?」
「客人に全てを任せるのは招いた側の品性を問われるからな」
適当な嘘を並べつつ、俺は彩心真優の料理捌きを見届けることにした。
彩心真優自身は見られることに慣れておらず、チラチラとこちらを見ては「シッシ」と虫を追い払うようなジェスチャーを交えてきた。
だが、俺は彼女の前から消えるつもりなど毛頭ない。監視しておかねば。
「勇太くんってさ、料理とか全くしない系の人?」
彩心真優はそう呟きながら、じゃがいもの皮を器用に剥いていく。
リンゴの皮を繋げて剥いていく人もいるが、あれと似たような感じだ。
彼女は難無くやってのけているが、アレって結構難しいんじゃないか。
「男飯なら作れる。味こってりだけどな」
「醤油ドバドバな料理ってことだね、早死にしそうだね」
「早死にするつもりだからな。俺は長生きなんてしない」
「と言いながら、将来的にもっと生きたかったと号泣する未来が見えるけど」
「俺の人生は——本懐結愛が消えた時点で、もう何の色合いも失くすからな」
生きる意味は何か。
そう問われたらどんな答えを出すだろうか。
俺の場合は——本懐結愛を救う。この一点に限っている。
故に、本懐結愛が消えた時点で、俺の生きる意味など無に等しい。
まだ結愛が生きているなら話は別だが、遠くない未来に彼女は——。
確実に死んでしまうのだから、十年先、二十年先を悩む必要はないだろう。
「先に言っておくけど、結愛ちゃんが死んでも勇太くんは一緒に死ねないよ」
「…………知ってるさ、それぐらい」
本懐結愛は病魔に蝕まれて死に至るとしても。
俺の場合は健康な身体のままなことぐらい。
常人の身体を持つ俺の場合は死ぬためには自殺するしかないぐらい。
「バカな真似をしたらダメだからね。自ら命を投げ出す行為とか」
「命を投げ出すつもりはないさ。俺は捧げたいんだよ、結愛に」
「捧げる?」
俺の言葉に引っかかるのか、彩心真優は包丁の手を止め、こちらを見てきた。
「あぁ、俺は自分の命を捧げて、結愛への愛を証明したいんだ」
「高尚な最後をお望みなんだね」
「愛する人のために死ぬ。それは素晴らしい愛の形だろ?」
「ただの自己満足にしか、私には思えないけどね」
クールな雰囲気を漂わせる二番目の彼女は見下すような目付きで。
「死なないと証明されない愛なんて、それはただの呪いだよ」
◇◆◇◆◇◆
本懐結愛が死んだら、俺も一緒に死ぬ。
その計画を心の中で密かに考えていた。誰にも言わずに、ひっそりと。
だが、彩心真優の前ではそれを隠すこともできない。
俺の真意に気付いた彼女は露骨に態度を変え、無口を貫いている。
その無言の空間に耐え切れず、俺は台所を離れた。
彼女本人も「一人で作る」と言い張っていたし、それでいいだろう。
「さっきの問題を復習でもするか」
勉強のコツは復習だ。
一度聞いただけで全てを覚えられるほど、常人の脳は完璧ではない。
何度も反復練習を行うことで成績は伸びていくのだ。
だが、俺は——。
——何のために勉強をしているのだろうか??
どうせ、俺の想い人——本懐結愛は死ぬというのに。
彼女を救うために医者になってやると決めたけれど。
もう彼女は余命宣告を受け、極めて近い将来に死ぬというのに。
「…………こんな勉強やっても本当に救いたい人を救えないのにさ」
◇◆◇◆◇◆
食卓に並ぶ具材たっぷりのカレーと生野菜。
コンビニ飯やカップ麺で胃袋を満たしてきた俺には温かな食事だ。
だが、持ち運んでくる彼女の瞳は未だに冷めている。
「なぁ、彩心真優。少しは機嫌を直してくれてもいいだろ?」
女という生き物は面倒だ。
自分は不機嫌ですアピールを発してくるのだから。
と言えども、自分から歩み寄る姿勢を取るはずがない。
故に俺から彼女へと話しかけなければいけないのだから。
「私、別に機嫌なんて悪くないよ」
「ふぇ?」
そんなはずがない。
俺が本懐結愛と共に死を選ぶことに、彼女は腹を立てていたはずだ。
そう判断する俺に困り顔を浮かべ、彩心真優は人差し指を口元に当て。
「死ぬことで証明される愛があるのか、真剣に考えていただけだよ」
「つまり、先程まで不機嫌顔だったのは?」
「不機嫌顔? う〜ん、多分ずっと悩み中だったからだと思う」
「そんなバカな……」
バカげたことを言う俺に怒っていると思っていたけど。
彼女はただ悩んでいただけなのか。それならよかったのか。
それとも、それは言葉のあやなのか。
「勇太くんはさ、人は死んだらどうなると思ってる?」
「突然の質問だな。何だよ、哲学でも始めたのか? もしくは宗教か?」
「ただの質問。深い意味はないよ」
「人は死んだら、天国か地獄に行く。俺はそう思うよ」
「意外とメルヘンチックなんだね、勇太くんは」
「死んだ先が何もない場所というのは悲しすぎるからな」
生き物は誰もが死ぬ。どんな生き物でもだ。
始まりがあれば終わりがあるように。
生き物はいつの日か、必ず死を迎える。
それがわかっている以上、死んだ先が何もないのは辛い。
どうせ生きている間に、その答えはわからないのだ。
ならば、天国や地獄みたいな気休めの場所があると思っていたほうがいい。
それは当然の帰結だろう。
「なら、勇太くんと結愛さんは天国で幸せになれると思ってるんだ」
「天国か地獄か。それはわからないけど、結愛が側にいるならそこは天国だよ」
「減らず口が止まらないね、今日は一段と」
「結愛への愛を語らせたら、俺は三日三晩語れる気がするよ」
「二人だけの熱い夜を三日も過ごせるなら、私はそれでもいいかも」
他の女との愛を囁くとしても、彩心真優はお構いなしのようだ。
俺と一緒に過ごせる夜があるのならばそれでさえ惜しいらしい。
「「いただきます」」
二人揃って食卓を囲み、俺たちは両手を合わせた。
食べて食べてと主張するように湯気を出すカレーを一口食べてみる。
甘くも辛くもない丁度良い味加減。
と言えども、濃厚な味わいで、お米を口に放り込みたくなる。
野菜本来の旨味が出ているのは言うまでもないのだが——。
「この肉なんだよ、柔らかすぎてうますぎるわ!」
「それは角切りの牛肉だよ。カレーやシチュー用のね」
「俺が今まで食ってたレトルトカレーと全然違う味わいだ」
「一手間がある食事だからね」
正直な話、ここ最近の俺はまともな食事を殆ど取っていなかった。
腹を満たせるなら、別に何でもいいだろとね。
だからこそ、彩心真優が作った温かな食事が心に沁みるのだ。
「ほら、生野菜も食べてね。玉ねぎいっぱいスライスしたんだから」
「……生の玉ねぎはちょっとな」
「あおじそドレッシングで食べると美味しいよ。それに血液さらさらになる」
人生を生きる上で、俺は一度も栄養素などを考えたことがない。
だが、彩心真優はそういうのを考えて作るタイプのようだ。
もしも、彼女がお嫁さんになったら、家庭的な女性になるだろう。
「勇太くん、私の料理はどう? 美味しいでしょ?」
「美味しいと言わせたいのは見え見えだが……その通りだ」
「正直に言えばいいのに、ほら作り手の私にもう一度」
恩着せがましい奴だな。
「美味いよ、お前の作った料理は」
「でしょ?」
彩心真優は軽く笑みを浮かべて。
「もしも、勇太くんが私を選んだら、毎日作ってあげる」
「……口説いてるのか? この俺を」
「何? 女の子が男を口説いたらダメなの?」
「ダメってわけじゃないけど……」
押し黙る俺に対し、彩心真優は真っ直ぐな瞳を向けて。
「勇太くんがあの子のために死を選ぶなら、私は絶対にそれを許さない」
「真優ならそう言うだろうと思ってたよ」
「止めてほしかったの?」
「さぁ〜どうだろうね。俺にもわからないよ、そこまでは」
本懐結愛が死んだ先の話なんて。
その日のことを考えるのはまだあまりにも早すぎる。
「ただ、もしも勇太くんがその道を選ぶなら——」
あの子のために死を選ぶのなら。
もしも、そうなった場合、彩心真優は——。
「勇太くんが私のために生を選ぶように、私は頑張ってみるよ」
◇◆◇◆◇◆
食事を取り、後片付けまで全てを終わらせた。
その後、俺と彩心真優は受験生らしくもう一度勉強を再開することに。
だが——。
「何だよ、俺の顔をジッと見つめてきて」
もしかして俺の歯に何か詰まっているのか。
口元に食べカスが付いているのか。
「あのさ、本当に何もしないの?」
「…………逆に何を求めているんだ?」
「男と女が同じ空間にいるんだよ」
「それはそうだが……期待しているのか? お前は」
「初めて男の子の家に来たんだよ、期待してるに決まってるじゃん」
真っ直ぐな瞳でそう言われると返答に困る。
彼女の期待に応えたい気持ちは少なからずあるし。
俺自身も、人並みの性欲はある。だから——。
「時縄くんの心臓、とってもドキドキしてるね」
「お前……俺の心臓に耳を近付けるな!! 恥ずかしいだろ!」
彩心真優は俺の胸元に顔を近付ける。
長い黒髪から放出される甘い香りが漂い、俺の心は落ち着きを失くす。
それは——彩心真優を女として、一人の雌として認識している証だ。
「もっと恥ずかしいことしたはずなのに?」
「いつでもどこでもってわけではないだろ?」
「勇太くんはそ〜いうタイプだと思っていたのに」
「俺をその辺の性欲盛りの猿共と一緒にするなよ」
「申し訳ないけど、一緒にしちゃう」
彩心真優はそう口元を緩めながら、俺の唇へと迫ってきた。
彼女は俺の首へと腕を回し、これ以上逃げられないのを確認してから。
「——もっとドキドキしたいから」
彩心真優との距離が近付くにつれ、俺の心臓は飛び跳ねるように動く。
この爆音がバレないようにと心に留め、平静を装うことにするのだが。
漆黒の眼差しに吸い込まれていく。
この世で俺との将来を考えてくれるたった一人の少女に。
「————————はぁぁぁ」
彼女が普段から愛用して食べるタブレット——。
MINTIAのピーチ味。
小さな口元から甘い吐息を出しつつ、彼女は俺の唇へと指先を当てる。
頭の中はもう彩心真優のことでいっぱいだった。
その桃色の唇に俺の唇を奪われ、沢山癒してもらいたいと。
——本当、俺ってクズだな。彼女持ちの分際なのに。
他の女とキスがしたくてしたくて堪らないなんて。
——でも別にいいよな。人生は遊ばないと損だろ。
人生には経験が必要だと、大人は言う。
それに聞いたことがあるだろ?
人生は楽しんだ者勝ちだと。ならば——。
「真優、もっと楽にしていいぞ」
「主導権は私が持つの。わかってる?」
「んなこと言っても、毎回お前が先に敗北宣言するじゃん」
目と目を合わせて、もう唇と唇の距離が正に触れ合う瞬間。
俺と彩心真優の耳には、歪な機械音が聞こえてきた。
——ピンポーン♪——
だが、もう一度心の動きには歯止めを効かせることはできない。
気を取り直して、俺たちは離した唇をもう一度近付けるのだが——。
——ピンポーン♪——
——ピンポーン♪——
——ピンポーン♪——
立て続けに三回のチャイムが鳴り響き、更には俺のスマホが着信を鳴らす。
あまりにもうるさい着信音に苛立ちを覚えつつ、俺は即座に立ち上がる。
スマホの元へと急いで向かい、チャイムの主もインターホンで確認する。
その画面に映っていたのは——。
「嘘だろ……どうして結愛が居るんだよ!!」
本懐結愛が玄関の前に居るのだ。
病院生活を送っているはずの彼女が。
茶色髪の少女はスマホを手に持ち、何度も電話を掛けているようだ。
しかし、決して相手には繋がらないようで、彼女は小首を傾げている。
俺は恐る恐るスマホの画面を確認する。
その発信者の名前は——結愛。
俺がこの世で一番大好きな彼女——本懐結愛であった。
そんな彼女は唇を尖らせたままに。
『勇太? どうしたんだろ? あれぇ〜? スマホの音は鳴ってるのに』
インターホン越しに独り言が聞かれているとは思っていないようだ。
しかし、その茶色の眼差しは真っ直ぐにインターホンを眺めていた。
それはまるで、インターホン越しの自分を見透かすように。