忘れちゃいなよ、初恋なんて   作:平日黒髪

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第79話『時縄勇太は最愛の彼女を救えない⑧』

ショッピングモール内は家族連れや恋人同士で溢れ、お一人様の人間を拒絶してくる。

 スピーカーから流れるポップな平成音楽に合わせて、小さな男の子が両親二人の手をブンブン振り回しながら歩いてきた。

 家族の幸せの1ページだが、俺にとっては人生の不幸の1ページだ。

 一人寂しくショッピングモールで休憩中に、若い子連れ夫婦とすれ違うなんて。

 自分が退屈な人生を味わっていると嫌でも痛感させられるから。

 本人たちは何も気にしていないはずだが、無意識のうちに数ミリ単位の軽蔑を向けてくるのだ。周囲から放たれたその気は一つに纏まり、巨大な負の感情へと膨れ上がる。

 結句、俺のような卑屈人間は楽しげに歩く家族連れや恋人同士を見ると、惨めな己の再認識し、外出するのが嫌いになり、社会から孤立していくのだろう。

 

 そう分析しつつも、俺はベンチから立ち上がり、最寄りの自動販売機へと向かう。なけなしの小銭で購入したリアルゴールドのプルタブを外して、一気に喉へと流し込む。

 くぅはぁーとおっさんじみた声を出しながらも、自分が座っていた席へと戻ると——。

 

「…………あ」

 

 子連れに場所を取られていた。

 奴等は俺を一瞥すると、珍獣を目撃したとでもいうように目を真ん丸くさせてきた。

 実に不愉快な気分だ。

 彼等は妻子持ちという肩書きに威張り散らし、この世界の中心に自分たちは立っているとでも主張するように無駄に堂々としてやがるのだ。

 自分たちは勝者側でお前たちは敗者側だと決めつけるように。

 

 兎にも角にも、座席に座りたいと思い、俺が歩き回ると、大量のソファーがある場所へと辿り着く。そこには疲れ果てた男性陣が距離を空けてポツポツと座っている空間があった。

 彼等の多くは家族連れで無理矢理買い物へと駆り出されたものの、妻や子供たちから車とお金さえ出してくれればいいと判断され、適当に時間を潰して来てと言われたのだろう。

 もはや抜け殻のようにグダァーとした姿勢で、ソファーに寝そべっているのだ。ここはリビングじゃないとツッコミを入れたい気持ちも山々だが、平日は仕事に励み、休日は家族サービスに従事する彼等には敬礼すべきだろうか。

 などと社会の歯車を回す大人たちを賞賛しつつも、俺もソファーへと腰を下ろした。

 

「あれー? 勇太くんじゃないかい?」

 

 そう声を掛けてきたのは母親の同僚——渦巻破《ウズマキヤブル》先生だった。

 ヨロヨロの白ワイシャツに、丈が少し短い黒のズボン。

 髪型はボサボサで、銀縁眼鏡の男性だ。

 見た目は20代後半にしか見えないが、母親と同学年と聞いたことがあるから……。

 

 37歳で間違いない。

 本当に若いな、この人。

 

 説明が長くなったが。

 端的に彼を説明すると、医者だ。

 

「渦巻さん。お久しぶりです」

「それにしても、勇太くん大きくなったね」

「まぁー昔に比べたら大きくなりましたよ」

「あの頃はミジンコみたいに小さかったのに」

「それよりは確実に大きいわ! アンタの眼鏡、視力設定ミスってるんじゃないんですか?」

 

 相変わらずだな、この人。

 毎回適当なことばっかり言ってきて。

 

「それで今は浪人中だっけ? 医学部目指して」

「どうしてそれを……?」

「なぁーに。明日架さんから聞いてるよ。わたしと違って、息子は頑張り屋だからってね」

 

 今更だが、俺の母親の名前は時縄明日架《アスカ》。旧姓は暁月明日架。

 渦巻さんは俺の母親を「暁月さん」や「明日架さん」と呼ぶことが多い。

 時縄さんとは決して呼ばない。

 以前どうしてなのかと聞いたら、昔の名前がついつい出てくるのだという。

 

「で、こんなところで何してるんだい? もしかして明日架さんとお出かけかい?」

「いや、違いますよ」

「なら一人寂しくお出かけってことか」

「待ってください。母親同伴じゃない限り、俺は一人で買い物だと認識されちゃってます?」

「はじめてのおつかい偉いよ、勇太くん」

「こっちは浪人生だぞ。はじめてでもないし、おつかいでもねぇーわ。普通にデートだわ!」

「デート?」

 

 渦巻破先生は左右を確認したのち、俺の肩へ優しく手を置いた。

 

「一人というのは別に悪いことじゃないよ」

「どうして俺は慰められてるんですか!」

「意地張らなくていいんだよ。彼女ができないんじゃなくて、作らない派なんだよね」

「…………悪いですけど、先生だけだからね」

「えっ?」

「俺彼女いるんで。その彼女とデート中なんで」

 

 その瞬間、渦巻先生の表情に雲がかかる。

 

「勇太くん。またまたウソを吐かなくても」

 

 論より証拠だな。

 よしと思い、一番可愛い結愛の写真を見せてやろう。

 そう企み、スマホの写真フォルダを開き、本懐結愛の寝顔写真を見せてみると——。

 

「盗撮はいけないよ、勇太くん」

「盗撮じゃないですから!」

「よしっ。詳しくは警察署で聞こうか」

 

 明らかに変な疑いを掛けられているので、俺はすかさずツーショット写真を見せてみた。

 すると、渦巻先生は愕然とした表情で頭を抱えこんでしまった。

 

「裏切ったな、このクソガキが!」

「年相応の男性なら彼女の一人はいますよ」

「つまり彼女がいない僕は異端だと?」

「少数派だと言いたいだけですよ」

「口が上手くなったな、小僧……」

 

 渦巻先生はそう呟きつつ、缶コーヒーを開く。ブラックを愛飲するようだ。

 軽く飲んだのち、彼は思い出したように。

 

「で、デート中なのにどうして一人なんだい?」

「男女の関係には複雑な事情があるんですよ」

「意味深な言い方だね。聞かれたいのかい?」

「知りたいんでしょ?」

「……いや、僕は他人の恋愛事情に興味ない」

「断言しましたね」

「断言するさ。誰と誰が関係を持ったかなんて、自分にとってはどうでもいい内容だろ?」

 

 誰と誰が関係を持ったかという内容は、確かにどうでもいいことである。これは事実だ。

 しかし、自分に関係ないからという理由だけで、それを蔑ろにしてもいいのだろうか。

 円滑な人間関係を構築するためには、他人に一定の理解や共感を示したほうが遥かに効率的だし、受け取り手からの印象も高いだろう。

 故に、俺はどうでもいいとは思えない。

 だが、わざわざそんな意見を述べたところで、俺と彼の間に軋轢が生まれるだけだ。

 

「渦巻先生って人間関係で悩んだりしないの?」

「人間関係で悩む奴等は人間関係が上手くいってるから。もしくは人間関係構築を頑張ろうと思ってるからだ。何も思わなければ悩まない」

「それって人間関係が浅いってこと?」

「端的に言えばそうだね。だが、浅くでいい。深まれば深まるほどに嫌な部分が目に付く」

 

 渦巻先生は確信に満ちた声で続けた。

 

「アイドルのスキャンダル問題が良い例だよ。アイドルは表側から見る分には清く美しい光り輝く存在だが、裏側から見ると汚く醜く図太いだけの忌々しい豚と同じだよ」

 

 誰かを好きになると知りたくなる。

 彼を彼女をもっともっとと求めてしまう。

 しかし——。

 知れば知るほどに誰かのことが嫌いになる。

 多分、それは理想と現実の差が原因だ。

 自分が期待する理想と受け入れなければならない現実の差が大きすぎるあまりに——。

 

 渦巻破という人間は知ることをやめたのだ。

 誰かのことを愛せなくなったのだろう。

 

「アイドルに親でも殺されたんですか?」

「わかりやすい説明をしたまでだよ。期待すれば期待するほどに、その期待は絶望に変わるって話のね」

「知らぬが仏って話ですね」

「そーいうことだね。特に人間というのは、誰もが表の顔と裏の顔を持っているからね」

 

 表の顔と裏の顔。

 俺自身も色んな顔を使い分けて生きている。

 家族に見せる顔、本懐結愛の前で見せる顔、彩心真優の前で見せる顔、予備校で見せる顔。

 全員に同じ顔を見せるのが素直だと言えるかもしれないが、逆にそれは無礼だといえる。

 

「家では明日架さんは元気かい?」

「母親なら元気だと思いますけど、どうして?」

「最近仕事場でふらついてる姿を見ているからね。体調が大丈夫か心配になってね」

「家では普通ですけど」

「ふぅーん。そうか。それならいいんだけど」

 

 渦巻先生はそう呟き、顎に指先を触れた。

 正にその瞬間、店内を颯爽とスタスタ歩く見慣れた姿を発見した。

 

「あれ……?」

 

 見間違えるはずがない。

 アレは——彩心真優に違いない。

 何かから怯えるように逃げる姿に見えた。

 更には彼女の瞳からは水滴が落ちていた。

 何が起こったのだと疑問が湧き上がる頃には、俺は席を立ち、彼女の元へと向かい、腕を強引に取っていた。

 

「——————————ッッ!?」

 

 長い黒髪の少女は振り返り、俺の顔を一瞥するなり、「バカ!」と罵倒を浴びせてきた。

 突然の物言いに呆気に取られつつも、俺は冷静に問い返す。

 

「何があったんだ」

 

 しかし、彩心真優は下唇を噛んだ後、俺の手を振り払い、立ち去っていく。

 何か言葉を掛ければいいものの、その背中をジッと追いかけるしかできずに立ち尽くしていると、後ろから肩を叩かれた。

 満足な表情を浮かべた渦巻破の姿があった。

 

「男というのは振られた数だけ強くなるよ」

「別に振られたわけでは……」

「認める勇気も必要なときもあるさ」

 

 渦巻破の意見はどうでもいい。

 現在最も考えるべきは彩心真優のことだ。

 彼女は俺に対し、冷たい態度を取ってきた。

 終いには「バカ」だと言い放ち、立ち去っていったのだ。

 正直な話をすれば、俺は焦りを抱いていた。

 俺にとって、彩心真優と過ごした時間は有意義で、最高に楽しいものだった。彼女と会話を交えるだけで、物凄く心が洗われた気がした。

 その感情は、彼女持ちの男としては決して抱いていけないものだと自覚はある。

 でも、逆らうことなどできず——。

 

『俺の彼女になってくれないか?』

 

 今年の夏祭りの日、彩心真優に対して、俺は甘い言葉を囁き、二番目の彼女にしたのだ。

 

 都合の良い女が手に入った。

 そんな感情が一切なかったとは、一人の男として断定できない。

 でも完全に浮かれていたのは事実だ。

 この世の中に二人も大切な人がいる。

 それだけで毎日が幸せだったのに——。

 

「女の子の気持ちって本当にわからないです」

「贅沢な悩みだな。羨ましすぎるよ」

「自慢ではなかったんですけど……」

「自然から出た悩みってのが無性に腹が立つね」

 

 渦巻破は缶コーヒーを啜りながら、俺の肩を掴んで、もう一度座席の方へと誘導してくる。

 座席へ着席する前に彼は缶コーヒーを捨て、両手の指を合わせながら語り出した。

 

「勇太くん。さっきのは写真の子とは違うよね」

「……は、はい」

「二股か」

「世間一般的にはそうかもしれません」

「やっぱり血は争えないのかもね」

「血?」

「……あぁ」

 

 渦巻破はふふっと薄笑いを浮かべながら。

 

「恋は人を狂わせる。狂わないように注意しなよ、僕みたいな過ちを起こさないためにもね」

 

◇◆◇◆◇◆

 

 本懐結愛か彩心真優から連絡が来るかと思い、待ち続けていたのだが、一向に来ない。

 彩心真優に至っては「バカ」だと言い、そのまま何処かへ行ってしまったようだ。

 というわけで、俺は本懐結愛と一緒に立ち寄った洋服店へと戻ったわけだが——。

 

「あれ?」

 

 本懐結愛の姿は見当たらなかった。

 何も言わずに帰ったとは思えない。

 彩心真優が涙を流していたことも気になる。

 二人の間に何かあったのだろうか。

 そんなことを思っていると——。

 本懐結愛の姿を発見した。

 目線は下を向き、紙袋を持ってゆっくり歩いている。

 

「——————結愛!」

 

 声を掛けると、結愛の眼差しが僅かに上がる。彼女は俺の顔を見ると頬を緩ませた。

 

「……勇太」

 

 血の気が引いた表情を浮かべている。

 お化け屋敷から出てきましたって感じだ。

 

「彩心真優と何かあったのか? 喧嘩とか」

「喧嘩とかじゃないよ。喧嘩するほど仲良くないから」

「それならいいんだが、何があったんだ?」

「真優ちゃんが突然帰るって言い出したの」

「突然帰るね。何か様子がおかしかったのか?」

「ずっと様子おかしかったよ、あの子は」

 

 彩心真優の様子がおかしい。

 そうとは全く思わなかったが、結愛の目にはおかしく見えたようだ。でも何があったんだ?

 

「——勇太のこと、今日も女の目で見てた」

「……お、女の目?」

「うん。色香をプンプン漂わせて、隙あらば勇太のことを食べちゃおうって目をしてたよ」

 

 女性の勘は鋭いという。

 というのも、女性は男性に比べて古来から他人との交流を積極的に行ってきた。

 実際、人々の感情や些細な変化に気付きやすいという心理学の研究データがある。

 もしかしたら、俺が心の奥底に隠す彩心真優への感情さえも結愛は見破っているのかもしれない。

 そう思うと、股間がキュッと引き締まる。

 

「だからね、あたしは忠告したんだよ」

 

 本懐結愛は口元を軽く開いた。

 肩口に触れる栗色の髪は揺れ動き、八重歯がキラッと光って見えた。

 

「——勇太の彼女はあたしだよって」

 

 本懐結愛は何も知らない。

 俺が二股していることを。

 もしも俺が結愛以外にも付き合っている女がいると知ったら、どんな顔を浮かべるのか。

 イジワルな俺はそんな結愛の表情を見たい気持ちもあるが、わざわざ自分から告白するはずがない。本懐結愛を愛しているのだから。

 

「そしたらね、突然真優ちゃん走って行ったの。どうしてかなー? どうしてなのかな?」

「……さぁ、俺にはわからないよ」

 

 言葉は否定したけれど、察することはできる。

 彩心真優は俺に恋心を抱いている。二番目でもいいから愛してほしいと彼女は言い、俺はその交渉に乗った。

 だが、彩心真優も人間だ。一人の女の子だ。

 彼女は一番になりたいと思ったのだろう。

 自分だけを愛してほしいと。

 しかし、自分が愛する人が本命の彼女と一緒に過ごす時間を見て、敵わないと思ったのだ。

 自分が付け入る隙など最初からなかったと。

 どんなに想っても、この恋は届かないと。

 

 まぁ、これはあくまでも予想に過ぎないが。

 実際俺自身も小学校の頃は、本懐結愛に対して強欲なまでの独占欲を発揮していた。あの頃の気持ちを呼び起こせば、彩心真優の気持ちが痛いほどにわかる。

 決して報われない恋があるのだと。

 

「勇太はさ、真優ちゃんと何かあったの?」

 

 気付けば、本懐結愛は俺の目の前に居た。

 マジマジと下から覗き込んできている。

 その仕草は可愛らしいのだが、それ以上に威圧感がある。

 お前たちの関係はもう既に知っている。

 さっさと白状しろと訴えかける視線を。

 

「…………な、何もないよ」

「なら、真優ちゃんは勇太に恋心抱いてるんだ」

「……そ、そうなのかな?」

「きっとそうだよ。でも、本当に残念だよね」

 

 茶色髪の少女は俺の手を奪い、指先を絡めてきた。指と指の隙間に割り込む肌の感触に何とも言えぬ後ろめたさを感じつつも、俺は彼女の煌々と輝く栗色の瞳に吸い込まれていく。

 

「勇太の彼女はあたしだけなのにね」

 

 肯定も否定もせず、ただ黙っていると。

 

「ねぇ?」

 

 本懐結愛は確認を取ってきた。

 無邪気な笑みが似合う顔は張り詰めている。

 こんな簡単な質問に何故答えないのかと。

 

「……あ、あぁ。そ、そうだな」

 

 俺の曖昧な返答を聞き、本懐結愛はふふっと微笑む。その姿は少女のように無邪気で、魔女のような冷酷さを兼ね揃えていた。

 

◇◆◇◆◇◆

 

「あたしと勇太ってさ、お似合いのカップルだよねー」

「うん」

「勇太もそんなふうに思ってくれてたんだぁー。嬉しいぃー。ちなみにどんなところがそう思う?」

「性格とか相性かな」

 

 思春期の少年には煩悩が付き纏う。幾ら愛する彼女を性欲の対象として見ないと心の中で決めたところで、結局時間が経てば見てしまう。

 言わば、それはダイエットすると宣言したものの、結局三日後には爆食する人のように。

 

「うんうん。そうだよね。地味でダメダメなあたしと、しっかり者で頼り甲斐がある勇太。お互いのダメな部分を補え合える最高の関係!」

 

 人間とは本当に愚かな生き物である。

 と、結論を付けながらも、俺は隣を歩く最愛の彼女の話に対し、「うんうん」と優しく頷いていた。欲望に支配された男であるのは間違いないのだが、率直に「セックスしたい」とは言えるはずもなく、「結愛ともっと一緒に居たい」という特別なニュアンスを含めた言い方を行い、現在俺の自宅へと向かっている最中なわけだ。

 

「今日さ、一緒に街中を歩いたけど、勇太が一番カッコよかったよ。この人が自分の彼氏なんだと思ったら、ニヤケが止まらなかったよ」

 

 正直な話、俺は本懐結愛の話になど興味や関心など殆どない。というか聞いても、流しそうめんのように次から次へと聞き流している。

 それにも関わらず、最愛の彼女は理解してくれていると勘違いしているのか、ニコニコ笑顔を絶やさず、幸せそうな表情を浮かべるのだ。

 

 性欲の化身は心の中心に駐在し続け、女体を求めていた。本懐結愛をメチャクチャにしたい。その感情は留まることを知らず、自宅に近付くにつれ、下半身が脈を打つのが速くなる。

 隣を歩く少し照れながらも、俺の手を握りしめてくれる幼なげな少女を我が物にできる。

 そう思うだけで、脳から変な汁が飛び散りそうだ。あぁ、早く彼女を壊したい——。

 

「あれ? ドアが空いてる……?」

 

 自宅へと辿り着き、玄関の戸を開けようと鍵穴に鍵を差し込む瞬間。

 正にデート終わりの最中では、股間の疼きがピークに差し掛かる頃合い——。

 

 俺は異変に気付いた。

 

 今日母親は夜勤だったはずだ。

 鍵を閉めずに出て行ったのだろうか。

 俺は用心な人間である。毎回帰宅後は鍵とチェーンまで閉め、誰も入れないようにするぐらいには。だからこそ、ドアが開いている状況に、何か起きたのではないかと不安になった。

 

「……ゆ、勇太」

「多分母親が鍵をかけ忘れてただけだ。本当困るよなー。ちゃんと出る前に確認しろってな」

 

 けれども、愛する彼女の目の前だ。俺は焦る心に蓋を閉め、平然と笑って見せ、玄関の扉を開いた。

 いつもと変わらないはずなのに、胸騒ぎが止まらない。嫌な予感がするのだ。

 俺の部屋へと向かおうとすると、リビングの方からテレビの音が聞こえてきた。玄関からリビングまでは距離があるはずなのに。

 普段の数倍以上は大きいボリューム音だ。

やはり、誰かがいるのだろうか

 頭の中は結愛を滅茶苦茶にしたい一心だったのだが、徐々に血の気が引いていった。

  近づけば近づくほどにテレビの音が耳に残る。バラエティ番組が流れているのか、共演者たちの笑い声が今では不快な音にしか聞こえない。

 

「……勇太」

 

 そう呟きながら、本懐結愛は心配そうな顔を浮かべ、服の裾を握りしめてくる。

 その手は震えていた。結愛も何か感じたのだろう。

 俺は彼女の手を握り、「大丈夫だよ」という意味を込めて、握り返す。すると、彼女は安心したのか、手の震えが止まった。

 

 外は真っ暗なのに電気を点けることはなく、部屋の中はテレビの青白い光だけが照らしているようだ。目がチカチカするほど眩しかった。

 俺はリビングの電気を点け、たった一人しかいない家族の名前を呼んだ。しかし、返事はなく、手を洗おうとした時——目撃した。

 

 台所に倒れた母親の姿を。

 うつ伏せ状態のまま、眠るように倒れ込んでいる愛しい人の姿を。

 疲れてこんなところで眠ってしまったのか。

 そう思い込みたい気持ちがあるのだが、母親はそんなことを決してしない。

 

「母さん、母さん、母さん……ん?」

 

 呼びかけるものの、返事はない。

 唯一の家族だ。

 俺は彼女の肩を強く揺さぶる。

 しかし、無反応だ。

 表情を変えることもなかった。

 彼女の頬へと手を当て、何度も強く呼びかけ、肩を抱き寄せる。

 ただ、俺の声が無慈悲にも響き渡るのみ。

 振り返ると、本懐結愛の頬には一筋の涙が伝っていた。

 その涙が床に落ちた瞬間、漸く理解した。

 これは夢でも幻覚でもなく、紛れもない現実の話だってことに。

 

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