次回、デュエルします。
寝起きに感じたのは、カーテンを貫いて差しこんでくる夏特有の陽光と、適度に利かされた空調の音だった。
眠たげに顔に手を当てて、ツァン・ディレは体を起こす。和装の寝間着がやや肌蹴ているのは寝相のためだ。昔からディレは、寝返りを打って体を横にする癖があった。おかげで肺が圧迫され、寝苦しさから悪夢を頻繁に見ているのだ。
今日見た夢はこの上なく意味不明だった。望遠鏡で空を見上げている少年が実は前方から見た自転車だったり、トンコツラーメンがトンエロラーメンに見えたり、カーテンの影が絶妙な濃淡で『ヤタガラス』に変化してドローロックを決めてきたり……。最高の悪夢だった。
「なんて夢よ。やだもう……寝汗が酷い」
変えの衣服と下着を手に、同室の者を起こさぬようにしながらディレは閑散とした温泉旅館を歩く。
露天風呂へ着くと、脱衣所ですべての衣服を脱ぎ、体を隠すタオルもなしにタイルを踏む。朝の陽ざしが竹藪に囲まれた乳白色の湯を輝かせている。静かに足を差し入れ、そして二の腕のあたりまで体を沈ませていくと、ほっと息を出してしまう。露出した肩や首元に湯をかけながらディレは――。
「ふぅ……良い身分よね、ほんと。社長さまさま。
けど大丈夫かな。麗華も、藤原さんも。ボクらみたいに追われてないといいんだけど」
中部地方のひっそりとした避暑地にまで、マスコミが追ってくるとは思えない。学園のニュースはいわばホットトピックだ。熱が冷めれば誰もが興味を失くす。だが人を惹きつける要素を持つ人間、下柳遊座や藤原雪乃などは、情報次第では自分より大変な目に遭っているかもしれない。原麗華も、遊座と親しいという事で難儀しているのやも。
とても心配だが、かといって自分が何かできる訳でもない。歯痒さを隠すように口許まで湯に浸かり、ディレは「ぐぼぼぼっ……」と息を吐いた。
体が芯まで温まったところでディレは朝風呂を切り上げて、部屋に戻る。ニュースの声が耳に届いてきた。
《――これらの生徒らに対して、海馬社長は一時的な保護を行うとともに、各マスコミに対して過剰な報道を避けるように意見書を提出されました。今回は、その意見書のコピーを使用して番組を進めていきたいと――》
「おはようございます! 朝風呂してたんですか?」
「ゆま、おはよう。起きてたの?」
笑みを返す宮田。彼女もまたマスコミに追われる身であり、ディレと同じ経緯でこの旅館へと避難してきたのだ。
「寝汗ぐっしょりで酷かったから。何か飲まない? 冷蔵庫に確か紅茶があったと思ったんだけど」
「えへへ。実はもういただいちゃってます。ディレちゃんのも、日本茶を用意してますよ」
「嗚呼、気が利くわね。さすがよ、ゆま」
テーブルにはコップ一杯の冷えた緑茶。風呂上がりには丁度いい渋みだ。
ちびりちびりと飲んでいると、宮田は座布団に胡坐をかいて適当にテレビのチャンネルを切り替えていく。
《――そういうところがありましたが、今回の一件は海馬社長が自身の判断力を見せつけた点を注目するべきだと思い――》
《――西日本からの湿った空気が流れ込んでくるため、中部地方では『青眼』のち『真紅眼』の天気に――》
《――モリンフェン体操、はっじまる――》
《――俺からすればまだ地味すぎるぜ。もっと腕にシ――》
「ピッ。つまらないですね」
「『魔人テラ』みたいな素敵な笑顔で言うんじゃないわよ……あんた、それでいいの?」
「はい、HERO使いは笑顔が大事です」
「答えになってないわよ。ボクがHEROを使っても、ゆまみたいに素直になり切れないわよ」
「ディレちゃんでも十分扱えますって。たとえばディレちゃん、いざという時の即断即決が凄いじゃないですか。それもHEROに必要な条件だって、カイバーマンが言ってましたよ?」
「い、言ってたってあんた、まだあの番組見てたの?」
「はい! 子供の頃からずっと好きでした。今も好きで、今度童実野町でやるイベントにも参加するんです! デュエルにも興味はありますけど、一番はカイバーマンです! 社長に話したら、「フハハハ」とか言ってましたよ」
「どういう意味よ」「愉しんでこい、って意味です」
迷いなき答えにディレは苦笑を浮かべて茶を一口飲む。笑い一つで色んな解釈が出来るから不思議なものだ。
ディレは座布団に座り直して、話題を切り替えた。
「そういえばあんたが寝た後、ボクのPDAに麗華から連絡が来たわよ。あの子は今、童実野町にいるんですって」
「え? というと、遊座さんの故郷ですか?」
「ええ。どうもカメラの映り方のせいで重要人物っぽく見られてるらしくてね、家にマスコミがこぞって来たんだって。その後、海馬社長の部下の人が送ってくれたのが」
「童実野町、ですか。あうぅ、可哀想です。私達と違って何かした訳じゃないのに」
「本当よ。……まだこんな時間だから、様子を見るのも憚られるわね。けど遊座の方は大丈夫でしょ。ゆま、PDAのコードをテレビに繋いでみて。嵐の中心にモーニングコールよ」
「合点承知の助」
慣れた手付きで宮田は配線を終える。アニメ好きのテレビっ子なだけあって、こういうのは得意なのだろう。
学園から配布されたPDAは
配線を繋げたのを確認して、ディレはPDAで遊座をコールする。旅館のテレビに映ったのは、まず上品な白のカーテンに彩られた窓と青空だ。そして岩のように微動だにせぬ老紳士。そして彼を侍らせて、放蕩皇子のように鷹揚に食事を取る遊座の姿だった。
《朝に食べるフルーツは格別ですね。そうえいば、メインディッシュは何でしたっけ》
《3種類からお選びいただけます。本日のお薦めは、海馬ファームから仕入れたばかりの最高級卵を使用したホワイトオムレツです》
《海馬ファーム? さすが社長。農業にも手を加えているとは、心服します。では、オムレツでお願いします》
「遊座っ!」
給士が下がっていくのを見送った後、遊座は鋳造されたばかりの金貨のような晴れやかな笑みを返してくる。
《あっ、元気してた?》。ディレの額に青筋が走る。
「何が元気してたよ!? こっちが結構心配していたと思ったら……ず、ずるいわよ、ボクもオムレツ食べたい!!」
「そ、そうです! 果物ずるいですぅ!」
《そ、そんなこと言われたって、此処に通常のサービスって言うんだから、受けるしかなくて》
「通常! そんな高そうな皿のどこが通常なのよ。本当にそこって日本なの?」
《いやいや、日本だよ。僕がいるのはね……
――ぬっ。老紳士がカメラを占拠し、茶目っぽくウィンクをする。
《ロイヤル・スィートで御座います》
「「ロイヤル・スィート!?」」《ああ、僕の台詞っ!》
給士らしい老紳士は苔のような穏やかな笑みを浮かべ、テーブルに皿を置く。
珠玉のように美しいホワイトオムレツに、紳士以外の一同は息を飲んだ。
――――――――――
KNHとは、今年の初めにオープンしたばかりの童実野町の新しいランドマークだ。地上62階建ての超高層建築物であり、44階から上階はホテルルームとなっている。高級レストランやスパ等を併設しているのも魅力的だが、何と言っても一番有名なのは海馬社長直々の許可が無ければ宿泊できないスィートルームだ。
社長は其処へ、遊座を宿泊させている。彼が所有する数枚のレアカードが米ドルでいうミリオンの値まで達している事実と、スキャンダル好きなマスコミから匿う必要性を考えれば、当然の判断と言えた。
海馬社長は手を組みながら社長室の椅子に寄り掛かり、磯野の報告を受けている。
「生徒らの保護は進んだか」
「はい。現時点で、のべ20人の生徒らを保護下に置くことができました。いずれも学園で、下柳・丸藤両名とある程度親交のある生徒達です。他の生徒らは、保護の必要がないと判断し、監視下に置くのみとしております」
「うむ。下柳と親しい生徒は?」
「原麗華、ツァン・ディレ、宮田ゆまの3名はそれぞれ
例外として、丸藤亮はサイバー流の道場へ自主的に避難し、向田慶介は家族と欧州へ行っております。また藤原雪乃については家庭より直接、保護の必要はないとの連絡が入りました」
「ふぅん、大した自信だ。よかろう、藤原家との連絡体制を強化しておけ」
「了解しました」
《社長、デュエルディスク開発顧問の野北です。入ります》
のっぺりした顔をした白衣の男が入ってきた。元は映像機器メーカーの開発主任だった男だが、海馬社長に引き抜かれ、
「報告します。バイク搭載型デュエルディスクの最終調整が終了しました。4日後の海馬ドームでのイベントに参加させることができます」
「よし。磯野、レーサーは誰にするか決まっているな」
「はい。日本を代表するレーサーを2名呼んでおります。うち1名は現在、マンハッタンにいますが、明日中には帰国する予定です」
「イベントの不備など認めん。帰国次第、双方を交えて打ち合わせをしておけ。『カイバーマン』は15か月連続で視聴率35%を達成している番組だ。それに相応しい内容でなければ、『カイバーマン』の沽券に関わる」
「はっ」
「野北。常にデュエルディスクが万全の状態であるかチェックを怠るな。カード業界に革命を起こす作品だ。期待している。しっかりこなせ」
「委細承知致しました」
「海馬社長、報告はまだ御座います」
「言ってみろ、磯野」
「はっ……今朝、下柳様から外出の許可を求められましたので、社長の事前に仰せになられた通り、護衛付での外出を認めました」
「そうか。何か理由を述べていたか」
「生活に必要な最低限の物は自分で用意したいと。何から何まで任せきりというのは社長にも悪いし、ベッドメイクの時間くらいは外出したいと」
「ふん。なら好きにさせておけ。俺から特別何かを言うまでもない……が、貴様はまだ何か言いたそうだな」
「はっ……今朝、KNHの駐車場に不審な車が2台入っておりました。そのうち1台にはこれが」
磯野が写真を提示する。外国産らしい銀色のSUVだ。鮮明度を上げたカメラには、一眼レフを車中で構えている男の姿があった。
「ちっ。マスコミ風情が、俺のホテルに土足で入りこむとは。第二段階だ。磯野、下柳に更に行動の自由を認めろ」
「さ、更に自由を? 宜しいのですか」
「ふぅん。状況は常に流転する。デュエルと同じだ。ならば俺は、それを利用して、戦いのロードを歩むだけだ。
野北。マスコミ共の無謀次第では、貴様の試作品を試す絶好の機会が訪れるやもしれんぞ」
「愉しみです。ドライブとデュエルの融合……きっと素晴らしいものが生まれるのでしょうなぁ」
社長は何も言わず、忌々しげに写真を睨んだ。
マスコミは報じる内容一つで愉快も不愉快も変えることができる。その点でデュエルとの類似性があるだけに、進んで不愉快な事をする輩には嫌悪感しか湧かない。早々に彼奴等を潰す手立てを打たねばと、社長は思案を巡らせていった。
一方その頃。
遊座は姿がバレぬよう、ベレー帽と伊達眼鏡、地味な薄着を着て街を散策していた。
杖持ちの少年が切れ目のクール系の女性――磯野が派遣してくれた護衛――を同伴しての買物は周囲の視線を惹くものがあったが、遊座はスムーズに買い物をする事ができた。相棒が今日という日に限って、なぜか無口なのがその一因でもあった。
エジプトはファラオが砂漠に君臨していた時代から、日本は数多の資本家が手をかわし合う時代へと彼は移ってきた。昨晩のKNHのスィートから見た綺羅星が渦巻くかのような夜景は、今朝の天地薫るような朝焼けは、彼にとっては神の視点からしか見えなかったものだろう。それを見ても彼は何も言わず、遊座もどこか気が引けたまま問う事もできなかった。
(何か感じるものがあったんだろうな)
とは思うものの、それが何なのか分からず仕舞いだった。ホテルに帰ってからは二人きりの時間が続く。その時にでも聞いてみよう。
そう心に決めながら買い物を吸饐えていくと、そんなこんなで車中に買い物袋が4・5個ほど積まれてしまい、時刻は午後2時を回っていた。
「貯金降ろした。服は買った。カードも買って、おやつも買った。……後は、あそこだけか。すみません、この病院までお願いします」
遊座は名刺を渡す。その住所を確認して、護衛は頷いた。
「分かりました。5速で飛ばしてもいいですか」「駄目です」
不機嫌な顔をして、護衛は渋々命令に従って2速で病院へと向かう。病院は童実野町の外にある。其処には、遊座が昔から世話になっている眼科医がいた。
事前にアポを取っておいたおかげで、遊座はスムーズにその人の所へ行く事が出来た。地元の囲碁クラブにいそうな感じの、狐目をした好々爺だ。
「上向いて……次は下。ぐるりと一周して、こっち見る。はいおーけー。次はいつものね。ポイントレーザーで絵を差すから、そこがどこか口で教えてね。……ここは?」
「『お注射天使』の顎です」
「此処は?」「『エルフの剣士』の、胸です」
「此処は?」「……すみません、分からないです」
「此処は?」「『ミスター・ボルケーノ』の……えっと、脇のあたりですか?」
昔から幾百回とやってきたテストを、何時ものようにこなしていく。一通り終わると先生はチェックを入れて、再び別のテストへと移る。
詳細なデータが取れた後、先生は目を線のように細めた。
「大分良くなったね。視界の上半分は完璧に見えてるでしょ」
「はい、おかげさまで」
「おかげさまじゃないよ。手術もなしに治しちゃったんだから。昔は全盲に近いレベルだったから、その頃に比べたら本当に良くなった。うん、学会に発表してもいい?」
「えー、僕のことかっこよく乗せて下さいよ?」
「ファッション雑誌じゃないんだからさ。そこまで恰好よくはならないな。
じゃあ、本題ね。君も分かってるだろうけど、君の眼はね、まだ完全に治ったわけじゃない。視野の下半分の更に半分、つまりちょっと先の地面から足下を見る部分については視野欠損が生じている。そこに何があるか見えない状態だね。だからまだ杖は持っておきなさい、転倒の危険性があるからね」
「分かりました」
「君の回復力から考えて心配はないと思うんだけど、もしこれで18歳になるまでに治らなかったら、手術しましょう。近くに凄腕の先生がいる病院があるので、そこを紹介します。大丈夫だ、君なら治せる」
老いを感じさせぬ若々しい口調で、先生そう断言する。数年来の付き合いで分かるが、この人は絶対に嘘を言わず、褒めるべき所は素直に褒めて敬意を表する人だ。
(……やっぱり、先生はいい人だなぁ。義父さんなんかじゃ眼にならないくらい、人間できてる)
古物商とカードバイヤーの二足の草鞋を履く義父は、遊座から声をかけねば親子関係が成り立っていないんじゃないかと思うほど私生活は淡白で、研究熱心な面がある。亡き実の父母が与えてくれた愛情を訴えても、彼は偶にしか意に介さない。気が向いた時にだけ、息子を息子らしく扱う感じだ。
だがこの先生はリハビリを通じて遊座に安堵を与えてくれ、本物であれ偽物であれ、愛情を注いでくれた。法律関係で定められた最低限のものを与える義父よりも、よっぽど父親らしい態度を取ってくれた。遊座にとっては実父、義父に続く、3人目の父親であり、実父に続いて最も好きな人だった。
「お義父さんは元気かい? 君がいないところでは、結構気に掛ける人だったから」
彼から義父の事を口にされた時、遊座の心が一気に曇った。
普段友人には見せぬ苛立ちを滲ませつつ、遊座は話していく。
「あの人はいつも通りですよ。ビジネス一筋です。よく地方に飛んで、よく海外に行って。あんまり顔も合わせません。今あの人は、僕が学園で騒いだせいで海外にいるみたいです」
「あー、もう。君の目の前で言うのもあれだけど、なんか抜けてるよね、あの人。気にする所は気にしてそうじゃない所もあるとか。面白いなぁ。
けど君の事を心配してたよ。もっといい治療法はないのかとか。昔からどうしても肝心なところで支えてやれないのが悔しいとか。騒ぎが収まったら帰ってくるだろうから、その時に色々と話せばいい」
「……どうせあの人の心配なんて、社交辞令も良い所ですよ。先生が僕の父さんだったらいいのに」
「こらっ。あの人に支援してもらってる身で言う台詞じゃないぞ。寂しい気持ちはわかる。だが、会話もしないで相手の事を好き勝手言うな」
今のは先生の口癖だ。医者としての人生経験の豊富さから、彼はよく対人関係に悩む患者にそれを言うらしい。遊座も何度も言われた事があり、その時は親子間の絆を深く考えるのだ。
だが家に帰ってあまりに無頓着な父を見ると、その気持ちが萎縮してしまう。毎度、毎度の事だと思うが、それでも寂寥と怒りが募ってしまう。先生の諭しは今の遊座にとって、火に火種を入れるようなものだった。
「……帰ったら聞いてますよ、色々と」
「そうそう。話すに越した事はないんだけどね」
「でもあの人、僕の話をまともに聞いてくれた事がないんですよね。僕が学園に入学するって言っても、好きにしろとしか言わなくて。お前の人生はお前が決めろって! 進路にすごく悩んで、障害学校に通うか迷った末の決断だったのに! 「へぇ、兄貴の息子はそんなに大事じゃないんだ!」って言っても馬鹿にするみたいに鼻で笑ってくるし! 学園にいる間、こっちがメールを送っても返信してこないし!」
「遊座、止めなさい」
「止めるってそりゃないですよ。『竜騎士』を使った後なんですから。あの人がくれた中で一番高価なカードですよ! 使えば何か言ってくれるんじゃないかって思って! ほら、僕はこんな事してるよ、こいつ見てどう思うよ!? なんか言ってよって! なのに音沙汰もなしに海外に逃げるなんて、信じられない! なんなんだよ、あいつは!」
「遊座!」
「僕のことどうでもいいっていうのか! 血が直接繋がってないから!?」
「口を慎め! 病院だぞ!」
「…………すみません。軽率でした」
まだまだ言葉の槍が喉の奥から出方を窺っている。だが罅割れた能面のような先生を前にすると、遮断機のようにストッパーが喉の手前に降りてしまう。
不承不承として視線を逸らす遊座に同情を示しつつも、先生はカルテを書きこんでいく。
「私からも君の父親に言っておく。もっと君と、親として接しろと」
「……すみません」
「あれだけ言う元気があるんだ。君はまだ義父を諦めていないんだろう? ならその気持ちを持ち続けなさい。
処方箋出しておくから、涙を拭いたらもう帰りなさい。今日は早めに寝ることだ」
指摘を受けて、遊座は目元に涙が溜まっていた事に気付く。知らず知らずのうちにここまで激していた証拠を指でふき取ると、礼を述べて去っていく。
残った先生は診察室で一人、カルテの記入を進めていき、一分ほどでそれを終えるとナースを呼んた。
「はい、これ彼のカルテね」
「分かりました」
ナースはそれを受け取ってナースセンターへ行く……素振りを見せて、人目がない一瞬の隙を突いて、非常階段を降りていった。
階段の途中で小型のカメラを取り出すと、カルテを撮り、そのまま駐車場へと向かう。支柱の影に停まっていた銀色のSUVの下へ向かうと、運転席の窓を叩く。窓を開いた男にカメラを渡して。
「これ、言われたモンを撮ったから」
「……確認した。約束の金は口座に振り込んでおくよ」
「ねぇ、もうバイバイなの? 次に会えるのは何時? 御互いの時間が合いにくいにのは分かってるでしょ? なるべく早く……」
媚びるような声色のナースの頭を男はがっしりと抑えて、女の頭を窓の内側へ無理矢理押し込む。硬直したように女の足が伸びて、その手が車の窓にもたれかかった。
十秒か、二十秒か。食べ物を咀嚼するような水音が駐車場に響いた。解放されて蕩けたように肩を上下させている女を置き去りにして、車はエンジンを吹かし、男は颯爽とそれを勝って病院を去っていく。
男は週刊誌のルポライターだ。顔と一物がそこそこイイ事を武器として、スキャンダルを知っているだろう人物――特に独り身の女性――と接触して親密となり、情報を得る事を専らの手段としていた。今日はKNHに宿泊しているという地方議員を狙って行動したのだが、途中、思いもしない大物が眼に留まって、標的を変えたという訳だ。
半年前、この病院には過去に不正経理の横領が発覚した医者が勤めていた経緯があり、その時も男は手段を弄して情報をすっぱ抜いている。その時の伝手を生かせたのは、男にとって僥倖だった。
「結婚したくねぇな、あんな軽い女とは。……しかしいいモンが入ったねぇ、これは。ええ? 原因不明の長期の視野欠損? しかも手術なしに回復だと? いいねぇ、こういうヒロイズムは好きだよ」
《
「例の餓鬼が乗ってる。追っかけろ」
後輩記者からの連絡。田治も病院から少し離れた所でジャガーを視認すると、車間を開けて追跡していった。
幹線道路を走るジャガーの車内、遊座は萎んだ果実のように俯いている。受付で渡された薬とお薬手帳がビニール袋に入って、脱ぎ捨てられたベレー帽と一緒にシートに転がっている。
ここまで黙したままだった相棒が、ふわりと現れる。砂漠の砂山のように落ち着いた瞳だ。
『お前、薬も処方してたのか』
「相棒には見せてなかったんだけね。一応、これも必要なんだ」
『……あんまり無理するんじゃないぞ』「何のことだか、ね」
「失礼します、下柳様」「あ、はい」
「後ろから不審な車が追ってきています。シルバーのSUVと、ブルーのワゴンです。病院から出た時から、ずっとついてきています。いかがされますか」
驚いたように遊座は振り向く。トラックの列に隠れて分かり難かったが、確かにその車はあった。
ジャガー珍しさに追ってきているように思えない。という事は……。
「顔が割れたと考えて、いいよね。護衛さん。高速に乗って一気に振り切っちゃって下さい」
「一気に?」「はい」
「……ふっ。分かりました。ベルトをしっかりと付けてください。飛ばしますよ……きひッ!」
「え? な、なにニヤついて――」
――瞬間、遊座の体はシートに張り付き、買い物袋が宙を踊った。
豹のごとく唸るV8エンジン。外に見える遮音壁がキャンパスに絵具を落とすように流れ、消えていく。護衛が操るジャガーが周りの車を脅かし、颯爽と追い越し車線へと移って加速する。
《せ、先輩、気付かれました! 相手、一気に飛ばしてます!》
「ばっきゃろぉ! 高速に乗る気だ! おめぇの車の方が早いんだからさっさと追え!」
《それが、今ので車線が潰れちゃって! ああ、トラックも横付けすんな、うざってぇ!!》
後輩が使い物にならぬと悟ると、田治はギアボックスをガチャガチャと言わせて、SUVに面目躍如の走行を強要させた。
2台の高級車がまるで追いかけっこのようにICに乗り、高速道路へと入る。ギアチェンジで車が加速させていくのに、遊座の護衛は頬を赤くさせてにたついた。
「ヒヒッ。いい声で鳴くねぇ、この子……最高のギアチェンジっ! ゾクッてくるわァッ!」
「まともな護衛を送ってこいよ、海馬社長!?」
『遊座っ、この女怖いぞ!? き、切りつけていいか!?』
「運転の邪魔したら事故りそうだから止めよう! そうしとこう!」
「あばよSUV……ちっ、なんだお前は、ヒュンダイ野郎!! 誰の頭を取ってると思ってんだ、この野郎! タマ潰すぞ、コラッ!」
『ヒィィッ!! タマ、タマだけは勘弁をっ! 嗚呼、頭の奥から嫌な思い出がァァッ! 焼きごてをアソコに向けないでェッ!』
「こんな時に都合よく記憶取り戻してんじゃないよ! 馬鹿なの、相棒!?」
ジャガーの前方にどこからか青のワゴンが躍り出て、ジャガーを巧みに追い越し車線から走行車線へと誘導した。
田治はジャガーを真正面に捉えるまで接近して、心中で小躍りした。
「よくやった! これで単独スクープ間違いなしだゼ」
《これでこの前の貸しはチャラっすよ!》
「ああ! お前さんがグラビアモデルに手を出した件、伏せといてやるよ」
男が後輩を気に行った理由……自分と同じ匂いがしたからに、他ならない。下種な手段だろうと仕事を完遂する能力がライターには求められる。男は後輩にそれを見出し、仕事では常に連携を取り、それを遺憾なく発揮していた。
高速道路でのカーチェイス。危険極まりない。だがスクープのためなら許される。それが田治の、信念に基く行動だった。
前後を挟まれたジャガーは追い越し車線へと行こうとするも、異常に接近してくるワゴン車に危険性を感じ、中々判断ができない。その間にも追い越し車線には、午後五時の茜色を受けた車輛達が好き放題に飛ばしていく。護衛は歯軋りでマーチを奏でんばかりに怒っていた。
「しつこい奴等ッ……いっそぶつけて――」
「――護衛さん! 磯野さんに連絡取れます!?」
命の危険を感じた遊座が咄嗟に割って入った。スクリーンが表示され、茜色に染まる磯野が現れた。
《どうされました、下柳様》
「すみません、用事を終えた帰りにマスコミに捕まって! 今高速なんですが、こいつらをホテルに着くまでに追い払いたいんです! どうすればいいですか?」
《……了解しました。下柳様。ドアの取っ手の近くに、開閉式のボタンがあるはずです。そちらを押して下さい》
「これですか?」
言われるがままに、不自然なまでにメタリックなボタンを押す。
瞬間、シートベルトが蜘蛛の足のように伸びて遊座の体を拘束し、後部座席が反転、遊座はSUVと睨みあう格好となる。そしてトランクの辺りから、大型のデュエルディスクと思わしき装置がスライドしてきて、眼前に展開された。
その変化は、田治から見ても理解できた。ガタガタとジャガーが震えたと思ったら、トランクが変形し、馬鹿でかいレーザー照射器のようなものを出す。其処から光が投射されたと思うと、SUVとジャガーの間に光り輝くデュエルフィールドが展開されたのだ。KC社の技術に、田治も遊座も驚愕するしかない。
「な、なんじゃこりゃぁっ!?」
「ちょ、ちょちょ、磯野さんこれって何です!?」
《我が社の開発顧問が試作した、車内搭載型デュエルディスクです。車にいながらデュエルをする事を可能とするデバイスで、まだマスコミにも公開しておりません。今回はこれの試運転を下柳様にお願いしたい》
「し、試運転!?」
《社長は下柳様にこう仰せになりました。「火の粉はデュエルで払え」》」
遊座の脳裏に閃く、開花したラフレシアのように笑う海馬社長。すべて予測済みという事なのか。
まさかこうなるとは思ってもみなかったが、マスコミを追い払えるのならばそれでいい。遊座はバッグからメインデッキを取ると、ディスクにセットした。
フィールドにデッキの束が投影され、田治は慌てる。
「じ、冗談じゃねぇ! 高速でデュエルをするってのか!? くそっ、自動運転システム!」
《認証番号が間違っています》
「嗚呼、これ古本屋のポイントカードのじゃんっ! こっちだこっち!」
《自動運転システム起動。現在の速度を維持します》
シートベルトを解くと車のサンルーフを開け、田治は後部座席へと移ってデュエルディスクとサングラスを装着する。
高速を走るだけあって、窓の外は強烈な猛風だ。だが此処を踏ん張れば一大スクープの足掛かりが掴める。どこからか聞こえる後輩の声をスルーして、男はディスクを構える。
サンルーフから突きだした人間の上半身を見て、遊座も覚悟を決める。機械音声が《ドライビング・デュエル、レディー》と囁いた。
――デュエル!!