単なる力不足ではなく、何もかもが足りていない。
立場も、時間も、資格も、強さでさえも。
待って、もう少しだけ待って。
お願い、行かないで。
──あんたに、一人だけで戦ってほしくないのに。
あまりの眠たさに欠伸をする切島、上鳴、芦戸の三人。
三人揃っての欠伸に、隣の砂藤と瀬呂も例に漏れず眠そうである。
合宿三日目の朝。
ほとんどの男子たちが訓練場の周りを走りに行った中、補習組と女子たちだけが訓練場で個性伸ばしの訓練を一足先に始めていた。
また、この人も。
「ふわぁ…眠…」
欠伸する八幡の目元には隈が出来ていた。
昨日の耳郎や拳藤、雪乃の言葉が忘れられず、寝付けなかったのだ。
だが、彼の眠さの原因はそれだけではない。
まぶたをこすりながら、瀬呂が八幡に問いただす。
「ていうかさ、なんで比企谷も補習にいたわけ!?」
「今更すぎねえか」
そう、合宿二日目の夜10時から夜中の2時まで続いた期末試験の補習だったが、何故か八幡まで参加したのだ。
しかも夜11時くらいからの参加というとてもルーズな参加の仕方をした。
参加が遅れたのは女子たちによる拉致のせいで彼の心がかなり掻き乱されたため、そのせいではあるが。
そのせいで八幡もかなり眠たげである。
「しゃあねえだろ……。まだチームアップで受けられなかった授業分の補習が残ってるんだから。教師がほとんどここには居ないから教材を進めるだけで良いけどな」
「あ、それか…」
「どうせなら補習組と受けろって言われてて…七日間の合宿で約15時間分の補習を行う予定」
「俺たちが期末の補習してんのに、比企谷はチームアップで受けられなかった授業の補習か…」
「上鳴」
「ん!!わかってるよ比企谷!!」
一瞬落ち込んだ上鳴。
しかし、八幡の声で昨夜のことを思い出し、すぐにピカーっと顔を光らせる。
おっしゃーと声を上げた上鳴を、不思議そうに見る切島たち。
昨夜のことは上鳴からは誰にも話していないらしい。
補習組の様子を見ていた相澤が切島たちに近づいてきた。
「比企谷の場合はいつ補習を受けても良いということにはしている。本当なら、先週I・アイランドから帰ってきた後で行う予定だったが…」
「あ、テロのせいで帰ってくんのが伸びたから!」
「その通り。それを比企谷には無理して補習を受けてもらっているということだ。だから比企谷が補習をこなすのも別に必須というわけでもない。足りない分は学校で時間を用意するとは伝えてある」
「あー、だから比企谷だけ昨日の補習にいたのに、一人で黙々となんか書き物してたんだな」
「なんで合宿の夜に無理してやんの?」
「後でやるのめんどいだろ。先に終わらせたほうがいい」
「そんなこと言ってー、俺たちと参加したかったんじゃないの!?」
「お前らが先生たちの前で唸っているのを見て楽しんでるのは間違いないけど」
「うぉぉい!!」
瀬呂の言葉で少し心を鳴らした八幡だったが、おくびにも出さずに皮肉を返して瀬呂を叫ばせる。
何か話題を逸らそうと辺りを見渡すが、ふと気づく。
「峰田も走りに行ってるんすか」
「ああ。昨夜だけで二回もやらかしやがったからな」
「…峰田のエロへの探究心はなんなんだ……何にせよリスクマネジメントがなってないな」
そう宣う八幡に起きた昨夜の出来事は、峰田的にはかなり羨ましいことではあるので峰田本人が知ったら血涙どころか八幡を使って女子部屋に潜入しようとするだろう。
そもそも八幡は昨夜の出来事を誰にも話していないが。
あらぬ疑いをかけられるのは火を見るより明らかである。
訓練をこなすうちに、罰走を終えた男子たちが戻ってきた。
肉抜きと罰走のどちらが彼らにとって辛いかは怪しいが、何も関係がない生徒たちを巻き込む肉抜きと、彼らを巻き込まない罰走となら、明らかに前者の方が辛いだろう。
その点では八幡の目論見通りになっている。
ちなみに、女子たちには男子たちが枕投げで白熱して暴れたので罰走を課せられたということになっている。
上鳴たちには知られるだろうが、男子たちの名誉の為に話されることはないだろう。
罰走から帰ってきて皆倒れ込んで息をついているが、その中でも爆豪がまずの一番に個性伸ばし訓練に入っていく。
ハードアンドタフネス。
自分にも他人にも厳しい男。
特に己に対しての厳しさは間違いなくクラス一だ。
我ーズブートキャンプに参加しながら八幡は爆豪を眺めていると、その視線に気がついた爆豪がギロリと八幡を睨む。
「間抜けなポーズでなに見てやがるクソが…」
「ん?いや、タフな奴って呆れてる」
「てめえよりタフだわ!!てめーのその間抜けな踊りよりも長く訓練してやんぞっ!!」
「褒めたのにそれかよ」
「今の褒めてたの…?」
爆豪と八幡の会話に、思わず耳郎がツッコミを入れた。
そこで目が合う八幡と耳郎。
拳藤の方とは既に昨夜に和解していたが、耳郎とは昨夜から会うのは初めてである。
「ひ、比企谷…」
「…」
「…」
二人の間に流れる微妙な空気を敏感に感じ取る爆豪。
彼は見かけと性格によらず聡い。
色々気づいた上で自分の敵を増やし、敢えてストイックに己を高める。
だが、この時爆豪が感じた空気は爆豪が今まで感じたことのない何かだった。
こちらも思わず声を出す爆豪。
「…おい、耳」
「な、なに?」
「サボンなや」
「…はい」
「アホ毛」
「あ?」
「………声かけられたら返事しろや」
「いやお前に言われたくねえよ」
「うるせえ早よ返せ」
「…おす」
(このクソアホ毛コミュ力低すぎんだろが)
耳郎に返した八幡の一言があまりに短すぎた為、逆に爆豪の方が八幡に呆れてしまう。
だが、それに対して耳郎は。
「…うん」
「…」
「…あんた、その体操似合わないね」
「ほっとけ…」
耳郎も八幡もそれなりに満足そうだったので、爆豪は二人を見るのをやめ、個性伸ばしに入っていった。
そこへ這い寄る一人の女。
「…胸が張り裂けるほどの辛い想いを打ち明けた女」
「ん?」
「人生を変えられた男は、それを受け止めるほどの度量があるのか」
「…」
「そして男は、想いの丈を受け取る苦難を葉山君への想いへと変える!」
「変えねーよ」
「え?え?…えぇ!?」
「いやちげえよ。この人意外とウブっぽいんで変なこと入れ知恵すんのやめてくれません?海老名さん」
乱入してきた海老名にジト目を向けるが、海老名は怪しく笑うだけだ。
何この人、と耳郎は海老名を八幡の後ろに隠れて見遣る。
昨夜の女子会である程度は海老名のことを知ったが、いまいちどんな人かはわかっていない。
総武中出身、三浦優美子と仲が良いということくらいだ。
「うふふ…比企谷くぅ〜ん、暇でしょ?実験されてよ、ね?」
「嫌ですよ、わかりきってること聞かないでください」
「実験…?」
「興味ある?耳がエロい耳郎さん」
「は!!?」
「だめだこいつ…早くなんとかしないと」
「ぐふふ、この妄想を止められるかな?」
「いえやっぱ関わりたくないです」
「食い気味に拒否されるこの感覚!イイ!!」
ぶばっと鼻血を出した海老名から目を逸らし、ついでに耳郎の目元を隠す。
この人に関わるのは教育的によろしくないのだ。
「ちょ、この人なんなの?」
「海老名姫奈。個性、妄想鼓舞。他人に自分が妄想した内容やら話やらを聞かせることで他人を思うように強化できたり弱化させたりできる」
「…強化や弱化って、どんなの?」
「中学の頃とかだと…身体強化された時は50m走を俺の個性抜きで3秒もかからず走り切ったな」
「は?」
中学2年生男子の50m走だと、7秒も切れば早い方である。
それを海老名に強化されただけで、そのタイムが3秒以下になるのなら相当の個性。
さらに八幡は言葉を続けていく。
「この人の恐ろしいところは、それが個性にも影響があるところだ…」
「個性って…」
「ここにいる連中が今やってる個性伸ばし訓練。その成果以上の結果が、この人の個性がかけられるだけでそいつの個性に現れる。一時的にだけどな」
「なにそれ…。この人がいれば誰でも強くなるってこと?」
「色々制限はあるから、その制限を取っ払う訓練を今してるんだろ」
「その通り!ねえ比企谷君、君に使わせてよ、ねえ!?」
「…耳郎、行くか?」
「や、でも…さっきのよくわからん妄想は何?」
「この人の趣味」
「やだ絶対やだ」
ニタニタ笑う海老名にぞぞぞと鳥肌を立たせる耳郎。
海老名は今の時間、各生徒を周り、了承を取れた生徒を強化して個性伸ばし訓練に取り組んでいる。
妄想鼓舞はインターバルが必要な個性で、しかも同じ人間に1日に2回以上使うと効果が著しく落ちる。
その制限を和らげる訓練を行なっているのだ。
だが、海老名には最大の課題にしてタブーが一つだけ残されており、それに八幡は触れていく。
これ以上絡まれると煩わしい。
「海老名さん、それより自分に個性使えばいいだろ」
「!」
「海老名さんは自分には個性を使ったことないだろ?」
「え、自分にも使えるの?」
「この人の個性は一種の暗示だ。催眠みたいなものだから、自己暗示みたいに使える…はず」
「…それは、無理だよ」
ぼそりと海老名が否定の意を示した。
まあだろうな、と頷く。
誰かにやらせるよりは自分が泥をかぶる方が早いと考える比企谷八幡。
彼が自ずと守るヒーローになったように、海老名姫奈がヒーローになる理由もたった一つ。
「私は、ヒーローを特等席で見たいだけだから、ね」
「…知ってる」
「うん。私のヒーローに、君はなってくれるかな?比企谷君」
海老名の言葉に、眉を顰める八幡。
海老名の発言に仰天したのは言われた八幡ではなく、耳郎であった。
このヒーロー隆盛の時代、“わたしのヒーローになってくれる?”とは特別な意味を持つ。
色々な例えごとや雑学、果てはプロポーズの謳い文句まで、ヒーローやそれに関わる言葉はよく使われる。
年頃の男女間では、その台詞はよく使われる。
つまり、15歳の海老名は今八幡に対してプロポーズ未遂をしたようなものである。
あまりの急展開に口が塞がらない耳郎。
だが、八幡の方はため息をついた。
「あのな、前も言ったが勘違いしちゃうからやめてくれる?」
「へ?何回も言ってるの?」
「二回目だな」
「中学の修学旅行で言ったねぇ」
「大体、三浦のサイドキックになるんだろ」
「今のところの予定はねー。でも、ヒキタニ君のところでも面白そうかな。君、限りなくドラマティックだし」
「俺はサイドキック雇わねえよ、多分。怖い雇用主がいるしな」
八幡が離れている雪乃を見る。
池の水を霧、氷、また水と変化させている雪乃は、横目に八幡たちを見ていた。
八幡と雪乃の目が合い、雪乃に睨まれた八幡がそっぽを向く。
雪乃にまた何かしら変な問題を持ち込まれたのではないかと見られているのだ。
そんな八幡と雪乃を複雑な目で見る耳郎。
海老名が耳郎にすすすと近寄る。
「いやあ、男を見る目があるねぇ。耳郎さん、アレは多分当たりだよ」
「は?」
「多分っていうのは、本人の見た目とは裏腹のめちゃくちゃな義理堅さとボッチを自称してる割には良い面倒見は確実に当たりだけど、難易度がめちゃくちゃ高いからね。あの捻くれて言われたことを素直に受け取らない上に、尚且つ周りがハイレベル中のハイレベル。いやあ、本当に男を見る目がありますなぁ」
ニマニマと笑う海老名に胸を衝かれた耳郎。
自分が?
比企谷に?
(確かに女の子扱いされたと感じたは感じたけど……。え?ウチが…比企谷を…?)
「……………い、いや。…そんな、ことは…」
「…ふーん?にしては返事が遅いねえ」
「だ、だって…クラスメイトだし、ヒーロー仲間だし…」
「おい」
「ひぃっ!!?」
「え、ごめんなさい」
耳郎の短い悲鳴に、声をかけた八幡の方が謝ってしまった。
そのことに、耳郎が首をブンブン横に振る。
「な、なんでもない!」
「…いや、そもそもその…海老名さんの方」
「ん?」
「個性かけんなら他所当たってくれ」
「ま、そうね。君の個性は更に強化するととんでもないことになりそうだし、2年前と違って♪」
「戸部んとこでも行けば良い。喜んで協力してくれるだろ。それに、もう2年前みたいに色々気にしなくて良いんじゃねえの?」
八幡の言葉に、能面のような顔をした海老名は乾いた笑みを浮かべた。
海老名と戸部、そして葉山グループ。
2年前、彼らは奉仕部の亀裂をもたらしてしまうきっかけを作ってしまった。
そのことを八幡を除いた奉仕部の雪乃と結衣、葉山グループの間ではある程度和解が済まされている。
だが、八幡はもちろんそのことを知らないし、葉山たちも八幡には伝えていない。
表社会に戻ってこれた彼に余計な徒労を与えたくないからである。
(…まあ、多分話しても興味ないだろうけど)
「?」
「そうだね。頼んでこよっかな。あと余計な気はまわさなくていいからね」
「そっくりそのまま返す」
「ありゃ?聞かれてた?顔赤いよ?」
「なっ」
「ポーカーフェイスはまだまだだね♪んじゃ、お疲れっしたー」
綺麗に海老名にやり返された八幡。
耳郎は顔を俯かせたまま赤くしていた。
離れていく海老名を黙って八幡は見送るが、もう二人は動けなかった。
(違う。恋、とかそんな陳腐なもんじゃない、きっとそう。……ウチは、ただこいつに…無事にいて欲しいだけなのに)
──────────
夜。
夕食に肉があるにくじゃがを皆で再び作って食べ、その後。
生徒たちは、訓練場がある空き地とは別のワイプシが管理する森を訪れていた。
「肝試し!きっもだっめしー!!」
るんるんと闇夜の下で踊る芦戸。
そう、今は芦戸や上鳴が期末試験前から待ちに待った肝試しの時間である。
ワイプシの面々が、訓練に勤しむ生徒たちに飴の時間を作ってあげようと企画したのだ。
当然、相澤もその場に来ていた。
肝試し。
あえて恐怖へと己の身を押し込んでいく、昔から日本に伝わる勇気試しの儀式。
「まあ何でやるかは知らんけど。てか何でやんの?」
「歴史は長いわよ。平安時代から伝わるものだもの1000年以上はある伝統ね」
さて肝試し。
こいつはどうなんだろうなと、肝試しの解説を結衣に施している雪乃を見る。
総武中での修学旅行でお化け屋敷に入った時は、雪乃はいなかったのだ。
ついでに相模もおらず、折本はそもそもその時期にはまだ転校してきていなかった。
その時明らかに怖がっていたのは結衣、沙希、戸部、そして八幡。
戸塚は純粋にお化け屋敷を楽しみ、三浦は葉山のアピールで忙しく、葉山はその場のノリを守れるくらいには平静があった。
ちなみに一番怖がっていたのは沙希である。
その為今一番怖がっているのも沙希であり、八幡の腕の袖を力の限り掴んでいる。
暗闇の森から溢れ出る恐怖を誤魔化す為である。
それはわかるのだが、何故か沙希の反対側の腕に耳郎まで掴まっていた。
ちなみに、八幡の服は耳郎が勧めたパンキッシュスタイル。
まさか昨夜あった拉致後の話し合いで出てきた、これを着てくるとは思わなかったと耳郎。
「…日頃無愛想なのは怖いのが苦手っていう共通点でもあんのか」
「は?」
「怖がってんのに何で俺にはそんな威圧的な態度取れるの…」
「ひ、比企谷!あんた怖いの平気だよね!?」
「幽霊なんていねえよ。そんなもんより人間や
「あんだけ
「むう…。でもヒッキー、クラス対抗らしいよ肝試し」
八幡の両腕が既に塞がれているのを見ていた結衣が、頬を膨らませて声をかけた。
うっ、と少し森から離れたがる八幡。
八幡たちの一角に声をかける瀬呂、上鳴。
「耳郎は怖いの苦手なのか?」
「普段あんなに強がってるのに面白ぇ…」
「くっ…調子乗んな赤点ウェイ」
「混ぜんなよ俺の副作用と赤点を!!」
「そのことで大変心苦しいが」
「「「へ?」」」
相澤の捕縛布が芦戸、上鳴、瀬呂、砂藤、切島の5人に巻き付けられた。
お互いの顔を見てまさかと青ざめる一同。
「補習連中はこれから俺と補習授業だ」
「ウ ソ だ ろ ! ! !」
ありえないくらい顔を歪めた芦戸を筆頭に、補習組がズルズルと相澤に引き摺られていく。
口惜しそうに五人を見送る緑谷だったが、流石にそれを止めることはできない。
それを見ていた八幡も、ぴかーんと脳内電球を光らせた。
「…俺も補習いってこ」
「「はぁ!!?」」
「ヒッキー!?」
「ほら、チームアップの穴埋め…な?」
そう言って相澤たちの後ろを追いかけるようにしてその場から逃げ始めた八幡。
沙希と耳郎があまりの恐怖に縋るような目で見てきたが、何とかその場を後にして相澤たちの後を追いかけていった。
その後ろ姿を、どうしたんだろうと生徒たちは見ていた。
緑谷がたまらず声を出す。
「そんなに怖いの嫌だったのかな?」
「中学の時のお化け屋敷だと、入るの嫌ってくらい怖がってたわけじゃないんだけどー…」
「補習組に気を遣ったとか?」
「そんな気遣いできるとは思うけど理由がなかったらやらないよね、比企谷」
「うん」
「…総武組からのよくわからない方面への信頼がすごい…」
「闇の狂宴からの脱走…生贄の脱走…」
「その理論でいくとウチらも生贄だからやめて常闇」
そんな八幡を、悲しい目で見送る雪乃。
止めることはできない。
止めても、ああいうときの八幡は何も聞かないことを、彼女は知っていた。
──────────
約15分後、またたび荘へ戻ってきた八幡。
またたび荘と肝試しのスタート地点からはそれなりに距離がある。
ちなみに、肝試しの内容はA組対B組の対抗戦。
肝試し自体は森の中を一周するコースを抜けること、中間地点にラグドールが待機しているのでそこにあるお札を取ってくること。
その二つがクリア条件となる。
先にB組が脅かす役として森中に待機し、A組を個性ありで脅かしにかかる。
今頃もう肝試し始まってるだろな、と他人事のように考えながら、八幡はまたたび荘の中へ入っていく。
昨日と同じ補習に使われた部屋を訪れ、扉を開いた。
遅れて補習にやってきた八幡に驚く切島たち。
「比企谷!?オメーなんで来たんだ!?」
「補習あるだろ」
「でも、比企谷の補習は教材解くだけだろ?別に今日、しかも肝試しの時にやらなくても良いんじゃねえのか?」
「怖いの苦手なんだよ。人がやるやつは」
砂藤の疑問に適当に答え、席に着く八幡。
そんな彼へ相澤が近寄り、ボソリと小さな声で話しかける。
「なんの真似だ」
「さっき言った通りすよ」
「…こんな闇夜に、少人数で動き回るのを自制したのか。そんな馬鹿げたこと考える暇あったら」
「怖いの、苦手なだけです」
未だ比企谷八幡には
生徒たちにはそのような視線を投げる者はいないが、八幡なりの生徒達に対する気遣いだろう。
肝試しは二人一組、脅かす側にまわっても夜の森で少人数で動くことになる。
自分にかけられている疑惑を理解しているからこそ、彼は肝試しへの参加を見送った。
一人の不安定な立場にある人間としては正解の対応だが、そんな気遣いを生徒にさせてしまっているのは大人たちだ。
相澤はそう考え、短く八幡に謝った。
「…すまん」
「そう思うんなら教材減らしてください」
「俺がそれに合理的だと頷くと思うか?」
「チッ」
わざとらしく舌打ちをした八幡。
ぼっちだのなんだの言っているが、それなりに人とのコミュニケーション能力はある。
それが同級生になぜか働かないだけだ。
というより、友人関係を築けるであろう同年代にはできないのだ。
つくづく友達という言葉に縁がない少年である。
一人で教材を開き始めた八幡をとりあえず放っておく相澤。
その気なら、折角なので教材を思う分進めてもらおう。
こちらはこちらでただでさえ遅れている期末の補習を進めたい相澤であった。
先に部屋へ入っていたブラドキングに声をかける。
B組唯一の期末試験赤点の物間を、切島たちよりも先に連れてきていたのだ。
「ブラド、今回は演習入れたいんだが」
「俺も思ってたぜ言われるまでもなく!」
演習という言葉を聞いてげぇっと舌を出す補習組。
八幡は全く関係ないのでそれを涼しい顔で見ている。
気まぐれに見た窓の外。
肝試しをしているであろう奥の森。
その辺りが少し赤く照らされているのが見えた。
妙だ。
明らかに明るい。
一部の森だけ夜じゃないようにまで見えた。
窓をカラカラと開ける八幡。
「…」
「比企谷?」
「…ん?なんか向こうの空赤くね?」
『皆!!!』
その時、その場の全員に声がかけられた。
マンダレイの個性、テレパスによるものである。
個性伸ばしの訓練中には複数人相手に同時にメッセージを飛ばせる為、アドバイザーとして活躍していた。
「マンダレイのテレパスだ」
「これ好きービクってする」
「交信出来るわけじゃないからちょい困るよな」
「静かに」
相澤、ブラドキングはマンダレイの次に来るであろう言葉を待つ。
だが、八幡は先ほど開けた窓に既に片足をかけていた。
そして、彼らが予想していた、しかし当たってほしくない予想が当たってしまったことを告げられる。
『
──────────
切島や物間がテレパスの内容に唖然とする。
その
それだけで関係者以外誰にも合宿先は知られるはずがなかった。
なのに何故。
相澤がその原因にまで一瞬で懸念してしまうが、それよりも今やるべきことは、夜の森に散ってしまっているであろう生徒たちの保護。
ブラドキングに物間たちを頼み、部屋を出ようとする。
だが、生徒のことからその少年を連想し、ブラドキングと相澤は同時に窓の方へ振り返った。
相澤が部屋の扉を開けるのと、少年──八幡が窓から飛び出そうとしているのはほぼ同時であった。
「待て比企谷!!お前は動くな!!お前が狙いかもしれんぞ!!」
相澤の怒声。
雄英高校をわざわざ狙う
そして、
次点で、公言されてはいないものの比企谷八幡なのだ。
体育祭にて
言葉は優しいが、要するに野放しにしておくということだ。
つまり、いずれ比企谷八幡を回収しにくる恐れもあった。
こんな
相澤の言葉に、少しだけ止まる八幡。
相澤の信頼に応える為である。
だが。
「俺がここにいたら、ここは安全じゃなくなる。ブラドキングの代わりに残れって言われても断ります」
「ならお前に効くよう言ってやる!お前、今このタイミングで一人で飛び出してみろ!お前が疑われるぞ!!」
相澤の方に目線だけくれる八幡。
相澤の非情にも思えるその言葉は、八幡がこの合宿先の場所を
八幡を止めるための言葉とはいえ、その可能性が一番高いことは自明。
だが、相澤の予想通り、八幡はそれも理解していた。
静かに、だが素早く言葉を並べる。
「別に良いですよそれでも。今から誰かが死ぬよりマシです」
「!!」
「生徒たちの保護へ出ます。俺は森の奥まで先に飛んでくのでイレイザーヘッドは手前からお願いします」
イレイザーヘッド。
相澤のことをそう呼ぶA組の生徒はいない。
八幡も例に漏れず。
だが、今はヒーロー名を呼んだ。
今その場で赤く照らされた夜の森を睨んでいたのは比企谷八幡ではあるが、生徒ではない。
ノーアームズ──プロヒーローである。
相澤とブラドキング、切島たちの制止の声にはもう耳を貸さなかった。
比企谷八幡は、闇夜へ溶け込むように飛び出して消えていった。
[newpage]
数分前、森の肝試しスタート地点にて。
森の奥から上がる黒煙に一番に気がついたのは、緑谷だった。
既に肝試しは始まっており、6組目である麗日と蛙吹ペアがスタートしたばかりである。
肝試しで何かあったか。
そんな疑問よりも、緑谷の胸中には悪い予感が走っていた。
いやでも思い出されるのは、死柄木の言葉。
『次に会う時は殺すと決めた時だ』
(まさか!)
黒煙にその場の全員が気づいた瞬間、ピクシーボブの身体が浮いた。
咄嗟のことにピクシーボブは何もできず、なすがまま空中を何かに引っ張られるように飛んでいく。
その先は木々の中、白い布に包まれた棒状の物。
なす術がなかったピクシーボブは、彼女を引き寄せたであろう男に頭を叩きつけられた。
「え」
「ピクシーボブ!?」
「飼い猫ちゃんは邪魔ね」
軽い音と共に、意識を無くしたピクシーボブは地面に落とされる。
ピクシーボブを叩きのめした男が、森の中からどすりと姿を表した。
サングラスをかけ、黒髪を襟まで伸ばしたたらこ唇の大柄な体格。
だがその目は妖しく光り、生徒たちの前に立ちはだかる。
そして、その横に更にまた一人、緑谷たちが見覚えのない男が姿を現した。
爬虫類の見た目に、刀を一本、また布に巻かれた大刀のような武器を一本背負い、頭にゴーグル、目元に目出し穴がついた布を巻き付けた男。
どちらも笑みを浮かべ、生徒たちを見下すように見ている。
その姿を見て、恐怖と絶望を感じた峰田が叫ぶ。
「なんで…!万全を期したはずじゃあ!!…なんで
「はっはっは…ご機嫌よろしゅう雄英高校!!我ら
「
その名を聞いて頭が逆に冷えていくのを、雪乃は感じ取っていた。
やはり来た。
もっと早いものかとも思っていたけれど。
ならば、ただ迎え撃つまで。
そして、ここで情報を引き出す。
2名の
ピンポイントで肝試しのスタート地点に来たか、それとも森全体に
もし仮に、他にも
この森には、一人で行動しがちな幼児がいる。
その事実にすぐに辿り着いた緑谷、マンダレイ。
サングラスの男がぐりぐりと武器のようなもので倒れるピクシーボブの頭をなぶる。
「この子の頭、潰しちゃおうかしら、どうかしら。ねえどう思う?」
「させぬわこのっ…!!」
面白がる男──マグネに対し、虎が憤って襲い掛からんとしていた。
だが、そんな二人の間に仲裁するように割って入る爬虫類の男──スピナー。
「待て待て早まるなマグ姉!虎もだ落ち着け!生殺与奪は全て、ステインの仰る主張に沿うか否か!!」
ステイン。
ひと月ほど前、飯田の兄、インゲニウムを襲い、八幡や緑谷たちの前に姿を現したヒーロー殺し。
その血の気もよだつような彼の最期となった動画はネットに上げられ、彼の信奉者と理念は急速に全国へ広まった。
本人はエンデヴァーに捕まった形で拘束され、タルタロスへ投獄間近と言ったところである。
つまるところ、スピナーはステインの信奉者──いわば後継者になろうとしている者の一人。
地に伏せて尚広がるヒーロー殺しの余波を、脅威に思う雪乃。
だが、まずは目の前の
それに、他にも彼女が懸念する不安要素がある。
すぐに生徒たちよりも前に出る雪乃。
「その人を離しなさい」
「あぁら可愛子ちゃん!貴女もヒーローなのよねぇ!?」
雪乃の身体から霧が出始めていた。
雪乃が戦闘態勢に入ったことをすぐに読み取るマグネ。
「スピナー!」
「うぬっ!?」
マグネがスピナーに呼びかけ、二人して少し下がる。
雪乃が出した霧に触れないためだ。
霧は瞬く間にピクシーボブへと踊りかかり、霧が水流へと変わる。
水流は意識のないピクシーボブを浚い、雪乃たちを通り越して飯田の元へピクシーボブを運ぶ。
「ナイスだ雪ノ下君!」
「ピクシーボブ!意識が…!」
「飯田君、生徒たちを連れて施設へ走りなさい」
「待ってユキユキキティ!君が引率に!」
「無理です。私は、これから森に入って生徒たちを守ります。施設まで行けばプロが3人いる…はずです」
雪乃の視線の先には火事に遭っているであろう森。
生徒の中で即座に水を出せるのは雪乃のみ。
山火事を止められる可能性があるのも雪乃だけだ。
だが、雪乃はある懸念を口にしなかった。
こんな非常時に、彼が動かないはずがない。
彼の無茶を、私が止める。
そんな思いだけは、口にはしなかった。
ただ、それとは別の忠告を今にも飛び出しそうだった沙希に投げる。
「やめておきなさい、川崎さん」
「…」
「彼らの狙いは恐らく彼よ。彼の居場所、知っているでしょう?貴女が守ってあげて」
今は施設にいるはずだが、雪乃は沙希に施設に行けと行ったのだ。
もし大人しく施設の守りについているとしたら、彼を狙いにまたたび荘へ敵襲が押し寄せるかもしれない。
怒りに呑まれかけていた沙希を、雪乃の冷静な言葉が押し留めた。
「…任せな」
「ええ。飯田君、行きなさい!」
「わかった!君も、マンダレイたちもお気をつけて!いくぞみんな!口田君、ピクシーボブを運ぶのを手伝ってくれ!」
「う、うん!」
飯田と口田がピクシーボブを抱え、尾白と峰田が彼らの先頭に立って護衛。
五人の後ろに折本と沙希が着き、後衛を担う。
施設へ出発しようとしたその時、残った緑谷が飯田に声をかけた。
「飯田君先行ってて…」
「緑谷君!?何を言ってる!?」
「緑谷!!」
「マンダレイ!!僕、知ってます!!」
虎でも雪乃でもなく、マンダレイに向けた言葉。
マンダレイが今抱える不安の一つ。
洸太の行方である。
マンダレイの返事も聞かずに、一人で森の奥へ飛び込んでいく緑谷。
それを咎める暇も時間もない。
緑谷を信じるしかない、と雪乃もマンダレイも止めることができなかった。
「…マンダレイ、虎。私は先に火事の元へ行きます」
「ああ。我々があの二人を抑える。消化活動を頼む!」
「はい」
「そう簡単に行かせると思うかしら!?」
「俺は行かせてやってもいいと思うがなぁ」
「は?何言ってんのかしらスピナー」
どん、と肩にナイフを寄せ集めて作ったつぎはぎの大刀を乗せるスピナー。
雪乃も、そして八幡もだが。
ヒーロー殺しが見逃した者の一人。
ステインはかつて、雪乃を指して自分と同類と言い放った。
ジェントル・クリミナルが公開した動画には、ステインの八幡との戦い、そして黒い靄で撤退するところまで、その全てが映っていたのだ。
「なあ、アウトスノー。ステインと同類ってのは…どういうわけなんだ?」
「知らないわ。興味もない。どいてくれるかしら」
「行ってアウトスノー!ここは私たちに任せて!!」
戦闘に入る雪乃たち。
虎がマグネと、マンダレイがスピナーと戦い始める。
雪乃は二人のサポートをしつつ、隙を見てその場を離脱して山火事へ向かう算段だ。
しかし、雪乃が心配していたのは今頃飛び出しているであろう八幡のことだけではない。
5組目のペアとして戸塚と共に肝試しに出発した由比ヶ浜のことである。
焦る気持ちを抑え、氷と水を出現させる雪乃。
(二人とも…どうか無事でいて。貴方たちに何かあったら…私は…!)
──────────
その同時刻、闇夜の森の至る所で事件は起きていた。
森を見渡せる高台にいた洸太。
森から上がる黒煙と火の手を見て、何か異常事態が起きていることはすぐに察しがついた。
だが、その異常事態に対して何も動くことが出来ない。
何せ、目の前に更なる異常事態を表す大男がいるからだ。
簡素なマスクを取った男の顔に、見覚えがあった。
殉職した両親を、英雄のように扱うテレビ。
その放送の中で、両親を手にかけた男の顔が報道された。
まだ捕まっておらず、左目に両親から受けた傷が残っているという。
そして、記憶の中の忌々しい顔と、目の前で洸太を殺そうと腕を振るう男の顔が一致した。
返事などあるはずもない、しかし悲痛な泣き顔でその名を呼んでしまう。
「パパ…ママ…!!」
男の腕が洸太に振り下ろされる瞬間、その少年はその場に滑り込むことができた。
洸太を腕に抱き抱え、何とか大男の攻撃から退く。
男の一撃で地面が砕け、間一髪助かった洸太、そして緑谷。
ゴロゴロと地面を転がり、何とか体勢を立て直す。
洸太を庇うように男に対峙するが、ポケットから滑り落ちたスマホが半壊しているのを目にしてしまう。
これでは誰かに連絡もできない。
つまり、応援が呼べない。
洸太がいるであろう秘密基地の場所を知っていたのは自分だけ。
そう考えて真っ先に洸太の保護に走ったが、既に
それでも間に合ったのは不幸中の幸いと言えるだろう。
「んん…?お前はリストにあったな」
リスト。
何のリストか、と言われれば一つしかないだろう。
緑谷たちの情報が割れている。
明らかに偶然ではなく、計画的な夜襲である。
残念そうにため息をつく大男。
「当たりのような…いや当たりじゃあねえな。とりあえずお前でも良いか…」
「なに…?」
「一応聞いておくが、爆豪ってガキ…それかコネクタってのを知らねえか。あ、比企谷な」
(かっちゃん…!?比企谷君は…まだわかる。比企谷君は2年前の時点で
フードを取り去り、ゴキゴキと首を鳴らす男──マスキュラー。
「コネクタのことは噂に聞いてたんだよ。デタラメに強いガキがそこらの
「…比企谷君が、お前のことなんかに興味あるもんか!」
「かーもな。だから…こう考えた。来ねえなら、こっちから行けば良いってよぉ!!」
マスキュラーの腕の皮膚から筋のような何かが膨れ上がり、その腕が大きくなっていく。
振るわれた剛腕によって壁に叩きつけられた緑谷。
「てめえをさっさと殺してそこの子どもも殺して!コネクタ!!野郎んとこに遊びにいくんだよ俺ァ!!」
「比企谷君は!!コネクタなんて名前じゃない!!」
逃げながらワン・フォー・オールを発動させる緑谷。
緑谷の比企谷八幡に対するイメージは、“不幸や苦痛、試練に耐え続けて、それでも立ち続ける守るヒーロー”である。
話を聞く限り、彼にとって幸運が働いたことはほとんどない。
いつどんな時でも、彼には苦痛が与えられている。
そんな八幡に、何かできないかと模索した緑谷たちや雪乃たちこそが、彼にとって唯一の幸運とも言える。
仲間に恵まれたこと。
だが、それすらも今この瞬間、奪われようとしている。
緑谷出久は、腹が立っていた。
何で。
何でこんなことができるんだ。
彼を今突き動かすのは、ヒーローとしての使命感と、
──無謀な戦いが始まろうとしていた。
──────────
またたび荘を飛び出し、気体操作によって空中飛行を開始した八幡。
1分とせずに肝試しが行われているはずだった森の20mほど上空へと到達した。
眼下に収まる森で起きている事態の状況把握に努める。
地鳴りが二つの地点から聞こえる。
森から上がる黒煙、山火事だろう。
かなり広範囲で、自身の気体操作や固体操作の範疇を大きく超えている。
そして、山火事と一本線が引かれたように、木々の間に色のついたガスが流れていることに気がついた。
ガスは一定範囲で渦を巻くように広がっており、こちらも気体操作の有効範囲を大きく超えている。
所々で喧騒が聞こえる。
ここで八幡は選択しなければならなかった。
どこから助けに行くかである。
(火事もガスも範囲が広い!中にいる人間は気体操作の第二段階で感知すれば、見つけることは簡単だが…。ガスは簡単に対処できるだろうが、火事は無理だ!土を盛り返せば火元は消えるか!?木に燃え移ってる可能性が高い…)
それに、八幡が狙われている可能性もある──というよりほぼ確定だろう。
相澤の言葉は八幡をまたたび荘に留め置く為のものだったが、それは間違いない。
つまり、八幡が誰かを助けに行けば、その誰かたちも危険に遭う可能性がある。
ここで八幡がしなければならない本当の正解の行動は、相澤の言う通りまたたび荘で待機すること。
だが、正解の行動をとるほど、彼は優等生ではないし、大人でもなかった。
プロヒーローという歳不相応の立場と資格、実力。
そして、彼にとって大切となりつつある居場所と仲間を残すため。
(火事…ガス…地鳴り二つの場所…!どこから行く…!?)
──────────
朦朧としていた。
意識が薄れゆくのを感じる。
自分が地面に倒れていることも、今更ながら気がついた。
倒れている自分に覆い被さるように、葉隠が倒れている。
目の前に漂っているガスから耳郎を何とか守ろうとしているのだ。
だが、その葉隠にはもう意識はない。
何とか耳郎を守ろうとしたが、すでに意識をなくしていた。
(…葉隠…!)
葉隠よりもガスを吸った量が少なく、そのおかげで何とか意識を保っていられる耳郎。
だが、自分が意識を無くすのも時間の問題だとわかっていた。
葉隠を連れてガスが漂うこの場から脱出する必要があった。
しかし。
(身体に…力が入らないっ!くそっ…ちくしょう!)
それに、こんな状態では施設の方角すらもわからず、どっちの方向ならガスが薄いのかもわからない。
もう、その目が閉じかけていた。
しかし、確かに薄れる意識の中で聞こえた。
イヤホンジャックを無意識に地面に刺したせいか、僅かに聞こえる喧騒や何かが燃える音の中で確かに聞こえた。
足音。
それも、こちらへ近づいてくる。
二つだ。
一人は走って、もう一人は近くでゆっくり歩いてきている。
それぞれ別の方向から。
敵か、それとも味方か。
何とか身体を起こさないといけない。
だが、次第に走る音が近づくに連れ、身体を動かすのをやめた。
その足音のリズムに、聞き覚えがあったからだ。
授業で聞く、滅多に聞かない本気の走り方。
耳郎と葉隠を覆っていたガスがぶわりと霧散し、一気に押しのけられた。
足音なんてもう個性で聞くまでもない。
既に、パンキッシュのスキニーズボンとアウトドア用の飾りもない靴が視界に入っていた。
「…ひき………がや…」
「喋るな。喋らなくて良い…」
心のどこかで待ち望んでいた、しかし来てほしくなかった少年がそこにいた。
耳郎に意識があることを確認し、意識がない葉隠の容態を見る八幡。
ガスはまだ3人を取り囲むように漂っていたが、3人を覆ってしまうようなことはなかった。
八幡による気体操作でガスを押し退けているおかげである。
しかし、完全に霧散させることは出来ていない。
葉隠がただ意識がないだけで脈はあることを確認した八幡は、ガスを霧散させようと気体操作を再びかける。
だが、やはり霧散はしない。
それどころか気体操作を操るのにも一苦労である。
(やはりこのガス、個性によるものか!空気→ガスの順で接続してるからガスに直接手で触れる必要はないが…ガスを操作してる奴がいる。ガスを操って全部霧散させるのは無理だ。空気を操作して押しのけるのが一番効率が良い…!)
「…ごめ…ん…!」
「?」
その場のガスが消え、何とか意識を少しだけ取り戻した耳郎が八幡に声をかけた。
その第一声が謝罪だったので流石に訝しむ。
「ウチ…ウチ…!強く…なりたいって思ってた。ヒーローとして、強く…!」
「…」
「…あんたに、守られるだけじゃなくて…守りたいって。なのに…葉隠に守られて…施設、から…飛び出してきたんでしょ?…あんたに、また守られて…!」
力の入らない手を、倒れている葉隠の手へと持っていく耳郎。
その目から、涙が出てきた。
「あんたに…もう、無理してほしくないって…昨日、話したばかりなのに…!こんな、こんな……!!」
「…いや、それは…」
「あ?お前コネクタだよな?」
ガスのない方から、八幡でも耳郎でもない声がした。
さっきの二人目の足音も、もうすでにないことに耳郎は今更気づいた。
その場のガスが晴れたとはいえ、まだ本調子ではないのだろう。
気を抜けばすぐにでもその意識を落としてしまいそうな耳郎。
それなのに、
「何だ、俺の方が当たりを引いちまったか!?偽物の方がよぉ…」
耳郎と葉隠を背後に置くように、現れた男の前へ立ちはだかる八幡。
その男の身長は高く、174cmの八幡より更に頭一つは離れていた。
クラス一の巨漢である障子よりも明らかに大きい。
被っているマントの下には、マントで隠しきれないような大柄な身体が浮き上がっていた。
「……
「マスキュラーだ。最も、今の俺はマスキュラーじゃねえけどな」
マスキュラーと聞いてすぐに思い当たる八幡。
ジェントル・クリミナル、ステインとの2連戦を終えたその日から、八幡は現在活動していてまだ捕まっていない
ヒーローデビュー以降、体育祭のテレビ放映も相まってノーアームズ、比企谷八幡という名はかなり知られたのだ。
それは闇の世界も然り。
ジェントルやステインのように何かしらの理由で、全く関わりのない
だからこそ、今はマスクをしていて顔を見えないが、マスキュラーのことも知っていた。
「血狂いマスキュラー。ヒーロー・ウォーターホース夫妻を殺した連続殺人犯だな」
「おおっ?んだよ知ってんのか!ならさっさと来いよなぁ、せっかく待ってたのによ…」
まさかこんなレベルの
やはり
マスキュラーはヒーロー二人と真っ当に戦って真正面から殺害しているというとんでもない実力者ではある。
更に、人命を奪うのに躊躇がないどころか弄んで殺すシリアルキラーの節があるという。
(個性は筋肉増強…!オールマイト並みとはいかないだろうが、パワーファイターだ!一番苦手なタイプ…!)
「ひき、がや…!逃げてぇ…!!」
何とか上体を起こした耳郎が、身体の痙攣を無理やり抑えてそのまま立ち上がろうとしていた。
そんな耳郎と、そして服が地面スレスレで浮いているという奇妙な事象によって葉隠がいたことに気がつくマスキュラー。
目的の一つである八幡以外眼中にないという様子だ。
「あ?んだよ、変な荷物抱えてんな。ガスか。そんなの捨てて俺とやり合おうぜ、コネクタさんよ」
「…」
「てめえすげえ強えんだろ、知ってるぜ。お前の手にかかって逃げのびた奴はいないって噂だ。誰でも狙われたら確実にノされるってよお…」
「…このガスはあんたの仕業、じゃあねえよな?」
「当たり前だろ、こんなの使うかよ!せっかくの楽しみが無くなっちまうぜ」
マスクをポトリと落としたマスキュラー。
その目には、既に殺し合い用の義眼が付けられていた。
マスクを外したのは、既にガスがこの場にはなかったためである。
八幡が気体操作でガスを押し退け続けている恩恵がマスキュラーにも働いてしまっていた。
「さて……。…おい、おまえやる気あんのか?」
「ねえよ。見逃してくれるなら、見逃して欲しいね。他にも救けなきゃいけねえ奴らが大勢いるんでな」
「そうか。じゃあ、全員殺したら俺とやってくれるよな?」
「は?」
とりあえずその二人からな。
筋肉で膨れ上がった腕は、八幡を通り越して耳郎、葉隠へ振り落とされた。
地盤が砕け、周囲に植生していた木々やガスもろとも吹き飛んでしまう。
砕け飛ぶ地面と木々。
しかし、振り下ろしたマスキュラーは手応えがないことに違和感を覚える。
いつも人を殴り殺す、果物のように潰れる感触がない。
「あ?」
よく見ると八幡の姿もない。
土煙が晴れ、マスキュラーの腕の向こう側に二人を両脇に抱えた八幡の姿があった。
冷や汗をかく八幡。
躊躇なく、動ける様子がない二人を殺しに来た。
少しでも遅れていたら二人とも死んでいただろう。
「正気か、あんた…!」
「至ってな。これが俺にとっての正気だ。俺はこの筋肉増強の個性使って遊べたら何でも良いんだよ」
「血狂いとはよく言ったもんだ。うちの師匠も血狂いとか呼ばれてるけど…あっちの方がいくらか健康的だな」
「ひき…がや…」
何とか会話に意識を持たせようとする八幡に、まだ意識を保っていた耳郎が力無く声をかける。
「にげ…て。ウチが、足止め…!ねらい…あんただよ、ぜったい…!!」
「今のあんたは猫より役に立たねえよ」
「…!」
「そういうこった。コネクタもさっさとそのお荷物捨てちまえよ。俺と!本気でやってくれよ!!なあ!!てめーもパワー勝負できるんだろ!?俺はビル壊せるけどテメェはどうだぁ!!?」
マスキュラーの筋肉増強は、フル強化すればビルすら持ち上げてしまう。
ビルの重量は数千トンにまで及び、それを一人で破壊してしまうマスキュラーがどれほど危険な人物かは想像に難くない。
今しがたのパンチも、パワー系の緑谷並みかそれ以上。
しかも緑谷はワン・フォー・オール100%ではまだ自損してしまうが、マスキュラーは自損など全くしていない。
(単純なパワーなら過去一どころか、日本一じゃねえのかこいつ!どの
「はっはっは…まあ荷物抱えたままでも良いけどよ!殺しちまうぜぇ!!」
「ひきがや…逃げて……いきてよ…!!」
「バカ言うな」
八幡が倒れ伏す耳郎を見て、確かに言った。
「救けるから。見てろ」
飛び出しかけたマスキュラーを、土の触手が襲い掛かった。
腕、脚、首、腹と何十本も一斉に。
こんなもの、と引きちぎろうとするマスキュラー。
しかし千切れない。
筋肉増強で既に身体強化を済ませているマスキュラーだが、それでも動かない。
抵抗する間に何倍もの土の触手が更にマスキュラーへと拘束しにかかる。
その勢いに危険を感じたマスキュラーが、フルパワーで動こうとするが、それでも土の触手を千切れない。
いや、最早土の触手どころではない。
地面が、山そのものが。
マスキュラーを土の中へと取り込もうとしているような、それほどの質量の大地がマスキュラーに襲いかかっていた。
「ぐうううううっ!!なぁんで動かねええ゙え゙え゙え゙!!!こんな、土で…!!」
「ビル動かして悦に入ってるんじゃあそりゃ無理だ」
「は!!?」
「ペラペラ喋ったり関係ない二人に襲いかかったりして…あんた時間かけすぎなんだよ」
八幡の弱点はスピードである。
だが、それは本人のスピードのことではない。
全力を出せるまでの時間が長いのだ。
爆豪、沙希以上のスロースターターである。
それは何故か?
彼の個性有効範囲は、現在半径約108メートル。
その中にあるものと物理的に接触すれば、神経を接続して操作できるという個性。
それらを圧縮して見た目の10倍以上の質量を持つ大地の腕や触手を作り出す。
だが、それには時間がかかる。
大地と接続するのは0.1秒で済むが、圧縮するには数秒〜数十秒はかかるのだ。
だからこそ、八幡も相澤も圧倒的にスピードが足りないと考えていた。
しかしそれも、時間さえあれば解決できる。
マスキュラーをいきなり倒しにかからなかったりマスキュラーの一撃後に攻撃を加えなかったりしたのも理由は一つ。
時間がほしかったから、それだけである。
「ビルね…。あんなスカスカなもの振り回せるからって何だ?」
「は…?」
「あんなの精々数千トンだろ。どうせなら」
二人の身体をそっと地面へ下ろす。
冷徹な怒りを秘めた目が、マスキュラーを射抜いた。
「山ぶん回してから自慢しろ」
「…ぐ、あああああああああああ!!!」
筋肉で顔を覆おうとするが、それよりも速くその拳は届いた。
「ジェットバーン」
ジェットバーン。
それはエンデヴァーの必殺技の一つ。
肘や足裏から炎を放射して突進し、拳からも炎を放射しつつ繰り出す拳撃。
もちろん八幡には炎を放出することはできない。
だが、気体操作と液体操作が発現した今の八幡には、空気を操作して肘や足裏、拳を無理やり押すということはできる。
エンデヴァーも噴出しているのは炎と空気。
そして、炎を凝縮するという点と空気を圧縮するという点では同じ。
最も、エンデヴァーのように何かを焼き切るということはできない。
八幡にできることはただ一つ。
その有り余るほど強化された
──────────
「ごっ…」
拳で顔を撃ち抜かれたマスキュラーが白目を剥き、意識を闇に落とした。
それを確認した八幡だったが、途端にマスキュラーの顔がどろりと溶け始める。
「へ?」
いや、顔だけではない。
身体、腕まで溶け始め、土の触手が勢い余ってそのまま溶けて泥となりつつあるマスキュラーの身体を握りつぶしてしまう。
「なんだ…!?筋肉増強じゃないのか!」
オール・フォー・ワンによる個性付与を疑ったが、泥となってしまったマスキュラーだったものはもう動くことはなかった。
ただの泥になり、そのまま動く気配がない。
一応用心して、泥を周囲の地面ごと土中に取り込む。
「なんだ、気持ち悪い…とりあえず終わりか」
その一部始終を見ていた耳郎は、あまりの戦闘時間の短さに唖然とする。
瞬殺。
それも、ビルを振り回すと宣言したような化け物をである。
自分達生徒と八幡との間に大きな差があることはわかっていたが、その差まではわかっていなかった。
気怠さを取り戻して、葉隠の様子を見ていた八幡を改めて見る。
遠い。
果てしなく、遠いのだ。
「耳郎。動けるか」
「…」
「…耳郎?」
「…ウチ…情けないよ…」
「…?」
無力に倒れ伏す耳郎。
ガス一つだけでこうも何もできない。
せめて、ガスに素早く反応して逃げられれば。
肝試しで怖がっていた数分前の自分を殴りたい。
葉隠のように誰かを庇うこともできなかった。
その上、生きてほしいと願った相手に危険を犯させ、救けられた。
力の入らない拳を強く握る。
「悔しい…!!」
「…もう寝てろ。催眠ガスみたいだ…毒とかじゃないからまだ良かった。葉隠も生きてる」
「……ごめん」
「いや謝る必要はないだろ」
「だって…」
「…意外と繊細だな、耳郎」
「からかわないでよ…!」
地面を動かし、合宿初日の魔獣の森でやったように、大地の荷台を作る八幡。
葉隠と動けない耳郎を載せ、ガスの方を向く。
マスキュラーで数分時間を使ってしまったが、ガスの中に誰かが何人も倒れているのは気体操作でわかった。
速く助けにいく必要がある。
その前に、頬をかきながら耳郎に声をかけた。
「…耳郎。さっきの続きだ」
「え…?」
「俺は…無理はしてない。ただ、ヒーローになっちまったから。やることをやるだけだ」
「…」
「それに」
「?」
眠れる子をあやすように、耳郎の頭を撫でた。
八幡のその目は、まるで自らの子を守る親のように。
鈍く、そして強い光を携えていた。
「守らせろ。まだ、子供なんだから…」
「…あんた、だって……子供…」
違う。
ウチはただ、あんたを。
その口はもう言葉を発することはできなかった。
頭を撫でられるうちに、眠りについた耳郎。
催眠ガスを吸っても意識を保ち続けたのは相当の精神力である。
余程悔しかったのだろう。
荷台を地面の上を滑らせるように動かし始め、小走り程度の速度でガスの方へ動き始める八幡。
ガスを気体操作の空気で押し退け、八幡と荷台に積まれた二人にガスがかからないようにする。
施設へ二人を運ぶ時間はない。
催眠ガスといえど、長く吸えば後遺症が出るかもしれない。
火事の方は雪乃がいる筈。
任せるしかないと判断してガスの方へ来たのだ。
静かな怒りを持ちつつ、ヒーローとしての役目を果たすために。
彼は進む。
例え先に何が待ち構えていようとも。