アヤメはソファーに寝そべりながら脳筋こと栗原一滋を呼んだ。一滋は二つ返事で了承したが、彼は瞬間移動の能力は持っていないため来るのに今しばらくかかる。目の前に居ないので仕方が無いが、青野星香と仲良くしてほしいなどという頼みごとをしてきた脳筋に百や二百ほど文句を言いたい気分であった。
周囲の評価はいざ知らず、アヤメは自身のことを善人とは思っていない。ここでいう善人とは、普通の感性を持つ者。すなわち、平穏で平和で平静で、些細な事に一喜一憂することに一意専心できる人間という事だ。
アヤメにはそれが無く、星香にはある。そして、その二種類の人間の仲は恐ろしい程に悪い。もしも、あのドストエフスキーが罪と罰をシノニムと考えず、アントニムとして置き並べたものだとしたら? 罪と罰、絶対に相通ぜざるもの、氷炭相容れざるもの。
アヤメと星香はすなわち、罪と罰のような関係なのだ。一説によると、罪と罰とは大層仲が良いらしいが、今回は違った。
そもそも星香に和解の意志など無いだろう。無礼に厚遇で返す理由も無し、それどころかほぼ無償で救った。それともそれが気に入らないとでもいうのであろうか。
いずれにせよ、星香のような人間に共感できない事を世間ではこういうのであろう。
————人間失格。
一滋が小夜風邸を訪れたのはアヤメが呼び出してから十分後のことであった。
「なあ、参謀。こりゃどういう状況だ?」
「諸事情有ってアヤメさんと青野さんが話し合ったけど、結局分かり合えなくて決裂」
「……そうか」
一滋はそれだけで何かを察したのか、それ以上は突っ込んでこなかった。代わりに口を開いたのはリンである。
「……正直、なんで青野さんがアヤメさんにここまで執着するのかが分からないんだよね。アヤメさんの性格から考えて、余計に自分が傷つくだけだって事は分かると思うんだけど」
リンの言葉に、一滋も唸るだけで建設的な意見は出せない。一滋も星香の負の感情に明るいわけではないのだ。
代わりに答えたのはアヤメだった。
「青野さんの私に抱く感情が、彼女の容量を超えてしまったからでしょう」
あまりにも自然に答えられたので、二人は一瞬思考が止まってしまった。
「ど、どういうことだ? 小夜風さん」
「僕からも聞きたいな。話が見えない」
一滋とリンからの返答に、アヤメは起き上がり、一呼吸おいて話し始めた。
「人間が
一滋とリンは顔を見合わせた。それならば、星香はアヤメへの復讐ではなく、自身の憎しみへの防衛反応としてアヤメに攻撃しているという事だろうか。
「なら、アヤメさんが青野さんと分かり合えないのは……」
「青野さんが〝自身の憎しみ〟という実体の無いものと戦っているからです。その目線の先に私はいない。しかし、私の存在を消去しなければ彼女は苦痛に苛まれる。青野さんにとっては私の存在そのものが悪であり、闘う理由なのですよ」
「そんなの、どうすりゃいいんだよぉ……」
一滋はソファにへたり込む。現状、星香にはあらゆる意味で救いがない。救われるにはアヤメが攻撃され続けるか、星香がアヤメに対して〝殺人〟という行為に踏み切るしかないだろう。しかし、善良な彼女に、殺人の意味と罪を背負う事はできない。そこまで強いのならば、ここまで悩んではいないのだから。だからこそ、星香にはあらゆる意味で救いが無いのだ。
一滋とリンが絶望しかけた時、アヤメは一滋を見て言った。
「しかし、栗原さん、あなたならば、青野さんを救えるかもしれません」
「本当か?」
「ええ。貴方は青野さんと私の関係性の中に入り込んだイレギュラーです。青野さんの苦痛を僅かにでも軽減できるなら、或いは」
「分かった! 今星香は何処にいる?」
一滋はアヤメから星香のいる部屋を聞くと、その部屋に駆けていった。再び、残されるアヤメとリン。
リンはアヤメに話しかけた。
「なんというか、凄いね。アヤメさんの感情に対する洞察は……」
「……流石に全てに対してこうはいきませんよ。偶然、似たような経験をしたからです」
「それって……」
「ええ、私がリンさんを殺そうとした時の話です」
「…………」
躊躇いなく「殺そうとした」と言ったアヤメに、リンは少し鼻白む。だが、結局は自分自身の傲慢さが引き起こしてしまった事だと自戒した。アヤメがリンの存在を消してしまおうと思うまで追い詰めてしまったのは、他ならぬリン自身なのだと、自分では思っているから。
と、アヤメがリンに覆い被さって、抱き着いてきた。
「え、どうしたの? アヤメさん」
「少し、慰めて下さい」
「え」
「一度、学級日誌を囲んで話した仲です。お母様とも妹さんとも仲良くしてます。そんな人に嫌われるのは、ちゃんとつらいんですよ……」
リンは忘れていた。圧倒的な強さを持つアヤメでも、本質的には人間で、一人の女の子なのだ。傷つかないわけじゃない。ただ、言語化と合理化と昇華が上手なだけだ。
リンはアヤメを抱きしめた。これで彼女が救われるなら、と。
一滋は部屋で蹲る星香に話しかけていた。すると、星香はポツポツと話し始める。
「私ね? 酷い女なんだ」
「…………」
「小夜風さんが卑しい人なら良かったのかもしれない。毒島さんみたいに、素直に憎める人なら良かったんだよ。それで私の世界は保たれるの。だから、お母さんを利用したって聞いた時、ホッとしちゃったんだ。結局、お金持ちの人は皆こういうことをするんだって。でも、あの人は優しくて、お母さんや優芽にも良くしてくれた。話せば話す程、あの人は優しくて、恵まれた環境で生きてきた人にしかない高潔さを見せつけられるたびに、私の心はどんどん惨めになるの。だって、それは私の世界を、全てを否定されるのに等しい事だったから」
一滋は脳内で言葉を考え始める。病理的な理論はアヤメから聞いているが、これは非常に深刻だ。だが、気圧されてはいけない。最良の治療法は、星香から苦痛を取り除く事である。一滋は、この場限りは正しさを捨てることにした。
「別に、無理に好きにならなくていいんじゃねえかな」
「え?」
「星香がそれで救われるなら、小夜風さんの悪口大会を開いたって良い」
一滋はアヤメの悪口を言おうと思えば言える。アヤメの行動に納得いっていない部分も多いし、何より、星香が救われるなら自分の貧弱な語彙力でも使おうと思う。
「でも、そんなの間違ってて……」
「別にいいじゃねえか、多少間違えるくらい。完全に外部とシャットアウトするなら問題ないだろ。星香が救われる事の方が重要だ。そんなことで少しでも憂さ晴らしになるなら、俺はやるぜ?」
悪口が褒められた行動でないことなど、一滋とて百も承知だ。だが、それしか無いならやるだけだ。星香の感情の処理が、攻撃から離れるのなら、吐き出す事でアヤメとの不和が解消するなら、やる価値は有る。間違う事には、慣れている。
なんにせよ、星香の意識からアヤメが消えるなら、この件は暫定的にだが解決する。一滋は星香の傷跡も痛みも抱きしめる覚悟がある。勿論、悪口も。それが出来るという根拠のない自信だけはある。無力で非力で、汚れた腕となって、無力で非力で汚れた彼女を抱きしめよう。
だが、星香は首を横に振りながら一滋に抱き着いた。
「嫌だよ。一滋君をそんな事に付き合わせたくない」
「でもよ……」
「だから、私を幸せにして」
解決方法は、案外シンプルだったりもする。
「私、重い女だけど」
「そうか」
「面倒くさい女だけど」
「そうなのか」
「きっと毎日電話しちゃうけど」
「普通じゃね?」
「それでも、私が小夜風さんなんか眼中に入らないくらいに、幸せにして」
一滋の答えはもう、決まっている。
「勿論だ」
とりあえず、アヤメVS青野さん関連はこれで決着となりました。
備忘録
>タイトル
太宰治の『人間失格』より。罪と罰の下りはこの作品からの引用。