「こんにちは。Milsas。今日は貴方だけのようですね」
Weyer String-IIIとのお茶会から暫く。アヤメはいつも通りの放課後を迎え、いつも通りに友人の元へと向かった。しかし、そこにいたのはリンだけだった。
「ああ、こんにちは。小夜風さん。三人は道場破り。またリベンジ申し込まれたんだよ」
「そうですか」
「興味無さそ~」
アヤメはそう言ったきり、本を開いて読み始めた。リン達の道場破りは最初、他の三人が暇つぶしにジュースを賭けたのが始まりであり、よくリベンジを申し込まれている。また、リンは白とチェスをやっていた所に挑戦状を叩きつけられたのがキッカケだ。
しかし、アヤメはその話を聞いてもあまり興味を示していたようには見えなかった。一応最初は聞いていたのだが、何度目かの時には最早興味すら示さなくなってしまった。
「残念ながら、私はそう言った勝負事? には興味が持てないみたいです。無駄とまでは言いませんけど、やはり価値を見出す事ができません。ナタナエルに言われるのと同じように書を捨て、外に出よと言われても、それらに関心事を抱けませんね」
むしろ、何かにつけて勝負事を挑む人間の事はあまり好きでは無いようだ。そして、争う姿を見るのも好きではない。故に、興味が無いという反応になってしまう。
「まあ、無理に興味を持てとは言わないけれど、勝負事で得られる事だって多いよ。特に、比肩する相手との対決はね」
「……負ける可能性が高くても、ですか?」
「負けから得られるものだってあるさ」
アヤメはリンの傍にあるチェス盤を一瞥する。僅差でリンが勝ってはいるが、取られた駒の数からかなりの接戦であったと推測できる。
「そこの
「そうだね。今回は負けてしまうかもと思った。でも、失敗を過剰に恐れてはいけないと思うんだ。勿論、今回の闘いで僕はまた新たな知見を得たよ」
「良かったですね」
リンの言葉に、アヤメは笑顔で答える。しかし、それだけだ。愛想笑いという言葉がこれほど似合う表情も無い。最初は、「男の子ですね」とでも言うような、微笑ましいものを見るような表情かとも思った。しかし、アヤメの表情には明らかに違う考えがあった。
「……何か言いたいことがありそうだね」
「それを聞きますか? 見ないふりをするという事もできるのに」
「少なくとも、あまり愉快な話じゃなさそうだね」
秘密は甘いものだ。特に、女の秘密という物は。そんな理屈を抜きにしてもリンはアヤメの思考を知りたかった。放置して後に不協和音となってもどうしようもない。リンの意志を、おそらく心音や血流の音で感じ取ったのだろうアヤメは少し息をついて口を開いた。
「少なくとも私は、楽に勝てる方がいいです。賞賛すべき敵に出会うよりも」
リンが浮かべていたのは哀しみ、怒り、失望、そのどれか、否、全てであったかもしれない。それほど、アヤメの言葉は彼の神経を逆撫でした。一方、アヤメは澄ました顔で本を読んでいる。恥もプライドも無い自然体。それが余計に腹立たしかった。
何故と聞かれても答えようが無いが、どこか神聖視していた少女の内面が思いのほか俗であったことに失望しているのかもしれない。
「……随分つまらない考え方をしているんだね」
「否定はしません。私は本と音楽さえあればそれなりに満たされる人間ですから」
「よく友達の前で言えたものだな」
「無論、友達も必要です。私はそれを実感しました。しかし、それは本と音楽の存在があればこそです」
アヤメは本を閉じてリンをほんの少し睨んで見せる。その本の内容は『ゲーム理論』だった。彼女のあまり見ない表情にリンは少しだけ気圧されるが、負けじと
「勝ちばかりの人生は空虚で哀れな囚人のようなものだと僕は思う。異世界ものなんかは典型だね。あれ程までに虚無な人生もまた無いだろうさ」
誰がそんな事を決めたのか、と問うのも徒労に思えて、アヤメはとりあえず持論を話す事にした。
「空虚である代わりに、傷つく事もありませんよ。争いを無くすのはゲーム理論的に考えて不可能でしょうが、泥仕合の果てに双方に多大な犠牲を出す事は防げます。……少なくとも、読者という安全圏から主戦論を唱えるほどに空虚な事もあまり思いつきませんね」
アヤメはあくまで理論的に、時々リアリティラインを修正するために購読している数学書や哲学書のように淡々と言葉を紡ぐ。
「へえ、意外と言うじゃないか。ならド直球に聞くけどさ。小夜風さんはそれが本当に正しいと思ってるの?」
「間違っているかもしれませんね。しかし、他人が勝手に否定していいものでも無いでしょう」
ワンハンド・エデン。
安直な幸せ。容易な勝利というのも含まれるかもしれない。
その世界では願いが叶う。現実で幸福に生きるだけの強さを持てない人間を、掌サイズの楽園に逃がし、複製の幸福を与える。
それを確かに求める人間がいるのだ。
「そう。少なくとも、僕はそれが間違ってると思うわけだ。逃げて、誤魔化して、引きこもってる。他の人と繋がってない」
「それが、問題だと?」
「うん。僕はそういうのを、気持ち悪いと判断する。おまけにその過程で生じる闘いすら楽をしようとする。もはや
アヤメは溜息を吐いた。
天野リンには何かを踏みにじっている意識さえない。その言葉が人間を傷つけることを、弱さを持たないリンは理解できない。
アヤメは出来る限り遠くに意識を向けた。スタインベックが喩えたように、神の怒りによって
「つまらないとか、逃げるとか、誤魔化すとか……」
それらは否定的な言葉だ。きっと正しくはない言葉だ。
「人が必死に幸せになろうとする行為を、悪逆であるかのように言う権利は貴方には無い」
酸っぱい
「天野さん、別に貴方の人生を否定したいわけではありません。貴方が強敵に挑むことが生きがいだというのならそうすればいい。しかし、貴方は貴方が特殊であることをもう少し自覚すべきです」
世界中の人間が天野リンなら、そのライフスタイルで幸せになれるのかもしれないけれど。彼は人を信用しすぎているとアヤメは思う。誰もが彼のように強くなれると思い込んでいる。
「私だって、片手の楽園をそれほど肯定しているわけではありません。外界との接触を遮断し、無知のままでいるなら知識を求めるべきだとは思います。しかし、その人物から安住を取り上げ、楽園を踏みにじる行為が正しいとは思えません」
エーリッヒ・フロムの言葉に習えば、楽園を追放された人間は歴史の道に出ていく事を強制される。そして二度と、帰る事は許されない。現実的な価値観に従うのならば、それが正常であり、正しいのだろう。
しかし、全ての人間がそれに耐えられるわけではない。蛇に
それ故に、土は呪われるものとなった。それによって、生涯食べ物を得ようと苦しむ。人間に対し、土は
アヤメはリンにそう伝えた。
「…………」
一方、リンはアヤメの言葉にどこか納得できない表情をしていた。それは今話している論考だけのものではない。
リンはある種の天才だ。
天才は常人には見えないものが見え、考えすらもしない方法で効率的に物事を処理していく。
その中で軋轢が生まれた。世間というのは天才と犯罪者以外の全てに寛容なのである。
彼を化け物のように見る同級生や彼の力を利用してくる人間、生意気だと宣う教師……端的に言って、リンは失望していたのだ。天才が多かれ少なかれ直面する問題。
だが、彼には受容者がいた。それが脳筋、腹黒、スパイだったのだ。それを無意識に、アヤメにも期待してしまったのだろう。
だが、アヤメは天才の価値観を否定した。向上心を否定した。後の彼ならばある程度割り切り、アヤメの主張を受け入れる事もできただろうが、未来視点でリン自身が語るように今はまだ未熟だったのだ。
一度生じた失望は、止まらなかった。
「ああそうかい……それなら楽園の中で安住してなよ。空虚な人生を送りたいなら送れば良いさ」
リンはそう言うと鞄を掴んで帰ってしまった。残されたアヤメは目を伏せ、遅れて帰路についた。
帰った後、家の庭でフェンシングのサーベルを取り、的に向かって切りかかる。いつも通りに、俊足の動きで切りかかった。
「…………」
アヤメは本質的に臆病な人間だ。自分よりも強い者に迫られれば、より冷酷に、残酷に、悪趣味になる。
的にはサーベルで抉られ、柄で殴られ、脚技で蹴られた後がいくつもあった。
「ごめんなさい。天野さん。私はそこまで強くなれません……」
短めですがここで切ります。
まず、タイトルの元ネタは『サクラダリセット』より『ONE HAND EDEN』でございます。
アヤメの設定も徐々に明かされてきました。周囲に溶け込めないのはアヤメも同じ。
どうやら剣術(フェンシング)に秀でている模様。あくまで護身用ですが。
最近は架空言語等も相まってリン君を翻弄している印象があったアヤメですが、実はリン君が思っているほどに理解できない存在ではなく、人並に悪意も狂気も、そして弱さも抱えている少女です。そして、リコさんほど強くないのでリン君のヒロインにはなれないのです。和解はするけど。