この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場所、施設名等の固有名詞はたとえ実在のものがあるとしてもすべて架空のものとして描かれている。
春の日の土曜日の朝の風景。僕は自宅の庭で植物達に水を飲ませている。ふと家の中に目をやるとリビングでは妻のチャコがあわただしく旅支度をしている。これから一人、沖縄に向け出発する予定なのだ。
明日、沖縄では環太平洋経済サミットが開催される。環太平洋二十数カ国の国と地域から首脳が集り、会合が開かれるのだ。我が国からはもちろん内閣総理大臣が出席し、議長を務める。憲政史上初の女性宰相となった現首相は女性ゆえにファーストレディー外交には参加できない。そこで官房長官である僕の妻、チャコがその代役を担うことになっているのだ。
チャコと僕が初めて出会ったのはちょうど十年前の季節も今頃、場所もここ碑文谷の自宅の庭で、同じように僕は庭の草花に水を飲ませているところだった。あれから十年、今のような状況が訪れるとは当時の僕には想像すらできなかった。そのうちリビングの庭に面した窓がガラガラガラと開き、チャコが顔をのぞかせた。パリッとしたスーツを着こなしていて旅支度が完成したようだ。
「啓一さん、準備できたんで出掛け前にちょっと一服しない?」
「ああ、今、何時頃かな?」
「後、十五分くらいで九時になる。」
「ほ~い。」
僕は水道を止め、玄関に回って家の中に入り、ダイニングルームに入った。一足先にダイニングに入り、おつまみのクッキーを準備したチャコはカウンターの向こうでコーヒーを入れている。僕は手も洗わず、先に椅子に腰かけ、テーブルに置いてあるクッキーを一つつまんだ。チャコが僕の目の前にコーヒーを置く。
「留守の間よろしくお願いしますね。」
チャコはニッコリ笑ってそう言い僕の対面に座った。
「僕の方こそよろしくね。チャコには大変なこと押し付けちゃうけど。まあ、秘書達がうまく立ち回るだろうから大丈夫だろうとは思うけど。」
「まあ、練習だと思って頑張りますよ。」
「練習?」
「そう。ホントのファーストレディーになる練習ね。」
チャコがそう言うのを聞いて僕は軽くため息をついた。チャコはそんな僕の気持ちに十分気付いているはずなのだが、お構いなしだ。
「まあ、啓一さんの言いたいことは分かってるよ。『僕にはそんな野心はない』…でしょ?」
「まあ、そうだけど。」
「でも今度ばかりは逃げられないと思うよ。みんな啓一さんを総理大臣にしたがってるし。なんといってもここ数年は総理大臣にしたい政治家、不動の第一位だもんね。」
その通りなのだ。僕に何か政治的な野心があったわけではない。国会議員になったことも、あるいは三十四歳という異例の若さで官房長官に抜擢されたことも、すべては偶然が重なった結果なのだ。
「今年の誕生日は盛大にお祝いしてもらえるかなあ。」
僕が次の言葉を探せないでいるとチャコがポツリとそう言った。
「誕生日?」
「そう。今年は結婚十周年じゃない。」
「そうか。もうそんなにたつんだ。」
「それにユメの誕生日だしね。」
チャコと僕はチャコの十六歳の誕生日に夫婦となった。だからチャコの誕生日は同時に結婚記念日でもある。来月、小学校に入学する一人娘のユメの誕生日も同じ日だ。ユメは昨日の夜からチャコの実家に預けてある。
「ねえ、チャコ。誰か他の人から『今年の誕生日はどうするの?』的なこと聞かれた?例えばマコちゃんとかハルナでもいいんだけど。」
「いや、別に何も聞かれてはいないけど、・・・どうかしたの?」
「今年は結婚十周年だし、何かサプライズパーティーでも仕掛けてくるかもしれないよ。前もそんなようなことあったじゃない。」
「おお、そうか。じゃあ気が付かない振りをしてないといけないのかな。」
チャコはそう言ってコーヒーをごくりと飲んだ。いつもと変わらない日常の風景だ。いつまでもこんな幸せな時間が続けばいいなとそう思いながら僕もコーヒーを一すすりした。
それから午前九時きっかりに迎えの黒塗りが来て、僕もチャコをクルマまで見送った。
「じゃあ、しばらく会えないけど、火曜日に柏崎で会いましょうね。」
黒塗りの後部座席に乗り込んだチャコはパワーウインドーを開けてそう言った。新潟県柏崎市は僕の選挙区で、三日後にお墓参りに行く予定なのだ。
「ああ。チャコだけ沖縄から直接、柏崎に行くんだよね?」
「うん。一度、東京に戻るのも面倒なんで、一足先に柏崎入りします。ちょうど、一日一便、那覇から小松に飛ぶのがあるからそれに乗ってね。」
「チャコ一人だよね?秘書も付かないで大丈夫?」
「まあ、あたしも近々に本物のファーストレディーになるんだから飛行機くらい一人で乗れるようになっとかないとね。」
「じゃあ。」
僕はチャコの最後の言葉には答えず、一言そう言って手を振った。パワーウインドーは閉まり、チャコは沖縄へと旅立っていった。思えばそれが、僕がチャコの姿を見た最後だった。
ダイニングに戻り、クッキーをつまみながらコーヒーを飲み、新聞を読んでいると、しばらくしてダイニングのドアが開き、さっき黒塗りで出かけて行ったのとまったく同じ顔が現れた。
「おはよう、マコちゃん。もう起きたんだ。まだ寝てていいのに。」
「お兄ちゃん。おはよう。チャコちゃんはもう出かけたのかな?」
「今さっき家の前でクルマを見送ったところだよ。」
「そっか。表がちょっと騒がしかったけど、うちだったんだね。」
そう言うとチャコのそっくりさんはダイニングテーブルの僕の対面に座り、テーブルの上に置いてあるチャコの飲みかけのコーヒーを一口飲んだ。部屋着には着替えているがまだ眠そうだ。
マコちゃんはチャコと瓜二つの双子の妹だ。チャコと僕が結婚した翌年、高校二年生になったときほぼ家出同然にここ碑文谷の僕の家に居候するようになり、以来同じ屋根の下に暮らすようになってからもう九年が過ぎようとしている。チャコと僕が結婚した頃は普通の女子高生だったが、当時、絶大的な人気を誇っていたアイドルグループ、「チームスタジオL」、通称「チーム」のオーディションに合格してからはあっという間にスーパーアイドルに上り詰め、「チーム」解散後は演技派女優として芸能界にその存在感を示している。
「昨日は遅かったの?」
「昨日というよりもう今朝だよ。三時頃帰宅した。」
「マコちゃんは今日も仕事なの?」
「うん。でもお昼からだから。お兄ちゃんはお休みでしょ?」
「まあ土曜日だから通常はそうなんだけど、沖縄でサミットがあるでしょ?」
「ああ、チャコちゃんも参加するやつね。」
「そう。それに総理が参加するもんだから僕は留守番として官邸に詰めなきゃいけないんだよ。」
「へ~。それって総理の代役ってこと?」
「まあ、そういうことになるのかな。僕は官房長官だし、内閣での序列は二番目ということになってるからね。」
「なるほど。総理大臣代行ってわけか。かっこいいなあ。でも、本物の総理大臣になるのも時間の問題でしょ?」
「それは分からないよ。総理はまだ就任したばっかりだし。案外長期政権になるかもしれないよ。」
「まあ、官房長官がしっかりしてるから盤石ではあるんだろうけど、でも総理って病気なんでしょ?」
マコちゃんがあまりにもさらっと言ったので僕はドキッとした。
「……その噂は僕も聞いたことがあるけど、本当かどうかは分からないよ。」
マコちゃんにはそう言ったが、総理が病気であることを僕は本人の次に良く知っているのかもしれない。総理は重い病気にかかっていて回復の見込みはない。それを承知で総理大臣に就任したのだ。そのことを僕は総理の口から直接聞かされて知っている。
「でもどっちみち次の総理はお兄ちゃんで決まりなんだから別に焦ることでもないかもね。あたしもいよいよ総理大臣の妹かあ~。……ところで話、変わるんだけど、ハルナちゃん、東京に来るんだって?」
「ああ、そうなんだ。僕は聞いてなかったけど。」
ハルナこと鈴木春菜は「チーム」時代にマコちゃんが一緒に派生ユニットを組んでいた元アイドルだ。僕の地元、柏崎出身ということもあって、僕の音楽上の一番弟子ということになり、数々の記録を打ち立てた伝説のアイドルとなったが、それからは結構、波乱万丈でアメリカ留学、授かり婚、DV離婚を経て今は僕の公設秘書を務めている。地元担当ということで柏崎が本拠地だ。
「予定把握してないの?随分冷たいね。お兄ちゃんの『側室』って言われてた時代もあったのに。」
それを聞いて僕は軽くため息をついた。
「それはマコちゃんが勝手にそう言ったんでしょ?」
「あれっ?そうだったっけ?・・・ああ、そうだそうだ。それであたし、お兄ちゃんにすごく怒られたんだ。」
マコちゃんはケロッとそう言った。
「残念だけど僕はハルナのスケジュールなんかとても把握できないよ。自分のスケジュールだって把握できないんだから。ただ、秘書の言う通りに動いてるだけさ。」
「そう言われるとあたしもそうかもしれない。今日もお昼に取材だかなんだか、とにかく人と会うお仕事があるみたいなんだけど、よく分からないし。……朝ご飯は食べたの?」
「いや、このクッキーを少しつまんだ程度さ。なんか十時過ぎくらいにブランチっていうのかな、少し遅めの朝食会があるんだよ。」
マコちゃんとそんな話をしているうちに「ピンポーン」とインターフォンが鳴り、モニターに中年紳士が写っていることを確認してからマコちゃんが出た。
「はい~。」
「おはようございます。お迎えに上がりました。」
僕のことを迎えに来た永田秘書官の声が聞こえた。
「はい~、今行きますね。」
マコちゃんが明るく返事をすると僕はテーブルの上はそのままにしてダイニングを出て、スーツに着替え、外に出た。玄関ではマコちゃんが見送ってくれた。妻のチャコとマコちゃんは本当に瓜二つなので端から見れば妻に見送られる夫にしか見えないだろう。
門を出ると、警備の制服警察官が敬礼をし、永田秘書官が最敬礼をして僕を出迎えた。僕は恐らく最高級車に数えられるのだろう、黒塗りの後部座席に乗った。永田秘書官はドアを閉めると後ろから回り込んで僕の隣のシートに座り、パトカーの先導で黒塗りは発進した。クルマの外ではマコちゃんが手を振って黒塗りを見送っていた。
「今日はハルナクラブの集まりでもあるんですか?」
僕は右隣のシートに座った永田秘書官に聞いた。永田秘書官は鈴木春菜がデビューする前からハルナの熱狂的なファンで、元々は僕が国会議員になった当時の総理大臣の私設秘書だったが、僕の公設秘書に転身し、以来八年間、僕の片腕として、僕のことを支え続けてくれている。年齢はもう五十を超えていて、政治歴は僕よりもはるかに大ベテランだ。だから僕もこの人には「ですます調」で話しかける。
「ええ、ご存知でしたか?」
「いいえ、承知はしていないのですが、今朝、マコちゃんからハルナが今日、上京すると聞いたものですから。」
「はい。長官が今日明日と総理代理を務められるので少し、長官の周りを厚くしておいた方がいいと思いまして呼びました。でも会合は夜ですし、ノンアルコールでやりますからご心配はいりません。」
ハルナクラブはハルナがデビューする前、メイド喫茶でバイトをしていた頃にその喫茶店の常連客をメンバーとして誕生したと聞かされている私的なファンクラブだ。ハルナがアイドルの頂点に登りつめてからも随時、集まっているようで、会合にはハルナ自身も参加しているという。ハルナは彼らのことを「自分の一番辛い時を支えてくれた人達だから本当の宝物だ」と言っていてとても大切にしているようだ。
「お子さんは大丈夫ですかねえ?」
バツイチのハルナはシングルマザーだ。
「お母様に預けるから大丈夫ですよ。上京する時はいつもそうですから。」
「まあ、総理も沖縄ではありますけど国内にいるわけですし、何か緊急事態があっても政府専用機でとんぼ返りすれば僕が預かる時間は比較的短時間で済むと思いますけど。政府専用機の中から色々と指示を出すこともできるでしょうし。」
「確かにその通りかもしれませんが現実はそんなに甘くはありません。今日は長官が代理を務めるということで、次期政権を見込んだ人達が何人もお越しになると思います。さばくのにやはり人手は必要だと思いますよ。」
永田秘書官とそんな話をしているうちに官邸に到着し、官房長官執務室まで歩いていくと執務室の手前の廊下にリクルートスーツの様な黒のパンツタイプを身にまとった茶髪のサラサラストレートが立っていて僕に気が付くと小走りで僕の方に近寄ってきた。
「おはようございます。先生、お客様です。白石最高顧問がお見えになっています。」
サラサラストレートはそう言うと右の手の平で執務室の方を示し、僕を誘導した。僕の、政治ではなく音楽上のではあるが、一番弟子ということになっているハルナは僕のことを「長官」とは呼ばず、今でも「先生」と呼ぶ。ハルナは長官執務室のドアを左手で開け、再び右手の手の平を返して「どうぞ」と言った。中を見るとソファには巨漢の男が背中を向けて座っていて、振り返り、僕に気が付くと右手を挙げて「やあ」と豪快に声をかけた。
「権蔵先生!おっしゃっていただければ僕の方から党本部にお伺いしましたのに。」
「総理大臣代理を務める男を呼びつけるわけにはいかんだろう。まあ、かけ給え。」
言葉とは裏腹の不遜さで僕に上座の席を勧めると、僕が座る前にソファにドカッと座った。白石権蔵元参議院議長、現在は政権与党の最高顧問。身長百八十センチメートルを超え、恰幅もいい、身体もでかいが態度もでかい参議院の大物だ。頭は随分と白くなってしまったが頭髪は保たれていて、あるいはそのために少なくない経済的負担をかけているのかもしれないが、実年齢よりはかなり若く見える。僕は、もう十年以上前の話になるが、この大物政治家の娘、もっと正確には二人娘の下の方、白石裕子、通称裕ちゃんと婚約していたことがある。結局、裕ちゃんは夭逝してしまい、僕と結ばれることはなかったのだが、その一年後、僕はこの巨漢の孫、チャコと結ばれることとなった。
「別に用があったわけじゃないんだ。ただ君の顔が見たかっただけさ。」
巨漢は大層、上機嫌だ。
「はあ。」
「昔、まだ裕子が生きている頃だ。碑文谷の今の君のうちで、総選挙の前だったかな、私が裕子とやりあったことがあっただろう?」
「はあ。」
「私はハッキリ覚えているよ。あの時は私も焦っててな。なんとしてでも君を柏崎に連れて行って、選挙の手伝いをさせなければならないと思っていたんだ。そんな私を裕子は一蹴して、私は怒りというよりも呆れたものだったが、今ならハッキリ言える。裕子が正しくて私が間違っていた。君を選んだ裕子の眼は間違っていなかったよ。君は本当の実力者だ。」
「いえいえ、たまたまですよ。偶然が重なっただけです。」
「私が参議院議長を経験できて、今でもこうやって威張っていられるのも言ってみれば君のお蔭だ。」
「そんなことはありません。」
「今日、明日は留守番だろうがもう間もなく、本当に間もなく、君がこの館の本物の主になる日がやってくるだろう。私は本当に嬉しいよ。まあ、本音を言えば、私がこの館の主になりたかったんだけどな。まあ、私には君ほどの力量はなかったということだ。ハハハ……」
巨漢はそう高笑いし、僕もお付き合いで微笑んだが内心は穏やかではなかった。僕の人生は結局、この巨漢とその娘、そして孫に振り回されている。
早くこの巨漢が退席しないかなと思っていると開いているドアの向こうにさっきのサラサラストレートが現れて、ドアを軽くノックした。
「ご歓談中失礼します。先生、そろそろよろしいでしょうか。次の会場に移動していただきたいのですが。」
ハルナがそう言ったので僕はやや遠慮がちに巨漢を見ると巨漢は立ち上がった。
「いやあ、アポも取らずにいきなり来てすまなかったな。君はこの国じゃ総理大臣の次に、いや、総理大臣よりも忙しい男だったな。君とアポなしで会えるなんてそれだけでも私は満足だよ。まあ頑張ってくれ。」
巨漢はそう言って握手を求めたので僕は「ありがとうございます」と言ってその手を握った。巨漢は僕の手を強く握りしめた。
「先生!」
ハルナがせかしてようやく巨漢は僕の手を離し、僕は「失礼します」と言って巨漢の傍を離れた。
次の予定がつまっているのだろう、ハルナはかなりの早足で僕を先導した。僕は小走りでハルナを玄関まで追いかけた。玄関には車寄せにさっきの黒塗りが止まっていて、リアドアが開いており、その脇に永田秘書官が立っていた。後部座席に乗り込むと、永田秘書官はドアを閉め、後ろから回り込んで逆側のドアから僕の隣のシートに乗り込み、同じタイミングでハルナは助手席に乗り込んだ。通常、助手席にはSPが乗るのだが、ハルナが乗ったのでSPは官房長官専用車を先導するパトカーに乗り込んだ。助手席のドアが閉まると黒塗りは出発した。
「ハルナ。ありがとう、救出してくれて。お蔭で助かったよ。」
「別に私は先生のことをお助けしたわけではありません。案外、あのまま白石最高顧問とおしゃべりしていた方が良かったかもしれませんよ。今日はハードスケジュールなんですから。」
ハルナは助手席から振り返ると冗談っぽくそう言った。
「で、これからどういうスケジュールになるのかな?」
「基本的には今日、総理が東京でこなすはずだったスケジュールを代理でこなしていただくことになります。まあ、ハルナちゃんはハードスケジュールと言ってますけど、普段の長官のスケジュールに比べれば軽いものだと思います。土曜日ですし。」
僕はハルナに尋ねたつもりだったが隣に座った永田秘書官が答えた。
「で、これからどこに行くんですか?」
「もう着きました。ここのホテルで会食になります。お昼にしては少し早い時間ですが、まあブランチとお考えください。」
「はい。」
パトカーの先導で黒塗りは官邸と目と鼻の先にあるホテルの駐車場に滑り込み、制服の警官が数人、周りを取り囲んだ。それからSPが先導車から降りてドアを開け、僕たちは正面玄関からホテルの中に入った。
「先生、朝ご飯はお召し上がりになられましたか?」
ホテルの廊下を歩きながらハルナが尋ねた。
「まあ、クッキーをつまんだ程度だよ。これがあるっていうんでお腹は空かせてある。」
「それはよかったです。このホテルのブランチサービス、結構、評判いいんですよ。」
「それで、僕は誰と会食するのかな?まさか君たち二人って訳じゃないよね?」
僕がそう言うと、ホテルの廊下を曲がったところで見覚えのある女性が僕に気付くと「お兄ちゃん!」と言って僕に手を振った。
「マコちゃん!そうか、マコちゃんの人と会うお仕事って僕と会うってことだったんだね。」
「まあ、結果そういうことになったってわけ。実はね、来年の大河ドラマの主役が決まってね。あたしが抜擢されたの。」
「ああ、そうだったんだ。おめでとう。夢がかなったんだね。」
マコちゃんは時代劇オタクで大河ドラマ出演は子どもの頃からの夢だった。
「ありがとう。これもお兄ちゃんのお蔭だよ。まあお兄ちゃんの官房長官大抜擢にはかなわないけど。それで今日、元々、総理と会食することになってたんだけど、一昨日くらいかな、お兄ちゃんが代わりに出てくるって聞いて、じゃあ驚かせちゃおうかなって思って、せっかくだからハルナちゃんも呼んじゃおうと…。」
そこまでマコちゃんが言うのを聞いて僕はハルナの方を振り返った。
「知ってたんだ。今日のこと。」
「はい、それで柏崎から急遽呼び出されたんです。会食には私と永田さんも同席させていただきますね。でもこれはあくまでも公務ですから。総理と大河ドラマ主演女優とのブランチはあらかじめスケジュールされていたんですから。」
ハルナはニッコリ笑ってそう言った。
「さあさ、もう準備はできてるからどうぞ。あたしも今朝はまだ何も食べてないから、お腹空いちゃってるし。」
マコちゃんはそう言って僕たち三人を会場へと先導した。そして会場と思われる部屋の前まで来ると立ち止まり、振り返った。
「実はね、サプライズはこれだけじゃないの。もう一人、スペシャルゲストを呼んでるんだ。まあ、お兄ちゃんにとってはあまりにもなじみの人なんでスペシャルじゃないかもしれないけどね。」
マコちゃんがそう言ってドアをノックし、ドアを開けるとかなり広い部屋に五人掛けの円卓が用意してあり、もう一人の女性が座っていた。女性は入室者に気付くと立ち上がり、深々とお辞儀をした。
「長官、おはようございます。今日は私もご一緒させていただきます。」
中の女性はそう言って一礼し頭を上げるとニッコリと微笑んだ。
「やだなあ、聡美ちゃん。今日は、まあ仕事ではあるのかもしれないけどこのメンバーなんだからいつも通り、『石水君』でいいんじゃないの?」
マコちゃんはそう言って僕の方をチラッと見た。
「聡美さんも来たんだ。まあ、さっきからいないんで変だなとは思ってたんだけど。」
「まあ、先回りするのは記者の基本だね。」
さっきのよそよそしさはなくなり、聡美さんはざっくばらんにそう言った。
黒田聡美女史は僕の番記者だ。昔は民放在京キー局のアナウンサーをやっていたが、そのうち政治記者がはまり役になり、正式にアナウンス室から政治部に移動して本格的な政治記者になった。僕が学生の頃からだから付き合いは長く、僕のことをいまだに旧姓で呼ぶ数少ない人だ。裕ちゃんの大学時代の同級生で、アナウンサー仲間で、そして何より本当の彼氏の妹だったというのがそもそも知り合ったきっかけだ。裕ちゃんと僕の婚約はお芝居だったのだけれど、僕がその彼氏だったお兄さんから裕ちゃんを奪い取ったと誤解したこの妹とは学生時代、一悶着あって、裕ちゃんがいなくなってからもしばらくは絶交状態が続いていた。
再会したのは、アナウンサー時代に当時、スーパーアイドルだったマコちゃんとクイズ番組で共演していたのがきっかけだった。聡美さんと僕はお互いに誤解していたのだが、チャコやマコちゃんのお蔭で誤解は解け、その後、天才的心臓外科医のお兄さんがノーベル生理学医学賞を受賞したこともあって、二人の間にあったわだかまりは完全に解消されている。付き合いが長いということもあり、番記者の中では筆頭格である。
「聡美ちゃんもあたしが声をかけておいたの。いいでしょ?どうせ番記者なんだから。まあ取材の一環ということだね。ということで端から見ればこのブランチ、どう見てもプライベートなものだけど奇跡的に全員、お仕事だということだね。だから少し真面目に対談しましょうね。さあさ、席について。」
マコちゃんがそう言って、座を仕切りはじめ、適当に配席して僕が総理大臣代理としての初めての仕事である会食は静かに始まった。
その日は結局、夕食会まで同じようなスケジュールが続き、次の日も、各種イベントにゲスト出演するような日程が組まれていて、慌ただしい週末は過ぎていき、全日程に付き合ったハルナは夜の新幹線で柏崎に帰っていった。
月曜日の午前中にようやく総理は首相官邸に帰ってきて、永田秘書官から連絡を受けた僕は、留守番の報告をするために総理大臣執務室に向かった。執務室に入ると総理はあまり疲れた表情は見せず、僕に席を勧めた。僕は「失礼します」と言って腰をかけ、憲政史上初の女性宰相と向き合った。
高橋綾乃内閣総理大臣。還暦を迎えたばかりだが、一般的な政治家がそうであるように実年齢よりは若く見える。やはり政治家は外見が勝負であり、映像メディアの時代、外見が見劣りする政治家は主役級にはなれない。一度、結婚したことがあるとは聞いているが現在はシングルだ。シングルとなった原因が政治家となったきっかけだとも聞いている。それからは政治に身を捧げてきたのだろう。
「留守中、ありがとうございました。お蔭さまでサミット、うまくいきましたよ。まあ、外交デビューとしては成功と言えるかな。」
本当に大成功だったのだろう。上機嫌だ。
「それはよかったです。僕の方は秘書官に言われた通りに行動しただけです。まあ、土曜日の一番最初の仕事が大河ドラマ主演女優とのブランチだったんですけど、妹のマコちゃんが出てきたのでビックリしました。」
「その話は沖縄でチャコちゃんから聞きました。『早速、爆弾を仕掛けてきた』って言ってました。仲が良くていいですね。」
「それ程でもありませんが。」
なるほど、チャコも絡んでいたのだ。
「私も結局、独り身で、これからも家族には恵まれずに死んでいくんだと思います。本当にうらやましいです。」
「はあ。」
「でも、いいんです。私は政治と結婚したんですから。白石長官には本当に感謝しています。長官のお蔭で総理にしていただいたようなものですから。」
「いいえ、そんなこともありませんが。」
「残りの人生、そんなに長くはないと思いますけど、政治家としてやりたかったこと、できる限りやらせてもらいます。」
そう言うのを聞いて僕は総理の健康のことを思い出した。
「総理、お身体の方は?」
「長官にだけは本当のことを言っておきますけど、とてもいい状態とは言えません。いつどうなってもおかしくない状況ですので、覚悟だけはしておいてください。」
「はい。」
僕は病状については深く突っ込まなかった。思えば裕ちゃんも同じような病気だった。そして病気だったのにも関わらず、歌手としての人生に全力をささげたのだ。その裕ちゃんの人生と、今の総理の人生はなんとなく重なり合う気がする。だから僕は総理を支えようと思うのかもしれない。
「白石さんが官房長官を務めてくださっているので私は本当に安心してなんでもできます。これからもどうぞよろしくお願いします。」
総理はそう言うと席を立った。次の仕事が待っているのだろう。病気の身だというのにハードスケジュールは容赦ない。僕も席を立ち、「僕の方こそよろしくお願いします」と言って頭を下げた。
「明日は柏崎でお墓参りですね。チャコちゃんは直接、柏崎に向かうと言っていたけど。」
「ええ。明日は白石裕子の命日ですから。地元ではファンのイベントもあるようです。夜遅くになってしまうと思いますけど、午後、帰郷して、明後日の朝までには戻ってきます。」
「お亡くなりになって随分と経つのにまだ人気は衰えないんですね。」
「人気絶頂の時に突然、いなくなりましたからね。それに、現役の頃はプライベートな情報が全然出てこない謎の歌姫でしたから。亡くなってから一年以上経って、少しづつ個人情報が出てきて、それも権蔵の娘だったとかとんでもない情報で、それでまた伝説が生まれて、ハルナが後を継いで……、色々ありましたけど、あっという間の十一年でした。」
「十一年か。もうそんなに経つんですね。」
「はい。では、失礼します。」
僕はそう言って一礼し、執務室のドアの前でもう一度「失礼します」と言ってそそくさと総理大臣執務室を後にした。
それから官房長官執務室に戻り、脇机の未済箱に入れられた明日の予算委員会の資料に目を通していると不意に執務室のドアがノックされ、「失礼します」という声と同時に永田秘書官が入ってきた。随分と慌てているようだ。
「長官、緊急通報です。民間航空機が行方不明になりました。KAL253便が四国沖で消息を絶ったとの情報が入りました。」
「はあ!」
それを聞いて思わず僕は大きな声を出した。官房長官としてというよりもそれは夫としての声だったと思う。まさにチャコが飛行機に乗っている時間だ。
それから僕はとにかく気持ちを落ち着かせた。今、この時間、全世界では何千という飛行機が空を飛んでいるはずだ。その中で、たまたまチャコの乗っている飛行機だけが事故に遭遇するという確率はとてつもなく低いはずだ。僕は気を取り直し、立ち上がって秘書官にアイビームを投げかけた。
「それはどこからどこに行く便です?」
官房長官が秘書官にする質問としては不適当だったかもしれない。総理大臣は既に政府専用機で無事に帰京しており、総理が無事であることは間違いないのだ。すぐに対策本部立ち上げの指示をすべき場面だった。
「・・・・・・那覇から石川県の小松空港行く便です。」
僕のスケジュールを完全に把握している秘書官は少し躊躇しながらそう答えた。那覇から小松に行く便は一日一便しかないとそうチャコが言っていたことを思い出した。頭の中は真っ白になった。