スクランブル交差点を通行止めにしたお祭り騒ぎから九日間が経過し、三月二日月曜日の朝を迎えた。マコちゃんと僕はいつものように食卓を囲み、ダイニングテーブルに広げられた新聞を読みながら朝のひと時を過ごしている。新聞の一面トップには「白石政権、今日誕生」という見出しが躍っている。マコちゃんは各紙の社説を読み比べ、悦に入っていた。各紙とも「青年宰相に期待するもの」というタイトルの社説が掲載されていて、こぞって僕への讃美歌を歌っている。
「新聞各社さんともお兄ちゃんのことべた褒めだけど、一つ書きはぐってることがあるよね?」
「そう?」
またファーストレディーの話を蒸し返されるのも面倒なので適当に相槌を打った。
「対照的に、スポーツ紙とか週刊誌はこれまたファーストレディーの話ばっかりだもんね。」
「……何を書きはぐってるって言いたいの?」
ファーストレディーの話ではないようだ。僕がそう聞くとマコちゃんは新聞を畳みながら顔を上げ、コーヒーをごくりと飲んだ。
「これから音楽プロデューサーとしてどうするのかってことだよ。みんなそのことには気付いていないね。」
「音楽プロデューサーねえ。僕は元々自分が音楽プロデューサーだとは思っていないんだけど。」
「何言ってんの。裕子叔母さんをプロデュースして、ハルナちゃんもあれだけ成功させたのに?」
「僕の力じゃないよ。」
「お兄ちゃんは、本当は将来、何になりたかったの?公認会計士の勉強とかしてたっていう話は聞いたことあるけど。」
「何か?と聞かれれば学者かなあ。勉強は好きだったし、将来、大学に残って研究者として研究し続けたいっていう思いはあったね。」
「大学教授か。カッコいいね。」
「でも大学二年生の時に裕ちゃんから電話があって、七年ぶりに再会して、それからは本当に運命に翻弄されているよ。まあそれはマコちゃんも同じだと思うけど。」
「そうだね。本当に翻弄されてる。いいこともあるし、とっても悲しいこともあるね。でも一つ確実に言えるのはお兄ちゃんと出会ってからは前を見るようになったってことかな。」
「マコちゃんは元々前向きだったじゃない。」
「じゃあ、前向きな自分に気が付いたって言った方が正しいかもしれない。これからお兄ちゃんはあたしが前向きな自分に気付いたように、日本を前向きにしていくんだろうなって思う。おう、これ中々いいコメントだね。今度、インタビューされたら使ってみよう。」
マコちゃんはニッコリ笑ってそう言うと、目の前のクロワッサンをちぎり、口の中に放り込んだ。
それから八時前に黒塗りが迎えに来て僕はマコちゃんに見送られ、碑文谷の自宅を出発した。家の前にはマスコミ各社が多数詰めかけていて、僕を見送るマコちゃんに一斉にマイクを向ける映像が黒塗りのバックミラーに映っているのが見えた。
総選挙では選挙前の予想通り、僕の率いる政権与党が地滑り的圧勝を飾った。小選挙区での取りこぼしはほとんどなく、目標としていた三分の二、三百二十議席に達したのだ。追加公認を含めると三百二十を超え、政局は安定したものとなった。
東京にしばらくいたマコちゃんは大雪の影響で大きく乱れていた鉄道が平常運行に完全に回復した水曜日に一度、柏崎に戻り、ハルナと一緒にあいさつ回りをして日曜日には帰ってきた。今日はテレビのライブ映像で僕の首班指名を見物するという。
今回の特別国会での内閣総理大臣指名選挙で、衆議院はこれまでの慣例を打ち破り、動議をもって首班指名することが既に決定している。野党第一党、そして最左翼政党の惨敗ぶりがあまりにも激しかったので、もう結果は分かっている話だし、票差が露骨に表れる記名投票はやめたいと、野党自らが申し出てきたのだ。午前中は議長、副議長の選任など事務手続きが行われ、首班指名は午後一時からとなる。参議院では慣例通り、記名投票が行われるが、衆議院は議長の開会宣言に続き、内閣総理大臣が欠缺していることの報告、呼び出し係からの動議の提案、起立採決、散会というシナリオで、一分程度で僕が内閣総理大臣に指名される段取りになっている。もちろん戦後最速のスピードで未来永劫破られることはないだろう。
午後一時が過ぎ、開会のベルが鳴った。各議員はそれぞれの席に着き、僕は当選四回にも関わらず、分不相応に一番後ろの、そして未だに官房副長官の職にある斎藤元首相の隣の席に座った。斎藤先生が何か僕に話しかけてきたので適当に相槌を打った。恵里香ちゃんの真意はまだ知らないようで、それはそれでこの老政治家にとっては幸せなことなのかもしれない。
開会のベルから一分が経過し、議長が席に着いた。テレビ中継の都合で一時きっかりには開会しない。
「会議を始めます。内閣総理大臣臨時代理より、内閣総理大臣が欠缺しているとの報告を受けておりますので直ちに内閣総理大臣指名選挙を行います。」
議長がそう言った瞬間、隣の老政治家が立ち上がり、「議長~っ」と七十代とは思えない、とてつもなく大きな声で叫んだ。議事進行を案内する、いわゆる呼び出し係は本来ならば一年生議員の仕事だ。しかし、今回の首班指名は記名投票ではないという空前、そして恐らく絶後のことなので一年生議員には荷が重いだろうということになり、斎藤先生が自らしゃしゃり出たのだ。
「斎藤孝明君。」
議長が発言を受け止める。
「白石啓一君を内閣総理大臣に指名することを望みま~す。」
「ただ今の斎藤孝明君の動議について起立採決をもって決することにご異議ございませんか?」
議長が議場に諮る。議場からは一斉に「異議な~し」の声が出る。
「白石啓一君を内閣総理大臣に指名することに賛成される諸君はご起立願います。」
議長がそう言うと議場左側の三百二十余人の議員が一斉に立ち上がった。僕は座っているつもりだったが、勢いにつられて立ち上がってしまった。
「起立多数。よって本院では白石啓一君を内閣総理大臣に指名することに決しました。」
議長がシナリオを読み終わると与党席の議員は拍手をしながら僕の方を振り返り、僕はそれに応える形で、その場で何度もお辞儀をした。
「本日はこれにて散会致します。」
議長が散会を宣言し、今日の議事日程はすべて終了した。本当は参議院がまだ指名選挙を終えていないので、「暫時休憩」を宣言するのが正しい議事進行なのだが、参議院が別の候補を指名することはありえず、休憩後、議事再開することも考えられないので議長は散会を宣言してしまったのだ。僕は参議院の指名選挙を見届けるため重鎮達に囲まれながら控室へと引き上げた。
控室では他の議員たちとモニターを囲み、参議院本会議の様子を見守った。十分も経たないうちに投票は終了し、議長が僕の指名を宣言、散会した。モニターには何度も巨漢の白石権蔵参議院議員が映されていた。
僕の指名が宣言されると控室で僕の周囲にいた議員たちから一斉に拍手と歓声が沸き上がり、真ん中に座っていた僕に次々と手が差し出された。僕はその一本、一本と握手し、「ありがとうございます」と言っていたのだが、細い手を握ったかと思ったら、その手が中々僕の手を離してくれず、その細い腕の元の方をよく見ると聡美さんが笑っていた。
「なんだ、聡美さんか。こんなところまで来てたんだ。」
「私は今、この瞬間から総理の番記者になったんですから、これからもこれまで通り、いや、これまで以上になると思いますけど、総理の追っかけをさせていただきますのでどうぞよろしくお願いしますね。」
聡美さんはそこまで一気に言うとようやく手を離し、「ちょっと失礼します」と言って僕の隣に座っていた長老の一人をどかして僕の隣にデンと座った。その辺は突撃型政治記者の突進力だ。
「追っかけはいいけど、度が過ぎるとストーカー規制法違反容疑で訴えちゃうよ。」
「それはぜひ、そうしてね。そのくらいされれば私にも箔がつくから。」
「箔がつくねえ。」
「総理大臣にストーカー呼ばわりされるなら記者として大したもんだよ。……とうとうゴールインしたね。」
「さあ、どうだろう。これからがスタートなのかもしれない。きっとそうだろうと思うよ。」
「これから組閣だね。」
「そうだね。これから官邸に引き上げて、組閣本部の立ち上げになる。」
「マコちゃんもとうとう総理大臣の妹かあ。」
「まあそういうことになるかな。」
「私は、自分の決断についてあんまり後悔しない性格なんだけど、石水君が総理に指名された瞬間は、ちょっと後悔したかもしれない。」
「後悔?」
「お正月に官邸で私にプロポーズしてくれるみたいなこと言ってたじゃない?」
「ああ、あれか。」
「あのまま石水君のプロポーズを受け入れてしまえば今、この瞬間、私がファーストレディーになってたのかなとか思って。」
「何言ってんだよ。受ける気なんてサラサラなかったんじゃないの?」
「どうだろう。案外、迷ったかもよ。もういい歳だしね。」
「でも聡美さんと僕じゃきっとうまくは行かないし、長続きはしないと思うよ。それは裕ちゃんにも言われていたんだ。二人とも生真面目だからって。」
「そうかなあ。」
「そうだよ。僕はなんとなく気付いているんだけど、この世の中には二種類の人間しかいないと思っている。尽くす人と尽くされる人。その二種類の人間が一緒になればきっとベストカップルになれるけど、そうでないと、もちろん尽くされる人同士がくっついてもうまくいかないし、尽くす人同士がくっついてもうまくいかないんだと思うよ。」
「そんなもんかなあ?」
「そんなもんだよ。だから聡美さんには博士みたいな破天荒な人がお似合いだと思うよ。ああいう、ヒヒの心臓を人間に移植しちゃうようなね。」
「なるほどね。石水君にも破天荒な人の方がお似合いだってことかな?」
「そうかもしれないね。」
「この前、……お正月に、同じこと二回も言わせないでねって言ったけど、もう一度だけ言ってあげるね。」
「なんだろう?」
「マコちゃん、石水君のこと待ってるよ。あの、羽天荒で、天真爛漫を絵に描いたようなマコちゃんがね。」
聡美さんはそう言うと立ち上がった。
「総理就任おめでとうございます。長期政権になると思いますけど、私はず~っと総理の番記者でいるつもりです。どうぞよろしくお願いしま~す。」
聡美さんは深々と頭を下げてそう言うと、「では失礼しま~す」と言って、僕の視界から見えなくなった。
その日はそのまま組閣になり、夕方から深夜にかけて、認証式やら記念撮影やら初閣議やらとバタバタと過ごした。結局、官邸の隣にある公邸にお泊りとなり、次の日も朝から仕事がギッシリと詰まっていた。とにかく、三月に入ったというのにまだ予算案が衆議院を通過はおろか、審議すらされていない。選挙をやっていたので仕方ないのだが、早急に予算審議に取り組まなくてはならないのだ。結局、バタバタと過ごすことになり、碑文谷の自宅に帰宅したのは夜の十時を過ぎた頃だった。
玄関の前に立つとドアノブを触れる前に中からドアが開き、「ばあ!」とニコニコのユメが現れた。
「ユメ!帰ってたんだ。」
「うん。おばあちゃんと絵子ちゃんも来てたんだけど、二人はもう帰っちゃった。」
ユメがそう言うと後ろから「お帰りなさ~い!」とマコちゃんが現れ、「この度は総理大臣就任、おめでとうございます」と最敬礼した。
「やめてよ、そんなこと。幸子さん、来てたの?」
「うん。総理大臣就任のお祝いにね。お兄ちゃんには会えないのは覚悟の上だったんだけど、ここ数日、学校でもお兄ちゃんの話題で持ち切りで、ユメちゃんがお兄ちゃんに会いたくなっちゃったんだって。それでユメちゃんを連れてきたってこと。まあ、何はともあれお疲れ様でした。ご飯は済んでるかな?」
「仕事しながらサンドイッチをつまんだ程度だけど、空いてはいないかな。」
ユメは僕にまとわりついたままで、僕はそのままリビングに移動し、ソファにドカッと座り、ワンテンポ遅れてマコちゃんが対面に座った。
「絵子ちゃんも来てたんだけど、あしたも学校あるし、遅くなりすぎるのもいけないと思って二人は先に帰ったよ。本当はユメちゃんも帰る予定だったんだけど、どうしてもお父さんに会いたいって言うんで、まあ、あしたの朝早くにあたしが実家に送り届ければいいのかなあと思って、それで今日はここでお泊りすることにしたの。でもさすがにもうユメちゃんも眠い時間だね。お兄ちゃんの顔が見られて良かったよ。今夜は、あした朝早いし、お兄ちゃんも公邸にお泊りでお疲れだろうから、ユメちゃんはあたしと一緒に寝るね。じゃあ、あたしはもうユメちゃんを寝かせる準備に入るから。」
マコちゃんはそう言ってリビングから出て行った。ユメはソファに座った僕の上に乗っかったままだ。
「ねえ、お父さん。」
「ん?」
「お父さんって偉くなったの?」
「さあどうだろう。みんなはそう言うけどね。」
「日本で一番偉い?」
「日本で一番かどうかは分からないけど、行政機関のトップではあるよ。まあ、ユメにはまだちょっと難しいかもしれないけど。」
僕がそういうとユメはキョトンとしていた。
「お仕事、また忙しくなる?」
「まあ、今日で一段落したから今までよりは時間は作れると思う。ユメと一緒に遊んだりできるかもしれない。僕もユメのお父さんなんだし、お父さんらしいことしないとね。」
「そう。良かった。」
「ユメ。今まで寂しい思いをさせてゴメンね。何か僕にできること、そう、何か欲しいものとかあるかな?今までユメもずっと我慢してきたんだから何かプレゼントするよ。何が欲しい?」
「あたし、お母さんが欲しい。」
ユメは間髪いれずキッパリとそういった。
「……そうか……」
僕は頭の中が真っ白になり、言葉を後に続けることができなかった。せいぜいおもちゃの類が出てくると思っていた僕はかなりの衝撃を受けた。
「……じゃあ、お休みなさい。もう歯は磨いてある。」
まずいことを言ったと思ったのか、僕の表情を見るとユメはそう言ってサッとリビングから出て行き、リビングのドアがバタンと音を立ててしまった。僕はハンマーで頭をなぐられたような気分だった。僕は内閣総理大臣になった。でも一番愛すべき人が望んでいることさえしてやれないのだ。自分の力のなさを思い知らされた瞬間だった。泣きたい気持ちだった。
僕が落ち込んでいるとリビングのドアが開きユメが顔だけを覗かせた。
「お父さん?」
「ん?」
「あたし、マコちゃんに本当のお母さんになってもらいたい。……じゃあ、お休みなさい。」
「ユメ!」
僕は慌てて立ち上がり、ユメの跡を追いかけるようにリビングのドアを開けるとそこにマコちゃんが立っていて、鉢合わせした。
「マコちゃん!」
「あたし、……何も聞いてない。……何も聞いてないから。」
マコちゃんはそう言って手を振り、ユメの後を追いかけるように、急いで階段を駆け上がっていった。
次の日、一人静かに目を覚ました僕は家の中がとても静かなことに気付いた。階下には誰もおらず、ダイニングテーブルの上にはマコちゃんの達筆な楷書でメモが置かれてあった。
早いけどユメちゃんを実家に送っていきます。学校に遅刻しちゃうといけないので。
マコちゃんはユメと出かけたようだ。僕は朝食が準備されたダイニングテーブルの前に腰掛け、眼を閉じた。昨日のマコちゃんの慌てふためく姿がフラッシュバックする。ユメがマコちゃんと僕の間にあった何か安定したものを壊してしまったような、そんな気がしていた。僕は一人で新聞を読みながら朝食をとり、定刻通り迎えに来た黒塗りに乗っていつも通り、永田町に出勤した。
官邸の総理大臣執務室の椅子に座るとすぐに机の上の電話が鳴った。
「はい。」
「鈴木春菜さんから電話が入っていますのでおつなぎします。」
隣の部屋の秘書の声がして、受話器を置く音がした。
「もしもし。」
「おはようございます。ハルナです。」
「ああ、おはよう。どうした?朝早くから。」
「早速でスミマセンが、マコちゃん、何かありました?」
「マコちゃん?どうしたの?」
「昨日の夜、マコちゃんからメールが送られてきたんです。『友美ちゃんのことを裏切ってしまうかもしれない。どうしよう』ってただそれだけでした。『何かあったの?』って返信したんですけど、それっきり何もなくて。先生に確認させていただこうと思って電話しました。何かあったんですか?」
「実は昨日、ユメが家に来てて、二人で話をしていたんだけど、ユメが『マコちゃんに本当のお母さんになってもらいたい』って言ったんだ。それをたまたまマコちゃんに立ち聞きされちゃったんだよ。マコちゃん、随分と動揺してたから。」
「そうだったんですか。」
「マコちゃんとは昨日、それきりで、今朝も顔を合わせていないんだ。僕が起きる前に起きて、ユメを実家に連れて行ったから。」
「そうですか。……分かりました。ではマコちゃんのことは私に任せてください。私がなんとかしますから。」
「ハルナが?どうするの?」
「うまくいくかどうか分かりませんけど、今から東京に行きます。それでマコちゃんに会ってお話してみますね。」
どうするかは分からないがここはハルナに任せた方がよさそうだ。
「分かった。じゃあお願いするよ。」
「きっといい結果が出せると思います。」
「よろしくお願いします。じゃあ。」
「はい。失礼します。」
そう言って電話は切れた。
内閣が立ち上がったばかりであり、この日も結局、忙しく公務を過ごし、碑文谷の自宅に帰宅したのは午後九時を過ぎていた。周囲からは公邸への引っ越しを促されていて、そうするとこの家はマコちゃんが一人でお留守番ということになるのかもしれない。
そんなことを考えながら玄関のドアを開けると、マコちゃんがいつものように「お帰りなさい」と出迎えてくれた。しかし、昨夜の出来事があったからか、いつもとどこか違うようだった。少ししんみりしているような感じがする。ユメはマコちゃんの実家に戻ったようでいないようだ。今朝、ハルナに聞いていたこともあってマコちゃんのことが気になったが、なるべくいつも通りに振舞おうとした。マコちゃんがそのままダイニングに入ったので僕もダイニングに入った。
「ケーキあるんだけど食べる?」
マコちゃんはそう言って冷蔵庫を開け、大きめのお皿に並べてあるケーキを取り出し、ダイニングテーブルの上に置いた。僕は椅子に腰掛けた。
「今、コーヒー入れるね。」
「誰か来たの?」
「うん。夕方頃、ハルナちゃんと友美ちゃんがケーキ持ってきた。」
「ああ、そうだったんだ。」
「あの二人ね、お兄ちゃんと友美ちゃんのことは冗談だったって言ってた。最初からそんな話はなかったんだけど、あたしがあまりにも本気にしたんでからかったんだって。」
「そんなこと言ってたんだ……」
「そんなの嘘だよね。嘘でしょ?本当は、……お兄ちゃんと友美ちゃんは純愛だったんだよね?」
「……僕はそんなこと最初から言ってないけど。」
僕がマコちゃんに視線を戻してそう言うとマコちゃんはうつむいた。少し間があった。
「……お兄ちゃん、本当に初めて会ったときからずっと優しいよね。あたしのことを傷つけないようにして。」
「僕は本当のことしか言ってないよ。」
「ありがとう。それだけでもうれしいや。…それでね、お疲れのところ申し訳ないんだけど、お兄ちゃん。今、ちょっといいかな?話したいことがあるの。」
マコちゃんがそう言ったので僕は少し緊張した。マコちゃんのまなざしが真剣だった。マコちゃんはダイニングテーブルの僕の対面に腰掛け、二人は向き合った。
「どうしたの?」
僕は優しく声をかけた。マコちゃんはしばらく下を向いたままモジモジしていたがやがて顔を上げ、口を開いた。
「お兄ちゃん。あのね……色々、考えたんだけど、……やっぱりユメちゃんにはお母さんが必要だと思うの。だから…」
そういうマコちゃんの目の前に僕は右手をパーにして広げマコちゃんを黙らせた。
「マコちゃん。ありがとう。でもいいよ。もうそれ以上は言わないで。」
「ううん。…言わせて。言いたいの。……お願い。」
僕は右手を下げ、マコちゃんを見つめた。今から十一年前、この碑文谷の自宅で初めてこの少女に出会ったときのことを思い出した。あれから月日は流れ、どうしようもなく我ままだった女の子もいつしかレディーになった。
「いいよ。その先は僕が言うよ。僕に言わせてよ。」
少し間があった。マコちゃんは緊張しているようだ。
「……分かった。じゃあ、……どうぞ。」
マコちゃんはそう言って両手の手のひらを上にして僕の方に向けた。
「…僕は一昨日、総理大臣に指名されたよね?」
「うん。」
「……それで、今度は僕の方が指名したいんだ。……マコちゃんを。」
僕の方も相当、緊張している。何を言っているのか自分でもよく分からない。
「そんなんじゃダメ。……ちゃんと言って。」
マコちゃんは子どもを叱責するような口調で言った。
「…ごめんなさい。」
「お兄ちゃんは初めてじゃないかもしれないけど、あたしは初めてなの。」
「僕だって初めてだよ。」
「……そっか。前はチャコちゃんが押しかけてきたんだね。でも、今はちゃんと言って欲しい。ちゃんと言ってくれないとヤダ。」
「うん……」
「……駄目ならやっぱりあたしが言うよ。ハルナちゃん達にも言われたの。『先生は、人のことはテキパキやるけど、自分のことはいつだって優柔不断だからマコちゃんが決めに行かなきゃ駄目だよ』って。」
「分かったよ。ちゃんと言うから。」
「はい。…じゃあ…どうぞ。」
「マコちゃん?」
「はい。」
「……僕と……結婚してください。」
「……はい。」
マコちゃんは少しはにかみ、うつむきながら返事をした。少し間があった。マコちゃんは何かを噛み締めているようだった。
「…お兄ちゃん?」
「ん?」
「あたし、…お兄ちゃんのこと大好き。」
マコちゃんは目をウルウルさせていた。そんなマコちゃんを見て僕にも笑顔が出た。
次の日の朝、目を覚ました僕は外が何やらがやがやと騒がしいことに気付いた。二階の寝室からカーテン越しに窓の外を見るとテレビ局の移動中継車のようなクルマが何台も止まっている。それだけではない。多くの人が集ってきていて、警備に機動隊員が動員されているようだ。急いで階段を下り、ダイニングに顔を出すとキッチンには昨夜フィアンセとなったばかりのエプロン姿の愛すべき妹がいた。朝ご飯を作っているのだが、全身から幸せオーラが出ている。後光が射しているようだ。こんなマコちゃん、今までに見たことなかった。
「マコちゃん、おはよう。よく眠れたかな?」
オーラに圧倒され、僕は少し控えめにあいさつをした。マコちゃんは僕に視線を合わせると満面の笑みで黙ったまま会釈をした。
「外がなんだか騒がしいようなんだけど。マスコミの人も来てるみたいだし。マコちゃん、ブログかなんかで公表したのかな?」
僕がそう聞くとマコちゃんは相変わらず黙ったまま、視線で僕にダイニングテーブルの上の新聞を見るように合図した。ダイニングテーブルには今朝到着した全国紙五紙が一面の見出しを表に並べられていた。僕は立ったまま、そのうちの一つを手にした。
僕が手にした新聞の一面には大きな活字で横に「真子さんファーストレディーへ」と書かれていた。リードを読むと「白石啓一総理大臣(三五)の義理の妹で女優の白石真子さん(二六)が白石総理にプロポーズされたと深夜、自身のブログで公表した」と書かれていた。もう一度マコちゃんに視線を戻すとマコちゃんは満面の笑みで僕に応えた。
僕は新聞を置いてスタジオ兼書斎に行き、パソコンと向き合い、マコちゃんのブログに向かった。マコちゃんのブログはショートカットがデスクトップに張り付けてあるのでアクセスは速い。すぐにたどり着いた。昨夜更新されたメッセージには「ファーストレディーになります」というタイトルが付されていた。僕はそのタイトルをクリックした。
皆さんこんばんは。お元気でいらっしゃいますか?もう寝てる時間かな?
今日は本当にスペシャルビックニュースがあります。
今さっき、総理からプロポーズされました。
そして、謹んでお受けしました。
ということで色々とお騒がせしましたが、マコちゃんは大好きなお兄ちゃんのお嫁さんになります。
こんな私じゃとても役不足だとは思っています。それは自分が一番分かっています。でも本を読んで、一生懸命勉強して、少しでもお兄ちゃんのパートナーとしてふさわしい女性になれたらいいなと思っています。
皆さん、今までこんな私を応援してくださってありがとうございました。
そして、これからもどうか二人を見守っていてください。
早朝だというのに既に一万件を越えるコメントが寄せられていた。僕は何度も繰り返し読み、内容を噛み締めた。すると「どうぞ」という声がして右からコーヒーが出てきた。砂糖とミルクは僕仕様に入れられているようだ。差し出した手の元を見るとマコちゃんが幸せそうに微笑んでいた。
(完)