那覇を十二時十五分に飛び立ち、石川県の小松空港に向かっていた旅客機の機影が消えたのは月曜日の午後一時頃だった。既に十六時間が経過し、東には火曜日の太陽が昇ってきた。僕は首相官邸の一室に設けられた対策本部の真ん中の席に座っている。僕の周囲には多くのスタッフが慌ただしく動きまわっていて、制服を着ている人も少なくない。
機影消失の第一報から直ちに僕は総理に呼び出され、さらに臨時閣議が招集された。国会の要件が何件か入ってはいたが、そのすべてがキャンセルとなり、対策本部が立ち上がることになった。そして事件発生から数時間後、僕はその対策本部長としてこの部屋を仕切っている。
本来ならば総理本人かせいぜい国土交通大臣がこの部屋を仕切るにはふさわしいはずだ。しかし、国会開会中しかも年度末ということで一筋縄にはいかなかった。予算はまだ成立していないし、予算関連法案の審議も残っている。国会で政権与党はもちろん多数派ではあるけれども、圧倒的な議席数を有しているわけではなく、国会運営も厳しい状況にある。また、本当のことは内緒にしているものの、総理が病気だという事情もある。結局、色々な条件が重なり合って、僕がこの部屋を仕切ることに決定し、午前と午後の記者会見は三人の副長官が持ち回りで対応するということになった。妻のチャコが事件に巻き込まれていることは既に公知の事実となっていて、妻の消息を一番早く知ることができるという配慮もあったかもしれない。
当然のことながらこの十六時間もの間、グッドニュースは何一つ入っていない。墜落地点は定かではなく、そもそも墜落したのかどうかもはっきりしないのだ。海上自衛隊のヘリコプターが和歌山県の山中で何か燃えているものを見つけたのは七時間経過後の昨日の午後八時頃だった。既に日は暮れていて、それから夜を徹して墜落地点の解明が行われ、夜明けと共に和歌山、三重、奈良の三方向から救援隊が向かうことになっている。
この対策本部のミーティングルームではニュース専門チャンネルがつけっぱなしになっている。ニュースももちろん徹夜で放映されていてこの対策本部では得られない情報もニュース経由で入ってくる。チャコが搭乗していたことも夕方には報道された。
「失礼します。」
テレビのモニターを眺めていると勇ましい男性の声が耳元に響いた。振り向くと自衛隊の制服を着た青年が立っている。
「捜索隊が出発したとの情報が入りました。現地の天候は快晴です。」
メッセンジャーはそう言うと一礼し、下がっていった。事故の第一報を受けてから初めてのグッドニュースかもしれない。ただ欲を言えば「捜索隊」ではなく、「救援隊」と言って欲しかった。生存者が見つかるかもしれないし、見つかるべきなのだ。やはり僕はチャコのことを考えていた。最後にチャコが僕に言った言葉は一体、なんだったのだろうか。そんなことを考えるが思い出せるはずはない。当たり前の日常風景とはそういうもので、当たり前に傍にいる人が突然いなくなることなど考えもしないものだ。
それからさらに三時間半が経過し、僕の目の前には朝食なのだろう、サンドイッチとコーヒーが運ばれてきた。もちろん胃はそれを受け付けない。まだ僕の下には捜索隊現地到着の情報は寄せられていない。余程山間深い場所に墜落したのだろう。それでも前線基地を和歌山に設置することは既に決定済で僕の下には続々と新しい情報が入ってきている。
時計が八時半を少し回った頃、永田秘書官が早足で僕のところに来た。後ろに長身の女性を従えている。
「長官、ハルナちゃんが来ました。」
永田秘書官がそう言うと、一昨日と同じようなスーツをパリッと着こなしたサラサラストレートが一歩前に出た。
「先生!」
ハルナは僕の目の前の机に両腕をついて叫んだ。目に涙が溜まっているのが分かる。それを見て僕も今まで我慢してきたものが思わず爆発してしまいそうになったが、必死にこらえた。周囲にはスタッフが慌ただしく動き回っており、マスコミ関係者もいる。カメラも回っている。涙を流せる場面ではない。僕は対策本部長なのだ。冷静を装った。
「ハルナ、ありがとう来てくれて。」
「スミマセン、遅くなりまして。もっと早く来たかったんですけど、クルマで夜中の高速を飛ばして事故でもあったらいけないと思いまして。始発の新幹線を待って来ました。」
「お子さんは大丈夫かな?」
「実家に預けてあります。何日でも大丈夫です。私のことはお気になさらないでください。」
「ありがとう。それで頼みたいことがあるんだけど。」
「なんでも言ってください。なんでもやります。」
「三つある。まず、一つ目。今からすぐに現地、和歌山に行ってもらいたい。」
「はい。」
「僕が乗客の家族として現地でやらなければならないことがたくさんあるはずだ。それを僕の代わりにやって欲しい。」
「はい。」
「現場で、家族として判断しなければならないことが色々とあると思う。そのとき、僕は一々ハルナの報告を受けて、判断することができないから、僕に聞かないで僕だったらどうするか考えてハルナの判断で行動して欲しい。無理なことをお願いするけどどうかよろしく頼みます。」
「はい。やってみます。」
「それから二つ目はマコちゃんだ。」
「はい。」
「今回の事故で一番ショックを受けているのはマコちゃんだ。チャコと僕が一緒に過ごしたのはせいぜい十年だ。でもマコちゃんは二十五年間もチャコと一心同体だったんだ。」
「マコちゃんには友美に一緒にいてもらっています。昨日、電話してマコちゃんのことはお願いしておきました。大丈夫だと思います。」
友美ちゃんこと越後屋友美はマコちゃんとハルナがかつて所属したアイドルグループ、「チームスタジオL」の同期生で僕も知らない間柄ではない。
「そうか、ありがとう。僕もまだマコちゃんとは連絡が取れていないし、しばらくは無理だと思う。ハルナもできるだけマコちゃんのことをよろしくお願いします。」
「はい。」
「それから三つ目。これが一番大切なことなんだけど、どうか僕の前では涙を流さないで欲しい。」
「はい。」
「僕だって泣きたいんだ。でも今はそんな状況じゃない。」
「はい。」
「じゃあ、よろしくお願いします。」
そう言うとハルナは「はい。失礼します」と言って一礼し、永田秘書官に付き添われ、入り口付近に置いてある大型のスーツケースをガラガラと引きずってミーティングルームを出て行った。スーツケースの大きさからハルナがかなりの長期滞在を覚悟していることが感じられた。
それからさらに二日が経過し、この国は春分の日を迎えた。春分の日のことを英語ではスプリング・ハズ・カム・デーと言うそうだ。「春が到来した日」。高緯度に住む英語圏の住民はそれ程までに春の到来を待ちわびるのだろう。しかし、この国にまだ春は訪れていない。そしてチャコは相変わらず行方不明のままである。
「長官、かなりお疲れのようですね。」
僕がミーティングルームの真ん中の席でボーっしていると永田秘書官が声をかけてきた。政治歴三十年の永田氏はとてもタフで疲れを微塵も見せていない。
「それは永田さんも同じなんじゃないんですか?むしろ永田さんの方がお疲れなんじゃないかと。」
「そんなことはありません。長官、今は少し小康状態のようですし、執務室で少しお休みになったらいかがですか?何かあったらすぐにご連絡させていただきますので。あるいは公邸の方がゆっくりできるかもしれません。すぐに準備させますが。」
小康状態と言われればその通りなのかもしれない。事故発生から丸三日間が経過し、生存者の奇跡の生還はもはや絶望視されている。僕も心身ともかなりまいっているのは間違いない。
「分かりました。ではお言葉に甘えさせていただきます。」
僕はそう言って一人ミーティングルームを離れ、執務室へ行き、椅子にドカッと腰かけた。一人きりになるのは本当に久し振りかもしれない。静かな時間だ。一人になってしまうとやはり考えることは一つだけだ。睡魔も襲ってくる。僕は椅子の背もたれにもたれかかり、夢と現実の間を少し行き来した。
僕は三十四歳という異例の若さで官房長官に就任した。しかしそれは色々な偶然が重なった結果であり、僕の力ではない。僕は何もしなかった。抵抗すらしなかった。ただ流れに身を任せていただけだ。
僕は十年前の今日、春分の日に思いをはせた。その日の午後、僕は碑文谷の自宅の庭で植物に水を飲ませていた。そんなとき、ふと玄関先で「ごめんください」という声がして僕の目の前にイエローのツーピースを着た少女が現れた。大きなスーツケースを持っていたと思う。少女は自ら「チャコ」と名乗り、僕のお嫁さんになりに来たと言った。昨日、中学を卒業したばかりで、中学を卒業したらすぐに僕のところに来るよう「ある人物」に言われていたという。その「ある人物」こそが白石権蔵参議院議員の娘、もっと正確には二人娘の下の方、白石裕子、通称、裕ちゃんだった。
裕ちゃんと僕は幼馴染だった。幼少の頃、僕の地元、柏崎ではお互いの家が近かったこともあり、二人は多くの時間を一緒に過ごした。同じピアノ教室に通い、お手てつないで学校に行き、僕が学校でおしっこを漏らしたときにはパンツまで貸してくれた。中学一年生が終わる春休み、二年年長の裕ちゃんが東京の高校に通うために柏崎を離れるまでそんな生活が続いた。
裕ちゃんが柏崎を去ってからは、裕ちゃんはなんとなく遠い存在になってしまった。柏崎に帰ることはあったようだけれども会うことはなかった。幼馴染の頃の記憶があまりにも密着したものだったので年頃になった二人はあえてお互いを避けていたのかもしれない。そんな時間が七年くらいあった。
状況が変わったのは僕が一年間の浪人生活の末、東京の大学に通うことになり、上京し、さらに一年が経過してからだった。僕は既に社会人となっていた裕ちゃんに突然呼び出された。僕が東京にいることを実家の母に聞いたそうだ。七年ぶりに再会した裕ちゃんはその年の四月に公共放送のアナウンサーになったばかりだったが、僕に自分の彼氏となることを要求し、さらには婚約者になることまで求めた。
裕ちゃんは父権蔵先生の後を継いで政治家になることを運命づけられていた。権蔵先生は今でこそ参議院の大物だが元々は祖父の代から三代続く衆議院議員だった。ただ一度落選してしまう。そのまま次の選挙で再選を果たしていれば権蔵先生を取り囲む多くの人々が奇妙な運命に翻弄されず済んだのかもしれない。しかし、この政治的野心の強い政治家は直後の参議院議員選挙に出馬してしまう。そして、運命というものは本当に不思議なもので、その時は追い風が吹いたとか、他に適当な候補者がいなかったとか、色々な偶然が重なって権蔵候補は当選してしまうのだ。
当選、それ自体はグッドニュースだがそうすると衆議院の自分の選挙区に立てる候補者がいなくなってしまう。県議会議員や自身の秘書など、色々と子分を立ててみるもののうまくはいかず、自分の娘、もっと正確には幸子さんという二人娘の上の方を候補者に立てようとスパルタ教育を開始する。しかし、過ぎたるは及ばざるがごとし、スパルタに耐えられなくなった幸子さんは地元でも有名な悪ガキと駆け落ちし、権蔵先生は幸子さんを勘当、この作戦は失敗した。
幸子さんを諦めた権蔵先生の目は当然のように二人娘の下の方、裕ちゃんに向かった。そして裕ちゃんもこれを当初は受け入れ、選挙用に顔を売るためというだけの理由でアナウンサーになったのだが、音楽が大好きだった裕ちゃんの本当の夢は歌手として成功することだった。アナウンサーとなったその年、ポップスコンクールに優勝して歌手としての切符を手にした裕ちゃんは当然のごとく反対する父親に対して「今、付き合ってる彼氏がいるからどうせ結婚するつもりだし、彼氏を選挙に出したらどうか?」と提案し、その彼氏役として僕がでっち上げられた。
最初は本当にお芝居のつもりだった。実際、その当時、裕ちゃんには本物の彼氏がいたりしたのだ。父親の説得に成功した裕ちゃんはシンガーとして大成功を収め、歌姫とまで呼ばれるようになった。しかし、悲壮にも、裕ちゃんは重い病気にかかり、天寿をまっとうすることはできなかった。僕はお芝居の彼氏のはずだったのに裕ちゃんの傍を離れられなくなり、裕ちゃんを看病することになり、結局、結婚することはなかったけれども最終的には本物の婚約者になり、大学卒業の年の春に裕ちゃんを看取ることになった。裕ちゃんとは一年くらい一緒に暮らした。
それから僕は自分ではコントロールできない運命に左右された。裕ちゃんは「遺言」として「自分がいなくなった後は父の勧める人と結婚して欲しい、その代わり全財産を譲るから」と言い残していた。僕に歌姫として稼いだ莫大な金融資産や版権を相続させる遺言が執行され、さらに裕ちゃんがいなくなってしまってからちょうど一年が過ぎた今日、春分の日に僕と結婚する権利を裕ちゃんから譲り受けたといって一人の少女がふらりと僕の目の前に現れた。それがチャコだった。
チャコは権蔵先生の孫、もっと正確には権蔵先生の二人娘の上の方、幸子さんの産んだ双子の娘の上の方だった。幸子さんは駆け落ちをした次の年、女の子の双子を産んでいた。チャコと僕が初めて顔を合わせたとき、チャコはまだ中学を卒業したばかりだった。僕はてっきり冗談かと思ったが権蔵先生は祝福し、チャコの十六歳の誕生日にチャコと僕は正式に結婚、僕は白石を名乗るようになった。世間には野心にあふれた僕が権蔵先生をたぶらかし、未成年者をも政治利用したと非難する声もある。僕に何か政治的な野心があったわけではない。しかし、スーパーアイドルとなった妹のマコちゃんがさんざん僕のことを宣伝したこともあり、僕はマスコミに乗りに乗った。そして二年後に行われた総選挙で僕は次点に法定得票数も与えない圧勝を収め、政治家としての道を歩み始めることになる。以来、この八年の間に僕は常識ではありえない大出世を重ねることとなった。
僕は出馬前から当選が確実視されていて、当選の暁には党の副幹事長のポストが約束されていた。まだ二十代の一年生議員にしては破格の待遇だがもちろんそれには訳がある。みんな僕の政治資金をあてにしてのことなのだ。歌姫と言われた裕ちゃんは莫大な版権や楽譜を残していた。そして未発表の楽譜群はハルナの歌声で蘇り、僕には莫大な印税収入がもたらされることになった。僕は初当選の時から国会議員年収ランキング第一位の座を譲り渡したことがなく、保有資産も上昇の一途を辿っている。そういう理由で多くの人が僕と仲良くなりたがり、それゆえの副幹事長大抜擢だった。
しかし、いい話ばかりというわけでもない。僕は注目の政治家だったので当然、攻撃する人もいる。初当選から半年が過ぎた頃、あるスキャンダルが持ち上がって、僕は副幹事長を降りることになった。しかし、それから数か月で首相補佐官として官邸入りすることになる。なんでもチャコが権蔵先生と交渉して肩書が立派でそれほど忙しくないポストを準備したという。
しばらく平和な時間が過ぎたがそれも半年くらいだった。ある高校で人質立てこもり事件が起こり、僕は補佐官の中では間違いなく、一番格下のはずだったが、他の補佐官が牽制しあったために僕が貧乏くじを引くことになり、「首席」補佐官として政府代表で人質の身代わりに指名されたのだ。但し、ここでも幸か不幸か、僕が一滴の血を流すこともなく犯人を投降させ、またその犯人が「この人なら降参してもいいと思った」とコメントし、さらにそれを聡美さんが大々的にマスコミに乗せたものだから僕はこの人質解放の主役に躍り出てしまい、その黒い噂ゆえに支持率低迷に悩んでいた当時の総理は僕を補佐官から一気に内閣官房副長官に出世させた。
それからしばらくしてその総理の黒い噂が現実のものとなり、内閣の退陣と共に僕も首相官邸を追われることとなった。多くの政治家があっという間に総理に見切りをつけ離れていく中、僕は最後まで総理に付き合い、身辺整理を手伝った。僕に何か計算があるわけではなかったが、総理は退任会見の際、僕をわざわざ傍に呼び「この男だけは本当に裏表のない正真正銘の政治家だ。自分は自らの過ちのためにここを追われていくけれども、どうかこの男だけはよろしくお願いしたい」と何台ものテレビカメラの前で涙ながらに言ってのけたのだ。僕は結局、空席となっていた党の幹事長代理に横滑りし、政権与党中枢から離れることはなかった。
途中で都知事選挙に出馬して惜敗するなども経験したが、幹事長代理は数年務めた。それから僕は政界を震撼させた大スパイ事件に巻き込まれ、否、巻き込まれなかった。その頃、政権与党は当時の幹事長と僕の二人が次期リーダーとしてライバル関係にあるとされていた。僕にはもちろん政治的な野心などなかったが世間がそう騒ぎ立てていたことは事実である。そしてその二人に某国のスパイが接近したのである。僕もすんでのところでそのスパイの餌食になるところだった。ところがチャコが超能力などではなく、ほんのちょっとした注意力からその人物がスパイであることを見破ったのだ。僕はチャコのお蔭でまったく傷つくことはなく、一方、当時の幹事長一派は壊滅的な打撃を受けた。後任の幹事長には僕が選ばれ、僕は三十三歳で政権与党のナンバーツーにまでのし上がった。
それからしばらくしてまた現役の総理大臣がスキャンダルを引き起こした。どうしてこう政治家はスキャンダルを起こすのだろう。僕は、別に政治家だけがとりわけ脇が甘いわけではないのだと思っている。ただ、周囲の目が厳しすぎるのだ。だからちょっとしたことでも過大に解釈され、度を過ぎると直ちに政治生命に関わる傷となってしまうのだ。前総理のスキャンダルは破廉恥なものだったので、次の総理は女性がいいだろうということになり、女性で、野心のもっとも強かった現総理が、僕が率いていることになっている党内最大派閥の支持を受け、憲政史上初の女性総理に就任した。そして僕に官房長官就任を要請し、僕はこれを受け入れた。世間やマスコミは僕が事実上の総理大臣であると囃し立て、一部のマスコミは敢えて総理にならないのは野心家のしたたかな戦略だと分析している。僕にはそんな野心は最初からないのだけれど。
しかし、僕がたとえどんなにそれを望まないとしても、それが僕に確実に近づいていることには僕も気が付いている。もう、総理大臣の椅子は本当にすぐそこで僕が望みさえすればいつでも手に入るところにある。現総理がどれだけ総理の椅子にしがみつくかは分からないが、僕が伊藤博文の持つ首相就任最年少記録の四十四歳を大幅に更新することは間違いない。
不意にワイシャツのポケットに忍ばせてある携帯のバイブレーションが震えて僕はいきなり現実に引き戻された。ディスプレイを見ると「黒田聡美」と表示してある。僕は少し前かがみに座り直し、一呼吸してから携帯に出た。時計は午後五時半頃を指している。
「はい。」
「もしもし。石水君?私。黒田です。」
思いっきり友達モードで話しかけてくる。旧知の聡美さんは僕を旧姓で呼ぶ。
「うん。」
「今、電話大丈夫かな?永田さんに電話したら今、執務室に一人でいるって聞いたから。お休みだったかな?」
「ああ、ちょっとウトウトしてたけど大丈夫だよ。何かあったの?」
「うん。…実はね、奥さんの、…朝子さんの遺書が見つかったの。」
「遺書?」
「まあ、遺書というのは言葉が適切じゃないから最後のメッセージって言った方がいいのかもしれないけど。数枚の紙に走り書きしてあって、内容から絶対に朝子さんのものに間違いないって。」
「聡美さんはもう見たの?」
「まだ。誰が見つけたのかは分からないんだけど、もう捜索関係者やマスコミも知るところとなっていて、現地にいる春菜さんに公表するかどうかを確認して、春菜さんは公表に同意したそうなんだけど、石水君はそれでいいの?石水君、まだ読んでないんでしょ?公表するにしてもまず、石水君が読んで内容を確認してからの方がいいんじゃないかと思うんだけど。」
「…マスコミの人らしからぬ発言だね。」
「私は友人として言ってるの。確かに真実を報道することはジャーナリストの使命かもしれないけどそれ以前に私は、…石水君の友達だと思ってるから。石水君が今、とても辛い中、無理していることは痛いほど分かるから。……それで官房長官の番記者の取りまとめ役として私が石水君に直接、確認することになったの。それまでこのことは伏せておくことにして。」
「…ありがとう。でも現地でのことは全部、ハルナに任せてあるんだ。ハルナが公表に応じたというのであれば、僕が見ても公表に値するものなんだろう。いいよ。どうせ僕は公人だし、そういうものが発見されたというのであれば隠しておけるものでもないだろうから。」
「…分かった。もう、夕刊は間に合わないから新聞に出るのは明日の朝になるけど、ニュースの方はもう報道協定が結ばれていて、各局、六時のニュースから取り上げることになってる。うちの局も六時のニュースのトップで取り上げるそうで、今、報道フロアが騒然としてるよ。」
「局にいるんだ。」
「うん。官邸に詰めてたけど、この件で呼び出されたから。」
「分かった。後、三十分くらいだね。チャンネルを合わせてみるよ。」
「番組の中で誰かがそのメッセージを読まなきゃいけないんだけど、私が読むことになるかもしれない。そんな雰囲気になってる。声が震えちゃうかもしれないけど。」
「分かった。」
「じゃあ、また後で。」
「はい。ありがとう。」
そう言って僕は携帯を切った。携帯を机の上に置いた僕は背もたれに思いっきりもたれ、瞳を閉じた。チャコが最後に残したいメッセージはなんだったのだろうか。そんなことを考えていると執務室のドアがノックされ、永田秘書官が入ってきた。
「失礼します。長官、黒田記者からは電話はありましたか?電話をかけたいとおっしゃっていて、要件を聞いても教えていただけなかったものですから。」
「ええ。今ありました。チャコの最後のメッセージが見つかったそうです。」
「そうですか…。」
「もうマスコミには公表されているそうです。ハルナがそう判断したそうです。」
「はい。」
「六時のニュースから各局で取り上げるそうです。しばらくここでそのニュースを見届けてもいいでしょうか?」
「分かりました。本部の方はうまく切り回しておきます。長官もずっと陣頭指揮をとっていらっしゃったのですから一息つかれるのもいいと思います。」
永田秘書官はそう言うと執務室の中にあるテレビの電源を入れ、リモコンを僕の手の届くように机の上に置いた。そして「失礼します」と言って部屋から出て行った。
再び一人になった僕はリモコンを操作して聡美さんのいるテレビ局にチャンネルを合わせ、六時を待った。既に聡美さんの所属しているテレビ局ではニュース情報番組が始まっていて、相変わらず事故のニュースを伝えていた。
そして六時少し前から天気予報が始まり、しばらくコマーシャルが流れて六時になったようだ。画面が男女二人のキャスターに切り替わり、チャコのメッセージが発見されたことを伝えている。画面の右下には「朝子さんのメッセージを発見!」と書かれている。
もう一度、画面が切り替わり、捜索の風景が映し出された。その風景を背景に手紙が映し出される。横に殴り書きで書いてあるがチャコの直筆であることはすぐに分かる。大して上手ではない字だ。女性ナレーターの、聞きなれた聡美さんの声が聞こえてきた。手紙を朗読している。
けいいちさん。じこがおきたようです。こうどがどんどん下がっていくのが分かります。きっとたすからないでしょう。
きないはそうぜんとしています。でも、なぜか私はれいせいでいられます。ふしぎです。
さいごにマコちゃんに一つおねがいがあります。
私がいなくなったあと、私のぶんまでけいいちさんとしあわせになってほしいんです。
ユメのこともおねがいします。
とんでもないことをおねがいしているかもしれません。
でも、マコちゃんが二人のそばにいてくれるなら、私はむこうであんしんしていられます。
とうとうさいごのときがきたようです。すこしはやいけどゆうちゃんにあいにいきます。ゆうちゃんにあったらけいいちさんのはなしいっぱいするんだあ。
けいいちさん、十年間も私のことをあいしてくれてありがとう。こんど生まれてくるときもゆうちゃんじゃなく、マコちゃんでもなく、ぜったいにチャコをえらんでくださいね。
けいいちさん大好きです!
最後の一行は一際大きな文字で書かれていた。