墜落事故があってから僕は碑文谷の自宅に帰宅していない。ずっと総理大臣官邸と公邸に缶詰になって事故対策の陣頭指揮をとっていたのだ。でも、今日、この日だけは絶対に帰宅したいと思っていた。今日は四月三十日、チャコの二十六歳の誕生日、そして十周年目の結婚記念日だったはずの日だ。
周囲も僕に気を使ってくれ、この日は八時頃、僕は運転手付きの黒塗りで家路に着いた。助手席にはSPが乗る。僕は一応、国務大臣なのでSPはつきっきりだ。
家の前に到着し、僕はクルマを降りた。警備の制服警察官が敬礼をする。門燈はついていて、玄関も明るかった。今までと何も変わらない帰宅の風景。それを見て僕は、家の中でチャコが僕のことを待っている気がした。そして、僕が玄関を開けるとチャコが「お帰りなさ~い!」といつもの元気一杯の笑顔で迎えてくれる、そんなことを空想し、頭を振って振り払った。もうチャコはいないのだ。悲しい現実と向き合わなければいけない。僕は上着のポケットから鍵を出し、玄関のドアを開けた。
ドアを開けて家の中を見ると何か不思議な気持ちがした。人の気配がするのだ。それもただの人の気配ではない。チャコの気配がするのだ。ダイニングの電気が点いていて、誰かが何かをやっているような音がする。
(「泥棒?」)
僕は一瞬そう思ったが、この家は現役の内閣官房長官の私邸、警備体制は磐石なはずだ。表はもちろん、裏にも制服の警察官が二十四時間、切れ間なく警備をしている。僕は明かりに吸い寄せられるようにダイニングに向かった。ダイニングのドアは開いていて、開いているドアから中を覗きこんだ。ダイニングの奥のキッチンには一人の女性が立っていて洗い物か何かをしているようだ。
(「チャコ!」)
僕は一瞬、自分の目を疑った。だがチャコに間違いない。チャコがそこにいる。紛れもない現実なのだ。そうだ、チャコは帰ってきたのだ。そういえば事故から現在までチャコの遺体は発見されていない。チャコは無事だったのだ。ただ、なんらかの事情で記憶を失い、帰宅が遅れたのだ。
しかし、僕のそのような希望的思考も目の前の女性の発した一言でもろくも崩れ去った。
「あっ、お兄ちゃん。お帰り。お疲れ様でした。」
「なんだ、マコちゃんか……」
僕はダイニングの入口にへたれこむように座った。
「どうしたの?お兄ちゃん。……そうか、チャコちゃんかと思った?ごめんねえ。」
マコちゃんは僕の傍に寄ってきてそう言った。確かに衝撃ではあったが、マコちゃんに責任があるわけはない。僕が勝手に勘違いしただけなのだ。
「いや、僕の方こそマコちゃんに嫌な思いをさせちゃったかもしれない。」
「別にそんなことないよ。」
マコちゃんは僕に気を使ってか、軽く微笑んだ。
「帰ってたんだ?」
「うん。昨日までは実家にいたんだけど、今日はお兄ちゃんが帰ってくるって聞いたもんだから。」
「ユメは?」
「お母さんのところだよ。絵子ちゃんと仲良くやってる。双子みたいだよ。」
チャコとマコちゃんの母親である幸子さんの末娘、つまりチャコとマコちゃんの年の離れた妹の絵子ちゃんと僕の娘であるユメは叔母と姪の関係だが偶然にも生年月日が一緒だ。同じ日に同じ病院で生まれたのだ。だから双子のように育っている。
「そうか。幸子さんにも迷惑かけるね。」
「迷惑なんかかけてないよ。それにそれが迷惑だったらお母さんがお兄ちゃんにかけた迷惑の方がよっぽど大きいと思うよ。」
「幸子さんが僕に?」
「そう。おじいちゃんを押し付けて、わがままな双子の娘も押し付けたんだから。……何か飲む?」
「そうだね。」
「じゃあ、コーヒーでも入れるね。」
マコちゃんはそう言ってキッチンへ立った。僕も立ち上がり、ダイニングチェアに腰掛けた。しばらくしてマコちゃんがコーヒーカップを二つ持ってきて自分と僕の前に置き、マコちゃんはダイニングテーブルの僕の対面に座った。それから二人は黙って視線を合わせたのだが、どちらともなく泣けてきてしばらく二人でオイオイと声を上げて泣いた。
しばらく二人で泣いていたが、いくら泣いても前に進むわけではない。僕がしっかりしなければならない。
「もう寝るね。あしたも朝、早いし。」
僕はマコちゃんになんといって声をかけたらいいのか分からず、取り敢えずそう言ってこの日はおしまいにしようとした。
「お風呂入るでしょ?沸いてるけど。」
「あしたでいいよ。今日は本当にもう疲れちゃったから。マコちゃんは、…最近はどうなのかな?マコちゃんと会うのもあの事故の朝以来だけど。」
「まあ、もちろん普通じゃいられないけど、頑張って生きてるよ。……あたし、大河ドラマの主役は降りることにした。」
「……そっか……。」
「とてもプロとして演技できる気分でもないしね。ホントに残念だけど。」
「今までずっと実家にいたのかな?」
「どうだろう。あちこちを転々としてたかな。取材とかもあったし。」
「取材か。」
「まあ、チャコちゃんもあたしもお互いに有名人だから仕方ないけどね。」
「辛かったね。」
「お兄ちゃんに比べれば大したことないよ。」
「そんなことないよ。マコちゃんの方が僕よりもはるかに辛いと思う。僕がチャコと一緒に暮らしたのはせいぜい十年だ。でもマコちゃんは二十五年間も一心同体だったんじゃないか。」
「過去形じゃないよ。チャコちゃんとあたしはこれからも一心同体。いや、これからが本当に一心同体なのかもしれない。今までは別々の身体だったけどね。これからは、チャコちゃんはあたしと本当に一体になって生き続けるの。」
「マコちゃん…」
「なんかそんな気がして。そんな風に考えるようにしてる。」
「そっか……」
マコちゃんはマコちゃんなりにこれからの人生を前向きにとらえようとしているのかもしれない。僕もしっかりしなければならない。
「……もう寝るの?」
「うん。なんか久し振りに家に帰ってきたら疲れがどっと出た。緊張感がほぐれたというか、マコちゃんの顔見て安心したんだね。」
「待って、あたしも寝るから。あたし、事故があってからここのおうちで寝るときはずっとチャコちゃんのベッドで寝てるの。」
「えっ?」
僕は聞き返したがマコちゃんはニッコリ笑ってそう言うとダイニングテーブルのコーヒーはそのまま、ダイニングから出て行った。
僕は結局、マコちゃんの入れてくれたコーヒーには手を触れず、コーヒーメーカーの電源を落とし、歯を磨き、二階の寝室に行ってパジャマに着替え、ベッドに横になった。
ベッドに横になっていると寝室のドアが開き、常夜灯の明かりに照らされたマコちゃんが入ってきた。パジャマに着替えていてチャコが乗り移ったようだ。端から見れば、親御さんですら二人の区別はつかないだろう。僕も最初の頃はそうだった。でもチャコと半年くらい暮らしてみると雰囲気だけで二人の区別はつくようになった。
「マコちゃん!ここで寝るの?」
「いいじゃん。別に同じベッドで寝るわけじゃないんだし。それに…一人じゃ寂しいし。」
マコちゃんはそう言うと僕の隣のチャコのベッドに潜り込み、二人は顔を合わせた。常夜灯の淡い光が二つの顔を照らす。この前、この同じベッドで寝たときも確かに同じ顔が隣にいた。不思議な気持ちがした。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「ん?」
「前にもこんなことあったよね?」
「あったね。……どこでだっけ?」
「福岡だよ。お兄ちゃんあたしのコンサートに来てくれたんだ。」
「そうだ。」
「あのときはあたしとチャコちゃんが入れ代わって元に戻れなくなっちゃって大変だったんだ。」
「そんなこともあったね。」
もう遠い記憶だ。その当事者の一人はもういないのだ。
「ねえ、お兄ちゃん。」
「ん?」
「今度、生まれてくるときも絶対にチャコちゃんを選んでね。あたし、またお兄ちゃんの妹になりたいから。……じゃあお休みなさい。」
妹はそういうと仰向けになって瞳を閉じ、あっという間に眠りに着いた。
翌朝、目が覚めると隣のベッドは既に空になっていて昨日、隣で寝たのがチャコではなく、マコちゃんであることを裏書きした。チャコは朝が弱く、結婚してから十年、僕よりも早く起きたことはほとんどない。一方、瓜二つの双子の妹は早寝早起きでいつも早起きしては三人の朝ご飯を作っていた。僕はパジャマから部屋着に着替え、一階に降り、ダイニングを覗くとマコちゃんがダイニングチェアに腰かけ、朝食を前に新聞を読んでいた。
「あっ、お兄ちゃんおはよう!」
僕に気付いたマコちゃんの方が先に声をかけた。
「おはよう。随分早いね。」
「まあ、いつもこんなもんだよ。お兄ちゃんとモーニングコーヒーなんて久し振りだね。さあ、朝ご飯どうぞ。」
そう言ってマコちゃんはパンとコーヒーが主流の洋風朝ご飯を僕に勧め、僕はマコちゃんの対面に座り、「いただきます」と言ってクロワッサンをつかんだ。マコちゃんは席を立ち、コーヒーを入れるようだ。
「お兄ちゃん、よく眠れた?」
「ああ。久し振りに我が家の枕だったしね。」
チャコはいなくなってしまったけれど、まったく変わらない普段の朝の風景だ。
「政治家も大変だね。」
「マコちゃん。昨日は言いはぐっちゃったけど、誕生日おめでとう。」
「ああ、ありがとう。覚えててくれたんだ。まあ、チャコちゃんと同じだから忘れるわけないか。」
「ごめんね。いつもマコちゃんやユメのことほったらかしで。」
「そんなの最後でいいよ。」
マコちゃんは入れたコーヒーをテーブルの上に置き、砂糖とミルクを入れてかき混ぜ、どうぞという表情で僕の目の前にスライドさせた。
「それでユメは今、どんな状況なんだろう?チャコが沖縄に行く前から幸子さんのところに預けっぱなしだってことは聞いてるんだけど。」
「心配なんだ。」
「当たり前じゃないか。僕は父親なんだぞ。」
「高校二年生のとき、あたしがお兄ちゃんのところに家出してきたでしょ。でもお父さんもお母さんもそんなには心配してくれなかったよ。」
「ユメはまだ小学生だよ。……入学式にも行かれなかったし。」
「大丈夫。結局、ユメちゃんは、住民票は目黒区のままだけど、品川の絵子ちゃんの通ってる小学校に越境通学することになった。」
「そうなんだ、そんなことも知らないなんて僕は本当に父親失格だね。」
「ホントはそんなことできないんだろうけど、事情が事情だし、色々な特例が認められたってわけ。だから今は、ユメちゃんはあたしの実家の子どもとして、まあ絵子ちゃんと姉妹のようになってるよ。」
「そっか。幸子さんには迷惑かけるね。お義父さんにも。」
「それは昨日も言ったけど、迷惑ってほどのものでもないと思うよ。だって絶対にお母さんがお兄ちゃんにかけた迷惑の方が大きいって。」
「そうかなあ。」
「そうだよ。それにお父さんもお母さんもどんなに頑張ってもチャコちゃんとあたしをこんなに幸せにはできなかったと思うよ。それにお母さんにとっても都合がいいみたいだし。」
「都合がいい?」
「そっ。お店で忙しいじゃない。絵子ちゃん一人だと大変だけどユメちゃんと二人だと一緒に遊ぶんで、その方が絵子ちゃんに手がかからないんだって。あたしとチャコちゃんもそんな感じだったし。」
マコちゃんのご実家は品川の戸越でラーメン屋さんをやっている。
「うん。」
「だからまあ、ユメちゃんのことはしばらくお母さんに任せてよ。それでなくてもお兄ちゃん、仕事、大変なんだから。それはみんな分ってるって。」
「でも、僕としてはやっぱり心苦しいなあ。僕は確かに官房長官で、政治家で忙しいかもしれないけど、ユメは一番身近な身内なんだし、身近な人を幸せにできないようじゃ他の人も幸せにできないと思うけど。」
そんな話をしながら僕は朝食を済ませ、お風呂に入り、スーツに着替えた頃のタイミングで迎えが来て、僕は永田町に出かけていった。マコちゃんが見送ってくれたが、端から見ればチャコに見送られているかのようだった。
運転手付きの黒塗りの中で永田秘書官より朝一の仕事が代表取材であることを聞かされた僕は官邸に入ると永田氏に先導され、応接室に向かった。応接室に入ると聡美さんが待っていて椅子から立ち上がり、僕に手を振った。思い切り友達モードだ。永田氏と僕は並んで座り、ワンテンポ遅れて聡美さんが座った。
「おはよう。昨日は久し振りにおうちに帰ったんだってね。」
友達モードで話しかけてくる。周りにもっと人がいるときは聡美さんも僕のことを「長官」と呼ぶが、身内の時はざっくばらんだ。
「ああ。マコちゃんの誕生日でもあったしね。何もできなかったけど、おめでとうくらいは言ってあげたかったから。」
「マコちゃん、どうだった?」
「元気とは言えないよ。連絡は取り合ってないのかな?」
「まあ、メールは時々するけど、以前みたいには頻繁にはできなくなった。」
「大河ドラマの主役は降りたと言っていたよ。」
「それは聞いてる。そっとしておいてあげた方がいいのか私にも分からない。」
「僕のことはそっとしておいてくれないのかな?」
「こればっかりは仕事だからね。それでお人払いはしてくれないのかな?」
聡美さんはそう言って永田秘書官をチラッと見た。
「いいでしょ。永田さんはもう何年も僕の右腕なんだから。永田さんがいたらできない話はそもそも受け付けられないよ。」
「そうだね。」
「じゃあ早速、本題に入ってよ。次の予定もあるし。」
「うん。今日、お時間を頂戴したのは、総理の体調について確認したかったから。」
「総理の体調?」
「総理が病気であることは分かってるよね?」
「……もちろん。それは理解してるつもりだよ。」
「最近、病院に行くことが多いみたいなんだけど。」
「総理の動静は隠してはおけないね。」
「実際にどうなの?」
「どうって?」
「総理大臣の職務執行に支障はないのかってこと。」
「それがないから僕は今の総理誕生を支持したんじゃないか。」
「随分、危ないっていう噂もあるけど。石水君は本当のことを知ってるんでしょ?」
僕が大学生の時から付き合いのある聡美さんは、今でも僕のことを旧姓で呼ぶ。
「ああ、全部知ってるよ。きっと僕が一番詳しいんじゃないかと思う。」
「今、危惧されているのは、何か、まあ軍事攻撃を受けることはないとは思うけど、自然災害とか、原子力発電所の事故とかは起こりうるわけで、そんなときに今の総理で危機管理できるのかということだよ。」
「もし総理が耐えられないというのであれば僕が代わりに指揮を執るよ。そういうことになってるはずだよ。それでみんな納得してるはずだけど。」
「それは私も理解してる。総理が病気であることは実は永田町では公然の事実。でもみんなそれに目をつむって総理にしたのは官房長官が石水君だから。石水君がバックにいるなら安心だろうと。」
「……」
「でも、今回の事故で石水君も傷んでしまった。だから、……今の政権、大丈夫なのかなって心配するのは当然だよね。」
「……そうかもしれないね。」
「それで、総理の病気はどうなの?」
「そんなこと、僕の口から説明できることじゃない。ただ、一つ言えることは、彼女は総理大臣に選ばれたんだし、本人が辞めると言わない限り、彼女を辞めさせるには衆議院で内閣不信任決議を可決しなければならないということだ。」
「石水君は引き続き政権を支えるのね?」
「当たり前じゃないか。僕は官房長官なんだよ。」
「前にも一度聞いたかもしれないけど、どうしてそんなに石水君が総理のことを支えようとするのかも完全に理解してるわけじゃない。政治家としてはもう賞味期限が過ぎてるというのが世間の評価だし、私もそう思ってる。」
「それは確かにそうかもしれない。」
「総理が、石水君の弱みを何か握ってるんじゃないかっていう噂も聞くよ。だから石水君は総理に逆らえないんだって。」
「言いたければ言えばいい。僕は名誉棄損で訴えたりしないよ。」
「そう。……昔からそうだったけど、石水君は強いね。」
「……とにかく、僕は今、彼女の一番の部下だ。その僕が政権を支えないとなったら下剋上だよ。……確かに僕が今、傷んでいるのは事実だけど。」
「総理の病気より、みんなが心配してるのは石水君の方なのかもしれない。今の総理には選挙は仕切れないかもしれないし、そんなとき、頼みの綱の石水君が弱っていたら野党に付け入る隙を与えちゃうからね。」
「色々心配してくれてありがとう。でも今回は僕自身、どうなるか分からない。今でももう引退して柏崎に帰ろうかなとか思ってるんだから。」
「そんなの絶対に駄目だよ。総理の椅子がすぐそこまで来てるのに投げ出しちゃうの?」
「元々僕にはそんな野心はないよ。」
「それはよく聞くんだけど分からないんだよな~。ここまで全力で走ってきたのに。」
「運命に左右されただけさ。」
僕がそう言うと左隣の永田秘書官が黙って自分の腕時計を僕に見せ、さりげなくマキを入れ、聡美さんに目配せした。
「ありがとう。総理の健康は優れないけど、今すぐどうこうという問題じゃない。官房長官は引き続き現総理を支持する。ということでいいね?」
「ああ。」
僕がそう言うと永田秘書官は立ち上がり、僕にも起立を促したので僕も立った。聡美さんはソファに座ったままだ。
「忙しいところ時間取ってくれてありがとう。いつも助かってます。」
「僕の方こそ。マコちゃんのことよろしくね。じゃあ。」
永田秘書官に先導され、応接室を出て行こうとすると「石水君!」と聡美さんの呼び止める声がして僕は振り返った。
「ごめん、もう一つだけ。これは今回の代表取材とは全然関係ないことなんだけど、一つ聞いてもいいかな?」
聡美さんは相変わらずソファに座ったまま言った。僕は永田秘書官に一瞬目配せし、聡美さんに視線を戻した。
「……うん。」
「朝子さん、最後にああいう風に書き残したでしょ?」
「ああ。」
「それについてはどう思ってるのかな?」
チャコのメッセージについては、僕はまだ誰からも、マコちゃんからさえもコメントを求められていない。とても突っ込める問題ではないのだろう。
「……まだ受け止められないというのが正直なところかな。」
「そうだよね。でも、…これは私からの警告だと思って聞いてほしい。事故のことが一段落したら朝子さんのメッセージについてマスコミは色々聞いてくると思う。それでなくても十六歳で結婚した朝子さんはマスコミの注目の的だったんだから。」
「分かった。覚えておくよ。」
「マコちゃんも色んな人から色んな事を聞かれると思う。今は、……私が色々なこと聞かれてるけど。」
「はい。聡美さんもできるだけマコちゃんのことよろしくね。」
聡美さんは座ったまま僕に手を振り、僕は応接室を後にした。
「今、黒田記者がおっしゃっていましたが。」
応接室を出て官房長官執務室に向かう廊下を歩きながら永田秘書官が僕に声をかけた。
「はい?」
「奥様の最後のメッセージのことです。」
「はい。」
「私のところにももう何人も記者が取材に来ています。」
「はあ。それで永田さんはなんと?」
「『お答えできることは何もない』と答えています。それ以上、突っ込まれることはありません。」
「はい。」
「ただ、奥様のメッセージについて国民が大きな関心を持っているということは長官もご認識ください。」
「はい。」
僕もそれは理解しているつもりだ。しかし、昨日も今朝も、そのことについてはマコちゃんも僕も一切、触れていない。
「……ところでハルナちゃん、今朝、現地を引き上げたとの連絡をもらいました。」
雰囲気を変えようとしたのだろう、永田秘書官が話題を変えた。
「そうですか。東京には寄るのでしょうか?」
「ええ。長官にも報告をしたいと言っていましたが、何せ国会開会中で長官のスケジュールも厳しいでしょうから、今日、二人がお会いになるのは難しいと思います。私が報告を受けておきます。」
「よろしくお願いします。本当はねぎらってあげたいのですが。」
「伝えておきます。」
執務室の前に到着し、永田秘書官は執務室の扉を開けた。
この日も一日、事故への対応があり、僕の帰宅は夜の九時過ぎになった。結局、ハルナと面会することはできず、永田秘書官から無事、柏崎に帰っていったとの報告を受けただけだった。
昨日と同じように玄関を開けると娘のユメが「おかえりなさ~い」と元気よく僕を出迎え、僕にまとわりついた。
「ただいま。ユメ、帰ってたんだ。」
ユメと会うのも事故の前以来だ。
「うん。絵子ちゃんも一緒だよ。」
ユメがそういうと後ろからユメと瓜二つではないがよく似た小学生が現れ、「こんにちは」と少しはにかみながら僕にあいさつした。その後ろにマコちゃんがニコニコしながら現れた。
「お帰りなさい。お兄ちゃん、お客さんだよ。」
マコちゃんは僕をリビングルームにエスコートし、リビングに入るとソファには年齢不詳のご婦人が座っていた。歳は二十代と言われればそうも見えるし、三十代と言われればそうも見える。四十代と言われれば確実に若作りだろう。ご婦人は僕に気が付くと立ち上がり、一礼した。
「あっ、幸子さん。どうもご無沙汰いたしております。僕の方からご挨拶に伺わなければならなかったのに申し訳ありません。」
「いいえ、そんなことはありません。」
「ユメのことも預けっぱなしで、何もできなくて…」
「それは仕方ありませんよ。啓一さんにはもっともっと大切な、やらなければならないことがあるんですから。」
僕は幸子さんの対面に座り、マコちゃんが幸子さんの隣に座った。幸子さんは僕にとって義理の母にあたるが「お義母さん」というような呼び方はしたことがない。幸子さんと僕は九歳しか離れていないのだ。一方、チャコと僕は九歳も離れている。幸子さんは十八のときにチャコとマコちゃんを産んだ。今年で四十四になるはずだが童顔なこともあり、昔から実年齢よりもかなり若く見える。僕がこの母子に初めて会ったときはとても親子に見えるはずはなく、どう見ても歳のそう離れていない姉妹にしか見えなかった。
「やることなんてそんなに大したことではないのかもしれません。僕の代わりなんていくらでもいるでしょうから。」
僕がそう言うと「ねえ、お父さん」と言ってユメが叔母にあたる絵子ちゃんと一緒に僕の傍に来た。ユメと絵子ちゃんは瓜二つではないけれども、おそろいのトレーナーを着ていてとてもよく似ている。
「ユメちゃん、ごめんなさい。ユメちゃんのお父さんと絵子ちゃんのお母さん、ちょっと大切な話があるの。二階に行っててもらっていいかな?あたしの部屋でゲームやってていいから。」
マコちゃんがそう言うと二人は「やったー!」と言って手をつないでリビングルームを出て行った。幸子さんと僕は改めて向き合った。
「今日はちょっとお願いがあってまいりました。」
「お願いって、幸子さんが僕にですか?」
「ええ。ユメちゃんのことなんですけど、しばらく私に預からせてもらえないでしょうか?」
「いやっ、それは・・・」
僕はそこまで言ってマコちゃんを見た。マコちゃんはニッコリ笑ってうなずいた。
「そんなこと、もちろんありがたいですけどご迷惑なんじゃないですか?絵子ちゃんもまだ小さいでしょうし。」
「それはむしろ逆ですよ。あの二人、二人でいると一緒に遊んでくれるんで二人でいてくれた方がむしろ楽なんです。それにあの二人、もちろん一卵性双生児じゃないですからチャコとマコみたいに瓜二つじゃないですけど本当にそっくりでチャコとマコをもう一度育てているようで、私自身なんだか若返ったみたいでうれしいんです。」
「はあ。」
「チャコとマコを育てていたときは私も若すぎて、全然余裕なくて、とても子育てを楽しめるような状況じゃなかったですけど、今はとっても楽しいんです。」
幸子さんは十七歳の時に権蔵先生のスパルタ教育に耐えられなくなり、地元、柏崎でも有名な悪ガキと駆け落ちして東京に出てきて、一年後に女の子の双子、チャコとマコちゃんを産んだ。それから今、経営しているラーメン屋さんが軌道に乗るまでの詳しいいきさつを僕は知らないが、随分と苦労したことはなんとなく理解しているつもりである。
「そうしちゃいなよ。お兄ちゃんも今、とてもじゃないけどユメちゃんにかまってあげられる状況じゃないでしょ。それがいいと思う。お兄ちゃんにとっても、お母さんにとっても。ユメちゃんにとっても、絵子ちゃんにとっても。」
マコちゃんがニッコリ笑ってそう言った。
「啓一さん。」
「はい。」
僕の視線が再び幸子さんに戻った。
「こんなことではすまないと思っています。」
「はあ?」
「私、あなたの人生をメチャメチャにしてしまいました。」
「何をおっしゃるんですか?」
「私、裕ちゃんから聞いていたんです。裕ちゃんが亡くなる直前だったと思います。裕ちゃんから電話があって、お姉ちゃんの代わりに啓一さんが政治家にさせられるからお姉ちゃんには啓一さんがピンチになったときに助ける義務があるということを言われていたんです。でも、チャコが結婚してからも、マコのこととか、啓一さんにはお世話になるばっかりで、私には何もできなくて。本当に私は駄目な人間なんです。」
「そんなことはありませんよ。」
「ですから、今回のことはどうか私を頼りにして欲しいんです。」
もう一度視線をマコちゃんに向けた。マコちゃんはもう一度ニッコリ笑ってうなずいた。
「……分かりました。ユメのことは幸子さんにお願いします。どうぞよろしくお願い致します。ありがとうございます。そうしていただけると本当に助かります。僕には何もできませんが、何かありましたらなんでもおっしゃってください。秘書に対応させることになってしまうかもしれませんけど。」
僕はそう言って座ったまま頭を下げた。
「それは大丈夫。ユメちゃん、今日みたいにあたしが時々連れてくるからさ。じゃあ、交渉成立だね。今日はユメちゃん、ここに泊まるから今夜はお兄ちゃん、ユメちゃんと一緒に寝ればいいよ。ユメちゃんは明日の朝、学校が始まるまでにあたしが送っていくからさ。」
マコちゃんはそう言ってニッコリ笑った。