事故が起きてからというものの僕は傷心していた。とても官房長官としての職務を継続できるような状況ではなかった。それでも国会の会期末まで官房長官の職を投げ出さなかったのは自分で言うのもおこがましいが、厳格な責任感ゆえのことだったのかもしれない。航空機墜落というショッキングな事件のために一度だけ延長された通常国会が閉会した七月のその日、僕は経済界の重鎮達との晩餐会に臨席した後、少し早目の帰宅をした。事故は少しずつ過去のものとなってきていて、僕も出たくもない酒付きの会合に出席しなければならないようになっていた。門番役を担っている制服警察官の敬礼を受け、庭を少し歩き、玄関を開けると目の前にはチャコと同じ顔が立っていた。
「お帰りなさい。どうもお疲れ様でした。」
マコちゃんはチャコのような笑顔で僕を出迎えた。チャコがいなくなってからというものの娘のユメはチャコとマコちゃんのご実家に預けっぱなしにしている。二人のご実家は品川の戸越でラーメン屋さんをやっているのだが、結局、住民票はそのまま目黒から品川に転校し、今では叔母でチャコとマコちゃんの年の離れた妹である絵子ちゃんと一緒に品川区の小学校に越境通学している。ユメと絵子ちゃんは叔母と姪だが生年月日が同じで一緒にいると双子のようだ。
マコちゃんは引き続き、碑文谷の僕の家に留まり、チャコのような役回りを演じている。元々女優だし、本当にそれは演技なのかもしれない。チャコは死の直前に自分の後継者としてマコちゃんを指名していた。しかし、マコちゃんも僕もこれまでそのことには一切触れないできている。マコちゃんは妹のままだし、僕もそのことを自然に受け止めている。四月三十日の夜こそマコちゃんが隣のベッドに入ってきてビックリしたが、それは一日だけのことだった。それ以降はこれまで通り、寝室は別々で、本当の兄妹のように同じ屋根の下に二人で暮らしている。
僕はマコちゃんに先導されてダイニングに入り、テーブルの前にどかっと腰かけた。
「ご飯は済んでるんだよね?」
マコちゃんがキッチンの方に回りながら言った。コーヒーを入れるようだ。
「ああ。財界首脳との晩餐会があったからね。途中で抜け出してきたけど。」
「コーヒー飲むよね?」
「その前に、マコちゃん。代筆をお願いしたいんで筆とすずりと紙を持ってきてくれないかなあ。」
僕は椅子にだらしなく腰かけたままそう言った。本当にこれまでの疲れが吹き出してきていた。国会が閉会したので緊張感が緩んだのだ。マコちゃんも僕が疲れていることに気が付いていたと思う。
「はいは~い。筆ってことはキチンとした手紙を書くんだね。ちょっと待っててね。」
そう言って妹はダイニングから出て行き、お習字のセットを持って戻ってきた。そして新聞紙を敷き、すずりを置き、墨汁をたらし、下敷きを敷いて和紙を広げた。マコちゃんは昔から達筆で、書道の普及活動に借り出されているくらいだ。アイドル時代から自筆のサインもマジックでぐにゃぐにゃと書くことはなく、常に筆ペンを携帯していて楷書で書いていた。
「はい。で、なんて書くのかな?」
準備の整ったマコちゃんは右手で筆を持ち、構えた。
「『辞表』って書いて。」
「『辞表』ね。」
マコちゃんがスラスラと書き始める。
「私、白石啓一は一身上の都合により内閣官房長官を辞任させていただきます。」
「『私』は下の方に書くんだよね?」
「うん。それで明日の日付を書いて、僕の名前を書いて。」
「自署じゃなくていいの?」
「ああ。じゃあ名前の後ろに括弧して代って書いといてよ。代筆の代ね。」
もっとリアクションがあるかと思ったがマコちゃんは事務的にスイスイと書いていく。僕のように重く受け止めてはいないのかもしれない。
「お兄ちゃん、官房長官辞めるんだ。」
筆を運びながら妹はポツリといった。
「ああ。さすがに疲れたからね。まあ途中で投げ出すのも無責任だから国会が終わるまでは頑張ったけど、もう十分でしょ。少し休むことにするよ。」
「そっか。あたしもそれがいいと思う。で、どうするの?」
「どうするって?」
「ここのおうちで断食でもするの?」
「いや。もちろん柏崎に帰るよ。あした、辞表を出して、その足で柏崎に向かう。いいでしょ?もう国会も終わったんだし。東京にいたんじゃ休めないしね。」
「そっか、柏崎かあ。・・・・・・それがいいかもね。で、・・・・・・あたしはどうすればいいかな?」
「好きなようでいいよ。僕に付き合わせるわけにもいかないし、ここの家で留守番してくれててもいいよ。時々は秘書にメンテナンスしてもらうようにするから。」
「じゃあ、あたしも柏崎に行っていい?」
「マコちゃんも?」
「うん。ここのおうちで一人じゃ寂しいし。」
「実家に帰るでもいいんじゃないかなあ。それでなくてもユメがお世話になってるし。」
「お兄ちゃんの傍にいたいし。それに柏崎にはハルナちゃんもいるでしょ?」
そこまで言って、妹は筆を止めた。作品が完成したようだ。
「うん。我ながらよくできた。今までの最高傑作かもしれない。」
そう言うとマコちゃんはスマートフォンを取り出してパチリとカメラに収めた。
「これ、今度の書道展に出してもいいかなあ?」
「書道展って、僕の辞表だよ。」
「そうか。そうだよね。でも惜しいなあ。せっかくの傑作なのに。総理の手に渡っちゃうんだ。総理にはこの辞表、とっとくように言った方がいいよ。寝かせておくうちに価値が出るからって。」
そうニッコリ笑うマコちゃんは官房長官電撃辞任という、恐らく大ニュースをあまり気には留めていないようだった。
次の日の朝、目を覚ました僕は外が何やらがやがやと騒がしいことに気付いた。二階の寝室からカーテン越しに窓の外を見るとテレビ局の移動中継車のようなクルマが何台も止まっている。それだけではない。多くの人が集ってきていて、警備に機動隊員が動員されているようだ。その光景を見て僕は、チャコの妊娠が公表されたときのことを思い出した。あの時は愛すべきおしゃべりな妹が自身のブログで公表したのだ。
僕は急いで階段を下り、ダイニングに顔を出した。マコちゃんはキッチンで朝ご飯を作っていた。パジャマから部屋着に着替えていて、僕に気付くと「あっ、お兄ちゃん、おはよう!」とニッコリあいさつした。
「なんか外が騒がしいようだけどどうしたのかなあ」と僕が言った瞬間、ダイニングテーブルに綺麗に並べられている朝刊五紙の見出しが僕の目に飛び込んできた。見出しには比較的大きな活字で「白石官房長官、辞意を表明」と書いてあった。僕はびっくりした。僕が辞任を決意したのは昨日の夜で、そのことはまだ秘書官にも話していない。その事実を知っているのは目の前にいる愛すべき妹と僕の二人しかいないはずなのだ。僕はその新聞の一つを取りさらにビックリした。新聞には昨夜、この愛すべき妹が代筆した辞表の写真が掲載されていたのである。
僕は記事を読んだ。記事には「白石官房長官が辞意を表明していることを昨夜、官房長官の義理の妹で女優の白石真子さん(二六)が自身のブログで公表した」と書いてあった。僕はマコちゃんを見た。
「マコちゃん。昨日、ブログに僕のこと何か載せた?」
「うん。その新聞にも書いてあるよ。社会面にね。」
マコちゃんは屈託のない笑顔で言った。僕は新聞を裏返し、社会面を開いた。社会面にはマコちゃんの昨夜のブログが別掲で全文引用されていて、「辞表を書きました」というタイトルが付けられていた。
皆さん、こんばんは!お元気ですか?
今日、マコちゃんはお兄ちゃんの辞表を代筆しました。マコちゃん、自分で言うのもなんですけど達筆だからこういうことは私の仕事です。お兄ちゃんに貢献できる数少ない得意技かな。
お兄ちゃん、官房長官辞めるそうです。まあ、政治家になってからず~っと走りっぱなしだったからこの辺で一休みするのもいいのかなって思ってます。
柏崎に帰るそうですのでお邪魔虫、マコちゃんもついていこうと思っています。しばらく東京を離れることになりそうです。
ではでは。
メッセージの後ろには辞表の写真が添えられていた。新聞に掲載されていたのと同じ写真だ。
「別に口止めとかされてなかったと思うけど。」
マコちゃんはさらりと言った。僕はこの妹がとてつもなくおしゃべりであることを思い出した。
「マコちゃん、・・・・・・昨日、僕が寝てから電話とかあった?」
「うん。色々かかってきてたけど、お兄ちゃん疲れてたようだったし、今日はもう遅いんであしたにしてくださいって言っといた。用件は辞任のことだけだったみたいだし。別に急用じゃないよね?」
「まあそれはそうだけど。」
「ただ聡美ちゃんとは少し長話したけど。」
「聡美さんと?…なんの話したの?」
「『ホントに官房長官辞めるの?』って聞かれたんで、『辞めて柏崎に帰る』って答えといた。まあ、ブログの通りだよ。」
「それだけ?」
「それと聡美ちゃんはお兄ちゃんが官房長官辞めるの反対みたいで『思いとどまらせて』って言ってたな。あたしは無理だって答えといたけど。」
「聡美さんが?」
「案外、聡美ちゃんファーストレディーの座を狙ってんじゃないの?」
「ねえ、マコちゃん、僕は真面目なんだけど。」
「そんなに真面目にならなくていいじゃない。もう辞めちゃうんだし。もっと楽しいこと考えようよ。柏崎に行ったら何しようかな~とか。」
僕は深呼吸した。マコちゃんの言う通りだ。僕の官房長官も今日でおしまいになる。国会議員は選んでくれた選挙区の皆さんの気持ちもあるから次の選挙までは務め上げることになるかもしれない。「立つ鳥跡を濁さず」は金言だがここはもっと自分を大切にしていい場面かもしれない。
「分かった。マコちゃんの言う通りかもしれない。……それでマコちゃんは、今日はどうするの?」
「お兄ちゃんについてくよ。辞表出したらそのまま柏崎に行くんでしょ?昨日、そう言ってたよね?」
「ああ、そのつもりだけど。」
「あたしはもう、昨日の夜、柏崎行きの準備はしちゃったから。後は永田さんが来たら荷物送るの頼むだけで済むようにしてある。新幹線で行くんでしょ?」
「うん。」
「じゃあ、お兄ちゃんと行動を共にするよ。ハルナちゃんにはもうメール打って、今日の晩ご飯お願いしてある。早く朝ご飯食べて、お風呂入ってね。あたしはお兄ちゃんがお風呂入ってる間に後片付けして出かける準備するから。」
マコちゃんは遠足に行くような気分のようだ。だから僕も助かっているのかもしれない。
それからしばらくして永田秘書官がいつもの黒塗りで迎えに来て、マコちゃんは事務的に荷物の搬送を永田秘書官に頼み、マコちゃんと僕は並んでリアシートに座った。永田秘書官が助手席に座り、黒塗りは出発した。
「永田さん、申し訳ありません。こんなことになるとは思わなかったものですから。」
「辞任の意思を固めたのは昨日、ご帰宅されてからですか?」
「はい。昨日、家に帰ったらこれまでの疲れが一気に出てしまいまして……その勢いでマコちゃんに辞表を書いてもらいましたので。事前に永田さんの耳には入れなければと思ってはいたのですが、まさかマコちゃんがブログに載せるとは思わなかったものですから。」
「まあ真子さんらしいですね。昨日の今朝なら辞意の撤回もできたかもしれませんが、ここまで大々的に報道されてしまったら後には引けないかもしれませんね。」
確かに僕の辞意表明は勢いで、一晩眠れば少しは冷静になったのかもしれない。
「申し訳ありません。永田さんにもご迷惑をおかけします。」
「私の方なら大丈夫です。私は長官の忠実なしもべなのですから。ご指示には従わせていただきます。」
「ありがとうございます。それで今日の日程なのですが……。」
「長官の予定はすべてキャンセルできるよう今、調整中です。官邸に着いたら取り敢えず長官執務室でお待ちください。」
「辞表を提出したいのですが、総理に会えますでしょうか?」
「それはやめた方がいいと思います。総理に直接会うと慰留されるだけだと思いますので。私から総理大臣首席秘書官に渡した方がよろしいかと存じます。どちらにせよ辞表を出すことも辞表の中身も世間の知るところとなっているのですから。長官が直接、総理に渡す必然性はありません。形だけのことです。」
「おっしゃる通りです。ではこれをお願いします。」
僕は上着の内ポケットから昨日、マコちゃんに書いてもらった辞表を取り出し、助手席に座っている永田秘書官に渡した。永田秘書官は中身を確認することもなく「はい」とだけ言って鞄にしまった。永田氏はクールビズのため上着は着ていない。事務的というか、冷静だった。
「記者会見はなさいますね?」
「しないと駄目でしょうか?こっそり官邸から抜け出して柏崎に向かいたいのですが。」
「それはいけません。記者達の欲求不満は相当なものです。私でもかわしきれないでしょう。黒田記者とは何かお話をされましたか?」
「いいえ。マコちゃんは昨日の夜、少し話をしたと言っていました。その、…慰留してくれと。」
僕はそう言ってマコちゃんをチラッと見た。マコちゃんは少し微笑み、頷いた。
「黒田記者から既に会見の要請が来ています。ご面倒ですが、ここは長官、自らお話になるしかないと思います。」
「分かりました。頑張ってみます。」
マコちゃんがブログにアップしてから今まで、永田秘書官は各方面からの問い合わせに追われたのだろう。彼にしては疲れているようであり、僕の問いかけにも事務的に、淡々と対応していた。
黒塗りは首相官邸に滑り込み、僕はロープの向こうから僕に声をかける記者達を無視してマコちゃんと一緒に長官執務室に待機した。暇だったのでテレビをつけてみたが、どのチャンネルも僕の辞任劇を伝えていた。
時計が九時半を回る頃、「記者会見の準備ができた」と言って永田秘書官がやってきて、マコちゃんと僕は記者会見場に移動した。官房長官は午前と午後、一日二回の記者会見を行うのが仕事の一つだ。僕は墜落事故があってから二か月くらいは対策本部の指揮に追われていたので副長官が代理を務めていたが、ここ一か月は毎日僕が務めている。だからこの記者会見場は慣れているのだが、この日は記者以外に内閣官房の職員なども多数駆けつけていて立ち見も出ていた。
僕は演壇に立ち、マイクに向かった。番記者筆頭格の聡美さんが最前列の真ん中に座っている。いつもより緊張した面持ちだ。マコちゃんは会見場の袖に控えている。
「おはようございます。朝早くからお疲れ様です。既に報道されてしまいましたが、本日をもって官房長官を辞任させていただくことになりました。今まで皆さんにはご協力、ご支援いただきましてありがとうございました。これからも後任の官房長官、そして何より総理をよろしくお願い致します。」
僕はそう言って一礼し、その場を去ろうとしたが、袖に控えている事務方の副長官と目が合い、副長官がジェスチャーで記者に質問を振るよう、合図したので仕方なくもう一度マイクに向かった。
「質問があればどうぞ。」
僕はそう言って最前列の真ん中に座っている聡美さんを見た。質問は番記者筆頭格の聡美さんから始めるのが慣例となっている。
「新日本放送の黒田聡美です。長官。本当に辞めてしまわれるのですか?総理は、辞表は受理しないとおっしゃっているそうですが。」
公の席なので聡美さんも友達モードではない。
「総理がなんとおっしゃろうと辞めさせていただきます。もう疲れてしまいました。」
「長官のお気持ちは良く分かります。しかし、志半ばで投げ出してしまうのですか?柏崎にお帰りになるそうですね?柏崎にお帰りになったらもう東京には戻っていらっしゃらないのではないかという噂も耳にします。いつ頃戻っていらっしゃるご予定なのですか?」
聡美さんが続ける。
「今後のことは分かりません。確かにもう、東京には戻ってこないかもしれません。先のことなんか考えられませんよ。とにかく今は休みたい。ただそれだけです。」
「それでいいんですか。総理の椅子までもう一歩のところに来ているのに。」
「僕には元々そんな野心はありませんよ。」
「長官はそうかもしれません。しかし、長官の婚約者だった裕ちゃんは、……白石裕子さんは生前、お父様でいらっしゃる白石権蔵先生の果たせなかった夢を果たしたいと言っていました。私は本人から直接、それを聞いていますから間違いありません。志半ばでお亡くなりになった裕子さんはその夢を長官に託したのではなかったのですか?」
裕ちゃんの夢を受け継いだのだと言われれば、僕は裕ちゃんの遺産をすべて相続したのだから裕ちゃんの夢も相続しているはずであり、それを実現する義務があるのかもしれない。しかし、それを実現する力はもはや僕にはなかった。
「そうかもしれません。きっとそうでしょう。しかし、今の僕にはそれを実現させるだけの力もないんです。どうかしばらくそっとしておいてもらえないでしょうか?」
「また、戻ってきていただけますね?国民は長官に期待しているのです。それはご理解いただいていますね?」
「お約束はできません。僕は所詮、弱い人間なのです。」
「質問は以上です。どうもありがとうございました。」
聡美さんはそう言ってうつむいた。僕は会見場を見まわしたが、他の記者からの質問はなかった。みんな僕に気を使っているようだった。僕は演壇を離れ、袖に向かって歩いていくと
「石水君!」
聡美さんのそう叫ぶ声がして僕は立ち止まり振り返った。聡美さんが立ち上がっている。
「お疲れ様でした。早く帰ってきてね。待ってるから。」
聡美さんがそういうと記者会見場から自然発生的に拍手が沸き起こり、記者達が次々と立ち上がり、さらに拍手を送った。僕はしばらく立ちすくんだ。目頭が熱くなっていくのが分かる。僕はそんな聡美さんの視線を振り切り、記者会見場を後にした。
記者会見場の袖で僕の退任会見を見ていたマコちゃんと合流した僕は総理大臣執務室に向かった。総理に最後のあいさつをするためだ。しかし、そのはるか手前で二人の老紳士に通せんぼされた。一人は巨漢の白石権蔵元参議院議長、もう一人は斎藤孝明元内閣総理大臣で現在は二人とも党の最高顧問だ。
「総理は君には会わないよ。総理は忙しいんだ。」
巨漢の参議院議員が吐きすてるように言った。
「そうですか。それは残念です。最後に一言ごあいさつしようと思っていたのですが。」
「啓一君。君には申し訳ないが辞表は受理できない。君には引き続き官房長官の重責を担ってもらう。そもそもあれは真子が代筆したものじゃないか。あんな偽物の辞表はとても受け付けられないよ。」
僕は深呼吸した。
「申し訳ありませんがなんとしても辞めさせてもらいます。もう疲れてしまいました。」
「それは分かっている。国民も君には同情している。野党の連中だって君に同情しているんだ。みんな国家として今、君を失うわけにはいかない、そう思っているんだ。だから君には少し早めに長い夏休みを取るということにさせてもらうよ。柏崎には帰ってもらって構わない。十分、静養してくれ。」
「何をおっしゃっているんですか?官房長官不在で官邸が機能するわけないではないですか?」
「君が辞意を表明したということで、徹夜で対策を協議したよ。結局、私が参議院から、斉藤先生が衆議院から官房副長官として官邸入りすることになった。今、辞令交付も受けてきたところだ。」
「はあ?お二人とも党の最高顧問ではないですか?」
三権の長を務めた二人が官房副長官になるなどありえない人事だ。
「ですから長官、今日から二人は長官の部下になったのですよ。」
斉藤先生がポツリと言った。
「そうだ。だから啓一君、いや、長官。どうかこれを党としての最大の誠意だと思ってもらえないだろうか。私と斉藤先生、そして事務方の副長官の三人でなんとか持ちこたえてみるよ。三人揃えばなんとかというじゃないか。もっとも三人揃っても君一人の足元にも及ばないだろうが。」
「……」
「そして秋の臨時国会までには帰ってきてもらいたい。君が帰京するまで臨時国会の開会はできるかぎり引き伸ばすつもりだ。」
そこまで言われて確かにジンとくるものはあった。僕はマコちゃんを見た。マコちゃんはキョトンとしていた。チャコならこういうときには気の利いた一言を言ってくれ僕を助けてくれるはずなのだが。
「失礼します。」
僕はそれだけ言って二人に頭を下げ、マコちゃんを促し、回れ右をし、その場を去ろうとした。総理に会うのは諦めた。仮に会えたとしても慰留されるだけだろう。ここでこの二人の老政治家ともめても僕の柏崎帰郷の決心が揺らぐだけだ。
「啓一君!」
背中から巨漢の声がしてマコちゃんと僕は振り返った。
「啓一君。分かっているとは思うが君は内閣法九条指定大臣だ。そして総理は今、病気を抱えている。総理の身にもしものことがあったら君にこの国の舵取りをお願いしないといけない。それはどうか承知しておいてくれ。」
僕はそう言う妻の祖父に目礼するとそそくさとその場を離れ、官邸から外に出てマコちゃんと僕は車寄せで黒塗りが来るのを待った。傍にはSPが張り付いている。
「ねえ、さっきおじいちゃん内閣法なんちゃらって言ってたけどなんのこと?」
マコちゃんが無邪気に聞いた。
「内閣法九条指定大臣というのはいわゆる副総理のことさ。通常は総理の女房役の官房長官がやることになってて、今の内閣では僕が指定されてる。」
「総理、病気なんでしょ?もし入院とかしたらお兄ちゃんが総理の代わりをやるってこと?」
「それはないよ。僕は今、官房長官を辞めたんだ。辞表は絶対に受理してもらう。僕はもう疲れてしまった。身体も頭も心も休めないと。」
黒塗りを待っていると背後に人の気配がし、振り返ると永田秘書官が立っていた。永田秘書官は僕に一礼した。
「長官、少しよろしいでしょうか?」
「ああ、永田さん。突然、こんなことになってしまって永田さんには本当にご迷惑をおかけします。後のことどうぞよろしくお願い致します。」
僕も永田秘書官に一礼した。マコちゃんは黙って傍に立っているだけだ。
「実は斎藤副長官のことなんですが。」
「はい。」
「斎藤先生がどうして副長官を引き受けられたのか、その辺の事情を承知しておいていただいた方がよろしいかと思いまして。」
「はあ。何かあるんですか?」
「長官はどうお考えになりますか?総理大臣経験者が官房副長官をやるなどあり得ないことですが。」
「もちろんそれは分かりますが、斎藤先生は僕が初当選した時の総理大臣でいらっしゃった方ですし、そんな方が官邸にいて下さるなら僕としては心強い限りですが。」
「そうですか。長官がそうお考えならご指示には従いますが、斎藤先生は白石権蔵参議院議員よりも老獪な政治家だということをお忘れないようお願いします。」
「はあ?」
「つまり今回、副長官を引き受けたのは斎藤先生の政治戦略だということです。」
「何か政治的な意図があるんですか?」
永田秘書官は元々斎藤先生の私設秘書だった人だから斎藤先生のことについては僕よりも詳しい。
「斎藤先生ももう高齢でいらっしゃるので引退を考えています。後継者はもちろん恵里香お嬢様です。」
「はあ。」
斎藤恵里香は斎藤先生の孫の代で斎藤家の血筋を引く唯一の人物だ。しかし甘やかされ過ぎたために不良少女として育ち、中学生の頃には手に負えない状態になっていた。しかし色々な偶然が重なって僕の弟子、そしてハルナの妹弟子ということになってしまい、それからはチャコの通っていた高校に入学したことなどもあり、今は完全に更生している。チャコの母校にしばらく通ったもののやはり日本の学校は水が合わないようで、ハルナがアメリカに留学するときに一緒に付いていき、そのままアメリカに留まって、今でも現地の大学で勉強しているはずだ。政治経済学を勉強していると聞いているからいずれは祖父の仕事を継承する予定なのだろう。
「斎藤先生は恵里香お嬢様に選挙区を継承するための作戦を立てておいでです。総選挙は総理がこんな状況ですからいつあってもおかしくない状況ですが、恵里香お嬢様はまだ二十三歳。次の選挙には間に合いません。」
衆議院議員の被選挙権は二十五歳以上だ。
「ですから斎藤先生は、次の選挙にはご自身が立候補されます。次の選挙は高橋内閣の後継首班である白石長官が取り仕切ると斎藤先生は読んでいますし、実際にその通りになるでしょう。すると総選挙は圧勝。政権与党が安定多数を回復して長期政権になるはずです。」
「はあ。」
「すると、さらにその次の選挙のときには恵里香お嬢様も被選挙権を得ているはずですからその際に、議席を継承しようと企んでいらっしゃるのです。」
「そうですか。」
「しかし、斎藤先生はさらにとんでもないことを考えているようです。」
「はあ?…まだ何かあるんですか?」
「私の口からは大変に申し上げにくいのですが、長官の奥様亡き後、恵里香お嬢様をとお考えのようなのです。」
「はあ?」
「変なことを申し上げて申し訳ありません。しかし、大切なことと思い、お耳には入れさせていただきました。斎藤先生はご案内の通り、外交関係が得意でいらっしゃいますから斎藤先生のキャリアをお使いになるのは、それは賢明なことだとは存じますが、どうぞお気を付けください。」
永田秘書官がそう言うと運転手付きの黒塗りが到着し、マコちゃんと僕はリアシートに並んで座り、助手席にSPが乗った。僕が「上野駅」と言って黒塗りは出発した。
「ねえ、マコちゃん?」
黒塗りが走り出すと僕はマコちゃんに声をかけた。
「ん?」
「さっき永田さんが言ったことなんだけど。」
「ああ、恵里香ちゃんのことね。」
「ブログに載せたりしないでね。単なる噂話なんだから。」
「ち~、スクープだと思ってたのに先に釘差されちゃった。……分かったよ。足は引っ張らないようにしないとね。」
官房長官電撃辞任という状況もマコちゃんには額面通り飲み込めないようだった。