ファーストレディー   作:山田甲八

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五 夏風邪

 八月三十一日、世間では夏休みの最終日となるこの日の午後、僕は柏崎にある白石本宅のルーフバルコニーでビーチチェアに寝そべり、まどろんでいた。

「どうぞ。」

 女性の声がして横を見ると、メイド服を着たサラサラストレートがテーブルの上にレモンスカッシュのグラスを置いた。ストローが刺さっている。僕はそれを右手で取り、一すすりした。市販のものではない。レモンは絞りたて。炭酸水は天然のもので、厳しい残暑に合わせてよく冷やされている。ガムシロップも僕の好みに合うよう調整されているようだ。氷は入っていない。この暑さで溶けてしまうと味が変わってしまうという配慮だろう。僕は幸せを噛みしめるようにもう一すすりし、グラスをテーブルの上に置いた。隣のビーチチェアにはTシャツに短パン姿のもう一人の女性が寝そべっていて、同じようにレモンスカッシュをすすっている。週刊誌か何か、雑誌のようなものを読んでいるようだ。きっと女性週刊誌の類だろう。

「失礼します。」

 レモンスカッシュをテーブルに置いたハルナは一言そう言うと、階下に降りていった。八月に入ると娘のユメと、僕にとっては年の離れた義理の妹にあたる絵子ちゃんが柏崎にやってきてしばらく逗留した。新学期を迎え、今朝、永田秘書官が二人を東京に連れて帰ったばかりなのでここ白石本宅は少し寂しくなった。

 白石本宅は、巨漢の白石権蔵参議院議員が生まれ育った家だ。僕の元婚約者裕ちゃんも、チャコとマコちゃんのお母さんの幸子さんもここの家で生まれ育っている。しかし、参議院の大物となってしまった権蔵先生は東京での生活が忙しくなってしまい、住民登録はここにあるもののめったにお国入りはしなくなっている。結婚してチャコの戸籍に入った僕の本籍も住民登録もここだが、僕もめったにお国入りはしない。普段は地元秘書の皆さんによって管理されているこの家は使用人部屋もある大邸宅だ。

 僕は柏崎に帰ってきてからマコちゃんとここで生活している。日中はハルナが実家から通ってきて、身の回りのことをやってくれるので上げ膳据え膳の生活だ。地元事務所はここから徒歩数分のところにあるけれども、僕は事務所に顔を出すこともあまりなく、とにかくのんべんだらりとしている。マコちゃんにとっては少し退屈なようで、時々、ハルナと二人で出かけているようだ。

「ねえ、お兄ちゃん。」

 僕がまどろんでいるとレモンスカッシュをすすっている妹が声をかけた。

「ん?」

 僕は昼寝をしているようなしていないような気分で夢と現実を行き来している。

「前から話そうと思ってたことがあるんだけど、今、ちょっといいかな?」

 妹はビーチチェアに寝そべったままで言った。僕もビーチチェアに寝そべっていて、瞳はほとんど閉じているのでマコちゃんの姿は見えない。

「いいけど、今、まどろんでるんでちゃんとは聞こえてないかもしれないよ。」

「まあ、そっちの方がいいかもしれない。」

「で、何?」

「チャコちゃんの書置きのことだよ。」

「書置き?」

「ラストメッセージのこと。」

「ああ。」

 それを聞いた僕はハッとして少し目が覚めたが、睡魔も強く、再びまどろみに入った。チャコのメッセージについて、これまで二人は一切、触れないできた。なんとなく触れたくなかったというのが僕の本音だ。それに触れてしまうと何か面倒なことになるような、そんな気がしていた。チャコがいなくなってからもマコちゃんと僕はこれまでとまったく同じように兄と妹をやってきた。チャコのメッセージに触れてしまうとそれがガラガラと崩れてしまうのではないか、そんな気がして怖かったのだ。

「お兄ちゃんはあれ読んでどう思った?」

「どう思ったって……」

「言いにくいかな?」

「……そうだね。それには触れたくなかったというのが本音かな。いつかは向き合わなきゃいけないとは思っていたけど。」

「あたしもそう。お兄ちゃんとこんなにうまくやってるのに、なんかあれに触れた瞬間に二人はギクシャクしちゃうような、そんな気はしてた。」

「……それで、…何か言いたいことがあるの?」

「うん。実はね、お兄ちゃんはここのおうちでハルナちゃんと一緒に暮らしたらいいんじゃないかなって思ったの。」

「はあ?」

 僕は隣のビーチチェアを見た。妹と目が合った。

「いいじゃない、別に。それでなくてもハルナちゃん、お兄ちゃんの側室って言われてた時代もあったんだから。」

「だからそれはマコちゃんが勝手に言ったんでしょ?」

「ああ、そうだった。ごめんなさい。今のは撤回ね。それはともかく、悪い話じゃないと思うけど。二人ともバツイチなんだし。二人とも連れ添う人は必要だと思うよ。」

「ハルナはともかく、僕はバツイチとは言わないよ。」

「ハルナちゃんのことは嫌いじゃないでしょ?」

「まあ、いい子だとは思うけど。」

「でしょ?ユメちゃんもなついてるし、ハルナちゃんのことは嫌いじゃないと思うよ。」

「どうしたの、急に?」

 僕がそう言うとマコちゃんは「ほらっ」と言って読んでいた週刊誌の見開きを僕に見せた。そのページには「次期ファーストレディーが鈴木春菜だというこれだけの証拠!」というセンセーショナルな見出しが躍っていた。僕はため息をついた。

「もう、週刊誌のネタになってるよ。」

「まあ、ゴシップの種にならないとは思わなかったけど。それで、……何が書いてあるの?それ。」

「さすがはジャーナリストだね。嘘は一切、書いてないよ。肝心なところははぐらかしてるし。」

「例えば?」

「例えば、お兄ちゃんが初めての選挙の時にここの柏崎のおうちでハルナちゃんと一か月くらい一緒に暮らしたとかね。」

「……」

 確かにそれは事実だが、ハルナは一階の使用人部屋で寝起きをしていたし、僕と何かあったということもない。ただチャコがまだ未成年で選挙の手伝いができないので一番弟子のハルナが妻役を演じただけのことだ。

「そっか~。ハルナちゃんがライバルか~。」

 マコちゃんがポツリと言った。僕は黙った。やはり僕には触れたくない話題だったのだ。次の言葉を探していると、そのうち後ろから「マコちゃん!」と話題の張本人の声がした。

「ああ、ハルナちゃん。ちょうど良かった。今、ハルナちゃんのこと話してたとこなんだよ。」

 妹は永遠の女子高生のように屈託がない。

「私の話?それよりマコちゃんにお客さんだよ。」

 ハルナとマコちゃんは同じアイドルグループの同期生で派生ユニットを組んでいたこともあり、ハルナの方がマコちゃんより三年ほど年長だが固い友情で結ばれている。ハルナと僕は上下関係なのでハルナにとって、僕の妹であるマコちゃんは、本来、気を使わなければならない存在なのかもしれないが二人はざっくばらんに付き合っている。もっとも妹キャラのマコちゃんがお姉さんキャラのハルナに甘えるという構図は昔から変わっていない。柏崎に来てからも、時々ハルナと夜遅くまでおしゃべりしているようなこともある。マコちゃんも元気を取り戻しつつあり、その点では僕もハルナに感謝している。

「あたしにお客さん?珍しいなあ。誰だろう。」

 マコちゃんはそう言って手に持っていたグラスをテーブルに置き、ハルナに連れられて階下に降りていった。

 一人残された僕はマコちゃんがテーブルの上に残した週刊誌を手に取り、マコちゃんが僕に見せた記事を読んでみた。マコちゃんが指摘した通り、憶測の部分はあったものの、嘘は一切書いていなかった。記事を読み終えた僕は、しばらくマコちゃんの言ったことを考えた。チャコのラストメッセージ、その意味するところはチャコがいなくなった後、マコちゃんにチャコの役回りを果たして欲しいということでありそれは僕も理解している。あのメッセージは全国民の知るところとなっているので世間の理解もきっと同じだろう。週刊誌のネタにされるようになってきたことも承知している。しかし、保育園の卒園アルバムの将来の夢に「お姫様」と書き、ファーストレディーになることをずっと夢見てきたチャコと時代劇オタクの元スーパーアイドルマコちゃんは全然違う。

 結局、僕の辞表は受理されなかった。僕を慰留するためのパフォーマンスだったのかもしれないが、日本政府はわざわざ辞表を受理していないことを官報で発表するということまでやってのけたのだ。引き続き僕は官房長官の職に留まっている。僕は今、東京を離れ、ここ柏崎で休んでいるけれども、いずれ東京に引き戻されてしまうだろう。元々僕は断れない性格なのだ。そうするとマコちゃんも政治の世界に首を突っ込むことになってしまうかもしれない。マコちゃんにはそれは耐えられないだろう。

 それ以上にマコちゃんと僕は十年以上も兄と妹をやってきた。たとえそれがチャコの希望だったとしても、今更、その関係を変えろと言われて果たしてそんなことができるだろうか。

 僕はそんなことを考えながらいつの間にか眠ってしまった。

 

「お兄ちゃん。」

 誰かの声がして僕は午睡から目覚めた。妹が僕を揺り動かしている。

「あっ、おはよう。お客さん誰だったのかな?」

「まあ、下に来てよ。ぐっすり寝てたね。」

 妹はそう言って僕を手招きした。

「何時くらいだろう?」

「ちょうどお茶の時間だよ。美味しそうなケーキがあるよ。」

 僕は妹に先導されて階段を降り、リビングルームに入ると一人の女性がソファに座っていた。マスクをかけている。マスクの女性は僕に気が付くと座ったまま手を振った。

「石水君、お久し振り。元気にしてたかな?」

 僕はやや疲れ気味のリアクションを見せ、マコちゃんの方にチラッと視線を送ってから聡美さんの対面に座り、続いてマコちゃんが僕の隣に座った。

「元気というほどのことはないよ。まあ、休ませてはもらってるけど。どうしたの?マスクなんかして。風邪でも引いたの?」

「ちょっとひどいのをね。季節外れの風邪はキツイね。久し振りに四〇度の熱が出たよ。もう十分よくなったんだけど、人に移しちゃいけないと思ってマスクはしてるだけ。」

 聡美さんはそう言うとマスクを外した。

「何しに来たの?まあ聞くだけ野暮かな。取材に決まってるよね。」

 僕はかなり面倒臭そうに言った。実際、かなり機嫌が悪かった。しかし、聡美さんはそんな僕にお構いなしだった。あるいは僕の本音を聞き出そうとあえて強気に出ていたのかもしれない。

「残念ながら取材ではないよ。土曜日だから仕事はお休みだよ。親友のマコちゃんのお見舞いに来て、せっかくだからお兄さんにもあいさつしようと思っただけ。」

「ポケットマネーなんだ?」

「そう。」

「でも、あいさつだけじゃ済まないんでしょ?」

「石水君、つれないね。」

「ごめんね。なんか、人に会うのも面倒くさいんだ。まあそれは理解してよ。今まで、ずっと走ってきたんだからさ。」

「ここでの生活はどうかな?」

「快適だよ。毎日同じ時間に起きて、同じものを食べて、同じ時間に寝る。こんな生活、何年振りだろう。」

「そっか。それは良かった。お休みできているようで。それで、本題に入るんだけど、……今日で世間の夏休みも終わりだけど、東京にはいつ戻ってくるの?」

「やっぱり取材なんだ?」

「勘弁してね。石水君が学生の頃から付き合いのある私は自分の放送局だけの立場ではいられないの。」

「公共のものってわけか。じゃあ白石副長官にも随分と気を使ってもらってるんだね。」

「お蔭さまで私だけ色々と特別扱いだよ。ここに来るにも、餞別とかいってたんまりお金を積まれたよ。もちろん断ったけどね。だから、……石水君には申し訳ないけど手ぶらでは帰れない。」

「まあ、まだ国会議員は辞めているわけじゃないから、臨時国会までには一度、顔を出さなきゃいけないかなとは思っているけど。」

「そっか。……それ聞いて少し安心した。もし、もう戻らないって言われたらどうしようかと思ってたところだったから。」

「もう戻らないって言ったらどうするつもりだったの?」

「白石副長官からは『君だったら説得できるはずだ』って言われてる。」

「聡美さんは僕に何を期待してるの?聡美さんは関係ないと思うけど。」

「何って言われると厳しいけど、色々な要素が複雑に絡み合ってのことだよ。別に私だけじゃないと思うよ。古い付き合いの人が総理大臣になればうれしいもんだよ。」

「だから僕にはそんな野心はないんだってば。何度言えば分かるのかなあ?」

「何度言っても分からないよ。私も、国民も、石水君には期待してるんだからさ。」

「臨時国会はいつ頃の予定なの?」

「さあ。十月の中頃になりそうかな。まあ、石水君次第ってこともあるけど。」

「僕がたとえ東京に戻らなくても臨時国会はやらざるを得ないでしょ?」

「それはそうだけど。」

「さっき、権蔵先生から説得を依頼されたみたいなことを言ってたけど、何か急ぐ事情でもあるの?」

「知らないのかなあ?総理の調子が良くないみたいなの。」

「そうなんだ。」

「どうなんだろう。総理とは連絡を取ってるのかな?」

「いや、ここに来てから総理からはなんの連絡もないし、僕の方からも取ってない。権蔵先生とだって、直接は話してないんだから。永田町の情報は全部永田さん経由だよ。その辺は権蔵先生も政治家だね。僕を刺激しないようにしているんだと思う。」

「そっか。総理のこと、石水君が総理の容態について一番詳しいと思ってたけど。」

「残念ながら権蔵先生からも総理の健康についての情報は寄せられないね。まあ、永田さんのところには色々な情報が集まるんだろうけど、世間も夏休みだし、そんなに政局が動くというほどでもないんじゃないのかな。」

「これは憶測だけど、総理の健康についての情報は石水君よりも白石副長官の方が詳しいのかもね。だからわざわざ私をメッセンジャーとして送り込んだのかも。」

「今日は日帰りなの?なんならこの家に泊っていってもいいけど。マコちゃんともご無沙汰だろうし。」

 僕はそう言って隣に座っているマコちゃんを見た。

「そりゃいいや。聡美ちゃん、そうしなよ。そうすればお兄ちゃんからもっと特ダネを引き出せるかもよ。まあ、お酒でも飲ませちゃえばさ。」

 マコちゃんは相変わらずノー天気だ。

「残念ながら僕は酔っぱらって饒舌になるタイプじゃないんだな。お酒飲むとすぐに眠くなっちゃうのさ。」

 僕はそう言って視線を聡美さんに戻した。

「昔はもっとお酒飲んだよね?石水君が学生の頃、石水君のアパートで私のお兄ちゃんと裕ちゃんと四人で忘年会やったことがあったじゃない?」

「ああ、そんなこともあったね。」

「あの時、随分、飲んでた記憶があるんだけど。だって、缶ビール一ケースが一夜にしてなくなったんだよ。」

「まあ、僕も飲むには飲んだけど、ほとんどは博士と裕ちゃんだよ。それに缶ビール一ケースは大げさだよ。博士がクーラーボックスに入れて運べるくらいの量だよ。」

 聡美さんのお兄さん、黒田潔氏はノーベル生理学医学賞受賞の医学博士で、学生の頃から僕は彼のことを「博士」と呼ぶ。

「そうだっけ?」

「それに、裕ちゃんと一緒にいたときは全然お酒飲んでないし。いつ、何時、裕ちゃんをクルマに乗せて救急搬送しなきゃいけないか分からない生活だったからね。」

「そう。まあいいや。じゃあお言葉に甘えて今晩はここにお泊りさせていただきますね。」

「それがいいよ。案外、聡美ちゃん、お兄ちゃんのこと本気で口説きに来たんだったりして。」

「口説く?」

 マコちゃんの言葉を理解できなかった聡美さんが聞き返した。

「そう。さっき、週刊誌読んでたんだけど、実は聡美ちゃん、ファーストレディーの座を狙ってるんじゃないの?」

「だってそれは……」

 そこまで言って聡美さんは一瞬、僕に目配せし

「マコちゃんじゃないの?……ごめんなさい。今、こんなこと言うのは…不謹慎だとは思うんだけど。」

「残念ながらハルナちゃんが一歩リードしてるみたいだよ。惜しいなあ。聡美ちゃんならミス東大の美人アナだし、ファーストレディーにはもってこいなんだけどなあ。お嫁に行きそびれてるし、ちょうどいいんじゃないの?」

 マコちゃんがそう言ったので、聡美さんはびっくりした顔で僕を見た。裕ちゃんの同級生である聡美さんは僕より二年年長のはずだから今年、三十七になるはずだがまだ、独身を守っている。仕事一筋で男を寄せ付けてこなかったのだろう。

 僕はその後の会話には加わらず、加わっても面倒なことになるだけなので、そそくさと席を立ち、聡美さんには「じゃあ、ごゆっくり」と言って元のルーフバルコニーに引き返した。結局、聡美さんは白石本宅に一泊し、夜の酒席にも僕は少し付き合ったが、基本的には親友のマコちゃんが対応し、翌朝一番の特急で東京へと帰っていった。

 

 事件が起きたのはその日の夕方だった。僕はここ、柏崎に帰ってきてから、とにかく今までできなかったことをやろうと思って、長編の小説を読むようにしている。外には出かけないので書斎やリビングやルーフバルコニーなど家の中で場所を変えながら何時間も読書に費やしている。体調不良を覚えたのは夕方の五時頃だった。なんとなく熱っぽかったのでマコちゃんに「熱っぽいなあ」と言うと「じゃあはかってみれば?」と言うので本当に何気なく身体に体温計を挟むと体温計は四〇度を表示した。それが聡美さんの置き土産であることに気付くにはそれほど時間はかからなかった。

 人間とは不思議なものでそれまで比較的なんでもなかったのに、四〇度の体温計を見た瞬間にガラガラと崩れ去ってしまうものがある。途端に身体全体にけだるさを覚え、食欲も一気になくなってしまったが、何か薬を飲んだ方がいいと思い、薬を飲むには空きっ腹ではダメだろうとも判断し、梨を少し食べて薬を飲み、歯も磨かずにベッドに横になると本当に身体が熱いのが分かった。子供の頃、風邪をひいて学校を休み家で寝ていたような、何か懐かしい気持ちがした。

 それからはとにかく意識が遠くなった。傍にはマコちゃんがいるようなのだが、それが本当にマコちゃんなのかどうかだんだん分からなくなってきて、裕ちゃんやチャコの幻影も現れ始めている。意識が夢とうつつの間を行ったり来たりし、気を失いそうだったが、水分を取ったばかりだというのに身体は激しい渇きを覚え、苦しくて意識を失うこともできない。水を求めていたが、身体が辛く、動くこともできなかった。

 それからしばらくすると、高熱で随分と鈍っている嗅覚がパヒュームの香りを捉えたかと思うと何か柔らかいものが僕の唇にあたり、体内に水分が取り込まれた。のどの渇きは一気に潤い、落ち着きを取り戻した僕の身体はすぐに意識を失い、そのまま深い眠りについたようだった。

 

 僕は目を覚ました。随分と眠っていたような気がする。今が何時なのか、何日なのかさえ、分からない。日は差していないようだから夜の様ではある。僕はベッドから起き上がった。横になっていた時間が長かったからだろう。かなりフラフラする。しかし、熱は下がっているようでだるさはなかった。窓辺に寄り、カーテンを開けると外は真っ暗だった。ふと置時計に目をやると針は十一時頃を差していたのできっと午後十一時なのだろう。あれからどれくらい時間が経過したのか分からないがそれは僕にはどうでもいい情報だ。のどの渇きを覚えたのでそのまま階下に降りていった。

 ダイニングに光が漏れていてマコちゃんがまだ起きていることがそれとなく分かった。ダイニングの扉を開けると隣のリビングにマコちゃんがいて何か作業をしているようだった。マコちゃんはすぐに僕に気が付き、ニッコリ微笑んだ。

「あっお兄ちゃん。少しは良くなったかな?」

「ああ。熱は下がったようだよ。今日は何月何日だろう?」

「まだ九月三日だよ。もうすぐで四日になるけどね。」

「丸二日、ずっと寝てたんだ?」

「随分、お熱が高くで辛そうだったよ。でも良かった。熱、下がったようで。」

 マコちゃんはスーツケースを取り出し、何かを詰めていた。旅支度をしているようだ。

「どっか行くの?」

「うん。あたし、・・・・・・東京に帰ることにする。」

「えっ?・・・・・・どうしたの、急に。」

「なんかそれが一番いいんじゃないかなと思って。お兄ちゃんにとっても、あたしにとっても。あたし、お兄ちゃんと一緒にいても何もできない。お兄ちゃんに甘えるばっかりで。」

「なんかあったの?」

「覚えてないの?」

「なんのこと?」

「熱にうなされてたから覚えてないのかな。お兄ちゃん、高熱で、苦しそうで、『水・・・水・・・』って言ってたの。あたし、水を飲ませようとしたんだけどできなくて、・・・・・・そしたらハルナちゃん、口移しでお兄ちゃんに飲ませたんだよ。」

「・・・・・・」

 そうだったのだ。そう言われれば誰かのくちびるが触れたような記憶はある。

「かっこよかった~。あたしにはできないと思っちゃった。」

「マコちゃん・・・・・・」

「それ見てあたし、分かったの。やっぱりお兄ちゃんはハルナちゃんと一緒がいいんじゃないかなって。だからお兄ちゃんはもう東京には帰らなくていいと思う。ハルナちゃんと一緒に、ここで暮らせばいいよ。落ち着いたらユメちゃんも呼べばいいし。ハルナちゃんならユメちゃんのいいお母さんになれるよ。」

「マコちゃんはどうするの?」

「あたしは東京に帰る。そして一人で暮らしてみる。」

「そんなの無理だよ。」

「そうだね。あたしには一人暮らしなんて無理だとは思う。これまでずっとお兄ちゃんに頼りっきりで、甘えてばかりだったもんね。でも乗り越えないと。そうしないとあたしは永遠に大人にはなれない。あたしはお兄ちゃんに出会った高校一年生の時からちっとも成長していない。」

「甘えてもらっていいんだよ。」

「ダメだよ。あたしだっていつかは大人になりたいの。だからこれがいいの。あたしは東京に帰ります。時々はこっちに遊びに来るからね。・・・・・・あたしなら大丈夫だよ。前にも言ったけど、あたしはお兄ちゃんの妹だっていうだけで十分幸せなんだから。」

「……」

 僕は次の言葉を見つけることができなかった。自分の気持ちの整理もできていない。ただ、一つ僕が自分の気持ちに正直になれるものがあるとすれば、今、マコちゃんに離れていってほしくないということだ。

 僕が沈黙したままソファに腰かけるとマコちゃんは旅支度を再開させた。淡々とした表情だが、どこか悲しげにも見える。そんなマコちゃんを見つめていると不意に電話が鳴った。マコちゃんと僕は目を合わせた。

「誰だろう。こんな時間に。」

 マコちゃんはそう言うと電話口に向かい、受話器を取った。

「はい、白石です。・・・・・・あっおじいちゃん。・・・・・・うん、起きてるけど、・・・ちょっと待ってね。お兄ちゃん、おじいちゃんから。」

 マコちゃんはそう言って受話器を僕に向けた。

「あっ、はい。」

 そう言って僕は受話器を握った。

「もしもし。」

「ああ、啓一君か。私だ。」

 電話の主は、今は官房副長官になっている巨漢の白石権蔵参議院議員だった。

「あっ、どうもご無沙汰いたしております。」

「夜分すまないが、今、大丈夫かな?」

「はい。起きておりましたので。」

「緊急事態だ。……総理が倒れた。」

「……はい。」

 僕は聞き返しもせず、冷静に受け止めた。冷静に受け止められたのはそれが予想の範囲内だったからなのかもしれない。

「理解してもらいたいのだが、君には総理大臣臨時代理としてこの国のかじ取りをお願いしなければならない。」

「どうすればいいのですか?」

「今、陸上自衛隊のヘリがそっちに向かっている。陸上競技場に着陸する予定だ。真夜中だから近所迷惑には違いないが、事情が事情だから住民も理解してくれるだろう。既に護衛の警官も向かわせていて、周辺の警備態勢が敷かれ始めている頃だと思う。」

「そのヘリで東京に向かうのですね?」

「着の身着のままでいい。寝巻のままでもいいよ。後の準備は全部こっちでしておくから。」

「分かりました。ベストを尽くします。」

「ありがとう。官邸到着は午前二時か三時頃になるかと思う。そしたらすぐに臨時閣議を開いて白石臨時代理内閣の立ち上げとなる。」

「総理はどんなご様子なんですか?」

「意識不明の重態だよ。予断を許さない状況だ。」

「臨時閣議の前に総理のご様子を拝見したいのですが。」

「……分かった。手配してみよう。ちょうど眠い時間になると思うけど、ヘリの中で少しでも眠ってくれ。」

「それなら大丈夫です。実は少し体調を崩しまして今の今まで眠っていたところですから。」

「体調崩したって、……大丈夫か?」

「少し風邪をひいただけです。黒田記者に移されたようです。今はもう大丈夫です。」

「ああ。なんか風邪をひいているようだったな。じゃあ、よろしく頼むよ。……すまないが真子と代わってもらえるかな?」

「はい。」

 僕は隣で聞き耳を立てていたマコちゃんに受話器を差し出し、マコちゃんが電話口に出た。

「はいは~い。……うん、今、一緒に聞いてたよ。ヘリコプターに乗るんでしょ?うん・・・・・・、うん・・・・・・、はい。難しいけどやってみるね。まあ、チャコちゃんの代わりは務まらないんだろうけど。・・・・・・は~い。じゃあ、また後でね。」

 マコちゃんはそのまま受話器を置いた。

「なんだって?」

「あたしも東京に帰って欲しいんだって。チャコちゃんの代わりを務めてほしいんだってさ。まあちょうど東京に帰る仕度をしてたところで良かったね。あたしは着替えて行くけど、お兄ちゃんはパジャマのままかな?」

「いや、僕も着替えるよ。まだ時間あるでしょ?」

「案外、パジャマのままの方がいいかもよ。パジャマのまま官邸に駆けつける白石官房長官。国民は結構ググッっと来るかも。」

 総理が倒れたという緊急事態においてもマコちゃんは相変わらずノー天気だ。僕はこの危機をいかにして怪我の功名に持っていくかということを考えていた。自分にとっても、国家にとっても、そして、マコちゃんにとっても。

 

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