ファーストレディー   作:山田甲八

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六 臨時代理内閣

 時間はまだあるだろうと僕は高を括っていた。とにかく、まずしなければならないことは情報収集と思い、マコちゃんに僕が倒れていた間の新聞を持ってきてもらい、僕は冷蔵庫の中にあった缶コーヒーを飲みながら、五紙を読んだ。各紙の首相動静に注目したものの、総理はいつもと変わらない日程をこなしていた。本当に倒れたのは突然だったのだろう。

 しばらく新聞を読んでいると玄関のチャイムが鳴り、モニターを見ると制服を着た柏崎警察署長が写っていた。結局、僕は着替えることができないまま、パジャマにサンダル姿で新聞を脇に抱えたまま警察が用意した黒塗りのクルマに乗り込むことになった。九月には入ったもののまだまだ熱帯夜なので寒いということはない。むしろ暑いくらいだ。マコちゃんはTシャツに短パン姿で僕に付き添った。スーツケースは制服の警察官に運んでもらっていた。

 ヘリコプターの中でも新聞を読み、四十分くらいで官邸ヘリポートに到着し、永田秘書官に迎えられた。ロープの向こうにはマスコミのカメラがパジャマにサンダル姿の僕を狙っていて、盛んにフラッシュが焚かれていた。僕はそのまま自分の官房長官執務室へと誘導された。執務室では留守を預かっていた巨漢の内閣官房副長官が僕の着替えを準備して待っていた。

「どうも遅くなりました。」

 巨漢と会うのも二か月ぶりだ。

「やあ、夜遅くにすまなかったね。…まずは着替えてくれ。それで体調はどうかな?」

 他には永田秘書官とマコちゃんしかいないので巨漢もフランクだ。もっと再会を感動するかと思ったが淡々としている。その辺はしたたかなのだろう。僕は机の脇に吊るしてあるスーツに着替え始めた。

「まずまずです。それでこれからどうなりますか?」

「今、臨時閣議を招集しているところなんだが、時間が時間なだけにまだ来てないやつとか酔いを醒ましてるやつとかいるよ。まあ、内容が内容だから持ち回り閣議というわけにもいかないしな。」

「先に、総理のお見舞いに行きたいのですがよろしいでしょうか?」

「行っても無駄だぞ。意識不明だ。」

「本当に意識不明だということを確認するだけでも意味があると思いますが。」

「なるほど、記者に突っ込まれるとやっかいではあるな。さすがだな。分かった。まあ閣僚集合まで時間はあるし、ちょうどいいかもしれない。」

 そう言うと巨漢は永田秘書官を指さした。永田氏は一礼すると執務室を出て行った。

「それで真子はどうする?」

 巨漢がマコちゃんに振った。

「あたしはさすがに眠いんでおうちに帰って寝るよ。まあ病院までは付き合うけど。あたしも総理のお見舞いをしたいしね。」

 マコちゃんが眠そうに言った。そうするうちに僕の着替えが完了し、永田秘書官が戻ってきてクルマの手配ができたことを告げ、マコちゃんと僕はクルマで飯田橋のセントラル病院に向かった。

 

「留守中、色々とありがとうございました。」

 僕はリアシートから助手席に座った永田秘書官に声をかけた。

「私の方こそ戻ってきてくださいましてありがとうございました。皆さん、長官のお帰りを、本当に首を長くして待っておりました。」

「留守中はどんな感じでした?」

「白石副長官がここぞとばかりに仕切っておいででした。長官にお帰りいただいて閣僚は全員安堵しているのではないでしょうか。」

「そうですか。何はともあれ留守中ありがとうございました。」

 深夜でかつ、パトカーの先導付きということもあり、クルマでの移動も早い。あっという間にセントラル病院の正面玄関車寄せに到着した。ここでも盤石の警備態勢が敷かれており、十数メートル先にロープが張られ、その向こうからいくつものカメラが僕の方を向いて盛んにフラッシュを光らせていた。そして女性の総理大臣秘書官に出迎えられ、院内の集中治療室に案内された。

 マコちゃんと僕はガラス越しに総理大臣の姿を見た。しかし、ヘアーキャップをかぶせられ、呼吸器を装着しているのでそれが本当に高橋総理自身なのかどうかをこの目で確かめたとは言えなかった。

「本当に突然だったんです。公邸にお帰りなって間もなくだったのですが、突然、意識を失われました。」

 女性秘書官がポツリと言った。

「もうこのまま意識を回復されないかもしれません。それで、…総理からもしものことがあったときにはこれを長官に渡すように言われています。秘書経由でなく、直接、長官に手渡すようにと。」

 女性秘書官はそう言うと手に持った何かを僕に差し出し、僕はそれを受け取った。封筒で表書きに白石啓一官房長官殿と書いてある。墨で書かれていてかなり達筆だ。封筒の裏を見ると「内閣総理大臣 高橋綾乃」と自署されていて、封緘はされていなかった。それだけ、この女性秘書が信頼されているということなのだろう。封筒の中から一枚の紙を取り出し、その丁寧に折りたたまれた紙を広げると自筆の署名の隣には公証人のサインもあった。マコちゃんが横から覗きこむ。

 

前略 この手紙は私の最後のメッセージになるかもしれません。白石官房長官には本当に感謝申し上げます。長官にご支援いただかなければとてもここまでは来られなかったと思います。残念ながら私は志半ばで政治の世界から永遠に消え去ってしまうようです。しかし、多くの志を持った若者が、総理大臣はおろか国会議員にすらなれないことを思うと、私は幸せだったのだろうと思います。

 長官には二点ほどお願いがあります。まず、もしまだ私が意識不明に陥っているだけなのであれば、どうか内閣総辞職は思いとどまっていただきたいのです。長官の祖父、白石副長官は総理大臣の交代を熱望されていらっしゃるようです。当然だと思います。しかし、私は命のある限り政治にこの身を捧げたいのです。

 そしてもう一点、もし今この瞬間に、もう既に私がこの世にいないようであれば、どうか長官に私の志を引き継いでいただきたいのです。私のライフワークは男女共同参画社会の実現でした。私がそのようなリベラルな思想を根幹としながらもなお政権与党に身を寄せていたのはどんなに野党で騒いでみても何も変わらないと思ったからです。本当に世の中を変えたいと思うのであれば、革命でも起こさない限り政権を握らなければならない、そう思ってこれまで四十年に渡る政治人生を歩んできました。しかしまだ志半ばです。この国はまだ男女分業を志向しています。例えば、家庭や地域での役割を担っている人、そういう人は社会学的な意味での女性と表現できるかもしれませんが、そのような人を例えば大臣などに登用して初めて、男女共同参画社会と胸を張れるのではないでしょうか。私はそのような国造りをしたかったのです。

 私の後継はあなたです。異議を述べる人は誰もいないでしょう。どうか私の志を受け継いでくださいますようよろしくお願い致します。長官自身、とてもお辛い状況の中、色々と良くしてくださいましてありがとうございました。白石政権が国民の圧倒的な支持を受け、長期安定政権となりますことを心よりお祈り申し上げます。

                                     草々

 

「確かに拝読しました。」

 僕は静かにそう言うと手に持った紙を封筒にしまった。

「では、失礼します。総理のことよろしくお願いします。」

 そう言って女性秘書官に一礼すると、マコちゃんもワンテンポ遅れてペコリとお辞儀をした。マコちゃんと僕は部屋を出て、夜の暗く長い廊下を二人で歩いた。マコちゃんは眠いのか、いつもの饒舌さはない。

「マコちゃん?」

「ん?」

 マコちゃんは眠そうに生返事する。

「お願いがあるんだけど。これからおうちに帰るよね?」

「うん。」

「この手紙を書斎の金庫の中に入れておいてほしいんだ。」

「あいよ~。金庫に入れとけばいいんだね。」

 マコちゃんは眠そうに僕から手紙を受け取った。

「それと、この手紙のことは内緒だからね。」

「あっ、ハイハイ。ブログに載せたりするなってことだね。なんか最近、お兄ちゃんもガードが固くなってきたね。でも大丈夫だよ。あたしこれでも口固い方だから。なんてったって、お兄ちゃんとハルナちゃんのチューのこともまだ誰にも話してないんだからね。」

 病院の玄関まで来ると、車寄せに黒塗りが二台用意されていて、眠そうなマコちゃんはそのうちの一台に乗り、碑文谷の自宅へと帰っていった。僕は永田秘書官ともう一台に乗り込み、首相官邸に引き返した。

 

 官邸車寄せで黒塗りを降りると、永田秘書官に誘導され、僕は閣議室隣の閣僚応接室の真ん中の席に案内された。いつもはその隣の席に座っていたのだが今日は真ん中の席が空いている。全閣僚が起立して僕を迎えた。報道陣がその前を取り囲み、盛んにフラッシュが焚かれる。僕が国家行政組織の頂点に座る瞬間だった。

 真ん中のソファに座るとさらにフラッシュが焚かれた。僕は一言も発することなく、各大臣も黙っている。四十秒ほどそのような状況が続き、閣議室の扉の前に立っている巨漢の内閣官房副長官が「それではお願いします」と言ったので僕を先頭にぞろぞろと閣議室の中に入り、各人、着席した。

「では、長官、ただ今から臨時閣議を開催致しますが、私の仕切りということでいいですね?」

 閣僚が着席すると立ったままの副長官が僕の方を見て言った。通常、閣議は、内閣総理大臣が議長であり、官房長官が進行役を務める。進行役の官房長官の僕が総理大臣臨時代理となってしまったので進行役は閣議出席者の中で僕以外の誰かが努めなければならない。白石家の人は裕ちゃんやチャコや、マコちゃんもそうなのだが、棚から牡丹餅を確実にゲットするとてつもない瞬発力を持っている。老獪な政治家はここがチャンスとしゃしゃり出てきたのだろう。僕の手前、他の閣僚は手を上げることを遠慮しているようだ。

「あっ、…はい。よろしくお願い致します。」

 僕はぎこちなくいった。そもそも僕は政治が苦手であり、このベテランにかなうわけがない。

「皆さん、もうご承知のことと思いますが、総理が倒れ、セントラル病院に救急搬送されました。意識不明の重態です。そこでここは、憲法の解釈に一部異論もあるようですが、内閣総理大臣が欠けたときにあたると解釈し、内閣は総辞職するということになります。早速、後継首班指名の準備に入りたいということで本日、この夜の遅い時間であるにも関わらず臨時閣議を招集致しました。では内閣法九条指定大臣である白石官房長官。ただ今からは白石内閣総理大臣臨時代理ということになりますがどうぞよろしくお願い致します。」

 巨漢はそう言うと議長席に座った僕に手の平を向けた。

「待ってください。総理はまだご健在なわけですし、総理大臣が欠けたことにはあたらないと思いますが。」

「しかし、総理大臣が意識不明の重態に陥った時には内閣は総辞職するのが先例です。」

 巨漢が相変わらず丁寧に僕に説明した。

「先例といっても一回だけではないですか。確かに先例には違いありませんが慣例とまでは言えないと思います。」

「長官、いや白石総理大臣臨時代理。どうされたいとおっしゃるのですか?」

 いつもは不遜な巨漢の態度がいつもと違うのでペースを狂わせられる。あるいはそういう作戦なのかもしれない。

「僕は内閣法九条で指定された大臣なわけですから、僕自身が臨時代理を務めるのはやむを得ないと思いますし、それを逃げるつもりはありません。しかし、総理はいつ意識を回復するとも限らないわけですから内閣総辞職を認めるわけにはいきません。僕は引き続き高橋内閣の官房長官としての職務を全うさせていただきます。」

 他の閣僚は声を殺して二人の応酬を見ている。権蔵先生は立ったままだ。

「再びこの永田町の地に帰ってきてくださったことは閣僚一同感謝しています。しかし総理大臣不在では緊急事態への対処も難しいと思います。」

「とにかく僕は反対です。もちろん閣議は全会一致しなければ決定はできないでしょうから、もし、どうしても総辞職するというのであれば僕をクビにしてください。しかし、僕を更迭する権限を持っている人は今、意思表示できませんし、結局、総辞職はできないのだということでご理解いただけないでしょうか?」

「しかし、国民は納得しないのではないでしょうか?」

「失礼ですが、納得しないのは権蔵先生だけなのではないですか?まあ、権蔵先生は副長官ですし、閣議の意思決定に加わることはできませんから、ここは閣僚の皆さんのご意見もお伺いしてということにもなりますが、結局、全会一致で総辞職を決定できない以上、閣僚の更迭も、今はできないわけですから、結局、総辞職は無理だということになりますね?」

「長官!いや、度々失礼します。臨時代理。総辞職した場合、後継首班は当然、臨時代理ということになりますが、それはご理解いただいていますね?」

「……それは国会が決めることです。」

「もう、流れは出来上がってしまっているのです。この流れをどうか受け止めていただけないでしょうか?」

「権蔵先生。先生は僕が柏崎に帰るときに、ご自身と斎藤先生が副長官を務めることを党としての最大の誠意だと思って欲しいとおっしゃっていましたよね?」

「……はい。」

「では、今回のことも、僕が柏崎から乗りたくもないヘリに乗って戻ってきたことを僕の最大の誠意だと思っていただけないでしょうか?僕は現内閣を全力で支えますよ。」

「分かりました。」

 巨漢の副長官はそう言うと今度は全閣僚に向き直った。副長官といっても参議院議長を務めた党の長老だ。閣僚の方が緊張している。

「皆さん、眠いところお集まりいただきありがとうございました。本日は白石臨時代理内閣の初閣議、臨時代理内閣発足ということで散会とさせていただきます。白石臨時代理。よろしいですね?」

 巨漢が相変わらずの低姿勢で僕に同意を求めた。

「はい。僕のような人間で総理の代役が務まるのか正直不安ですが、とにかくベストを尽くしますのでどうぞよろしくお願い致します。」

 僕はそう言って議長席に座ったままお辞儀をした。出席閣僚がほぼ同時に頭を下げた。

「では、散会します。」

 僕はそう言ったが閣僚は誰一人として立ち上がらない。

「……臨時代理!臨時代理が退席されないと誰も立ち上がれませんよ。」

 状況を察した巨漢の副長官が言った。

「失礼しました。僕はこれから記者会見もありますし、しばらくここでまどろみますので皆さんどうか退室されてください。夜遅くまでどうもお疲れ様でした。ゆっくりお休みください。明日……というよりもう今日ですが、今日は皆さんの予定が入らないよう心がけますので。」

 僕がそう言うと閣僚たちはばらばらと立ち上がり閣議室から順次出て行った。巨漢の副長官と僕が取り残された。

 

「啓一君。ちょっといいかな?」

 予想はしていたが、巨漢の政治家が僕のところに寄ってきた。仕事モードから家族モードへと切り替わっている。

「はい。」

「じゃあ……」

 巨漢はそう言うと手の平を返して閣議室の隣の大臣応接室に僕を誘導し、真ん中の席に座らせ、自分は隣に座った。面倒な話をされることは分かっていたが、この巨漢は二か月間、僕のことを本当にそっとしておいてくれたのだ。その誠意には応えなければならないと思ってはいた。時計は午前三時を過ぎている。この巨漢は一睡もしていないはずだからいずれ眠くなるだろう。僕は目を覚ましたばかりで頭の中はスッキリしている。

「まずは戻ってきてくれてありがとう。」

「いえいえ。僕の方こそ、我ままを言いまして。ご迷惑をおかけしました。」

「君が今までにやってきたこと、そしてこれからやることに比べれば大したことはない。……なあ、啓一君。」

「はい。」

「随分と言うようになったなあ。」

「はあ?」

「昔は私のリクエストをなんでも聞いてくれたじゃないか。」

「……はあ。」

「君にも反抗期が来たってことかな。」

「そうかもしれません。」

「私は今までに色々な政治家を見てきた。」

「はい。」

「その中には総理大臣になれるはずなのになれなかった者も何人もいる。」

「はい。」

「君はまだ若いし、いずれは総理大臣になれると思っているのかもしれないが、政治家には旬というものがあるし、総理大臣になるのもチャンスというものがある。」

「分かります。」

「今、君はその両方を手にしているんだ。これを逃すと、案外、もうチャンスは来ないかもしれないぞ。」

「そうかもしれません。」

「じゃあ、なぜ手を上げないんだ。今、君が総理の後継となることに反対する者はいないよ。……私が昔、ラグビーをやっていたのは知っているな?」

「ええ、今、協会の会長をされていることも承知しておりますが。」

 唐突に話題が変わった。

「今まで、君には話していなかったな?」

「巨漢ロックとして活躍されていたことは存じています。」

「学生の頃、私はラグビーに明け暮れていたよ。全日本のキャップだってもらったことがある。今まで君にその話をしてこなかったのは、私の大学と君の母校がライバル校だったということもあるんだけど、私にとって、必ずしもいい思い出じゃなかったからなんだ。」

「はあ。」

「私の母校は君も知っての通り、大学選手権の常連校で、全国からスター選手が集まってきた。私も高校の頃から割と有名で、大学では一年の時からレギュラーだったよ。最後はキャプテンも務めた。だから十二月の最初の日曜日、私は毎年、その伝統の一戦の行われるグラウンドに立っていたよ。しかし、君の母校には勝てなくてね。最後の年は、夏の練習試合でノートライという有様だった。最後の試合もきっと勝てないだろうと思っていて、実際に八十対三でぼろ負けするんだけど、ノートライだけは絶対に阻止したいと最後、フォワード陣で頑張った。ゴールラインまで後一歩というところで十分くらい頑張ったかな。そして崩れゆくモールの中で私はついにトライした……と思ったのだがトライの笛は吹かれなかった。そしてそのままノーサイド。……私は、そのとき、ラグビーにしては珍しく、レフェリーに懸命に抗議したよ。しかし、トライは認められなかった。グラウディングしていないというのだ。」

「何がおっしゃりたいのですか?」

「ああ、すまない。話が長くなりすぎたな。…言いたいことは、大丈夫だと思っても、後一歩のところで届かないということもあるということだ。」

「別に僕は総理大臣になりたいとは思っていませんので。」

「君はカッコいいよ。でも、ここは本音で勝負すべきところだと思う。」

「総理になるかどうかは僕個人の問題だと思いますが。なぜ先生は私の総理就任にこだわるのですか?先生も本音で勝負はしていないのではないですか?」

「……そうかもしれないな。正直に言おう。私が君の総理就任を見たいんだ。目の黒いうちに白石家から総理大臣が出るのを見届けたいというのが本当の気持ちだ。そうしたら私は、政治人生、本当に思い残すことはない。後進に道を譲ってもいいと思っているよ。私の後継候補は君に指名してもらっても構わない。君の一番弟子の鈴木春菜さん。彼女は有名人だし、参議院議員としては案外いける口かもしれない。随分と勉強しているようだし、彼女を私の後任に新潟の選挙区から出してもいいよ。」

 政治的な野心の強すぎるこの政治家の口から「道を譲る」という言葉が出たのにはビックリした。

「どうしてそこまで言えるんですか?所詮は僕の問題なのに。」

「人気者の君には理解してもらえないかもしれないが、政治家とはそういうものだ。私は君と違い落選も経験している。私は君も知っての通り、三世議員だ。祖父の時代から受け継いできた地盤を譲り渡してしまったんだ。私は、偉そうなことを言って威張ってはいるけど、本当はそんなに実力はないよ。それは君も見透かしていると思う。国会議員の息子ということで甘やかされて育ってきた。落選はそんな私が初めて味わう挫折だった。あの頃は本当に辛くてね、自殺未遂まで起こしてしまったよ。だから……」

 こんなに弱気なこの巨漢の姿を見るのは二度目だ。前回は僕がまだ大学生の時、裕ちゃんとの婚約を一方的に破棄すると告げた時だった。その時、この大物政治家は一学生に過ぎない僕に土下座までやってのけたのだ。

「先生が、僕の総理就任を強く望んでいらっしゃることは理解しました。しかし、今はどうか高橋総理を支えるという僕の我ままを許していただけないでしょうか?」

「……我ままなのは私の方なのかもしれない。本当は君が帰ってきただけでも十分喜ばなければならないのかもしれないのだけどな。でも実際はどうなのだろう。高橋が君の弱みを握っているという噂も聞くが。」

「その理由は記者会見で説明させていただきます。」

「そうか…。まあここは君に任せるしかないんだろうけどな。…それと、これを受け取って欲しい。」

 巨漢は上着の内ポケットをまさぐりながらそう言うと封筒を取り出し、僕に渡した。封筒の表には「辞表」と書いてある。

「君の辞表を受理しなかったのに自分だけ一方的に辞意を表明するのもおこがましいかもしれないが、君は帰ってきてくれたんだし、私がいるとかえって邪魔だろう。」

「いいえ。そんなこともありませんが……今までどうもありがとうございました。」

「斎藤先生は引き続き副長官を引き受けるつもりだそうだが、邪魔なら君がクビにしてもいいと思う。まあ、斎藤先生は総理大臣経験者だし、色々と役に立つかもしれないな。外国の人脈とかあるし、外務大臣を長く務めたからな。」

「はい。」

「じゃあ、私はもう帰って寝るよ。記者会見、よろしく頼むよ。私は録画したやつを後で拝見する。」

 巨漢はそう言って席を立ち、眠そうに少しふらつきながら閣僚応接室を出て行った。この数か月間、本当に老骨にムチ打ったのだろう。

 僕が椅子に座ったままでいるとすぐに永田秘書官がやってきた。

「初閣議どうもお疲れ様でした。記者会見の準備はできておりましていつでも始められますが少しお休みされますか?」

「そうですね。少し一服してからの方がいいと思います。コーヒーでも入れてもらえますか?」

 僕がそう言うと永田秘書官は「かしこまりました」と言って席をはずし、すぐに戻ってきた。

「会見は何時からになさいますか?あと十分くらいで四時になりますが。」

 永田秘書官が続いて聞いた。

「じゃあ四時からでお願いします。コーヒーを飲み終わったら一人で会見場に降りて行きますから。」

 僕がそう言うと永田秘書官は「承知しました。失礼します」と言って下がっていった。

 

 僕は出されたコーヒーをちびりちびりと飲み、少しまったりしてから階下の会見場に降りて行った。袖には斎藤副長官と永田秘書官、そして事務方の副長官が並んで立っていて、僕が現れると一礼した。僕は三人の前を通り過ぎ、演台の前に立ち、一礼して会見場を見渡した。一番前の席には番記者筆頭格の聡美さんが座っている。

「では、白石内閣総理大臣臨時代理の記者会見を始めます。白石臨時代理よろしくお願い致します。」

 斎藤副長官がそう言って記者会見は始まった。

「皆さん、夜遅くにお集まりいただきお疲れ様です。既にご案内の通り、高橋総理が倒れられ、飯田橋のセントラル病院に救急搬送されました。意識不明の重態です。よって内閣法第九条により、官房長官である僕が内閣総理大臣臨時代理として内閣を仕切ることになりました。何分、浅学非才の身ですので国民の皆様にもご迷惑をおかけすることになるかもしれませんが僕なりにベストを尽くしますのでどうぞよろしくお願い致します。」

 そう言って深々と頭を下げた。フラッシュの音が盛んに聞こえる。

「取り敢えず、今、この会見でお話しできることはそれだけです。今後の具体的なスケジュールは明日、というよりもう今日ですが、調整していきたいと思います。また定例の記者会見の席でお話しできると思います。…僕からは以上ですが何かご質問があればどうぞ。」

 僕はそう言って一番前の席に座っている聡美さんを見た。質問は番記者筆頭格の聡美さんから始めるのがルールだ。

「長官、……いや、石水君。」

「……」

 聡美さんが公の席であるにも関わらず僕を旧姓で呼んだのでビックリした。

「聞きたいことは一杯ある。ここは公の席だけど、総理大臣臨時代理と記者としてではなく、古い友達として話がしたいの。他の記者さんの了解はもらってる。それでもいいかな?」

 聡美さんは少し微笑みを見せる表情で優しく僕に語り掛けた。僕は一瞬、間を置いた。

「……いいよ。でもそれなら聡美さんと僕の雑談ということで政府の公式見解にはならないけどそれでもいいかな?」

「それでもいい。石水君の本音が聞きたいだけだから。」

「分かった。それで、何が聞きたいのかな?」

「内閣は総辞職しないって聞いてる。総理が意識不明になったら内閣は総辞職するのが慣例だったと思うけど。」

「それはさっき、臨時閣議でも話題になったよ。確かにそういう先例はあるけど慣例とまでは言えないんじゃないかな。」

「どうしてそこまでして石水君は総理のことを守るの?」

「総理のことを応援したいからさ。」

「どうしてそこまで?総理大臣になることは裕ちゃんの夢だった。野望だったと言ってもいいかもしれない。裕ちゃんのことを悪く言うつもりはないけど、裕ちゃんがしたたかな女性だったことは石水君が一番よく知ってるよね?」

「まあそれは否定しないよ。」

「裕ちゃんと約束したものがあるんじゃないの?」

「裕ちゃんのことを持ち出すなら、今、僕が死に体の高橋総理を支える理由はそれだよ。高橋総理と裕ちゃん、重なる部分があるから……だから僕は総理を支えようとしているんだよ。」

「ちょっと、…何言ってるか分からないんだけど。」

「裕ちゃんも、総理と同じような病気だった。でも裕ちゃんは音楽に命を捧げたんだ。…裕ちゃんは本当に命を捧げてしまった。それほどまでに音楽に対する情熱がすごかったんだ。だから、歌姫と呼ばれ、聴く人を感動させることができたんだと思う。総理もそうだ。政治に対する情熱がものすごいんだよ。だから僕は、総理を最後まで支えたいと思うんだよ。」

「じゃあ、質問を変えるけど、総理の政治に対する情熱って何?」

「一言で説明するのは難しいけど、女性の地位向上、といってもあながち的外れではないと思う。総理は我が国初の女性宰相となったけど、それまでの苦労は並大抵のものではないと思うよ。」

「それなら男女共同参画社会基本法ができて何年もたって、女性の管理職も増えて、一定の成果は収めているんじゃないの?」

「まだまだ不十分だね。生物学的な意味での女性ではなく、社会学的な意味での女性が社会に進出していかないと。」

「何?……社会学的な意味での女性って?」

「生物学的な意味での性差が染色体に基づくものであることは分かるよね?」

「うん。」

「その一方で、伝統的に男性は外で働き、女性は家庭にいて、家事や地域社会での役割を担ってきた。まあ、男女分業でこの国はやってきたわけだ。しかし、価値観が多様化した今、なお従前の社会体制では不十分だと総理は考えているんだ。家庭や地域での役割を担ってきた人達、そういう人達は社会学的な意味での女性と言えると思うんだけど、そういう人達を例えば大臣とかに登用して初めて男女共同参画社会だと胸を張れる、総理はそう考えているんだ。だから総理はまだ志半ばなんだ。僕はまだ総理を支える必要がある。そう思ってる。」

「総理の考えに同意するかどうかはともかくとして、総理が辞めないのには理由があるということね?」

「そういうこと。総理は本当に命を懸けているんだ。あのときの裕ちゃんが音楽に命を懸けていたように。」

「国民の支持は得られないかもしれないよ。」

「最終的には総理自身が判断することだ。」

「ありがとう。良く分かった。」

「ではこれで会見を終わります。」

 僕はそう言って会見を打ち切り、会見場を見回したが、特に異議は出なかった。聡美さんに一任したのだろう。

 

 僕は昨日の午後十一時に起きてから一睡もしていない。しかし僕がそれ以前に丸二日間眠っていたことは数人の人しか知らないことだからみんな、パジャマ姿で駆けつけた僕が徹夜で頑張っていると思っている。みんな僕に気を使ってくれ、国会閉会中ということもあり緊急の案件もなかったから午後六時頃には帰宅した。「ただいま~」と言って玄関を開けるとこれまでと同じように「おかえりなさ~い」と言う妹の声がしてマコちゃんが現れた。以前と何も変わらない風景だった。

「どうもお疲れ様でした。」

 マコちゃんはそう言ってしおらしくお辞儀をした。

「マコちゃんはどうだった?少しは休めたかな?」

「ここに帰ってきたのは朝の四時頃だったかなあ。それからお風呂入ったり、片付けとかして七時か八時くらいに寝て、起きたら夕方の四時くらいだったんだけど、そしたら家の前が賑やかでさ。窓、覗くと思った通りマスコミの人がたくさん来てたよ。それで、あいさつはしといたよ。」

「会見……したの?」

「そんな大袈裟なもんじゃないよ。会見の依頼はもちろんあったけど、『事務所通してください』って言ったから今頃、事務所の方で調整してるんじゃないかな。」

「これからどうなるのかなあ?」

 僕は無責任にマコちゃんに聞いた。

「さあ。行き当たりばったりってとこじゃないの?今までもそんな感じだったしね。」

「行き当たりばったりねえ。」

「だってそうじゃない?あたしがチームのオーディションに合格したのも、スーパーアイドルに登りつめたのもすべては偶然が重なった結果でしょ?計画的に行動したことは何一つなかったと思うけど。」

「そう言われればそうだけど。」

「お兄ちゃんだってそうでしょ?別に総理大臣になりたくてここまで来たわけじゃないだろうし。」

「まあ、それ言われると政治家になるつもりもなかったって言えるけど。」

「なるようになるよ。それに、あんなひどいことがあったんだからこれからは上向く一方だと思うけどね。」

 マコちゃんはニッコリ笑ってそう言った。これから先、どうなってしまうのか僕にも良く分からない。でも総理大臣の椅子には座らされることになってしまうのだろう。そんなとき、きっとこの天真爛漫な妹の笑顔が僕を支えてくれるのではないか、僕はそんなことを考えていた。

 

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